参考文献:
『大嘗祭』(財団法人京屋社会福社事業団、平成7年[1995年])非売品
四国の海沿いのこの話を
九州日向から出雲に行って奈良に行って
東遷してみたいな大きい話に
変えたんじゃないのかっていうのが先生の説
なんせ先生の畿内遷都の話がすごいです
畿内に移って藤原京までは阿波にあったっていう話がね
あれがなかなかすごいです
天武天皇が危篤になった時
天武天皇何もできませんよ
祟ってるっていうんで
守ってる草薙剣を引き剥がして東国に持っ
ていったわけですよ
今度持統時代になります
でもこれは藤原不比等が実権を握った時代で
持統5年691年に新益京の地鎮祭、これ
が出てくるんです
すぐその翌年に藤原宮の地鎮祭をやってるんです
藤原宮の役(えだち)の歌っていうのがあるんです
その前の神々までもが現れてそれを手伝うっていうような歌なんですよ
持統天皇が自分は移りたくないということで今の鴨島、吉川市に地鎮祭をしてその2年後に藤原宮に移ります
ここが対立点です
持統6年伊勢に行幸するとこれは(アマテラスの)鏡を持っていきます
要するに天皇から引き離すわけです
で皇子たちはみんな恐れてた
いつ殺されるかってビクビク
歌にも残ってます
持統天皇を退位させて文武天皇慶雲元年704年に
初めて藤原宮を定める
その3年後文武天皇の時代に歴史上初めての遷都会議を始めて開く
天武天皇の皇子たちがいっぱいおるにも関わらず
その文武天皇の母親に天皇をさせるわけです
女帝
元明天皇にこれですぐに遷都を迫るわけです
708年に平城遷都の詔を出させて2年後の710年に平城に遷都するんです
「初メテ平城ニ遷都ス」っていう記事です
そういう記事を読めばね
やっぱり阿波から奈良にその時に移ってる
と
天武と持統の子供である草壁皇子
草壁皇子が天皇から譲り受けた島の宮があります
でちょうど小松島の坂野に
嶋ノ宮神社ってあるんですよ
参考文献:
『大嘗祭 第百二十五代天皇陛下・即位礼 皇太子さま雅子さまご成婚・阿波古代史』(財団法人京屋社会福社事業団)平成7年 1995
参考文献:
『大嘗祭』(財団法人京屋社会福社事業団、平成7年[1995年])非売品
紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-3e6f.html
梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。
詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。
そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。
その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。
志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも (3-267)
猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。
弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう
https://youtu.be/5sgu7cEEvc8?si=dgnJioOpR1L2So2M
https://www.blogger.com/blog/post/edit/756445346920566665/1196928066407617503
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https://x.com/slowslow2772/status/1761426062528160104?s=61
四国の海沿いのこの話を
九州日向から出雲に行って奈良に行って東遷してみたいな大きい話に変えたんじゃないのかっていうのが先生の説
なんせ先生の畿内遷都の話がすごいです
畿内に移って藤原京までは阿波にあったっていう話がね
あれがなかなかすごいです
天武天皇が危篤になった時
天武天皇何もできませんよ
祟ってるっていうんで
守ってる草薙剣を引き剥がして東国に持っ
ていったわけですよ
今度持統時代になります
でもこれは藤原不比等が実権を握った時代で
持統5年691年に新益京の地鎮祭、これ
が出てくるんですよ
すぐその翌年に藤原宮の地鎮祭をやってるんです
藤原宮の役(えだち)の歌っていうのがあるんです
その前の神々までもが現れてそれを手伝うっていうような歌なんですよ
持統天皇が自分は移りたくないということで今の鴨島、吉川市に地鎮祭をしてその2年後に藤原宮に移ります
ここが対立点です
持統6年に伊勢に行幸するとこれは(アマテラスの)鏡を持っていきます
要するに天皇から引き離すわけです
で皇子たちはみんな恐れてた
いつ殺されるかってビクビク
歌にも残ってます
持統天皇を退位させて文武天皇慶雲元年704年に
初めて藤原宮を定める
その3年後文武天皇の時代に歴史上初めての遷都会議を始めて開く
天武天皇の皇子たちがいっぱいおるにも関わらず
その文武天皇の母親に天皇をさせるわけです、女帝
元明天皇にこれですぐに遷都を迫るわけです
708年に平城遷都の詔を出させて2年後の710年に平城に遷都するんです
初めて平城ニ遷都スっていう記事です
そういう記事を読めばね
やっぱり阿波から奈良にその時に移ってる
と
天武と持統の子供である草壁皇子
草壁皇子が天皇から譲り受けた島の宮があります
でちょうど小松島の坂野に嶋宮神社ってあるんですよ
@luminous womanに返信 https://vt.tiktok.com/ZSFhbqDs1/
天武天皇
686年(天武15,朱鳥1)6月10日
《戊寅(十日)に、天皇の病を卜ったところ、
草薙剣(このころ宮中に置かれていたか)の祟りで
あるとのことであったので、即日、尾張国の熱田社
に送って安置させた。》『日本書紀』
持統天皇
691年 (持統5)10月27日
《甲子(二十七日)に、使者を遣わして
新益京(藤原京)の鎮祭を行なわせた。》★
持統天皇
692年 (持統6)5月23日
《丁亥(二十三日)に、浄広肆難波王らを遣わし、
藤原宮の地を鎮祭させた。》『日本書紀』
持統天皇
692年 (持統6)3月
《三月の丙寅の朔戊辰(三日)…
中納言大三輪朝臣高市麻呂は冠位(位冠)を脱いで
朝廷にささげ、 「農作の時節に行幸なさるべきで
はありません」 と重ねて諌め申し上げた。
辛未(六日)に、天皇はこの諌めに従われず、
ついに伊勢におでましになった。》『日本書紀』
持統天皇
694年 (持統8)12月6日
《十二月の庚戌の朔乙卯(六日)に、
藤原宮にお遷りになった。》
『日本書紀』
(藤原京は、長く使い続けることを前提にした本格的な都城(とじょう)。計画者は天武天皇で、694年(持統天皇8年)に完成し、持統天皇によって遷都が行われました ...
藤原宮に遷る
十二月の庚戌の朔乙卯(六日)に、藤原宮にお遷りになった。戊午(九日)に、百官が拝朝した。己未(十日)に、親王以下郡司らに至るまでに、それぞれ絁・綿・布を賜わった。辛酉(十二日)に、公卿大夫に宴を賜わった。)
文武天皇
704年(慶雲1)11月20日
《壬寅,始定藤原宮地。》『続日本紀』より
文武天皇
707年(慶雲4)2月19日
《戊子,詔諸王臣五位已上,
議遷都事也。》『続日本紀』より
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki04.htm#skk04_03
元明天皇
708年(和銅1)2月15日
《戊寅,詔曰:「…遷都之事,必未遑也。…」》
(『続日本紀』より)
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki05.htm
元明天皇
710年(和銅3)3月10日
《辛酉,始遷都于平城。》(『続日本紀』より)
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki05.htm
40代、天武天皇(生没年 ?~686、在位673~686)
41代、持統天皇(645~702、在位690~697)天武天皇の皇后
42代、文武天皇(683~707、在位697~707)
藤原不比等(659~720)
生没年 : ?~686
飛鳥時代(在位673~686)
草壁皇子 (くさかべのみこ)
生没年:662-689(天智1-持統3) ... 天武天皇の皇子で,母は持統天皇。文武・元正天皇,吉備(きび)内親王の父で,后は元明天皇。672年の壬申( ...
生没年 : 662~689. 飛鳥時代の皇族。天武天皇を父、持統天皇を母とする。元明天皇との間に文武天皇・元正天皇が生まれる。壬申の乱では、天武天皇と行動を共にした。
以下『続日本紀』講談社学術文庫より
文武天皇(慶雲元年七月~十二月)704
十一月二十日 初めて藤原宮の地所を定めた。住宅が宮の敷地内に入った千五百五戸の人民に、身分などに応じて布を賜わった。
[上69頁]
(慶雲四年)707
(七〇七)
二月十九日 諸王・諸臣の五位以上の者に詔を下し、遷都のことを審議させた。
[上87頁]
元明天皇
(和銅元年正月~二月)708
二月十五日 次のような詔を下した。
朕は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳がうすいにも拘らず、天皇という尊い位にいる。 常に思うのに、「宮室を造る者は苦労し、これに住まう者は楽をする」ということばである。遷都のことは必ずしもまだ急がなくてよい。
…
ここに都邑を建てるべきである。その造営のための資材は、必要に応じて箇条書きにして奏上せよ。 また秋の収穫の終るのを待って、路や橋を造らせよ。 子が親を慕うように寄ってきて、仮りにも人民に騒ぎや苦労をさせるようなことがあってはならぬ。制度を適切なものにして、後から負担を加えることがないようにせよ。
[上99~100頁]
(和銅3年)710
三月十日 初めて平城京に遷都した。左大臣正二位の石上朝臣麻呂を、藤原京の留守司とした。
[上118頁]
[頁数は『続日本紀』講談社学術文庫]
ーーー
天武天皇
686年(天武15,朱鳥1)
6月
《戊寅(十日)に、天皇の病を卜ったところ、草薙剣(このころ宮中に置かれていたか)の祟りであるとのことであったので、即日、尾張国の熱田社に送って安置させた。》
『日本書紀』より
持統天皇
691年 (持統5)
10月
《甲子(二十七日)に、使者を遣わして新益京(藤原京)の鎮祭を行なわせた。》
692年 (持統6)
3月
《辛未(六日)に、天皇はこの諌めに従われず、ついに伊勢におでましになった。》
692年 (持統6)
5月
《丁亥(二十三日)に、浄広肆難波王らを遣わし、藤原宮の地を鎮祭させた。》
★
http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/77/7719/771902a.htm
万葉集
巻一:50 藤原宮フヂハラノミヤの役民エダチノタミの作ヨめる歌ウタ やすみしし 吾が大王オホキミ 高タカ照テらす 日之皇子ヒノミコ 荒妙アラタヘの 藤原フヂハラがう へに 食国ヲスクニを めし賜タマはむと 都宮オホミヤは 高タカ知シらさむと 神カムながら 念オモ ほすなべに 天地アメツチも よりてあれこそ 磐イハ走ハシる 淡海アフミの国クニの 衣手コロモデ の 田上山タナカミヤマの 真木マキさく 桧ヒの嬬手ツマデを もののふの 八十氏河ヤソウヂガワに 玉藻タマモなす 浮ウカべ流カガせれ 其ソを取トると さわぐ御民ミタミも 家イヘ忘ワスれ 身ミも たな知シらに 鴨カモじもの 水ミヅに浮ウき居イて 吾ワが作ツクる 日之御門ヒノミカドに 知シ らぬ国クニより 巨勢道コセヂより 我ワが国クニは 常世トコヨにならむ 図フミ負オへる 神亀 クスシキカメも 新代アラタヨと 泉イヅミの河カハに 持モち越コせる 真木マキの嬬手ツマデを 百足モモタ らず いかだに作り 泝ノボすらむ いそはく見れば 神随カムナガラならし(巻一)
http://manyou.plabot.michikusa.jp/yasumisisi_wagoookimi.html
藤原宮の役民(えき[エダチ]のたみ)の作れる歌
やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(たへ)の 藤原がうへに 食(を)す国を 見(め)し給はむと 都宮(みあらか)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地(あめつち)も 寄りてあれこそ 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手(ころもで)の 田上山(たなかみやま)の 真木(まき)さく 檜(ひ)の嬬手(つまで)を もののふの 八十氏河(やそうぢがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其(そ)を取ると さわく御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る 日の御門(みかど)に 知らぬ国 寄(よ)し巨勢道(こせぢ)より わが国は 常世(とこよ)にならむ 図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足(ももた)らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらならし
巻一(五〇)
-----------------------------------------------
すべての国土をお治めになるわが大君、高く輝く日の御子は、荒布の藤原の野の上にこの国を統治なさろうと、宮殿も高々と作り支配なさろうと、さながらの神としてお思いになった。
天地も合い寄りてお仕えし、岩ほとばしる水の国近江の、衣の袖の田上山の、真木を割いた檜の荒材を、もののふの八十の宇治川に玉藻のように浮かべ流していることだ。
それを取ろうと騒ぎ働く御民も、家のことは忘れ、わが身もまったく顧みず、鴨のように水に浮かびて、日の御子の朝廷を造営する。
その朝廷に知らぬ国も寄りついて来るという巨勢道から、わが国が永遠に栄えるだろうと予見させる図をもった神々しい亀も、新しい御代の初めとして出でて来たる。
泉川に運び込んだ真木の荒材を、百足らぬ筏に組んでは川をのぼらせているようだ。
役民たちが一生懸命に働いているのを見ると、これも天皇の神のお力なのだろう。
以下
続日本紀
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokkitop.htm
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki03.htm#skk03_04
文武天皇
704年(慶雲1)
11月
《壬寅,始定藤原宮地。》『続日本紀』より
文武天皇
707年(慶雲4)
2月
《戊子,詔諸王臣五位已上,議遷都事也。》
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki04.htm#skk04_03
元明天皇
708年(和銅1)
2月
《戊寅,詔曰:「…遷都之事,必未遑也。…」》
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki05.htm
元明天皇
710年(和銅3)
3月
《辛酉,始遷都于平城。》
万葉集1608
弓削皇子(ユゲノミコ)の御歌
《秋萩の上に置きたる白露の、消かも死なまし…》
(…一層萩の上に置いてゐる露のやうに、
消えて死んで了はうか知らん。)
『万葉集』
1608
弓削皇子(ゆげのみこ,673?~699)天武天皇の第六の皇子
ーーー
692
大三輪高市麻呂の諌言 二月の丁酉の朔丁未(十一日)に、諸官に詔して、 「三月三日に伊勢に行幸しようと思うので、そのつもりで衣類を準備するように」 と言われた。また陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二十両を賜わった。乙卯(十九日)に、刑部省に詔して、軽繋(軽微な罪の嫌疑で拘禁されている人)をお赦しになった。この日に、中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂が上表して直言し、天皇が伊勢に行幸され、人々の農耕の時節を妨げることについて諌め申し上げた。
三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張らを留守官(天皇の行幸にさいし皇居に留まって守衛する官)とした。このとき中納言大三輪朝臣高市麻呂は冠位(位冠)を脱いで朝廷にささげ、 「農作の時節に行幸なさるべきではありません」 と重ねて諌め申し上げた。
辛未(六日)に、天皇はこの諌めに従われず、ついに伊勢におでましになった。
壬午(十七日)に、行幸の経過した神郡(伊勢国度会・多気両郡の郡司)、および伊賀・伊勢・志摩の国造らに冠位を賜い、あわせてこの年の調役を免じ、また行幸に供奉した騎士、諸司の荷丁(運搬のための役夫)、行宮の造営にあたった丁のこの年の調役を免じ、全国に大赦を行なった。ただし盗賊は赦の対象とはしなかった。
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki04.htm#skk04_03
元明天皇
708年(和銅1)
2月
《戊寅,詔曰:「朕祗奉上玄,君臨宇內。以菲薄之德,處紫宮之尊。常以為,作之者勞,居之者逸。遷都之事,必未遑也。…」》
また石作皇子(いしづくりのみこ)のモデルは多治比嶋. (624-701:左大臣),車持皇子(くらもちのみこ)のモデルはなんと藤原不比等(659. -720:右大臣)であること ...
2016/11/5 -この藤原不比等がなぜ車持皇子という皇族の登場人物のモデルとされているかというと、不比等は天武天皇の二代前の天智天皇の落胤という説があって、母の車 ...
(Answer). かぐや姫と王権神話 : 『竹取物語』・天皇・火山神話 / 保立道久著 洋泉 ... 不比等(ふじわらのふひと) 『国史大辞典』に次の情報があった。 多治比島 たじひ ...
古代文明ミステリー たけしの 新・世界七不思議5
藤原不比等(日本語字幕) https://youtu.be/f7iy_lavAAw?si=REyMOK91TWE5SJy2 @YouTubeより
弓削皇子(ユゲノミコ)の御歌
1608 秋萩の上に置きたる白露の、消かも死なまし。戀ひつゝあらずは
1608 焦れて居る位ならば、一層萩の上に置いてゐる露のやうに、消えて死んで了はうか知らん。
ゆげ‐の=みこ【弓削(ノ)皇子】[673?~699] 天武天皇の第六の皇子で、母は天智天皇の皇女大江皇女で、長(ノ)皇子の同母弟、草壁皇子・大津皇子等の異母弟である。持統天皇の七年正月淨廣貮を授けられ、文武天皇の三年[699]七月二十一日に薨ぜられた。(111)・(119)・(130)・(204)・(242)・(1467)・(1608)・(1701)・(1709)・(1773)
弓削皇子
弓削皇子(ゆげのみこ)は、天武天皇の第九皇子(第六皇子とも)。冠位は浄広弐。
経歴
生年は不詳だが、寺西貞弘らによって天武天皇2年(673年)誕生と推測されている。この推定は大宝律令の蔭位の制によって算出されたもので、それほど外れてはいないと思われる。
持統天皇7年(693年)同母兄の長皇子と同時に浄広弐に叙せられる[1]。持統天皇10年(696年)太政大臣・高市皇子薨去後の皇嗣選定会議において発言しようとするも、葛野王に叱責されたことが知られる[2]。同母兄である長皇子を推薦しようとしたのだと推測されている[3]。文武天皇3年(699年)7月21日に母や兄に先立って薨去。前述の生年推定に従えば享年27。
人物
『万葉集』には8首の歌が収録されており、これは天武天皇の皇子のなかで最多。異母姉妹の紀皇女を思って作った歌、額田王との問答歌などがある[4]。また、それとは別に柿本人麻呂歌集に弓削皇子に献上された歌が5首残されており、交流の跡が偲ばれる。他の歌人とも交流があり、歌を好んだ皇子であったようである。なお、神田秀夫によって『万葉集』の編者のひとりに擬せられているが、現在ではほとんど支持されていない。
弓削皇子に関する歌
『万葉集』巻第2 119~122番(弓削皇子が紀皇女を思う歌)
- 吉野川 行く瀬の早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも
- 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを
- 夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の 浅香の浦に 玉藻刈りてな
- 大船の 泊つる泊まりの たゆたひに 物思い痩せぬ 人の児故に
『万葉集』巻第3 390番(紀皇女の歌)
- 軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに
異説など
梅原猛著『黄泉の王』では、高松塚古墳の被葬者に比定されている。また、同書では『万葉集』を根拠に軽皇子(のち文武天皇)の皇太子妃であった紀皇女と密通し、それが原因で持統天皇によって処断されたとの仮説を述べている。
後世の俗書では弓削道鏡との血縁との伝説もあるが、証拠はない。
系譜
脚注
参考文献
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 |
この項目は、日本の皇室、皇族に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Category:日本の皇族)。 |
https://vimeo.com/917146803
https://www.shikoku-saigai.com/archives/2751
災害年月日0684
- 年11月26日市町村高知県四万十町(窪川町)災害種類地震・津波 概要天武13年(684)10月14日、地震が発生した。日本書紀には「土佐国の田苑五十余万頃、没して海となる。」と記されており、このことは「五社鎮座傳記」(甲把瑞益著)にも引用されている。この地震により黒田郷の沈没などが伝承されているが、志和の諏訪神社は白鳳の地震で水没した黒田郷内の12社を合祭したものと言われている。大地震で海中に没した黒田礁神社御神体が数日後に志和海岸に漂着したため、これを祭るために他の神社も併せて合祭したものであるという。
https://www.shikoku-saigai.com/archives/2460
0684年11月26日市町村愛媛県西予市(三瓶町)災害種類地震・津波 概要天武13年(684)10月14日、巨大地震が南海トラフで起こった。「日本書紀」によると、「国挙りて、男女叫びよばいて、まどいぬ。則ち、山崩れ河湧く、諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊の類、あげて数うべからず。是によりて、人民及び六畜、多に死傷わる。時に、伊予温泉、没れて、出でず。土左国田苑五十余万頃、没して海となる。」と記されている。この後、西南日本南岸に大津波が来襲し、調を運ぶ御用船が多数流失したという土佐国司からの報告がある。
天武天皇13年の地震 | 四国災害アーカイブス
https://www.shikoku-saigai.com
>archives
災害年月日: 0684年11月26日 · 市町村: 高知県四万十町(窪川町) · 災害種類: 地震・津波 · 概要: 天武13年(684)10月14日、地震が発生した。日本書紀には「土佐国の田苑五 ...
未指定:天武紀
白鳳地震 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org
>wiki
>白鳳地震
『日本書紀』巻第二十九、天武13年10月14日(684年11月26日[J]、11月29日[G])、地震および伊豆諸島噴火の記録。 · 天武13年11月3日(684年12月14日[J]、12月17日[G])、 ...
天武天皇の年齢研究-天武大地震 - BIGLOBE
http://www7a.biglobe.ne.jp
>~kamiya1
>mypage-d
416允恭5年7月14日 「五年秋七月丙子朔己丑、地震。」 被害の記述はありませんが、日本書紀では初見となり日本最初の地震記録です。但し、年号にズレが有ります。
小杉帽邨が遺した阿波国徴古雑抄
藤原宮推定地付近(天神社境内)からの眺め(麻植郡鴨島町)
らず国名が記されていないという不自然な文章です。ただ記事の後半には、伊予・土佐の被害状況が書かれているので、津波を除く
地震災害の極地性から判断すれば、その前半は阿波国内(または讃岐の一部を合わせた二国)の被害記録であることが判然としてき
ます。つまり、主語を省略しても被災国が阿波国であると判かる記事です。では、なぜ「日本書紀」には「阿波国」と書かれなかっ
たのか。それは阿波が帝都(倭)であったからで、私は次のように推理しています。
『日本書紀』の資料となった右(天武紀十三年の地震) の原記録には、被災国として、帝都の倭(阿波)や、伊予・土佐等四国の
国名が書かれていたと思われます。ところが『日本書紀』にそのまま国名を(帝都の被害として) 書き入れますと、伊予国や土佐国
と並んで被害を蒙った帝都が阿波国であることが自ずと明らかとなり、奈良大倭はその後遷された新都であることが判明してしまう
ため、『日本書紀』編纂段階(またはその後の書写の段階)で帝都の国名を削り、結果として省略形の文章となったのです。
他にできる推理としては、もとより国名が省略されていたとする考え方です。しかし、『日本書紀』で国名が省略されるのは、帝都
でおこったことが自明の宮廷内の出来事などの場合であり、地震記事は省略形になじまないように思われます。なお、この地震の記
事が省略形であったとしても、帝都は伊予・土佐と並ぶ被災国となり、畢竟、「被災国=帝都=阿波国」を指し示すことに変わりはあ
りません。
また、逆説的にいえば、この当時阿波が帝都でなく、単に一行政区域の阿波国であれば、『日本書紀』の編者等は何ら躊躇すること
なく、「阿波国男女叫唱、不知東西・・・、伊豫・・・、土左国・・・」と四国の被害状況を書き記したことでしょう。したがって、国名が書かれ
ていないというところに、この記事の意味深長な背景がよみとれ、天武天皇の時代、帝都が阿波にあったことを示す一文ということ
ができます。
括りに、この記事が、主語(被災国=倭国)の省略された帝都の被災記録であるとしている岩利氏の見解を掲げます。
伊豆島で海底火山の大噴火が起ったのが原因の大地震大津波であったのですが、おかしい記録と思われませんか。伊与、土佐に
これだけの大被害が生じ当時の古老でさえが古今未曽有と言った程の大地震が隣接する地つづきの讃岐、阿波にも同程度の被害、
いや伊豆島海底での大噴火が原因なのですから四国島内では、阿波国が最大の被害を受けるのが常識です。最も影響が少ないの
が現在の近畿地方で、奈良県は最も影響のない地方です。 国を挙げ男女泣きさけびながら右往左往し山が崩れ河川の水が湧出し
たの記述は、阿波讃岐地方の情景ではないでしょうか。此の記録も天武天皇の宮處が、この地方であった一つの証しととらえて
います。
天武天皇の崩御(六八六年)後、帝位に即いた后の持統天皇は、夫の遺志を受け継ぎ遷都の準備をすすめたと思われます。 この時
期奈良遷都を画策し推進したのは、さきに少し触れた藤原不比等で、これに抵抗を示して言挙げした歌人が柿本人麻呂です。ただ持
統天皇ご自身は、自らの治世中は阿波にとどまろうとされた女帝で、そのことは、ほぼ同時期に二つの宮の造営を企画し、一つ(新
益京)を奈良大倭に、もう一つ(藤原宮)を阿波(倭)国内に造営していることからもうかがえます。 通説では、藤原宮を奈良県橿
原市高殿町の通称「藤原京跡」に比定し、新たに益された「新益京」も同じ藤原宮を指すとしています。しかし、持統紀五年十月二
十七日条に「遣使者、鎮祭新益京。」とみえ、その翌年の五月二十三日条に「遣浄廣肆難波王等鎮祭藤原宮地。」とあるのを、
ともに藤原宮の地鎮祭とするのは明らかに矛盾です。国史研は、今日伝えられている奈良県橿原市の藤原京跡が、阿波倭から内海を
渡って新たに益された「新益京」(従来の宮とは比較にならないほど大規模な京)跡とみています。そして、ほぼ同時期に造営された
「藤原宮」(それまでの宮と変わらない規模の宮)を、阿波吉野川中・下流域南岸の麻植郡鴨島町天神周辺と推定しています。この地
は飛鳥浄御原宮推定地 (徳島市多家良町宮井周辺)と、持統天皇が度々行幸した吉野宮(吉野川を見おろす三好郡三野町加茂野宮)
とのほぼ中間に位置し、宮の右方(東の下流域)には大日霊命の鎮まる矢野神山の気延山系に接し、左方には伊迦賀色許売命(崇神
天皇の母)の鎮まる川島郷の丘と荒妙の忌部山が連なる。前方(北方向)には吉野川を挟んで倭の青垣(阿讃山脈)が山隠り、真正
面に御諸 (御所) 山と麓に神武天皇が即位した樫原の神の宮(板野郡土成町樫原)、右前方(北岸下流域)が亀の甲に乗り速吸名門(鳴
門)を縄張りとした海人の大人宇豆彦の水域と田上山、左前方が夫の天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱に及んで戦勝を祈願した大
野丘の大野寺 (阿波郡市場町大野)、さらにその前方には倭の古京(市場町奈良坂)と応神・仁徳帝が拓いた奈良街道の望める、鳴じ
も(鴨島)の藤井が原に位置しているのです。 持統天皇自らが奈良大倭に遷都する意思を持たなかったと述べたのは、吉野宮への行
幸にとって便利な鴨島の地に藤原宮を造営したからで、遷都は孫にあたる珍皇子(のちの文武天皇)に託し、自らは皇祖皇宗の鎮
まるももしきの倭の地で余生を過ごそうとしたものと思われます。そのことは藤原宮の造営にかかわる記事が瀕出することからもう
かがえ、持統四年(六九〇)から八年までは、左に掲げるとおり、奈良大倭への遷都に向けて行われた記事 (□印)と倭国内の藤原
宮の記事(◯印)が並出しています。
○持統四年十月二十九日高市皇子、藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり。
○十二月十九日 天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり。
□五年十月二十七日使者を遣して新益京を鎮め祭らしむ。
□十二月八日詔して曰はく、「右大臣に賜ふ宅地四町。直広弐より以上には二町。大参より以下には一町。勤より以下、無位に至る
までは、其の戸口に随(したが)はむ。…
岩波版ではこれを新益京での宅地の配分としている。おそらく遷都に備えたものと思われ、六年九月九日条の四畿内への班田大夫
の派遣も同じであろう。
□六年一月十二日 天皇、新益京の路を観す。
○五月二十三日 難波王等を遣して、藤原の宮地を鎮め祭らしむ。
□五月二十六日 使者を遣して、幣を四所の、伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神に奉らしむ。 告すに新宮のことを以てす。
〇六月三十日 天皇、藤原の宮地を観す。
□九月九日 斑田大夫等を四畿内に遣す。
〇七年八月一日 藤原の宮地に幸す。
〇八年一月二十一日 藤原宮に幸す。
〇十二月六日 藤原宮に遷(うつ)り居します。
以上の記事から、藤原宮と新益京は、地鎮祭に限らずそれぞれ別の次元で進行していることがよみとれ、これを同一の宮(京)と
することはできません。
藤原宮は、その造営にたずさわった藤原宮の役(えだち)の民の作れる歌が万葉集に収められていますので、宮地の検証は不可能ではありま
せん。ここでは、岩利大閑氏の考証(「道は阿波より始まる』 その二)をもとに解説しますので、諸氏におかれては通説と比較し、い
ずれが藤原宮の地なのか自らも検証してください。
藤原宮の役民の作る歌(万葉集巻一・五〇)
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子
荒妙の 藤原が上に食国を見したまはむと都宮は高知らさむと 神なが
淡海の国の 衣手の
磐走る
ら 思ほすなへに天地も依りてあれこそ
八十氏川に 玉藻なす 浮かべ流せれそを取ると 騒く御民も家忘れ 身もたな知らず 鳴じもの 水に浮き居て 我が作
田上山の真木さく棺のつまでをもののふの
日の御門に知らぬ国よし巨勢道より 我が国は常世にならむ図負へる神しき亀も 新た代と泉の川に持ち越
せる 真木のつまでを百足らず 筏に作り のぼすらむ いそはく見れば 神からならし
これまで私は、この歌にもみえる「荒妙(鹿布)」 「磐走る」「淡海の国」「田上」「八十氏(川)」等について少なからず解説してきま
したが、それに加え、中年以上の徳島県人なら、歌中にみえる「藤原」「田上」「桧」「鳴じも」「泉の川」などの地名から、この歌が、
吉野川中下流域北岸の板野郡と南岸の麻植郡あたりをうたった歌ではと察しがつくでしょう。岩利氏はこの歌の意味を次のように
総括しています。
総体の意味は、「天照す日神子命以来の我国の天皇が、安らけく居ます大宮を藤原に造るにあたり、我々が田上山の桧を切り出
し、八十川の水筋も利用、泉谷の入江まで多くの民々が手助けして運び、この泉の入江で数多くの筏にしつらえ、対岸の鴨島の
入江まで引きのぼり、この木材を以って藤原宮を作ったのだ」と、ほこった役(えだち)の人々の宮ぼめ歌です。
「荒妙の藤原が上に」とは、この地が麻植郡内で、日継ぎの神事である践祚大嘗祭に、皇祖の御衣として阿波忌部が荒妙を織り
だいじょうさい
上げ、この藤原宮(麻植郡鴨島町)の後方の山上の貢村(現在の木屋平村三ツ木)から、大嘗宮のしつらえられた京師の大内裏まで
藤原の役君の尊像(鴨島町天神社境内)
敷島神社裏山の西宮古墳(鶴島町敷地)
輸されているためで、日継ぎの物実(ものざね)たる「あらたえ」を枕ことばとして藤原の宮地の言祝ぎをしたものです。したがって、この一句
で藤原宮が阿波国麻植郡に造営されたと断定できるほどの意味があります。 「磐走る淡海の国」とは、天智天皇の淡海の大津宮の段
で述べたとおり、阿波の海が起こりで、吉野川の淡水に海水が入り込む阿波吉野川下流域から鳴門海峡を巡って讃岐の難波郷までの
海のことで、ここでは次の句「衣手の田上山の」にかかるので、板野町から鳴門市に面した吉野川河口部を指しています。万葉集の
淡海の海の歌にみえる「磯の崎」「粟の小島」が河口部から鳴門海峡にかけての景色、「八十島」「八十の湊」「八十氏川」は河口部及び
河口部の北岸を歌ったものです。また河口部の北端が壬申の乱で大友軍が追い詰められた粟津(鳴門市里浦町粟津)、その上流が天智
天皇の淡海の大津宮(鳴門市大津町・撫養町木津)、その上流が大麻山を背にした旧桧村、さらに田上郷へと連なっています。「衣
手の田上山」とは延喜二年の「阿波国板野郡田上郷戸籍断簡」にみえる旧田上郷(現在の板野町)の背後に聳える山と考えられ、大
麻山(五三八)の山麓部から桧を切り出したと思われます。田上郷の戸籍断簡には二十九の氏姓が記され、平安京の左京に住む名
族の戸籍薄といって差支えないほどの重なりを持つ八十氏の居住区を表していますが、この中に服部・錦部のほか衣手集団としての
帰化人姓が多く住んでいたため、衣手を田上山の枕詞にしたものと思われます。また、面白いことに大麻山の山麓に「桧」(旧檜村)
や「木場前」 「泉の尻」などの地名が残っておりますが偶然とは思われません。「もののふの八十氏川」とは、旧板野郡に住む八十氏よ
り起った枕詞で、田上郷の戸籍断簡にも饒速日命や武内宿禰の後裔氏族となる矢田部・物部・雀部・久米部・日下部・葛木などの苗
字がみられます。大麻山(田上山)から伐られた桧は、桧村あたりに集められ、ここから吉野川北岸の支流の川筋や板野町の八十氏
川を利用し、板野郡上板町の泉 川あたりまで水に浮べて持ち運んだのでしょう。 地名にも「泉谷」「泉谷川」が残っています。「神
しき亀」が新しい御代を祝福して表れたとあるのは、神武東征の段で述べたように、鳴門海峡から吉野川下流域一帯を縄張りとする
速吸の宇豆彦のことで、「古事記』に「亀の甲に乗りて打ち歩き来る人」とみえ、神武軍の海導者となった海人の大人の名です。宇
豆彦の名は鳴門の渦潮から取ったもので一族の大人の名として襲名してきたものと考えられ、第八代孝元天皇の妃である山下影比
売が宇豆比古の妹とあることからも名誉ある名として代々名乗ってきたものと思われます。また、山下影比売とは板野郡山下郷に住
む姫のことで、その孫が武内宿禰です。武内宿禰の居住区が板野町矢武、その子孫が田上郷戸籍断簡にも多くみられることから、彼
等は亀の甲に乗る伝説を持つ宇豆彦の子孫ということになります。ここでは吉野川下流域一帯の水域を縄張りとした宇豆彦の伝説か
ら「神しき亀」と表現し、神代にこの水域を支配した宇豆彦に敬意を表すとともに、その子孫が新しい御代を祝福して大勢が家のこ
とも考えず、自分のこともまったく顧ることなく手伝ったことを歌っています。次に「泉の川」とは、上板町 泉谷川のことで、そ
の下流部で絵を筏に組み、吉野川対岸(南岸)の鴨島まで引きのぼり藤原宮を建てたことが読みとれます。「鴨じも」とあるのは、鴨
島には「上下島」があり、ここでは鴨島の「下島」の岸辺に引き上げたものと思われます。なお、この歌でうたわれた「鴨じも」が
今日の「鴨島」の地名になったとも考えられます。鴨島の対岸に「藤原」「下藤原」「吉野」「亀田」の地名が残っているのは、あるい
は藤原宮造営に関係するものかも知れません。また、鴨島町の旧地名に、天神・宮間・城ノ内・宮ノ間裏(以上旧牛ノ島村)、宮ノ西・
宮南(以上旧山路村)、城丸・清水・宮ノ前(以上旧森藤村)、宮北(旧喜来村)、殿郷・神島・天島・宮地(以上旧鴨島村)、宮ノ内・
宮ノ西・呉島(以上旧上下島村)、北門・宮前・宮前原縁・殿原・天神・天神ノ下・高ノ原・藤井谷・藤井東谷(以上旧飯尾村)、梅宮・
宮北・西宮(以上旧敷地村)など 「宮」の付く地名が異常に多いのは、藤原宮の伝承によるものと考えられ、天神の西隣の山麓部に
は藤の古木の伝承のある四国霊場第十一番の藤井寺も置かれています。 寺名の藤井寺の名や地名の藤井谷は、藤原宮の御井の歌に出
てくる 「藤井が原」に通じるものと考えられます。おそらく鴨島町の山際に近い天神の周辺一帯が藤原宮の縄張りであったと思われ
ます。現在、山の端部にあたる天神の高台には天神社と、その脇の小祠には藤原役乃君と伝える尊像が祀られています。 岩利氏はこ
の社地を藤原宮の一部と推定しています。また、その麓には天皇の宮を一族で造営したとの伝承を持つ工藤姓が点在し、藤氏神社も
祀られています。 藤原宮を造営した一族の名が「工藤」を名乗るとは実にわが国の苗字はよく考えられており、奈良遷都後、藤原役
の一族がこの地に残り、宮跡に神社を建て、自らの先祖役の君)をも祀ったものと考えられます。
藤原宮の御井の歌(万葉集巻一・五二)
やすみししわご大君 高照らす 日の皇子 鹿の 藤井が原に大御門 始めたまひて 植安の提の上に あり立たし
見したまへば 日本の 青香具山は 日の経(たて)の大き時に春山と しみさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯(よこ)の 大き
御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨の 青須賀山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはしき 吉野の
山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ遠くありける 高知るや 天の御天知るや 日の御陰の 水こそは 常にあらめ 御井の清水
藤原宮は、役民の作る歌(五〇)と御井の歌(五二)の二首によってその造営地が確定できるのです。 二首ともに前の句の「荒妙
の藤原が上に」 「鹿妙の 藤井が原に」は、その場所を如実に示したもので、けっして他の場所の枕ことばとして汎用できるものでは
ありません。天子の日継ぎの物実である妙を作る阿波国麻植郡の藤井が原に大宮を造ってという意味で、鹿妙の調製は往古より忌
部の本貫地である阿波国麻植郡阿波忌部の氏人の専管掌職であることから、場所を示す句として用いられ、あわせて持統天皇の造営
する藤原宮を言祝ぎしたものです。この二首に表われる地名は右に紹介した阿波の古地名にほとんどが一致するはずで、「藤井寺)」
「藤井(谷)」は藤の井・御井から起った名です。 「植安の提の上」とは、麻植郡に東接するのが大日霊命の鎮る地名方郡埴土郷で、埴
土郷にちなんでか呼ばれるようになった埴安池の堤の上から藤原宮をみてよんだ歌という意味になります。青香具山は日の経(東)、瑞
山は日の緯(西)として藤原宮の東西を明確に示しています。青香具山とはさきに述べた徳島市と小松島市の境界にある日峯・龍山
山塊で、鴨島町藤井谷の東方向に位置しています。瑞山とはおそらく美馬郡貞光町端山を指したもので、この山は藤井谷の西に位置
しています。両者とも鴨島町から望める山ではありませんが、前の句で、皇祖天照大御神に供納されるとの観念で織り上げ、大嘗宮
の内陣に奠(そな)えられる鹿妙を枕詞として用いたため、後の句もすべて神代の聖なる枕詞で統一したものと思われます。天照大御神の岩
戸の神事に用いられた八多の鏡の鉄も香具山から取ったとの伝えがあり、瑞山も伊射奈美命の神陵の境界を画する山として登場して
いる当時の阿波国人(倭国の人)にはいずれも周知の聖山です。端山を瑞山(美豆山)と詠んだのは言祝ぎによる修辞と思われます。
「耳梨の青須賀山」が背面の方角にあるというのは、けっして北の方角でなく、藤原宮の背後のことで、ここでは四国山地を背に、
倭の青垣(阿讃山脈)を正面に造営されているので南の方角となります。 次の句で正面の吉野の山が「影面」(北の方角)になると歌
っているのがそのことを示しています。須賀山とは須佐之男命が櫛名田比売を娶り、須賀の地で宮を造って「八雲立つ・・・」として歌
った神山町広野の須賀山のことで、この山も香具山・端山とその神聖さ、由来において神代にまで遡った詞です。 藤井谷の南が名西
郡神山町(鮎喰川中・上流域)で大日霊命の奥の宮、その入口にあたる徳島市 八田町 天ノ原のすぐ奥に左右対称形の独立峰(耳なし)
の須賀山が位置しています。まさに新代の藤原宮造営にふさわしい寿詞です。 「名ぐはしき吉野の山は・・・」とあるのは、持統女帝がこ
よなく親しんだ上流の吉野宮に通じる山として形容したもので、美芳郡(三好郡) 美野郷に造営された吉野宮から、その前を滔滔と
流れる常滑の川を「吉野川」「御芳の川」と名付け、美芳野・吉野の山と汎ったものです。ここでは正面(正面ではあるが北方向の「影
面」となる)の倭の青垣(阿讃山脈)を持統女帝への言祝として吉野の山と歌ったものと思われます。鴨島町の対岸(北岸)に「吉
野(町)」や「五条」 「七条」の地名が残っているのは、あるいは藤原宮の名残りかも知れません。
藤原宮造営から三年後の六九七年八月一日、持統天皇は珂瑠皇子に皇位を譲り文武天皇の御代となります。四年後の大宝元年三月
大宝令の施行、八月、倭国の高安城を廃止し、その貯蔵品を大倭国・河内国の二国の烽に移します。
○文武帝慶雲四年(七〇七)二月十九日
詔諸王臣五位已上議遷都事也。
国史上初めて諸王臣の五位以上の者に遷都について議論をさせています。百しきの王城の地を離れる重要案件であったのです。
○元明帝和銅元年(七〇八)二月十五日
平城に新都造営を詔。
○同十二月五日 平城宮地で地鎮祭(鎮祭平城宮地)
○和銅三年三月十日 始遷都于平城。
元明天皇の御宇、和銅三年(七一〇)に、始めて平城の地に都が遷されたのです。
第四章 注
1 安本美典氏は「古代九州14の都」の中で、滝川政次郎氏の盆地湖説を紹介し、これを支持されている(『季刊邪馬台国」四一
号所収、一九九〇年梓書院刊)
直木孝次郎「奈良」一二ハページ(一九七一年岩波書店刊)
菅原康夫『日本の古代遺跡・徳島」(昭和六三年保育社刊)四五ページに紹介されている
岩波版日本思想大系「古事記』四四二ページ
(⑤) 上田正昭「倭国の世界」一一五ページ (昭和五一年講談社刊)
(⑥⑥) 「日本史辞典』四三七ページ(京大日本史辞典編纂会編・平成二年東京創元社刊)
埋蔵文化財資料展資料 『掘ったでよ阿波』より(一九八八年徳島県教育委員会刊)
(⑥6) 注③に同じ、一九六ページ
以下の記事も「半田町誌」別巻による(昭和五三年半田町誌出版委員会刊)
1 森浩一図説日本の古代6「文字と都と駅」二八~三ニページ(一九九〇年中央公論社刊)
10 岩利大閑「道は阿波より始まる」(その二)六ページ (昭和六一年京屋社会福祉事業団刊)
14 西田長男「中臣寿詞放」(岡田精司編「大嘗祭と新嘗』所収、一九七九年学生社刊)
(14) 西宮一民校注『古語拾遺』(一九八五年岩波書店刊)
444 注1に同じ、一六六ページ
天羽利夫・岡山真知子共著 「徳島の遺跡散歩』二二四ページ(一九八五年徳島市立図書館刊)
(140 注1に同じ、二九ページ
17 注1に同じ、三一ページ
1469 注1に同じ、三〇ページ
(144 「徳島県神社誌』(昭和五六年徳島県神社庁刊)
30 堀川豊平「邪馬壹国は阿波だ」二三一ページ (昭和五七年刊)
24 直木孝次郎「飛鳥奈良時代の研究』五三三ページ(昭和五〇年塙書房刊)
24 岸俊男「「倭」から「ヤマト」へ」(森浩一編「倭人の登場』所収、昭和六〇年中央公論社刊)
15 桜井満訳注『万葉集(上)』 一九七四年旺文社刊 (文庫本)
4/4 平野邦雄「ヤマトの国号」(『史論』第二五集所収、一九七二年東京女子大学刊)
154 注1に同じ『万葉集(中)」
16 岩波版日本古典文学大系 『日本書紀下」五ハーページ(一九六五年岩波書店刊)
7/7/4 注1に同じ、一一〇、一一九ページ
注1に同じ、一二ー・ニページ
(24) 注1に同じ、一〇五ページ
(5) (4) (3) (2)
502
大嘗祭
初版発行 平成七年十二月二十三日
埴渕 一
発行人
発行所
熘 京屋社会福祉事業団
キョーエイ
〒七七一-〇一
徳島市川内町加賀須野四六三番地一五
686年(天武15,朱鳥1)
6月
《戊寅(十日)に、天皇の病を卜ったところ、草薙剣(このころ宮中に置かれていたか)の祟りであるとのことであったので、即日、尾張国の熱田社に送って安置させた。》
『日本書紀』より
持統天皇
691年 (持統5)
10月
《甲子(二十七日)に、使者を遣わして新益京(藤原京)の鎮祭を行なわせた。》
692年 (持統6)
3月
《辛未(六日)に、天皇はこの諌めに従われず、ついに伊勢におでましになった。》
692年 (持統6)
5月
《丁亥(二十三日)に、浄広肆難波王らを遣わし、藤原宮の地を鎮祭させた。》
以下
続日本紀
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokkitop.htm
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki03.htm#skk03_04
文武天皇
704年(慶雲1)
11月
《壬寅,始定藤原宮地。》『続日本紀』より
文武天皇
707年(慶雲4)
2月
《戊子,詔諸王臣五位已上,議遷都事也。》
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki04.htm#skk04_03
元明天皇
708年(和銅1)
2月
《戊寅,詔曰:「…遷都之事,必未遑也。…」》
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki05.htm
元明天皇
710年(和銅3)
3月
《辛酉,始遷都于平城。》
ーーー
692
大三輪高市麻呂の諌言 二月の丁酉の朔丁未(十一日)に、諸官に詔して、 「三月三日に伊勢に行幸しようと思うので、そのつもりで衣類を準備するように」 と言われた。また陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二十両を賜わった。乙卯(十九日)に、刑部省に詔して、軽繋(軽微な罪の嫌疑で拘禁されている人)をお赦しになった。この日に、中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂が上表して直言し、天皇が伊勢に行幸され、人々の農耕の時節を妨げることについて諌め申し上げた。
三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人智徳・直広肆紀朝臣弓張らを留守官(天皇の行幸にさいし皇居に留まって守衛する官)とした。このとき中納言大三輪朝臣高市麻呂は冠位(位冠)を脱いで朝廷にささげ、 「農作の時節に行幸なさるべきではありません」 と重ねて諌め申し上げた。
辛未(六日)に、天皇はこの諌めに従われず、ついに伊勢におでましになった。
壬午(十七日)に、行幸の経過した神郡(伊勢国度会・多気両郡の郡司)、および伊賀・伊勢・志摩の国造らに冠位を賜い、あわせてこの年の調役を免じ、また行幸に供奉した騎士、諸司の荷丁(運搬のための役夫)、行宮の造営にあたった丁のこの年の調役を免じ、全国に大赦を行なった。ただし盗賊は赦の対象とはしなかった。
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syokki/syokki04.htm#skk04_03
元明天皇
708年(和銅1)
2月
《戊寅,詔曰:「朕祗奉上玄,君臨宇內。以菲薄之德,處紫宮之尊。常以為,作之者勞,居之者逸。遷都之事,必未遑也。…」》
草壁皇子 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org
>wiki
>草壁皇子
天智天皇元年(662年)、大海人皇子の第二皇子として誕生。天智天皇10年(671年)、天智天皇が崩御すると、後継を辞退した大海人皇子に従い吉野へ下る。その後、壬 ...
草壁皇子(くさかべのおうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp
>word
>草壁皇子-55098
草壁皇子 (くさかべのみこ) 生没年:662-689(天智1-持統3) ... 天武天皇の皇子で,母は持統天皇。文武・元正天皇,吉備(きび)内親王の父で,后は元明天皇。672年の壬申( ...
草壁皇子
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp
>artifact
生没年 : 662~689. 飛鳥時代の皇族。天武天皇を父、持統天皇を母とする。元明天皇との間に文武天皇・元正天皇が生まれる。壬申の乱では、天武天皇と行動を共にした。
紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする(p227~)。
その累々たる屍のイメージは、律令と共にあった、と梅原氏は言う。
律令の思想とは、人間は所詮悪であるから、法を厳しくすることが国家を治める道であるとする法家の思想である。
梅原氏は、律令によって葬られた死の中心部に、弓削皇子と紀皇女がいた、とする。
弓削皇子と紀皇女を一挙に葬ることは、藤原不比等にとって有利なプランである。
紀皇女が文武帝の后であり、弓削皇子と通じていたとしたら?
不比等は、持統上皇に提案したのではないか?
弓削皇子は、軽皇子の立太子に反対したのみならず、帝の后を寝取ったとんでもない男だ。
紀皇女も、関係のあるのは弓削皇子だけではない、ともいう。
このところ、後宮は乱れている。
柿本人麿は、多くの采女を泣かせているとも聞く。
人麿を追放すべきである。彼と関係した采女たちにも死を命じるべきだ。
弓削皇子、紀皇女も、張本人だから、死を免れません。
持統上皇は、不比等の提案に反対できなかっただろう。
持統は、弓削皇子を許していなかっただろう。
不比等は、むしろ紀皇女を排除することが主眼だったのではないか?
文武帝の后の紀皇女を排除すれば、夫人である娘の宮子の位置が上昇する。
石川、紀の2人の妃は、不比等の恋人になっていた橘三千代が何とかしてくれるだろう。
不比等と三千代の間に、光明子が生まれたのは大宝元(701)年のことだから、不比等と三千代が結びついたのは、ちょうど弓削皇子の死の頃(文武3(699)年)と推測される。
梅原氏は、この弓削皇子、紀皇女排除の陰謀を通じて、不比等と三千代は強く一体化したのではないか、とする。
人は、善を共有するよりも、悪を共有する方が、結びつきは強まる。
もちろん、弓削皇子の死は、不比等にとっても好ましいことだった。
不比等の権力は、草壁の系統との関係において増大する。
草壁の系統とは、持統-元明-文武という女性と子供からなる系統である。
他の男性の皇子に皇位が移ったら、不比等の地位は、たちまち危うくなるだろう。
皇位を狙う可能性のある皇子を排除することは、不比等の願うことでもあった。
そして、弓削皇子が処刑されたことが、非公然にでも知られることになれば、持統-不比等ラインに反抗する者の末路を示すデモンストレーション効果もあるだろう。
見せしめのためにも、弓削皇子の死は好都合であった。
梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。
詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。
そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。
その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。
志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも (3-267)
猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。
弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。
高松塚の被葬者は弓削皇子か?…梅原猛説(ⅹⅱ)
梅原猛氏の『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)の論旨を要約しよう。
①高松塚の被葬者は、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子である。
a.高松塚を特徴づける最大の要素である壁画は、朝賀の様子を描いたものであり、被葬者は、天皇もしくは天皇に準ずる地位の皇族である。
b.『続日本紀』の大宝元年の記述との適合性等からして、塚の築造時期は、大宝元年の前後のさほど離れていない時点である。
c.しかし、副葬品における欠損や壁画の損傷などをみると、地下の朝賀は、地上の朝賀と明らかに異なっている。
それは、地下の朝賀の主人公が体制への反逆者であることを示している。
d.反逆者の霊を鎮めるために、高松塚は華麗に荘厳された。それは、出雲におけるオクニヌシノミコトと同様である。
②正史には、反逆の皇子を明示的に示した記述はない。しかし、『万葉集』等を参照すると、該当する人物として、弓削皇子が浮かび上がってくる。
a.弓削皇子は、軽皇子立太子を論議する御前会議において、持統天皇の意に逆らう発言をしようとした。
b.弓削皇子と額田王の応答には、弓削皇子の過去を追憶する憂愁の心が込められている。
c.「紀皇女を思ふ御歌四首」からして、弓削皇子は、紀皇女に恋していたと思われる。
d.紀皇女は、文武帝の妃(后)であった可能性が高い。
e.弓削皇子の「紀皇女を思ふ御歌四首」には、濃密な恐れの雰囲気があり、それは、紀皇女の身分の高さを窺わせる。
f.紀皇女は、『万葉集』に遺された歌から推測すると、奔放な女性で、姦通者であることを窺わせる。
g.『万葉集』からすれば、紀皇女と弓削皇子は、禁断の恋愛関係にあったと考えられる。
h.大宝元年は、大宝律令の施行された年であり、法による統治への潮流が強まった時である。
i.法秩序を乱した紀皇女と弓削皇子は体制から排除される運命にあった。
j.律令という法秩序の体現者であった藤原不比等にとって、弓削皇子と紀皇女を排除することは大いにメリットのあることであった。
k.『万葉集』の志貴皇子の歌などからしても、不比等体制に狙い撃ちされた皇子の像が浮かび上がってくる。
上記のような論理展開の下に、梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子に比定した。
梅原氏は、上掲書の末尾において、権力者の立場にたって、弓削皇子の葬儀の様子を描いている。
①弓削皇子の葬儀は、刑罰として行われた。
a.弓削皇子は、后と通じる罪を犯した。それは、律の規定の八虐の第一謀反罪にあたる。
謀反罪とは、君主をないがしろにする罪であり、后と通じることは君主をないがしろにしたことに他ならない。
b.謀反罪は、死刑に相当する。
死刑には斬首と絞首の二種類がある。斬首の方が、首と胴が別々になって再生の可能性が全く失われることから、絞首よりも重い。
謀反罪は、斬首に相当するが、皇族及び三位以上、あるいは大勲功のあるものなどは、死刑の代わりに自殺を賜ることになっていた。
弓削皇子の場合も自殺が許されたのであろうが、葬る場合には、斬首者として、屍から首が除かれたのではないか。
c.弓削皇子の葬儀に関しては、権力に反抗した者の行く末についての、見せしめの効果が重要であった。首なき皇子の屍は、律令体制の威力を示す意味が大きかった。
②弓削皇子の葬儀には、鎮魂として行われた。
a.当時の日本には、怨霊への恐怖が強かった。
無実の罪で殺された高貴な人の怨霊は、生者に復讐する。
b.法隆寺は聖徳太子の鎮魂の寺であったが、『薬師寺縁起』には、大津皇子の死霊を鎮魂するために、馬来田池を埋めて、薬師寺の金堂を建てたと伝える。
c.弓削皇子は、大津皇子と同じように殺された。弓削皇子の怨霊がタタルことを避けることが必要である。
特に、文武帝は体が弱かったと思われる節があり、弓削皇子の霊を丁重に鎮魂することが必要だった。
d.華麗な高松塚の壁画と副葬品は、被葬者(弓削皇子)の死霊に、あたかも帝位にあると思わせるように設定されたものと解釈できる。
梅原氏は次のように書く(p234)。
弓削皇子よ、あなたはあこがれの帝位についたのだ。見よ、帝位のしるしの四神の旗はひるがえり、日月、星宿、すべてにあなたの帝位をことほいでいるではないか。そしてあなたをかこむ朝賀の群臣たち、それ、あの衣蓋のもとなるひげの濃い人はあなたの兄さん長皇子、そして、あそこに杖をもったほほのふっくらした美人はあなたの恋人、紀皇女ではありませんか。そしてあそこにはあなたの詩人柿本人麿が、あなたの従者置始東人がいるではありませんか。
梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子とする仮説を立てた。
消去法で、可能性の少ない皇子を除いていくと、弓削皇子だけが残った。しかし、積極的に弓削皇子であることを示すエビデンスがなかった。
弓削皇子を高松塚の被葬者と考えたら、高松塚と当時の歴史的状況がどのように理解されるか?
梅原氏は、仮説的代入法というが、それにより今まで明らかでなかったことが理解できると同時に、考古学の成果とも矛盾せず、歴史家の考証とも一致した。
高松塚被葬者を、弓削皇子とする仮説の生産性は高い。
梅原氏のトーンは高いが、それでもなお、梅原氏自身、高松塚の被葬者を弓削皇子と断定することはできない、とする(p245)。
梅原氏は、結論よりも論証の過程が大切なのだ、とする。
高松塚の被葬者問題は、思考技術が試される好例の一つであろう。
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