まれびとの歴史
こゝに一例をとつて、われ/\の国の、村の生活・家の生活のつきとめられる限りの古い形の幾分の俤を描くと共に、日本文学発生の姿をとり出して見たいと思ふ。私は、まれびとと言ふ語及び、その風習の展開をのべて見る。
普通われ/\の古代・王朝など言うて居る時代のまれびとなる語が、今日の「お客」或は敬意を含んで、「賓客」など言ふ語に
実はまれびとは人に言ふ語ではなかつた。神に疎くなるに連れて、おとづれ来る神に用ゐたものが、転用せられて来たのであつた。けれども、単純に来客に阿るからの言ひ表しでなく、神と考へられたものが人になり替つて来た為に、神に言ふまれびとを、人の上にも移して称へたのが、更に古く、敬意の表現に傾いたのは、其が尚一層変化した時代の事であつた。
我々の古代の村の生活に、身分の高い者が、低い境涯の人をおとづれる必要は起らなかつたのである。旅をして一時の宿りを村屋に求めた例は、記・紀・風土記に、古代の事として記録した物語に見えても、平時はさうした必要はなかつた。又、村々の生活に於いて、他郷の人の来訪は、悪まれ恐れられて居た。おなじ村に於いて、賓客と言はれる種類の人は、来る訣はなかつたのである。賓客・珍客の用語例に正確に這入つて来た後期王朝にも、誇張が重なつて、高い身分の人の来訪は、こと/″\しい儀式を張らねばならぬあり様であつた。其は、階級が一つ違うても、真に「稀人」の感じを持つだけの歓迎をした事でも知れる。
ある種類のまれびと以外には、人の家を訪ふ事は、其家のあるじを拝する事になつたからである。天子、功臣の家に望まれる様な事は、奈良の世にもあるが、其は外戚として親等が高い場合か、おとづれる神即まれびとの資格を以て臨まれたかである。幾分、天子神秘観がへつたところへ、支那風の臣屋臨御の風を知つて、自由な気分が兆して居た為もあらう。其が権臣の第宅の宴会へのみゆきであつた場合は、明らかに神の資格でおとづれた古風なのである。だから、空漠たる天子或は、貴種の人の民間に流離し、又一宿を村家に求めたなど言ふ民譚は、神の物語の人間に飜訳せられたに過ぎないのである。
貴人が、臣の家に臨むを迎へる為と見える饗宴は、実は中間に饗宴を行ふ条件として、珍客を横座に据ゑる必要の心に持たれてゐた時代を経てゐるのである。さうして、初の姿に還つて、迎へる為の宴と考へられる様になつたのだが、本意は既に変じてゐた。おとづれる神としての考へは、すつかりなくなつた。真に賓客としての待遇法が具つて来た。武家の形づくつた中世には、貴人と豪家との間に、主従関係の睦しさから、殆対等な家の中の一つの家長が、覇者となつた。その以前の心持ちの引き続きから、気軽に御成りを願ふ事が出来る様になつた。其と共に、主君と一処に、家人のなり上つた家などは、深い睦しさから招かれも迎へもしたであらう。かう言ふ人間としての親しみが、客人待遇法を変へもし、原義を夙く忘れさせたのである。だが、尚「客人観念」の中に、俤も見えなくなつた饗宴に、少々は一等古い――神をまれびとと観じた――時代のなごりを留めてゐる。
今も使ふ婚礼の島台や、利用の広い「三方」「四方」の武家時代の饗宴類似のをり毎に、必、据ゑられたもので、食ひ物の真中に必松の心などを挿して居る。隅田の船遊びに、さうした島台を船の中に飾つた図のあるのも、饗宴の風習から酒席・遊楽の座には、欠かれぬものと考へられた為である。島台が洲浜と呼ばれて、今の様な形に固定しない後期王朝頃から、宴席の中心となつてゐた事は、疑ひもない。而も其上の飾り物は、神を迎へる
而も三方類は言ふまでもないが、島台を据ゑて神の在る時の飾りとする地方がまだある。三河設楽郡辺では、正月の歳徳神を迎へる為に、年棚の下に置く相である(早川孝太郎氏の話)。洲浜が島台になつて、原義の知れなくなつて久しい年月に、尚忘れないで古意に従つて居る処もあるのである。神迎への
一体
宮廷生活に親しんだ後期王朝の公卿の間で行はれた種々の説明のなりかねる風習がある。其中、大饗或は、饗宴と称へる宴会も、私には問題になる。公卿の饗宴を行ふ第一の条件は、正客を択んで其人に臨席を請ふ事である。此人をさして、後期王朝以後尊者と言ひ馴れて来た。尊者は、寿福徳を具へた官位の高い人の意だと説明して居る。此は疑ひなく誤りである。文明的な行事はすべて支那伝来と考へ易い学者の思ひ及ばなかつたことで、此風は決して、先進国の模倣でなかつた。まれびとなる語が、来客を珍重する気分を深く持つて来た時代に、おとづれ来る神なる人を表す為に、新しく出来た語である。尊者は、まれびとの直訳なのだ。殊に目につく尊者は、大臣大饗の場合である。新任の大臣の上席の大臣は、尊者として迎へられる。尊者として其家に臨む儀式は、順ぐりに先例となつて行はれるもの故、厳重に注目せられた様である。此方式の中、大切な部分は「門入り」の様子である。他の饗宴の場合にも、尊者の一行には必「門入り」の儀が、重くとり扱はれて居た事と思はれる。而も平安朝の人々の感情には、既にしつくりせない生活の古典であつたのである。この門入りこそは、延年舞に既にあつて、田楽舞の重要な部分になつた「
「おとづれる」「おとなふ」と言ふ語は、元は音を立てると言ふ義であつた。其が訪問するの意を経て、音信すると意義分化をして来た。音を立てるが訪問するとなつたのは、まれびとなる神が叩く戸の音にばかり聯想が偏倚した為で、まれびとのする「おとづれ」が常に繰り返されたのに由るのである。神の「ほと/\」と戸に「おとなふ」響きを聞いた村の生活からひき続いて、「まれびと」に随伴して用ゐられ、まれびとと言へば、「おとなふ」「おとづる」を聯想する所から、意義分化をしたのだ。節分の夜・大晦日の夜に、門の戸を叩く者のある事は、古今に例が多い。而も、地方によつては、「ほと/\」と言ふ戸を叩く声色を使ふ者が来る。何の為にさうするか、訣も知らずに唯田舎の生活に「志をり」を与へるだけの役にしか立つて居ないけれども、やはりまれびとが人間化したものなのだ。村の神の信仰を維持して行く若い衆連のする事である。村の若手の神に
二体である場合は、夫婦と見、多くは老人と考へて来た様である。しひねつ彦とおとうかしとが、爺婆に扮して簑笠を着て、敵の中を通つて天香具山の土を盗んで来た(神武紀)と言ふ伝へは、実はまれびとに扮した村々の事実を、大倭の象徴たる山の土を以てした呪咀に結びつけて、二人の姿が考へ出されたのである。(「ほ・うら」の章参照)。簑笠は、神に姿をやつす神聖な道具であつた。簑笠を着て屋内に居る事を、勅命で禁じた(天武紀)のは、屋うちで其を脱がぬまれびとと間違へるからとも、まれびとに対して弊風を認めて、其を制したものとも考へられるほかは、意味のない事である。老人夫婦のまれびとを考へてゐた事も思はれる。年神には、老夫婦を言ふものが多い。必しも高砂の尉と姥から出た空想ではない。島台に老夫婦の形を載せる事も、却て老夫婦のまれびとの考への固定したものであらう。謡曲「高砂」の翁を住吉明神とし、媼を高砂の松の精としたのは、遠くから来るまれびとを二つに割つて考へた合理的な説明である。一体に播州に住吉神来臨を説く事の多いのは、神の棲む海のかなたの国を、摂津の住吉に考へた為で、数多いとこよの国の一種である。播磨風土記には、他国から来た夫婦神の、土地を中心にした争ひを多く伝へてゐる。此は土地占めの神争ひの上に、まれびとの影を落して居るに違ひない。
備後風土記逸文の
まれびとが神でなくなつた後期王朝にも、賓客に
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