2024年2月28日水曜日

万1682番歌の「仙人」=コウモリ説 - 古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

万1682番歌の「仙人」=コウモリ説 - 古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

万1682番歌の「仙人」=コウモリ説

 万葉集1682番歌は次のように訓まれている。

  忍壁皇おさかべのみたてまつる歌一首 仙人やまびとすがたを詠めり
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎ放たぬ 山に住む人(万1682)
  献忍壁皇子歌一首 詠仙人形
 常之陪尓夏冬往哉裘扇不放山住人(万1682)

 この歌については、議論が進展していない。柿本人麻呂の歌であろうことと、仙人を描いた絵を見て詠まれた歌であろうとする考えが通行している(注1)が誤りである。ここでは歌意を中心に検討する。
 仙人の絵を見たとする説は、証拠となる絵が知られないから、肯定も否定もできない。時に、中国明代の1600年になった列仙全伝の絵を参考にすることまで行われている。その挿絵は、麈尾扇しゆびせんないし団扇を手に、獣の毛皮の腰巻か引敷かを着けた李八百(注2)という人の図である。古の仙人で四川の人とされる。夏、殷、周の三王朝を生きて齢800歳を数え、日に800里を行き来したためその名がある。この人物が画題として屏風絵などに描かれていたことは知られない。絵のある印刷物の900年前のことの傍証になるはずはない。天武・持統朝に神仙思想が広まっていたと考えられているが、仮にそうであるとしても、例えば役行者がそのような格好をしていたといった実際の例が知られない限り、絵に描かれて親しまれていたとは考えられない。有名な故事があるのならともかく、ただ絵が絵として描かれてあったとして、鑑賞者はその意を汲み取ることができない。今日、美術展へずぶの素人が足を運んだ時、解説板に目を通さず、音声ガイドも借りないで初見で古典的な宗教画を理解できるかといえば、まず無理なのと同等である。人々の間で共通認識として何が描かれているか定型化、紋切型化していなければ、見てもわからない。だからこそ、本邦において絵画作品は、故事や物語をもとに描かれ続け、粉本の写しに終始していたのであろう。「詠仙人形」が歌として歌われていたことを理解するためには、何か画像があったとしてブラックボックス化するのではなく、確かにそうであると知れる故事や物語の方をこそ探る必要がある(注3)
 白居易に、「喜老自嘲(老を喜び、自ら嘲る)」詩がある。

 岡村2016.の訳に、3~6句は、「まるで蓍(めどぎ)の草むらの下で老いさらばえている毛亀(蓑亀みのがめ)のようであり、ねずみの仲間の中での仙人にも相当する蝙蝠こうもりそっくりである。かくて私は、戸籍の上では俗世を避けた隠者と同じあつかいをされ、日常の衣服も古代の賢人のような時代遅れの身なりをしているが、冬に着る皮衣は白い細織りの毛布を羽織っているので身に軽く、革靴も黒い毛氈もうせんを底に敷いているので足が暖かい。」(507頁)とある。「蝙蝠鼠中仙」についての語釈に、「『爾雅』釈鳥に、「蝙蝠◦◦は、服翼なり」と。西晋の郭璞注に、「斉人は、呼んで蟙䘃と為し、或いは之を仙鼠◦◦と謂ふ」と。また前漢の揚雄(前五三-一八)『方言』巻八に、「蝙蝠◦◦、関よりして東は、之を服翼と謂ひ、或いは之を飛鼠と謂ひ、或いは之を老鼠◦◦と謂ひ、或いは之を(仙)と謂ふ」と。後漢の劉熙『釈名』釈長幼(第十)に、「老いて死せざるをと曰ふ」と。なお、『初学記』巻二十九(獣部・鼠)、鄭氏(氏の誤り?)の『玄中記』を引いて、「百歳の、化して蝙蝠◦◦と為る」と(謝思煒『白居易詩集校注』二六八三頁を参照)。ちなみに、白氏巻六十八、「山中五絶句」其の五「洞中蝙蝠◦◦」詩(三四七九)に、「千年のは化して白蝙蝠◦◦となる」と。」(507頁)とあって、蝙蝠が仙人扱いされていたことを述べている。
 これをもって万1682番歌のすべての疑問は氷解する。題詞にある「形」は、スガタと訓むべきである。万葉集には、「形」をカタと訓むばかりでなく、スガタ(「妹形矣いもがすがたを」(万2241)、「朝明形あさけのすがた」(万2841))と訓む例が見える(注4)。「仙人」のスガタはどのようなものか、それを詠んでいる。そして、その「仙人形やまびとのすがた」とは、蝙蝠の姿のことを言っている。蝙蝠のことを仙鼠ともいうと漢籍から知られていたら、「仙人」とは蝙蝠のことを言っているとわかる。蝙蝠は翼手目の動物で、腕と前肢の指が長く、それらの間に開閉自在の飛膜をつけて翼にして飛翔する。この飛膜は皮膚が伸びてできたもので、扇にも裘にも譬えられる。扇は蝙蝠扇(注5)といい、また、後肢を使って枝などに逆さにぶら下がってとまるとき、体を比翼に包むようにして休む。
左:裘のさま、右:扇のさま(オリイオオコウモリ、上野動物園展示)
 絵を見て歌を詠んだというのは万葉研究者の作り話である。題詞には、「詠仙人」と注されており、「詠仙人」とはない。ではどうして蝙蝠が提題されたか。歌を献上する相手が忍壁皇子だからである。
 用字に「忍壁」とある。「忍」字は、説文に「忍 能くする也。心に从ひ刃声」とある。じん声の靭はもと柔皮をいい、関節をつなぐ靭帯はとても強い組織繊維で、強靭の意がある。名義抄には「忍 如𨋎反、シノブ、ツヽム、コハシ、強(?)坎、オソフ、和音ニン」とある。強く伸び縮みして破けない皮革といえば蝙蝠の翼が思い浮かぶ。しかも、オス(押・圧)は、上から重みをかけて動かないようにすることであった。罠のひとつ、「押機おし」というものは、踏むと仕掛けが働いて上から石が落ちてきて動けなくするものであった。
「棝斗」、別名「鼠弩おし」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)
 天圧神…… 圧、此には飫蒭おすと云ふ。 (神武前紀戊午年十一月)
 ……大きな殿を作り、其の殿の内に押機おしを作りて待ちし時に、……(神武記)
 鼠弩 楊氏漢語抄に鼠弩〈於之おし〉は一に鼠弓と云ふなりといふ。(和名抄)

 蝙蝠が川守りの意である(注6)ことを考慮すると、「忍」なる「壁」とは川の堤のことであると理解できる。版築で造った強靭な壁で、水圧に耐えるものになっていた。新撰字鏡に、「坡陂 同作、普何反、平、坎也。以土壅水也。道緩也。佐加さか、又(与?)豆々牟つつむ(新撰字鏡)」とある。オサカベの音にサカとあるとおり、坡陂のことをサカとも言っていた。傾斜のある坂状地形の堤を、上から圧して造ったことを物語る。
 すなわち、オサカベなる人は、川の堤に関係する職掌を担っていると感じられていたのである。律令制に実際にそういった仕事に就いていたかは不明である。それでも、その名を聞けば、川守り役の人ではないかと面白がられたに違いあるまい。座興として十分に成り立つ。サカは、蝙蝠が止まるときのさかさ吊りの雰囲気まで醸し出す。そこで、忍壁皇子に献上される歌として、川守りの蝙蝠が歌のテーマとされ、一首作られたのである。

  忍壁皇おさかべのみたてまつる歌一首 仙人やまびとすがたを詠めり
 とこしへに 夏冬行けや かはごろも あふぎ放たぬ 山に住む人(万1682)

 「とこしへに 夏冬行けや」の最後のヤは反語である。佐佐木2001.に、「Ⅱ[活用語已然形+や(やも)]が文中に位置し、それ以下に、表現主体が事実だと判断した事態や現象が提示されるもの」(32頁)の文型であるとし、「「いつも夏と冬とが一緒に過ぎて行くはずはないのに、裘と扇を手放さない。山に住む仙人は。」の意である……。……「裘扇放たぬ」という事態は作者にとって不可解なものだから、その事態について作者は……「常しへに夏冬往けや」とおどろきいぶかる、という状況である。」(32~33頁)と解説する。事実だと判断した事態や現象とは、蝙蝠の翼手が裘にも扇にも変化することである。「とこしへに 夏冬行けや」の助詞ヤの反語的な意味は、通説の、行かないだろうに、行くはずはないのに、といった余韻を伝えるものではなく、本当の反語である。いま夏と冬が同時進行していないし、これからも同時進行することはない。同時進行するか、いやいやない、の意である。あり得ないのに変てこりんなこと、裘と扇を併せ持っていると可笑しがっている。
 万1682番歌は、忍壁皇子の名にちなんで蝙蝠の様子を詠んだ歌である。だから献上された状況を明かしている。蝙蝠は、今日でこそ人家の屋根裏に住み着くこともあるが、天井が張られず屋根裏というものがなかった時代は、山の樹木や洞窟に住むと思われていたのであろう。その名から川守りと擬人的に捉えることでヤマビトとし、漢籍から「仙人」字を用いて表した。表面的に字面を追って表記しているだけで、神仙思想の意味を導き出すことはできない。

(注)
(注1)多くの万葉学者がこの歌の主旨を神仙思想に基づく仙人の絵姿を詠んだものとして論じている。以下にそれらの注釈書をいくつかあげておく。
 武田1956.に、「即興の作として、皇子の邸にあつたものについて詠んだのであろう。人間世界とは違つた時間の経過を持つていると考えられた仙人の世界が、歌われている。それはそんな世界もあるだろうという憧憬の思いを寄せた、時代の思想を描いている。人麻呂の時代に、仙人が好奇心をもつて迎え入れられた文献として注意される。仙人は、女子の形を採るものもあるが、この歌のは、服装から云つても男子だろう。仙人が、どのような姿でえがかれていたかがわかる。」(263~264頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
 伊藤1996.に、「忍壁皇子の邸宅での歌か。そこに、仙人の姿を描いた画像があり、一首詠めとの仰せに即座に応じて献じたものと見える。ただし、人麻呂が仙人の絵を献ずるに際して添えた歌と見ることも可能である。知識階級の間では、天武・持統朝の頃から神仙趣味が流行した。仙人の画像が珍重されたのはその反映である。……◇山に住む人 「仙人」を翻読した表現。山に住む不老不死の道士。道家における理想的人物。20四二九三~四には「山人やまひと」とある。」(60~61頁)とある。
 新大系本萬葉集に、「結句「山に住む人」は、「仙」の文字を分解した遊びか。「山に住む人」などと言わなくても、和訳としては、「山びと」(日葡辞書)で足りる。題詞の「仙人の形」とは如何なるものであったか、未詳。仙人の描写は仏典にも所見。「(善財童子が)彼の仙人を見るに、栴檀樹の下に在りて、草を敷きて坐し、徒を領すること一万、或いは鹿皮を著け、或いは樹皮を著け、或いは復た草を編みて以て衣服と為し、髻環を鬢に垂れ、前後に囲遶せり」(華厳経六十四)。」(339~340頁脚注)とある。
 稲岡2002.に、「仙人の画像を題材として詠まれた歌。皇子邸にその画像があったのだろう。仙術を身につけた仙人の超人的な性格を、こうした形に詠んだか。なお日本上代は画讃の例に乏しく、空海「勤操大徳影讃」(『性霊集補闕鈔』巻十)などが、日本で作られた画讃の嚆矢とされる。それ以前に中国から渡来したものとして「画図讃文巻第廿七」と題された唐鈔巻子本一巻(東大寺尊勝院聖護蔵旧蔵)の「讃聖迹住法相比神州感通育王瑞像」など三首が知られているが、「鏡中釈霊実集」の讃はそれに並ぶ。この一六八二は仙人の画を見ながら歌ったものと考えられ、題材からしても、中国の画讃や題画詩の影響を受けた可能性が強い。したがって、天武・持統朝には、こうした題画文学の存在がすでに知られていたこともわかるという(鉄野昌弘)。」(404頁脚注)とある。
 金井2003.に、「カタは彩色しない絵をいう。忍壁皇子邸の屏風の絵の仙人像を見て詠んだのであろう、と契沖が注している。……忍壁皇子の家にあった仙人の画像を見て歌ったと想定されているが、皇子は大宝律令の制定に加わっているほどの文化的教養を持った人で、おそらく皇子の周囲には大陸からの渡来人官僚も多くいたであろう。彼らを通じて皇子が入手した大陸風の仙人の画像だったのだと思われる。明代ではあるが『列仙全伝』には、こうした仙人の挿絵がある。仙人に対する興味は、たとえば父の天武天皇が遁甲を能くしたと伝えられ、その諡号「天渟中原瀛真人」も神仙思想に基づくこと、持統天皇の歌「燃ゆる火も取りてつゝみて……」(2・一六〇)なども仙人の方術の一つであろうことから考えると、天武・持統朝の貴族社会には少なからず蔓延していたのであろう。」(47~48頁)とある。
(注2)万1682番歌が李八百そのものを描いた絵を歌ったものではない。葛洪・列仙伝に、「或隠山林、或居廛市」とあって、必ずしも山に住んでいたわけではない。
李八百(列仙全伝、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599481/3)
(注3)ここで日本の絵画全般にわたって論ずることはしない。スケッチのようなものが木簡や布に残り、山水表現が平安時代の板戸に見られるからといって、自由に何でも描かれていたとして、その一つとして仙人像が忍壁皇子邸にあったとすることには抵抗を覚える。神仙思想が普及していたとしても、唐突に人物が描かれて皆が納得して観覧したとは考えにくいからである。歌が歌われたなら、その歌を聞いた人たちの大多数が、それが仙人像であると認知されていたということでなければならない。
 神仙思想と関係があると知られる話に、浦島子伝説がある。万1740~1741番歌には、長い長歌と反歌が歌われている。神仙思想は不思議を語るものだから、きちんと理解されるように説明調になるものである。万1682番歌に限って、裘や扇を身に着けた人が山に住んでいるよ、と歌われただけで、多くの人が納得するに至ると考えることは無謀である。そのうえ、歌として、仙人の衣装を歌って何が面白いのかも不明である。仙人の姿の定義なのだとの主張もあろうが、そのような儀軌は知られない。これまでの解釈には、歌が歌われた状況の確実性、歌を歌ったことの必然性が念頭に置かれていない。筆録者は、題詞、歌、左注をもって、それを読む人に理解できるように記している。推測の上に妄想を積み重ねても、本意に近づくことはない。
(注4)「多く喫飲すれども、形飢饉に似たり。(雖多喫飲、形似飢饉。)」(万3854左注)の「形」もスガタと訓むべきかと考える。
(注5)美術史に、扇は本邦発祥のもので、それは檜扇に発し、紙を張った扇に展開したというのが通説のようである。この考え方は、物質文化の風雅な側面ばかりを見たもので感心しない。道端にコウモリの死骸を見つけ、羽部分をもぎ取って焚きつけの風起こしに用いていたであろうことは容易に想像できる。蝙蝠扇という名を、紙張扇の転であるとする試みは、洒落を言って笑わせているものであると思われる。
(注6)岩波古語辞典に、「川守りの意という」(324頁)とする。

(引用文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 五』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
岡村2016. 岡村繁『新釈漢文大系 第119巻 白氏文集十二下』明治書院、平成28年。
金井2003. 金井清一『萬葉集全注 巻第九』有斐閣、平成15年。
佐佐木2001. 佐佐木隆『萬葉集構文論』勉誠出版、平成13年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
武田1956. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈 七 巻の八・九』角川書店、昭和31年。

(付記)
※本稿は、2018年12月稿を2023年5月にルビ付きにしたものである。

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