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謎の古代史
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ミアラカンド
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チ
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中沢新一
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石神問答(概要)
シャグジ、サグジまたは、サゴジと称する神あり 武蔵相模伊豆駿河甲斐遠江三河尾張伊勢志摩飛驒信濃の諸国にわたりてその数百の小祠あり シャグジに由ありと見ゆる地名は一層分布広し 本書の目的は主としてこの神の由来を知るにあり シャグジは石神の呉音すなわちシャクジンなりということ現在の通説なるがごとし 石を神に祀れる社ははなはだ多し 延喜式の時代にも諸国に許多の石神社あり 近代においても石を神体とする諸社の外に社殿はなくて天然の霊石を拝祀する者あり 吾人が天然の奇石と目する者の中にも場所形状において多少の人工を加えたる者あるべし また多くの石像石塔あり 道祖神姥神子ノ神等も石神なり 単にイシガミと称する小祠も今日なお多し 石神には対立の者多しシャグジにはこのことなし シャグジの名称は独立の事由に基くもののごとし 塩尻にはシャグジは三狐神の転訛ならんといえり この説根拠なし 稲荷宇賀神田ノ神等とシャグジとは併存せり 南留別志にはシャグジは赤口神なるべしと云えり 赤口赤舌は暦の悪日の名にして神の名に非ず 簠簋によれば大歳の門神中最も兇猛なる二神の番日を赤口赤舌といいて嫌忌する習慣ありき 大赤小赤のシャクはむしろシャグジと同源より出ずというべきなり
『概要』 現代語訳
シャグジ、ザグジ、またはサゴジと呼ばれる神がいる……武蔵、相模、伊豆、駿河、甲斐、遠江、三河、尾張、伊勢、志摩、飛騨、信濃の諸国に渡って、数百のその小さい祠がある……シャグジに由来していると思われる地名は、更に広く分布している……この本の目的は、この神の由来を知ることである……シャグジは石神の呉音(註:奈良時代に遣隋使や留学僧が、漢音を学んで持ち帰る以前に、すでに日本に定着していた漢字音。日本古来の読み方)つまりシャクジンの事である、と言うのが現在の通説となっている様である……石を神として祀っている神社は非常に多い……延喜式(註:平安時代中期に編纂された法令集)の時代にも、全国に多数の石神社がある……近代でも石を御神体とする多くの社の他にも、社殿はなくとも天然の霊石を拝祀するものもある…… わたくしが天然の奇石と認めた物の中にも、場所や形状などで多少は人工的に手を加えている物もあるだろう……また、多くの石像や石塔がある……道祖神、姥神、子の神なども石神である……単にイシガミと呼ばれる小さな祠も、今日でもなお多い……石神は何かが対になっている物が多く、シャグジにはこの様な事はない……シャグジの名称は独立の理由に基づいている物の様である……一四 鹽尻(註:塩尻とは随筆の事。天野信景著。1697年頃から1733年まで執筆。現存一七〇巻余。神仏・法律・文芸・自然などについて,和漢の諸書を引証して自説を述べたもの)には、シャグジは三狐神の転訛であろうとある。
この説には根拠がない。 稲荷宇賀神などとシャグジとは併存している……南留別志(註:江戸中期の随筆。五巻。荻生徂徠著。元文元 年=1736年に刊行。四百あまりの名称の語源を挙げ、転訛を正そうとしたもの。題名は、 各条末に「なるべし」という言葉を使っていることによる)にはシャグジは赤口神であろう、と言っている。 赤口赤舌は暦の良くない日の名前であり、神の名前では無い……簠簋(註:簠簋内伝の事、安倍晴明が編纂したと伝承される占いの専門書)によると、大歳(註:大歳神、陰陽道の神)の門神(註:昔の観音開きの戸の両側に貼る神像、魔除けの意味を持つ)の中で最も荒々しく恐ろしい二神の神の当番日を赤口、赤舌と呼び嫌がる様な習慣があった。 大赤小赤のシャクはむしろシャグジと同源であるというべきである……
地方によりてはシャグジをオシヤモジサマともいう これシャグジを杓子と唱うるがためなり 杓子を報賽とする社あり 杓子を護符とする信仰あり 中古の思想においては杓子は霊物なりき
地方によっては、シャグジをオシャモジサマとも呼ぶ…… これはシャグジを杓子と呼んでいるためである……杓子を報賽(註:神仏へのお礼参り。願いを叶えてもらったお礼に、神様の好物や関連のある物や決められた物を奉納する事)とする神社がある……杓子を護符とする信仰がある…… 中古(註:平安時代)の思想では、杓子は霊物(註:不思議な力を持つ物)と考えられていた……
シャグジは道祖神なりという説あり 道祖神の祠は全国にわたりて現存す サエノカミは塞神または障神の義なり 道祖の祖はもと阻礙の阻なるべし 山中に道祖神祠またはこれに因む地名多し これを行旅の守護神となすは信仰の一転なり 更に幸ノ神の字を用いるに及び信仰は再転せり 道祖神石を祀りまたは石を報賽とすることは今古を通じて異なることなし 道祖神早くよりサヒともいえり 家の敷居をサイという サイという神名地名も古し サイはあるいは四方の義にて外国語にては非ざるか
道祖神の本地仏は地蔵尊なりという 塞神祠と石地蔵は一体の両面なり 地獄変相中のサイノカワラは近き世の思想に出ず サイノカワラ及びショウヅカは現世の地名にして塞神に出ず
シャグジは道祖神である、という説がある…… 道祖神の祠は全国に渡って現存している……サエノカミは塞神または障神という意味である…… 道祖の祖はもとは阻害の阻だった……山の中には道祖神の祠、またはそれにちなむ地名が多い… これを旅の守り神とするのは、信仰が変化したからである。さらに幸の神の字を使う様になった時に、信仰は再び一変した……道祖神を祀り、また石を報賽にする事は今も昔も変わる事がない…… 道祖神は早くからサイとも言われた……家の敷居の事をサイと言う……サ井と言う神名、地名も古い。サ井とはあるいは四方という意味で、外国語ではなかろうか……
道祖神の正体は地蔵尊であると言う…… 塞神祠と石地蔵は一体の両面である……地獄変相(註:地獄絵の事)の中のサイノカワラは近世の思想から出たものである…… サイノカワラ及びショウヅカは現実の地名にあり、塞神に由来している……
道祖神を縁結の神という この信仰シャグジにも移れり この神の神体にはけしからぬ物あり また報賽の具としても同様の事実あり 道祖神の神体に歓喜天を斎けるあり 古くは男女二神を奉祀して岐神と称せしこと扶桑略記に見ゆ クナドはサエと同じく防塞の義なり 門神も双神にしてかつ石神なり 儀軌の堅牢地神は歓喜天に似たり 歓喜天を塞神と習合したるは障礙神の義に基けるなるべし 歓喜天または聖天は障礙神または象頭神とも称せらる 象頭というは双神の容貌によれる名なり 象頭またはソウズという地名諸国の山地に多し 右は仏徒が地鎮の祭を営みし場所なるべし 僧都殿という魔所ありしこと今昔物語に見ゆ
道祖神は猿田彦神なりという説あり 右は衢神の古伝に基けるならん 猿田彦神は人望ある神なりき この神を土祖神と称するは久しきことなり 猿田彦神に附会せる神は極めて多し 庚申を猿田彦神なりという 庚申は道家の説に出ず 我国にては庚申を行路神となせり
道祖神を縁結びの神と言う…… この信仰がシャグジにも移った……この神の御神体にはわいせつな形の物(註:子授け神社の男根を模したものなど)もある……また報賽のお供えにも同様にわいせつな形の物が存在している……道祖神の御神体に歓喜天(註:仏教の守護神である天部の一つ。象頭の男女が抱擁した姿)を祀っているのもある……一四八 古くは男女の二神を奉祀して岐神(註:道の分岐点などに祭られる神。邪霊の侵入を防ぎ 、旅人を守護すると信じられた)と呼んだということが、扶桑略記(註:平安時代の私撰歴史書。神武天皇から堀河天皇の寛治8 =1094年までの編年史)の中に見られる……
クナドはサエと同じく防塞という意味である……門神も双神(註:一対=ペアの神、と言う意味)でありなおかつ石神である……儀軌(註:密教の儀式の規則のこと)の堅牢地神(註:仏教における天部の神の一柱で大地を司る。通常は女神 であるが密教では男神と『一対』とする)は歓喜天にも似ている…… 歓喜天を塞神と習合(註:神仏習合の事、歓喜天=仏教と塞神=神道を同一とみなして祀る事)したのは、障礙神(註:=障害神)だった事がその意味で基になっている……歓喜天または聖天は障礙神または象頭神とも呼ばれている…… 象頭と言われるのは、両神の姿形に、ちなんだ名前だからである……象頭またはソウズという地名が、全国の山地に多い…… これは仏教徒が地鎮祭を行なった場所だろう……僧都殿(註:京都に昔存在していた家の名前)という魔所(註:心霊スポット)があったというのが、今昔物語(註:24巻、第四話)に見られる……
道祖神は猿田彦神である、と言う説がある。 これは衢神の古い言い伝えに基づいての事である……猿田彦神は人望のある神である…… この神を土祖神(註:つちのおや、とも)と呼ぶのは昔からである……猿田彦神にこじつけられる神は非常に多い……庚申を猿田彦神であるという…… 庚申は道家(註:中国の老子、荘子の説を奉じた学者の総称)の説からである……我が国では庚申を行路神(註:道すじの神)としている……
ミサキという神あり 諸国の三崎に猿田彦神なりという者少なからず 右は古事記の御前仕へんの記事に出ずるか 猿田はサダと訓みサダとミサキとは同義なりしか 鼻といい伊豆というもこの縁語なるか 海岬をサダというところ伊予土佐大隅出雲にあり されどミサキは単に辺境の義にして昔は海角にのみ限らざりしかと思わる 野のソキ、山のソキのソキはミサキのサキと同源の語なるべし すなわちミサキは辺境を守る神の義なり
ミサキという神がいる…… 全国の三崎には猿田彦神であるというものが多くある…… これは古事記の『御前仕えん』の記事から出来たものか…… 猿田はサダと読むが、サダとミサキは同じ意味なのだろうか…… 鼻といい伊豆というこれらも類語だろうか……海岬をサダと読む地域が伊予、土佐、大隈、出雲にある…… しかしミサキは単に辺境という意味で、昔は海に突き出た角だけに限られた言葉ではなかった、と思われる。野のソキ、山のソキ(註:退き、果てという意味)のソキはミサキのサキと同源の言葉だろう…… つまり、ミサキとは辺境を守る神という意味である……
昔は四堺四隅の祭に道饗祭あり 道饗には久那度神を祀る邪神の侵入を防ぐなり 道饗祭漸く衰えて御霊会大いに盛んなり 京師には八所の御霊あり 御霊会は疫神攘斥の祈願を報賽するを目的とす 御霊は冤死者の厲魂を斎くといえり 御霊社は今も諸国に多し アラヒトガミを御霊の義と解するに至りしこと久し 現人社という社あり
昔は四堺(註:平安京のある山城国の四維(北西、南西、南東、北東の隅)にあたる大枝(註:兵庫県)・山崎(註:京都府)・逢坂(註:滋賀県)・和邇(註:滋賀県)の四つの地点の事。外部からの穢れが平安京へ侵入する進路と考えられていた)四隅の祭りに道饗祭(註:令制の祭。京の都城の四隅の路上で,ヤチマタヒコ,ヤチマタヒメ,クナドの三神を祀り魑魅や妖怪が京や宮中に来るのを防ぐ祭り)がある……道饗には久那度神(註:久那土神、来るな!という意味らしい遮る言葉からも、疫病や災害などをもたらす悪神と悪霊を防ぐ神)を祀り邪神の侵入を防いだのである。道饗祭は段々と衰えて、御霊会(註:祇園祭の事)が盛大になった……京師(註:天皇の住む都、京都の事)には八所御霊(註:清和天皇の時代863年=貞観5年の5月20日に平安京=京都の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは早良親王、伊予親王=桓武天皇の皇子、藤原夫人=伊予親王の母、橘逸勢、文室宮田麻呂、らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして六所御霊と総称された。さらにのちには吉備真備、菅原道真が加わって八所御霊となり、京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった)がある……御霊会は疫神攘斥(註:払いのける)の祈願を報賽するのを目的としている。 御霊は無罪の罪で死んだ者の厲魂を齋く(註:祀る)事だと言える……御霊社は今も全国に数多くある……一一二 アラヒトガミを御霊の意味である、と考える様になってから長い時が経ったが、現人神社という社がある……
荒神の祠全国にわたりて多くあり 荒神とアラヒトガミとを混ぜしものあり 荒神山神の語は古くより正史に見ゆ 荒神を地主とする思想はむしろ本邦独得の発展なるべし 四方神としての荒神は稀にあり 八方神としての荒神ははなはだ多し これを八面荒神八大荒神等と称す 荒神を竈神とする信仰の起原は不明なり ただ竈神を祀ることは古来の風なり 漢土の竈神には庚申の三尸虫と同一なる信仰ありき
日本の荒神には仏教道教の思想複雑に混同し来れるもののごとし 荒神にも双神の思想あり
荒神の祠は全国に渡って多くある……荒神とアラヒトガミとが混ざったものがある……荒神・山神の言葉は古くから正史(註:日本書紀)に見られる…… 荒神を地主とする思想は、むしろ日本独特に発展したものである……四方神(註:東・西・南・北の四方向を守る神。中国の思想としては霊獣の青龍・白虎・朱雀・玄武が守っているとされる)としての荒神がまれにある……八方神(註:八方とは東・西・南・北と北東・北西・南東・ 南西の八つの方角)としての荒神は非常に多い……これを八面荒神、八大荒神などと呼ぶ……荒神を竃神とする信仰の起源は不明である……ただ、竃神を祀る事は古来からの風習である。 中国の地の竃神には庚申の三尸蟲(註:道教では、人間の中には産まれた時から三種類の蟲が住み着いていると言う。上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿で頭の中に、中尸の虫は獣の姿で腹の中に、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をして足の中にいる。大きさはどれも二寸=六センチほどで、60日に一度の庚申の日に人間が眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げる。するとその罰として天帝は人間の命を縮めるので、庚申の夜は人は眠らずにすごすという信仰になった)と同一の信仰がある……
日本の荒神には仏教・道教の思想を複雑に混ぜ合わせて作られたもの、の様である……荒神にも双神の思想がある……
山神は由来極めて久し 狩人樵夫石切金堀の徒共にこれを祀る 新に地を拓き居を構うる者またこれを祀りて邑落の平安を祈願せしか 山祇の信仰は世と共に発展したり 山王及び日吉諸社は山神なるべし 日吉の大将軍社を岩長姫なりというはこの女神が大山祇の御娘なるがためなるべし
山神の由来はきわめて古い……猟師、木こり、石切金掘りの人々が皆これを祀っている…… 新たに開拓し移住する者は、なおこの神を祀って村落の平安を祈願したのか…… 山祗(註:山の神のこと)の信仰は世の中とともに発展した…… 山王および日吉諸社は山神である…… 日吉の大將軍社を岩長姫であると言うのは、この女神が大山祗の娘だからである。
姥神もまた山中の神なり 姥神の名には三種の起原混同せるがごとし 山姥は伝説的の畏怖なり 巫女居住の痕跡諸国の山中にあり 姥神はすなわちオボ神には非ざるか 姥石という石多し 石塚と土壇と相互に代用するはあり得べきこと也 列塚も一種の神並なるべし 立石次第に多く塚を築くの風止む 塚の名は何か意味あるべくしてほとんど凡て不明なり 塚には人を埋めざるもの多かるべし
姥神もまた山の中の神である…… 姥神の名前には、三種類の起源を混同させた様である…… 山姥は伝説的に恐怖である…… 巫女が住んでいた痕跡は全国の山の中に存在している…… 姥神とはすなわちオボ神ではないのだろうか?……姥石という石は多い…… 石塚と土壇とを相互に代用するのはあり得る事である…… 列塚も一種の神竝(=神並)である…… 石を立てる事が次第に多くなり、塚を築く風習は廃れた 塚の名前は何か意味があるに違いないが、ほとんど全てが不明である……塚には人を埋めていないものが多いと思われる……
諸国に十三塚と称する列塚あり 多くは邑落の境上に築きたるがごとし 一の大塚と十二の小塚とより成れるがごとし この形式は出雲風土記神名樋山の石神に似たり 地鎮の趣旨に基くものなるべきは容易に推測し得るも何故に十三なるかは不明なり 大日を中心とする十三仏の拝祀は右と因縁あるに似たり 十二神の信仰は種々の態様をもって今日に伝わる 左義長の壇に十二の青竹を用いる 公家の左義長は正月十五日と十八日と再度あり 十八日の左義長には唱門師これに与る 唱門師は一種の巫祝なり金鼓を打ちて舞う 十五日の左義長は今もその式を民間に伝う 左義長の壇は厄神塚に似たり 厄神塚は御霊会の山及鉾の先型なり 塚は定著の祭壇にして山及鉾は移動する祭壇なり 送り物の習慣は今日も塚と因由あり 信濃越後出羽にては左義長と同日同式をもって道祖神の祭を営む 武蔵の道祖神祭も正月十五日なりこの日社頭に松飾を焼くの風存するものあり サギチョウの語は舞踊の歌曲に出ずるか 鷺宮という社ありこれも因由あるか サギチョウをトウドという 唐土権現藤堂森等諸国に存せり 森には塚または壇の遺祉なるもの少なからず
全国には十三塚と称する列塚がある…… 多くは村落の境上に築いている様である…… 一つの大きい塚と十二の小さい塚とから出来ている様である……この形式は、出雲風土記、神名樋山(註:出雲市多久町の大船山のこと)の石神に似ている 地鎮の目的によるものであるのは、容易に推測出来るが、なぜ十三なのかは不明である…… 大日を中心とする十三仏の拝祀は以上の因縁に似ている…… 十二神の信仰は様々な状態を経て、今日に伝わっている……左義長(註:小正月に行われる火祭りの行事)の壇には十二の青竹を使う……公家の左義長は正月の十五日ともう一度あって、十八日の左義長は唱門師から始まった。 唱門師は一種の巫祝(註:神事を司る者の事)であり、金鼓(註:仏教で勤行の時に使う鉦鼓という楽器)を打って舞う……十五日の左義長は今もその式を民間に伝えている…… 左義長の壇は疫神塚(註:疫神塚は、地域の災いを封じ込めるための塚で、竹や榊を使う)にも似ている…… 厄神塚は御霊会の山鉾(註:祭礼で引き出される屋台の飾り物の一つ)の先の形である…… 塚は定著の祭壇であり、山鉾は移動する祭壇である……送り物の習慣は今も塚と関係がある。 信濃、越後、出羽では左義長と同じ日に、同じ儀式を道祖神の祭りとして行なう…… 武蔵(註:埼玉全部と東京都大半と神奈川県一部からなる国)の道祖神祭りも正月十五日であり、この日は社の前で松飾りを焼くという風習が存在している所がある…… サギチョウという言葉は、舞踊の歌曲から出たものか……鷺宮という社もあるが、これも関係があるのか……サギチョウをトウドと言う……唐土権現、藤堂森(註:とうとの神ととうの神とも)などと呼ばれるものが全国に存在している…… 森には塚または壇の遺跡というものが少なくない……
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今日のいわゆる神道には輸入の分子なお多く存留せり 仏教はこれを取りて彼に入れたれども道教の信仰は自ら来りてこの中に混流せり ことに道教の渡来は仏教よりも古し 八百万神の名のごときは陰陽師の所説なるべし ただ道教の伝道には些の統一なし 公家また必ずしもこれを重視せず 世降りては暦法も天文道も共に再び迷信の食物と成れり 道教の信仰は破片となりて海内に散布す しかもその威力は決して少小ならざりき 思うに結集以前の道教はその本国にありてもまたかくのごとく錯雑なりしものならん 日本にても道教第二期の隆盛は最も思想の統一を欠きたる足利時代にあり この時代には仏教も既にこれを利用して自家の勢力を張るの具となすことあたわざりき しかれども道教の方は却りて仏教によりて立たざるを得ざりし也 要するに右二種の宗教は癒著して一畸形をなせし也 いわゆる両部神道なるもの実は三部の習合なり
今日のいわゆる神道には、輸入されたと思える要素がなお多く存在している……仏教は積極的に神道を取り入れたのだが、道教の信仰は自分から仏教の中に入って混在している…… 特に道教の渡来は仏教よりも古い…… 八百万神の名前の様なものは、陰陽師が言い出した説だろう……ただ、道教の布教には少しも統一性が無い……公家は、なお必ずしもこれを重視してはいない…… 時代が移り変わると、暦法も天文道(註:陰陽師の行なった天文学)も共に迷信の喰いものになっている……道教の信仰は、破片となって国内に散布された。 しかもその威力は決して少なくも小さくもない…… 思うに、結集する前の老子の道敏は、その本国に存在していても、なおこの様にまとまり無くごたごたとしたものだったのだろう……日本でも道教の第二次ブームの時は、最も思想の統一を欠いていた足利時代であった…… この時代には、仏教もすでにこれを利用して自分の勢力を伸ばす為の道具にする事はできなかった……けれども、道教の方では逆に仏教によって成り立たなくなったのである……要するに、この二種の宗教は癒着して一つの奇妙な形態を作り上げていたという事である…… いわゆる両部神道(註:真言宗の立場からなされた、神道解釈に基づく神仏習合思想のこと)なるものは、実は三部の習合したものである……
釈日本紀には塁または塞をソコと訓めり 倭名鈔にてもまた同じ訓あり ソコはサキ、ソキ、遠サカル、裂ク、避クなどと同じ語原より出ずと信ず 塞、柵共に漢音にてもサクなり アイヌ語にてもサクに界障の義あり 古き我国の地名にも佐久郡佐久山佐久島佐久間などいうものはなはだ多し サクには我国にても辺境の義ありしに似たり 延喜式の諸国の佐久神社は塞神のことならん 而して佐久神はすなわち今日のシャグジなるべし シャグジを土地丈量に因縁ある神なりという口碑あり 延喜式臨時祭の巻に障神祭あり 障の字あるいは鄣と書す塞と同義なり 障神はすなわちまたサエノカミなり 諸国に何障子または障子何という地名多し 障子はすなわち障の神を祀りし場所なり あるいはこれを精進、精進場などと書す転用なり 精進はアイヌ語に出ずという説あり
釋日本記(註:釈日本記。鎌倉時代末期の日本書紀の注釈書)には、壘(註:とりで)または塞(註:川の堰に同じ)をソコと読む……倭名鈔(註:和名類聚抄の事。平安時代中期に作られた辞書。漢和辞書と国語・百科事典)でも同じ読みがある。 ソコはサキ、ソキ、遠サカル、裂ク、避クなどと同じ語源から出た言葉であると信じる。 塞、柵、は共に漢音で読んでもサクである……アイヌ語でもサクには界障(註:境を隔てる)という意味がある……古いわが国の地名にも、佐久郡、佐久山、佐久島、佐久間、など言うものが非常に多い。 サクはわが国でも辺境という意味があるのと似ている…… 延喜式の全国の佐久神社は塞神のことである…… そして、佐久神はすなわち今日のシャグジである……シャグジを土地丈量(註:土地の面積を測量する事)に関係がある神である、という言い伝えがある……延喜式の臨時祭の巻には、障神祭がある…… 障の字、あるいは鄣とも書き塞と同じ意味である。 障神はすなわちサイノカミである。 全国に何とか障子、または障子何とかと言う地名は多い…… 障子とはつまり障の神を祭った場所である…… あるいはこれを精進、精進場などと書くのは転用である。 精進とはアイヌ語から出たという説がある……
蕃神信仰の伝播には古来鉦鼓歌舞の力を仮りし例多し 御霊、設楽神の類皆これなり これ恐らくは古シャマン道の面目なるべし 公の記録にも渡来神の記事すでに多し この他漸をもって民間に入りし者更に多からん 大年神の記事は旧事本紀に見ゆ その十六の御子神というは各種の信仰の集合なり 古事記中の同文は攙入なりと信ず 竈神、山神、田神、宅神は皆この中に包含せらる 聖神は暦法より出でたる神ならん 大年神は大歳なるべし
★★
蕃神(註:外国の神)信仰の伝播には、昔から鉦鼓や歌舞の力を借りたという例が多い…… 御霊、設楽神(註:疫病の流行を免れるために、民間で信仰された神)の類いはみんなこれである…… これは恐らくは古シャーマン道の名誉ある役割だった…… 公の記録にも渡来神の記事はすでに多くある…… この他にも、次第に民間に入って行ったものは、更に多いだろう…… 大年神(註:稲の実りを守護する神、スサノオの子)の記事は、舊事本記(註:先代旧事本紀の事。日本の史書で天地開闢から推古天皇の時代までの事が書かれている。成立は西暦900年より前)に見られる…… その十六の御子神と言うのは、各種の信仰の集合である…… 古事記中の同文は、攙入(註:竄入とも書く、間違って紛れ込む事)したものであると信じている…… 竃神、山神、田神、宅神などはみんなこの中に含まれている…… 聖神は暦法から出来た神である…… 大年神とは大歳のことである……
後世大歳の信仰衰えてこれを八王子の一となす 八王子神は日吉にも祇園にもつとにこれを説けり ただこれを牛頭天王の子とし天王を素盞嗚尊なりというがごとき説は存外近き世の発生なり 祇園牛頭天王縁起及び簠簋内伝は共に足利初期に成れるに似たり もっとも素盞嗚尊を行疫神なりということはその以前より存在せし説なり 簠簋の八王子神の名目はまた雑駁なる集合なり 暦の八将神はすなわちこれなり また八竜王に配し古史の五男神三女神に附会す 凡て八の数の思想に基きて作り上げたる説なり 八王子の中にも大将軍神は孤立して特色を有す 洛東の将軍塚はこの信仰に出ず 諸国に将軍塚あり信濃なるは山頂の列塚也 大将軍は閉塞を掌る神なり 勝軍地蔵はまた同一系統に属するか 地蔵は仏教にても地神なるがごとし 武家時代に及び文字に基きてこれを軍神として崇敬せり 守宮神守公神もまた文字に因みて信仰せられしか 二三の国にては国府の地にこの社存せり 将軍塚と守公神とは因由あるか また司宮神主宮神四宮神と称する神もこの神なるべし 地名にはソクジ、スクジというものあり同じ神の旧祭場なるべし 守宮神司宮神等はすべて当字にてもとはソコの神すなわち辺境の神という義なるべし 十禅師は注連神にしてまた防境の神なるか
★★★
後世になり大歳の信仰が衰えて、これが八王子(註:スサノオの子供八人)の一つとなった。 八王子神は日吉にも祗園にも、早くから摂末社が設置されている…… ただこれを牛頭天王の子供とし、天王を素盞鳴尊であるという説があるが、これは意外にも最近言われる様になったのである…… 祗園の牛頭天王の縁起(註:信仰される様になった由来の出来事、を書いたものも言う)と簠簋内伝は共に足利時代初期に成立したのが一緒である もっとも、素盞鳴尊を行疫神であると言う説は、それ以前からある……
簠簋の八王子神の名称は、なお雑然と統一の無い集合である。 暦の八將神(註:陰陽道の神。方位の吉凶を司る八人の神。八将軍ともいう)はつまりこれの事である。 また、八龍王に割り当てられ、古史の五男神三女神にこじつけている…… すべて八の数の思想に基づいて作り上げた説である 八王子の中でも大將軍神は孤立していて特色を持っている 洛東(註:京都府の地名)の將軍塚はこの信仰から出来たものである…… 全国に將軍塚があり、信濃(註:今のほぼ長野)のものは山頂にある列塚である…… 大將軍は、閉塞を司る神である…… 勝軍地蔵は、これと同一系統に属しているのか…… 地蔵は仏教でも地の神である様だ…… 武家時代になると、文字によってこれを軍神として崇敬した…… 守宮神、守公神(註:諸道の技芸を守護する神、芸事の神)もなお文字にちなんで信仰されたものか 二、三の国では国府(註:日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設=国庁、が置かれた都市)の地にこの社が存在している…… 將軍塚と守公神とは関連があるのか…… また、司宮神、主宮神、四宮神と呼ばれるのも、この神である…… 地名にはソクジ、スクジ、と呼ぶものがあり、同じ神の旧祭場だろう…… 守宮神、司宮神などはすべて当て字であるが、もとはソコの神すなわち辺境の神と言う意味である……
十禪師(註:十禅師。知能に優れた僧を、十人選んで宮中の内道場に仕えさせたもの)は注連神であって、また防境の神なのか……
我民族の国を建るや前には生蕃の抵抗あり後には疫癘の来侵あり四境の不安絶えずすなわち特に地神の祭式に留意し境界鎮守の神を崇祀したる所以なり
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三十番神の信仰これに基く 門客神の斎祀また盛んに起これり 日を忌み方位を択ぶの法は道家つとにこれを教えたり しかれどもこれと共に厭攘の祈願、防護の悃請を神に掛くるは最も自然の業なり 而して石をもって境を定むる本邦固有の思想は塞神の信仰に伴いて永く存続することを得たり
いわゆる神護石の保存もこの結果なり 石棒石剣のごときはことに霊物なり 仮に和合神の信仰に混ずることなくとも神として久しく幽界に君臨すべきものなりき 故にシャグジは石神の呉音に非ずとするもこれを石神と称して些も誤謬なし 赤口神の説牽強なりといえども義においてはすなわち通ぜり
『石神問答』(明治四十三年、聚精堂)
わが民族が国を建てる前には、生蕃(註:原住民)の抵抗があり、建国後にも疫病の来侵(註:外国からの侵略)があり、四境の不安が絶えなかったので、特に地神の祭式を忘れずに境界鎮守の神を崇祀した為である…
三十番神(註:一ヶ月三十日の日替わりで担当している神々の事)の信仰はこれに基づく…… 門客神(註:客神であり、主神とは従属関係がないのに祀られている。例アラハバキ)の祭祀が盛んになった……日にちに禁忌を設定し、方位を擇ぶという法は道家が早くからこれを教えていた……けれども、これも共に厭攘(註:押さえつけ退ける)防護の悃請(註:心より願う事)を神に願うのは最も自然な行為である…… そして、石を使って境を定める日本固有の思想は、塞神の信仰を伴う事で永く存続する事が出来た……
いわゆる神護石(註:石垣で区画した列石遺跡のこと。主に九州地方から瀬戸内地方に見られる)の保存もこの結果である…
石棒や石剣の様なものは、とりわけ霊物である…… 仮に和合神(註:男女対の神)の信仰と混じる事がなかったとしても、神として永く幽界に君臨すべきものである……よって、シャグジは石神の呉音ではないとするが、これを石神と呼んだとしても、少しも誤りではない……赤口神の説は牽強(註:無理なこじつけ)ではあるが、意味的には通じている……
『石神問答』(明治四十三年、聚精堂)
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書簡二十二 柳田より白鳥博士へ
拝啓、昨年申し上げました多数の雑神は、どれも神代史には見当たらず、たぶん南都北嶺(註:奈良の興福寺と比叡山の延暦寺のこと)の渡唐僧、もしくはそれ以前に吉備大臣(註:吉備真備)などが(註:唐の国から)持ちこんだものかと思われますが、根拠が乏しいことがらですので、何とも申し上げられません。このたびは、若干の記録に基づいて、渡来がほとんど間違いない神々のことを申し上げ、ご参考に差し上げたく存じます。
(一)石清水八幡宮の末社に志多羅社があり、山城名勝志(註:大島武好著。山城国各郡の名勝志=ガイドブック宝永2年=1705年刊)には、その下に厳島の二字を細く書いてあるのは、志多羅神を厳島にいらっしゃる神である、という一説もあるためかと存じます。この神は密教では薬師(註:奈良の新薬師寺)の十二神将と呼ばれる中の、真逹羅神と本源が同じかどうかは決めにくいのですが、その日本への渡来は非常に奇怪な形式であるようです。百練抄(註:公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉後期に成立)に長和元年(1012年)二月八日の記事に、設楽神自鎮西上洛、今日著舟岳紫野とございます。しかし、これをもって初出であるとは言えない訳は、この時の神は今の紫野今宮の神であり、八幡とは関係がないだけでなく、さらに本朝世紀天慶八年(九四五年)八月三日の記事に、宇佐八幡宮大菩薩の神輿だといって、摂津島上郡(註:大阪)から山崎を通って、急に男山(註:石清水八幡宮の別称)の神領に乗り込み、社人には非常にその処置を迷わせた神体があった、ということが書かれ、数万の群衆が勝手に集まって来て、神輿を取り囲んで歌い踊るという大騒ぎになった、と記されてございます。その歌の文句に「月笠著る八幡種蒔く、いざわれらは荒田開いて、しだら打てと、神は宣う云々」とございます。これが今日の末社の由来でございましょう。このしだら打つと言うことが、どのようなことかはわかりませんが、色々なものに考えられ、現に神宮の行事にもあるということですので、そちらに問い合わせればわかると思われます。紫野社の設楽神も歌舞音曲をお好でいらっしゃる。いわゆる今宮祭のやすらい花はその起源が、長く鎮花祭と同じ意味を持つと言われており、それはつまりこの神が疫神である、ということでございます。この時代疫癘が京師を襲うことがひんぱんにあり、これもまた鎮西から始まるのがいつものことである、と考えたように見えますので、今宮の崇敬は祇園とともにまったくの御霊会のためであると言えましょう。天慶から前醍醐(註:後醍醐天皇と区別。醍醐天皇)の御門の御代に、三河の設楽郡を分置なさったのも、なお同じシダラだったからでしょう。福岡県若松町の大字に修多羅があり、村の境に十三塚が並列しているらしゅうございます。(注39)
(二)応徳二年(1085年)七月には、福徳神の渡来があり、渡来とは思えないのですが、都の中に自然に発生した神であるとも思われません。同じく百練抄の記事には、こないだから東西二京の諸條、辻ごとに宝倉が造り立てられ、鳥居には額を打っている。その銘は福徳神、あるいは長福神、あるいは白朱社などなどである。洛中、上、下の群衆は盃酌算無し(註:大酒を飲みかわしている)である。それらを打ち壊して捨てるように、という命令が検非違使(註:皇宮護衛官)に下された。とございますがそれも、淫祀とみなされ格制に引っかかったためだろうと思われます。この神もこれが初出とは認めにくくございます。今日、畿内および付近の諸国に現存する福大明神、福権現などはこの流行神が土着したものであると思われ、神体はキツネであるということが、古今著聞集にも見られ、今も稲荷と言われるものが多くありますが、あるいはその文字から幸神と混同されているものがあると思われます。もっとも、稲荷にも幸神と同じく、辻社に祀るものが少なくはございません。
(三)次に延喜式に見られた近江(註:滋賀)、播磨(註:兵庫)、壱岐(註:長崎の島)などの兵主神のようなものは、少なくともその神号だけは、外来のものでございます。近江の兵主神は、貞観年の時にはすでに神階の知らせがあり、祭神は大巳貴命であると言われておりますが、御名の「兵主」というのは、早くから習合したという説に基づけることは疑いがございません。そう申し上げる理由といたしましては、すでに史記(註:司馬遷編集の中国の歴史書。紀元前91年成立)の封禅書の八神の中にも、天・地・陰・陽・日・月・四という時の七主と共に、兵主を列記してあり、兵主は蚩尤(註:獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つ神)を祀る、とございます。これは偶然の一致であるとは思われません。
(四)客大明神は、あるいは客人権現とも呼ばれ、東京では芸人や料理屋などが信仰いたしておりますが、古くから諸国に分布する小社がございます。この神も名前の通りに外来の神ではなかったかと思われます。不思議なことに、この神を大社の門神とする風習がございます。白峯寺縁起には、かの御社の門客人には、為義、為朝の彫像を作っているのが(註:保元の乱で崇徳上皇を守った=負けたけど、源為義と為朝の親子が随身となっている。つまり門の左右にいる阿吽の仁王像=金剛力士の代わり)見られます。武蔵には荒脛社と称する、由来が不明の小社が数多くございます。西多摩郡小宮村大字養澤のアラハハキだけは、門客人明神社と書くようでございます。西国にも客人という地名、神名がございます。比叡山にも客大権現社がございます。それは、越(註:北陸)の白山(註:石川)から飛び移って来られたので、つまりお客様の宮であるとしており、本体に関するさまざまな説がございますが、どれも信じられるものではございません。強いて本源を求めるとすれば、播磨風土記の宇頭河(註:揖保川)の条に葦原醜男命を国主と言い、これに対して韓国から渡来して来た天日槍命を客神と記したことなどが最初ではなかったでしょうか。
(五)さらに韓国から渡来した神で、上古(註:古墳・飛鳥時代。大化の改新まで)の記録に見られるものを列挙いたしますと、摂津の姫島の神、これは風土記残篇にも、垂仁紀(註:日本書紀の垂仁天皇巻のこと)の一書にも見られる新羅の神でございます。次に豊前(註:福岡・大分の接する地域)の風土記の鹿春の神も新羅からいらっしゃったとあり、摂津(註:大阪の一部と兵庫の一部)と伊予の三島(註:愛媛)の神は大山積と御名はおっしゃいますが、なおこれも百済から渡っていらっしゃったことが、伊予風土記逸文に見られます。この他に式内の諸社で神名から伝来を立証できるものが、多少はあるかとも存じますので、追々に研究致しますことを考えております。だいたい、氏子や祠官があまり喜ぶようなことではございませんので、むやみに仮説を発表して憎まれるのも考えものでございます。しかし、山城伏見の稲荷神社のようなものは、社家が公認している史料にも、最初は秦氏の祖神であり、途中で東寺を建立する時に、神社の境内や寺領に入ったため、格上げして地主神としたものであり、結託と言えば人聞きの悪いものですが、朝家がここを尊重なさったのは、まさしく弘法大師(註:空海。が嵯峨天皇からここを任された)以降のことでございます。秦氏は帰化人でございますので、その当初に祭祀していたものは、今の神とは同じではないと思われます。このように申し上げましたとしましても、いささかも神威を損なうものではないことは、平安京の地はもとより、だいたいの他の国の貴族の領地でも園韓神(註:園神は大物主神で韓神は大巳貴命と少彦名のこと。オオモノヌシは日本古来の神で、オオナムチとスクナヒコナが渡来の神であると言う意味)の社のようなものが、鎮座していたのを逆に奠都(註:桓武天皇の平安奠都)以前にあったものを、禁闈の内に編入されてから、宮中の神となり歴代の天皇による崇敬も厚く、旧来の神号を保有しつつも儼然として大社になった例もございます。平野の社(註:京都府の平野神社)も外国の神(註:今木神。桓武天皇の母親が百済人で今木=新来という意味、の神を祀っていた)であることが、長い間言い伝えられて参りましたが、その他二条猪熊にある岩神は新羅の神である、というような例はいくらでもございます。(注40)
(六)日本書紀の顯宗天皇三年(註:487年)二月に、阿閇臣事代が使者として任那に行った時に、月の神が人間に乗り移り、わたしを祀ればその地を裕福にしてやろう、とお告げがあった。同年四月に阿閇臣が都に戻ると、日の神がまた人に乗り移って、わたしを祀れと言ったので、その後にこれを朝廷に申し上げて壱岐直の祖先に月神の祠を祀らせ、対馬下縣直(註:直とはもともとは地方官職だったが、大化の改新以後は祭祀を行う世襲制の名誉職)に日神の祠を祀らせた、という記事がございます。この日神、月神はともに自分からわたしたちの祖は、高皇産霊尊である、と自称しておりますが、そのために逆に伊勢(註:伊勢神宮)においでの皇祖神のことではない、ということが推測できます。この二つの祠は、当初はともに大和に建立されたようでございますが、壱岐の式社に月読神社があり、同じく対馬に阿麻氏留神社がございますのを見ましても、この二国との縁が深いのがわかります。天神本紀(註:先代旧事本紀、日本の歴史書。天地開闢から推古天皇時代まで記されている。の第三巻のこと。内容は出雲の国ゆずり)の記事では日本書紀とは違い「天月神命は、壱岐縣主らの祖。天日神命は、対馬縣主らの祖である。天孫降臨の時に、お供をして来た三十二人の中の一人である。(注41)」とありまして、まったく神代紀の日神、月神とは別であることを示してございます。諸神記に見られる王城鎮護の四方三十二神は、
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今も日蓮宗などで祀っている三十番神(注42)の先駆けでございましょうか。その神々の中には、日・月・山・川・水・火・十干・十二支などの諸神があり、まさしく道教の神でございます。これらを考えあわせますと、この書紀の記事はなおも、この韓神渡来の一異聞にすぎないのではございますまいか。陰陽道の輸入にも、仏教と同じく大小の数度の波があったようでございます。中でも比較的後代のものになりますと、多くは浮屠氏(註:僧侶)の手によって招来したため、すでに中国にあった時に仏教と調和し並べ変えられており、わが国に来た後に実は、三部(註:道教・陰陽道・仏教)の習合を完成したものになったのでした。たとえば、牛頭天王、八王子の信仰のようなものが、つまりはこれでございます。吉備公以前にも、役小角(註:飛鳥時代から奈良時代の呪術者)のような仏教者と縁が深い修験道(註:=やまぶし)の開祖もございましたが、ほぼこの時代の陰陽道は、第一にかならず三韓(註:1世紀から5世紀までの朝鮮半島南部の種族で馬韓・弁韓・辰韓の三つに分かれていたことから「三韓」といった)を経由いたしましたこと、第二にこれまで唐朝文明の冶鑄を経て(註:洗練されるということ)おりませんために、非常に特色を持った、そして仏教から分立してよく形式の純度を保っているように思われます。この事実は、皇極(註:ふたたび返り咲いて斉明天皇となる)天皇紀の史筆などが、りっぱにこれを証明いたしております。この時代になって方位を解説し、天象(註:天体現象)に注意し、そして白鳥、白獣などの祥瑞を重大視したことなど、みなすべて古陰陽道の面目と申せましょう。いわゆる、簠簋内伝が安倍晴明(註:陰陽師)の撰集と言われている事は、まったくの作り事でございますが、この人の時代の頃から段々と仏教に纒綿(註:絡み付く=便乗するという意味)して信仰を増進するようになり、(注43)ついには独立を失ってしまったもの、と思われます。しかも、その威力を軽視してはならないのは、現代の民間の習俗行事に道教の信仰を基礎にしたものが、非常に多いので、それだけでもう十分に占いができます。もし、これらがそうはなっておらずに、神仏二道が習合することもなく、独立して吉凶や禍福を説いていたとすれば、二十世紀の日本もあるいはまた、
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アジアの他の地域と同じくゆうゆうと巫覡が歌舞する国だったかも知れません。近世の流行神である鍬神(註:伊勢の御師=参拝の世話役、が神田で使われたという鍬をご神体に村から村を踊り歩き豊穣を祈願する信仰)のようなものは、本源は伊勢にあると言われますが、その蔓延の最盛期には、鉦鼓(註:念仏の時に叩く丸いたたき鉦)が雑揉する様子は、まさに一千年前の修多羅神、福徳仏の流行の様。それは大むかしの、常世の神の狂態に伯仲しているようでございます。お陰参りと言い、お祓いで神が降りる騒ぎと言い、老人の中には今もこの時の様子を語る者が少なくはございません。多数民衆の心理には、突き詰めると不可思議の四文字でしか答えられない現象が、数多くございます。わずかばかりのわたくしの猿学問では、却って大きな問題を引き起こすだけものでございますので、このような研究など、つまりは世の中には必要のないものである、と言われるのでございましょうか?頓首
二月十一日 柳 田 國 男
白 鳥 先 生 侍史
(※注39)倭文(註:日本古来の特有の文様を持つ織物の名称)の緒環(註:平家物語の第八巻、緒環。豊後の国の緒方三郎維義の出生についての大蛇伝説が主)、三国名勝図会(註:江戸時代後期に薩摩藩が編纂した、薩摩・大隅と日向の一部の領内の地誌や名所を記したもの)などには薩摩の南端、頴娃地方に設楽踊りの歌曲を伝え、舞の手振りも残っている事がくわしく記されている。周防(註:山口)でも設楽舞があったことが中古の文書に見られる。
(※注40)簠簋内伝三巻に、神吉日甲午、熊野三所権現藝旦国より我が朝に来たりたまう日なり。神中吉日乙巳、富士権現藝旦国よりこの国に来たり垂迹の日なり。(訳:神の吉日は甲午である、熊野=那智、の三所権現が藝旦国=不明、からこの国の朝廷にいらっしゃった日である。神の中吉の日は乙巳である。富士権現が藝旦国からこの国に来て仮の姿を現わした日である。)などと見える。あまりにもありえない俗伝だが、中古の神社の根源が外蕃にある、いうのが避けられない一つの証拠となるだろう。
(※注41)現在の諸国でも、日月大明神と呼ばれたり、日天子、月天子などという小祠で皇祖神を祭る社であるとしたり、ひどいものになると、これを伊勢の雨宮につながりがあるとするようだが、ぜんぶ禁止すべき間違いである。日月神をたてまつるのは、むしろ外来の信仰だろう。現に隋書(註:中国が隋から唐の時代になってから書かれた隋時代の歴史書)その他の新羅伝(註:梁書や北史、旧唐書など)にも、かの国で歳旦(註:11月1日の朝)に日月神を拝む習慣があると記している。
(※注42)三十番神、朝家(註:皇室)を守りたまうと言う事が、初見されたのは保元物語だろう。諸社鎮座位階記などに見られる七種番神の説は、吉田氏の仮説であるが、紛々と道仏の臭いがして、どんな保守党も辟易とさせてしまう。
(※注43)『八百萬神と言う言葉は陰陽師が唱えはじめた名目のようなものだろう(紫式部日記上巻)』わが国の神々には、一つ一つ親疎の階段があり、(註:身元がはっきりしている)このような(註:あいまいな)総称を用いるはずが無い。中古以後の神々は、分類整正という以上に、演繹的なのである。つまりこれらは、道教(註:の神)が名義を偽っ(註:て日本の神々の中に紛れ込んだ)ものだ、ということがわかる。
…
書簡二十九 柳田より白鳥博士へ
拝啓、先日は稲葉くんが来訪の時に、大歳(註:土中を動く肉の塊と考えられた祟り神。木星の精ともされる)に関する信仰についての話をしてくれました。上海の宣教師が編纂したという、支那(註:現中華人民共和国)での大歳信仰の移り変わり、というものを借りて読みました所、得るものが少なからずはございましたが、まずもって目下の卑見を申し入れておきたくございます。今の五畿から中国にかけて数多く分布している大歳神社は、神主も氏子も共に古事記に見られる、大年神を祀っているものと信じております。古事記によれば、大年神の父神は素戔嗚尊で、母神は大山津見神の娘で、神大市姫。弟神は宇迦之御魂神。そして大国御魂神、韓神、曽富理神、白日神、聖神、御年神、奥津日子神、奥津比売神、大山咋神、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神の十六神はその御子神でございます。古事記伝には、大年神とは、一年間と穀物を守って下さる神であり、名前は似通っているが、漢土の大歳とは、まちがっても一緒にしてはいけない、とございますが、はたしてなぜこの二神を一緒にしてはいけないのか?わたくしには納得できかねます。まず、第一にこの神は属が広く、もし本居翁の言うように字の意味から神徳を推測しようとすると、五穀を司り、山林を司り、田宅を司り、民衆の生活の必要事項の限りを尽くした神々の父、ということになるのに、日本書紀の方にはその神の名前はこれまでに見られません。書紀の中の一書にも見られないのでございます。一族の神達の名もやや異様なもので、書紀の記事とは合致いたしません。
宇迦之御魂神は書紀の一書には、伊弉諾尊と伊弉冉尊の御子である倉稲魂命と同名で違う神である、と言ってございます。かの神は、保食神または豊受大神と同じとございますので、書紀の訓字である宇介能美た(註:今は存在しない字。木へんに施すの右側を会わせた漢字)麿はやはりウケノミタマであり、これをウカと呼ぶのは、倭名抄の説のように、俗伝であったのかも知れません。そうだとすれば、本来の宇迦之御魂神どのような神だったのでございましょうか?延喜式にも、宇賀神社があり、これに先立って、出雲風土記には出雲郡宇賀郷宇賀神社の記事があり、この宇賀にはまた別種の伝説がございます。さて、この神を簠簋内伝の宇賀神に当てはめたというのは、非常にこじつけでございましょう。それなのに、近江(註:滋賀)の竹生島を始めとして、今日の多くの宇賀神が、白蛇の化身である、などと言っていることは、とうてい純粋な神道では許されないことでございます。あるいは、古代の歴史上の神の名前を利用して、いわゆる宇賀耶天の信仰を流行らせようとしたものか、と言うべきか、とにかくこの神の由来は簡単な古事記の文章だけでは、これを明らかにすることはできません。(注54) 大国御魂神は、もっとも崇敬すべき神号であることには間違いがありませんが、これを一つの神の御名とするのは、どうにもおかしなものでございます。式(註:延喜式)をみれば、どの国でもかならず国玉または、大国魂の神があり、郡には郡魂神があり、みんなこれを国神として天朝建国(註:天孫が朝廷を立て国を造る)のために、もっとも功績のあった英霊を地方ごとに崇祀させたものと理解しております。つまり国魂は広く国津神と呼ばれ、または地祇(註:国土の神)というのも同じことであるはずなのですが、これを大年神の長子としたのは、一体どういった次第なのでしょうか?
韓神は、奠都以前から山城の京の地に、いらっしゃった韓神と同じものなのでしょうか?もし、そうだとすれば曽富理神もわずかながら、園神とはいわくありげでございます。白日神を向日神の誤記であるとする、本居氏の説は、根拠に乏しくございます。大歳神社は、山城のものを本社であるとは決めにくくございます。白日はむしろ新羅や斯盧(註:新羅になる前の国名)と関係がありそうでございます。白髭明神は新羅神であると思われますので、白日と白髭の言葉が似ているのも、むかし懐かしいものでございます。聖神は記伝には何の説もございません。なるほど、日本古来の神にしては珍しい御名でございます。(注55)
御歳神の社は大和その他に多くございます。古語拾遺には、田の神で、白猪、白馬、白鶏をお供えにしてこれを祭る、とございます。ただし、御年神と同じかどうかはわかりません。
これらの神々の記事は、なにぶんにも古事記の他の文とは、ぴったりと一致してはおりません。水に油が混じったような部分が少なからずあり、そこでふと考え付いた一説がございます。二十二社本縁(註:群書類従の中の第二集神祇部。北畠親房の二十一社記を増補したもの)、諸社根元記、その他中古の神書に古事記のこの条を引用する者は、みんな古事記が言うには、とは言わないで旧事記(註:先代旧事本紀のこと)が言うには、とございます。つまり地神本記(註:先代旧事本紀の第四巻。出雲神話について書かれている。)の巻を調べましたところ、十六神の名はすべて古事記と同じでございました。旧事記の文には古事記を丸写しした箇所が、少なからずございますので、これもその一例であるとも言われますが、神達の名前は旧事記だけに載っているものも非常に多くございます上に、近江の日枝だとか山城の松尾などと言う地名は、稗田阿礼がその時代に言ったものだとは、どうしても考えられませんので、この記事のようなものは、計画的に挿入したものと言うのは言い過ぎだとしても、後の人の傍註などが、いつしか古事記の本文のようになってしまったもの、と考えるのが妥当だと思われます。そうして旧事記が古い偽書であることは、ほとんど通説になっておりますので、これを批評するのは非常にたやすいことでございます。
さてこの鳴鏑(註:矢の先に音を出す道具を付けて射る)を使う神だという日枝と松尾の大山咋神、またの名を山末之大主神について、まず連想いたしますのは、日吉の山王でございます。山王祠は、天台山の国清寺(註:中華人民共和国にある寺)で祀っている神の名前であることが、難波江(註:幕末の随筆。岡本保孝国学者)に見られます。これを日本の信仰に当てはめれば、つまりこれは大山祇のことでございます。寺地を高い山の頂きにするというのは、山神を崇祀した土地を与えてくれるように願い、あわせてそこの将来の守護を頼んだというのは、ごく自然なことであるばかりか、わが国固有の思想としても荒ぶる神は、山にいて常に畏怖を平野に向けて見下ろしている、というのが社会的に認識されている形でございますので、いわゆる日吉二十一社の神々の大半は、山神系統に属している神なのでございましょう。その一例を申し上げますと、坂本という大將軍の社は岩長姫を祭っているという説がございます。岩長姫を大將軍神と言い、それを軍神だとするのは、憤怒のお姿をなさっていらっしゃる、とも言えますが、さらにまたその御名が角々しく、かつ岩神の岩ともゆかりがあるためなのでございましょう。ただ、大むかしの筑紫の片田舎(註:福岡)で、愛情のために怒りを起こされたことがある、とはありますが、それでこれを軍陣の神にまでするのは、いかがなものかとも存じますが、これもまた大山祇の御娘でいらっしゃるためでございます。なので、大年神の御子の中にも、祖母神と縁続きということから、山を支配なさった神がいると信じられるようになったものでございましょう。香山戸と羽山戸の二神も共に、共に山神の部類だったのでございましょう。奥羽地方には、羽山権現、真山権現、新山権現などの小祠が今も多くございます。その羽山というのは、埴山であり土の神であると言う説もございますが、いまだにその根拠がございません。
奥津日子神、奥津比女神は、すべての人が竈神として拝祀する神である、とこの旧事記に見られます。このために、式の大和の荒神社などをこの神である、とする説が生まれましたが、荒神を竈神とするようになる移り変わりには、複雑な曲折があるようでございます。今日の竈の神は、ただ火の用心の神のようでございますが、唐の時代の頃の支那の竈神には、まるで後の庚申の神と同様の属性があり、諾皐記(註:晩唐時代の異聞雑記集である酉陽雑俎の中の一巻)によると、竈神は偶生神で六人の娘がいる、月の晦日(註:月末)ごとに天に上って人の罪状を告白する、というものでこれはまさに三尸蟲と同じで、天帝の命令を受けて地に下りて地の精になるとございます。五雑俎(註:中国の明時代の随筆。謝肇淛作。)には、十二月二十四日に天に上り、一家の罪状を申告するという俗伝が、明の時代まで伝わっていた事を記してございます。前に書き申し上げた通りに、荒神は日本の古語としては、国神に帰順しないものでありますが、道教の思想ではやはりまた、三尸と同じく人の体内に住んでいる数多い神の名前でございますので、その点から段々と竈神と一致するようになったものか、あるいはまた荒神を地主と言う事から、後代の土公の信仰に混じって、春の三ヶ月は竈にいるとしてこれを畏敬したものではないでしょうか?とにかく、奥津の二神を竈神とするにしても、直ちにこれを荒神の事だと解釈するというのは、意味が通じない説でございます。
阿須波神は、万葉集にも、庭中の阿須波の神に小柴さし、我はいわわん帰り来までに、(註:庭の中にある屋敷の神に小柴を捧げて、わたしは祈ります。あなたが無事な姿で帰って来るまで)という歌もございますので、これはつまり鎮宅の神でございましょう。常陸鹿島ではこの神を前立(註:旅立ち)の神と言っているようでございます。庭津日神、庭高津日神は、庭燎(註:庭で焚く火。特に神事の庭で焚くかがり火)の神で、これも同じく地神でありましょう。波比岐神についての見解はございません。 最後に、大土神またの名を土之御祖神は、前の聖神と共に外来の呼び名かと思われる言葉でございます。しかしこれもなお、神道家が容易に首を立てには振らない説、であることはもちろんでございます。伊勢(註:三重)の内宮には、いつの頃からか大土御祖神と言う摂社があり、式の内に記された社でございます。この神社は、田舎の人は土の宮、または土の御前などとも申しますが、伊勢を中心とするこの一帯の地方に、同じ名前の小祠が多くございますのは、疑いも無く度曾郡にある式社を本原としたものでございましょう。山を越えて近江に参りますと、湖(註:琵琶湖)南の諸村には、都葬司と呼ばれる塚があり、葬の字は忌まわしいもののように思われますが、塚だからそう言えるのであり、因幡(註:鳥取)の東部のある村では、これを土葬神と書き(注56)、通幻禅師(註:南北朝時代の曹洞宗の僧)の母親の死体から生まれた跡だ、などと申しているようでございます。このように孤立して存在するものは、耳慣れない名前でもある為に、トンデモナイ伝説をこじつけられるのでございますが、みなこれらのものは土祖神の祭場だったのではないでしょうか?麗氣記(註:両部神道=真言密教と結合して発達した神仏習合の神道説、理論を代表する書)には大土祖神またの名を五道大神、山田原地主神云々とございまして、少なくともこの書が成立した時代には、
道教の地神と合致させられたことを示してございます。稲荷志料(註:稲荷神社志料。著者大貫真浦明治四十二年刊。稲荷神社の起源などのくわしい史料)という現代の書には、さまざまな資料を引用して土祖神が猿田彦であることを論じております。この説は、平田氏もすでに唱えられてございます。神道五部書(註:伊勢神道=度会神道の根本教典で五巻からなる)などを見れば、この二神が同じものであるとは考えられませんが、土祖と言い土公と言い、または地主という言葉は、共にこれらの書では盛んに仮説を立てているように思われます。道教に感化されて起こった神号であることは、否定できません。もちろん、土公、地主などの言葉が、漢土の言葉であるという事実は、すぐにこの神が道教の神である、という証拠になるものではありませんが、習合する風習が盛んだった時代には、僧巫という僧侶とも巫女とも言えない輩がそれらを迎合して、己の為に土地を手に入れ、その上無知な俗世間の人々に押し付けるために称号をこじつけた、ということは自然にある事でございます。土公の信仰は、支那でも多大な変遷があり、わが国でもそんなに大事でもなかった大小の土公の祭りも、いつしか衰えてしまい、おしまいには古めかしい仕来りの柱暦の隅に、わずかな残塁を保つことになりましたが、これに反して地主神の思想は仏教と結託して、長い間勢力を失墜させる事無く、地主権現、鎮守、または伽藍神などと言い、みな同じ一系統から出たものであるのを考えると、神の名前にも流行があったようでございます。土祖神の名前も、後世になるまでしばらくは、聞かれなくったようでございます。
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大年神の御子神、十六神はこのように雑然とした信仰の習合と思われますので、この旧事記というものの編述は、はたしていつの時代のこのでございますか、大年神を素戔嗚尊の御子であるということについて、そう考えましたのは牛頭天王の八王子の伝説でございます。簠簋内伝の序と祇園縁起の記事はほぼ同じもので(注57)、およそ足利時代の始め頃に、前後して成り立ったものと思われますが、その根拠とは備後風土記(註:奈良時代初期に編纂された地誌。広島県東半分)の説によるものです。ただ、備後風土記でもすでに武塔神のことを素尊(註:スサノオ)であるとして、また八柱の王子がいたことを解説していますが、その八王子の名前を大歳、大將軍、大陰など、今日の暦のいわゆる八將軍としているのは、簠簋内伝の序が初めてであると考えられます。よくよく注意してみますと、この八將軍の結合はどうにもおかしなもので、強いて八という数に合わせるために、方々から取り集めた形跡がございます。実の所、祇園の八王子神は扶桑略記の延久二年(註:1070年)の記事などにも見られますが、その名前が違います。げんに蛇毒鬼神と大將軍とが、この八体とは別であるように記してございます。また比叡山と祇園は、あれほどの縁故がある(註:今昔物語の第三十一巻、第二十四話に、祇園は比叡山の末社になった、という話がある)にも関わらず、日吉二十一社の中にある上下の八王子(註:日吉二十一社は上・中・下の各七社に分けられている。この中の上七社の中の八王子=現・牛尾神社、と中七社の下八王子=現・八柱社のことである)の祭神には、全然別の言い伝えがあるのでございます(注58)。その他、城州(註:山城国)天王山の八王子を始めとして、簠簋内伝の序にある説とは合わないものが、少なからずあるのを見れば、現在の八將軍説は、後代で発生したものであることは明白です。これは鄙見であり、確たる証拠もございませんが、祇園の天王は当初は四天王の信仰に基づいた鎮護の神であったものを、四境と四隅とを合わせた八にして、これに合わせて八雷八龍の思想を取り入れて、延長時代(註:923年〜931年まで)の風土記の時代にはすでに素尊は行疫(註:疫病の神)である、というようなおそれ多い俗説を生じ、図らずも五男神三女神などという、古史の文までこじつけられてしまう厄介な目に会ってしまわれたものか、五男三女という言葉は、金索(註:金石索。中国の清の時代に馮雲鵬が撰集した金石学の研究書、の金属学の方)にある吉祥銭(註:吉祥という喜ばしい言葉を刻む貨幣であるが、正式名称が厭勝銭)にも似たような例があるように、本来は一家の慶福を意味する道士の常套句だったものが、書紀の記事に関係させて、八王子の神の名前に取り付けたものではないでしょうか?なんともまあ不愉快な話ですが、五男神三女神は決してみな素戔嗚尊の御子ではないのでございます。もっとも宗像の神は、本社の西海に鎮座していらっしゃるのにも関わらず、はるばると東国の果てにもこれを祭っている社があり、延喜式以前に存在し、ある時代には神威がもっとも盛大な時があった、と見られるのでございます。 大年神、御年神を素戔嗚尊の御子、御孫であるとする説は、いつの時代に始まったにせよ、とにかく漢土の大歳の信仰が奈良時代よりも前から、日本の社会に偉大な勢力を持っていた事は、ほとんど疑いようがございません。持統紀六年(註:692年)には、歳星の天変が見られ、穂井田忠友(註:江戸後期の国学者で考古学者で歌人)が観古雑帖に転録された天平時代の具注暦(註:日本の朝廷の陰陽寮が作成し頒布していた暦)にも細密に大歳(註:木星)の運行を記していたなど、当時の唐の国の迷信を輸入していた証拠でございます。したがって、式内諸社のうち、間違って大歳の神号を唱えているものが、諸国には多いとしても少しも不思議な事ではございません。今日では深い山の奥にも大歳谷、大歳洞などの地名がある訳を考えましたならば、本居翁のように字の意味によって、年穀の神であると速断するのは、やや危ういことであると思われるのでございます。なにとぞ、ご批評をお聞かせ頂きたく存じます。恐々頓首。
三月二十五日 柳 田 國 男
白 鳥 先 生 侍者
(※注54)宇賀夜は、白蛇とも財施神とも訳す。龍神である。宇賀神と言って、頭は老人で体は蛇体、蛇を封じている姿で、これを神社に安置し、祭る時には、一つの器に水を入れてその像も入れる。天の真名井の水、などと言う文を唱えてその像を洗う。像は、金銅(註:銅の金メッキ)または磁器である。熱田(註:熱田神宮)正殿内にある御鏡箱の中にその像があったのを、貞享時代の御修理(註:将軍徳川綱吉の命令で貞享三年=1868年に80年ぶりに大修理をしたこと)の時に取り出している。これは、張り抜き(註:型に紙を何枚も張り重ね、乾いてから中の型を抜き取って作る)で作られた非常に精巧な作りのものであった。密宗(註:密教、真言宗)で作られたものは、人の首と蛇の身体の像ではない。また、俵の上に蛇を作り、これを宇賀神とも言う。山城稲荷社にその形がある。熱田の宝蔵にも磁器のこの像がある。非常に古いものである。また、蛇の首で人の身体をした像もある。修験者などがこれを祀っている。(塩尻の四十六巻および四十九巻)
(※注55)聖神と言う小祠、聖塚と言う塚は今も諸国に多い。この神の性質を知るには、日本語のヒジリという意味を、明らかにする必要がある。聖主、聖人をヒジリと言った例は、すでに万葉時代からある。けれども、これを高徳の僧に転用したのは、いつから始まったのか?ヒジリとは日知で、最初はむしろ道教の天師、真人などに当たる言葉であったのを、聖の字を使った為に、漢字の意味に捕われて、一方ではまた、高野聖などと日本的な意味を、この漢字に付けるようになったのではないだろうか?
(※注56)近江愛智郡葉枝見村田附(註:滋賀) 都葬司 同神崎郡南五箇庄村(註:五個荘村)川並 堂葬司廟 因幡岩美郡浦富村町浦住 土葬神(香林寺境内) どちらも土祖神とは名付けていない。塚の跡であると思われる。因幡のは、因幡志二十二巻に図が載っている。大きな榎があって祠はない。図にはツゲノサヰと名付けられている。なぜかは判らない。
(※注57)牛頭天王暦神弁は平田氏(註:平田篤胤)の著作としては珍しく、足りない部分がある書である。その書の主な弱点は、しょせんはその祇園の社家の手で出版されたもの、に依存しているからである。だから問題の中心たる牛頭天王の縁起には、一言も言及していないのである。備後風土記の編述の年代についても、明確な断定をしていない。八王子神がどこの神であるのかも説明していない。特に、武塔神または、蘇民将来という神の名前、人の名前が神代にあったように説明しているのは、おそらくは翁の本意ではないだろう。わたしが代わりにこれを言わせてもらうと、備後風土記の編述は少なくとも延長は(註:923年〜931年まで)よりは古くはないだろう。武塔神は、輸入の神であるので、これに素戔嗚尊の信仰を習合したものである。三大實録の石見国の石塔、鬼王、帝釈天王の国社神、伊賀国の應感神のような新しい名前が、この時代にはすでに良く聞かれるものだったのである。蘇民将来の伝説は、韓国で始まったものという、徂徠翁(註:荻生徂徠)の説は推測が当たっていると思われる。
(※注58)日吉上七社の八王子大明神は、神祇正宗(註:神祇正宗秘要。吉田兼右著。)によれば、天神、国狭槌尊が八人の御子を引率して、影向(註:仮の姿を現した。来臨)なさったのを祀ると言う。下七社の八王子は天御中主尊と言う。山城の天王山の八王子は、東西の二座があり、東を東天王八王子と言い、西にあるものを天神八王子という。牛頭天王伝説の根元である、天刑星秘密儀軌(註:天刑星は、道教で木星とされ、牛頭天王の天敵)は、真福寺所蔵のものは、文応元年(一二六○)の写本である。
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書簡三十二 柳田より山中氏へ 拝啓、かつて精進と象頭とが同じ語音からの転訛かもと申し上げましたが、段々それが誤りであった事が判りましてございます。ゾウズはやはり象の頭をした神の事、つまり聖天のことであり、その様子に基づいて歓喜天と申します事が普通でございますが、続一切経(註:続一切経音義=大蔵経の諸仏典中の難解な語や梵語の解釈や読み方を示した音義書の続編。全十巻)の中で希麟が書いた音義第十巻の中には「毘那夜迦は梵語(註:インドのサンスクリッド語。今でも使われている)である。古くは頻那夜迦と言う、云々。これには、障碍神と言う。理由は心は人で姿は象の頭。よくすべてのものに障害を与えるため」と見られますので類聚名物考(註:江戸中期の百科事典。儒学者・国学者の山岡浚明編集)そうでございますならば、シヤグジよりもかえって近代の道祖神と、関係があるものでございます(注61)。サウヅと澄んで読むものも同じ神であり、僧侶などの読み癖が違うために、変わってしまったものなのでございましょう。 シヤウジは、精進と書きますよりも、障子とする方がむしろ元々の意味に近く、つまり延喜式三巻の中に見られる、障神祭の障神だったのでございます。この祭は、外国人が京に入るに先立って二日前に、京城の四隅で営まれた天皇家の祭でございますが、諸国で村々の境上に邪神を祭却(註:祭ってしりぞける)するという修法(註:密教で、壇を設けて行う加持祈禱の法)は、すべて障神祭とよばれたもので、それが地名となって山の中にまで残り、平野ではすでに地名があったので、この名前を使わなかったのでございましょう。障子が関という地名など、思い当たる場所がございます。 障神が元々はサヘノカミと訓むことは、道祖神または塞神と同様でございます。漢語でも障と塞とは同じ意味で、現に史記の朝鮮列伝の始めの所などにも、鄣、塞、とあります。どちらも辺防(註:国境の守り)の城壁のことでございます。雲鄣などという地名もまた、こういう意味でございましょう。塞をソコと言う事は、古くは日本および韓国でそうだっただけではなく、支那でも塞、柵ともにサクという発音ではなかったでしょうか?稲葉君、山氏の話によると、満州でこの辺城の地をチャカまたはチャハ、と言うようでございますが、支那の塞の発音だろうということでございました。沼垂柵、石船柵(註:どちらも大和朝廷が築いた軍事施設で新潟にあったとされる)などの柵の字、在来の訓ではキと読みますが、これはサクなので柵戸とはサクノヘかも知れません。また、守公神は元々は、ソコの神つまり塞神であったのが、ソクジともスクジとも言われるようになり、いつとはなく「公を守る」などという無理矢理な文字をこじつけたものではないでしょうか?ソクと(注62)言う地名は決して珍しいものではなく、近ごろ周防国風土記を見ましたが、玖珂郡(註:山口)では山にある村里には、多くの村に足谷という小字があり、これをタルガヤともアシダニとも色々に読むのを見ると、おそらくはソクダニを重箱読みにしてしまうのを避けるために、そうなったものなのでしょう。特に、谷をヤと読むのは、関西では極めて新しい風潮でございます。信州飯田の北にも、野足という川があり、同じ例でございます。迫と書いてサコと呼び、または佐古とも世古とも言うものは、すべて入野の奥の事でございますので、これはつまり前述のソコと同じ起源なのでしょうか。このように母音がさまざまに変化して、セキともサキともソキともソクともなりましたのを見ると、サクというのもまた、日本語で辺境ということであると想像できます。現に、信州の佐久郡のような、上毛(註:群馬)の渓谷と高くない山を隔てて、元々は湖水があって先住が早かった地方である、と判断できますので、蝦夷に対立して守った境線の意味でございましょう。したがって、
サグジまたはシヤグジも塞神という意味で、これを古代に求めるとすると、式の石神とは直接の脈絡はなく、逆に甲斐などの佐久神と同じ神なのでしょうか、ただ石を祝して神と祀るのは、同じでございますので、これを石神と混同したというのも、また事実上まちがってはいない、と言うだけにとどめておきます。
次に、シヤグジは、赤口神だろうという説は、偶然か否かはともかく、南留別志が初めての見解ではございません。掛川志には、山に祀るのは山護神で、山の神のことである、などとございます。金谷付近の五和村大字牛尾の石神は、楠の古木で夜叉神を祀る、とございます。シヤク神は仮名暦の赤口神である、と言う説があるようでございますが、あるいはこれは徂徠翁の説を指して言っている説かも知れませんが、その夜叉神が云々という所を見ると、簠簋を読んだ上での説かもしれません。簠簋諺解(註:簠簋の解説書。中野宗左衛門発行1682年に出版、全五巻)には、大歳神には東に八、西に六の門神がいて、順番に守護を勤める。東門の第四番の神を八獄卒神という。もっとも猛悪であり、閻浮衆生(註:この世に生きている人々)を惑乱する、その当番日を赤口日または大赤と言い、西門の第三番の神を羅刹神と言い、その当番日を赤舌日、または小赤と言い、どちらも非常に嫌がられる日であるとございます。つまり暦の悪日(注63)の名前でございます。これもまた境を守る神なので、関係がないとは言いにくいのですが、赤口と赤舌は日の名前であって、神の名前ではございません。これを赤口神と申しますのも、いかがなものかと存じます。徒然草には、赤舌日は陰陽道が言い出したことで、それはまったくの無意味なことである、とございまして、この国にいつの頃からそう言われはじめたものか、を明らかにしたものでございましょう。そうなると、逆にまた佐久の神のサクから思い付いたもので、これは境の神ではなく、大歳の門客神である。などという説が、はじまったのでございましょう。末書に見られた八神六神の名目も、八王子神の名前と同じく、どこからか寄せ集めて来たものらしく、仏教のように系統が整然とした分類のものではございません。諺解がお手元にございましたら、ぜひ一度お確かめいただきたく存じます。
シヤグジは三孤神であると言う説になると、ついに論拠となるべき証拠の一つも、発見することができませんでした。この説は、最初は塩尻から出ましたものか、(註:作者の)天野翁も一つの仮説としており、強くは主張していない書き方でございますが、それを和訓栞の編者が、これを定説として採用したものなのでございましょう。和訓栞には、他にも塩尻から抜粋した箇所が少なくはございませんので、この点は疑いようがこざいません。 さて、長々と独り合点を申し述べさせていただきましたが、一つ一つ御批判いただきたく存じます。この上は、こちらから申したい事も当分はございません。なにとぞこれらに関して、ご存知な事などございましたら、少しずつでもお聞かせ下さいますように。なおこの前後に、他の諸先輩方に報告いたしました手紙なども、まとめてお目に掛けたいと存じます。いくらかは、短文を補足できるものと思われます。もしも、西洋の学者にでも、手をつけられたりしたら無念だと思いましたので、大胆にも片っ端から世の中に公表しようとも考えております。 恐々頓首。
四月六日 柳 田 國 男 山 中 大 人 侍史
(※注61)象頭神の信仰は、荒神の信仰と非常に接近しているものである。松屋筆記(註:江戸後期の随筆。小山田与清著、120巻)の第二巻には、真俗雑記問答抄を引用して、外典(註:仏教から見た他の宗教の本)で言っている荒神は、陰陽師の荒神供がこれである。内典(註:仏典のこと)でいう毘那夜迦聖天供のことである。ある流派の中には、内法(註:仏教)について、荒神法を行うとあり、塩尻五十三巻にも、毘那夜迦=大聖歓喜天の正体、障碍神をまず荒神という。これに憤怒と如来の二つの像があり、この世のあらゆる障害となる神なので、修法の時にはまずこの神を降伏(註:法力や神の力で押さえてしずめること)することが、密教仏教では大事である、とある。障碍神の特性を利用して、これを防鎮の神として祀る時に、導士はやがてこれを荒神と呼ぶようになったのだろう。因幡八頭郡社村には、特に荒神の祠が多い。現地人の伝説に、むかし覡(註:男の巫女)が荒神の神符を国々に配布したが、神符がたくさん残ってしまったので、それらすべてをこの里に納めて帰った。だから荒神の祠がこのように多くなったのだという(因幡志六巻)最初に荒神の祭祀が起こったのは、かならずしも陰陽道の巫覡からではない。荒神に関する地名もまた、象頭と同じく山の中に多く存在している。例えば、大和吉野郡(註:奈良)野追川村大字池津川に荒神嶽、高さ三千八百尺(註:約1、150メートル)、岳の荒神を祀る、美作(註:岡山)勝田郡豊田村大字柿字荒神谷。安芸豊田郡(註:広島)茗荷村字荒神山など。
(※注62)延喜式神名帳(註:延喜式の第九・十巻のこと)に、遠江国(註:静岡)敷智郡息神社があり、この神は普通はオキの神またはイキの神と読む。そして、文徳実録(註:日本文徳天皇実録。平安時代に編纂された歴史書)の仁寿二年(註:852年)の神階と列官社(註:神に人間のように階級を与えたもの、と神社の階級を決める)の記事の前後に風災のことが見られるのに合わせて、これを風の神であるとしている。けれども同郡には、また曾許御立神社と呼ばれる式社(註:延喜式に載っている神社という意味)がある。遠江国風土記伝には、この息神社を今の浜名郡雄蹈村大字宇布見にある米大明神社に当たるとしている。この社は今もソクの社と呼ばれている。おそらくは、むかしもソク神と呼んでいたのだろう。伴信友翁(註:江戸時代の国学者「天保の国学の四大人」と呼ばれる)にもこの説があったと思ったが、今その出所を記憶していない。曾許乃御立神の名前から連想されるのは、国底立尊(註:日本書紀では一番最初に現われた神)という神号である。
(※注63)暦の日の善悪というのは、元来その日を支配する本命神、または番神の性質に基づく説なので、暦法が学問のない行者の手に移った後は、悪日吉日を神として祀り上げたとしても、決して不思議ではない。大和北葛城郡磐城村大字南今市(註:奈良)には、八専ノ社、土用ノ社と言う祠さえある。
書簡三十三 柳田より緒方翁へ
春色がまさに濃くなりました季節柄、ご当地の風物はいかがなものでございましょうか。長く旅にも出ずにおりましたので、特になつかしく存じます。いつも御健康で、お勤めなさっていらっしゃるものと存じ上げます。狩猟図説(註:農商務省発行の鉄砲による狩猟注意書きと用法。1892年刊)長い間でしたが、ようやく写し終わりまして、主猟寮(註:明治の宮内省の役職。職業ごとに各寮を置いた)から戻って参りましたので、同便にてお返し申し上げます。厚く御礼を申し上げます。さて、昨秋お手紙を頂いた頃から、しばしば集まって質問し合いました諸国の山神、荒神、石神などに関する雑説などが、数が多くなるにつれ、ますますまとまった見解も付いて参りましたが、後にこの研究に深入りする人々の手間を省くために、わずかばかりのわたしの鄙見を付けて、世の中に公にしようと企てております。その上はぜひ御一覧下さいませ。きっとお考えに合わない点が、たくさんあろうかと存じますので、なにとぞ十分なご批判を賜りますように。 今更に驚くようでございますが、むかしと今との移り変わり様は、思いの外うわべばかりのものでございました。このために正しい御国振(註:地方地方の風俗・習慣)も、長く世の中に伝わってその光を放っておりますけれども、それと同時に少しずつ人の心に染み込んだ風俗というものも、ナカナカ一通りの事では、これを無くす事は難しゅうございます。御一新(註:明治維新)の手始めに両部(註:神道)の混淆を戒めなさいました。数百年来の本地仏を退けて、仏具を捨てて社境を清められたことは、すべてみな正しい神道の学問に基づいた政治であり、何人たりともこれを否定などできません。が、今日になって回顧してみると、これはただ名前を正して、身分を明らかにしたまでのことでございまして、所職(註:身分を売買した)祠官や二、三のこころある者を除いては、凡人が社殿の前に伏して拝んで思念する所で、教部省(註:国民教化を目的に設置された官庁)の方針によって大きく改まった事があるのを知りません。徳川時代でも、学問が進むにつれて、水戸、備前、その他の諸藩(注64)では、しばしばこのような事があり、領内の小祠の名義が正しくはなく、由緒が疑わしいものは、改正や廃止させられたものも非常に多く、さらに大むかしにさかのぼっても、淫祠の禁制が一つだけではなかったのでしょうが、これのために蕃神の信仰が絶滅したと思われるものは、ほとんどございません。たとえば、星宿の祭祀は、神代史にはまったく見られないだけではなく、代々の明主(註:賢い君主)がこれを禁止なされたことが記録にございまして、妙見堂、七星壇(註:諸葛亮が風を起こす儀式のために作った壇)が諸国に渡って多く、ただ法師、山伏がこれを祭っていただけではなく、星の宮などという神の社も時折ございます。子安神は、山城の京の都が始まった頃から、その名前が見られますが、今日でも子安観音、子安地蔵などの仏が、東国には数多くございます他に、また社に祀られた子安神も少なくはございません。奥州に参りますと、その神は愛宕権現などとも呼ばれて信仰され、習合したその神を、ある村では愛宕神社として神に祭り、また別の村では勝軍地蔵などとして仏堂に安置をいたしました。この類の例は、指では数えきれません。一つの社で神官も僧巫も共に奉仕するものは、すでに跡形も無くなってしまいましたが、以前に地方の民衆が、同じ神であると信じていたものが、寺院が年来別当としてきた由緒や、祭式などが異なっているために、神と仏とに別れてしまった類もあるので、知識のない里人たちに純粋な信心を起こさせる事ができないのも、誠に仕方の無い事でございます。しかしながら、仏道の教えは體用具足(註:本体とその働きが十分に備わっていること)であり、隠れた隙もないので末世になったとしても、これを捕捉することは難しくはございません。けれども、ただ道教の信仰となると、以前の南北の僧侶に雇われて、商山の四皓となって(註:争いを避けて身を隠す事)からこの方、常に伽藍の片隅に割拠して、思いの外の勢力を地元民の上に及ぼしただけでなく、はやくから神道の伝説と癒着して、分けにくくなっております事も、仏教よりもひどいものだと思われます。たとえば、中世になり呼びはじめました、三十二座の守護神の名前の様なもの。八卦を配置し、十二辰を配置し、または泰山の八主神を配置するなど、度が過ぎたものが多く、旧事本記にもこのような説がたくさんございます。近代になってからも、五行神と言い八王子と称するなど(注65)、いずれも古来の伝説に多少の根拠があるものであることは、なおも今日の天理教、金光教などが、さらにこれを元にして、一派の説を立てた事と同じだと考えます。ただこれらの時代時代の変遷になると、平凡な学者には中々記述したくともできません。支那でも上代の陰陽道は、地方的にばらばらでまとまりも無く、その祭る神も非常に統一を欠いたものであったものを、宋時代の初め頃になってようやく集成したらしく、雲笈七籤(註:中国・北宋代の道教類書。撰者は張君房現行全122巻)などを見れば、非常に系統を持ったように見受けられますが、その間にもさらに異端中の異端があり、妖説中の妖説、繽紛(註:入り乱れる)としてとどまる所を知らず、というものでございました。この養生採補(註:養生術、採補術。気功などの健康法。精気を養ったり取り入れたりする術)のようなものは、まれなことに日本には渡って来ませんでした。この点においては幸いなことに、わが民族を蠱惑することもございませんでした。その代わりに、国内でそれに相応な左道(註:正しくない教え、邪道)な説を醸成した様子でございます。足利時代には、日本で山臥、修験道(注66)がもっとも勢力を強くした時代かと存じます。この輩は、行道(註:歩き回る修行)を主として学問を次にし、法師の手から伝えられるわずかばかりの書籍を秘密の鍵にして、少々は新渡(註:外国から新しく入って来た)の道書(註:道教の道術の法を説いた書物)類も付け加えたのでございましょう。しかし、大部分は民間の俗伝を守った事で、その説のだいたいにおいては、頽廃的なものも認められますが、あいにく四民(註:士農工商)の学問が何も無くなってしまった時代だったので、多数の尊敬と信頼を贏ち得て、諸国に無数の小社を創建させたらしゅうございます。おまけに段々と仏教から分立して、同盟を旧来の神社に求めた形跡がございます。たとえば、後世の地神祭、荒神祭の祭式には、仏教くささはほとんど残っておりませんが、そうかと言ってまた大むかしの様態を、そのままに伝えているようにも見えません。わが国の最初の神の孫が、降臨した時に付き従って来たもの達が、別れて諸国に土着すると、諸国にはすでに先住している蕃民がいて、しばしば兇暴に来侵するという悩みがあり、追い払うと山に逃げこむようなので、新たに空き地を開墾する者が、もっとも意識したのは、四境を安全にすることだったのでしょう。この気風は長年の因習となり、山に入る時には、山口の神を祀る事、つまり今の山神の祠の根源だったのでございましょう。そうすると、三韓(註:新羅、百済、高句麗)の朝貢(註:日本の朝廷に貢ぎ物を捧げる)の時代から、かの土地で行われた地鎮、安宅の法などというものが、だんだんと国内に入って来て、天朝(註:朝廷)が少しこれを採用なさった頃には、すでに民間では大いに行われていたらしく、地境に石を立てて邪神を攘斥するなどの作法が、あちらとこちらが始めから良く似ていたのか、あるいは最初の道士が狡猾で、仕事として資格を持ちその術を行ったのかも知れません。とにかく、民衆の信頼を繋ぐものが、次第に輸入教の方に走り寄ったのは、仕方のない世の中のあり様だったからでございます。野中の清水も末端まで濁ってしまえば(註:昔なじみだった人もまるっきり変わってしまったら)、言う甲斐もないと言うものですが、ちょっと離れて考えてみますと、これもまたわれわれの祖先が千年の間、熱心に真摯に打ち込んだ信仰でございますので、それなりの同情をもってこれを批判すべきものかとも存じます。石神またはサグジなどと申します神は、おっしゃる通りに意味のないものであるのには間違いございませんが、その始まりは決して新しくはございません。延喜式にも見られる、諸国の十数座の石神は今日でも祀られ、これらと後々の石神との間には、少しも違ったものがあるようには思えません。神名帳の神の御名には蕃神の名前が混用されているものが、他にもたくさんございます。これ前後に列(註:格)官社または神階の記録に見られる神々にも、少なくともその名前が仏教、道教から出たものと思われる神がございます。おおらかな古代の気風では、韓の神も尊ぶべきものは祭り、外国の作法も採るべきものは、受け入れなさったのではないでしょうか。それともはたまた、その流弊(註:以前からの悪い習慣)だけを匡正して、その他は民衆の望むままに容認なさったものと考えられます。四隅四境の祭式、障神の祭式などは、申し上げるまでもなく、本源は上代の大まつりごとの外から出たものではございませんが、後世にこれを奉仕する者の意識としては、だんだんと道教の風味を帯びて、作法にも違うやり方を混ぜ込んだようでございます。ですので、今日では各地方の信仰を分析して、その外来のものを引き離してみるという事は、たとえムダな作業ではなくとも、その効果はまことに少ないものになると思われます。おそらくは、日本の神道として世界に知られたものでも、
次第にタマネギの皮を剥いて行くように、よほどの古い時代にさかのぼると、削除に伴うべきものが多いだろうと存じます。わたくしの役人の癖に何の役にも立たない学問で、お恥ずかしい限りでございますが、求めるものは決してそのような、消極的な結論に到達するものではございません。われわれの祖先が中古に里に住み、土地を開いた始めから、はたして何を願い何をおそれたのか?いわゆる子孫の計(註:子孫長久の計、司馬光1019−1086年、中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家、の家訓。不如積陰徳於冥々之中 以為子孫長久之計=世のため人のために、陰で良いことをする、というのが子孫をいつまでも幸せにさせる方法である)と申しますことで、国に仕え家の名を興し、そして田宅財貨を残すことの外に、心のよりどころと身の助けとして、何を思っていたのでございましょうか?一言で言えば、古代の民衆の細かい事を少しでも明らかにしたい、という希望から、図らずもここまで立ち入って参りました次第でございます。これでも、得るものはわずかで、なお今後の進展を期待する以外にはございませんが、まずまず第一版としては、多くの問題とその研究材料を公にいたしましてございます。目下は、日韓の交通に関しての古史の捜査が、ようやく好調になりかかりましたが、あの国は図書が乏しく少なく、まだ思うようには参りません有り様でございます。山神、石神の信仰など、かれこれ共通の点が非常に多いので、追々に予想外の議論も出て参るものと存じます。わたくしの書物が出来ましたらばすぐに差し上げ申します。御心にかなわぬ所は、なにとぞ御寛容に御訓諭を仰ぎます。また、鄙説の論拠となるべきことがらも、もしございましたならば、ご教示いただきたく存じます。 恐々頓首。
四月九日 國 男 緒 方 大 人 侍史
(※注64)岡山藩では、寛文時代(註:1661〜1672年)に非常に神社の数の制限を行っている。吉備温故(註:吉備温故秘録江戸時代に編纂された資料集、記録簿)によれば、浅口郡にある八ヶ村(今の大字)で千五百四十一の小祠を一ヶ所に集めて寄宮とした。ほかの六ヶ村でも六百三十七の小祠をまた一つの寄宮に集合させた。桃源遺事(註:徳川光圀に関する逸話などを集大成したもの。西山遺事ともいう)によれば、水戸領でも同じ頃に三千あまりの淫祠を除去するとあり、水戸領では主に征略したのは、源家祖神ともいえる八幡の社だった。その光景は、とうてい今日の合併政策などの計画など、足下にも及ばないだろう。 (※注65)延喜式神名の中でも、遠江引佐郡(註:静岡)の大セチ(註:せちの漢字が無いので)神社、陸奥曰理郡(註:宮城)の安福河伯神、播磨佐用郡(註:兵庫)の天一神玉神社などは、疑いもなく外来の神の名である。また遠江敷智郡岐佐神社は象神だろうか?象のことをキサということは古いけれども、その意味と由来を知る事はできない。
(※注66)近代まで田舎に在住する巫覡のやからにもいろいろあり、山臥または修験者というものは、ほとんどまったく仏教に合同してしまった。ミコが神社に従属したのと同じである。この二つの外に陰陽師またはハカセというものがある。その名目は、職員令(註:養老律令の地方・中央の各宮司の官名・職員・職務などを決める)の太宰府の陰陽師などから出たものであり、それは占筮(註:ゼイチクうらない)や相地(註:土地の吉凶をうらなう)を掌るのに反して、これはさらに符呪、禁厭(註:どちらもまじない)のことにまで及ぶ。周防風土記によれば、この国では村々の地神祭に来て、地神経を読むものがいて、それはかならず盲目の僧である。僧とは言うが、寺には住まず、在家で妻帯しており、関東諸国の法印さん(註:中世以降、僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号)などと同じものだと思われる。盲人が石塔の供養に当たることは、前に述べた。
書簡三十四 柳田より松岡輝夫氏へ (註:松岡輝夫は、柳田國男の兄弟。五人兄弟の末っ子で日本画家。映丘)
先日ご面倒を掛けた二つの画の外に、またまた白井光太郎氏(註:日本の植物病理学者、本草学者、菌類学者。考古学にも造詣が深かった)の稿本中にある秩父の山村の道祖神の祠、これは御縮冩してはもらえないでしょうか(註:この本の挿絵のために依頼している)。例の本も、いよいよ聚精堂から出してもらえることになりました。ドイツの本などと違い、結論はとうてい書けそうもない、とぼけた書物です。しかも、その第一版です。出版社に損をさせないと良いが、と心配しております。だいたいディレッタンティズム(註:道楽主義)が流行しない国に生まれて、随筆的な完成を喜ぶ時代に、大きな目標の一片を捕えたような、こんなエチュードめいた(註:下書きっぽい)作品を世の中に公表するのは、無分別だったのでしょうか。私らしい暗中摸索の記録など、誰が好き好んで読むのだろうかとか、読んだ人はきっとこんなものを書く人の気が知れない、などと言うかも知れません。ただ、根っこは同じ草、趣味では似たような事を好む草もあるかも知れない(註:同じ日本人の中に好事家が居ないとも限らない)と、いうのが本心です。古い浮世絵を見れば、野郎あたま(註:髪型のこと)の武士が、盆踊りの群れに混じっております。空也の徒(註:踊り念仏の信者)には鬢(註:こめかみあたり)が白くシワシワの老人が奔跳(註:ものすごく走ったり飛んだり)する者もいます。この人々の気持ちはあんがい真面目で、決して洒落や流行のためではなかったかも知れない、と推測するのは難しくありません。これにくらべたら、文明人は冷ややかで、静かです。大むかしでも常世神が富と長寿をもたらす、設楽神が鎮西(註:九州)から上洛したと言っては、男女老幼が狂奔してこれを迎え入れたと、そういう者達が都にも田舎にも満ちていたようです。過ぎ去ってしまえば夢のようですが、その時には渇仰する情はきわめて強烈で、気持ち的によそ見をする暇もなかったことでしょう。とてもわれわれの間では、このような熱中ぶりを見る事はできません。愚痴と言い、迷信と言えばそれまでのことですが、この時に湧き返った血潮は、今もわたしたちの体の中に流れているはずで、たわいのないむかしの努力も、すべて今のわれわれの存在と繁栄のためであったと考えれば、これを輿地誌略(註:明治時代の地理書。内田正雄著。世界の地理を略述した書)の阿弗利加あたりの記録とは同一視できません。わたくしは、以前苅田嶽(註:蔵王宮城県側)に騰って、天道(註:太陽神)の威力に戦慄し、鵜戸の神窟(註:宮崎)に詣でて海童の宮近し!と感じ、木曽の檜原(註:長野)の風の音を聞いて、むかし岩角に馬蹄をとどろかせて狩りをしたのは、自分だったのではないだろうか?と思ったものでした。あの時の気持ちをなるべくよみがえらせて、むかしのことを攻究しましたので、御駒様金精様のご神体もそれほど奇妙なものではなく、由来のようなものを知るにつれて、なお不測の事態に対する畏怖と悃請(註:おそれとねがい)を抱いた事が判りました。 思うと、八十禍津日神(註:伊弉諾が黄泉から戻って穢れを払う禊をした時に生まれた神)の思想は、時代が進むと共に、次第に抽象的になっていったのではないでしょうか?今日は、病と死との外にはほとんどおそろしいものがない、昭代(註:平和で栄えた時代)になりましたけれども、むかしは現実に畏怖するものが数多くありました。毒蛇が姿をひそめ、豺狼(註:ヤマイヌとオオカミ)が人里から遠ざかり、あらゆる邪神は山奥深くに入ってしまった後でも、さらに疫病の来襲があり、水害、旱魃、風害、蝗の害があり、中でも疫病は、やって来るのに足があって趨って進んで来るように、たいていは鎮西(註:九州)から始まって東に進んで来るので、もっとも蕃客(註:日本に来ている外国人)の出入りを厳重に制限し、自然と鎖国の傾向になって行ったのかも知れません。疫神を敬礼(註:敬い拝む)して境の上にこれを招き入れたことは、なおも幕末に起こった伊豆の下田での外交の様子と酷似しているのも、面白いものです。信州秋山郷では、村の入り口に注連(註:なわ)を張り、疱瘡が発生した村の者はこれから先に入れない、という制限札を立てる、それは薩摩(註:鹿児島)の南端で、わたくしが道を歩いていて驚かされたのも、またそういう例でした。一昨年の六月に、鹿籠の枕崎から指宿の港に出ようとして、漁婦にカバンと靴をもたせ、頴娃の石垣浦の村に入った時です。榕樹(註:ガジュマルの和名)に杜鵑が啼いて浜の松山に雨が降っており、幽興(註:奥ゆかしいおもむき)限りない所でした。わたしたちが開聞(註:村の名)の方に道を急いでいた所、村はずれに番小屋があり、夫婦者と娘の三人が住んでおり、その人たちが「どこにいくのか?またここを通って帰るのか?」と聞くので、わたしの荷物持ちの女が「今日は麓から引き返しますよ」と言うと「東から来る者は、一人も通さん!」というえらい剣幕で言うのです。その頃、石垣浦では思いがけない赤痢の流行で、荼毘(註:死者の火葬)の煙がしきりで、石灰を雪のように振りまいていた時(註:赤痢菌は石灰で除菌できる)だったので、村で話し合ってこのような新しい関を置いたのでした。公道なので人を通さないという村の規約は無効だ、と色々考えましたが、ただ怖い顔をして睨むだけで、まったく聞く耳を持たない様子でした。わたしは、数年前に大隅のある浦で、小舟にのって漂着した虎列剌の病人を収容したと言って、浦の人たちが隔離病院に放火して、数十人が刑に処された事件を知っていたため、枕崎の女が「峯の松原を抜けて帰りましょう」と言うのに任せて、ついに勧進帳を読み損ねました。(註:弁慶が関所を通してもらうために大見得を切った、というようなことをやり損ねた、という意味)この番小屋の漁師の妻は、おとなしそうにみえましたので、小さな番小屋でわたし達のような者を拒ぎ止めることはできても、シクシクと泣きながら空を飛んだり衢に立ったり、夜遅く人の家の窓戸を窺うような化け物が相手となると、神の力も持っていないので、どうすることもできないことでしょう。そうなるとつまりは勇猛なる諸天、または夜叉や羅刹神のようなものまでも、招き下ろして境を守らせたのではないか、と思わせました。例の石神と岐神は、むかしからこの国にいらっしゃる神で、辺境の地の防備を仕事として掌っていらっしゃるようだけれども、その上なお道祖と呼び、御霊と呼び、象頭神と呼び、聖神と呼び、大將軍または赤口赤舌の神と呼ぶなど、聞き伝えられる限りの神様として、里の守護を任されるようになったのでしょうか。数知れぬ祠と塚とは、今は信心も薄らいで、名義を疑うばかりになりましたが、一つとして境線の鎮守に縁がない神様などいらっしゃらないようです。頑迷固陋な言い方ですが、国と国との親交は、縦には薄く横には厚いという今日でさえ、こんなにも外国人の往来がはげしいという状況は、むかしから今までまだ一度もなかった事です。なので、今まで名前も知らない色々な悪い神が、それに伴って入って来ることが、きっと多いと思われますし、品は変わっても国のため、里のためにむかしの人と同じような不安を抱く者が、そのうちかならず出て来るものと思われます。効果があれば、十三塚でも築きますし、障神の祭りも改めて勤務いたしましょう。そして、新時代の御前神を祀って国土万年の祈祷をするその行法は、かならずしも在来のものを株守する必要はないものかどうか。それこそこの本が、世の中に残す小さな一つのモラルになると言えます。 さて、むかしの世の中の様子で、色とりどりに懐かしい中にも、特におさない頃の思い出がありますが、それは毎年夏のなかばに行われる蟲送りの行事です。カエルの声がうるさい水田の中の道を、松の火を美しく列ねて行ったことをご記憶にありますか?藁で騎馬の像を作り、「実盛は御上洛、稲の蟲はお供をせい」と言ったのを、わたしの故郷(註:兵庫)だけの風俗かと思っていたら、周防(註:山口)あたりでもこういう事をしていました。ただ一つちがうのは、騎馬ではない藁人形を作って添えて、それをサバライと呼び、「サバライ殿は陣立ち、実盛殿はお供よ」と唱えたそうです。なぜ実盛と言うのかはどうしても判りませんでした。そして北條実盛とも言うようでおかしなこと(註:実盛といえば斉藤実盛だから)です。サバライのサバは相模などで祀っている鯖大明神と同じでしょうか?生飯で訶梨帝母(註:鬼子母神)を供養することなど、古くからみられますが、これは神の名前ではありません。一説には、五月蝿払という意味であるとみられます。牽強(註:無理矢理なこじつけ)ですが、さばえなす悪しき神を送る事は明らかなので、意味は合っております。これらの神は本来は、俗にいう、こわもてなので、その怒りを買わないように通り一遍の祭りとも言える、むかしから質素なもてなしを、ふつうの事としてやって来たのでしょう。それなら社とホコラとは、たんに大小の差ではなく、その種類が違うものが祀られていると言えます。夫木集(註:夫木和歌抄鎌倉時代後期の私撰和歌集。撰者は遠江勝田)に発表されています。 草ふかき野中の森のつまやしろこや花すすき穂に出る神 (註:草深い野原の中の森にある小さな社、これこそ花ススキの穂のように出て来る神がいるのである) わたしはこの歌から研究の手がかりを得ました。かしこ。
四月九日 國 男 輝 夫 殿 御許に
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