古代文明ミステリー たけしの 新・世界七不思議5
藤原不比等(日本語字幕) https://youtu.be/f7iy_lavAAw?si=REyMOK91TWE5SJy2 @YouTubeより
弓削皇子(ユゲノミコ)の御歌
1608 秋萩の上に置きたる白露の、消かも死なまし。戀ひつゝあらずは
1608 焦れて居る位ならば、一層萩の上に置いてゐる露のやうに、消えて死んで了はうか知らん。
ゆげ‐の=みこ【弓削(ノ)皇子】 天武天皇の第六の皇子で、母は天智天皇の皇女大江皇女で、長(ノ)皇子の同母弟、草壁皇子・大津皇子等の異母弟である。持統天皇の七年正月淨廣貮を授けられ、文武天皇の三年七月二十一日に薨ぜられた。(111)・(119)・(130)・(204)・(242)・(1467)・(1608)・(1701)・(1709)・(1773)
弓削皇子
弓削皇子(ゆげのみこ)は、天武天皇の第九皇子(第六皇子とも)。冠位は浄広弐。
経歴
生年は不詳だが、寺西貞弘らによって天武天皇2年(673年)誕生と推測されている。この推定は大宝律令の蔭位の制によって算出されたもので、それほど外れてはいないと思われる。
持統天皇7年(693年)同母兄の長皇子と同時に浄広弐に叙せられる[1]。持統天皇10年(696年)太政大臣・高市皇子薨去後の皇嗣選定会議において発言しようとするも、葛野王に叱責されたことが知られる[2]。同母兄である長皇子を推薦しようとしたのだと推測されている[3]。文武天皇3年(699年)7月21日に母や兄に先立って薨去。前述の生年推定に従えば享年27。
人物
『万葉集』には8首の歌が収録されており、これは天武天皇の皇子のなかで最多。異母姉妹の紀皇女を思って作った歌、額田王との問答歌などがある[4]。また、それとは別に柿本人麻呂歌集に弓削皇子に献上された歌が5首残されており、交流の跡が偲ばれる。他の歌人とも交流があり、歌を好んだ皇子であったようである。なお、神田秀夫によって『万葉集』の編者のひとりに擬せられているが、現在ではほとんど支持されていない。
弓削皇子に関する歌
『万葉集』巻第2 119~122番(弓削皇子が紀皇女を思う歌)
- 吉野川 行く瀬の早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも
- 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを
- 夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の 浅香の浦に 玉藻刈りてな
- 大船の 泊つる泊まりの たゆたひに 物思い痩せぬ 人の児故に
『万葉集』巻第3 390番(紀皇女の歌)
- 軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに
異説など
梅原猛著『黄泉の王』では、高松塚古墳の被葬者に比定されている。また、同書では『万葉集』を根拠に軽皇子(のち文武天皇)の皇太子妃であった紀皇女と密通し、それが原因で持統天皇によって処断されたとの仮説を述べている。
後世の俗書では弓削道鏡との血縁との伝説もあるが、証拠はない。
系譜
脚注
参考文献
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 |
この項目は、日本の皇室、皇族に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Category:日本の皇族)。 |
0 件のコメント:
コメントを投稿