2024年2月19日月曜日

同祖論対談 弓月城

 

 
 
slowslow2772
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緊急対談:NHK「日ユ同祖論」番組の徹底検証! 飛鳥昭雄×久保有政 前編 youtu.be/eIQV31gVQMcpic.twitter.com/znK5G4Rj7N
 
2024/02/20 20:03
 
 

https://x.com/slowslow2772/status/1759896650410279238?s=61


日本とユダヤ


『聖書』を見ると、古代イスラエル民族の父祖アブラハムは、カナンの地(イスラエル)に来る前に、一時「ハラン」というところにいた。またアブラハムの孫ヤコブも、20年間ハランに滞在して、そこからカナンの地に戻って定住した。  ハランは、イスラエルの北方、現トルコ南東部の「タガーマ州」と呼ばれるところにある(古代のトガルマの子孫が住んだことからその名がある)。つまり彼らは「タガーマ州のハラン」からカナンの地にやってきた。  タガーマのハランは、イスラエル民族の父祖ゆかりの地である。タガーマのハランが、日本では「タカマのハラ」(タカマがハラ)つまり「高天原」になった、と小谷部全一郎は述べている(「の」と「が」は同じ意味)。  実際、イスラエル民族の父祖ヤコブは、タガーマのハラン=高天原に行く手前で啓示夢を見、「天地の間にかけられたはしごを天使たちが上り下りしている光景」を見ている。


 「さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た」(「創世記」第28章10~12節)   


 この天上界と天使降臨のイメージが、タガーマのハランに結びつけられ、高天原となり、天孫降臨の観念となったのだろう。  興味深いのは、ヤマト民族の移り住んだ近畿地方に「天橋立」と呼ばれているところがあることだ(京都府宮津市)。橋立とは、はしごのことで、もともと天地の間に立てられ、そこを神々が行き来していたが、ばったり倒れて現在見るような長い砂州となったという。  そのふもとにあるのが、例の籠神社である。天橋立の伝説は、ヤコブの「はしごの夢」から来ているものだろう。  一方アビグドール・シャハン教授は、高天原は、ヘブル・アラム語の「タカ・アマ・ハラ」=「最高の高き台地」の意味にもとれると解釈している。いずれにしても高天原は、本来、天上界のことではなく、地上の別の地域をさしていたといっていい。  ニニギはその高天原から、「葦原中国」=日本にやってきた。「中国」は、天と黄泉の中ほどにある国という意味である。ではなぜ日本は「葦原」と呼ばれたのか。日本は「豊葦原」の国とも呼ばれる。  ヨセフ・アイデルバーグは、イスラエル人が住んだ「カナン」の地は、ヘブル語の「カヌ・ナー」=葦原の意味だと指摘している。つまり古代日本にやってきた人々は、かつて自分たちの住んでいたカナンの地にちなみ、日本をも「葦原」の国と呼んだのだ。  筆者はまた、ニニギの名は、ヘブル語の「ナ・ナギ」(naah nagid)=「麗しい君」から来た名前ではないかと思っている。



創世記

28:10~

ヤコブの夢 10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。13見よ、主が傍らに立って言われた。


マナス

もう隠し

《ヤマトとは?》  「『ヤマト』は、日本語としてはこれといった意味はない。しかし、ヘブル・アラム語で『ヤー・ウマト(Ya-umato)』という二語は、続けて『ヤー・マト(Ya-'mato)』と発音され、これは『ヤハウェの民』の意味である[『ヤー』は、ヤハウェの短縮形ヤハ=神の御名。『ウマト』は彼の民の意味]。   土地の名前というものは、そこに住むに至った人々のアイデンティティを示すものであることが多い。すなわち、『ヤマト(ヤハウェの民)』は日本列島に移住してきて、そこに安住の地を見いだしたので、彼らはそこを『ヤマト』と呼んだのではないか」  
《スメラとは?》  「日本人が、自分たちの国を『スメラ(Sumera)の王国』と呼んでいることも、興味深い。歴代の天皇はみな『スメラ・ミコト(スメラの君主)』の称号で呼ばれている。これが『サマリア(Samaria)の王国』、すなわちイスラエルの失われた10支族の故郷の名によく似ているのは、偶然だろうか」  《神武天皇の称号》  「神武天皇は日本民族の創設者で、最初の統率者と考えられているが、彼の称号、  『カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト』(神倭伊波礼毘古命)   というのは日本語では満足な説明ができない。   これは小さな訛りを修正してみれば、意訳では、  『サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者』   を意味するヘブライ語として理解できる」  
《太陽神に捧げる馬の風習》  「日本の伝統の中に古くから存在し、かつ聖書にも記されている風習の中で、もう一つの興味深い例は、『太陽神に捧げる馬(神馬)』の風習である。聖書は、南王国ユダの王ヨシヤ(治世 前640〜609年)が行なった宗教改革に関し、次のように記している。 

 『彼はユダの王たちが太陽にささげて、主の神殿の入り口……の傍らに置いた馬を除き去(った)』(Ⅱ列王記23章11節)  

[11彼はユダの王たちが太陽にささげて、主の神殿の入り口、前庭の宦官ネタン・メレクの部屋の傍らに置いた馬を除き去り、太陽の戦車を火で焼いた。]

 しかし日本の天皇家では、今もこの風習を続けている。すなわち歴代の天皇は、太陽神アマテラスに馬を捧げてきたのである。今日も天皇家の神殿である伊勢神宮の入り口近くに、天皇家が捧げてきた馬のいる神馬小屋がある」  [この神馬の風習は、一般の神社では『絵馬』の風習となって残っている。昔は一般の神社でも生きた馬を捧げたが、馬は高価で管理も大変なので、板に馬の絵を書き、神社に奉納した。それが絵馬である]


japanese and


יהוה
ヤハウェ

 “Ya-Umato”

The second clue, which points to the possibility that the description of the early stages of the Japanese empire in the Nihongi did not apply to the islands of Japan, leads us to a short examination of the origin and meaning of the name “Yamato” itself. Like the ancient Hebrews, who sometimes styled themselves the “Nation of God,” the ancient Japanese referred to themselves as “Children of the Heavenly Deity,” or simply as the “People of Yamato.” According to Japanese tradition the name “Yamato” was given to their country during the first stages of the creation, yet the word “Yamato” has no meaning in Japanese today. On the other hand, in a Hebrew-Aramaic dialect, the two words “Ya-Umato” — which may have been contracted in the course of centuries to “Yamato” — mean “Nation of God,” the traditional designation of the ancient Hebrews.


“He (Jimmu) went to Honshu as the chief of his army and occupied the area today called Nara, calling it ``Yamato.'' Its meaning (in Hebrew) was ``Ya Umath,'' or ``Lord.'' ``People of God''


YAMATO as previously explained, has no definite meaning in Japanese. However, since the ancient people of Yamato styled themselves “Children of the Heavenly Gods,” the word “Ya mato” may have derived from the Hebrew-Aramaic expression of “Ya-Umato,” meaning “Nation of God.” (Ya means God in Hebrew; Umato means nation in Aramaic.)

十六

 神武天皇は自らカムヤマトイワレビコを名乗っていたといいます。このカムヤマトイワレビコは日本語としては意味を成しませんが、最初のカムはヘブライ語で群れなどを「集める」という意味だそうです。ヤマトは、ヤー・ウマトで「神の民」を表し、イワレはヘブライ(ユダヤ)の意味なのです。カムヤマトイワレビコは、「神の民を集めた、ユダヤ民族から生まれた長男」という意味になるというのですから、驚くばかりです。

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中央アジア近くにヤマトがあった!  

久保 2015年の月刊「ムー」4月号に中央アジア近くの新疆ウイグル自治区内にある弓月城の記事が出たんですよ。ここは秦氏の故郷とされる弓月国があったところですね。 

  飛鳥さんもご存じのように、秦氏はここからシルクロードを経て中国、朝鮮半島に入り、日本列島までやってきたとされています。  『日本書紀』の記述を信じるなら秦氏の祖である弓月君が、応神天皇14(283)年に、百済から120県の民を率いて渡来し、仕えたのが最初です。秦始皇帝の末裔ともいわれていますが、こちらはあまり信用できません。

   彼らは大陸から当時最先端のテクノロジーを持ってやってきて、日本をがらりを変えてしまいました。治水工事を行い、養蚕事業を起こし、酒をつくり、多くの神社を建てました。京都の太秦にある広隆寺(太秦寺)は秦氏の氏寺としても有名ですね。平安京を建造したのも実質、秦氏です。 

  それから、秦氏のトップだった秦河勝が聖徳太子のブレーンとして仕えたことはよく知られています。  飛鳥 ええ、秦河勝については僕も話したいことがたくさんあります。でもまあ、それは聖徳太子の話題になるまでとっておきましょう(笑)。 

 久保 そうですね(笑)。で、秦氏については、一般的には景教、いわゆるキリスト教ネストリウス派の教徒だったといわれたりしていますね。  

飛鳥 「景教博士」と称された佐伯好郎博士の説ですね。  久保 ええ。たしかにそれほどすぐれたテクノロジーを伝えた秦氏ですから、精神的な面、つまり文化においても独得なものを持っていたことは間違いないと思います。  

 でも、それが景教だったのかというと私は疑問に思っているんです。  

 景教というのは、一般的には、ネストリウス派キリスト教が唐の時代の中国に入ったとき、唐の中国人から呼ばれた言葉です。 

  コンスタンチノープル(東方教会)の大主教だったネストリウスは、431年にローマ・カトリック(西方教会)と分かれ、東洋に伝道しはじめました。そのキリスト教がのちに中国に入って、景教と呼ばれました。つまり景教とは基本的に、5世紀以後の東方キリスト教です。   一方、秦氏の信じたキリスト教は、それよりも前の時代からあった東方キリスト教でした。西暦1世紀の使徒トマスやナタナエルらに発し、2世紀ごろにはすでに中央アジアなどに広がっていた東方キリスト教です。このように同じ東方キリスト教ではあるものの、いわゆる景教と、秦氏の信じたキリスト教では、時代やルートが違います。  

 もっとも、もし東方キリスト教すべてを「景教」と呼ぶというのであれば、ネストリウス派キリスト教も秦氏のキリスト教も景教という名で呼んでいいわけですが、一般的にはこのように分けて考えたほうが誤解がないように思います。 

  ずばりいうと私は、秦氏はもともとイスラエル人で、古い時代の東方キリスト教に改宗した集団だったと考えています。  

 秦氏の中央アジアにおける故郷は弓月国ですが、じつは失われたイスラエル10支族の人々も、旅の途中で東方キリスト教に改宗することは少なくありませんでした。というのも東方キリスト教は、ユダヤ教の色をかなり濃く残したキリスト教だからです。ユダヤ色をまったく排除した西洋的なキリスト教とは違います。  

 ですから、彼らにとっても改宗しやすかったわけです。  

飛鳥 ええ、それはありますよね。  

久保 で、先ほどの「ムー」の記事ですが、これは私の友人の堀井俊男さんという人が、実際に弓月城まで行ったルポなんです。  

 まず、ものすごい秘境で日本人はほとんど来たことがない。いまは中国の支配下にある地区ですが、彼はキルギス共和国経由で入ったそうです。それから、そのあたりの博物館にはキリスト教の十字架も展示されていて、かつてこの地にキリスト教が根ざしていたことはほぼ間違いないとおっしゃっていました。ちなみに弓月城の公園に行くとレリーフも設置されていて、この土地の歴史が説明されています。 

  で、そこから車で30分くらい南のほうへ行くと、イリ川の近くに「ヤマト」という地名があるんです。「雅馬」(は日本にない漢字で、日本では図にあたる)と書くんですが、現地の人はこれをずばり「ヤマト」と発音しています。いまはのどかな農村地帯になっていますが、堀井さんはその風景を見て、奈良盆地を思いだしたそうです。  

飛鳥 なるほど。  久保 日本の奈良も、古くは「ヤマト」と呼ばれていたわけですね。興味深いことに奈良というのは、ヘブライ語では「川」という意味になるんですよ。 

  奈良は川沿いに発展した町だから、イリ川の畔の「ヤマト」とは、そういう面でもよく似ていると思いました。  

飛鳥 奈良は、昔は沼、湿地帯、川だらけだったんです。琵琶湖がかつて、移動する湖だったことは科学的にもはっきりわかっています。

   で、ここからは飛鳥説なのですが、どうもその琵琶湖の水脈の延長が、奈良盆地まで流れこんでると思われるフシがある。  

 ですから卑弥呼の都、邪馬台国は──もちろん奈良盆地にあったと仮定しての話ですが──見事なほど美しいウォーターフロント地帯で、周囲はほとんど湖だったのではないでしょうか。実際、そのころの残存物……というと語弊があるかもしれないけれど、奈良の北にある京都盆地の下は巨大な貯水池になっていて、その水量は琵琶湖に匹敵するほどなんです。  

 あのあたりはほとんど水、水、水なんです。邪馬台国近畿説の有力な候補地である巻向(纏向)の周辺からは、運河跡もたくさん見つかっています。  

 運河なんて、大きな水たまりがなければできませんからね。われわれがいま知ってる奈良は乾いた土地ばかりですが、そういうことがあるので奈良が川の町だったというのはものすごくよくわかります。  

久保 中央アジアの新疆ウイグル自治区にいた秦氏の祖先が奈良まで来て、川と湿地の土地を見て、故郷に似ているなということで「ヤマト」という地名を残したんでしょうね。

   実際、秦氏が多く住んでいたといわれる奈良県の三輪山付近、つまりまさに「ヤマト」地方ですが、このあたりは『万葉集』で「弓月ヶ嶽」と謳われているんです。まさに秦氏の故郷の名前です。  

 しかもここには玉依姫の伝説として、「父なる神が処女のもとに寄り来て聖なる子が誕生した」という話もあるほどです。これはイエス誕生の話にそっくりです。  

 そういうことを考えるにつけ、ふたつの国の類似性と、日本人のルーツとなった人たちが中央アジア近くのヤマトから来ていること、しかも日本とユダヤの関係が盛りあがってきたことによって、わざわざその中央アジア近くのヤマトまで調査に行く人間が出てくるという……こうした連鎖はすごいことだなと感じますね。  

飛鳥 こういうことがこれからもどんどん、広がっていくといいですよね。だって弓月国はまさに、秦氏のルーツとなった場所じゃないですか。  

 それに中央アジアはとてもおもしろいところで、日本語の文法がそのまま通用したり、羽根つきや独楽回しといったものも、ほぼ原型で残っています。  

久保 そうですね。それから、天狗もここがルーツですからね。このへんの人たちは、テング(テンギル)といったら山の神様のことですから。  

飛鳥 ある意味この弓月国は日本の原型、元日本なんですよ。  

久保 そういう感じです。弓月の人の顔も、中国人よりも日本人に似ている。  

飛鳥 中国人の顔って、独得のものがあるからわかりますよね、なんとなく。  

久保 中国を通り越してあそこまで行っちゃうと、逆に日本人の顔だなってなる(笑)。 

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●日ユ同祖論の深層 

日本とユダヤを結ぶ シルクロードのヤマトを訪ねて

イスラエル10支族 「秦氏」の故郷 弓月城

文・写真=堀井俊男 

 古代、失われたイスラエル10支族の末裔が、 
日本に渡来し、秦氏として大和の基礎を築いた ……。
キルギスに近い中国・新疆ウイグル地区には、秦氏の故国である弓月城の遺跡がある。 
川と盆地に囲まれた“邪馬图=ヤマト”の地は、 
日本人にも遠い故郷を想わせる場所だった・・・・・・



秦氏のルーツ 弓月国を訪ねて

 筆者は、日本からアメリカに渡り、 そこで長年エンジニアとして勤めてき た。海外から日本を見ることによって、 日本人のルーツや謎の渡来人一族の 「秦氏(はたし、はたうじ)」の歴史について大いに魅せられてきた。




↑弓月城の構内図。 現在は部分的に近代化しつつも、 遺跡の面 影を残しながら街全体がその歴史を物語っている。


 ↑弓月城の城門。 写真中央は筆者。 ゆづき 失われた 


キルギス、 カザフスタ ン、中国の国境にそびえ る天山山脈。 


ペルシアか らインド 中 国などシルク ロードの住人 の姿が銅像に なっている。 伊地方が東 西につながる 文化都市だっ たことがうか がえ る。



 ↑邪馬图で暮らす家族。 その顔立ちは日本人と見 まがうばかりだ。 



 1弓月城民俗风情园园区示意图 号産業団 ヤ

 それもあって筆者は、これまで7 回 にわたり、イスラエルからシルクロー ドを経て日本に到達する旅をしてきた。 
 これまで「ムー」でも、幾度となく 「秦氏」のことが取り上げられてきた。 イスラエルの「失われた10支族」の末 裔といわれ、東 方キリスト教徒 でもあった秦氏 は、日本の伝統文化の中枢を築いてきた人々であり、 聖徳太子を支えたのも彼らだった。 

 秦氏はしばらく中央アジアの「弓 月」また後述する「ヤマト」の地にい たが、中国、朝鮮半島を経て日本に渡 来したとされている。 
 筆者は2014年7月、秦氏の故郷 「弓月」また「ヤマト」の地に、つい に足を踏み入れることができた。 また 秦氏のルーツの秘密を握るキルギス共 和国にも滞在し、調査した。 
 秦氏とは一体何者か。秦氏は、応神 天皇14年(3~4世紀ごろ)に大挙日 本にやってきたと、『日本書紀』に記 録されている。 それ以前はいったいどこにいたのか。 彼らはもともと、中国・新疆ウイグル 自治区北西部にある伊梨地方、伊寧(グ ルジャ)市を中心とする「弓月」という地にいた。 
 その後に彼らは、中国の万里の長城 建設の苦役にかり出される。だが苦役 に耐えかね、やがて朝鮮半島にのがれ る。そこから天皇の招きを得て、大挙 日本に渡来してきた。 
 秦氏の故郷「弓月」の名は、中国の史書『資治通鑑(しじつがん)』にも記されている。 秦氏の王は『日本書紀』で 「弓月君」と呼ばれているが、これは彼らが元々弓月 の人々だったことに由来す るからだ。 
 その地には早くから古代 東方キリスト教が 伝わり、2世紀ご ろまでにはかなり の地域が、すでに 東方キリスト教国 になっていた。 筆 者もそのことを、 中央アジア各地の 博物館などで確認 した。秦氏が日本 に建てた神社には、 よく古代キリスト教の痕跡があるとい われるが、実はそのルーツもここにあ る。 
 弓月の近く、伊犁川をはさんだ対岸 に、今も 「ヤマト」と呼ばれるところ がある。中国語で「雅馬图」と表記さ れ、「ヤマト」と発音される。そこも かつて秦氏の居住地だった。





↑マナスの像。 キルギ スに伝えられる古史古 伝 「マナス叙事詩」は、 古代キルギス人が秦氏 の祖先だったことを物 語っているという。


弓月城の門に記され た十字が、 東方キリ ス ト教の名残を示す。



 
弓月城のレリーフ。広大な自然の 中に生き、 東西に 分かれていった人 々の姿を描いている。



「マナス叙 事詩」 研究家 のリズベク氏 一家と、筆者夫妻。 



↑ 交通標識や地図に邪馬国の地名が記されている。

 "雅馬图”に住む ヤハウェの民”

 筆者がまず立ち寄ったのは、弓月城遺跡であった。4台のバス、タクシー 2台、電動リアカータクシーを駆使し て、ようやくたどり着くことができた。 
 入り口の門に「弓月城」とある。そ こは昔、城壁に囲まれた都市で、秦氏 の先祖たちが住んでいた所だ。 構内案 内図や、弓月城の歴史説明によると、 西暦230年に3人の王の墓が建てら れたとあり、そこで政変もしくは戦争 があったことが示唆される。 それが秦 氏の東方への移動の原因だったのかも しれない。 
 門を入ると、そこは小さな公園でア プリコットの林と散歩道、そして点在 して屋根つきピクニックテーブルが置 かれていた。 
 そこを散策したのち、車で雅馬图の 地に向かった。 雅馬图は、弓月城遺跡 から南へ約30キロ、でこぼこ道を車で 30分くらい行ったところにある。 
 雅馬图は農村地帯で、特別大きな町 も見当たらない。目についたのは、場 所に似合わず立派な農業施設があったことだ。 灌漑設備も整っていて、立派 なトウモロコシが育っていた。 
 雅馬图は伊型盆地に囲まれ、東西に 流れる伊型川に、北から流れる他の川 が合流するところにある。一級河川と 書かれている。最初に寄った村で、 通訳を介して話ができた。 この地をはっ きり「やまと」と発音している彼らを 見ていると、思わず日本人ではないか と思ってしまう。



 今日では、そこ に弓月国や秦氏の 遺跡があったよう な気配は見当たらない。かつてチンギス・ハンのモンゴル軍の基地もあっ たというが、そのような気配もない。 過去の歴史はみな消されてしまったよ うだ。 
 その風景は、どちらかといえば日本 の農村に似ている。筆者はそこで、日 本のヤマトの地 奈良盆地の風情を 感じ取った。ユダヤ人ヨセフ・アイデ ルバーグによれば、ヤマトはヘブル語 の「ヤー・ウマト」から来ていて、「ヤハウェの民」(神の民)の意味である という。 
 また、ほとんどの家々の屋根に、星 マークが描かれて、ゲートに十字架の ついている家も 見られた。 少な くとも2500 年の歴史はあろ うこの地だが、 数々の戦乱と支 配を通じ、過去 の歴史としてこ のマークしか残 らなかったのだ ろうか。 日も下がって きたころ、親切 な乗合タクシー の運転手が、自 宅に泊まるよう に勧めてくれた。 ここでも日本人は歓迎される。帰途の 車中には、運転手がくれた地元産のふ たつの西瓜があった。



 弓月城 自然保区 加奈光中 49 〒314伊宁 تؤؤهنكى ياماتو يولى 315 55 〇客拉 13 ◎真利亞 温亜 麻 北格拉 伊市 克 玉 ◎英塔水 70場 30 阿熟吾増 甲梨河達心 森林公園 220 下雅马图路 东 XIAYAMATU LU 西 315 克 画 雅馬図 (ヤマト) 依託海旬自然 仕 才川 野杏林 加斯台 阿克 73 団場 提克阿熱克 22 178 留 179 ますなあ 12345 







↑キルギス北西部の都市タラスの入り口。
 古 代キルギスの英雄マナスは、この近くで生ま れたという。


 ↑邪馬图の門。 筆者はこれを見 て奈良の大神(おおみわ)神社の三ツ鳥居を 想起した。 


↑元駐日イスラエル大使のエ リ・コーヘン氏。 日本人とユ ダヤ人の系譜的、 また精神的 な共通項について、 深い知性 と愛のある見解を示している。



 ↓邪馬国を流れる伊犁川。 天山山 脈を水源とし、この地の遊牧民を 潤してきた。





 東西に分かれた兄弟 キルギス人と秦氏。

 弓月、雅馬圏の南西隣りには、キル ギス共和国がある。筆者はキルギスに いたとき、秦氏のルーツに関して次の ような情報を得た。 
 それは「マナス叙事詩」研究家でマ ナス・アカデミーの一員でもあるキルギス人のトロベック氏から聞いた話で ある。筆者にとって氏の話は、まさに これまで謎だった過去の歴史が解き明 かされ、空洞が埋められる経験だった。 
 トロベック氏によれば、キルギスに 古くから伝わる「マナス叙事詩」(日 本でいえば「古事記』のような古い伝 承)には、昔エニセイ川の上流にいた 兄弟が別れ、西に行った者はキルギス の主要民族となり、東に行った者は日 本人になったという話が書かれている。 
 そのキルギス人の主要民族は、越= ユエ (Yueh)と呼ばれ、もともと揚 子江の南に住んでいた。秦氏の住んだ 弓月も、中国語でクン・ユエ(Kung- Yueh) と発音され、ユエが入ってい ることがわかる。 
 キルギス人の主要民族「ユエ」は、 中国人からは「月氏」と呼ばれた。 つ まり弓月の秦氏、およびキルギスの主 要民族は、ともに月氏と深い関係があ ることになる。 
 月氏は紀元前2世紀に戦乱の中、大 月氏と小月氏に分かれた。大月氏はそ の後、クシャン国(カシミール~中央 アジア)を建てるが、一部は北の伊犁 に逃走した。 
 トロベック氏によると、この伊犁に 逃げた大月氏はキルギス人であり、ま た秦氏であるという。秦氏はキルギス 語で「ハタハン」または「カタハン」 というが、キルギスでハタハン=カタハンとは大月氏のことである。「ハタ」 は「大きい」を意味し、「ハン」は氏 族を意味する。 
 つまりそれは大きいほうの氏。 また キルギス人は弓月の民(キルギス語で ユイ・チィ)であり、月氏なので、秦 氏は大月氏であり古代キリスト教徒で ある。このように、弓月の民はのちに キルギス人と秦氏に分かれた。彼らは もともと同族である。 


キルギスとイスラエル そして日本の祖

 筆者はまたキルギスで、 「マナス叙事詩」研究家のリズベク氏からも話を 聞くことができた。彼はアメリカ人で あり、キルギスに長年住み、『Lost and Found』 という著書を出版した。 
 リズベク氏によると、キルギスの主 要民族の先祖はヤキプといい、彼には 1人の息子がいた。ヤキプの周辺はイ スラエル人の父祖ヤコブにじつによく 似ていて、ヤキプとはすなわちヤコブ であるという。 またヤキプには、マナスという息子 がいた。「マナス叙事詩」のマナス、 キルギス人の父祖だ。 このマナスとは すなわち、ヤコブの息子とされたマナ セである (マナセ ヤコブの孫にあた るが、イスラエルの歴史ではヤコブの 息子として扱われた)。 

 マナス=マナセは、いわゆる「イス ラエルの失われた10支族」のひとつ= マナセ族の父祖でもある。すなわちキ ルギスの主要民族は、古代イスラエル 人の末裔である。 実際キルギスには、 古代イスラエル人特有の風習が数多く 残っている。 
 この説によれば、彼らと同族だった 秦氏もまた古代イスラエル人の末裔と いうことになる。
 最後に、元駐日イスラエル大使のエ リ・コーヘン氏から伺った話を紹介し たい。氏とは2012年にエルサレム でお会いすることができた。 
 筆者がまず問うたのは、日本におけ る八百万の神についてだ。 一神教の牧 師の多くから、日本人は多神教信者と 決めつけられていることについて、“兄 弟〟の見解を伺いたかったのだ。 
  「八百万(やおよろず)の神とは"神はどこにもおら れる〟という意味です。神が800万 いるという意味ではありません。日本 語の八の文字は唯一、真ん中が空いた数字で、無制限を表します。  神はどこにでもおられる。その点でユダヤ教と一緒です」

  次に、ユダヤ人の使命に ついて問うことにした。彼 らはなぜ、ユダヤ教にこれ ほどこだわるのか? ユダヤ人をユダ ヤ人たらしめるものとは何か?
  「ユダヤ人は世界中に神の言葉を広め ることがもっとも大切だと思っていま す。ユダヤの信仰がここまで保たれた のには、3つの要素があります。 文化、 土地、部族意識。 文化には宗教も入り ます。日本では神道がそうですね。わ れわれは国土を失ったので、毎日シオ ン (エルサレム) に戻る祈願をしてい ました。 
 日本の皆さんには、祖国と思える国 土があり、神道があり、また日本語と いう言葉があります。これら3つを守 るかぎり、日本国は安泰でしょう。 も 国土が侵略されたとしても、国民は 存続しなければなりません」 
 聖書には、離散したイスラエルの支 族は帰還するとある。だとすれば、日本人もまたエルサレムに戻るべきなの ではないか? 
「日本人が戻るべき場所、守るべき場所は、エルサレムではありません。日本という場所です。皆さんは日本国が神聖で、その文化を信頼し、日本民族であることの意味を心から信じきっているからです。 常に心を広く、冷静で、 勇気ある決断をしつづけてください」 
 コーヘン氏の言葉の中に、4000 年にわたる日本とイスラエルの 共通の父からの愛を感じた。



↑盆地と川に囲まれたイリ地方は、日本の奈良盆地を思わせる地勢 だ。



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slowslow2772さんによるXでのポスト 白馬寺

https://x.com/slowslow2772/status/1870755067856564444?s=61     slowslow2772 ⁦‪@slowslow2772‬⁩ 使徒トマス pic.x.com/cQvfnZHbWu   2024/12/22 17:55 ...