2026年6月22日月曜日

「山田隆一「集落遺跡からみた古墳時代前期社会の研究——近畿における広域流通の視点から」(関西大学博士論文、2019年、312頁)」の検索結果 - Yahoo!検索


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ば、山城では水垂遺跡、近江東部では下長遺跡、近江北部では黒田遺跡など、昨遺跡と同じような流通拠点としての集落が立地している。それらの集落を核として、ネットワークが存在したことが推定できる。

4) 大阪府内陸部の脚台式製塩土器はいまだ少ないが、庄内新相以降に、備讃瀬戸地域からも塩が運びこまれたことを示している。他地域系土器が持ち込まれた背景には、さまざまの物資、技術、情報の流通があるが、そこに塩が含まれていたことは確かである。地の大阪湾岸地域ばかりでなく、備護瀬戸地域からも塩をかき集めた、と考えられる。


大阪の前期古墳には、阿波や讃岐的な要素が指摘できる。阿波との関連では、結晶片岩を使用した竪穴式石槨が多いことは一例である。しかもその地域は、阿波系土器が濃密に分布する地域と一致する。摂津東部では、茨木川流域に茨木市将軍山古墳と紫金山古墳、芥川流域に高槻市弁天山C1号墳と闘鶏山古墳がある。また中河内では、旧大和川流域の遺跡群に造営母体が想定できる玉手山古墳群と松岳山古墳群では、玉手山7号墳と同9号墳、茶臼塚古墳に結晶片岩の使用が確認されている。


讃との関連では、鷺の山石材を使用した松岳山古墳の長持形石棺と玉手山3号墳の

石と考えられる安福寺の刳抜式石がある。また積石塚である茶臼塚古墳と、積石を部分的に採用した松岳山古墳も讃岐の積石塚との関連でとらえようとする考え2)もある。

本稿では、中田遺跡の「白石」、久宝寺遺跡の阿波系の焼成前穿孔童、溝昨遺跡の結晶片岩と朱関連遺物を紹介したが、これらは古墳の築造あるいはその祭祀に関わる物資である。土器の搬入と同時にそれらの物資や情報も持ち込まれたのであろう。そして、阿波・讃岐の土器の数量が吉備に次ぐ程度に多いことからみて、両地域との関係が大変強かったことがわかる。

今回、中河内地域に塩が持ち込まれていることを紹介した。中河内での製塩土器の時期と分布は、備護瀬戸の他地域系のそれと全く同じであり、塩が持ち込まれた物資の一つであったことを示している。また備讃瀬戸の製塩土器を多く含む兵庫県長越遺跡の事例は、備讃地域から中河内につながる交流の中間地域でのあり方を示していると考えられる。

ところで、塩はもちろん日常生活における必需品であるが、いっぽうで労働財源としての価値のあることが指摘”されている。首長層の指揮下に行われる耕地開発や治水・灌漑、古墳や首長居館の築造などの土木工事に際して徴発した民衆への労働財源として塩が給付されたと想定されている。筆者も中河内にみられた製塩土器の状況は、近畿の首長層によって、労働の対価として集められた塩の概要を示していると考えたい。つまり製塩土器の

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クシャーナ朝 - Wikipedia https://youtu.be/Ls3FnlMCzFo?si=WQBzKlfMXbkQP255

クシャーナ朝 - Wikipedia

クシャーナ朝 - Wikipedia

クシャーナ朝

クシャーナ朝の成立

貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠はヘライオス(英語:Heraios)と言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛々たる状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。1世紀初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯はクジュラ・カドフィセス(中:丘就卻)の下で他の四翕侯を全て征服して王を号したと『後漢書』西域伝には記されており、一般にこれをもってクシャーナ朝の成立と見なされる。また、クシャーナ朝は大月氏の一派であるとも[注釈 3]、土着のイラン系有力者であるともいわれる[注釈 4]

クジュラ・カドフィセスはカーブル(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(またはヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った[注釈 5]。さらに濮達(ぼくたつ)と罽賓(けいひん:ガンダーラ)を征服しパルティア領(インド・パルティア王国)の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王ゴンドファルネスであったが、クジュラ・カドフィセスは彼と争ったか、もしくは彼の死(50年頃?)による同王国の弱体化に乗じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ・カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド・パルティア王が発行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ・カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後継者アブダガセス1世などがほぼ同時代を生きていたのは確実である。

クジュラ・カドフィセスの子のヴィマ・タクトと、ヴィマ・タクトの子のヴィマ・カドフィセスは、北西インドの征服に成功した(北西インド征服時にはまだクジュラ・カドフィセスが生きていたという説もある)。最近の研究では、ヴィマ・タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そしてバクトリア北部がクシャーナ朝の支配下に入ったといわれている。ヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスは北側からバクトリアに通じる交通の要衝に関門と要塞を多数構築し、大国としてのクシャーナ朝の基盤を構築した。そしてバクトリア地方の防御のためにカラルラングと呼ばれる特殊な地位を持った総督が配置された。『後漢書』によれば、クシャーナ朝は北西インドの統治のために将軍が置かれたとあるが、この将軍とは後に西クシャトラパをはじめとした独立勢力を構築することになるクシャトラパであると考えられる。

ヴィマ・タクトはその支配領域に統一したコインを発行した。彼のコインにはギリシア語で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれている。クジュラ・カドフィセスのコインが各地の古い支配者が発行したコインをまねたものであったのに対し、ヴィマ・タクトによる新式のコイン導入は一体性を持った帝国としてのクシャーナ朝が確立していったことを暗示する。

カニシカ王と後継者

200年頃のクシャーナ朝
→「カニシカ1世」を参照

ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現在のペシャーワル)におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。

カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラネパールカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。

カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。

軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。

ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられているフヴィシカが王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。

3世紀頃、フヴィシカの跡を継いでヴァースデーヴァ(バゾデオス、ΒΑΖΟΔΗΟΣ、波調)が王位についた。彼の治世に、三国時代に使者を派遣した記録が残されている。ヴァースデーヴァというインド風の王名は、この時期のクシャーナ朝が極めて強くインド化していたことを示す。貨幣などの図案にも、インド土着の様式が強く現れるようになっている。

ヴァースデーヴァはサーサーン朝の王シャープール1世と戦って完全な敗北を喫した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、残された領土はサーサーン朝に次々と制圧された。クシャーナ朝はなおもカブール王として存続していたが、ヴァースデーヴァ2世276年 - 293年)の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。

クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においては「クシャーン・シャー」(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治された。これは通例クシャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、おそらくは多くの面においてクシャーナ朝の要素を継承したと考えられる。このようにクシャーナ朝の権威は滅亡した後も長く現地に残ったのであった。

2026年6月20日土曜日

旧正月の久高島〈3〉アカララキの隠れ女神 : 追跡アマミキヨ

旧正月の久高島〈3〉アカララキの隠れ女神 : 追跡アマミキヨ

旧正月の久高島〈3〉アカララキの隠れ女神

正月元旦の盃事が行われている外間殿を覗いた後、
さてどこへ行こうか? と自転車を漕ぎ出したところで、
神人(カミンチュ)のKさんにバッタリ会った。
知る人ぞ知る現代の神人。その霊力を頼り各地から来客がある。

挨拶の後「きょうは?」と聞かれたので、とっさに言った。
「アカララキへ」。するとまた、思わぬ質問が口を突いて出た。
「アカララキとアラハバキは同じ神様ですか?」

新暦の正月、瀬織津姫神に参拝してからというもの、
いつも頭の隅にあったのは、確かにそのことだった。
封じられた縄文の女神・瀬織津姫=異名同神のアラハバキ
=アカララキ? 御先(上古代)天孫氏王朝の存在は、
沖縄にも縄文の女神が祀られていることを暗示している。

「んー」と首を傾げた後、Kさんはおもむろに言った。
「まったく同じではない。しかし、本質は同じ神です」

というわけで来たアカラムイ(森)、の横の道。ここに自転車を置く。
すぐ下は、王府時代に君之泊(ちみんとぅまい)と呼ばれた港。
巡礼時、聞得大君はアカララキ(嶽)にお参りして島に入ったという。
旧正月の久高島〈3〉アカララキの隠れ女神_a0300530_4413674.jpg


正月元旦午前のアカララキ(アカララキの説明はこちらにも)。
正しくは「アカラの神」は普段と変わらない表情で在った。
アカララキは「門の番」(じょうのばん)。そして再生転生を司る女神。
秘祭イザイホーでは、久高殿の神アシャギの奥に「出張」して祀られた(こちら)。

外間殿からお祝いの謡いと三線と島人たちのざわめきが聞こえてくる。
お賽銭なし、お線香なし、祝詞なし、この上なくシンプルな正月参拝。
旧正月の久高島〈3〉アカララキの隠れ女神_a0300530_442957.jpg

ふとアカララキの裏側が気になり、回り込んで、驚いた。もうひとつの
御神体石が隠れていた。祠の真裏。祠との間に香炉に見立てた貝皿まで。
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アカララキにも奥宮があったとは知らなかった。
私たちは、神社本殿の奥宮には、隠れ神がいることを知っている。
私が昨年来訪れた古社にも奥宮があった。籠神社には真名井神社があり、
出雲大社に素鷲社(そがのやしろ)が、宇佐八幡宮には大元神社があった。
また伊勢神宮の内宮奥には、瀬織津姫が祀られる荒祭宮が控えている。
語り部に電話すると、
「アカララキはアラハバキを隠していたのでしょうね」と、言った。 

思いがけない発見にア然としつつ、島の御嶽・拝所を回る。
始祖・ファガナシーが禊ぎをした西海岸の川泉ヤグルガーへも。
ヤグルガー付近から本島(正面)と島の南部方向(左)を望む。
そして、もう一度アカララキへ行ってみようかなと、思った。
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久高島で蛇神を祀る〈1〉 : 追跡アマミキヨ

久高島で蛇神を祀る〈1〉 : 追跡アマミキヨ

久高島で蛇神を祀る〈1〉

神の島の君泊(ちみんとぅまい)にあるアカララキ。
アカララキ神の名を、なぜアラハバキ神の転訛だと考えるか
については、また改めて……。

さて、アカララキの神は、イザイホーにおいてはナンチュ(神女)
が籠る七つ屋の横に“出張”した。
「門番として」との説明は、外間ノロのウメーギ(補佐役)西銘シズさん
の話を比嘉康雄氏が記録したものだが、小川克己・川上幸子氏の著
『神の島 久高島』(1993年、汐文社)にも、以下の記述がある。


久高島のヤルイ(小屋)の西側にある小さなヤルイは「アカラムイ」
(アカララキの森)。力は強いが、気性の激しい神様なので、
この神を受けるナンチュはいません。そのためか、
ナナツヤーの中でも特別な扱いです。


アカララキ=門番。
語り部に聞いていみると、違う伝承があった。
「門の番」は「じょうのばん」と読むそうで、
魂の新生・転生・再生を司る創生神という意味だという。
そうならばと、思い当る話があった。

久高島に住むあるおじいは言った。
子どもの頃、おばあさんに連れられアカララキでお祈りをしたと。
おじい(祖父)が死にそうになった時のこと、
浜で広げた両手をおばあと繋ぎ、アカララキに向って立ち、
「おじいを助けて」「マブイ(魂)を抜かないで」と拝んだ。
すると、おじいは奇跡的に元気になったと。
逆に、アカララキに拝んでも治らない場合は諦めるしかないという。
「生命はアカララキが握っている」のだと。

イザイホーはアカララキの神なくしては成り立たなかった。
イザイホーとは神女たちが祖先霊を受け継ぐ「魂のリレー」。
祖霊を降ろし、身の内に再生して初めて「神女就任」となる。

「神女就任」の祝いが「朱リィキー」という儀式。
根神(にーがん,男性神役)から、頬に朱の刻印が押される。
そして、厳かに喜びの円舞が始まる。

朱リィキーの円舞(比嘉康雄氏著の前掲書より)。
こうした写真や、ビデオ映像で見る限り、
真円というより渦のような円になって舞っているのが分かる。 
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円舞は蛇がトグロを巻く様子の再現であると指摘したのは、
最後のイザイホーを取材した民俗学者の吉野裕子氏だ。以下引用。

祭りの中にいく度も二重の輪が形成されるのは
トグロを巻く蛇のゆるやかな動きの擬きであろう。
(『蒲葵と蛇と北斗七星と』1979年2月、沖縄タイムス、新聞連載)

日本の古代信仰について著書『蛇』(1970年、学生社)を残した
吉野氏ならではのイザイホー考察。その祭祀場である
久高殿にバイカンヤー(イラブーの薫製小屋)が在る意味は大きい。

イザイホーの祭場だった久高殿・御殿庭(うどぅんみゃー)。
左から、イラブーの薫製場であるバイカンヤー、神アシャギ、シラタル宮。
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神女たちはバイカンヤーの前で、いわば蛇神に見守られて円舞した。
吉野氏はこうも述べた(同紙)。「イザイホーは島の成女が、
人間の身でありながら蛇に昇格する儀式として見ることも可能である」

現在も、獲られたイラブーは、
バイカンヤーの裏にある長型の箱で薫製される時を待つ。
イラブーは1ヶ月以上も生きるという。王府時代、国王に献上された。
中を覗かせてもらったことがある。何百匹もの蛇が隙間なく絡み合い、
しかし休まずにうごめく様に、まさに不死の生命力を見る思い。

古くは、バイカンヤーにはシラタルの火の神が祀られていた。
戦後、「神様を薫製小屋で祀るわけにはいかない」とシラタル宮を建て、
移したが、そのことは逆に古代より蛇神と太陽神が同一視されていた証し。
久高島の始祖・シラタルは、その神霊を継ぐために島に渡ったのだ。


日没前、ミナーラ川を覗く。イラブーガマの近く。
ここにもイラブーは産卵のため現われる。
イラブー漁は旧暦6月末から10月頃、深夜から朝にかけて行われる。
昔は、冬の間も漁が続いたという。
久高島で蛇神を祀る〈1〉_a0300530_7291356.jpg

沖縄県久高島にはアラハバキと同一神とされるアカララキの祠がありますね。

沖縄県久高島にはアラハバキと同一神とされるアカララキの祠がありますね。

以前青森の方とXで話していて方言でも沖縄言葉と津軽弁に共通点があるのを知って驚きました。
沖縄:私(ワ)あなた(ナ)津軽弁:私(ワ)あなた(ナ)括弧内は方言です。
東北地方や関東地方を中心に信仰があったとされる謎の古代神 #アラハバキ

日本の記紀神話(古事記・日本書紀)には登場せず、「その姿・起源・何の神なのか」も全てが不明で「アラハバキ」という名前だけが現在まで語り継がれています。

東北各地には「その名前にアラハバキを冠する神社」や「縁起・由来にアラハバキへの言及がある神社」がいくつか現存しており、微かな痕跡を辿ることができます。

分布する地域から「東北地方に住んでいた蝦夷(エミシ)の神で、朝廷による征夷の結果、【敵対勢力の神】としてその存在を葬られてしまったのでは?」と…あくまで推測ですが、可能性の一つとして語られることもある神です。

この令和の時代に、しかも東北地方を舞台にこんなロマン溢れる謎が供給されていれば追わない訳にはいきません!

今回から不定期企画としてですが、そんなアラハバキにまつわる神社を紹介していきます⛩️

第一弾は宮城県多賀城市に鎮座する荒脛巾(アラハバキ)神社です。
#謎の古代神アラハバキ探訪