2024年2月29日木曜日

秦始皇帝はユダヤ人だった!/MUTube&特集紹介  2024年1月号|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム

秦始皇帝はユダヤ人だった!/MUTube&特集紹介  2024年1月号|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム

秦始皇帝はユダヤ人だった!/MUTube&特集紹介  2024年1月号

漫画「キングダム」では描かれない中国裏面史と渡来人「秦氏」の謎について、三上編集長がMUTubeで解説。

目次 [非表示]

  • 1 『キングダム』のモデル始皇帝にまつわる謎
  • 2 イスラエル由来の民族羌族に残された風習
  • 3 月刊ムーの特集記事を三上編集長が解説!

『キングダム』のモデル始皇帝にまつわる謎

 若き日の秦始皇帝しんのしこうてい嬴政えいせいまたは政)と、その周囲の人物像を描く漫画、実写映画の『キングダム』が人気だ。
 始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦(紀元前905〜全206年)の第31代君主である。彼は勢力を拡大し、周辺諸国を次々に攻め滅ぼし、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした。
 秦は「支那=China」の語源となった国でもある。中国の初代皇帝となった彼は強大な権力をふるい、万里の長城も造らせた。始皇帝はまた、死を恐れ不老不死の妙薬を求めたが、それはなんと毒性の強い水銀化合物だった。
それがかえって彼の寿命を縮め、49歳の若さで世を去ってしまう。
 この秦始皇帝について、「イスラエル人だった」という説が研究者の間にある。にわかには信じがたいだろう。しかし古代中国というのは、われわれの想像を超えて東西民族の入り混じる大地だった。
 この説の主な根拠は、以下のとおりである。
「始皇帝の実の父親と目される呂不韋りょふいは、ちょうの商人だったとされているが、じつは羌族きょうぞく(彼らの言葉ではチャン族)であり、その羌族は古代イスラエルの失われた10支族だったことが知られている」
 本稿では、その真偽を探ってみたいと思う。

イスラエル由来の民族羌族に残された風習

 今日の中国は、人口の94パーセントが漢民族で、他は55の少数民族=非漢民族から成っている。だがかつては、その少数民族によって築かれた強大な王朝も存在していた。そして秦もまた非漢民族の王朝だったのだ。
 同様の非漢民族として、羌族の人々がいる。羌族は現在、中国南西部の四川省に住んでいる。そこは紀元前316年以降、秦の版図に編入されていた場所だ。だから羌族と秦は、もとから関係が深かった。歴史学者の翦伯賛せんはくさんは「秦は、東遷した羌族と、中原ちゅうげん人の末裔である」としている。
 羌族は、古代においては広く平地にも住み、とくに中国北西部に広がっていた。そこは西域にも近いところだった。羌族は、始皇帝のあと「五胡十六国時代」(304〜439年)に「五胡」(五大異民族)のひとつ、「羌」の国を作っていたこともある。
 しかしその後、国を失い、他民族に迫害されたため、山岳地帯に逃げこんだ。羌族には今では周辺民族の影響でアニミズム(精霊崇拝)も見られるが、その一方で古代イスラエル人由来の多くの風習・文化も多く残されている。
 彼らは、エルサレムのアミシャーブ(古代イスラエルの失われた10支族の調査機関)によって、「失われた10支族の出身」と認められている。
 古代イスラエルの10支族とは、紀元前721年にアッシリア帝国に捕囚され、その後に離散した人々である。 彼らの多くはおもにシルクロードを経てアフガニスタン、パキスタン、また東方の中国や、中央アジア、インド、ミャンマーなどへ向かった。今もそれらの地域には彼らの子孫が住んでいる。
 ラビ・トケイヤー著『日本ユダヤ封印の古代史』によると、羌族のいい伝えでは、彼らの先祖は西方の彼方の国から3年3か月の長旅を経てこの地域にやってきたという。彼らは唯一神教を信じていた。
 18世紀以降は周辺民族との同化が起こり、雑婚、宗教的混合等も進んだが、それでもいくつかの伝統や宗教的慣習は残っている。伝承によれば彼らはアブラハムの子孫であり、また父祖(ヤコブ)には12人の息子がいた。
 羌族にはイスラエルの律法を守る風習があり、イスラエル人由来の明らかな多くの特徴を持っている。彼らは悩みの日には神を「ヤハウェ」と呼ぶ。
 昔、羌族の人々は羊皮紙の聖なる巻き物を持っていたが、迫害された時代に失ってしまったという。今は口伝があるだけで、毎週祈りの言葉を唱えるが、古代語であるために自分たちでも意味がわからない。
 羌族の間でキリスト教の宣教活動を行ったトーマス・トランスは、1937年に『中国に来た最初の宣教師たち──古代イスラエル人』という本を出版している。彼によれば、羌族の伝統や風習は明らかに、古代イスラエルの失われた10支族出身を示すものだという。 筆者のもとにはまた、羌族について研究した中国の研究者エステル・チェンの論文もある。それを読むと、羌族が古代イスラエルの失われた支族の子孫であることは疑いようがない。

(文=久保有政)

続きは本誌(電子版)で。

月刊ムーの特集記事を三上編集長が解説!

徐福とは?-人文研究見聞録

徐福とは?-人文研究見聞録

徐福の子孫


中国の仏書『義楚六帖』によると、徐福は富士山を蓬莱山と捉えて そこに永住し、「秦氏(はたうじ)」を名乗ったとされています。「秦氏」とは、日本の渡来系氏族として有名な一族ですが、その起源となる説は複数あります。

『日本書紀』では第15代応神天皇の時代に百済より百二十県の人を率いて帰化した「弓月君(ゆづきのきみ)」が秦氏の祖であると記されています。

なお、弓月君秦の始皇帝の後裔と称しているため、徐福とは異なる血統であるとされますが、徐福は「嬴姓徐氏」ともされ、始皇帝と同じ「」の姓を持つことから同族ではないかという説もあります。

ちなみに『史記』における徐福は、日本に渡って国に戻らず、そのまま王となったとありますが、中国の隋代の歴史書である『隋書』には「秦王国」と呼ばれる国が倭国(日本)に存在し、「そこに住む人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明である」ということが記されているそうです。

秦氏についてはこちらの記事を参照:【秦氏とは?】
https://cultural-experience.blogspot.com/2015/07/blog-post_25.html

徐福とは?

人文研究見聞録:徐福とは?

このページでは、日本に多くの伝説を残す「徐福(じょふく)」についてまとめています。

概要


徐福(じょふく)とは、古代中国の秦朝の時代(紀元前3世紀頃)に始皇帝に仕えた方士です。

中国の歴史書である『史記』の「淮南衝山列伝」によると、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と申し出て、後に始皇帝の命令により、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。

また、同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」では、徐福は始皇帝に不老不死の薬を献上すると持ちかけて援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ実際には出港しておらず、後に改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという内容となっており、「嘯いて始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれています。

ちなみに、秦の始皇帝は中国初の中華統一を成し遂げた王であり、万里の長城兵馬俑(秦始皇帝陵)の建設で知られています。最近では「キングダム」というマンガで知られており、それに登場する嬴政(エイセイ)がその人です。

人文研究見聞録:徐福とは?
嬴政(始皇帝)

なお、東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことであり、蓬莱山については日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されています。

徐福は中国大陸から朝鮮を経由して日本に辿りついたとされているようです。そのため、中国や朝鮮および、青森から鹿児島に至るまでの日本全国のその伝説を残し、一部の地域では地名にその名が残るほど有名です。


徐福の子孫


中国の仏書『義楚六帖』によると、徐福は富士山を蓬莱山と捉えて そこに永住し、「秦氏(はたうじ)」を名乗ったとされています。「秦氏」とは、日本の渡来系氏族として有名な一族ですが、その起源となる説は複数あります。

『日本書紀』では第15代応神天皇の時代に百済より百二十県の人を率いて帰化した「弓月君(ゆづきのきみ)」が秦氏の祖であると記されています。

なお、弓月君秦の始皇帝の後裔と称しているため、徐福とは異なる血統であるとされますが、徐福は「嬴姓徐氏」ともされ、始皇帝と同じ「」の姓を持つことから同族ではないかという説もあります。

ちなみに『史記』における徐福は、日本に渡って国に戻らず、そのまま王となったとありますが、中国の隋代の歴史書である『隋書』には「秦王国」と呼ばれる国が倭国(日本)に存在し、「そこに住む人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明である」ということが記されているそうです。

秦氏についてはこちらの記事を参照:【秦氏とは?】

徐福伝説


徐福の伝説は、青森県から鹿児島県に至るまで日本各地に残されています。

「新宮市立歴史民俗資料館」の資料によれば、日本の徐福伝説として以下のように説明されています。

日本の徐福伝承


徐福が日本に渡来したと説かれるようになるのは、平安時代になってからである。『義楚六帖』では蓬莱山を富士山と考え、徐福はここで永住し秦氏を名乗ったという。

『今昔物語集』『日本刀歌』『神皇正統記』にも仙薬を日本に求めたことが記されている。今でも日本各地に徐福伝承がある。渡来人の来朝や神仙の三神山信仰と我が国の山岳・海上信仰などが重なり、様々な地域伝承文化が育まれている。


また、熊野の徐福伝説は、以下のように説明されています。

熊野の徐福伝承


熊野に徐福伝承が成立するのは、平安時代後半から鎌倉時代である。熊野権現の縁起書の中に「蓬莱嶋」や「徐福廟」など記されている。

中世には無学祖元の詩や、五山僧・中津絶海と明の太祖との徐福祠をめぐるやりとりの詩も有名である。

近世になると徐福の墓や宮なども初見される。地誌や紀行などにも多彩な伝承が記され、求めた仙薬の考証まで行われている。


熊野では この様に説明されていますが、徐福伝説は語られる国や地域によって様々であり、伝説が必ずしも一致するわけではないようです。

なお、徐福ゆかりの地として、下記の場所が有名であるとされています。

国内で徐福伝説のある場所


・山梨県富士吉田市
・三重県熊野市波田須町
・和歌山県新宮市
・京都府北部の丹後半島
・東京都八丈島
・佐賀県佐賀市
・宮崎県延岡市
・鹿児島県いちき串木野市


徐福と宮下文書


山梨県の富士吉田市の宮下家には、神代文字で記された古文書群が伝えられており、現在は『富士文献』または『宮下文書』と呼ばれる古史古伝として知られています。

なお、『富士文献』には「記紀神話」に見られる内容とは異なる歴史や説話などが記載されているとされ、学会に属さない古代史研究家から重要視されている文献となっています。

その『富士文献』は、後世に伝えるために徐福によって漢字に書き直されたという言い伝えがあるんだそうです。

こちらの記事も参照:【古史古伝とは?】

徐福と田道間守


人文研究見聞録:徐福とは?

『日本書紀』の第11代垂仁天皇の条には、徐福伝説に類似する「田道間守(たじまもり)の伝説」が記されています。

田道間守の伝説


田道間守は垂仁天皇の命により、不老不死の霊薬である「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めに常世国に派遣された。しかし、垂仁天皇は田道間守が帰る前に崩御する。

翌年、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。


シチュエーションが徐福と非常に似ています。また、『丹後国風土記』によれば、「蓬莱」と書いて「とこよのくに」と読むとされ、それに沿うならば目的地も一致します。しかし、時代や行動が大きく異なりますね。

なお、田道間守自体、新羅(朝鮮半島)からやってきた渡来人のアメノヒボコの子孫とされており、渡来人という点で徐福と一致します。

こちらの記事も参照:【田道間守(タジマモリ)の伝説】

その他の異説


・徐福がイスラエルの失われた10支族の一つであるヨセフ(ジョセフ)ではないかという説が存在する
・飛鳥昭雄氏は、徐福伝説と神武東征を結び付けて、徐福を神武天皇と同一とする説を唱えている(動画はこちら
著者: matapon Twitter

「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。

徐福とは?-人文研究見聞録 嬴

徐福とは?-人文研究見聞録

徐福とは?

人文研究見聞録:徐福とは?

このページでは、日本に多くの伝説を残す「徐福(じょふく)」についてまとめています。

概要


徐福(じょふく)とは、古代中国の秦朝の時代(紀元前3世紀頃)に始皇帝に仕えた方士です。

中国の歴史書である『史記』の「淮南衝山列伝」によると、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と申し出て、後に始皇帝の命令により、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。

また、同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」では、徐福は始皇帝に不老不死の薬を献上すると持ちかけて援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ実際には出港しておらず、後に改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという内容となっており、「嘯いて始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれています。

ちなみに、秦の始皇帝は中国初の中華統一を成し遂げた王であり、万里の長城兵馬俑(秦始皇帝陵)の建設で知られています。最近では「キングダム」というマンガで知られており、それに登場する嬴政(エイセイ)がその人です。

人文研究見聞録:徐福とは?
嬴政(始皇帝)

なお、東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことであり、蓬莱山については日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されています。

徐福は中国大陸から朝鮮を経由して日本に辿りついたとされているようです。そのため、中国や朝鮮および、青森から鹿児島に至るまでの日本全国のその伝説を残し、一部の地域では地名にその名が残るほど有名です。


徐福の子孫


中国の仏書『義楚六帖』によると、徐福は富士山を蓬莱山と捉えて そこに永住し、「秦氏(はたうじ)」を名乗ったとされています。「秦氏」とは、日本の渡来系氏族として有名な一族ですが、その起源となる説は複数あります。

『日本書紀』では第15代応神天皇の時代に百済より百二十県の人を率いて帰化した「弓月君(ゆづきのきみ)」が秦氏の祖であると記されています。

なお、弓月君秦の始皇帝の後裔と称しているため、徐福とは異なる血統であるとされますが、徐福は「嬴姓徐氏」ともされ、始皇帝と同じ「」の姓を持つことから同族ではないかという説もあります。

ちなみに『史記』における徐福は、日本に渡って国に戻らず、そのまま王となったとありますが、中国の隋代の歴史書である『隋書』には「秦王国」と呼ばれる国が倭国(日本)に存在し、「そこに住む人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明である」ということが記されているそうです。

秦氏についてはこちらの記事を参照:【秦氏とは?】

徐福伝説


徐福の伝説は、青森県から鹿児島県に至るまで日本各地に残されています。

「新宮市立歴史民俗資料館」の資料によれば、日本の徐福伝説として以下のように説明されています。

日本の徐福伝承


徐福が日本に渡来したと説かれるようになるのは、平安時代になってからである。『義楚六帖』では蓬莱山を富士山と考え、徐福はここで永住し秦氏を名乗ったという。

『今昔物語集』『日本刀歌』『神皇正統記』にも仙薬を日本に求めたことが記されている。今でも日本各地に徐福伝承がある。渡来人の来朝や神仙の三神山信仰と我が国の山岳・海上信仰などが重なり、様々な地域伝承文化が育まれている。


また、熊野の徐福伝説は、以下のように説明されています。

熊野の徐福伝承


熊野に徐福伝承が成立するのは、平安時代後半から鎌倉時代である。熊野権現の縁起書の中に「蓬莱嶋」や「徐福廟」など記されている。

中世には無学祖元の詩や、五山僧・中津絶海と明の太祖との徐福祠をめぐるやりとりの詩も有名である。

近世になると徐福の墓や宮なども初見される。地誌や紀行などにも多彩な伝承が記され、求めた仙薬の考証まで行われている。


熊野では この様に説明されていますが、徐福伝説は語られる国や地域によって様々であり、伝説が必ずしも一致するわけではないようです。

なお、徐福ゆかりの地として、下記の場所が有名であるとされています。

国内で徐福伝説のある場所


・山梨県富士吉田市
・三重県熊野市波田須町
・和歌山県新宮市
・京都府北部の丹後半島
・東京都八丈島
・佐賀県佐賀市
・宮崎県延岡市
・鹿児島県いちき串木野市


徐福と宮下文書


山梨県の富士吉田市の宮下家には、神代文字で記された古文書群が伝えられており、現在は『富士文献』または『宮下文書』と呼ばれる古史古伝として知られています。

なお、『富士文献』には「記紀神話」に見られる内容とは異なる歴史や説話などが記載されているとされ、学会に属さない古代史研究家から重要視されている文献となっています。

その『富士文献』は、後世に伝えるために徐福によって漢字に書き直されたという言い伝えがあるんだそうです。

こちらの記事も参照:【古史古伝とは?】

徐福と田道間守


人文研究見聞録:徐福とは?

『日本書紀』の第11代垂仁天皇の条には、徐福伝説に類似する「田道間守(たじまもり)の伝説」が記されています。

田道間守の伝説


田道間守は垂仁天皇の命により、不老不死の霊薬である「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めに常世国に派遣された。しかし、垂仁天皇は田道間守が帰る前に崩御する。

翌年、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。


シチュエーションが徐福と非常に似ています。また、『丹後国風土記』によれば、「蓬莱」と書いて「とこよのくに」と読むとされ、それに沿うならば目的地も一致します。しかし、時代や行動が大きく異なりますね。

なお、田道間守自体、新羅(朝鮮半島)からやってきた渡来人のアメノヒボコの子孫とされており、渡来人という点で徐福と一致します。

こちらの記事も参照:【田道間守(タジマモリ)の伝説】

その他の異説


・徐福がイスラエルの失われた10支族の一つであるヨセフ(ジョセフ)ではないかという説が存在する
・飛鳥昭雄氏は、徐福伝説と神武東征を結び付けて、徐福を神武天皇と同一とする説を唱えている(動画はこちら
著者: matapon Twitter

「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その13) | 株式会社ハレックス

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その13) | 株式会社ハレックス

いずれにしても、第37代の斉明天皇が白村江の戦いに派兵した7世紀後半の西暦663年から、第43代の元明天皇により『好字二字令』が施行された8世紀初頭の西暦713年までの50年間。この僅か50年の間に一体この国で何が起こったのか…が分かれば、日本の古代史の大きな謎は一気に解明できるような気がします。日本中を揺るがすようなとてつもなく大きな出来事が起きたと思われます。で、その50年間のちょうど真ん中あたりの西暦684年には、南海トラフが動いたことに起因する超巨大地震『白鳳大地震』が発生し、西日本各地は極めて甚大な被害を受けています。この疑いようのない事実(真実)をどう捉えるか…です。 

それにしても、この西暦663年から西暦713年までの50年間にいろいろなことが起き過ぎているような感じがしませんか? それも藤原京遷都や平城京遷都、全国規模の地名の変更、現存する我が国最古の正史の編纂など、今の時代にも影響が色濃く残るような大掛かりなことばかりが…。 

特に『好字二字令』。私は地域防災を考えるにあたって地名に刻まれたその土地その土地の災害リスクを調べようとして、この『好字二字令』の存在を知りましたが、現代の多くの日本人はこの存在を知りません。もちろん学校の歴史の授業では触れられることはほとんどありません。歴史学者の先生方の中でもこの存在を忘れて日本の古代史を論じられているような方も中にはいらっしゃって、そういう方は大変に申し訳ありませんが、はなっから論外です。この『好字二字令』が四国の古代の歴史を隠蔽するために行われたという仮説が正しいとするならば、施行から1300年という長い時間が経ったにもかかわらず、その呪縛は今も残っているというわけで、その効果は絶大だったということになります。 

『日本書紀』もおそらくはそれ以前に編纂されてそれまで存在していたであろう正史を参考にして書かれているでしょうから、その基本的な内容に関しては私はなんら疑問を差し挟むつもりはないのですが、唯一疑問を呈するとすれば、それは「場所の比定」。『好字二字令』が発せられたのが和銅6年(713年)のことで、『日本書紀』の編纂が完了したのが養老4年(西暦720年)。なので、この2つは一連のセットのようなものとして捉える必要があるのではないか…という推論も成り立つように私は思います。まぁ〜、日本書紀が編纂された8世紀のことならともかく、神話の世界で描かれている日本の神代(かみよ)の時代における人々の行動範囲って、極々狭い範囲に限られるでしょうから、神話の壮大なロマンももっと現実感を持って捉える必要はありますからね。くわえて、数学者で日本史学者の沢田吾一氏が1927年に刊行された「奈良朝時代民政経済の数的研究」に書かれた記述によると、奈良時代における日本列島の総人口はおおよそ560万人くらいだとされています。それからすると、それ以前の神代の時代の日本列島の総人口はせいぜい数十万人〜100万人と推定されますから。その神話に壮大な舞台の広がりとロマンを与えたのが古事記と日本書紀。そのための道具が『好字二字令』。そして1300年という長い時間を経ても、その呪縛は巧妙に残っていて、だから謎があまりに多い……、このように捉えてもいいかと私は思います。 

加えて書くと、『日本書紀』によると、現在、出雲大社の名称で知られる島根県の杵築大社の修造を命じたのは斉明天皇で、斉明5年(659年)のこと。有名な伊勢神宮の式年遷宮も、天武天皇が定め、第1回が行われたのは持統天皇の時代の持統4年(690年)のこと。長野県の諏訪大社も持統5年(691年)に「信濃須波」の神を祀る…という表現で現存する文献上初登場してきます。16年をかけて造営した愛媛県の大三島にある大山祇神社が完成したのが元正天皇の時代の霊亀2年(西暦716年)のこと。 
https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180306-15184.html

邪馬台国は四国にあった…が確信に!(その13)

越智社長のおちゃめ日記:気象の話題、時事ネタからプライベートまで!日々の想いを越智イズム&熱いパッションで愉快に綴ります。
しかしながら、四国の古代の歴史が意図的に完全に隠蔽されたことに関しては、私は否定しません。むしろ、その通りではないか…と思っています。あまりに綺麗に消し去られているように思いますから。不自然に綺麗すぎると言うべきか…。日本最古の歴史書である『古事記』の中には「国産み」と言って、イザナミとイザナギが日本の島を次々と産んでいく話があり、最初に産んだのが淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)といって淡路島、そして次に産んだのが伊予之二名島(いよのふたなのしま)といって四国と書かれているのですが、それ以降、古事記や日本書紀においてその淡路島や四国に関する記述はほとんど出てきません。これはあまりに不自然なことです。

また、徳島県鳴門市にある「鳴門・板野古墳群」には「大代古墳(おおしろこふん)」と呼ばれる4世紀後半に作られた全長約54メートルの前方後円墳があったり(全国的にはほとんど知られていませんが、4世紀後半ということは、日本最古の前方後円墳と言われています)、そのほかにも四国の各地から多くの遺跡や古墳が出土している中で、これまで四国がほとんど注目を集まることはありませんでした。さすがにここまで注目されないと、なんらかの意図が働いて隠された…としないと、うまく説明がつきません。また、極端な言い方をすると、まるで四国の古代史に触れること自体が、歴史学者の先生方の間ではこれまでタブー視されてきたようにさえも感じられることがあり、四国に所縁のある一般人としては、正直ちょっと異様な感じもしています。

徳島に残る伝承によると、この四国の謎の隠蔽は俄かには信じがたいほど大掛かりなもので、その中には全国各地の地名の改称も含まれていたのだそうです。例えば標高3,776メートル、静岡県と、山梨県に跨る活火山である日本最高峰のご存知「富士山」。平成25年(2013年)には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名でユネスコの世界文化遺産に登録されたほどの山ですが、この山は古来より霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視されていました。噴火を沈静化するため大和朝廷により浅間神社(せんげんじんじゃ)が祭祀され、浅間信仰が確立された山でした。なので、この山は古代は「浅間山(あさまやま)」と呼ばれていました。(富士山本宮浅間神社の創建は、社伝によると第11代の垂仁天皇3年とされています。なので、その時代においては、現在の富士山は浅間山と呼ばれていたようです。)

いっぽうで、初日に行者の宮本さんとの話の中で出てきた徳島の阿波富士と呼ばれる「高越山(こうつさん)」。この高越山がもともと古代には「富士山」と呼ばれていました。で、四国の謎を隠すために、徳島の富士山と非常に形の似ていた浅間山を富士山と改名し、徳島の富士山を高越山と改名したという伝承も徳島県には残されています。このように、四国の謎を隠すためには、非常に大掛かりなことが行われたということのようです。

余談ですが、「浅間(あさま)」の語源については諸説あるのですが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされています。「あさま」は古称で、もう1つの称である「せんげん」は中世以降から用いられたとされています。浅間神社の主祭神として祀られているのは古事記や日本書紀に書かれた神話に登場する木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。越智氏族の守護神であり、愛媛県の大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に祀られている大山祇神(おおやまつみ)の娘神です。

全国の越智さん大集合!(その7)     ……(その7)から(その10)まで、大山祇神と大山祇神社のことについて書いています。

全国規模の大規模な地名の変更ということで言うと、(その4)でご紹介した『好字二字令』が頭に浮かびます。奈良時代の初めの和銅6年(713年)にその『好字二字令』を発した時の天皇が元明天皇。第43代天皇で女帝です。第38代の天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ:遠智娘の妹)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたります。大友皇子(第39代・弘文天皇)は異母兄にあたります。そして、第40代の天武天皇と第41代の持統天皇の間の御子である草壁皇子の正妃であり、第42代の文武天皇と第44代の元正天皇(女帝)の母です。このあたり、メチャクチャ複雑です。そして和銅3年(710年)、平城京遷都の詔を発したのも元明天皇です。

元明天皇が第38代の天智天皇の皇女で、第40代の天武天皇と第41代の持統天皇の間の御子である草壁皇子の正妃…というのが大いに気になるところで、もしかすると、『好字二字令』とは、天武天皇と持統天皇の時代に企図された四国の歴史を隠蔽するために全国規模で仕掛けられた非常に大掛かりで巧妙な施策の一つだったのかもしれません。発したのが (天武天皇と持統天皇から見ると嫁にあたる) 元明天皇。これにより各地の地名が一種のガラガラポンにより歴史的な連続性を失い、非常に分かりにくくなりましたから。特に漢字表記では。もし仮に唐を欺くためにしたことだとすると、これほど有効な手はありませんからね。もし疑われたとしても、「尊敬する貴国(唐)を見習ってこういう地名なんですよ」…って笑って釈明すればいいだけのことですから。

……と解釈すると、歴史上唐突に発せられた感じさえ受ける『好字二字令』の意味も、なんとなく理解できそうな感じがしてきませんか?

で、富士山から高越山への改名、浅間山から富士山への改名も、もしかすると『好字二字令』施行のゴタゴタの混乱の中で行われたことなのかもしれません。その目的は契約の聖櫃(アーク)を隠したとされる剣山山中の鍾乳洞の場所を特定するうえで、当時、富士山(その後の高越山)が重要な目印、もしくはキーワードになっていたからではないでしょうか。だから、富士山をどこかとんでもない別の場所に移す必要があったわけです。「契約の聖櫃(アーク)を隠した場所を探しているのだけど、富士山という山が重要なキーワードになっている。その富士山という山はいったいどこにあるのか?」…と訊かれた際、「富士山というとても綺麗な形をした山は(現在の)静岡県と山梨県の間にある。四国の徳島にも同じような形をした山はあるにはあるけど、それは高越山という名前の山であって富士山ではない」…って答えればいいわけですから。

その真偽は分かりませんが、少なくとも、時間軸的にはピッタリ合います。現存する我が国最古の正史『日本書紀』の編纂が完了したのが第44代の元正天皇の時代の養老4年(西暦720年)のことですから、それともほぼ一致しますし。この現存する我が国最古の正史『日本書紀』の編纂も第40代の天武天皇と第41代の持統天皇が推し進めたものなので、これも四国の古代の歴史を意図的に隠蔽するために行われた施策の一つだったのではないか…といううがった見方も出てきます。「現存する我が国最古の正史」というのがミソで、おそらくそれ以前に編纂されてそれまで存在していたであろう正史は全て消し去られた(焼却された)ってことなのかもしれません。これにより、四国の古代の歴史が完全に隠蔽されたのかもしれません。

『日本書紀』に施された意図的な隠蔽ということに関しては、「エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)」の中で、私は次のようなことを書きました。

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白鳳大地震に関しては、日本書紀では「現在の高知県の一部が地盤沈下で海に沈んだ」とか、「伊予の道後温泉の湯も湧出が止まった」とか現在の愛媛県や高知県の被害の状況に関しては書き残されているのですが、何故か阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述は残されておりません。中央構造線は吉野川沿いを東西に走っているわけで、中央構造線が動いたとするならば、徳島県一帯が無事だったことは到底考えられません。甚大な被害を遥かに通り越して、ほぼ壊滅に近い状態だったのではないでしょうか。阿波の国(現在の徳島県)の被害に関する記述がいっさい残されていない点が、かえって何かが意図的に隠されている感じさえしてきます。
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エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)

その一番最後に、図らずも「何かが意図的に隠されている感じがする」ということも書きましたが、これとも一致します。

もしその通りだとすると、日本の古代史の謎は、前述のように第40代の天武天皇と第41代の持統天皇が大きな鍵を握っていると思われます。特に謎が多いのが第41代の持統天皇です。"統(す)"めるを"持"つ、あるいは正"統"性を保"持"するというお名前からして、なにかを意味しているように思えます。ちなみにこの持統天皇、諱(いみな)は鸕野讚良(うののさらら)。死後に奉られた諡(おくりな)は2つあり、『続日本紀』に記述された大宝3年(703年)の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)」と、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』において代々の天皇とともに記された「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」。『古事記』において、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所としてその名が登場する高天原(たかまがはら、たかまのはら)ですが、『日本書紀』においてこの「高天原」という記述が出てくるのは、冒頭の神代紀第一段の第四の一とこの持統天皇の諡の2箇所のみです。前述のように、持統天皇は日本書紀の編纂に大いに関係のあった天皇。日本書紀は全30巻。神代から持統天皇の時代のことまでが記述されています。なので、「高天原」という記述は冒頭と巻末に出てくるだけです。これもまたいったい何を意味しているのでしょうね。

いずれにしても、第37代の斉明天皇が白村江の戦いに派兵した7世紀後半の西暦663年から、第43代の元明天皇により『好字二字令』が施行された8世紀初頭の西暦713年までの50年間。この僅か50年の間に一体この国で何が起こったのか…が分かれば、日本の古代史の大きな謎は一気に解明できるような気がします。日本中を揺るがすようなとてつもなく大きな出来事が起きたと思われます。で、その50年間のちょうど真ん中あたりの西暦684年には、南海トラフが動いたことに起因する超巨大地震『白鳳大地震』が発生し、西日本各地は極めて甚大な被害を受けています。この疑いようのない事実(真実)をどう捉えるか…です。

それにしても、この西暦663年から西暦713年までの50年間にいろいろなことが起き過ぎているような感じがしませんか? それも藤原京遷都や平城京遷都、全国規模の地名の変更、現存する我が国最古の正史の編纂など、今の時代にも影響が色濃く残るような大掛かりなことばかりが…。

特に『好字二字令』。私は地域防災を考えるにあたって地名に刻まれたその土地その土地の災害リスクを調べようとして、この『好字二字令』の存在を知りましたが、現代の多くの日本人はこの存在を知りません。もちろん学校の歴史の授業では触れられることはほとんどありません。歴史学者の先生方の中でもこの存在を忘れて日本の古代史を論じられているような方も中にはいらっしゃって、そういう方は大変に申し訳ありませんが、はなっから論外です。この『好字二字令』が四国の古代の歴史を隠蔽するために行われたという仮説が正しいとするならば、施行から1300年という長い時間が経ったにもかかわらず、その呪縛は今も残っているというわけで、その効果は絶大だったということになります。

『日本書紀』もおそらくはそれ以前に編纂されてそれまで存在していたであろう正史を参考にして書かれているでしょうから、その基本的な内容に関しては私はなんら疑問を差し挟むつもりはないのですが、唯一疑問を呈するとすれば、それは「場所の比定」。『好字二字令』が発せられたのが和銅6年(713年)のことで、『日本書紀』の編纂が完了したのが養老4年(西暦720年)。なので、この2つは一連のセットのようなものとして捉える必要があるのではないか…という推論も成り立つように私は思います。まぁ〜、日本書紀が編纂された8世紀のことならともかく、神話の世界で描かれている日本の神代(かみよ)の時代における人々の行動範囲って、極々狭い範囲に限られるでしょうから、神話の壮大なロマンももっと現実感を持って捉える必要はありますからね。くわえて、数学者で日本史学者の沢田吾一氏が1927年に刊行された「奈良朝時代民政経済の数的研究」に書かれた記述によると、奈良時代における日本列島の総人口はおおよそ560万人くらいだとされています。それからすると、それ以前の神代の時代の日本列島の総人口はせいぜい数十万人〜100万人と推定されますから。その神話に壮大な舞台の広がりとロマンを与えたのが古事記と日本書紀。そのための道具が『好字二字令』。そして1300年という長い時間を経ても、その呪縛は巧妙に残っていて、だから謎があまりに多い……、このように捉えてもいいかと私は思います。

加えて書くと、『日本書紀』によると、現在、出雲大社の名称で知られる島根県の杵築大社の修造を命じたのは斉明天皇で、斉明5年(659年)のこと。有名な伊勢神宮の式年遷宮も、天武天皇が定め、第1回が行われたのは持統天皇の時代の持統4年(690年)のこと。長野県の諏訪大社も持統5年(691年)に「信濃須波」の神を祀る…という表現で現存する文献上初登場してきます。16年をかけて造営した愛媛県の大三島にある大山祇神社が完成したのが元正天皇の時代の霊亀2年(西暦716年)のこと。

全国の越智さん大集合!(追記編)

さらに、全国的にはほとんど知られていませんが、四国の愛媛県松山市東部の東温市との境に位置する松山市来住(きし)町から南久米町にかけての来住台地には「久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)」と呼ばれる古代の官衙(かんが)関連遺跡と古代寺院跡があります(私の実家のすぐ近くです)。"官衙"とは古代の役所のことです。

「久米官衙遺跡群」とよばれるこの場所は、「来住廃寺跡」や古代の官衙やその関連遺構である「久米官衙遺跡」で構成されていて、東西約500メートル、南北約400メートルに渡って広がる広大な敷地を有しています。7世紀前半(西暦600年代前半)に遺跡群の北部に官衙(役所)が建設されたと推定されています。これは現在わかっている中では、平城京や藤原京よりも古い"日本最古"の本格的な役所の跡なのだそうです。7世紀(西暦600年代)中頃までに古代の官庁街として整えられていったようで、碁盤の目状に土地を区画して、道路も整備され、様々な役所の建物がどうもこの地割とよばれる土地の区画に従って整然と配置されていたのだそうです。

その中の一つが「回廊状遺構」と呼ばれる大規模な施設の遺構です。これは南側に八脚門をもち、内部の建物を2重の柱列によって取り囲んだ1辺が100メートルを超える四方形をした極めて大規模な施設だったと推定されています。またここには、当時の税である米を蓄えるためのものだったのではないかと推定される倉庫群が並んだ「正倉院」 が造られていたようです。 なぜ四国の愛媛県松山市に"日本最古"の本格的な役所の跡が遺されているのか?…、そこにはきっと明確な意味が隠されていると思われます。

エッ!邪馬台国は四国にあった?(その5)

まったくの余談ですが、「久米官衙遺跡」の「久米(くめ)」という地名もなかなか興味深いものがあります。久米氏という古代氏族がいるのですが、この久米氏は古事記や日本書紀において天孫降臨の場面に登場する天久米命(あまつくめのみこと)を祖神とする一族です。神武天皇の東征においても天久米命の子孫の久米部が武装して従軍したと記されています。

この久米部ですが、「クメール人」のことを指しているという説もあるのだそうです。クメール人は、現在もカンボジアを中心とするメコン川の中流域の山岳部で生活している農耕民族のことです。クメール人は武力に優れ、同時に優れた稲作技術を持った先進民族で、6世紀に真臘(チャンラ:後のクメール朝、アンコール朝)を建国し、アンコール・ワットに象徴される壮大なカンボジア文化を築き、12世紀には全盛期を迎えました。(その5)で世界最古の都市文明、メソポタミア文明を築いたシュメール人について書きましたが、そのシュメール人のうちカンボジアやベトナムといったインドシナ半島に進出した人達がクメール人ではないか…と言われています。

で、驚くことに、久米官衙遺跡群から出土した考古資料は幾つか松山市考古館に展示されているのですが、その中の1つ、久米官衙遺跡群から出土した瓦にはハス(蓮)の花の紋様が刻まれているのです。蓮の花と言えば、カンボジア人が昔から仏様への献花をはじめ重要なことに使っている花で、ベトナム社会主義共和国では国花とされています。まさにクメール人を象徴するような花。これはいったい何を意味しているのでしょうね。

松山市HP

久米官衙遺跡群パンフレット(PDF)

また、米(コメ)の語源は「クメール」だとも言われています。水田を用いた稲作技術は、もしかしたらクメール人が日本列島に持ち込んだものなのかもしれません。で、山の割合が8割を超える四国ですが、久米官衙遺跡のある松山市の周辺は比較的まとまった面積の平野が広がっていて、稲作には適したところですから、渡来してきたクメール人がこの地に住みついて本拠にしたのだとしてもおかしくはありません。また碁盤の目状に土地を区割りする都市開発や、1辺が100メートルを超える四方形をした「回廊状遺構」と呼ばれる極めて大規模な建物の建設も、当時としてはかなり高度な技術を持っていたとされるシュメール人(クメール人)がやって来たのだ…と仮定するならば、納得できる部分もあります。

いずれにせよ、このあたりはすべて7世紀の後半から8世紀の初頭、もう少し明確に言うと、西暦663年に第37代の斉明天皇が派兵を決めた「白村江の戦い」から、第43代の元明天皇の時代に『好字二字令』を施行した西暦713年までの間の約50年間の出来事のようです。この約50年間が日本の古代史における極めて大きなターニングポイントとなったようです。とにかく、これほどまでに大きな変化が凝縮された50年間は日本の歴史上、その前にも後にもないように、私は思います。そして、なぁ〜んか微妙な不自然さすら感じてしまいます。

で、第37代の斉明天皇といえば、「全国の越智さん大集合!(その5)」にも書きましたように、古代越智氏族、すなわち私の遠い祖先にも浅からぬご縁があったような方ですし、第41代の持統天皇の母親(天智天皇の妃)は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ:越智娘と書かれることもあります)。どうも古代越智氏族とも関係が深そうです。こりゃあ私としては興味を持たざるを得ません。いずれにせよ今から1,300年以上も前の話です。何が真実なのかは誰にも分かりません。

全国の越智さん大集合!(その5)

それにしても、邪馬台国(和国)の人達が徳島県から集団で移住した先が奈良県というのも意味深いものを感じます。(その1)で書きましたように、関西地方から西で最も平均標高が高い府県は奈良県。第2位が徳島県ですから。山の民である山人(やまと)はどうも標高の高いところを選んで住まわれるようです。で、新しく山の民が住むようになった「山人(やまと)の国」に付けた国名が、「和国」が新しくなった&大きくなったという意味も込めて「大和国」。それで「大和」と書いて「やまと」と読ませるようになったとも考えられます。でないと、音読みでも訓読みでも「大和」は「やまと」とは読めません。加えて書くと、四国に残された「和(わ)国」は「あ・わ」と呼ばれるようになり、『好字二字令』によって「阿波」という漢字が当てられることになったのではないか…とも推察されます。"わ"に"和"ではなく"波"という漢字が当てられたのは、もしかすると何かを隠すためだったのかもしれません。これはあくまでも私の勝手な推察です。

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この日の夕食には近くで獲れた天然物のアマゴ(徳島ではアメゴと呼ぶ)の塩焼きも出て大満足! あまりアルコールに強くはない私もビールと焼酎のお湯割りが進みました。

それにしても、今回参加の皆さんは博識揃いで、話が弾みます。大塚さんは超音波と高電位を活用した画期的な冷却技術を活用した日本の「美味しい!」を届ける仕組み作りを提唱している会社を経営なさっていて、村上さんは料理人。当然のこととしてお二人とも食に関する知識が豊富。いろいろと勉強させていただきました。

酔いを覚ますために外に出てみたのですが、見上げると、まさに満天の星空でした。周囲にまったく余計な灯りがないのと、雲もなく空気が澄みきっているので、空一面に星が見えます。夜空を横切る雲状の光の帯「天の川」がシッカリ分かります。星座の名前が分かると楽しいのでしょうが、あいにく私は天文の知識が薄いので、北斗七星やオリオン座、スバル座、白鳥座といった極々有名な星座くらいしか分かりません。それでも北極星を探してみようと北の方向の空を見上げました。

「W」の形をしたカシオペア座がすぐに見つかりました。この時期は北斗七星が北の空に見えないので、子供の頃に習ったカシオペア座を使った方法で探してみると、北極星(pole star)をすぐに見つけることができました。北極星は2等星の恒星ですが、ホント久し振りに見たように思います。街の灯りで2等星であっても見えにくくなったってこともありますが、大人になってから意識して北極星を探してみることがなかったからですね。でも、この満天の星空を見ると、探してみたくなります。昔の人達はこのような、いや、おそらくこれ以上の満天の星空を眺めて暮らしていたのでしょうね。

キンキンに冷えたという表現がピッタリの冬の季節の山の中の冷気が、一気に酔いを覚ましてくれました。



……(その14)に続きます。

YoshiHRさんによるXでのポスト 縄文文字

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国

2008年の「5・12」大地震で、被害を被る前の四川省理県の桃坪チャン族村(写真・劉世昭)

チャン人、秦人は中華の源の一つ

唐代の詩人王之渙(688~742年)は、「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須ゐん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。本文で言う羌(チャン)人は、まさに羌笛を吹く人の先祖である。もちろん、2008年、大地震に襲われた阿壩チベット族チャン族自治州のチャン人の先祖でもある。

チャン族は、歴史の極めて長い山地民族であり、紛れもなく華夏族すなわち中華民族の重要な源のひとつであろう。『説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と羊の組み合わせと説く。

チャン族は、長く移動する間に、2大系統に分かれた。1系統は東へ向かい、東部の先住民と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなった。『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。

『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。

『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。

イ族・ダイ族・ハニ族などもチャン族の末裔

来年の五穀豊穣と気候の安穏を祈る雲南省弥勒県紅万村のイ族のたいまつ祭り(写真・劉世昭)

チャン族のもう1系統は、西南へ移動した。今日の中国西南部のイ族(彜族)、ダイ族(傣族)、ぺー族(白族)、ハニ族(哈尼族)などは、歴史の記載と風習からみて、チャン族の末裔であろう。

イ族は「羅羅」と自称するが、『山海経・海外北経』に「羅羅」の記載がある。『漢書・地理志・張掖郡・番和』ではチャン人を「羅虜」と呼び、『大明一統志』では四川省のイ族を「羅蛮」、雲南省西部のイ族を「羅羅」と呼ぶ。『華陽国志』も『後出師表』も雲南省、四川省、貴州省のイ族を「青羌」と呼ぶ。『蛮書』ではイ族の先祖は「羌虜」であるとさらにはっきりと指摘している。典籍を調べれば、「羌戎」と「羅羅」は実際には同一であることが分かる。

風習から見れば、イ族の火葬やたいまつ祭り、儺の仮面や儺祭りで踊る大鑼笙舞やヒョウの舞、トラの舞、ぺー族の多神教の習俗、万物に霊魂があるという信仰など、すべて古代チャン人の習俗と一脈通じる。今日まで伝えられている『哈尼阿培聡坡坡』という古い歌曲は、祖先の引越しの歌である。遡って追跡すれば、茶馬古道は実は古代チャン人の西遷の神秘な道であると思っている。

とくに指摘しておきたいのは、最近大騒ぎになったイ族が発明したといわれる『十月太陽暦』は、実は古代チャン人の聡明な知恵の産物であり、秦の時代に実施された『十月太陽暦』の源はここにあると考えている。

倭人の源流とチャン人

雲南楚雄双柏県雨竜郷の羅婺人の「大鑼笙祭り」(写真・楊振生)

1979年、大阪教育大学の鳥越憲三郎教授が、日本人の源流は中国の雲南であると発表した。考察と研究によると、雲南のイ族とダイ族の赤ちゃんの蒙古斑は、日本人の赤ちゃんとまったく同じである。つまりこれが日本人の源流の証拠であり、雲南が日本人の源流であることを実証するものだという。彼は同時に信仰や風俗などの面から、イ族、ダイ族と日本を比較することによって、自分の見方が正しいとしている。その後、また別の日本の学者も「倭人(日本人)の源流は雲南」という見方を発表している。

わたしの個人的な考えでは、中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な文化を受け継ぎ、発展させた。日本民族の源流が雲南であるかどうかは、わたしは研究したことがないので、勝手な結論を下せない。ただ、チャン文化は東方の民族に無視できない貢献をしたのは確かだと思う。文化の共通性は、各民族がたえず文化を融合させることによって、歴史を動かし文明社会に向かって発展してきたのである。この点から見れば、中華文化だけではなく、日本文化にもチャン人の知恵が浸透していったと考えている。

徐福と吉野ヶ里とチャン文化

チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。

ここにはもうひとつ問題がある。徐福の方士(神仙)文化と古代チャン人文化とはかかわりがあるかどうかである。『倭人・倭文化・東渡文化と徐福』の文中で、かつてわたしは神仙文化は倭文化から来たと述べたことがある。今も、そう思う。したがって、神仙文化の源は間違いなくチャン文化であろう。

それでは、日本の吉野ヶ里と、チャン人あるいはチャン文化とは何らかのかかわりがあるのだろうか。つまり徐福は日本の九州の吉野ヶ里に果たして着いたであろうか。

吉野ヶ里文化とチャン文化は一脈相通じることは疑いない。問題はこの文化の伝来が間接的だったか、直接的だったかということである。

吉野ヶ里の発掘は2つの重要な意義がある。1つは、弥生時代の日本についてさらに全面的な解釈が施されたことである。というのは日本の他の弥生時代の遺跡は、弥生の600年間のある1つの時間帯を証明するだけで時代の全貌を展示することができないが、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の前期、中期と後期にわたって全てを含んでいる。2つ目は、日本という国家の形を初めて明示したことである。『魏志・倭人伝』と『漢書地理志』の記述が正確であることを裏付けた。

お酒でお客を迎える、雲南紅河ハニ族の風習(写真・魯忠民)

想像空間を与えてくれる徐福と吉野ヶ里

吉野ヶ里から青銅器工場ではないかと推測できる遺跡が見つかり、高度な染織技術を持つ絹織物が出土した。そして、規模の非常に大きな市場とかなり高い規格の祭祀場も見つかった。単にこれらの設備と実物から見れば、外来文化が直接日本に影響したことは疑う余地がないが、縄文時代人がすぐにこれらの先進技術を身につけるはずはなく、ましてや複雑な系統だった管理を行うことなどできるわけがない。こうした社会の突然の変革は、外来文化が直接ぶつかることによって初めて実現可能である。しかし、外来文化は中原からだけではなく、朝鮮半島から来るものもある。出土した絹製品からみれば、三眠蚕(3回の脱皮で糸を吐き始める)の製品は多く楽浪の影響を受けている。季節と気候の影響で朝鮮半島では三眠蚕であり、中国の江南地方では四眠蚕である。日本の九州の気候と中国の江南地方の気候とは極めて似ているので、もし直接中国文化の影響を受けたとすれば、なぜ良質の四眠蚕を放棄して、質の劣った三眠蚕を育てるのか。そして、住宅は半地下竪穴式もあるし高床式建築もあることも、朝鮮半島の古い風格の影響であろう。とりわけ考えてもらいたいのは、吉野ヶ里遺跡からは今まで文字記載があるものは1つも出土していない。もし、徐福らが吉野ヶ里に着いたとしたら、間違いなく秦が統一した文字を持って行っているはずである。

文献によると、中国文字はのちに朝鮮半島から日本へ伝わったという。徐福ではなく韓国の王仁が『論語』などの書籍を日本へ持って行ったのである。というわけで、今の段階では吉野ヶ里文化は徐福らが自らつくったとは断定できない。しかし、われわれに尽きることのない美しい想像空間を残してくれた。と同時に、さらに新しい次元の探索をすることによって、中日世代の友好を発展させるよういつも励ましてくれている。(国務院発展研究センター 張雲方)

人民中国インターネット版 2009年11月

秦の始皇帝、羌族、秦氏、ムー2024/01

 


《最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見た》

張雲方サイト「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国」より

久保有政「ムー」2024/01参照。

《つまり呂尚は「姜族」出身だったわけだが、じつは姜族と羌族は同族なのである。中国国務院発展研究センターの張雲方は、人民中国インターネット版の「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里」に、「古字の「羌』と『姜」は同 じ字だった」と記している。 》

久保有政「ムー」2024/01

張雲方サイト《羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国》参照


チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。


羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm


https://x.com/slowslow2772/status/1763269464030941292?s=61


https://www.blogger.com/blog/post/edit/756445346920566665/3668298580435833588?hl=ja







広大な大陸を初めて統一した、

古代中国の英雄 =秦始皇帝。 

彼の生涯において

エネルギー源となったもの。 

それは遠い昔に故郷を追われた 

古代イスラエル人の血だったのだ! 

●特別企画 文=久保有政 イラストレーション=坂之王道 ユダヤ人だった!! 秦始皇帝は 渡来人「秦氏」の謎 漫画「キングダム」では描かれない中国裏面史と 一秦始皇帝と羌族、  



 『キングダム』のモデル 始皇帝にまつわる謎 



  若き日の秦始皇帝 (嬴政または政)と、その周囲の人物像を描く漫画、実 写映画の『キングダム』が人気だ。 

 始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦(紀元前905~前206年)の第3 代君主である。 彼は勢力を拡大し、 周辺諸国を次々に攻め滅ぼし、紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした。 

 秦は「支那=China」 の語源となった国でもある。 中国の初代皇帝となっ た彼は強大な権力をふるい、万里の長城も造らせた。 始皇帝はまた、死を恐 不老不死の妙薬を求めたが、 それはなんと毒性の強い水銀化合物だった。 それがかえって彼の寿命を縮め、4歳の若さで世を去ってしまう。 

 この秦始皇帝について、 「イスラエル人だった」という説が研究者の間にある。 にわかには信じがたいだろう。しかし古代中国というのは、われわれの想像を超えて東西民族の入り混じる大地だった。 

 この説の主な根拠は、以下のとおり である。 りょふい

 「始皇帝の実の父親と目される呂不韋は、趙の商人だったとされているが、 じつは羌族(彼らの言葉ではチャン族)であり、その羌族は古代イスラエルの 失われた10支族だったことが知られている」 本稿では、その真偽を探ってみたいと思う。 



古代イスラエル人のアッシリア帝国への降伏を描いたレリーフ。 彼らは捕囚され、 その後に離散した。 

古代イスラエルの失われた10支族 調査機関であるアミシャーブの所長 ラビアビハイル。 

盤古一太元聖母 燧人氏 風姓 趙氏贏姓 秦王家系図 伝説時代 (古国時代) 東 申の乱 非子 国立 秦国王室 洛 黄帝 秦候 公白 昌意 白思 泰仲 古代中国の秦第31代皇帝、始皇帝。 

恵文王 参昭襄王 


周辺諸国を次々に攻め滅 武王 氏 ぼし 中国史上初めて天下統一を果たした人物だ。 公 世父 襄公 注 

彼らの多くはおもにシルクロードを経てアフガニスタン、パキスタン、また東方の中国や、中央アジア、インド、ミャンマーなどへ向かった。今もそれらの地域には彼らの 子孫が住んでいる


=非漢 呂不韋 大雪面目保 衣冠村 成 女脩 原姓 名 きょうぞく 竹市今 夏王朝 ―― W 公 公 太子竫公 衍會 徳公出公 玄仲 若木 大 白 宜公 成公穆公 武公 BC221 天下統一 衍父 中衍 / 始皇帝政 扶蘇 秦国帝室 子羊 殷王朝 子( 嬴谢 公 桓公 景公 胡友の兄とも 扶蘇の弟、 渡来人の弓月君は この後裔を称する 父 民族


イスラエル由来の民族 羌族に残された風習 

 今日の中国は、人口の94パーセント が漢民族で、他は558の少数民族から成っている。 だがかつては、その少数民族によって築かれた強大な 王朝も存在していた。 そして秦もまた非漢民族の王朝だったのだ。 

 同様の非漢民族として、羌族の人々がいる。 羌族は現在、中国南西部の四 川省に住んでいる。 そこは紀元前316年以降、秦の版図に編入されていた 場所だ。 だから羌族と秦は、もとから関係が深かった。 歴史学者の翦伯賛は 「秦は、東遷した羌族と、 中原の人の末裔である」としている。 せんは ちゅうげん 

 羌族は、古代においては広く平地にも住み、とくに中国北西部に広がって いた。そこは西域にも近いところだった。 羌族は、始皇帝のあと 「五胡十六 国時代」(304~439年)に「五胡」(五大異民族)のひとつ、「羌」の 国を作っていたこともある。 

 しかしその後、国を失い、他民族に迫害されたため、 山岳地帯に逃げこん だ。 羌族には今では周辺民族の影響でアニミズム(精霊崇拝)も見られる が、その一方で古代イスラエル人由来の多くの風習・文化も多く残されている。 



 彼らは、エルサレムのアミシャーブ (古代イスラエルの失われた10支族の調査機関)によって、 「失われた100支族の出身」と認められている。 

 古代イスラエルの10 支族とは、紀元前72 1年にアッシリ ア帝国に捕囚さ れ、そ の後に 離散した人々である。 

 ラビ・トケイヤー著 『日本ユダヤ封印の古代史』によると、羌族のいい伝 えでは、彼らの先祖は西方の彼方の国から3年3か月の長旅を経てこの地域 にやってきたという。彼らは唯一神教を信じていた。 

 18世紀以降は周辺民族との同化が起こり、雑婚、宗教的混合等も進んだが、 それでもいくつかの伝統や宗教的慣習は残っている。伝承によれば彼らはア ブラハムの子孫であり、また父祖(ヤコブ) には12人の息子がいた。 

 羌族にはイスラエルの律法を守る風習があり、イスラエル人由来の明らかな 多くの特徴を持っている。彼らは悩みの日には神を「ヤハウェ」と呼ぶ。

 昔、羌族の人々は羊皮紙の聖なる巻き物を持っていたが、迫害された時代 に失ってしまったという。 今は口伝があるだけで、毎週祈りの言葉を唱える が、古代語であるために自分たちでも意味がわからない。


 蜚廉 趙の商人とされているが、じつ始皇帝の実の父親と目される呂不 は羌族の人であり、古代イスラエルの失われた10支族の末裔だった。 股周交代 惡來 牧野の戦い 西周時代 勇翠 太ル 大路 女防 季勝 王家 恵公 出子 簡公 太子夷公 恵公 悼公 共公 太子昭子 霊公 献 公 公 孝介 2 東周時代 始皇帝に至る、 正式な 中国王統の系図 (「秦朝 帝室系図」より)。 



门 () 高盟 (看) 《史记・秦始皇本紀》 34 三十二年, 始皇之偈石, 使燕人生求美 门、高盟。 刻石门。 0 出文 07200 ra'ah [ra:1 07200 ‎שמ0808508085 shama (sha-ma'] 字型: TWOT-2095;字型: TWOT-2412.2412a 代イ の宣教師たち- 古代イスラエル人』


  羌族の間でキリスト教 の宣教活動を行ったトーマス・トランスは、1937年に『中国に来た最初 という本を出版している。 彼によれば、羌族の伝統や風習は明らかに、古スラエルの失われた10支族出身を示すものだという。 


 筆者のもとにはまた、羌族について研究した中国の研究者エステル・チェ ンの論文もある。 それを読むと、羌族が古代イスラエルの失われた支族の子 孫であることは疑いようがない。

 始皇帝の本当の父親は羌族の呂不韋だった? 

 ただ、羌族自体は、中国において非常に古くから存在したといわれる民族 である。だからその古い時代の羌族が、やがて押し寄せたイスラエルの支族と の合体、混血、同化を経て、次第に「イスラエル的な羌族」になっていったと 考えたほうがいいだろう。 ちょううんぼう 

 中国の研究者ウ・ダミンによると、とくに中国北西部の羌族は、すでに秦 の時代にはイスラエルの失われた民で占められていたという。 

 では、この羌族と秦始皇帝はどのように関係するのだろうか。 そこには呂 不韋という人物の存在がある。 

 呂不韋は、類いまれなる頭脳を武器に、表向きは「趙の商人」として巨万の 富を作り、やがて秦の王族に取り入って、始皇帝の元で宰相にまでなった傑 物である。 この呂不韋は羌族だった。

 同じ「呂」の氏を持つ人として、 そ の昔、周の軍師呂尚(太公望)がいたが、彼の姓は「姜」、氏は「呂」と いった。中国において姓は民族を、 氏は氏族を表す。 りょしょう 

 つまり呂尚は「姜族」出身だったわけだが、じつは姜族と羌族は同族なの である。中国国務院発展研究センターの張雲方は、人民中国インターネッ ト版の「羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里」に、「古字の「羌』と『姜」は同 じ字だった」と記している。 また司馬 遷『史 記』にも「呂尚 は 本来の姓は『羌』であり….....」 とある。 


 この羌族=姜族は、居住した地域の 「ひとつに「呂」という地名をつけた。 「呂」はその地名由来の氏族名である。 また「呂」は古代楽器「篤」 (長い笛)の古名でもあり、これは 「羌笛」(羌 族の笛)から来ている。 このように呂氏は羌族である。 

 呂不韋も羌族で、彼は始皇帝のもとで宰相をつとめた。 始皇帝は一般には、 秦の第 30代の 始生作 以旦故 皇於趙政 趙氏 い事実である。 故生 ★自分の姿で あることを隠 し、呂不韋が 襄王に差し だした趙姫。 始皇帝の母で ある。 呂 紀」には、「始 皇帝は襄王 の子」と書か それは表向き れているが、 のことだった。 そうじょうおう 襄王と、 趙姫の間 に生まれ た子とさ れる。だがそれは表向き、 系図上のことで、趙姫は呂不韋の妾だった。 

 呂不韋は、趙姫が自分の妾であることを隠し、荘襄王に趙姫を差しだした。 司馬遷が編纂した 『史記』 「呂不韋列伝」によると、差しだされたとき、趙 姫は妊娠していたという。 つまり始皇帝は荘襄王と趙姫の子ではなく、呂不 韋と趙姫の子だというのだ。 はんこ 

 後漢時代の班固も、 『漢書』にて、始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。 呂不韋は野望に満ちた人だったから、自分の血筋の子をひそかに皇帝にした いと思って、そうしたのかもしれない。 羨門を捜させた」と だが、バレればもちろん死罪だ。 


書かれているが、こ 69 1440 E しば 集めたのは、羌族出身である始皇帝が、同族の信頼できる人々を求めたからではないのか?

 「始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある地区から人を選ぶのは、 理の当然である」

と張雲方はいう。さらに、徐福はまた「神仙文化」に通じた人だったが、 その文化の源も山岳地帯の「羌族の文化だ」とも。 

 つまり秦始皇帝と羌族は、切っても切れない仲にあった。そしてもし徐福 が日本に来ていて、徐福の一団に羌族が多かったのであれば、日本にも、徐 


史記六 秦荘襄王子 東口院 この 「始皇帝は呂不韋の 「子である」という 『史記』や『漢書』の記述を、否定する見方もある。 『史記』「秦始皇本紀」には「始皇 口 帝は荘襄王の子」と記されているからだ。 の「羨門」がイスラエルの人名「シモン」の中国表記と思われるのだ。 だと すればこれは、当時の中国におけるイスラエル人の存在を示すものとなる。 


春秋』を翻訳したジョン・ ノブロック、ジェフリー・ リーゲルなどは、呂不韋=実父説は「始皇帝に対する 始皇帝の容貌は、西方諸国やイスラ 中傷であり」「作り話だ」としている。 『十批判書』を著した郭沫若)かくまつじゃく]も、他の書物との矛盾点をあげて否定している。 




イスラエルにつながる「秦始皇本紀』の記述 

 だが 『史記』 「秦始皇本紀」では、「始皇帝は荘襄王の子」と書かれてい る一方、始皇帝のことを「呂政」 と呼んでいる部分もある。 これは、始皇帝 が呂不韋の子という意味ではないのか。 

 さらに研究家ウ・ダミンによると、「秦始皇本紀」には「古代ヘブル (ヘ ブライ語の音を漢字で記録している部分がある」という。 そこには「始皇帝は3000人は羌族と戎族から集められた。 羌族から きょうてき 手於 羌族の人々。 彼らが古代イ スラエルの子 孫であること は、疑いのな 秦始皇本紀第六 名 おいて、古代 ヘブル語の音 を漢字で記録 ↑ 「史記」 「秦 始皇本記」 に している部分。 正格 「秦始皇本 

 また「秦始皇本紀」には、始皇帝がそれまでの秦の王とは異なる容貌の持 ち主だった、と思わせる記述がある。 兵法家の尉繚がこう記している。 

「秦王の人となりは、鼻が高くて、 蜂 のような恰好、切れ長の目、猛禽のよ うに突きでた胸、豹のような声だ」 

 始皇帝の容貌は、西方諸国やイスラエル人に近いものだったわけで、 日本国史学会の田中英道教授も、 「秦始皇帝がユダヤ人だったという説を支持する」と述べている。 

 一方、始皇帝といえば「徐福」が有名である。 始皇帝は不老不死の仙薬を 捜させるために、「徐福」とその一団を東方に遣わした。 これについてこん な資料があると、張雲方は書いている。 「徐福の東渡時に連れていった3000の童男童女は、羌戎から集めた」 

にゅう 

2008 皇帝になったユダヤ人 

し   


せきろく 

福とともに多くのイスラエル人が来ていたことになる。 もちろん、始皇帝自 身がイスラエル人の血筋をひいていた可能性は高い。 

 ところで、呂不韋の読みが「レヴィ」に近いことから、彼がイスラエルのレ ビ族出身だったという説も一部にある。 しかし、中国語では 「Lu Buwei」 と発音されるので、これはちょっと無理だろうと思う。


小韋姫 取之 うつりょう 生始皇以泰昭王四十八年正月生於郎 そうしたことから「呂氏 政姓趙氏勝廣 音 年十三歳 政代立



始皇帝の命により、不老不死の仙薬を求止めて大海に出た徐福。 へいばよう 秦始皇 帝 「織田信長を結ぶ糸 

↓預言者モルデカイ (右)とエステル (左)。 ペルシアには紀元前 6世紀以降、多くの ユダヤ人がいたと 『聖書』には書かれ ている。 


 世界のどこに行っても ユダヤ人の集団がいた 

 ともかく、秦始皇帝の周囲には、 中東人も西洋人も多く来ていたのだ。 た とえば有名な始皇帝の兵馬桶も、指導したのはギリシア人であったことがわかっている。 


したのはギリシア人であったことがわかっている。また、始皇帝が不老不死 を求めたのは、ギリシア神話の「黄金のりんご」(不死の源)に憧れたから かもしれない。あるいはイスラエル人の「生命の樹の実」(永遠の命の源) の話なのだろう。 

 兵馬俑の近くからは、ペルシア人やソグド人の人骨も見つかっている。 始 皇帝の支配体制は、 アケメネス朝ペルシアとまったく同じである。 そのペル シアには紀元前6世紀以降、モルデカイやエステル、 その他多くのユダヤ人 がいたと 『聖書』にある。 と石勒皇帝、 


けつ Y → 「石」 という名はユダヤ人にはよくある。アインシシュタインもままた、そんな名のひとつであった。 ↑奴隷の身分から後趙の皇帝にまで上りつめた石勒皇帝。 彼もまたユダヤ離散民の子孫だ 石功皇帝 胡人之 かいふう その後、彼らの多くはシルクロードの商人になった。紀元前の時代から、 シルクロードの商人の大半はユダヤ人だった。実際、中国 開封では、紀元 前3世紀のヘブル語の碑が発見されている。つまり始皇帝の時代のものだ。 紀元前2世紀のギリシアの地理学者シビルは、世界中どこへ行ってもユダ ヤ人の集団に出会ったと述べている。 商人だった呂不韋も、彼らユダヤ人と通じていたはずである。 呂不韋と始皇 帝が、イスラエル系の人々とつながっていた可能性は高い。 

 しかも、中国には秦始皇帝以外にも、ユダヤ人が皇帝になった歴史がある。 始皇帝から約550年後のことだ。 五胡十六国時代に羌族と同じ五胡(五大異民族)のひとつ、羯族が、後趙[こうちょう](319~351年)を建てた。 その建国者=石靴は、明らかにユダヤ人だった。 そして石勒と彼の周辺を見てみると、秦始皇帝について驚くべきことが わかってくる。 次章ではにそれをじっくり見ていこう。



石勤皇帝とその子孫 

 石勒(274~333年)は、当初奴隷の身分だったが、 ついには後趙の 皇帝にまで上りつめた人である。石勒皇帝は、西暦70年のエルサレム滅亡後 に中国にやってきたユダヤ離散民の子孫であった。 「石」という氏はユダヤ人にはよくある。たとえばアインシュタインも、 ア イン (一) + シュタイン(石)である。 

 じつは筆者のもとには『石勒皇帝と羯胡人の謎』 という中国語の本がある。 石勒皇帝の直系子孫である石旭昊(シ・シハオ) 氏の著書で、 彼がサイン 入りで下さったものだ。その本によると、石氏はある日、祖父から呼ばれてこう告げられた。

 「これから大切なことを話す。わが家系は石勒皇帝の 子孫で、ユダヤ人なのだ」 

 実際にさまざ まな 調 査をしていくなかでわかったのは、先祖の石皇帝は本当にユダヤ人だという事実 だった。だから彼の家系には、今もユダヤ人的な風習が色濃く残っている。 

 石勒皇帝の先祖のユダヤ人は、エルサレムから中国への旅の途上で、あと から来るユダヤ人が同胞の通った道とわかるような地名や遺物を残しながら、 中国に到達したという。 

 石勒皇帝は、中国人から「羯」と呼ばれた民族の出身である。 掲も羌も、 漢字に「羊」が含まれていることからもわかるように、遊牧 民族だった。 羯族は、 「目が窪み、鼻が高く、髭の濃い顔立ちだった」という古代記録がある。 こ のユダヤ人的な容貌は、先に述べた秦始皇帝の姿にもよく似ている。


 始皇帝の側近には ユダヤ人のラビがいた 

 さて、石氏は非常に重要な情報を下 さった 。 

   「石勒の先祖シモン族(シモン族は中国で石氏を名乗った)の伝承によると、秦始皇帝はユダヤ人のラビ・ユダ(傑徳所繇) の影響を受けた人で、1人の父祖を敬い、神を信 じ、五徳を奉じていた」つまり始皇帝の側近にはユダヤ人、しかもラビがいたというのだ! ユダはラビの本名だったが、発音が中国でなじまなかったため、 始皇帝は 天下統一後に、ユダの名をユリャオ(尉繚)に変えさせた。 

 また、始皇帝は40数人の父祖を敬ったとされるが、秦王朝以外の人が1人 いて、石氏によればそれはヤコブ (イスラエル)の12人の息子だったという。 



 始皇帝が信じた「神」は、中国伝来の至高神「上帝」である。 しかし 「上 帝」は唯一神、創造神、 全能の慈しみ深い神であり、 東北石氏の事 石勒皇帝がユダヤ人だったことを検証した書籍、 帝と掲胡人の謎」。 「石勒皇 E 『聖書』と同じ神、同じ信仰的起源を持つ神だ。一方の「五徳」は、中国の 「五徳終始思想」の五徳であろう。 秦始皇帝はまた、漢字体系を定めた人でもある。漢字には『聖書』の思想 がたくさん入っていることが知られている。たとえば「船」は、「8つの口」 (人口が8人)の「舟」と書き、これは8人が乗ったノアの箱舟を指している。 一方「田」は、中央から4つの線が出ているが、これは中央の泉から4つ の川が形成されていたエデンの園を指す。 こうした例は無数にあり、漢字と『聖書』の関係だけで一冊の本になっているくらいだ。 


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へいばよう 

 先に、始皇帝の兵馬俑について述べたが、兵馬俑の奥には始皇帝自身の墓 がある。 ところが兵馬俑は発掘されたのに、始皇帝の墓は発掘されていない。 今も手つかずのままである。 「墓を発掘して始皇帝のDNAを調べたらいいのに」と思うが、 理由あって で きないという。 

 というのは考古学者の頭には、13世紀のトロイの発掘の大失敗があるから だ。 ずさんな発掘を性急に進めたために、貴重な痕跡をほとんど破壊してし まう結果になってしまった。以来彼らは慎重になっている。 

 もうひとつの理由は、「始皇帝の墓には、侵入者が皆あの世へ行くよう設 計された、数多くの恐ろしい罠がある」という司馬遷の記述である。 「侵入者を射貫く石弓や弓矢」があり、 「川のように大量の水銀が機械的に流れるようになっている」というのだ。 

 2000年前の仕掛けがうまく作動しなくても、有毒な水銀の洪水が襲い かかるようなことがあれば、すべてがパーになってしまう。 実際に墓周辺の 水銀濃度を調べると、 非常に数値が高いことがわかっている。 だから考古学者は、墓を壊さず、 まただれも死なずに発掘を成功させる技 術の発展を待っている状態だ。 


 古代中国には『旧約聖書』と同じような燭祭の儀式もあった。 これらのこ とを思えば、始皇帝自身にイスラエル人の血が流れていたとしても、決して 不思議ではない。

戦国の英雄・信長も イスラエル系だった? 

 ところで筆者は、石勒や秦始皇帝の人生を思うとき、日本の戦国時代の武 将・織田信長の激烈な生涯と、 どこか重なるところがあるように感じる。 

 以前、本誌にも書いたが (2017年8月号)、織田信長の先祖は、古代神道を受け継ぐ忌部氏の神社の神官で、忌部氏にはイスラエル系出身の多くの証拠が残されている。 忌部氏が徳島県につくった磐境神明神社は、イスラエルの 「高き所」と呼 ばれる礼拝所にそっくりである。 その本宮 白人神社は昔から伝統的に万人の宮人によって守られてきたが、古代イスラエル人が中国の開封に作っシナゴーグも、万人の宮人によって守られてきた。 15は、古代イスラエルの失われた10支族が特に大切にしてきた数字なのだ。 

 織田信長は鼻が高く、背も高かった。信長は、古代日本に渡来したイスラエル人の子孫だったと思われる。彼の豪壮な性格、天下統一へのすさまじい意欲は、秦始皇帝にも似ている。 

 石勒にしても秦始皇帝にしても、あるいは織田信長にしても、イスラエル人は他国において壮烈な生涯を送った人が多いようだ。 

 ともかく古代中国は非常に国際的なところだったのである。 



みょうど 剣山の麓にある磐境神明神社。 古代イスラエルの高き所=礼拝所 (下)。 一見しただけでおわかりのように、ふたつはとてもよく似ている。 岩田 ↑ 「始皇帝詔版銘」。 秦によって統一された文字だ。 ◆織田信長。彼のもとにいた西洋人が実際の姿を見て 描いたものとされ、鼻が高いのがわかる (三宝寺蔵)。 



始皇帝の墓はなぜ発掘されないのか? 


また 

現代科学に基づいて始皇帝のDNAを検証 

 ここで始皇帝のDNAAに関して、わかっていることを述べておこう。  

 石勒皇帝の子孫、 石旭昊氏にメールで尋ねたところ、秦の初代君主のY染色体ハプログループ (系統)はOであるという (23Mofang)。 このOは典型的なアジア系DNAであって、イスラエル人系ではない。  

 始皇帝がこの遺伝子を継いでいたなら、彼もOだったことになる。 「有名人のハプログループ」というサイトにも、「秦始皇帝のY染色体は、ハプロ・グループ (02a1b1a2a1ala)であると推定される (これは嵐姓趙氏のY染色体の解析結果に基づく)」とある。  

 だが 「始皇帝の実父が呂不韋であった」とすると、彼のDNAはO以外となる可能性がある。 

 西安の西北大学で、 「発掘された始皇帝の息子の頭蓋骨からAI技術で顔を再現する試み」がなされたときにわかったのは、始皇帝の息子は漢族よりも極端に鼻が高いということだった。 目も青かったかもしれないという。 


 



 だとすればこれはまさに、西域の人々の顔だ。始皇帝の妃の顔も調べら れたが、同様に鼻が高かった。しかし鼻の高さ云々以上に、始皇帝の息子た ちのDNA情報を出してほしいところだ。それがわかれば、 この問題にも決 着がつくかもしれないからだ。ところが、なかなか出てこない。 保存状態が 悪くてDNA検査ができないのか、それとも隠されているのか。 

 ともあれ、 ユダヤ人DNAについて、ここで改めて見ておこう。 現代ユダヤ 人Y染色体DNAには、3つの主要ハプログループ (系統)がある。J、E、 Rである。 これはスファラディとアシュケナージに共通だ。

  また全世界のユダヤ人グループには、必ずEが見られる。 サマリアに住むレ ビ族系祭司もEである。 シルクロード各地の古代イスラエル人の子孫も、 E ないしはD (Eと近縁同祖)を持っていることが多い。 EとDは、同じ先祖由来の「YAP系遺伝子」である。 両者は中近東にお いてハプログループDEから分かれた。 日本人の約40パーセント近くもこのDに属している。 

 今日では、古代イスラエル人の元のハプログループはJだったのではない か、という議論がある。確かにヤコブ一家のエジプト寄留の際、ハプログル ープはひとつだったのだろう。だが出エジプト以降、彼らは複数のハプログ ループを持つようになった。 このとき「多くの外国人」 が加わり、イスラエ ル人の集団に加わったからである。 

 モーセは彼らを「在留異国人」と呼び、 「自分と同じように彼らを愛する よう」 イスラエル人に教えた。 神の律法に従うなら彼らは帰化し、イスラエ ル人として生きることができた。 始皇帝の息子の骨から再現された顔。 明らかに西城出身的な特徴をしている。 秦始皇帝から弓月君を経て、 秦氏へと至る系図。 秦伊統・惟宗・朝原 これむね 韓国寺創建 を持つようになったと考えられる (R 6はヨーロッパ系で、紀元後の離散時代 にユダヤ人に入ったものだろう)。 

 今日の世界中のユダヤ人や、古代イスラエルの失われた10支族の子孫がE ないしDを持っているのは、 DEから来たものである。 

 さて、呂不韋の出身民族とされる羌族も、約20パーセントがDだ。 これは 羌族が、遺伝子の面からもイスラエル人の子孫であることを物語っている。 

 始皇帝の息子のDNAがわかれば、それがDである可能性もあるが、仮に 0だったとしても、 始皇帝はイスラエル人でないと確定されるわけではない。 

 というのは、たとえば石氏によれば、ロシアやフィンランド、オーストリア のユダヤ人には、 Oの人もいる。これは家系のどこかで 「母親のみがユダヤ 「人」だった場合、 また 「改宗でユダヤ人になった」場合などがあるからだ。 遺伝子は、思いのほか複雑なのである。 


神寺月、酒 岐命(再 津蔵 正四年四月一〇六八年) 中 (元)とあり、大酒神ともいう。 「恋する天八年(五 **** *** ***soras 300+ (* な が生まれた。 M MANDARD ➤*****+> 41+ (in MED して祀られていた 十四年( ていって。 ておく、と言う をし にありが す。 のみでなく大半の TAPA 4* Danes となれり。 によって辛に含む。 0422 てあったのである。 されられる。 われる 京都であり、以前 ROUNDONE A0 3 *******044 104) ***** Aage (1) HONT NAN ました。 みならず全 酒神社の由緒書。秦氏の祖先が秦始皇帝であることが述べられている。 したのである。 昭和五十九年五 

渡来人・秦氏は本当に始皇帝の なのか? 

 最後に、古代日本への渡来人として有名な秦氏について見てみよう。 

 『日本書紀』や『新撰姓氏録』によると、秦氏は弓月(現・新疆ウイグル自 治区の中央アジア寄り、 イリ川のほとり) の地から中国大陸を東へ進み、朝 鮮半島を経て、応神天皇の時代に大挙渡来してきた人々だった。 

 彼らはもともとイスラエル人で、弓月で古代東方キリスト教に改宗したと 考えられている。 つまりイスラエル系の古代東方キリスト教徒である。 

 秦氏一族は日本に来たとき、「秦始皇帝の「子孫」を自称していた。 これは 格付けをあげるためにそう語ったのだともいわれている。だが、 「秦始皇帝は自分たちと 同じくイスラエル系の人だ」と知っていたからこそ、そう語ったという可能性もある。  

 ヘブル語で「一団」を意味する「ハタ」に「秦」の字を当てはめたのは、 「秦のイスラエル人の一団」を意味するためだったのかもしれない。  

 始皇帝がイスラエル人であったか否か」は別にしても、さらに興味深いこ とがある。 羌族と秦氏は、元は同族だったと考えられるのだ。 羌族は、中国人に迫害されたために今は山岳地帯に住んでいるが、 もとは 中国北西部を中心に広がっていた。 迫害されたとき、部族はバラバラになり、 ある者は中国南西部の山岳地帯に逃げ、ある者は東へ逃げて、朝鮮半島を通っ て日本で秦氏となったと考えられる。 秦氏は応神天皇の時代に大挙渡来してきた。かつてそれは、2世紀の終わりごろとされていたが、現在では3~4世紀だったとも、あるいは5世紀だともいわれている。  

 若干の誤差はあるかもしれないが、これはちょうど中国では三国時代 (220~280年)から五胡十六国時代 (304~439年) で、戦乱の時期だった。 そのような時期に、中国の羌族と秦氏が分かれたのではないかと考えられるのだ。  

 実際、羌族にY染色体ハプログループDが多いように、 筆者の知る限りでは秦氏の子孫にはDが多い。筆者と同じ研究者で、秦氏の子孫である畠田秀生氏もDである。 また秦河勝の子孫とされる人もDである(ただしの人もいる)。こうした研究がさらに盛んになって、 謎が解明されることを祈るものである。




 ◾️ 伊號安 三宗麻呂 大地 市 元慶7 朴市桑田米津押分 宗朝 浅井郡今 惟宗蓮宗 村戦死 公方 明博士 物主 春足浄万侶 福当磨文成 生得業生 井正秦朝元|喜成 元慶 宗朝政 7月 私に2 ・惟宗水星 具範 広孝 朝原寸 政野堀家宝 三上 「下野介文章博士 医師 諸坂良道 貴重 孝近孝吉基る 左大文 文章博士 大丈 日向守 大丈 はたのかわかつ を祈るものである。  今日のユダヤ人におけるY染 色体DNAの系統 (ハプログル ープ)。 天武 軟 ・住宗・ 秦始皇帝功満君弓月- 応神 波多公 -石勝 化 (ハプログループ) ―和賀牛麻呂 内満 国際 足 大牟良 物連 料 大学 こうしてイスラエル 人は、JとDE を祈るものである。 初期諸流 真徳君 市上古 「浦来君 秦酒公意美 天平島 牛麻呂太秦嶋麻呂 伊波気 野郡大領 ―国 黄島大百足 葛野斯擬大領 大領 広庭 哀守 一日向守 井手磨 大魚 武名 国万呂豊人 鹿野磨 人君 婚前棟介 アシュケーナージ・ユダヤ人 本 養老寸 W 今日のユダヤ人における Y染色体DNAの系禁 スファラディ・ユダヤ人 | 約28パーセント |約19パーセント |約33パーセント 約12パーセント |約8パーセント 太公 K系統 他 J系統 約38パーセント E系統 約20パーセント R系統 約19パーセント 系統 約10パーセント |約4パーセント 他 約5パーセント |約2パーセント 約2パーセント (Wikipedia "Y-DNA haplogroups by ethnic groups" および Doron M. Behar 博士等の論 統 統 J系 E系統 統 系 R系 G系統 Q系統 「下野 相寺 大沢 臭成 神嶋足長 竹 少領 宇志 大蔵本公 ・大賞泰志豚大津父 共用 豊介 冷 民健 正 文より/http://www.familytreedna.com/pdf/Behar_contrasting.pdf) 『古代氏族系 原宿備知 伏見宮家 森足&智奈理 主計頭 越俊介 公足伊勢方呂 主社 史生 大蔵 少 ・・・・・・・・・・・・ の 伊朝臣姓 博士 しんきょう EN S.



チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。


羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm

羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里_人民中国

2008年の「5・12」大地震で、被害を被る前の四川省理県の桃坪チャン族村(写真・劉世昭)

チャン人、秦人は中華の源の一つ

唐代の詩人王之渙(688~742年)は、「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須ゐん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。本文で言う羌(チャン)人は、まさに羌笛を吹く人の先祖である。もちろん、2008年、大地震に襲われた阿壩チベット族チャン族自治州のチャン人の先祖でもある。

チャン族は、歴史の極めて長い山地民族であり、紛れもなく華夏族すなわち中華民族の重要な源のひとつであろう。『説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と羊の組み合わせと説く。

チャン族は、長く移動する間に、2大系統に分かれた。1系統は東へ向かい、東部の先住民と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなった。『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。

『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。

『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。

イ族・ダイ族・ハニ族などもチャン族の末裔

来年の五穀豊穣と気候の安穏を祈る雲南省弥勒県紅万村のイ族のたいまつ祭り(写真・劉世昭)

チャン族のもう1系統は、西南へ移動した。今日の中国西南部のイ族(彜族)、ダイ族(傣族)、ぺー族(白族)、ハニ族(哈尼族)などは、歴史の記載と風習からみて、チャン族の末裔であろう。

イ族は「羅羅」と自称するが、『山海経・海外北経』に「羅羅」の記載がある。『漢書・地理志・張掖郡・番和』ではチャン人を「羅虜」と呼び、『大明一統志』では四川省のイ族を「羅蛮」、雲南省西部のイ族を「羅羅」と呼ぶ。『華陽国志』も『後出師表』も雲南省、四川省、貴州省のイ族を「青羌」と呼ぶ。『蛮書』ではイ族の先祖は「羌虜」であるとさらにはっきりと指摘している。典籍を調べれば、「羌戎」と「羅羅」は実際には同一であることが分かる。

風習から見れば、イ族の火葬やたいまつ祭り、儺の仮面や儺祭りで踊る大鑼笙舞やヒョウの舞、トラの舞、ぺー族の多神教の習俗、万物に霊魂があるという信仰など、すべて古代チャン人の習俗と一脈通じる。今日まで伝えられている『哈尼阿培聡坡坡』という古い歌曲は、祖先の引越しの歌である。遡って追跡すれば、茶馬古道は実は古代チャン人の西遷の神秘な道であると思っている。

とくに指摘しておきたいのは、最近大騒ぎになったイ族が発明したといわれる『十月太陽暦』は、実は古代チャン人の聡明な知恵の産物であり、秦の時代に実施された『十月太陽暦』の源はここにあると考えている。

倭人の源流とチャン人

雲南楚雄双柏県雨竜郷の羅婺人の「大鑼笙祭り」(写真・楊振生)

1979年、大阪教育大学の鳥越憲三郎教授が、日本人の源流は中国の雲南であると発表した。考察と研究によると、雲南のイ族とダイ族の赤ちゃんの蒙古斑は、日本人の赤ちゃんとまったく同じである。つまりこれが日本人の源流の証拠であり、雲南が日本人の源流であることを実証するものだという。彼は同時に信仰や風俗などの面から、イ族、ダイ族と日本を比較することによって、自分の見方が正しいとしている。その後、また別の日本の学者も「倭人(日本人)の源流は雲南」という見方を発表している。

わたしの個人的な考えでは、中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な文化を受け継ぎ、発展させた。日本民族の源流が雲南であるかどうかは、わたしは研究したことがないので、勝手な結論を下せない。ただ、チャン文化は東方の民族に無視できない貢献をしたのは確かだと思う。文化の共通性は、各民族がたえず文化を融合させることによって、歴史を動かし文明社会に向かって発展してきたのである。この点から見れば、中華文化だけではなく、日本文化にもチャン人の知恵が浸透していったと考えている。

徐福と吉野ヶ里とチャン文化

チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶのは理の当然である。

ここにはもうひとつ問題がある。徐福の方士(神仙)文化と古代チャン人文化とはかかわりがあるかどうかである。『倭人・倭文化・東渡文化と徐福』の文中で、かつてわたしは神仙文化は倭文化から来たと述べたことがある。今も、そう思う。したがって、神仙文化の源は間違いなくチャン文化であろう。

それでは、日本の吉野ヶ里と、チャン人あるいはチャン文化とは何らかのかかわりがあるのだろうか。つまり徐福は日本の九州の吉野ヶ里に果たして着いたであろうか。

吉野ヶ里文化とチャン文化は一脈相通じることは疑いない。問題はこの文化の伝来が間接的だったか、直接的だったかということである。

吉野ヶ里の発掘は2つの重要な意義がある。1つは、弥生時代の日本についてさらに全面的な解釈が施されたことである。というのは日本の他の弥生時代の遺跡は、弥生の600年間のある1つの時間帯を証明するだけで時代の全貌を展示することができないが、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の前期、中期と後期にわたって全てを含んでいる。2つ目は、日本という国家の形を初めて明示したことである。『魏志・倭人伝』と『漢書地理志』の記述が正確であることを裏付けた。

お酒でお客を迎える、雲南紅河ハニ族の風習(写真・魯忠民)

想像空間を与えてくれる徐福と吉野ヶ里

吉野ヶ里から青銅器工場ではないかと推測できる遺跡が見つかり、高度な染織技術を持つ絹織物が出土した。そして、規模の非常に大きな市場とかなり高い規格の祭祀場も見つかった。単にこれらの設備と実物から見れば、外来文化が直接日本に影響したことは疑う余地がないが、縄文時代人がすぐにこれらの先進技術を身につけるはずはなく、ましてや複雑な系統だった管理を行うことなどできるわけがない。こうした社会の突然の変革は、外来文化が直接ぶつかることによって初めて実現可能である。しかし、外来文化は中原からだけではなく、朝鮮半島から来るものもある。出土した絹製品からみれば、三眠蚕(3回の脱皮で糸を吐き始める)の製品は多く楽浪の影響を受けている。季節と気候の影響で朝鮮半島では三眠蚕であり、中国の江南地方では四眠蚕である。日本の九州の気候と中国の江南地方の気候とは極めて似ているので、もし直接中国文化の影響を受けたとすれば、なぜ良質の四眠蚕を放棄して、質の劣った三眠蚕を育てるのか。そして、住宅は半地下竪穴式もあるし高床式建築もあることも、朝鮮半島の古い風格の影響であろう。とりわけ考えてもらいたいのは、吉野ヶ里遺跡からは今まで文字記載があるものは1つも出土していない。もし、徐福らが吉野ヶ里に着いたとしたら、間違いなく秦が統一した文字を持って行っているはずである。

文献によると、中国文字はのちに朝鮮半島から日本へ伝わったという。徐福ではなく韓国の王仁が『論語』などの書籍を日本へ持って行ったのである。というわけで、今の段階では吉野ヶ里文化は徐福らが自らつくったとは断定できない。しかし、われわれに尽きることのない美しい想像空間を残してくれた。と同時に、さらに新しい次元の探索をすることによって、中日世代の友好を発展させるよういつも励ましてくれている。(国務院発展研究センター 張雲方)

人民中国インターネット版 2009年11月


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