2026年10月5日月曜日

総特集*平田篤胤 異貌の平田篤胤 近世神話・異端神道・ファシズム 斎藤英喜

総特集*平田篤胤 異貌の平田篤胤 近世神話・異端神道・ファシズム 斎藤英喜 一方、篤胤は『古事記』だけでは不充分と考え、『日本書紀』『出雲国風土記』『延喜式祝詞』『古語拾遺』などの複数の古代テキストから、正しい「古史」と認定する部分をセレクトして、『古史成文』という独自なテキストを再編集した。そして自ら編集・作成した古史のテキストを注釈したのが『古史伝』であった。 古典テキストの選択基準、それぞれの評価を記したのが『古史徴』である。そこには実証的、客観的な記述もあるのだか、どれが正しい神話か、どこを削り、どう繋いでいけば、正しい「古史」(神話)になるか迷ったときは、筆を置いて神に祈った。すると神からの啓示があった。そんなときは、「おぼえず阿波礼」と手を打ち、舞を舞ったと記している*21。篤胤の古史・古伝を作成する作業は、いわばシャーマニックな行為にも通じていたようだ*22。 *21 「人の大凡に思へる事に、いと解がたき事も多く出来て、此を解得ざれば、此にも彼にもうち合ざる事もあり、また此神は此処に生坐べき謂なし、また彼神と此神は同神ならでは事実に符はすなど、苦しき瀬になりては、筆をおき神に祈言して案へもしつるに、忽然に悟り得たる事も数数あり。然る時は、おぼえず阿波礼とうち出られて、手を拍ち立舞つる事さへぞ有き。」(『古史徴』新修全集5) *22 斎藤英喜『異貌の古事記』(青土社、二〇一四年)第二章 しかし、このエピソードからは、篤胤の古史・古伝の研究のなかに、じつは宮地厳夫が言った「霊的生活の無限の向進」へと展開していく要素も見えてくる。古史・古伝の研究と「大がかりの霊の御実修」とは、単純に二分できない内実をもっていたのではないか。篤胤の学問の特質をそのように理解しておこう。 ところで、近年の研究によれば、本居宣長の『古事記伝』もまた、けっして近代的な文献学的手法とはいえないことに、注目が集まっている*23。 宣長は『古事記』の一語、一句にこだわって厳密な注釈を施した。それが『古事記伝』全四四巻である。そこで宣長は『古事記』の冒頭に登場するタカミムスヒ、カムムスヒという始原の神を「産霊」という生成の霊力の神格化と注釈する。その「産霊」の語句解釈は、現代の『古事記』研究でも認められている。しかし宣長は、それだけでは終わらなかった。タカミムスヒ、カムムスヒは天地創世以前の「虚空」に顕現し、この「産巣日大御神」の「産霊」=生成の霊力が、天地万物を生み出したと説いていくのである*24。 あきらかに、この注釈は、『古事記』本文からの逸脱だ。神々の顕現は、あくまでも「天地初発の時」とするのが『古事記』本文であった。だが宣長はタカミムスヒ・カムムスヒの「産霊」=生成の霊力が、天地万物を生み出したと主張していく。タカミムスヒ、カムムスヒを天地創造神とするのだ。 *23 東より子『宣長神学の構造』(ぺりかん社、一九九九年)、神野志隆光『古事記と日本書紀』(講談社現代新書、一九九九年)など。 *24 「さて世間に有とあることは、此天地を始めて、万の物も事業も悉に皆、此二柱の産巣日大御神の産霊に資て成出るものなり(中略)されば世に神はしも多に坐ども、此神は殊に尊く坐々て、産霊の御徳申すも更なれば、有が中にも仰ぎ奉るべく、崇き奉るべき神になむ坐ける。」(本居宣長『古事記伝』三之巻 本居宣長全集9) 一般に、日本の神信仰は汎神論的で、唯一神、超越的な創造神は少ないとされる。ところが、そうした列島の神祇信仰の風土に抗するように、唯一神、創造神の神学を創出したのが、中世の伊勢神道、吉田神道などの神道家たちであった*25。彼らもまた、『日本書紀』の注釈を通して、天地創成以前の「機前」のサギリノミコト(度会家行)や「虚無大元尊神」(吉田兼倶)という最高神を見出していく。近年の研究では、これを「中世日本紀」、あるいは「中世神話」と呼ぶ*26。したがって宣長が『古事記』注釈を通して、あらたな「産巣日大御神」の神話を創造したことは、中世神話に倣っていえば「近世神話」の創出といえるだろう*27。こうした視点に立ったとき、平田篤胤とは、宣長の「近世神話」を継承し、さらに展開させたと見ることができる。 *25 小川豊生「中世神学と日本紀 ―― 一三~一四世紀における至高の神と霊魂の探究」(山下久夫・斎藤英喜編『日本書紀一三〇〇年史を問う』思文閣出版、二〇二〇年)を参照。 *26 山本ひろ子『中世神話』(岩波新書、一九九九年)、伊藤聡『中世天照太神信仰の研究』(法蔵館、二〇一一年)、原克昭『中世日本紀論考』(法蔵館、二〇一二年)、小川豊生『中世日本の神話・文字・身体』(森話社、二〇一四年、 阿部泰郎『中世日本の王権神話』(名古屋大学出版会、二〇二〇年)を参照。 *27 「近世神話」については、山下、前掲書(*3)、斎藤英喜、前掲書(*22)、同『古事記はいかに読まれてきたか』(吉川弘文館、二〇一二年)などを参照。 そう、多くの読者は気付くだろう。篤胤の「天之御中主神」の神話にあるのは、キリスト教の創造主宰神の教えであった。引用した『本教外篇』とは、篤胤が密かに天主教(キリスト教)を学んだときの非公開のノートである*28。ここからは、鎖国政策下でキリスト教関係の書籍は「禁書」という一般的な認識は、変更しなければならない。篤胤はもちろん、宣長もまた、中国経由で入ってくる漢訳された『聖書』を密かに読んでいたのだ*29。 *28 宣教師リッチの『畸人十編』、耶蘇会師アレニの『三山論学紀』、耶蘇会師バントーハの『七克』などの引用、抄録、直訳によって構成されている。村岡典嗣「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」(初出一九二〇年・『新編 日本思想史研究』平凡社、二〇〇四年)、海老澤有道『南蛮学統の研究』(創文館、一九五八年)、三木正太郎『平田篤胤の研究』(神道史学会、一九六九年)を参照。 *29 宣長の蔵書目録(全集20)には、明末清初期にキリスト教を布教したゼスイット宣教師の世界地誌の概説書『職方外記』、キリスト教の教義、デウスの神観念を説く利瑪竇の『天主実践』、キリスト教神学と天文学とが一体となった『天経或問』などがあった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87 『畸人十篇』(きじんじっぺん、きじんじゅっぺん、拼音 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%BC%E9%9F%B3>: Jī rén shí piān)は、明代 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%A3>中国 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD>のイエズス会 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A>宣教師 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E6%95%99%E5%B8%AB>、マテオ・リッチ <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81>(利瑪竇)の著作。『天主実義 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%AE%9F%E7%BE%A9>』の姉妹編的な著作[1] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200635-1>。1608年 <https://ja.wikipedia.org/wiki/1608%E5%B9%B4>(万暦 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6>36年)初刻[2] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B02009157-2>。 平田篤胤 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4>に影響を与えたことで知られる[3] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200636-3>[4] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997239-4>。 内容 「畸人」(奇人 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E4%BA%BA>)すなわちマテオ・リッチ <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81>と[5] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997244ff-5>、士大夫 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E5%A4%AB>各人(徐光啓 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%85%89%E5%95%93>・李之藻 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E4%B9%8B%E8%97%BB>・李戴 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%B4?action=edit&redlink=1>(中国語版 <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%B4>)ら)との対話形式で[6] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200638-40-6>[7] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%BE%8C%E8%97%A4197119-22-7>、西洋の死生観 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E7%94%9F%E8%A6%B3>や来世 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E4%B8%96>について論じる[8] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200641f-8>[9] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B02015a116-9>。全2巻10篇[10] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200638-10>。 https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/13919/p157.pdf <https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/13919/p157.pdf> https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/25109/p143.pdf 「畸人」という語は『荘子 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)>』大宗師篇に由来する[11] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200642f-11>。「奇妙な外国人」[12] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997244f-12>と同時に「『荘子』のように死生観を語る人」を含意する[11] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200642f-11>。 聖書 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8>・アウグスティヌス <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9>・中国古典 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%A4%E5%85%B8>・イソップ寓話 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%97%E5%AF%93%E8%A9%B1>(狐と獅子 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E3%81%84%E3%81%9F%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%A8%E7%8B%90>など)を引用している[13] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E7%9F%B3%E4%BA%95202224-13>。『天主実義 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%AE%9F%E7%BE%A9>』と重複する内容もある[14] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200644-14>。 序跋が李之藻 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E4%B9%8B%E8%97%BB>・周炳謨 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%82%B3%E8%AC%A8?action=edit&redlink=1>(中国語版 <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%82%B3%E8%AC%A8>)・王家植 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E6%A4%8D?action=edit&redlink=1>(中国語版 <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E6%A4%8D>)らに著されている[15] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200645-49-15>。本書の附録に『西琴曲意 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%90%B4%E6%9B%B2%E6%84%8F?action=edit&redlink=1>』がある[16] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200648-16>[17] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997263-17>。 成立・影響 1608年 <https://ja.wikipedia.org/wiki/1608%E5%B9%B4>(万暦 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6>36年)初刻[2] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B02009157-2>。リッチの長年の対話録として作られた[18] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200638-40;44-18>[7] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%BE%8C%E8%97%A4197119-22-7>。リッチの『報告書 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%B8%83%E6%95%99%E5%8F%B2>』では『パラドックス <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9>集』(イタリア語 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%AA%9E>: Paradossi)と呼ばれ、本書の影響で改宗した中国人もいたと報告されている[19] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997240-242-19>。 度々重刻 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E7%89%88>され、『天学初函 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%A6%E5%88%9D%E5%87%BD>』にも収録された[15] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200645-49-15>。『四庫提要 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BA%AB%E6%8F%90%E8%A6%81>』には存目として載っている[20] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200652f-20>。 典礼論争 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B8%E7%A4%BC%E8%AB%96%E4%BA%89>による禁教を挟んで、清末 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%9C%AB%E6%B0%91%E5%88%9D>の1847年 <https://ja.wikipedia.org/wiki/1847%E5%B9%B4>(道光 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%89>27年)に再び重刻された[21] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200649-21>。 李氏朝鮮 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE>でも読まれた[22] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200653-22>。日本 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC>では、キリシタン <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3>の禁書 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E6%9B%B8>に指定されながらも荻生徂徠 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0>や水野軍記 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E8%BB%8D%E8%A8%98>に読まれた[23] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200655f-23>[24] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B02015b-24>。 平田篤胤 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4>は『畸人十篇』や『天主実義 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%AE%9F%E7%BE%A9>』、アレーニ <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B>『三山論学記』、パントーハ <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%8F>『七克』などを読み、1806年 <https://ja.wikipedia.org/wiki/1806%E5%B9%B4>(文化 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96_(%E5%85%83%E5%8F%B7)>3年)これらを神道 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93>的に翻案 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%BB%E6%A1%88>した『本教外篇 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%95%99%E5%A4%96%E7%AF%87?action=edit&redlink=1>』を著した[3] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E6%9F%B4%E7%94%B0200636-3>[25] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-FOOTNOTE%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997265f;276-25>[26] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#cite_note-26>。 日本語訳 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。 畸人十篇 <https://ja.wikisource.org/wiki/zh:%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87?uselang=ja> 柴田篤「『畸人十篇』の研究 : 第一篇・第二篇訳注 <https://hdl.handle.net/2324/13919>」『哲學年報』第68号、九州大学大学院人文科学研究院、2009年。 NAID <https://ja.wikipedia.org/wiki/NAID_(%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%AD%90)> 120001164487 <https://ci.nii.ac.jp/naid/120001164487>。 柴田篤「『畸人十篇』の研究(二) : 第三篇・第四篇訳注稿 <https://hdl.handle.net/2324/25109>」『哲學年報』第71号、九州大学大学院人文科学研究院、2012年。 NAID <https://ja.wikipedia.org/wiki/NAID_(%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%AD%90)> 40019237628 <https://ci.nii.ac.jp/naid/40019237628>。 参考文献 石井道子「シュタインヘーヴェル版イソップ寓話集の利瑪竇『畸人十篇』に与えた影響 <http://hdl.handle.net/10191/0002000326>」『環日本海研究年報』第27号、新潟大学現代社会文化研究科環日本海研究室、2022年。CRID <https://ja.wikipedia.org/wiki/CRID_(%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%AD%90)> 1050291768768626432 <https://cir.nii.ac.jp/crid/1050291768768626432> 後藤基巳『天主実義』明徳出版社〈中国古典新書〉、1971年。ISBN <https://ja.wikipedia.org/wiki/ISBN_(%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%AD%90)> 978-4896192520 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<https://ja.wikipedia.org/wiki/ISBN_(%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%AD%90)> 978-4582806243 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%96%87%E7%8C%AE%E8%B3%87%E6%96%99/978-4582806243>。 脚注 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 35. 柴田 2009 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02009>, p. 157. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 36. 平川 1997 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997>, p. 239. 平川 1997 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997>, p. 244ff. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 38-40. 後藤 1971 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%BE%8C%E8%97%A41971>, p. 19-22. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 41f. 柴田 2015a <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02015a>, p. 116. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 38. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 42f. 平川 1997 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997>, p. 244f. 石井 2022 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E7%9F%B3%E4%BA%952022>, p. 24. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 44. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 45-49. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 48. 平川 1997 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997>, p. 263. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 38-40;44. 平川 1997 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997>, p. 240-242. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 52f. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 49. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 53. 柴田 2006 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02006>, p. 55f. 柴田 2015b <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E6%9F%B4%E7%94%B02015b>. 平川 1997 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87#CITEREF%E5%B9%B3%E5%B7%9D1997>, p. 265f;276. 野口武彦 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E6%AD%A6%E5%BD%A6>、平凡社、改訂新版 世界大百科事典『本教外篇 <https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E6%95%99%E5%A4%96%E7%AF%87>』 - コトバンク <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF>

2019/4/24 特別講座「古代阿波と畿内地方」★全メンバー対象動画

 https://www.youtube.com/watch?v=E4ACxvk4dM8

【文献から見る】「マジ」「ムカつく」は江戸時代からあった!?今も普通に使う意外と古い日本語20261003 マジ

 

2. 「掟・律法」を意味する ホック(Hoq / Chok) ヘブル語で「掟」や「定め」「法律」を意味する言葉です。 • ヘブル語表記: חֹק • 発音: 「Hoq」または「Choq」と綴られます。 • 意味: 旧約聖書の中で「神の命令・規則」を指す際によく使われる単語です。

 1. 主な意味:「私の愛する人」

「ドディ(דּוֹדִי)」は、「私の愛する人」「私の恋人」(My beloved)を意味する深い愛着や親愛を表す言葉です。

聖書の『雅歌』2章16節にある有名なフレーズ「私は私の愛する人のもの。私の愛する人は私のもの(アニ・レドディ・ヴェドディ・リ)」などにも使われています。 [1, 2, 3]


2. 「掟・律法」を意味する ホック(Hoq / Chok)

ヘブル語で「掟」や「定め」「法律」を意味する言葉です。 [1]

2026年10月3日土曜日

https://www.instagram.com/reel/Dd7TIMvs6y5/? 古墳

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

2026/10/01 01:00

あわわ編集部

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

古代史を通して徳島の魅力を再発見するために連載スタートした「邪馬台国は阿波だった!? シーズン2」。編集担当の肌感ですが、じわりじわりと認知度もあがってきてます。執筆者の皆様には多忙の中、原稿アップありがとうございます。
ということで!
この連載を読みながら邪馬台国阿波説に誇りを持ち、畿内説や九州説に負けず劣らず盛り上げていきましょう。

この企画の実はすごいところ
「邪馬台国は阿波だった」と説を唱える人たちでも詳細の各論では完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。
そこでタウン誌としてできることは何かと考え、それぞれの説を一同に掲載するまとめ記事を企画しました。1つのテーマについて、それぞれが自身の論を展開していく・・・。説を横串にしたことで、微妙な違いを比較することが可能に。
ここが実はすごいところなんです。そんな
無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者のみなさんには頭が下がります。それも一重に邪馬台国阿波説を今以上に拡散していこうという想いから実現できました。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
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邪馬台国は阿波だった!?【シーズン2】11話目/「加茂氏」と阿波の関係


【通説】

賀茂氏(かもうじ)とは/(加茂氏 / 鴨氏 / 加毛氏)を名とする氏族
古代日本の氏族で、上賀茂・下鴨神社の神官として国家祭祀や陰陽道に深く関わった一族です。

起源とルーツ
賀茂氏の祖神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、『山城国風土記』逸文によれば八咫烏に姿を変え、神武天皇の東征を導いたとされます。このことから、賀茂氏は軍事・呪術・自然信仰に通じた氏族であった可能性があります 。起源については複数の説があり、渡来系鉄器集団説、出雲系神霊説、大和葛城地方の土着豪族説が存在します。いずれも京都に拠点を移し、上賀茂・下鴨神社の神職として名を上げたとされています 

歴史的役割
賀茂氏は奈良時代以前から存在し、平安時代には賀茂忠行・保憲父子が陰陽寮で活躍し、安倍晴明の師匠として陰陽道の宗家の地位を確立しました。神道の祭祀や暦法、陰陽道の儀式に深く関わり、国家的な霊術・祭祀の中心家系としての地位を持っていました 。 

文化・宗教的影響
賀茂氏の代表的な功績は、賀茂祭(葵祭)を通じた国家祭祀の確立です。賀茂祭は疫病鎮静や五穀豊穣を祈願する祭で、朝廷直轄の重要祭祀として行われました また、賀茂氏の家紋である二葉葵は神聖な植物として信仰され、賀茂神社との関係も深い象徴です 。 

系統と氏族
賀茂氏には複数の系統があり、賀茂県主氏、賀茂朝臣氏、鴨直氏、足助氏などが存在しました。これらは地域や役職に応じて異なる姓を名乗り、古代の祭政や信仰を担っていました。

まとめ
賀茂氏は、古代日本の国家祭祀、陰陽道、暦法、神道儀式に深く関わった氏族であり、上賀茂・下鴨神社を中心に日本文化や宗教に大きな影響を与えました。渡来系・出雲系・土着豪族など複数の起源説があるものの、いずれも列島在来の祭祀集団が王権とともに氏族化した存在と考えられています。

(引用:Wikipedia等より)

▲蚕の社三柱鳥居。

<目次>

●中年タケシ氏の説
●オキタリュウイチ氏の説
●百万平氏の説
●シン・きーちゃん氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説
●藤井榮氏の説
●山内雄二氏の説
●ANYA氏の説(今回は休載)

中年タケシ氏の説/「迦毛大御神」の原郷を征く――吉野川流域に生き続ける『古事記』の凄まじき痕跡


こんにちは中年タケシです。

日本の神社信仰において、「カモ」の名は特別な響きを持ちます。山城国の一宮である京都の上賀茂・下鴨神社、そして全国の賀茂社の総本宮とされる大和・葛城の高鴨神社。その最高祭神の一柱が、阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)――またの名を『古事記』で天照大御神らと並び称される最高敬称、「迦毛大御神(かものおおみかみ)」です。出雲の神でありながら、なぜ大和や山城の最高神となったのだろうか。古代史の巨大な謎を解く鍵が、実は四国・阿波の吉野川流域に、驚くべき解像度で遺されています。

徳島県東みよし町加茂。ここには京都の加茂の配置が「一里四方」に凝縮された空間になります。加茂川流域に式内社「鴨神社(別雷命)」、下流に「下加茂神社(玉依姫命)」、上流に「貴布禰神社(高龗神)」が鎮座する。さらに同地の「丹田古墳(積石塚)」が座す加茂山は日本有数の落雷地帯であり、かつては葵が自生していたという。これこそが「別雷」の原点であり、京都の「葵祭」の原型だったのではないだろうか。
だが、何より決定的な証拠に「葬送の奇習」がありました。

古事記には、アジスキタカヒコネが親友アメノワカヒコの葬儀(殯)に訪れた際、姿が酷似していたために「死人と間違えるな」と激怒し、喪屋を太刀で切り倒し、足で蹴り飛ばしたという有名な神話があります。
この凄まじい神話の細部が、三好市池田町の「カリヤ(仮屋)」という民俗信仰にそのまま生きているのです。同町の松尾地区では、死後六日目の夜に三つ又の竹で「カリヤ」と呼ばれる小屋を作り、故人の飯を供える。そして七日目の朝、なんとその小屋を「足で蹴かえして(蹴り飛ばして)」そのまま墓参りに行くのです。

また近隣の佐野地区でも、三又の竹の脚を切り、川へ突きころがして帰る。草葉や竹を刈る道具といえば「鎌(カマ)」であり、鴨神社の対岸には「太刀野山」の地名もあります。生を美しく尊び、死の穢れを激しく拒絶して足蹴にする――仏教伝来以前の原初的な精神世界と神話のディテールが、これほど完璧に一致する事例が他国にあるだろうか。大和の葛城、山城の京都へと遷っていった鴨族。しかし、その「大御神」が誕生し、駆け抜けた本当の原郷は、この阿波の吉野川流域にこそあったと考えます。池田町のカリヤを蹴り飛ばす足音は、二千年の時を超えて、私たちに古代の真実を告げているのです。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲池田町佐野「カリヤイメージ」。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲阿遅鉏高日子根神、喪屋を切り伏せるイメージ。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/中年タケシ】
「難しい歴史の話は抜き!」をモットーに、徳島の史跡をユルく楽しく巡るYouTuber。キャンプ好きが高じて阿波の歴史の奥深さに目覚め、現在は「歴AWA(レキアワ)」として活動中。中年タケシならではの等身大の目線で、地元の何気ない景色に隠された壮大なロマンを軽妙に綴る。

[問い合わせ先]なし

中年タケシ氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶中年タケシの『歴AWA』でOK!(YouTube)



オキタリュウイチ氏の説/加茂氏とは?


みんな、「加茂」「賀茂」って聞くと、何を思い浮かべる?京都の上賀茂神社・下鴨神社とか?加茂氏といえば陰陽道でも有名で、平安時代には加茂保憲という陰陽師が登場し、その系統から、後の陰陽道トップスター、安倍晴明が現れ、陰陽道そのものにも大きな影響を与えた。実はこの加茂氏、かなり面白い一族なんだ。

一般的には、奈良県の御所市周辺、昔の葛城地方を発祥とする古代の一族だと言われている。そして、都が京に移るとともに、一緒に京都へ移りすんでいく。ここまでは、まあ普通の歴史の話だよね。ところが、ここからがちょっと変な話。実は、徳島に京都の上賀茂神社・下賀茂神社「元社」があるんだ。徳島県阿波市吉野町に延喜式内社である「鴨神社」と「下加茂神社」が存在している。しかも、このあたりは「加茂宮」と呼ばれる地域。かつて周辺一帯は「鴨庄」「鴨郷」と呼ばれる鴨族の本拠地だった。古代の賀茂氏に関連する神社や「加茂」「鴨」のつく地名が集中的に存在している。

「え、奈良が元じゃないの?」これまで、オキタの神社考を読んでもらった人は、もう理解されていると思う。阿波→奈良→京都なんだ。

さらに、この加茂氏と深く関係しているのが「雷」だ。上賀茂神社に祀られている「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」。名前に、「雷」と言う文字が入ってるよね。なんで雷なのか?なんと、徳島の鴨神社の周辺は、昔から日本で1番「落雷が多い地域」だと言われている。つまり、土地に雷がたくさん落ちる。すると人々は、「これはただの雷じゃない。神の力なんじゃないか」と考える。そして、その土地の神様が雷のエネルギーを持つ存在として信仰されていった……というわけだ。そして、賀茂別雷大神の本名は、阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)という神。この神の古墳がこの地域に存在する。丹田古墳である。

さらに面白いのが「葵祭」。京都の上賀茂神社と下鴨神社で行われる有名なお祭りだが、なぜ葵を祭っているのか答えられない。それもそのはず、その徳島の鴨神社周辺では驚くなかれ、なんと【葵】が自生しているのだ。

そして極めつけはこんな話も残っている。かつて京都の賀茂社(あるいは朝廷)の使者(大宮司)が、馬に乗って阿波国へやってきた。使者は「京都で神社(賀茂社)を興し、国家の守護神として祀るにあたり、元々の本家である阿波の鴨神社に伝わる秘伝の祭祀方法や古伝・神名帳を売ってほしい」と懇願した。阿波側はこれに応じ、金品等と引き換えに祭祀の方法や伝承を売却した。その際、京都側の使いから「本家である阿波から祭祀を買ったという事実は、都の威信に関わるため、決して他言しないでほしい」と強く口止めをされた。このため、阿波側では公には記録を残さず口伝や陰の記録として留められ、都(京都)で賀茂神社が「全国の総本社」として絶対的な権力と地位を築いていったとされる。

鴨一族の源流は阿波(徳島)にあり、吉野川流域から大和、そして山城(京都)へと東遷していったのだ。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲阿波國延喜式内社「鴨神社」。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨神社には、葵が自生している。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲下加茂神社の拝殿に描かれた葵。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

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百万平氏の説/『 加茂氏と阿波の関係』


徳島県東みよし町に鎮座する延喜式内社「鴨神社」は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)とのつながりが深いとされる神社です。祭神の別雷命は、大国主命の子である阿遅鉏高日子根神の別名とされ、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神と同一視されています。興味深いのは、この鴨神社から吉野川を挟んだ対岸、三好市三野町加茂野宮に「下加茂神社」が鎮座している点です。この地名の由来は、かつて京都の上賀茂神社・下鴨神社の両社を三好郡に分祠した際、当地に下加茂神社を勧請したことによると伝えられています。京都では賀茂川沿いに上賀茂神社と下鴨神社が上流・下流の関係で並んでいますが、阿波でも吉野川を挟んで鴨神社(上社にあたる)と下加茂神社(下社にあたる)が対になっており、京都の配置をそのまま写し取ったような構図になっているのです。

創建年代については、慎重に見る必要があります。社伝では「貞観2年(860年)以前に京都上賀茂神社を勧請した」とされる一方、『徳島県神社誌』には「6世紀頃の鎮座」とする記述もあるようです。ただし上賀茂神社の創建は678年頃と伝わっており、もし鴨神社が6世紀の創建だとすると、勧請元とされる上賀茂神社より古いことになり、矛盾が生じるとの指摘もあります。したがって、鴨神社を上賀茂神社の「元宮」とする説は魅力的な仮説です。

一方、地名や伝承をたどると、阿波と加茂氏の結びつきを示す手がかりは数多く見つかります。鴨神社の背後にある加茂山には、阿遅鉏高日子根神の陵墓とされる「丹田古墳」があり、この地が雷の多発地帯であることから「別雷命」という神名が生まれたとされます。また、陵墓周辺に葵が自生することから、この祭祀が「葵祭」と呼ばれるようになり、後に京都へ伝わったとする説もあります。

さらに、阿波国内には「加茂」に関わる地名が各地に残っています。阿南市加茂町には辰砂の採掘坑道跡が残る若杉山遺跡や、製鉄の炉跡が見つかった加茂宮前遺跡があり、徳島市にも加茂・加茂名という地名が存在します。加茂氏が金属の精錬や採掘に関わった氏族だったのではないか、という見方もあるようです。
このほか、吉野川対岸の「足代(あじろ)」という地名は阿遅鉏高日子根神と結びつけられ、大阪府東大阪市にも同名の地名と「鴨高田神社」が鎮座しています。また鴨神社の近くには、阿遅鉏高日子根神の母神・多岐理比売命を祀る式内「田寸神社」もあり、宗像三女神ゆかりの神々が阿波国美馬郡に集まっていることも見逃せません。

創建年代そのものは慎重な検証が必要ですが、上賀茂・下鴨に対応する二社の配置や、各地に残る地名・遺跡の分布を重ね合わせると、加茂氏という氏族が古代の阿波に深く根を下ろしていた可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨神社。

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▲周辺地図。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/百万平(ひゃくまんぺい)】

沖縄在住 観光業に携わる傍ら、趣味で古代史をテーマにした漫画やブログ、作曲を細々とおこなう。好きな都道府県は徳島県。【古代史経歴】●2020年、日本の古代史に興味を持つ。●2021年、出張の合間を縫って各地の神社巡りを開始。●2023年、阿波徳島の重要性に気づき魅了される。同年、Instagramで阿波古代史をテーマにした漫画『籠の中の卑弥呼』連載開始。ヤマモトタケルノミコトさんにいつかお会いすることを夢見る。●2024年、ヤマモトタケルノミコト氏のラジオに出演し夢叶う。

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シン・きーちゃん氏の説/加茂氏とは?——カモは二つあった


お元気様です🫡
東みよし町の加茂、吉野川市の鴨島、阿波町の賀茂神社。徳島には「カモ」がよく残っています。このカモを名乗った一族、実はひとつではありませんでした。

■ カモは二つあった。
平安初期の氏族名簿『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(815年)を見ると、カモ氏は二系統に分かれています。ひとつは山城のカモ。京都の上賀茂・下鴨神社を守った一族で、祖神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。もうひとつは大和葛城のカモ。奈良県御所市を本拠に大国主命の子孫を名乗り、事代主命(ことしろぬしのみこと)——えびす様を祀る系統です。同じ「カモ」でも、名簿の上では別の家系なんです

■ 八咫烏の、意外な話。
カモ氏といえば八咫烏(やたがらす)。神武天皇を導いた三本足の烏ですね。ところが『古事記』にも『日本書紀』にも、八咫烏の名前は書かれていません。ただ「八咫烏」とあるだけ。これを「賀茂建角身命が烏に化けた姿」と書いたのは、さきほどの『新撰姓氏録』。神話からずいぶん経ってからの話でした。

■ 阿波のカモ。
さて阿波です。ここは慎重にいきましょう。927年の『延喜式』神社台帳に、美馬郡の鴨神社が載っています(現在の東みよし町加茂)。10世紀前半には、阿波にカモの名を持つ神社があった。ここは動きません。
同じ台帳には、事代主神社が阿波郡と勝浦郡にひとつずつ。葛城のカモが祀った神さまです。そして1090年ごろ、この鴨神社の一帯が京都・上賀茂神社の荘園になります。阿波と京都の賀茂社がつながっていたことは、文書で確かめられます。

■ 踏みとどまりたいところ。
阿南市に加茂宮ノ前遺跡があります。国内最大規模とされる水銀朱の生産地です。「加茂」で「朱」。つなげたくなりますよね。きーちゃんも一瞬つなげたくなりました。でもこの「加茂」は今の地名です。縄文の人たちが自分をカモと呼んだ証拠はありません。名前が同じ、それだけでは歴史になりません。

■ ここからは妄想ですが。
なぜ京都の賀茂社は、わざわざ阿波の山あいを荘園に選んだのでしょう。すでにそこに鴨神社があったから選ばれた、のだとしたら——順番が逆かもしれません。裏づける古文書はまだありません。あくまで妄想です。
でも10世紀の神社台帳、11世紀の荘園、吉野川に沿って残るカモの地名。この重なりは、地域の歴史として十分に面白いと思うんです。一緒に歴史沼にハマりましょう!

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲カモは2つあった。

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【執筆/きー(Key)】
お元気様です🫡 日本神話と日本古代史のロマンに、気づけば毎日どっぷり沼っている きー(Key)です。阿波(徳島)を拠点に、文献(古事記・日本書紀など)と現地(神社・地名・遺跡)の両方から、あれこれ想像して深掘りするのが好き。YouTube「シン・きー歴史沼チャンネル」発信に加え、ツアー企画/現地ロケ/ライブ配信/講演もしています。一緒に歴史沼にハマりましょう!🗝️

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ヤマモトタケルノミコト氏の説/鴨氏・賀茂氏と阿波。八咫烏とアヂスキタカヒコネをめぐる古代氏族の謎


阿波(日本)古代史を読み解くうえで、見逃すことのできない氏族の一つが「鴨氏(かもし)」、そして「賀茂氏」です。両者は同じ「カモ」を名乗るため同族のように語られることも多いですが、その系譜や信仰には複数の流れが存在すると思われます。大きく見ると、奈良・葛城地方を中心とする「鴨氏」と、山城国・現在の京都を中心に勢力を築いた「賀茂氏」が知られています。葛城の鴨氏は、大国主神の子とされる阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)を重要な祖神として祀り、現在も奈良県御所市の高鴨神社にその信仰が残る。一方、京都の賀茂氏は、賀茂御祖神社(下鴨神社)・賀茂別雷神社(上賀茂神社)へとつながり、賀茂建角身命や賀茂別雷命を中心とする独自の系譜を形成しています。

鴨と賀茂。
まず鴨は「甲」+「鳥」ですね。鳥をトーテムとする一族はたくさんいますが、甲:始めで、鴨(かも)と読ますのは必ず何かありますね(笑)。徳島には鴨島と言う地名があり、鴨族の土地で、大国主系とも言われています。この鴨氏が格上な感じもしますね。賀茂氏と言えば、陰陽師で賀茂忠行ですね。陰陽寮(国家の天文・占術・暦を司る役所)で頭角を現して、忠行は、天文・暦・呪術に通じた超実務派の陰陽師で、朝廷からも深く信頼されて、子の賀茂保憲が後を継ぎ、後の安倍晴明を育てたようですね。「八咫烏の霊力→陰陽道の権威」というシステムが完成していったわけです。「葵=神と逢う草」フタバアオイは、2枚のハート型の葉が向かい合ってついているのが特徴でその形状が「逢う(あふ)=合う」という語感に通じることから、「神と人が出会う聖なる植物」とされてきました。葵紋のルーツをさかのぼると賀茂氏にたどり着くと。そして、葵は雨の多いところでしか自生しない。京都の○○神社近辺では自生しないそうですよ。徳島の鴨神社近辺は自生していると。某徳島の先生より(笑)。

さてここで勿論注目したいのがやはり「阿波」ですね(笑)。アヂスキタカヒコネは『古事記』において大国主神と多紀理毘売命の子として登場し、非常に強い霊威を持つ神として描かれています。阿波には大国主系の神々や国土開拓に関係する伝承・神社が各地に残されているため、アヂスキタカヒコネ信仰と阿波の古代祭祀圏との関係を検討する余地が多いにあり、徳島県三好郡東みよし町にある延喜式内社の鴨神社(かもじんじゃ)は、京都にある下鴨神社の元宮だという説がありますね。また近くにある丹田古墳も関係しているのではとも言われています。この葛城鴨氏の祖先集団が四国東部を含む広域的な交流圏を持っていて「阿波―紀伊―葛城―山城」という人々・祭祀・技術の移動ルートも興味深い研究仮説テーマとなりますね。

もうひとつ重要なのが日本古代史の伝説、八咫烏(やたがらす)ですね。『古事記』『日本書紀』では、八咫烏は神武天皇の東征に際して熊野から大和への道を導いた神聖な存在として登場します。そして『新撰姓氏録』では、山城の賀茂氏につながる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏となって神武天皇を導いたという系譜的伝承が記されています。「賀茂氏=八咫烏」という関係は、古代王権成立を支えた「導きの氏族」という賀茂氏の性格を象徴していますね。裏天皇とも言われていますし(笑)。ここに阿波を重ねると、さらに面白い構図が浮かびます。神武東征を「阿波を含む東部四国から畿内へ向かった勢力移動」と見る仮説に立てば、賀茂・鴨系集団もまた、その移動や建国に関与した可能性を考えることができますね。


「阿波―紀伊―熊野―葛城―山城」。
このラインを「カモ」の人々の移動と祭祀の伝播という視点から再検討すると、鴨氏・賀茂氏は単なる地方豪族ではなく、神武伝承、大国主系祭祀、八咫烏信仰、そしてヤマト王権成立を結びつける重要な存在として浮かび上がってきます。そして阿波古代史を学ぶ上でも、今後さらに鴨氏・賀茂氏を掘り下げていく必要がありますねね。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨氏と賀茂氏。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com

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藤井榮氏の説/インド「ナーガ族」の末裔?(阿波「海人族」県南の雄)


阿波の先覚岩利大閑氏は述べています。
「◆これは私見なのですが、常々この島に住みついた海洋民族の源流はどのような民族であったのかを考えてみることがありました。天の元山の山頂で祀られる神々も龍神、天御中主(あめのみなかぬし)命の御神体でさえ箸蔵寺(徳島県三好市池田町)では“ワニ”として祀られ、大女王豊玉比売命のことを記した古事記の項では“ワニ”に変身して出産し、しかもその生まれた子供の血脈が神武天皇になったごとく、堂々と書き残されているのです。 ◆姓氏録に載る貴人にも事代主命系統では『和仁(わに)』を名乗っている人もいますが、“ワニ”から生まれたことを誇りに思う民族ではないかとさえ最近になり思うようになってきました。

◆約六千年ほど以前にインドのガンジス川の上流に“ワニ”より生まれたと自称する『ナーガ族』といわれる民族がいたとインドでは言われていますが、この民族がガンジス川上流で気候環境の変化が起こったのでしょうか下流地方に移動を始め、やがてガンジス川の沿岸から消えてしまった不思議な民族『ナーガ族』になんらかの関係があるのではないだろうかなどと最近思うようになってきました。 ◆いづれにせよ『倭国』を支配したのが海洋民族であったことは、残された神事ではっきり受け継がれ伝えられています。」※1

◆新撰姓氏録を見ると、「賀茂朝臣。大神朝臣と同じき祖。大国主神の後なり。」と書かれています。徳島県南海人(あま)族の祖「須佐之男命」、その六世孫が「大国主命」でその御子神が「事代主命」です。 なので、「大国主命」・「事代主命」の系統が「賀茂」氏(「加茂」も同じ)ということになります。ちなみに「和仁」については「和仁古。大国主の六世孫、阿太賀田須命の後なり。」とあります。

◆加茂族を始めとする海人族は、阿波国全体で見ると次のような分布になっています。
① 【宇豆彦系】 鳴門周辺が本拠地で、子孫はのち大倭(大和)氏、海直(うみのあたい)等を名乗っています。
② 【綿都美系】 吉野川下流南岸が本拠地で、子孫はのち安曇(あずみ)氏、海犬飼氏、 大海 (おおしあま)氏等を名乗っています。
③ 【大国主・事代主命系】 県南海岸部が本拠地で、子孫はのち賀茂(加茂・鴨)氏、大神(みわ)氏、我孫(あびこ)氏、宗形(むなかた)氏、長(なが)氏等を名乗っています。
◆これら海人族こそ、古事記上巻の「伊邪那岐命の禊ぎ祓い」のくだりで三貴子の前に誕生する底筒之男(そこつつのを)命(大国主・事代主系)、中筒之男(なかつつのを)命(綿都美系)、上筒之男(うはつつのを)命(宇豆彦系)の三柱の神なのです。 ◆神功皇后が大陸進出にあたって航海の守護神としたこの三柱の神は、徳島県板野郡藍住町住吉の「住吉神社」で神功皇后と共に祀られており、大阪市住吉区の「住吉大社」を始め全国住吉神社の元社です。

◆先述のとおり、阿波県南海岸部は上記『ナーガ族』が遠くインドから東南アジアを経てたどり着き住み着いたのであろう地で海人族の開祖須佐之男命の本貫地(海陽町に式内「和奈佐意富曽神社」が鎮座)です。須佐之男命のあとを継いだ大国主・事代主命系の本拠地でもあります。 ◆だからこそ令制国以前の阿波は、北半分「粟の国造」と南半分「長の国造」が治める二つの文化圏が存在し、南半分「長の国※2」(『ナーガ』(那賀))の大人(うし)こそ「加茂氏」なのです。

◆この加茂族の全国進出の足跡が延喜式内社「阿波(粟)神社」として全国に散在しております。一例を挙げれば、 ①京都府城陽市「粟神社」(祭神:少名毘古那命)、 ②奈良市本子守町「率川阿波神社」(祭神:事代主命)、 ③静岡県磐田市「淡海国魂神社」(祭神:大国主命)、 ④茨城県東茨城郡城里町「阿波山上神社」(祭神:少名毘古那命)、 ⑤長野県千曲市「粟狭神社」(祭神:建御名方命・事代主命・少名毘古那命)。 ◆他にも、関東千葉県館山市「安房神社」、栃木県小山市「安房神社」には天太玉命がご祭神とされ、阿波忌部族の進出の証しとしている向きもありますが※3、よくよく調べてみると両社とも本来のご祭神は「大己貴命・少名毘古那命」であると考えられ※4、いかに阿波県南の加茂族が全国を股に掛けて進出・開拓したのかがお分かりいただけるかと思います。 ◆古代、手と風力でのみ小舟を操り海を航海するためには「倭の奈国」以来海道(うみすじ)を知り尽くし潮の流れ天候に対しても季節季節の変化を知り尽くし「天照大御神」の御宇(ぎょうう)からでも遡れば千年に達する伝統と技術をもった「長(なが)族」の海人に頼っていたのです。※5

◆ことほどさように、県南「長の国」の加茂(賀茂)族を中心とした阿波の海人族が全国に進出・開拓をしたということであり、「出雲」・「伊予」・「伊豆」・「大倭(奈良)」すべての旧国が阿波の何らかの影響を受けて開発されたことが浮き彫りになっております。※6 ◆「大倭」(奈良県)・「出雲」(島根県)は新しく造られたダミーで本来の「倭」・「伊津毛」とは全く違った別国なのです。※7 ◆これで「長門」・「長野」・「長岡」をはじめ※8日本列島至る所に「阿波」、「加茂」、「那賀(那珂)」、「勝浦」、「粟野」、「忌部(伊部)」など阿波ゆかりの地名が拡がっている理由がよくご理解いただけようかと思います。以上

※1 『道は阿波より始まる』(その三:96頁参照)。
※2 現在の那賀郡を始め、勝浦郡、小松島市、阿南市、海部郡を合わせた地域です。
※3 阿波忌部族は航海術を有していないので、忌部系の祭神を祀る神社は、阿波古代人が全国進出をした際  のち天皇と呼ばれた大王(おおきみ)には必ず「天日鷲系忌部」が膳夫(かしわで)として付き従い、その後進   出地で得意の技術を発揮して進出地に根付いたのであって主語はあくまで皇族なのです。
※4 山梨県韮崎市の「安房神社」(祭神:天太玉命)は、同県「北巨摩郡誌」によると元々ご祭神は“大己貴命・ 少名毘古那命“ であり、時とともに本来の祭神が取って替わられ江戸期頃に天太玉命になったものとみられます。
※5 『道は阿波より始まる』(その三21頁参照)。
※6 『道は阿波より始まる』(その一12頁参照)。
※7 『  同   』( 同 110頁参照)。
※8 『       同  』(その二13頁参照)。

【参照リンク】

① YouTubeチャンネル古代史塾(「古代史解説第2回」・「同第3回」・「同第4回」・「同第5回」・「同第17回」)
② 小著『古代史入門』166~179頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ50(222頁以下)参照、両著とも(Amazon電子書籍・印刷本)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲徳島県海陽町「和奈佐意富祖神社」(ご祭神:須佐之男命)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲奈良市本子守町「率川阿波神社」(ご祭神:事代主命)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲茨城県城里町「阿波山上神社」(ご祭神:少名毘古那命)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp

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山内雄二氏の説/鴨(賀茂)氏の本貫地も、阿波国に比定できる


日本の古代史は阿波に始まるとする見解、また平城京遷都以前に皇都が阿波から奈良藤原京へ遷ったとする先達の説に従えば、天皇家を支えた諸豪族もまた東四国を発祥地とした可能性が高い。そこで本稿では、中臣氏、蘇我氏、和珥氏等の場合と同様の観点から、鴨(賀茂)氏についても考察してみた。

【鴨(賀茂)氏の系譜】
古代の大族である鴨(賀茂)氏は、天神(あまつかみ)系・地神(くにつかみ)系・皇孫系の三系統に分類される。まず天神系は、『新撰姓氏録』によれば賀茂県主(あがたぬし)の系統とされ、祖神を神魂命(かみむすひ)とし、賀茂建角身命(かもたけつぬみ:別名・八咫烏)を始祖とする。彼らは山城国葛野(かどの)を本拠とし、賀茂建角身命は現在の下鴨神社の祭神であり、その孫(まご)にあたる賀茂別雷大神(かもわけいかづち)が上賀茂神社の祭神として祀られている。

地神系については『先代旧事本紀』において賀茂君・賀茂朝臣の系統とされ、大国主神-事代主神-…-大田々禰古命(おおたたねこ)の孫(まご)にあたる大鴨積命(おおかもつみ)を始祖とする系統が記載されている。この系統は大和国葛城(かつらぎ)を本拠とし、現在の鴨都波(かもつば)神社において祖神である事代主命を祀っている。皇孫系は、第九代開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいます)の後裔で、鴨君・県主を称した系統である。しかし、阿波との関連性が乏しいため、本稿では扱わない。また、京都における天神系については、祖先に八咫烏を掲げるなど、平安京遷都以降の作為的要素が感じられるので検討対象から除外する。また、加茂氏は古代よりも中世以降の資料に多く登場するため、ここでは触れない。

通説では、地神系の鴨(賀茂)氏が最も古い系統とされ、大和国葛城(現・奈良県御所市)がその発祥の地と位置づけられている。当地の高鴨神社は、同地の鴨都波神社や京都の下鴨・上賀茂神社を含む全国の鴨(賀茂)神社の総本社とされる。高鴨神社の祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢすきたかひこね)であり、『古事記』では大国主神の御子神として、別名・迦毛御大神(かものおおみかみ)として登場する。この迦毛大御神を、初めて賀茂(鴨)氏を称した祖神とみなすのであれば、確かに最古層の神に属することになる。しかし、前述の賀茂氏の系図に阿遅志貴高日子根命は登場しない。

【出雲国造神賀詞】
この謎を解く鍵は、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に求めることができると考える。この祝詞は、出雲国造が代替わりするたびに新任の国造が出雲から奈良の朝廷に参向し天皇家への忠誠を誓う際に奏上されたものであり、記録上は716年から833年までの奉奏が確認されている。その内容のうち最も重要で、且つ具体的な神名・地名等が登場する部分について、以下に現代訳を示す。

「倭(やまと)の大国主命が、大物主命と名前を変えて皇孫のいる大倭(おおやまと)の大御和の聖地(現・奈良県桜井市三輪の大神神社)に分霊をする。同様に御子達、阿遅須伎高孫根命を葛城の鴨の聖地(現・奈良県御所市鴨神の高鴨神社)に、事代主命を宇奈提(うなて:現・奈良県橿原市雲梯町の河俣神社)に、賀夜奈留美命(かやなるみ)を飛鳥の聖地(現・奈良県高市郡明日香村柏森の賀夜奈留美神社」に分霊し、皇孫の坐す朝廷の近くに守り神として配置した。」

この祝詞の抜粋箇所は、『日本書紀:神代下 第九段 一書第二』にみえる記述、すなわち、国譲りの平定後に高皇産霊尊が大物主神を召し、「我が娘の三穂津姫を汝の妻とし、八十万の神を率いて、永久(とこしえ)に皇孫のために護り奉るべし」と詔したという神話に合致する。まさしく、神賀詞における大物主神およびその三人の御子らの分霊と配置の記述は神話の内容と一致するのである。倭から大倭(奈良)へ分霊された四か所の神社を地図上に示すと、それらは平城京ではなく、南方に下った藤原京を囲むように配置されていることが分かる。ところが、『出雲国造神賀詞』の奏上記録の初見は714年であり、これは平城京遷都(710年)以降の年代であるため矛盾が生じる。むしろ、この祝詞の原型は平城京遷都以前に成立していたと考えるべきであり、藤原京遷都を念頭に置いて作成されたことを示唆している。

ところで、出雲の国造が遠く奈良へ赴き、倭の大国主が大物主命と名を改めて朝廷の守護神となるべく奈良大倭の大御和に分霊したとする神賀詞を奏上する点については、地理的前提に注意が必要である。出雲は倭ではなく、また倭は大倭の一部地域でもない。阿波説に基づけば、倭国は阿波国のことであり、飛鳥も現在の徳島県小松島市に比定される。また、藤原京は飛鳥時代に二度造営されており、最初の藤原京(徳島県吉野川市鴨島町)から奈良の藤原京へ遷都したとされる。このとき初めて、四国から畿内へ海を渡って遷都が行われたのであり、皇孫を守護するために『出雲国造神賀詞』のような祝詞が奏されたことは、むしろ自然な経緯と考えられる。この時期に関する記述は、天武天皇から文武天皇に至る『日本書紀』・『続日本紀』に詳しいので参照されたい。

では、自らを奈良の大御和に分霊したとされる「倭の大国主命」はもともとどこに座したのであろうか。阿波国には、全国で唯一、大御和と冠して大国主命(大己貴命)を祭神とする式内社・大御和神社(徳島市国府町)が鎮座している。この神が大物主命と名を改めて奈良へ分霊されたとするならば、奈良では元社の名称である「大御和」を憚り、「大神」あるいは「大三輪」という社名を用いた可能性が考えられる。即ち、阿波の大御和神社こそが、大和の大神神社の元社であると推定される。

同様に、大国主命の御子神達の元社も倭(阿波)に所在したと考えるべきである。式内社・鴨神社(徳島県三好郡加茂)から奈良の高鴨神社へ、式内社・事代主神社(徳島県勝浦郡、或いは阿波郡)から奈良県雲梯町の河俣神社へ、それぞれ分霊されたと推定される。ただし、奈良の加夜奈留美命神社の元社に相当する神社は、阿波国内では現在のところ確認されていない。岩利大閑『道は阿波より始まる』によれば、大国主神の御子・鳥鳴海神(とりなるみ)は徳島県鳴門市堂浦に住したとされるが、その論拠は明らかでない。

【阿波の鴨神社】
三好郡加茂に鎮座する鴨神社について、『寛保御改神社帳』によれば神職は白川氏一族が担っている。白川氏は皇家に繋がる血統であり、平安時代末以降は神祇伯として神祇官の長官を務めた家系であることから、当社が当時、一定の重要性を有する神社として認識されていたと考えられる。祭神は『徳島県神社誌』によると別雷命であり、京都の上賀茂神社の祭神と同一である。これは、平安時代に権勢を誇った上賀茂神社の影響を受けた結果と推測される。しかし、本来の祭神は阿遅鉏高日子根命であった可能性が高い。阿波説では、当社の南側に位置する加茂山中腹の丹田古墳を阿遅鉏高日子根命の葬場とみなしている。また、当社の脇を流れる加茂谷川の上流に貴布禰神社が鎮座する点も、京都の地勢との類似性を示しており、平安京成立以前には阿波から京都へ何らかの影響が及んでいた可能性がある。

ちなみに、下鴨・上賀茂神社の神紋や賀茂祭(葵祭)のシンボルは「二葉葵」である。地元の人によれば、阿遅鉏高日子根命が眠る加茂山は葵の自生地として知られており、「山には葵がわっさわっさ生えとるでよ」と言うほど群生しているという。このことも、賀茂氏ゆかりの祭祀文化が阿波に由来する可能性を示唆していないだろうか。三輪氏と賀茂氏の関係については、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』のいずれの諸本においても、両氏族が同族であることが明記されている。壬申の乱に際しても、鴨君蝦夷と三輪君高市麻呂がともに大海人皇子側につき戦功を挙げ、それぞれに朝臣の姓が賜与されている。これらの史料は、両氏族が古代において系譜的・地理的・政治的に密接な関係を有していたことを明示している。

【賀茂(鴨)氏の本貫地】
式内社・鴨神社の鎮座する阿波国三好郡加茂を中心とした地域は、大国主神の御子である阿遅鉏高日子根神を祖神とする賀茂(鴨)氏の本貫地と考えられる。また、勝浦郡・阿波郡に鎮座する式内社・事代主神社も、賀茂(鴨)氏の支族に比定し得る可能性が高い。さらに、三輪(三八・御和)氏についても、阿波国名方郡国府の式内社・大御和神社を中心とする地域を発祥地とし、大国主神を祖神としている点で、賀茂氏と共通する系譜的特徴を有する。

その後、麻植郡鴨島町に所在した最初の藤原京から、奈良の藤原京へと渡海して遷都する際、高皇産霊尊との約定に基づき、大国主神の一族が皇孫の守り神となるべく、倭(阿波)から大倭に分霊されたと考えられる。この過程において、阿波の三輪氏は大和国三輪へ、鴨氏は大和国葛城へ移住したと推測される。こうして、阿波は次第に忘れ去られていくこととなった。

以上

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨神社(三好郡加茂)。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲大御和神社(徳島市国府)。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】
昭和27年4月、鳴門市に誕生。小学校1年より徳島市南二軒屋町に居住。大学在学中は、山歩き、ジャズ鑑賞、読書が趣味。卒業後、神戸の会社に就職し神戸市垂水区に居住。65歳で職を辞し、徳島に帰還。「うちのかみさん」と国府町で二人暮らし。阿波説の魅力に取りつかれて20年。徳島歴史研究会で年一回、自説の阿波古代史を発表。今年で16回。国府町の「一般社団法人・大御和神社・崇敬会」の事務局を夫婦で運営。

[問い合わせ先]090-1136-7625


ANYA氏の説/             


ANYA氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com

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【シーズン2】11話目【完】。

次回は・・・

那佐と羽衣伝説
記事公開日は2026年11月1日(木)。乞うご期待

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

2026/10/01 01:00

あわわ編集部

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

古代史を通して徳島の魅力を再発見するために連載スタートした「邪馬台国は阿波だった!? シーズン2」。編集担当の肌感ですが、じわりじわりと認知度もあがってきてます。執筆者の皆様には多忙の中、原稿アップありがとうございます。
ということで!
この連載を読みながら邪馬台国阿波説に誇りを持ち、畿内説や九州説に負けず劣らず盛り上げていきましょう。

この企画の実はすごいところ
「邪馬台国は阿波だった」と説を唱える人たちでも詳細の各論では完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。
そこでタウン誌としてできることは何かと考え、それぞれの説を一同に掲載するまとめ記事を企画しました。1つのテーマについて、それぞれが自身の論を展開していく・・・。説を横串にしたことで、微妙な違いを比較することが可能に。
ここが実はすごいところなんです。そんな
無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者のみなさんには頭が下がります。それも一重に邪馬台国阿波説を今以上に拡散していこうという想いから実現できました。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。

邪馬台国は阿波だった!?【シーズン2】11話目/「加茂氏」と阿波の関係


【通説】

賀茂氏(かもうじ)とは/(加茂氏 / 鴨氏 / 加毛氏)を名とする氏族
古代日本の氏族で、上賀茂・下鴨神社の神官として国家祭祀や陰陽道に深く関わった一族です。

起源とルーツ
賀茂氏の祖神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)で、『山城国風土記』逸文によれば八咫烏に姿を変え、神武天皇の東征を導いたとされます。このことから、賀茂氏は軍事・呪術・自然信仰に通じた氏族であった可能性があります 。起源については複数の説があり、渡来系鉄器集団説、出雲系神霊説、大和葛城地方の土着豪族説が存在します。いずれも京都に拠点を移し、上賀茂・下鴨神社の神職として名を上げたとされています 

歴史的役割
賀茂氏は奈良時代以前から存在し、平安時代には賀茂忠行・保憲父子が陰陽寮で活躍し、安倍晴明の師匠として陰陽道の宗家の地位を確立しました。神道の祭祀や暦法、陰陽道の儀式に深く関わり、国家的な霊術・祭祀の中心家系としての地位を持っていました 。 

文化・宗教的影響
賀茂氏の代表的な功績は、賀茂祭(葵祭)を通じた国家祭祀の確立です。賀茂祭は疫病鎮静や五穀豊穣を祈願する祭で、朝廷直轄の重要祭祀として行われました また、賀茂氏の家紋である二葉葵は神聖な植物として信仰され、賀茂神社との関係も深い象徴です 。 

系統と氏族
賀茂氏には複数の系統があり、賀茂県主氏、賀茂朝臣氏、鴨直氏、足助氏などが存在しました。これらは地域や役職に応じて異なる姓を名乗り、古代の祭政や信仰を担っていました。

まとめ
賀茂氏は、古代日本の国家祭祀、陰陽道、暦法、神道儀式に深く関わった氏族であり、上賀茂・下鴨神社を中心に日本文化や宗教に大きな影響を与えました。渡来系・出雲系・土着豪族など複数の起源説があるものの、いずれも列島在来の祭祀集団が王権とともに氏族化した存在と考えられています。

(引用:Wikipedia等より)

▲蚕の社三柱鳥居。

<目次>

●中年タケシ氏の説
●オキタリュウイチ氏の説
●百万平氏の説
●シン・きーちゃん氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説
●藤井榮氏の説
●山内雄二氏の説
●ANYA氏の説(今回は休載)

中年タケシ氏の説/「迦毛大御神」の原郷を征く――吉野川流域に生き続ける『古事記』の凄まじき痕跡


こんにちは中年タケシです。

日本の神社信仰において、「カモ」の名は特別な響きを持ちます。山城国の一宮である京都の上賀茂・下鴨神社、そして全国の賀茂社の総本宮とされる大和・葛城の高鴨神社。その最高祭神の一柱が、阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)――またの名を『古事記』で天照大御神らと並び称される最高敬称、「迦毛大御神(かものおおみかみ)」です。出雲の神でありながら、なぜ大和や山城の最高神となったのだろうか。古代史の巨大な謎を解く鍵が、実は四国・阿波の吉野川流域に、驚くべき解像度で遺されています。

徳島県東みよし町加茂。ここには京都の加茂の配置が「一里四方」に凝縮された空間になります。加茂川流域に式内社「鴨神社(別雷命)」、下流に「下加茂神社(玉依姫命)」、上流に「貴布禰神社(高龗神)」が鎮座する。さらに同地の「丹田古墳(積石塚)」が座す加茂山は日本有数の落雷地帯であり、かつては葵が自生していたという。これこそが「別雷」の原点であり、京都の「葵祭」の原型だったのではないだろうか。
だが、何より決定的な証拠に「葬送の奇習」がありました。

古事記には、アジスキタカヒコネが親友アメノワカヒコの葬儀(殯)に訪れた際、姿が酷似していたために「死人と間違えるな」と激怒し、喪屋を太刀で切り倒し、足で蹴り飛ばしたという有名な神話があります。
この凄まじい神話の細部が、三好市池田町の「カリヤ(仮屋)」という民俗信仰にそのまま生きているのです。同町の松尾地区では、死後六日目の夜に三つ又の竹で「カリヤ」と呼ばれる小屋を作り、故人の飯を供える。そして七日目の朝、なんとその小屋を「足で蹴かえして(蹴り飛ばして)」そのまま墓参りに行くのです。

また近隣の佐野地区でも、三又の竹の脚を切り、川へ突きころがして帰る。草葉や竹を刈る道具といえば「鎌(カマ)」であり、鴨神社の対岸には「太刀野山」の地名もあります。生を美しく尊び、死の穢れを激しく拒絶して足蹴にする――仏教伝来以前の原初的な精神世界と神話のディテールが、これほど完璧に一致する事例が他国にあるだろうか。大和の葛城、山城の京都へと遷っていった鴨族。しかし、その「大御神」が誕生し、駆け抜けた本当の原郷は、この阿波の吉野川流域にこそあったと考えます。池田町のカリヤを蹴り飛ばす足音は、二千年の時を超えて、私たちに古代の真実を告げているのです。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲池田町佐野「カリヤイメージ」。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲阿遅鉏高日子根神、喪屋を切り伏せるイメージ。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/中年タケシ】
「難しい歴史の話は抜き!」をモットーに、徳島の史跡をユルく楽しく巡るYouTuber。キャンプ好きが高じて阿波の歴史の奥深さに目覚め、現在は「歴AWA(レキアワ)」として活動中。中年タケシならではの等身大の目線で、地元の何気ない景色に隠された壮大なロマンを軽妙に綴る。

[問い合わせ先]なし

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オキタリュウイチ氏の説/加茂氏とは?


みんな、「加茂」「賀茂」って聞くと、何を思い浮かべる?京都の上賀茂神社・下鴨神社とか?加茂氏といえば陰陽道でも有名で、平安時代には加茂保憲という陰陽師が登場し、その系統から、後の陰陽道トップスター、安倍晴明が現れ、陰陽道そのものにも大きな影響を与えた。実はこの加茂氏、かなり面白い一族なんだ。

一般的には、奈良県の御所市周辺、昔の葛城地方を発祥とする古代の一族だと言われている。そして、都が京に移るとともに、一緒に京都へ移りすんでいく。ここまでは、まあ普通の歴史の話だよね。ところが、ここからがちょっと変な話。実は、徳島に京都の上賀茂神社・下賀茂神社「元社」があるんだ。徳島県阿波市吉野町に延喜式内社である「鴨神社」と「下加茂神社」が存在している。しかも、このあたりは「加茂宮」と呼ばれる地域。かつて周辺一帯は「鴨庄」「鴨郷」と呼ばれる鴨族の本拠地だった。古代の賀茂氏に関連する神社や「加茂」「鴨」のつく地名が集中的に存在している。

「え、奈良が元じゃないの?」これまで、オキタの神社考を読んでもらった人は、もう理解されていると思う。阿波→奈良→京都なんだ。

さらに、この加茂氏と深く関係しているのが「雷」だ。上賀茂神社に祀られている「賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)」。名前に、「雷」と言う文字が入ってるよね。なんで雷なのか?なんと、徳島の鴨神社の周辺は、昔から日本で1番「落雷が多い地域」だと言われている。つまり、土地に雷がたくさん落ちる。すると人々は、「これはただの雷じゃない。神の力なんじゃないか」と考える。そして、その土地の神様が雷のエネルギーを持つ存在として信仰されていった……というわけだ。そして、賀茂別雷大神の本名は、阿遅鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)という神。この神の古墳がこの地域に存在する。丹田古墳である。

さらに面白いのが「葵祭」。京都の上賀茂神社と下鴨神社で行われる有名なお祭りだが、なぜ葵を祭っているのか答えられない。それもそのはず、その徳島の鴨神社周辺では驚くなかれ、なんと【葵】が自生しているのだ。

そして極めつけはこんな話も残っている。かつて京都の賀茂社(あるいは朝廷)の使者(大宮司)が、馬に乗って阿波国へやってきた。使者は「京都で神社(賀茂社)を興し、国家の守護神として祀るにあたり、元々の本家である阿波の鴨神社に伝わる秘伝の祭祀方法や古伝・神名帳を売ってほしい」と懇願した。阿波側はこれに応じ、金品等と引き換えに祭祀の方法や伝承を売却した。その際、京都側の使いから「本家である阿波から祭祀を買ったという事実は、都の威信に関わるため、決して他言しないでほしい」と強く口止めをされた。このため、阿波側では公には記録を残さず口伝や陰の記録として留められ、都(京都)で賀茂神社が「全国の総本社」として絶対的な権力と地位を築いていったとされる。

鴨一族の源流は阿波(徳島)にあり、吉野川流域から大和、そして山城(京都)へと東遷していったのだ。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲阿波國延喜式内社「鴨神社」。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨神社には、葵が自生している。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲下加茂神社の拝殿に描かれた葵。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp

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百万平氏の説/『 加茂氏と阿波の関係』


徳島県東みよし町に鎮座する延喜式内社「鴨神社」は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)とのつながりが深いとされる神社です。祭神の別雷命は、大国主命の子である阿遅鉏高日子根神の別名とされ、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神と同一視されています。興味深いのは、この鴨神社から吉野川を挟んだ対岸、三好市三野町加茂野宮に「下加茂神社」が鎮座している点です。この地名の由来は、かつて京都の上賀茂神社・下鴨神社の両社を三好郡に分祠した際、当地に下加茂神社を勧請したことによると伝えられています。京都では賀茂川沿いに上賀茂神社と下鴨神社が上流・下流の関係で並んでいますが、阿波でも吉野川を挟んで鴨神社(上社にあたる)と下加茂神社(下社にあたる)が対になっており、京都の配置をそのまま写し取ったような構図になっているのです。

創建年代については、慎重に見る必要があります。社伝では「貞観2年(860年)以前に京都上賀茂神社を勧請した」とされる一方、『徳島県神社誌』には「6世紀頃の鎮座」とする記述もあるようです。ただし上賀茂神社の創建は678年頃と伝わっており、もし鴨神社が6世紀の創建だとすると、勧請元とされる上賀茂神社より古いことになり、矛盾が生じるとの指摘もあります。したがって、鴨神社を上賀茂神社の「元宮」とする説は魅力的な仮説です。

一方、地名や伝承をたどると、阿波と加茂氏の結びつきを示す手がかりは数多く見つかります。鴨神社の背後にある加茂山には、阿遅鉏高日子根神の陵墓とされる「丹田古墳」があり、この地が雷の多発地帯であることから「別雷命」という神名が生まれたとされます。また、陵墓周辺に葵が自生することから、この祭祀が「葵祭」と呼ばれるようになり、後に京都へ伝わったとする説もあります。

さらに、阿波国内には「加茂」に関わる地名が各地に残っています。阿南市加茂町には辰砂の採掘坑道跡が残る若杉山遺跡や、製鉄の炉跡が見つかった加茂宮前遺跡があり、徳島市にも加茂・加茂名という地名が存在します。加茂氏が金属の精錬や採掘に関わった氏族だったのではないか、という見方もあるようです。
このほか、吉野川対岸の「足代(あじろ)」という地名は阿遅鉏高日子根神と結びつけられ、大阪府東大阪市にも同名の地名と「鴨高田神社」が鎮座しています。また鴨神社の近くには、阿遅鉏高日子根神の母神・多岐理比売命を祀る式内「田寸神社」もあり、宗像三女神ゆかりの神々が阿波国美馬郡に集まっていることも見逃せません。

創建年代そのものは慎重な検証が必要ですが、上賀茂・下鴨に対応する二社の配置や、各地に残る地名・遺跡の分布を重ね合わせると、加茂氏という氏族が古代の阿波に深く根を下ろしていた可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨神社。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲周辺地図。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/百万平(ひゃくまんぺい)】

沖縄在住 観光業に携わる傍ら、趣味で古代史をテーマにした漫画やブログ、作曲を細々とおこなう。好きな都道府県は徳島県。【古代史経歴】●2020年、日本の古代史に興味を持つ。●2021年、出張の合間を縫って各地の神社巡りを開始。●2023年、阿波徳島の重要性に気づき魅了される。同年、Instagramで阿波古代史をテーマにした漫画『籠の中の卑弥呼』連載開始。ヤマモトタケルノミコトさんにいつかお会いすることを夢見る。●2024年、ヤマモトタケルノミコト氏のラジオに出演し夢叶う。

[問い合わせ先]なし

百万平氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

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▶▶onezerozero_flat(Instagram)


シン・きーちゃん氏の説/加茂氏とは?——カモは二つあった


お元気様です🫡
東みよし町の加茂、吉野川市の鴨島、阿波町の賀茂神社。徳島には「カモ」がよく残っています。このカモを名乗った一族、実はひとつではありませんでした。

■ カモは二つあった。
平安初期の氏族名簿『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(815年)を見ると、カモ氏は二系統に分かれています。ひとつは山城のカモ。京都の上賀茂・下鴨神社を守った一族で、祖神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。もうひとつは大和葛城のカモ。奈良県御所市を本拠に大国主命の子孫を名乗り、事代主命(ことしろぬしのみこと)——えびす様を祀る系統です。同じ「カモ」でも、名簿の上では別の家系なんです

■ 八咫烏の、意外な話。
カモ氏といえば八咫烏(やたがらす)。神武天皇を導いた三本足の烏ですね。ところが『古事記』にも『日本書紀』にも、八咫烏の名前は書かれていません。ただ「八咫烏」とあるだけ。これを「賀茂建角身命が烏に化けた姿」と書いたのは、さきほどの『新撰姓氏録』。神話からずいぶん経ってからの話でした。

■ 阿波のカモ。
さて阿波です。ここは慎重にいきましょう。927年の『延喜式』神社台帳に、美馬郡の鴨神社が載っています(現在の東みよし町加茂)。10世紀前半には、阿波にカモの名を持つ神社があった。ここは動きません。
同じ台帳には、事代主神社が阿波郡と勝浦郡にひとつずつ。葛城のカモが祀った神さまです。そして1090年ごろ、この鴨神社の一帯が京都・上賀茂神社の荘園になります。阿波と京都の賀茂社がつながっていたことは、文書で確かめられます。

■ 踏みとどまりたいところ。
阿南市に加茂宮ノ前遺跡があります。国内最大規模とされる水銀朱の生産地です。「加茂」で「朱」。つなげたくなりますよね。きーちゃんも一瞬つなげたくなりました。でもこの「加茂」は今の地名です。縄文の人たちが自分をカモと呼んだ証拠はありません。名前が同じ、それだけでは歴史になりません。

■ ここからは妄想ですが。
なぜ京都の賀茂社は、わざわざ阿波の山あいを荘園に選んだのでしょう。すでにそこに鴨神社があったから選ばれた、のだとしたら——順番が逆かもしれません。裏づける古文書はまだありません。あくまで妄想です。
でも10世紀の神社台帳、11世紀の荘園、吉野川に沿って残るカモの地名。この重なりは、地域の歴史として十分に面白いと思うんです。一緒に歴史沼にハマりましょう!

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲カモは2つあった。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/きー(Key)】
お元気様です🫡 日本神話と日本古代史のロマンに、気づけば毎日どっぷり沼っている きー(Key)です。阿波(徳島)を拠点に、文献(古事記・日本書紀など)と現地(神社・地名・遺跡)の両方から、あれこれ想像して深掘りするのが好き。YouTube「シン・きー歴史沼チャンネル」発信に加え、ツアー企画/現地ロケ/ライブ配信/講演もしています。一緒に歴史沼にハマりましょう!🗝️

[問い合わせ先]history.key21@gmail.com

きー氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶シン・きー歴史沼チャンネル(YouTube)
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ヤマモトタケルノミコト氏の説/鴨氏・賀茂氏と阿波。八咫烏とアヂスキタカヒコネをめぐる古代氏族の謎


阿波(日本)古代史を読み解くうえで、見逃すことのできない氏族の一つが「鴨氏(かもし)」、そして「賀茂氏」です。両者は同じ「カモ」を名乗るため同族のように語られることも多いですが、その系譜や信仰には複数の流れが存在すると思われます。大きく見ると、奈良・葛城地方を中心とする「鴨氏」と、山城国・現在の京都を中心に勢力を築いた「賀茂氏」が知られています。葛城の鴨氏は、大国主神の子とされる阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)を重要な祖神として祀り、現在も奈良県御所市の高鴨神社にその信仰が残る。一方、京都の賀茂氏は、賀茂御祖神社(下鴨神社)・賀茂別雷神社(上賀茂神社)へとつながり、賀茂建角身命や賀茂別雷命を中心とする独自の系譜を形成しています。

鴨と賀茂。
まず鴨は「甲」+「鳥」ですね。鳥をトーテムとする一族はたくさんいますが、甲:始めで、鴨(かも)と読ますのは必ず何かありますね(笑)。徳島には鴨島と言う地名があり、鴨族の土地で、大国主系とも言われています。この鴨氏が格上な感じもしますね。賀茂氏と言えば、陰陽師で賀茂忠行ですね。陰陽寮(国家の天文・占術・暦を司る役所)で頭角を現して、忠行は、天文・暦・呪術に通じた超実務派の陰陽師で、朝廷からも深く信頼されて、子の賀茂保憲が後を継ぎ、後の安倍晴明を育てたようですね。「八咫烏の霊力→陰陽道の権威」というシステムが完成していったわけです。「葵=神と逢う草」フタバアオイは、2枚のハート型の葉が向かい合ってついているのが特徴でその形状が「逢う(あふ)=合う」という語感に通じることから、「神と人が出会う聖なる植物」とされてきました。葵紋のルーツをさかのぼると賀茂氏にたどり着くと。そして、葵は雨の多いところでしか自生しない。京都の○○神社近辺では自生しないそうですよ。徳島の鴨神社近辺は自生していると。某徳島の先生より(笑)。

さてここで勿論注目したいのがやはり「阿波」ですね(笑)。アヂスキタカヒコネは『古事記』において大国主神と多紀理毘売命の子として登場し、非常に強い霊威を持つ神として描かれています。阿波には大国主系の神々や国土開拓に関係する伝承・神社が各地に残されているため、アヂスキタカヒコネ信仰と阿波の古代祭祀圏との関係を検討する余地が多いにあり、徳島県三好郡東みよし町にある延喜式内社の鴨神社(かもじんじゃ)は、京都にある下鴨神社の元宮だという説がありますね。また近くにある丹田古墳も関係しているのではとも言われています。この葛城鴨氏の祖先集団が四国東部を含む広域的な交流圏を持っていて「阿波―紀伊―葛城―山城」という人々・祭祀・技術の移動ルートも興味深い研究仮説テーマとなりますね。

もうひとつ重要なのが日本古代史の伝説、八咫烏(やたがらす)ですね。『古事記』『日本書紀』では、八咫烏は神武天皇の東征に際して熊野から大和への道を導いた神聖な存在として登場します。そして『新撰姓氏録』では、山城の賀茂氏につながる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏となって神武天皇を導いたという系譜的伝承が記されています。「賀茂氏=八咫烏」という関係は、古代王権成立を支えた「導きの氏族」という賀茂氏の性格を象徴していますね。裏天皇とも言われていますし(笑)。ここに阿波を重ねると、さらに面白い構図が浮かびます。神武東征を「阿波を含む東部四国から畿内へ向かった勢力移動」と見る仮説に立てば、賀茂・鴨系集団もまた、その移動や建国に関与した可能性を考えることができますね。


「阿波―紀伊―熊野―葛城―山城」。
このラインを「カモ」の人々の移動と祭祀の伝播という視点から再検討すると、鴨氏・賀茂氏は単なる地方豪族ではなく、神武伝承、大国主系祭祀、八咫烏信仰、そしてヤマト王権成立を結びつける重要な存在として浮かび上がってきます。そして阿波古代史を学ぶ上でも、今後さらに鴨氏・賀茂氏を掘り下げていく必要がありますねね。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨氏と賀茂氏。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

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藤井榮氏の説/インド「ナーガ族」の末裔?(阿波「海人族」県南の雄)


阿波の先覚岩利大閑氏は述べています。
「◆これは私見なのですが、常々この島に住みついた海洋民族の源流はどのような民族であったのかを考えてみることがありました。天の元山の山頂で祀られる神々も龍神、天御中主(あめのみなかぬし)命の御神体でさえ箸蔵寺(徳島県三好市池田町)では“ワニ”として祀られ、大女王豊玉比売命のことを記した古事記の項では“ワニ”に変身して出産し、しかもその生まれた子供の血脈が神武天皇になったごとく、堂々と書き残されているのです。 ◆姓氏録に載る貴人にも事代主命系統では『和仁(わに)』を名乗っている人もいますが、“ワニ”から生まれたことを誇りに思う民族ではないかとさえ最近になり思うようになってきました。

◆約六千年ほど以前にインドのガンジス川の上流に“ワニ”より生まれたと自称する『ナーガ族』といわれる民族がいたとインドでは言われていますが、この民族がガンジス川上流で気候環境の変化が起こったのでしょうか下流地方に移動を始め、やがてガンジス川の沿岸から消えてしまった不思議な民族『ナーガ族』になんらかの関係があるのではないだろうかなどと最近思うようになってきました。 ◆いづれにせよ『倭国』を支配したのが海洋民族であったことは、残された神事ではっきり受け継がれ伝えられています。」※1

◆新撰姓氏録を見ると、「賀茂朝臣。大神朝臣と同じき祖。大国主神の後なり。」と書かれています。徳島県南海人(あま)族の祖「須佐之男命」、その六世孫が「大国主命」でその御子神が「事代主命」です。 なので、「大国主命」・「事代主命」の系統が「賀茂」氏(「加茂」も同じ)ということになります。ちなみに「和仁」については「和仁古。大国主の六世孫、阿太賀田須命の後なり。」とあります。

◆加茂族を始めとする海人族は、阿波国全体で見ると次のような分布になっています。
① 【宇豆彦系】 鳴門周辺が本拠地で、子孫はのち大倭(大和)氏、海直(うみのあたい)等を名乗っています。
② 【綿都美系】 吉野川下流南岸が本拠地で、子孫はのち安曇(あずみ)氏、海犬飼氏、 大海 (おおしあま)氏等を名乗っています。
③ 【大国主・事代主命系】 県南海岸部が本拠地で、子孫はのち賀茂(加茂・鴨)氏、大神(みわ)氏、我孫(あびこ)氏、宗形(むなかた)氏、長(なが)氏等を名乗っています。
◆これら海人族こそ、古事記上巻の「伊邪那岐命の禊ぎ祓い」のくだりで三貴子の前に誕生する底筒之男(そこつつのを)命(大国主・事代主系)、中筒之男(なかつつのを)命(綿都美系)、上筒之男(うはつつのを)命(宇豆彦系)の三柱の神なのです。 ◆神功皇后が大陸進出にあたって航海の守護神としたこの三柱の神は、徳島県板野郡藍住町住吉の「住吉神社」で神功皇后と共に祀られており、大阪市住吉区の「住吉大社」を始め全国住吉神社の元社です。

◆先述のとおり、阿波県南海岸部は上記『ナーガ族』が遠くインドから東南アジアを経てたどり着き住み着いたのであろう地で海人族の開祖須佐之男命の本貫地(海陽町に式内「和奈佐意富曽神社」が鎮座)です。須佐之男命のあとを継いだ大国主・事代主命系の本拠地でもあります。 ◆だからこそ令制国以前の阿波は、北半分「粟の国造」と南半分「長の国造」が治める二つの文化圏が存在し、南半分「長の国※2」(『ナーガ』(那賀))の大人(うし)こそ「加茂氏」なのです。

◆この加茂族の全国進出の足跡が延喜式内社「阿波(粟)神社」として全国に散在しております。一例を挙げれば、 ①京都府城陽市「粟神社」(祭神:少名毘古那命)、 ②奈良市本子守町「率川阿波神社」(祭神:事代主命)、 ③静岡県磐田市「淡海国魂神社」(祭神:大国主命)、 ④茨城県東茨城郡城里町「阿波山上神社」(祭神:少名毘古那命)、 ⑤長野県千曲市「粟狭神社」(祭神:建御名方命・事代主命・少名毘古那命)。 ◆他にも、関東千葉県館山市「安房神社」、栃木県小山市「安房神社」には天太玉命がご祭神とされ、阿波忌部族の進出の証しとしている向きもありますが※3、よくよく調べてみると両社とも本来のご祭神は「大己貴命・少名毘古那命」であると考えられ※4、いかに阿波県南の加茂族が全国を股に掛けて進出・開拓したのかがお分かりいただけるかと思います。 ◆古代、手と風力でのみ小舟を操り海を航海するためには「倭の奈国」以来海道(うみすじ)を知り尽くし潮の流れ天候に対しても季節季節の変化を知り尽くし「天照大御神」の御宇(ぎょうう)からでも遡れば千年に達する伝統と技術をもった「長(なが)族」の海人に頼っていたのです。※5

◆ことほどさように、県南「長の国」の加茂(賀茂)族を中心とした阿波の海人族が全国に進出・開拓をしたということであり、「出雲」・「伊予」・「伊豆」・「大倭(奈良)」すべての旧国が阿波の何らかの影響を受けて開発されたことが浮き彫りになっております。※6 ◆「大倭」(奈良県)・「出雲」(島根県)は新しく造られたダミーで本来の「倭」・「伊津毛」とは全く違った別国なのです。※7 ◆これで「長門」・「長野」・「長岡」をはじめ※8日本列島至る所に「阿波」、「加茂」、「那賀(那珂)」、「勝浦」、「粟野」、「忌部(伊部)」など阿波ゆかりの地名が拡がっている理由がよくご理解いただけようかと思います。以上

※1 『道は阿波より始まる』(その三:96頁参照)。
※2 現在の那賀郡を始め、勝浦郡、小松島市、阿南市、海部郡を合わせた地域です。
※3 阿波忌部族は航海術を有していないので、忌部系の祭神を祀る神社は、阿波古代人が全国進出をした際  のち天皇と呼ばれた大王(おおきみ)には必ず「天日鷲系忌部」が膳夫(かしわで)として付き従い、その後進   出地で得意の技術を発揮して進出地に根付いたのであって主語はあくまで皇族なのです。
※4 山梨県韮崎市の「安房神社」(祭神:天太玉命)は、同県「北巨摩郡誌」によると元々ご祭神は“大己貴命・ 少名毘古那命“ であり、時とともに本来の祭神が取って替わられ江戸期頃に天太玉命になったものとみられます。
※5 『道は阿波より始まる』(その三21頁参照)。
※6 『道は阿波より始まる』(その一12頁参照)。
※7 『  同   』( 同 110頁参照)。
※8 『       同  』(その二13頁参照)。

【参照リンク】

① YouTubeチャンネル古代史塾(「古代史解説第2回」・「同第3回」・「同第4回」・「同第5回」・「同第17回」)
② 小著『古代史入門』166~179頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ50(222頁以下)参照、両著とも(Amazon電子書籍・印刷本)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲徳島県海陽町「和奈佐意富祖神社」(ご祭神:須佐之男命)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲奈良市本子守町「率川阿波神社」(ご祭神:事代主命)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲茨城県城里町「阿波山上神社」(ご祭神:少名毘古那命)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp

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山内雄二氏の説/鴨(賀茂)氏の本貫地も、阿波国に比定できる


日本の古代史は阿波に始まるとする見解、また平城京遷都以前に皇都が阿波から奈良藤原京へ遷ったとする先達の説に従えば、天皇家を支えた諸豪族もまた東四国を発祥地とした可能性が高い。そこで本稿では、中臣氏、蘇我氏、和珥氏等の場合と同様の観点から、鴨(賀茂)氏についても考察してみた。

【鴨(賀茂)氏の系譜】
古代の大族である鴨(賀茂)氏は、天神(あまつかみ)系・地神(くにつかみ)系・皇孫系の三系統に分類される。まず天神系は、『新撰姓氏録』によれば賀茂県主(あがたぬし)の系統とされ、祖神を神魂命(かみむすひ)とし、賀茂建角身命(かもたけつぬみ:別名・八咫烏)を始祖とする。彼らは山城国葛野(かどの)を本拠とし、賀茂建角身命は現在の下鴨神社の祭神であり、その孫(まご)にあたる賀茂別雷大神(かもわけいかづち)が上賀茂神社の祭神として祀られている。

地神系については『先代旧事本紀』において賀茂君・賀茂朝臣の系統とされ、大国主神-事代主神-…-大田々禰古命(おおたたねこ)の孫(まご)にあたる大鴨積命(おおかもつみ)を始祖とする系統が記載されている。この系統は大和国葛城(かつらぎ)を本拠とし、現在の鴨都波(かもつば)神社において祖神である事代主命を祀っている。皇孫系は、第九代開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいます)の後裔で、鴨君・県主を称した系統である。しかし、阿波との関連性が乏しいため、本稿では扱わない。また、京都における天神系については、祖先に八咫烏を掲げるなど、平安京遷都以降の作為的要素が感じられるので検討対象から除外する。また、加茂氏は古代よりも中世以降の資料に多く登場するため、ここでは触れない。

通説では、地神系の鴨(賀茂)氏が最も古い系統とされ、大和国葛城(現・奈良県御所市)がその発祥の地と位置づけられている。当地の高鴨神社は、同地の鴨都波神社や京都の下鴨・上賀茂神社を含む全国の鴨(賀茂)神社の総本社とされる。高鴨神社の祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢすきたかひこね)であり、『古事記』では大国主神の御子神として、別名・迦毛御大神(かものおおみかみ)として登場する。この迦毛大御神を、初めて賀茂(鴨)氏を称した祖神とみなすのであれば、確かに最古層の神に属することになる。しかし、前述の賀茂氏の系図に阿遅志貴高日子根命は登場しない。

【出雲国造神賀詞】
この謎を解く鍵は、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に求めることができると考える。この祝詞は、出雲国造が代替わりするたびに新任の国造が出雲から奈良の朝廷に参向し天皇家への忠誠を誓う際に奏上されたものであり、記録上は716年から833年までの奉奏が確認されている。その内容のうち最も重要で、且つ具体的な神名・地名等が登場する部分について、以下に現代訳を示す。

「倭(やまと)の大国主命が、大物主命と名前を変えて皇孫のいる大倭(おおやまと)の大御和の聖地(現・奈良県桜井市三輪の大神神社)に分霊をする。同様に御子達、阿遅須伎高孫根命を葛城の鴨の聖地(現・奈良県御所市鴨神の高鴨神社)に、事代主命を宇奈提(うなて:現・奈良県橿原市雲梯町の河俣神社)に、賀夜奈留美命(かやなるみ)を飛鳥の聖地(現・奈良県高市郡明日香村柏森の賀夜奈留美神社」に分霊し、皇孫の坐す朝廷の近くに守り神として配置した。」

この祝詞の抜粋箇所は、『日本書紀:神代下 第九段 一書第二』にみえる記述、すなわち、国譲りの平定後に高皇産霊尊が大物主神を召し、「我が娘の三穂津姫を汝の妻とし、八十万の神を率いて、永久(とこしえ)に皇孫のために護り奉るべし」と詔したという神話に合致する。まさしく、神賀詞における大物主神およびその三人の御子らの分霊と配置の記述は神話の内容と一致するのである。倭から大倭(奈良)へ分霊された四か所の神社を地図上に示すと、それらは平城京ではなく、南方に下った藤原京を囲むように配置されていることが分かる。ところが、『出雲国造神賀詞』の奏上記録の初見は714年であり、これは平城京遷都(710年)以降の年代であるため矛盾が生じる。むしろ、この祝詞の原型は平城京遷都以前に成立していたと考えるべきであり、藤原京遷都を念頭に置いて作成されたことを示唆している。

ところで、出雲の国造が遠く奈良へ赴き、倭の大国主が大物主命と名を改めて朝廷の守護神となるべく奈良大倭の大御和に分霊したとする神賀詞を奏上する点については、地理的前提に注意が必要である。出雲は倭ではなく、また倭は大倭の一部地域でもない。阿波説に基づけば、倭国は阿波国のことであり、飛鳥も現在の徳島県小松島市に比定される。また、藤原京は飛鳥時代に二度造営されており、最初の藤原京(徳島県吉野川市鴨島町)から奈良の藤原京へ遷都したとされる。このとき初めて、四国から畿内へ海を渡って遷都が行われたのであり、皇孫を守護するために『出雲国造神賀詞』のような祝詞が奏されたことは、むしろ自然な経緯と考えられる。この時期に関する記述は、天武天皇から文武天皇に至る『日本書紀』・『続日本紀』に詳しいので参照されたい。

では、自らを奈良の大御和に分霊したとされる「倭の大国主命」はもともとどこに座したのであろうか。阿波国には、全国で唯一、大御和と冠して大国主命(大己貴命)を祭神とする式内社・大御和神社(徳島市国府町)が鎮座している。この神が大物主命と名を改めて奈良へ分霊されたとするならば、奈良では元社の名称である「大御和」を憚り、「大神」あるいは「大三輪」という社名を用いた可能性が考えられる。即ち、阿波の大御和神社こそが、大和の大神神社の元社であると推定される。

同様に、大国主命の御子神達の元社も倭(阿波)に所在したと考えるべきである。式内社・鴨神社(徳島県三好郡加茂)から奈良の高鴨神社へ、式内社・事代主神社(徳島県勝浦郡、或いは阿波郡)から奈良県雲梯町の河俣神社へ、それぞれ分霊されたと推定される。ただし、奈良の加夜奈留美命神社の元社に相当する神社は、阿波国内では現在のところ確認されていない。岩利大閑『道は阿波より始まる』によれば、大国主神の御子・鳥鳴海神(とりなるみ)は徳島県鳴門市堂浦に住したとされるが、その論拠は明らかでない。

【阿波の鴨神社】
三好郡加茂に鎮座する鴨神社について、『寛保御改神社帳』によれば神職は白川氏一族が担っている。白川氏は皇家に繋がる血統であり、平安時代末以降は神祇伯として神祇官の長官を務めた家系であることから、当社が当時、一定の重要性を有する神社として認識されていたと考えられる。祭神は『徳島県神社誌』によると別雷命であり、京都の上賀茂神社の祭神と同一である。これは、平安時代に権勢を誇った上賀茂神社の影響を受けた結果と推測される。しかし、本来の祭神は阿遅鉏高日子根命であった可能性が高い。阿波説では、当社の南側に位置する加茂山中腹の丹田古墳を阿遅鉏高日子根命の葬場とみなしている。また、当社の脇を流れる加茂谷川の上流に貴布禰神社が鎮座する点も、京都の地勢との類似性を示しており、平安京成立以前には阿波から京都へ何らかの影響が及んでいた可能性がある。

ちなみに、下鴨・上賀茂神社の神紋や賀茂祭(葵祭)のシンボルは「二葉葵」である。地元の人によれば、阿遅鉏高日子根命が眠る加茂山は葵の自生地として知られており、「山には葵がわっさわっさ生えとるでよ」と言うほど群生しているという。このことも、賀茂氏ゆかりの祭祀文化が阿波に由来する可能性を示唆していないだろうか。三輪氏と賀茂氏の関係については、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』『新撰姓氏録』のいずれの諸本においても、両氏族が同族であることが明記されている。壬申の乱に際しても、鴨君蝦夷と三輪君高市麻呂がともに大海人皇子側につき戦功を挙げ、それぞれに朝臣の姓が賜与されている。これらの史料は、両氏族が古代において系譜的・地理的・政治的に密接な関係を有していたことを明示している。

【賀茂(鴨)氏の本貫地】
式内社・鴨神社の鎮座する阿波国三好郡加茂を中心とした地域は、大国主神の御子である阿遅鉏高日子根神を祖神とする賀茂(鴨)氏の本貫地と考えられる。また、勝浦郡・阿波郡に鎮座する式内社・事代主神社も、賀茂(鴨)氏の支族に比定し得る可能性が高い。さらに、三輪(三八・御和)氏についても、阿波国名方郡国府の式内社・大御和神社を中心とする地域を発祥地とし、大国主神を祖神としている点で、賀茂氏と共通する系譜的特徴を有する。

その後、麻植郡鴨島町に所在した最初の藤原京から、奈良の藤原京へと渡海して遷都する際、高皇産霊尊との約定に基づき、大国主神の一族が皇孫の守り神となるべく、倭(阿波)から大倭に分霊されたと考えられる。この過程において、阿波の三輪氏は大和国三輪へ、鴨氏は大和国葛城へ移住したと推測される。こうして、阿波は次第に忘れ去られていくこととなった。

以上

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲鴨神社(三好郡加茂)。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

▲大御和神社(徳島市国府)。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】
昭和27年4月、鳴門市に誕生。小学校1年より徳島市南二軒屋町に居住。大学在学中は、山歩き、ジャズ鑑賞、読書が趣味。卒業後、神戸の会社に就職し神戸市垂水区に居住。65歳で職を辞し、徳島に帰還。「うちのかみさん」と国府町で二人暮らし。阿波説の魅力に取りつかれて20年。徳島歴史研究会で年一回、自説の阿波古代史を発表。今年で16回。国府町の「一般社団法人・大御和神社・崇敬会」の事務局を夫婦で運営。

[問い合わせ先]090-1136-7625


ANYA氏の説/             


ANYA氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com

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【シーズン2】11話目【完】。

次回は・・・

那佐と羽衣伝説
記事公開日は2026年11月1日(木)。乞うご期待

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】11話目/「加茂氏」と阿波の関係

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