2025年1月14日火曜日

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)

善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)

また逃亡してるんじゃないかと思われてるかも知れないので、ブログなど書こうと思ったら、書き方なんて完全に忘れてるのよね〜。
まあ、それはともかく、最近ブログを書こうとしたら怪しい事が起こるんで、あまり書きたくないんですがねぇ(言い訳か?)。
と、まあ、書いていきましょうか。

徳島県吉野川市川島町宮島。
いわゆる善入寺島は、吉野川の河口から約30km付近にあり、広さが約500ha程もある、日本最大級の川中島。
東西約6km、南北約1.2km。
吉野川の第一期改修によって遊水池として全島買収される大正四年までは、約500戸・3000人余りが居住していた。
現在は農地のみが残り、建造物は無く、無住地となっている。
ちなみに、善入寺島はまとまった1つの村ではなく、川島町宮島・学島(がくしま)村児島(こじま)・市場町香美(かがみ)・八幡町粟島(あわしま)・大野(おおの)・伊月(いつき)・柿島(かきしま)村柿原(かきはら)・土成村郡(こおり)の一部で構成されていた。
 島全体を粟島と称していたが、古くはこの地に「善入寺」という寺院があったことから内務省が善入寺島と命名した。
あるいは神代よりの歴史を持ち、最盛期には「八條宮」「浮島八幡宮」「戎社」「金毘羅宮」などの神社が建立されていた。
また弘法大師とのゆかりも深く、下写真にあるように、粟島渡しは空海が吉野川を渡る時は必ずここを通って行かれたとの伝承が残っている。

ちなみに、「粟島渡し」は吉野川南岸の乗り場で、北岸の方は「大野島渡し」となっています。(下写真)

寺院についても阿波國最古の寺院の一つとされている「大野寺」が建立されていた。
この大野寺は現在、阿波市市場町山野上に移築されている。
簡単に紹介しておくと

寺伝によれば白鳳年間に天智天皇により大野島「御所が原」に創建された。開創当初は七堂伽藍十二の僧坊が軒を連ね、法門講義が盛大に行われたという。
当時は寺院数が少なかったので、当寺と同様の寺伝をもつ阿南市宝田町の隆禅寺(創建時の遺跡が残り、白鳳期の瓦が出土する)との間に、住職欠減の際は互いに住職が交流したと両寺の古記録にある。
創建百数十年、諸堂荒廃のため嵯峨天皇は再び勅願して七堂伽藍を修復し、寺門興隆のため14か寺(切幡寺=市場町 光福寺=秋月 妙憧寺<常慶寺>=篠原 宝憧寺=粟島本須賀 実相坊<輪蔵庵>=水田 智賢坊<大場の薬師庵>=日吉 良珍坊<薬師庵>=大野島 梵光寺<仏殿庵>=山野上 岡ノ坊=香美西岡平治社内 南泉坊円常寺<薬師庵>=香美田渕 賢貢坊永福寺=香美田渕春日社内 宮ノ坊善入寺=香美善入寺 真福寺<虚空蔵堂>=西香美 真如坊<観音庵>=尾開)を建立した。
以後国司守護の外護と庶民信仰で栄えたが文亀年間(1501-1504)吉野川の水禍のため山野上白坂(大日屋敷の名が残る)に移転した。天正年間(1573~92)、長宗我部の兵火で堂塔、仏像、経巻、古文書等を失ったが当時の住職龍意は豊臣秀吉の尊崇を受け、朝鮮の役の記念として「九頭竜王」「般若十六善神」「涅槃図」および陣羽織の寄進を受けた。その後蜂須賀家政は本堂、方丈、庫裏などを再建、寺領を寄進した。
享保年間(1716~36)讃岐白峯寺から転住した道鳳は吉野川の変遷のため現在地に本堂、庫裏を移築、また虚空蔵堂を西香美から田渕へ移転、改築した。
徳川時代は中本寺として寺門を栄え、年賀、藩主の葬儀には本行列で登城したという。また八幡の八幡神社、西岡の建布都神社など阿波川東二十数社の別当に任ぜられた。明治4(1871)年8月、阿波郡東郷学校を当寺に置き「教英校」と称したが翌年学制が敷かれると「山野上小学校」と改称し、明治13(1880)年まで続けられた。
明治21年(1888)田渕から寺内に移った虚空蔵堂は毎年1/13に露天、植木市が並び往時の盛大さはないが参詣者で賑わっている。
写真は現在の「大野寺」
下の写真中央は鎌倉時代のものと思われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)。

下は江戸時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(と思う(笑))

で、ここらのことはよく知りませんが、これには何故か

「天子将軍本國大守歴代尊霊」と刻まれてます。

裏には「先祖代々諸聖霊菩提....」と刻まれてますので、これは普通だと思いますが、表の「天子...云々」は何故???

まあ、余談ですのでここらは一旦スルーしておいて。

では、やっとのことで本題の「浮島八幡宮」。
口碑では白鳳2年(673年)の創立とされている。
祭神は「天日鷲命」。
寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳には「麻植郡宮島村浮島八幡宮、当社は古くから忌部神社と申して来た所、天正中(1573―91年)に八幡と改め」云々と書かれている。

大正5年川島神社に合祀。
その頃祭日には善入島の川原に2艘の舟を出し、1艘には神輿、1艘には見物人を乗せて川を渡り、川原で祭の儀式を終え、氏子のお詣りがすむと舟を綱で曳いて帰る。当屋はこの屋台舟を曳く人達のため約100個の弁当を用意した。この弁当は握り飯に芋や大根を串刺しにしたとのことである。

そして、この善入寺島(粟島)には古来独特の風習があり、葬儀の際には墓を作らずに極楽壙(ごくらくこう)と呼ばれる穴に被葬者を投げ入れるというものです。
この風習については、阿波國最初の歴史書である「阿府志」に

極楽壙
在宮島八幡祠 北方六七歩、篠竹環生
この村古朴葬不要 浮屠(ふと)無 塚墓死者皆
投葬
于此

との記載があります。


また川島町史によれば

 宮島八幡宮の鎮座した宮島は、八幡宮を尊崇するあまり神ノ島といわれ、神聖な土地として、死者はすべて八幡神社の西北400mくらいの地点にあった極楽壙と称する大穴に投葬して、お墓も寺僧もなく神代さながらの埋葬であったという。

とあり、その場所にいささかの相違があります。
ではこの「浮島八幡宮」と「極楽壙」どこにあったのか。

そうです、予想通り「次回へ続く」のです。

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