2024年2月27日火曜日

秦の始皇帝の使者・徐福とミントングスク : 追跡アマミキヨ

秦の始皇帝の使者・徐福とミントングスク : 追跡アマミキヨ

秦の始皇帝の使者・徐福とミントングスク

「ミントン」は「明東」?
その伝承を知り、私は徐福を連想した。紀元前220年、
秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の薬を探して数千人の男女を伴い日本に渡来したという伝説の人。

実は久高島にアマミキヨが五穀の種子を埋めたという「ハタス」という名の拝所がある。
「ハタス原」(ばる)ともいう。実は、調べると熊野(三重県)にも「波田須」という町に徐福の墓があるという。
こちらの「はたす」は、かつて「秦栖」や「秦住」と表記されていた。
熊野と久高島にあるこの地名の一致は、秦から来た人(徐福)を意味するのだろうか? 
神話では、アマミキヨはまず久高島に五穀の種子を蒔き、水量の多い玉城に移住して稲を育てた。


ミントングスク神域、珊瑚礁岩の墓所に祀られるアマミキヨ神・シネリキヨ神。
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ミントングスクの上から久高島を遠望。この場所から夏至の朝日が久高島から昇る。
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しかし、アマミキヨは女神だった。徐福は日本各地に立つ銅像を見ても偉丈夫な男性。
イメージが違いすぎる……と考えていた4年前の玉城滞在中あるパーティーで、
琉球大学の木村政昭名誉教授と偶然お会いした。
あの与那国海底遺跡の調査で高名な海洋地質学者だ。 

会のテーマが「琉球発祥の地・玉城を語りあう」ということだったので、私は教授に訊ねた。
「アマミキヨは本当に女性なんでしょうか?」
すると、ちょっと嬉しそうな顔になり教授は言った。
「それは、いい質問ですね」
「ということは、男性なのですか?」
「私はアマミキヨ・シネリキヨは集団だと考えているのです」

そのときの話は拙著『おきなわルーツ紀行』に「アマミキヨ族のランドマーク」という題で、
以下の文を書かせていただいた。


琉球の開闢神アマミク(アマミキヨ)・シネリク(シネリキヨ)のうち、シネリクこそが徐福のことであると、
その著書『新説 ムー大陸沈没』(実業之日本社)で著したのは与那国島の海底遺跡調査で知られる木村政昭教授。
木村氏は沖縄県南城市の百名海岸に、巨大ドルメン(人工構造物)群を発見したが、
これらは徐福のモニュメント、あるいは権威の象徴だという。
 また、百名海岸のある玉城から海岸線に沿って20㎞ほど南下した糸満市・喜屋武岬の荒崎浜にも
典型的なドルメン状の巨大モニュメントが一対ある。
 台風で打ち上げられた津波石という説もあるが、周囲には遺溝があることから、
木村教授はこれを「王と妃の墓」と見て「炭素14年代測定法」により分析、2000年前のものと判断した。
 日本ではこうした巨大ドルメンは、他に類を見ないといい、唯一、
沖縄で最高の聖地である斎場御嶽の三庫理(さんぐーい)が似た構造を持つ。
荒崎浜のモニュメントは「カサカンジャー」と呼ばれる拝所となっているところから、
木村教授はこれも墓であろうと言う。
「百名、糸満、どちらも遺跡のスケールからいって、
万里の長城や海底遺跡を造った始皇帝の関係者が作ったのではないかと思われます」と。

 
百名海岸、ヤハラヅカサのすぐ傍にある巨大なドルメン群。「そのヤハラヅカサも、ストーンサークルだと思いますね」と、
パーティー参加者らを百名海岸に案内してくれた木村教授は言った。
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徐福の一団がアマミキヨ。そして、ミントンの由来は「明東」という仮説に立てば、
久高島で聞いた「ミントンは殿(トゥン、祭祀場)のはじまり」という話も大いに頷ける。
秦の始皇帝の即位式をした祭祀場は「明堂」(ミンドゥン)という。

はたして徐福は、あるいは徐福の一団は、沖縄に渡来し、
沖縄の始祖として国土を拓き繁栄してきたのだろうか。
時代下って三山時代には「明東按司」や「明東若按司」と称される英傑もいたと伝わり、
知念玉城地域には「明東按司の直裔」を名乗る門中がある。

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