2024年2月15日木曜日

石勒の埋葬地 : 五胡十六国の歴史を語るブログ

石勒の埋葬地 : 五胡十六国の歴史を語るブログ

石勒の埋葬地

五胡十六国時代の異民族系国家の君主が死去した際には、陵墓を営んでおきながらも人目につかないような場所へ葬って遺体の所在がどこかわからぬようにしたとの記述がいくつか史書に見られます。


…夜になってからひそかに山谷に遺体を埋めてその場所がわからないようにし、文物を虚葬して高平陵と号した(晋書石勒載記)

…夜になってから十余棺を四門から出発させ、遺体をひそかに山谷に葬ったため、その所在はわからなかった(晋書慕容徳載記)


石勒の子孫だという石旭昊氏の「石勒皇帝与羯胡人之謎」には、石勒の埋葬地や虚葬地の可能性がある地についての考察があります。

この本は全体としては自分には首肯しがたい説が見られるのですが、石勒の埋葬地に関しては興味深い話でもあるので、その中のいくつかを紹介します。


河北邢台西の李馬村説(牛之間氏の2008年の発表)

数年前に邢台市の西北10里ばかりにある李馬村の北から一つの石棺が出土して石勒の墓だといわれたが、墓誌銘など関係する文はすでに失われている。
史書の記載によれば石勒の高平陵は邢台城から15里の距離にあると考えられるが、李馬村から西2里ほどには小さな3つの村があって東高村・西高村・南高村という。東西の村の距離は1里ほどで、その間には開けた平坦な農地があってその南端は牛尾河の支流に接している。支流のそばには東西に向かう大道があり、これは古代の邢台から山西へ通じた重要な道である。村の近くには盛り上がった丘陵があり、そこにある高家という塚にちなんで村の名がつけられた。史書に記載されている位置から、高家の塚は石勒が埋葬されたと当時発表された地にあたると考えられる。
西高村の碑には、「明朝以前に村の東には高家と呼ばれる墓があって呂・梁・劉の三姓の人々がこれに仕えており、彼らの住む村を福家庄といった。靖難の役の後に山西の洪洞県から張姓の人々が移住して来て高家の塚の西に住みつき、村の名を西高村といった。塚に仕える人々は守陵人ともいい、亡くなった皇帝や王公貴族の陵墓を守る人たちであって家族ともどもその周囲に住んで死者を見守るのである…」とある。
東高村の梁姓の長老によれば、東高村の梁氏は明朝以前からその地に住んで高家の塚を見守っていたのだという。墓の主人が大官だと知ってはいたものの具体的な姓はわからず、高家の塚は耕作地となって塚そのものの所在は不明になったとのことである。
東高村の言い伝えによれば、高家の塚があるとされる開けた地にはもともと石人・石虎・石羊などの石像があったのだという。解放前にはまだ石人ひとつ・石虎ひとつ・石羊ふたつがあって、石人は一丈ほどの高さの深目高鼻で鬚を生やして手には方戟を持った武士の姿をしていて保存状態は良好だったという。早くから地に倒れていたために目立たなかったことで文革期の破壊を免れたのことである。石虎と石羊については地下に埋もれてしまい、所在が不明とのことである。
この説について著者は「邢台西李馬村の石勒墓が正史に記載される虚墓であるかという点について、夜遅くに運び出したという十棺のうちの一つではないか」としています。

山西楡社趙王村(山西楡社官方网站記載)

石勒の墓は楡社県の北10余里にある趙王村の東の山にあり、高さは10メートル余で広さ264.4平方メートルほどで保存状態は良好である。…石勒の墓のすぐそばにある村は趙王村という。…村の中には大きな朽ちた門楼があるが、これはいつ頃作られたものか知る由がない。…楡社は古くは楡州といい、その地は炎帝の八世の孫である楡を祀る廟が作られたが、長年のうちに社会の発展に貢献した人物が祭祀の対象に加えられたのであろう。

この説について著者は「楡社県の地は上党に属しており、『夜、十棺を出し』て葬ったという中のひとつであるかもしれない。ただ石勒が本当に葬られた墓だと断定するだけの根拠はない」と結論付けています。


山西離石(山西日報)

呂梁一帯には古代の胡兵の遺跡が多く見られる。左国城の城壁は現存しており、『永寧州志』には劉淵の牧場であった「飲馬池」があって淵を祀る祠があるという。また、呉城鎮の四皓村には淵の行宮がある。盧城は晋の并州刺史劉琨が築城して劉曜を攻めた城塁であって、馬頭山には琨の廟があり、玉林山には石勒の墓がある。あたりの30以上の村々では廟会を組織して「石勒爺」の祭祀を行っている。

この説については著者は「これも石勒が本当に葬られた墓だと断定することはできない」としています。


山西武郷の「海神廟」(著者の調査)

『武郷県志』には武郷県の賈豁郷にある石泉村の東の山頂には「海神廟」というものがあって石勒を祀っているのだという。

武郷石勒文化研究会編『武郷千古一帝 石勒』には石泉村の胡氏の族譜を引用して「わが祖先である大趙聖帝は武邑石泉村の人…」とある。石泉の胡氏は石勒の後裔で、冉閔による一族皆殺しから逃れて姓を胡と改めて移住したのだろう。石勒にちなんで村の名を「石泉」とし、村の東北に墓を作って春秋の祭祀を行ったのである。

著者自身が石泉村を訪問した際には「聖帝万歳碑」なる石碑があることを教えられたものの、鎖で閉ざされていて見ることはできなかった。

この説について著者は「石勒は『武郷こそはわが沛であり、万歳の後は霊魂はこれに帰するべし、三世にわたって税を免じるようにせよ』と言ったとあり、武郷賈豁石泉村の海神廟こそは石勒が本当に葬られた陵墓ではないだろうか?」としています。


山西陵川の崇安寺

『陵川県志』によれば、「南北朝の時代に石勒が史上後趙と呼ばれる国を建てたが、陵川は後趙の領域に属する。石勒は偽の墓を多く作らせたが、県城の西北隅の臥龍崗の上にも石勒の墓といわれるもののひとつがある。そこには寺院が建てられていて、これが現在の崇安寺である」「後趙の石虎が継位した時代に寺を建てたが、1983年に修繕した際にひとつの琉璃の筒が発見されて中からは「刹為石虎所建」という題記が出てきた。それによれば崇安寺は以前は凌烟寺といって、唐初に「丈八仏寺」と改め、宋の太平興国元年に「崇安寺」と改めたのだという。山門は「古陵楼」といい、中には当央殿・大雄宝殿・石仏殿がある。…崇安寺で最も壮美であるのが「古陵楼」であって、これは明代の建築である。寺中の碑によれば、「大雄宝殿の中の石板の下に石勒は埋葬されたのだという。後世の人が屍を鞭打ったりすることを恐れ、石勒に地下においての安息をさせるためにしたのだという。後に崇安寺を建てて仏法によって石勒を祀った…」のとのことである。

この説について著者は「ここもまた石勒が実際に葬られた可能性のある地のひとつである」としています。


山東荏平

『荏平県志』によれば「城の南十里ばかりには鉄墓なるものがあって誰のものかはっきりとはわからないものの、その地の人々からは王墳と呼ばれている。理由を聞くと、それは石勒の墓なのだとのことだった」とある。2008年11月に荏平に住むという人の話として、その家にはこの大墓が石勒のものだとする言い伝えがあると報じられた。

この説については著者は「荏平は石勒が奴隷として師の家で耕作に従事した地方であり、いわゆる『十八騎』を組織したり『石勒』の姓名を馬牧帥の汲桑からつけられた地でもある。荏平は彼が人生の転換を迎えた地であり、ここから成功へと向かったことから死後に虚陵の一つが造られた地だと推測するだけの理由がある」と肯定的にとらえているようです。


「石勒皇帝与羯胡人之謎」という本じたいが旧約聖書との関連性に終始しているので購入したもののほとんど読んでいなかったのですが、この石勒の埋葬地・虚葬地に関する部分は興味をそそられました。















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