海の民
紀元前1200年ごろに、東地中海を中心に混乱が起こります。
古代エジプトでは、第19王朝、第20王朝の治世に沿岸から攻撃を受けたことが記録されています。紀元前1200年ごろには、ギリシアのミケーネ文明が崩壊します。また同時期、アナトリアでは、ヒッタイトが滅亡します。
その後、東地中海世界は、300年間におよぶ「暗黒時代」をむかえることになります。
この原因については、従来からさまざまな説がありました。
最新の研究では、海の民の侵入は「単一原因」ではなく、複数の危機が同時に発生した「複合崩壊」(systems collapse)と考えるようです。
紀元前1250~1100年に、地中海東部で大規模な乾燥化、寒冷化が発生しました。このため、降雨量が激減し、農業生産が急落しました。飢饉が広域化して、多くの民族が流動的になったことが、根本原因だったと考えられています。
エジプトの文書(メルエンプタ碑文など)には、「飢えた人々が押し寄せてきた」、「パンを求めて海からきた」などという記述がみとめられます。
海の民は、飢饉難民、という可能性をつよく示唆します。
青銅は、銅と錫の合金です。
錫は、地中海には、ほぼ存在しません。アナトリア、コーカサス、中央アジア、バクトリア、ブリテン島などからの長距離交易に依存していました。
紀元前12世紀に、錫の交易網が途絶したため、青銅武器の生産が停止して、軍事力が急落したと考えられます。その結果、国家を防衛できなくなったと推測されます。
当時の地中海は、ミケーネ、ヒッタイト、エジプト、キプロス、カナン、シリアが、巨大な貿易網で結ばれていました。しかし、気候変動、内部反乱、戦争、飢饉が重なり、貿易網が連鎖的に崩壊しました。
ヒッタイトは、紀元前12世紀に突然消滅します。従来は、海の民によって滅亡されたと考えられてきました。
最新研究では、気候変動により農業が崩壊して、王国内で反乱が相次いで起こった。また周辺民族の移動などによる外圧をうけ、王権が弱体化して内部から崩壊したと考えられています。
海の民は、「ヒッタイトを滅ぼした」のではなく、 ヒッタイトが崩壊する「混乱のなかで移動した集団の一部」とみなされます。
彼らは、飢饉や戦争、気候変動で故地を失った、多民族の巨大移民連鎖(mass migration)と考えられています。
さらに、近年の研究では、青銅器文明の社会構造そのものが、外圧に対して極端に脆弱だったことが指摘されています。
青銅器文明は、王権、神殿、都市国家、長距離交易が密接に結びついた「高度に中央集権化された社会」であり、どれか一つが崩れると、他の要素が連鎖的に機能不全に陥りました。
気候変動による農業生産の急落は、まず地方の農村共同体を直撃し、つぎに都市への食料供給を止め、王権の徴税能力を奪いました。徴税ができなくなると、軍事力の維持が困難になり、外敵に対する防衛が不可能になります。こうして、都市国家は内部から崩壊し、住民は故地を捨てて移動を開始します。
この「内部崩壊、移民、外圧、さらなる崩壊」という連鎖が、地中海全域で同時に発生したと考えられています。
海の民は、こうした連鎖の末端に位置する「移民化した諸民族の集合体」であり、単一の民族名ではなく、複数の集団が合流した巨大な移動体だったと理解されます。
具体的には、シェルデン(Sherden)人、とよばれるエジプト史に頻出する、武装した海上戦士集団。ペレスェト(Peleset、後のペリシテ)人、デニェン(Denyen、ミケーネ文明の崩壊で流出した戦士集団?)人、ルッカ(Lukka=アナトリア南西部)人、などが知られています。
従来主張された、ドーリア人南下(Dorian invasion)は、実際には起こらなかった可能性が高い、と考えられています。
ドーリア人とは、ギリシア語方言の一つで、ミケーネ崩壊後の社会再編のなかで台頭した勢力だったとみなされています。
ドーリア人の代表は、都市国家「スパルタ」です。彼らは、南下してきてスパルタをつくったのではなく、この混乱のなかで社会的な構成がくずれ、この地域に「ドーリア語」(方言)が優勢になっただけ、と理解されています。
従来は、古代ギリシアを構成した集団は、4つといわれていました。
1)アカイア人、紀元前2000年ごろ、テッサリアから南下。
2)アイオリス人、紀元前3000年ごろ、ドナウ川流域から移住。
3)イオニア人、紀元前2000年ごろ、バルカンからを南下。
4)ドーリア人、
これが侵入しなかったとするなら、この分類は無意味になります。
ウィキペディアには、上記の記載があります。
しかし、現在では、民族ではなく、方言だったと考えられています。
複数の文明が一挙になくなった、古代の事例です。
ミステリーとして、これからも、べつの解釈がされるのかもしれません。
由布木秀