2026年10月8日木曜日

康熙の暦獄 (1659~1665)

 暦獄

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列傳五十九

湯若望楊光先南懷仁

湯若望

湯若望,初名約翰亞當沙耳,姓方白耳氏,日耳曼國人。明萬曆間,利瑪竇挾天算之學入中國,徐光啟與遊,盡其術。崇禎初,日食失驗,光啟上言:「台官用郭守敬法,歷久必差,宜及時修正。」莊烈帝用其議,設局修改曆法,光啟為監督,湯若望被徵入局掌推算。光啟卒,以李天經代,奏進湯若望所著書及𢗝星屏障。迭與台官測日食,候節氣,並考定置閏先後,湯若望術輒驗。莊烈帝知西法果密,欲據以改大統術,未行而明亡。

順治元年,睿親王多爾袞定京師,是歲六月,湯若望啟言:「臣於明崇禎二年來京,用西洋新法釐正舊曆,制測量日月星晷、定時考驗諸器。近遭賊毀,擬重製進呈。先將本年八月初一日日食,照新法推步。京師日食限分秒並起復方位,與各省所見不同諸數,開列呈覽。」王命湯若望修正曆法。七月,禮部啟請頒歷,王言:「治歷明時,帝王所重。今用新法正歷,以敬迓天休,宜名 時憲歷,用稱朝廷憲天乂民之至意。自順治二年始,即用新歷頒行天下。」湯若望復啟言:「敬授人時,全以節氣交宮,與太陽出入、晝夜時刻為重。今節氣、日時、刻分與太陽出入、晝夜時刻,俱照道里遠近推算,增加歷首,以協民時,利民用。」王獎其精確。八月丙 辰朔,日有食之。王令大學士馮銓與湯若望率欽天監官赴觀像台測驗,惟新法吻合,大統、回回二法時刻俱不協。

世祖定鼎京師,十一月,以湯若望掌欽天監事。湯若望疏辭,上不許。又疏請別給敕印,而以監印繳部,謂治歷之責,學道之志,庶可並行不悖,上亦不許。並諭湯若望遵旨率屬精修曆法,整頓監規,如有怠玩侵紊,即行參奏。加太僕寺卿,尋改太常寺卿。十年三月,賜號通玄教師,敕曰:「國家肇造鴻業,以授時定歷為急務。羲和而後,如漢洛下閎、張衡,唐李淳風、僧一行,於曆法代有損益。元郭守敬號為精密,然經緯之度,尚不能符合天行,其後晷度遂以積差。爾湯若望來自西洋,精於象緯,閎通曆法。徐光啟特薦於朝,一時專家治歷如魏文魁等,實不及爾。但以遠人,多忌成功,終不見用。朕承天眷,定鼎之初,爾為朕脩大清時憲歷,迄於有成。又能潔身持行,盡心乃事。今特錫爾嘉名,俾知天生賢人,佐佑定歷,補數千年之闕略,非偶然也。」旋復加通政使,進秩正一品。

欽天監舊設回回科,湯若望用新法,久之,罷回回科不置。十四年四月,革職回回科秋官正吳明炫疏言:「臣祖默沙亦黑等一十八姓,本西域人。自隋開皇己未,抱其歷學,重譯來朝,授職歷官,歷一千五十九載,專管星宿行度。順治三年,掌印湯若望諭臣科,凡日月交食及太陰五星陵犯、天象佔驗,俱不必奏進。臣察湯若望推水星二八月皆伏不見,今於二月二十九日仍見東方,又八月二十四日夕見,皆關象佔,不敢不據推上聞。乞上復存臣科,庶絕學獲傳。」並上十四年回回術推算太陰五星陵犯書,日月交食、天象佔驗圖像。別疏又舉湯若望舛謬三事:一、遺漏紫炁,一、顛倒觜參,一、顛倒羅計。八月,上命內大臣愛星阿及各部院大臣登觀像台測驗水星不見,議明炫罪,坐奏事詐不以實,律絞,援赦得免。

康熙五年,新安衛官生楊光先叩閽進所著摘謬論、選擇議,斥湯若望新法十謬,並指選擇榮親王葬期誤用洪範五行,下議政王等會同確議。議政王等議:「歷代舊法,每日十二時,分一百刻,新法改九十六刻。康熙三年立春候氣,先期起管,湯若望妄奏春氣已應參、觜二宿,改調次序,四餘刪去紫炁。天祐皇上,歷祚無疆,湯若望祗進二百年曆。選榮親王葬期不用正五行,反用洪範五行,山嚮年月俱犯忌殺,事犯重大。湯若望及刻漏科杜如預、五官挈壺正楊宏量、歷科李祖白、春官正宋可成、秋官正宋發、冬官正硃光顯、中官正劉有泰皆凌遲處死;故監官子劉必遠、賈文鬱、可成子哲、祖白子實、湯若望義子潘盡孝皆斬。」得旨,湯若望效力多年,又復衰老,杜如預、楊宏量勘定陵地有勞,皆免死,並令覆議。議政王等覆議,湯若望流徙,餘如前議。得旨,湯若望等並免流徙,祖白、可成、發、光顯、有泰皆斬。自是廢新法不用。

聖祖既親政,以南懷仁治理曆法,光先坐譴黜,復用新法。時湯若望已前卒,复通微教師封號,視原品賜卹,改「通玄」曰「通微」,避聖祖諱也。

列伝五十九

湯若望・楊光先・南懐仁

湯若望

湯若望(アダム・シャール)は、名はヨハン・アダム・シャール、姓はフォン・ベル(von Bell)氏、ドイツ人である。明の万暦年間、マテオ・リッチが天文学・数学の知識を携えて中国に入ると、徐光啓は彼と交わり、その術をことごとく学んだ。崇禎帝の即位当初、日食の予報が外れるという事態が生じ、徐光啓は上奏して言った。「天文台の役人は郭守敬の法を用いていますが、長い年月を経て必ずや誤差が生じています。早急に修正すべきです」。崇禎帝はその意見を採用し、暦法を改めるための局を設置した。徐光啓が監督となり、湯若望はその局に招かれて推算の任に当たった。徐光啓の死後、李天経が後任となり、湯若望の著書や星図・観測機器を朝廷に献上した。天文台の役人たちと日食の観測や二十四節気の確認、閏月の配置などを繰り返し行ったが、湯若望の計算は常に正確であった。崇禎帝は西洋の暦法が極めて精密であることを理解し、それに基づいて従来の「大統暦」を改めようとしたが、実行に移す前に明は滅亡した。

順治元年、睿親王ドルゴンが北京を平定した。その年の六月、湯若望は次のように申し出た。「臣は明の崇禎二年に北京へ参り、西洋の新法を用いて旧暦を正し、日月星辰の観測や時刻測定のための機器を製作いたしました。近頃、賊によってそれらが破壊されましたので、改めて製作し献上したいと存じます。まずは本年八月一日の日食について、新法に基づき計算を行いました。北京における日食の時刻・規模・方位、および各省での観測結果との相違点などを一覧にして提出いたします」。親王は湯若望に暦法の修正を命じた。 7月、礼部が暦の頒布を上奏すると、王は次のように述べた。「暦を治め時を明らかにすることは、帝王が重んじる務めである。今、新法を用いて暦を正し、天の恵みを恭しく迎え入れるにあたり、これを『時憲暦』と名付け、天の法に則り民を治めるという朝廷の至誠を示すものとしたい。順治2年より、この新暦を天下に頒布する。」湯若望はさらに上奏して言った。「民に時を授けるにあたっては、節気や宮(黄道十二宮)の推移、および太陽の出没や昼夜の時刻を重視すべきです。今般、節気・日時・刻分を太陽の出没や昼夜の時刻と照らし合わせ、各地の距離(道里)に応じて推算し、暦首(暦の起算点)を調整することで、民の生活する時と合致させ、その利用に資するようにいたしました。」王はその精緻さを称賛した。8月丙辰の朔日、日食があった。王は大学士の馮銓と湯若望に命じ、欽天監の官員を率いて観象台で観測を行わせたところ、新法のみが実測と合致し、大統暦・回回暦の時刻はいずれも不一致であった。

世祖が京師(北京)に都を定めた後、11月、湯若望を欽天監の長官に任じた。湯若望は上奏して辞退を求めたが、皇帝はこれを許さなかった。さらに彼は、別に勅印を給付し、欽天監の公印は礼部に返納することを求めた。暦を治める責任と、道を修める志を両立させたいと考えたからであるが、皇帝はこれも許さなかった。そして湯若望に対し、勅命を遵守して部下を率い、暦法の精緻化と監内の規律の整備に努めるよう命じ、もし怠慢や不正があれば直ちに弾劾・上奏するよう言い渡した。彼は太僕寺卿に加えられ、まもなく太常寺卿に転任した。順治10年3月、「通玄教師」の号を賜った際の勅書には、次のようにある。「国家が偉業を興すにあたり、時を授け暦を定めることは急務である。羲和(ぎわ)の時代より後、漢の落下閎・張衡、唐の李淳風・僧一行に至るまで、暦法は代々その損益(改訂)がなされてきた。元の郭守敬の暦は精密と称されたが、それでも経緯度の数値は天の運行と完全には合致せず、その後、日影の測定値(晷度)にも誤差が蓄積するようになった。そなた湯若望は西洋より来たり、天体観測に精通し、暦法を深く理解している。徐光啓が朝廷に特に推挙した人物であり、当時の暦法専門家である魏文魁らも、実のところそなたには及ばなかった。しかし、異国人であるがゆえに、その成功を妬む者が多く、ついに重用されることはなかった。朕が天の恩顧を受け、王朝の基盤を固めた当初、そなたは朕のために『大清時憲暦』を編纂し、完成に導いた。また、身を慎み行いを正し、職務に尽力した。今、特にそなたに嘉名を授ける。天が賢人を世に生み出し、暦の制定を補佐させ、数千年にわたる欠落を補わせたことは、決して偶然ではないと知らしめるためである。」ほどなくして通政使に加えられ、官位は正一品に進められた。


欽天監には従来「回回科(イスラム暦法部門)」が設置されていたが、新たな暦法が採用されたことに伴い、やがて回回科は廃止され、その暦法も用いられなくなった。順治14年4月、回回科の元官吏である呉明選(ご・めいせん)が上奏文を提出した。その内容は以下の通りである。「私の先祖である摩沙亦黒(モシャ・イーヘイ)ら18家は、もともと西域の出身です。隋の開皇年間の己未(きび)の年以来、天文の知識を携えて朝廷に仕え、天文官に任じられて1590年にわたり星辰の運行を司ってきました。順治3年、湯若望(ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル)より、日食・月食、月や五星の運行、天文占卜に関する事項は報告不要であるとの指示を受けました。しかし私が観測したところ、シャール・フォン・ベルは水星が2月と8月に隠れる(見えなくなる)と予測していましたが、実際には2月29日と8月24日の夕方に東の空で観測されました。これらは天文占卜に関わる事柄であり、報告を怠るわけにはいきません。どうか回回科を復活させ、この失われた知識を後世に伝えさせてください」。彼はさらに、月や五星の運行を計算する回回法に関する書物や、14年の日食・天文占卜の図表も提出した。また別の上奏文では、シャール・フォン・ベルによる3つの誤り(1. 紫気(しき)の記載漏れ、2. 貜参(きょしん)と羅睺(らご)の取り違え)を指摘した。同年8月、皇帝は大臣の愛星阿(アイシンガ)や各省の官僚らに命じて観象台に登らせ、水星を観測させたが、発見することはできなかった。明選(ミンシュアン)は、虚偽の報告を提出して皇帝を欺いた罪(絞首刑に相当する罪)で有罪判決を受けましたが、恩赦により助命されました。


康熙5年、新安衛の生員であった楊光先(ヤン・グアンシエン)は、自著である『摘謬論(てきびゅうろん)』と『選択議(せんたくぎ)』を皇帝に献上しました。彼は、ヨハン・アダム・シャール(湯若望)が定めた新暦法には10の誤りがあると批判し、さらに栄親王(えいしんのう)の埋葬日時の選定において、『洪範(こうはん)』の五行説の適用に誤りがあったと指摘しました。これを受け、皇帝は廷臣たちによる会議を招集し、この件について議論・検討するよう命じました。


議政王らは次のように論じた。「歴代の旧法では、一日は十二時・百刻とされていたが、新法ではこれを九十六刻に改めた。康熙三年、立春の候気(気候の変化の観測)において、本来の時期より早く観測用の管を設置した上、湯若望は春の気がすでに参宿・觜宿に感応したと虚偽の奏上を行い、観測の順序を変更した。また、『四余』のうち『紫気』を削除した。皇帝の御代は天の加護により無窮であるにもかかわらず、湯若望は二百年分のみの暦を献上した。さらに、栄親王の埋葬日時の選定において、正五行を用いず洪範五行を用いたため、山・向・年・月がいずれも忌むべき凶殺に触れるという重大な過ちを犯した。湯若望および刻漏科の杜如預、五官挈壺正の楊宏量、暦科の李祖白、春官正の宋可成、秋官正の宋発、冬官正の朱光顕、中官正の劉有泰は、いずれも凌遅刑(生きたまま肉を削ぎ落とす刑)に処すべきである。また、監官の子である劉必遠・賈文郁、可成の子の哲、祖白の子の実、湯若望の養子の潘尽孝は、いずれも斬首刑とすべきである」。これに対し、皇帝の裁可(聖旨)が下った。「湯若望は長年にわたり尽力しており、すでに老齢である。杜如預と楊宏量も陵墓の地を定めた功労があるため、いずれも死罪を免じ、再審議せよ」。議政王らが再審議した結果、湯若望は流刑とし、他は先の審議通りとすることになった。再び裁可が下り、湯若望らは流刑も免除されたが、祖白・可成・発・光顕・有泰は斬首刑に処された。これ以降、新法は廃止され、用いられなくなった。

聖祖(康熙帝)が親政を開始すると、南懐仁に暦法の管理を任せ、新法が再び採用された。当時、湯若望はすでに死去していたが、「通微教師」の称号が追贈され、生前の官位に準じた弔慰金が下賜された。「通玄」という名を「通微」と改めたのは、聖祖の諱(いみな)を避けるためであった。


楊光先

楊光先,字長公,江南歙縣人。在明時為新安所千戶。崇禎十年,上疏劾大學士溫體仁、給事中陳啟新,舁棺自隨。廷杖,戍遼西。

國初,命湯若望治歷用新法,頒時憲曆書,面題「依西洋新法」五字。光先上書,謂非所宜用。既又論湯若望誤以順治十八年閏十月為閏七月,上所為摘謬、辟邪諸論,攻湯若望甚力,斥所奉天主教為妄言惑眾。聖祖即位,四輔臣執政,頗右光先,下禮、吏二部會鞫。康熙四年,議政王等定讞,盡用光先說,譴湯若望,其屬官至坐死。遂罷新法,復用大統術。除光先右監副,疏辭,不許;即授監正,疏辭,復不許。

光先編次其所為書,命曰不得已,持舊說繩湯若望。顧學術自審不逮遠甚,既屢辭不獲,乃引吳明烜為監副。明烜,明炫兄弟行,明炫議復回回科不得請,至是明烜副光先任推算。五年春,光先疏言:「今候氣法久失傳,十二月中氣不應。乞許臣延訪博學有心計之人,與之制器測候,並飭禮部採宜陽金門山竹管、上黨羊頭山秬黍、河內葭莩備用。」七年,光先复疏言:「律管尺寸,載在史記,而用法失傳。今訪求能候氣者,尚未能致。臣病風痺,未能董理。」下禮部,言光先職監正,不當自諉,仍令訪求能候氣者。

是時朝廷知光先學術不勝任,復用西洋人南懷仁治理曆法。南懷仁疏劾明烜造康熙八年七政民歷於是年十二月置閏,應在康熙九年正月,又一歲兩春分、兩秋分,種種舛誤,下議政王等會議。議政王等議,曆法精微,難以遽定,請命大臣督同測驗。八年,上遣大學士圖海等二十人會監正馬祜測驗立春、雨水兩節氣及太陰火、木二星躔度,南懷仁言悉應,明烜言悉不應。議政王等疏請以康熙九年曆日交南懷仁推算,上問:「光先前劾湯若望,議政王大臣會議,以光先何者為是,湯若望何者為非,及新法當日議停,今日議复,其故安在?」議政王等疏言:「前命大學士圖海等二十人赴觀像台測驗,南懷仁所言悉應,吳明烜所言悉不應,問監正馬祜,監副宜塔喇、胡振鉞、李光顯,皆言南懷仁曆法上合天象。一日百刻,歷代成法,今南懷仁推算九十六刻,既合天象,自康熙九年始,應按九十六刻推行。南懷仁言羅睺、計都、月孛、推歷所用,故入歷;紫炁無象,推歷所不用,故不入歷。自康熙九年始,紫炁不必造入七政歷。」又言:「候氣為古法,推歷亦無所用,嗣後並應停止。請將光先奪官,交刑部議罪。」上命光先但奪官,免其罪。

南懷仁等復呈告光先依附鼇拜,將歷代所用洪範五行稱為滅蠻經,致李祖白等無辜被戮,援引吳明烜誣告湯若望謀叛。下議政王等議,坐光先斬,上以光先老,貸其死,遣回籍,道卒。刑部議明烜坐奏事不實,當杖流,上命笞四十釋之。


楊光先


楊光先、字は長公、江南の歙県の人である。明代には新安所の千戸(武官)を務めた。崇禎10年、棺を担いで上奏し、大学士の温体仁と給事中の陳啓新を弾劾した。その結果、廷杖(朝廷での杖刑)に処され、遼西へ流刑となった。


清朝の初期、湯若望(アダム・シャール)が新法を用いて暦を編纂し、「時憲暦」を頒布した際、その表紙には「西洋新法に依る」の五文字が記されていた。楊光先はこれを不適切であるとして上書した。さらに、湯若望が順治18年の閏10月を誤って閏7月としたことを指摘し、謬りを正し邪説を排する論を上奏して湯若望を激しく攻撃し、彼が奉じるカトリックを「妄言をもって衆を惑わすもの」と断じた。聖祖(康熙帝)が即位し、四人の輔政大臣が政務を執ると、彼らは楊光先を強く支持し、礼部と吏部に命じて合同審理を行わせた。康熙4年、議政王らが判決を下し、楊光先の主張を全面的に採用して湯若望を処罰し、その属官には死刑判決まで下された。こうして新法は廃止され、再び「大統術」が用いられることとなった。楊光先は欽天監右監副に任じられたが、上書して辞退を願い出たものの許されず、続いて監正に任じられた際も同様に辞退を願い出たが、やはり許されなかった。


楊光先は自らの著述を編纂して『不得已(やむを得ず)』と名付け、旧来の説に基づいて湯若望を批判した。しかし、自らの学識が(西洋の天文学に)遠く及ばないことを自覚しており、辞退が認められなかったため、呉明烜を監副として招いた。明烜は明炫(めいげん)と兄弟の間柄であり、かつて明炫が「回回科(イスラム暦法)」の復活を求めて認められなかった経緯があったが、この時、明烜は楊光先を補佐して推算の任に当たることとなった。五年春,光先疏言:「今候气法久失传,十二月中气不应。乞许臣延访博学有心计之人,与之制器测候,并饬礼部采宜阳金门山竹管、上党羊头山秬黍、河内葭莩备用。」七年,光先复疏言:「律管尺寸,载在史记,而用法失传。今访求能候气者,尚未能致。臣病风痹,未能董理。」下礼部,言光先职监正,不当自诿,仍令访求能候气者。


是时朝廷知光先学术不胜任,复用西洋人南怀仁治理历法。南怀仁疏劾明烜造康熙八年七政民历于是年十二月置闰,应在康熙九年正月,又一岁两春分、两秋分,种种舛误,下议政王等会议。议政王等议,历法精微,难以遽定,请命大臣督同测验。八年,上遣大学士图海等二十人会监正马祜测验立春、雨水两节气及太阴火、木二星躔度,南怀仁言悉应,明烜言悉不应。議政王らは上奏し、康熙九年の暦の計算を南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)に委ねるよう求めた。皇帝は次のように下問した。「かつて楊光先が湯若望(アダム・シャール)を弾劾した際、議政王大臣会議は楊光先の主張を是とし、湯若望を非とした。また、新法(西洋暦)を一時停止し、後に復活させることとなったが、その理由は何か」。議政王らは上奏して答えた。「以前、大学士の図海(トゥハイ)ら二十名を観象台に派遣して観測を行わせたところ、南懐仁の言はすべて事実と合致し、呉明烜の言はことごとく外れていました。監正の馬祜、監副の宜塔喇・胡振鉞・李光顕に尋ねたところ、皆、南懐仁の暦法は天象に合致していると証言しました。一日を百刻とするのは歴代の定法ですが、南懐仁はこれを九十六刻と計算し、それが天象に合致している以上、康熙九年からは九十六刻に基づいて施行すべきです。南懐仁は『羅睺(らご)・計都(けいと)・月孛(げつはい)』については暦の計算に用いるため暦に組み込むが、『紫気(しき)』は実体がなく計算に用いないため組み込まない、と述べています。したがって、康熙九年からは『紫気』を七政暦(日月五星の暦)に含める必要はありません」。さらにこう述べた。「『候気(こうき)』は古法であり、暦の計算には不要であるため、今後はこれも停止すべきです。楊光先を官職から解任し、刑部に送って処罰を検討するよう求めます」。皇帝は楊光先を官職から解任するにとどめ、罪には問わなかった。


南懐仁らはさらに上奏し、楊光先が鰲拝(オボイ)に阿諛追従し、歴代用いられてきた『洪範五行』を「滅蛮経(蛮族を滅ぼす経)」と呼んで李祖白らを無実の罪で処刑させ、呉明烜の言葉を引用して湯若望を謀反の罪で誣告したことを告発した。議政王らの審議により、楊光先は斬首刑に相当するとされたが、皇帝は彼が高齢であることを理由に死罪を免じ、故郷へ送還させた。彼は道中で死去した。刑部は呉明烜について、事実と異なる上奏を行ったとして杖刑および流刑に相当するとしたが、皇帝は笞刑四十回を科して釈放するよう命じた。


南懐仁


南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)、名はフェルディナント、姓はフェルビースト氏、ベルギー人である。康熙帝の治世の初めに中国へ渡った。当時、湯若望(アダム・シャール)が罷免され、楊光先が監正、呉明烜が監副に就任していた。彼らは「大統暦」を用いて暦を編纂したが、節気が実際の天象と合わず、金星・水星の運行位置にも誤りが生じていた。呉明烜は水星が出現するはずだと上奏したが、その説は採用されなかった。そこで南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)が召喚され、暦法の整備を命じられた。南懐仁は楊光先と呉明烜を弾劾して退け、自らが監副に任命された。


康熙8年3月のこと、南懐仁は次のように述べた。「旧法によれば本年は11月に閏月を置くことになっているが、新法による観測・計算では、閏月は康熙9年の正月に置くべきである」。さらに、「今月の29日は『雨水』にあたり、これは正月の『中気』であるから、この月こそが康熙9年の正月であり、閏月はその年の2月に置くべきだ」と主張した。皇帝が礼部を通じて欽天監の官吏たちに諮問したところ、多くが南懐仁の説を支持したため、康熙8年12月の閏月を取りやめて康熙9年の2月に移すこととし、節気や気象の観測・予測もすべて南懐仁の説に従うこととなった。6月、南懐仁が観象台の観測機器の改修を願い出ると、皇帝はこれを許可した。12月に機器が完成すると、南懐仁は監正に昇進した。機器は計6種で、黄道経緯儀、赤道経緯儀、地平経儀、地平緯儀、紀限儀、天体儀であった。彼はそれぞれ図と解説を作成し、それらをまとめて『霊台儀象志』を編纂した。康熙17年、『康熙永年表』を献上した。これは七政(太陽・月・五惑星)の運行や食(日食・月食)を推算するもので、湯若望が未完のまま残していた書を南懐仁が引き継いで完成させたものである。康熙21年、盛京(奉天)へ赴き北極高度を測定するよう命じられ、その結果、北京より2度高いことが判明した。彼は別途、日月食の推算表を作成して上奏した。南懐仁は長らく監正の職にあり、累進して工部侍郎にまで至った。康熙27年に死去し、「勤敏」の諡号を賜った。


これ以降、欽天監では西洋人が登用され、監正や監副に就く例が絶えることなく続いた。康熙54年、紀理安(キリアン・シュトゥンプ)に対し、地平経緯儀を製作するよう命じ、地平儀と象限儀を一つに統合させた。乾隆年間、戴進賢、徐懋徳、劉松齢、傅作霖らは皆、進士の位を賜った。道光年間に入ると、高拱宸らは帰国したり病没したりした。当時、欽天監の官吏たちはすでに西洋の天文暦法を深く習得しており、もはや西洋人を登用する必要がなくなったため、宣宗の勅命を仰ぎ、西洋人の同監への入職を停止した。かつて聖祖(康熙帝)は南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)を重用し、カトリックの奉教や本国の風俗維持を許容したものの、各省における教会設立や入信は禁じていた。当時、各省にはすでに30余りのカトリック教会が存在していた。雍正年間には禁令が厳格化され、それらはことごとく取り壊されたが、京師(北京)に一か所だけが残され、欽天監に勤務する西洋人の住居とされた。内地へ入って布教を行う者は、直ちに法によって処罰された。やがて西洋人の同監入職が停止されると間もなく海禁が緩和され、条約によって布教が認められるようになり、新旧の教会が内地全土に遍く建てられるに至った。


論じて曰く、暦算の術は、深く入れば入るほど奥深く、進めば進むほど精緻になるものである。湯若望(アダム・シャール)や南懐仁の著述と、楊光先の攻撃とについて、その浅深や疎密を論じることは、今や誰にでもできることである。しかし当時においては、異国人を嫉視し、宗教問題が絡み合い、互いに糾弾し合って浮き沈みを繰り返すなど、まさに一時の得失が入り乱れる様相を呈していた。聖祖はかつて、暦法をめぐる論争が絶えない中で、自らが未学であるがゆえに是非を判断できないことを悟り、発奮して研究に励んだ。ついにその深奥かつ精緻な理を極め、その極意を完全に理解するに至ったのである。天下の主でありながら、これほどまでに謙虚に学びを励んだとは。ああ、聖人というべきであろう!

南懷仁

南懷仁,初名佛迪南特斯,姓阜泌斯脫氏,比利時國人。康熙初,入中國。時湯若望方黜,楊光先為監正,吳明烜為監副,以大統術治歷,節氣不應,金、水二星躔度舛錯。明烜奏水星當見,其言復不售。乃召南懷仁,命治理曆法。南懷仁劾光先、明烜而去之,遂授南懷仁監副。

時康熙八年三月,南懷仁言是歲按舊法以十一月置閏,以新法測驗,閏當在九年正月。既又言是月二十九日雨水,乃正月中氣,即為康熙九年之正月,閏當在是年二月。上命禮部詢欽天監官,多從南懷仁,乃罷八年十二月閏,移置九年二月;節氣佔候,悉用南懷仁說。六月,南懷仁請改造觀像台儀器,從之。十二月,儀器成,擢南懷仁監正。儀凡六:曰黃道經緯儀,曰赤道經緯儀,曰地平經儀,曰地平緯儀,曰紀限儀,曰天體儀;並繪圖立說,次為靈臺儀象志。十七年,進康熙永年表,表推七政交食,為湯若望未竟之書,南懷仁續成之。二十一年,命南懷仁至盛京測北極高度,較京師高二度,別為推算日月交食表上之。南懷仁官監正久,累加至工部侍郎。二十七年,卒,諡勤敏。

自是欽天監用西洋人,累進為監正、監副,相繼不絕。五十四年,命紀理安制地平經緯儀,合地平、 象限二儀為一。乾隆中,戴進賢、徐懋德、劉松齡、傅作霖皆賜進士。道光間,高拱宸等或歸國,或病卒。時監官已深習西法,不必復用西洋人,奏奉宣宗諭,停西洋人入監。方聖祖用南懷仁,許奉天主教,仍其國俗,而禁各省立堂入教。是時各省天主堂已三十餘所。雍正間,禁令嚴,盡毀去,但留京師一所,俾西洋人入監者居之。入內地傳教,輒繩以法。迨停西洋人入監,未幾海禁弛,傳教入條約,新舊教堂遍內地矣。

論曰:曆算之術,愈入則愈深,愈進則愈密。湯若望、南懷仁所述作,與楊光先所攻訐,淺深疏密,今人人能言之。其在當日,嫉忌遠人,牽涉宗教,引繩批根,互為起僕,誠一時得失之林也。聖祖嘗言當曆法爭議未已,己所未學,不能定是非,乃發憤揅討,卒能深造密微,窮極其閫奧。為天下主,虛己勵學如是。嗚呼,聖矣!

2026年10月7日水曜日

刘从さんによるXでのポスト

<a href="https://x.com/liucong927/status/2044664830364164543?s=43">https://x.com/liucong927/status/2044664830364164543?s=43</a> 『伝概』の作者は李祖白です。『天学伝概』(以下『伝概』と略す)は、中国の天主の教えの歴史における名著です。康熙二年(1663年)に成立した後、直ちに宣教の要籍として扱われ、教徒の間で広く配布されました;三年、楊光先が先に排教案件を発起し、これを最も重要な罪証資料として列挙しました。しかし、敎案において『伝概』は禁じられ、書籍版は焼失し、その後はほとんど流布されなかった。

李祖白 上帝

李祖白 上帝



A

《書》

★★曰:「昭受上帝,天其申命用休。」『尚書』虞書・益稷 第五

★曰:「予畏上帝,不敢不正。」『尚書』(別名:『書経』)商書・湯誓 第10

★曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」 商書・湯誥 (とうこう)

《大いなる天の上帝は、心の正しさという性質を人々にお与えになった。》角川文庫 書経


★曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」 商書・湯誥 (とうこう)


★曰:「顧諟天之明命。」 泰誓上

《あの天帝の明らかな命令を目ではっきりと見て、天地の神に仕えられたのです。》太甲


★曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上帝。」泰誓上

《天は、地上にいる人々を助けようと、私をその君主とし、指導者とされました。さてそこで、私は天帝とともに、(天下四方を統べて安らがせようと思うのです。)》泰誓上


★曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」君奭(くんせき)

《私がこの位に止まっていることをよしとして下さいませ。私とて、敢えて天帝が降される天命に安んじているわけではございません。永く天の威光を念じ、我が王朝の人々が過つことがないようになさらないのですか。…》


B

見之《詩》

★曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」「詩経」大雅・文王篇 第6章

★曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」詩経・大雅・大明

★曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」大雅 -文王之什 -皇矣 

★ 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」 詩經 -> 大雅 -> 生民之什 

★曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」詩経 / 大雅・蕩之什・蕩

★曰:「口我來牟,上帝率育。」《詩經.周頌.執競》:「貽我來牟,帝命率育。」


「口我來牟,上帝率育」 は、かなり近い形で
「貽我來牟,帝命率育」
という『詩経』の句に見えます。(ctext.org)


https://ctext.org/dictionary.pl?if=gb&char=來牟&remap=gb


「來牟」は古注で小麦や大麦を指す語として扱われています。(ctext.org)
「帝命率育」は、
天帝の命によって広く養い育てるという意味で解されています。(ctext.org)

✨ 全体の意味

自然な日本語にすると、だいたい次の意味です。

麦を与えられ、上帝の命によって人々が広く養われる。 


★曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」閟宫(ひきゅう)

https://www.guwendao.net/mingju/juv_9ddc918fda14.aspx

《赫赫(かがや)かしきは姜嫄、その徳たがうことなければ、 上帝もここに依りたもうて、(周の先祖后稷をみごもらせたもうた)。…

(武王は言った)「ふたごころあるなかれ、虞(はかりごと)するなかれ。上帝汝を見守りたもうゆえに」と。》角川文庫 詩経


C

《魯論》「魯論(ろろん)」は、孔子の言行録『論語』の異本の一つで、現在伝わる『論語』の底本となった系統。

★曰:「獲罪於天,無所禱也。」「論語」八佾第三13

★曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」「論語」雍也第六26

★曰:「丘之禱久矣。」述而第七34

★曰:「畏天命。」季氏第十六 8


D

《中庸》

★曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」中庸第十九章:武王周公其達孝

https://blog.udn.com/hgprint/9183556

★曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」詩経(大雅文王篇)33


E

《孟子》

★曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」梁恵王下

★曰:「順天者存,逆天者亡。」離婁上

★曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」卷之八 離婁章句下  中間部

★曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 卷之十三 盡心章句上 冒頭


/////


書経

A

★★昭受上帝,天其申命用休。


このようにされてこそ、天子が行われることに対して、天下の人々も大いに呼応して、天子の御意志を待つことになるでしょう。  その結果、天子は、輝かしい天帝のお恵みを受けられ、天は天命があなたの上にあることを重ねて明らかにされるでしょう」


《天子は、輝かしい天帝のお恵みを受けられ、天は天命があなたの上にあることを重ねて明らかにされるでしょう》


この言葉は、中国の古典(主に『尚書』や『詩経』、あるいは歴史上の詔勅や碑文など)に見られる、皇帝の権力の正当性(天命)を示す格式高い四字対句の表現です。

意味は以下の通りです。

【訓読】

上帝に昭(あき)らかに受く、天其(そ)れ申(重)ねて命ずるに休(美)を以てせん。

【現代語訳】

(天の主宰者である)上帝から(天命を)はっきりと授かりました。天はさらに重ねて、素晴らしい幸運や祝福(休)をもって、私に使命(天命)をお授けになることでしょう。



ご提示の言葉の出典は、五経の一つである『尚書』(一般に『書経』と呼ばれる古典)の虞書(ぐしょ)・「益稷(えきしょく)」篇です。 [1, 2]

大禹(のちの夏王朝の創始者・禹)が、堯から帝位を継いだ舜に対して、君主としての心構えや政治の要諦を説いた一節の中に登場します。 [1, 2]


原文の文脈


禹曰:「都!帝,慎乃在位。」

帝曰:「俞!」

禹曰:「安汝止,惟幾惟康。其弼直,惟動丕應。徯志以昭受上帝,天其申命用休。」

https://3guozhi.net/j2/sk1.html


『尚書』虞書・益稷 第五


禹が帝舜をいましめる


帝曰:「來,禹!汝亦昌言。」禹拜曰:「都!帝,予何言?予思日孜孜。」皋陶曰:「吁!如何?」禹曰:「洪水滔天,浩浩懷山襄陵,下民昏墊。予乘四載,隨山刊木,暨益奏庶鮮食。予決九川,距四海,濬畎澮距川;暨稷播,奏庶艱食鮮食。懋遷有無,化居。烝民乃粒,萬邦作乂。」皋陶曰:「俞!師汝昌言。」 禹曰:「都!帝,慎乃在位。」帝曰:「俞!禹曰:「安汝止,惟幾惟康。其弼直,惟動丕應。徯志以昭受上帝,天其申命用休。」

帝舜はいう。「皋陶だけでなく、禹も何かしゃべれ」
禹はいう。「私は治水をして、せっせと民の食糧を確保しているだけです。とくに言うべきことはありません」
皋陶はいう。「その功績のある禹の話が聞きたい」
禹はいう。「帝舜は心を清らかにして、上帝の意志を受信しなさい」と。


★予畏上帝,不敢不正。



その言葉の出典は、中国の古代思想・歴史の基本文献である『尚書(しょうしょ)』(別名:『書経』)の「商書・湯誓(とうせい)」です。

また、前漢の歴史書である『史記』の「殷本紀」にも同様の一節が引用されています。 [1, 2, 3]


💡 背景と意味

  • 発言者: 殷(商)王朝の建国者である湯王(とうおう)
  • 状況: 夏王朝の暴君・桀(けつ)を討伐する際、拒む自軍の兵士たちを鼓舞し、出陣の正当性を訴えた演説(誓い)の一節です。
  • 現代語訳:
    「(夏の桀王には多くの罪がある。)
    私は天上を統べる最高神(上帝)を敬い畏れている。それゆえ、その命に背いて彼の罪を正さない(討伐に行かない)わけにはいかないのだ。」



原文の文脈


禹曰:「都!帝,慎乃在位。」

帝曰:「俞!」

禹曰:「安汝止,惟幾惟康。其弼直,惟動丕應。徯志以昭受上帝,天其申命用休。」

https://3guozhi.net/j2/sk1.html


『尚書』虞書・益稷 第五


禹が帝舜をいましめる

…


Tianxue Chuan’gai


429ページ

.. 


https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=ivb7EAAAQBAJ&q=Tianxue+Chuan’gai#v=snippet&q=Tianxue%20Chuan’gai&f=false


Tianxue chuan'gai 天學傳概 A Summary of the Spread of Heavenly Teaching ) by Li Zubai 李祖白 ( died 1665), bronze statues or religious objects . Xu was interested in morality books as appears from his preface to Francesco Brancati's ...


  惟此中國之初人,實如德亞之苗裔,自西往東,天學固其所懷來也。生 長子孫,家傳户習,此時此學之在中國,必倍昌明於今之世。延至唐虞,下 迄三代,君臣告戒於朝,聖賢垂訓於後,往往呼天稱帝,以相警勵。夫有所 生及救世宗徒多者,行教中土,事藏西史。 受之也,豈偶然哉?其見之


《書》

曰:「昭受上帝,天其申命用休。」

曰:「予畏上帝,不敢不正。」

曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」

曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」

曰:「惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百 殃。」

曰:「顧諟天之明命。」

曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上帝。」

曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」


見之《詩》

曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」

曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」

曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」

曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」

曰:「口我來牟,上帝率育。」

曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」


《魯論》

曰:「獲罪於天,無 所禱也。」

曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」

曰:「丘之禱久矣。」

曰:「畏天命。」


《中庸》

曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」

曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」


《孟子》

曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」

曰:「順天者存,逆天者亡。」

曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」

曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 


  ただ、この中国の始祖たちは、実のところドイツやアジアの末裔のようなものであり、西から東へと移り住んできたため、天学はもともと彼らが持ち込んだものであった。子孫が生まれ育ち、 家々で伝承され、習慣として根付いたため、当時中国におけるこの学問は、現代よりもはるかに隆盛を極めていたに違いない。唐・虞の時代を経て、三代に至るまで、君臣は朝廷で戒めを語り合い、聖賢は後世に訓を遺し、しばしば天を称え帝を名乗り、互いに戒め励まし合った。また、多くの信徒を擁し世を救う者たちは、中原で教を広め、その事跡は西史に収められている。これを受け継いだのは、果たして偶然のことだろうか。そのことは


『書』

に曰く:「昭受上帝、天其申命用休。」

曰く:「予畏上帝、敢敢不正。」

曰く:「惟皇上帝、降衷於下民。」

曰く:「上帝は下民をしっかりと護り給う。」:「ただ上帝の心に選ばれたのみである。」

曰く:「ただ上帝は常に変わらぬものではなく、善を行えば百の祥を降らせ、不善を行えば百の災いを降らせる。」

曰く:「天の明らかな命に顧みて従う。」

曰く:「天は下民を護り、君を立て、師を立て、ただ彼らが上帝に相応うことができるようにする。」

曰く:「私もまた、上帝の命に安住することを敢えてせず、天の威を常に心に留める。」


『詩経』に次のようにある。

曰く:「文王は天上にあり、天に輝き渡る。文王は昇降し、帝の左右に在す。」

曰く:「この文王こそ、慎み深く、上帝に仕える。天は下を鑑み、命はすでに集う。上帝は汝に臨む、心を二心にしてはならない。」

曰く:「荘厳なる上帝よ、下を臨み、その威光は赫々たるものなり。」「天の怒りを畏れ、敢えて戯れや享楽にふけることなかれ。天の変遷を畏れ、敢えて奔走することなかれ。」

曰く:「広大なる上帝よ、下民の避所なり。天は衆民を生み、その命は定まらざるものなり。」

曰く:「我ら来牟を口にすれば、上帝は率いて育む。」

曰く:「赫々たる姜嫄、その徳は他とは異なる。上帝に依り……『心を二分せず、憂いなく、上帝は汝に臨む。』」


『魯論』

曰く:「天に罪を犯せば、祈るべきところはない。」

曰く:「わが為すべからざることは、天がこれを厭う、天がこれを厭う。」

曰く:「丘の祈りは久しい。」

曰く:「天命を畏れる。」


『中庸』

曰く:「郊社之礼は、上帝に仕えるためのものである。」

曰く:「上天の載は、声もなく臭もなく、至るものである。」


『孟子』

曰く:「天を楽する者は天下を保ち、天を畏れる者はその国を保つ。」

曰く:「天に従う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ。」

曰く:「たとえ悪人であっても、斎戒沐浴すれば、上帝に仕えることができる。」

曰く:「その心を存し、その性を養うことは、天に仕える所以である。妖寿は二途にわたりず、身を修めてこれを待つことは、命を立てる所以である。」 


  凡此諸文,何莫非天學之微言法語乎?其不但言帝又言天者,天即帝 也。猶臣民間稱君上為朝廷,朝廷即君上也。審是則中國之教,無先天學 者。惜乎三代而還,世風日下,民生苦於戰争,士習壞於功利。呂秦代周, 任法律,棄《詩》《書》。從前載籍,盡遭烈焰,而天學不復覩其詳矣,傷哉! 逮至西漢元壽,天主降生及救世畢,宗徒聖多默者,行教中土,事載西史。 而此中中州近地,明季流傳十字教規,緣天主救世,功成十字,故以名教,是 即多默所遺教也。逮至有唐貞觀九年,上遡天主降生六百三十五禩,大秦 國即如德亞國修士阿羅本,遠將經像重譯來朝。爾乃宰相郊迎,翻經内殿,命名 景教。初勅造大秦寺於京,後又徧勅諸州,各置景寺。開元以後四朝,寵賫 彌渥,即郭汾陽王,亦復重廣法堂。依仁施利,修舉哀矜,教行有唐,蓋二百 載而近矣。今長安有《景教流行中國碑》可考也。



  凡そこれらの諸文、天学の微言法語でなくして何ぞあろうか。帝のみならず天とも言うのは、天即ち帝なり。臣民が君上を朝廷と称するに如く、朝廷即ち君上なり。これを審らかにすれば、中国に先天の学を説く者なし。惜しむべきは三代に遡れば、世風は日増しに下り、民は戦乱に苦しみ、士大夫の習いは功利に堕した。


呂氏と秦が周を代え、法律を重んじ『詩経』『書経』を棄てた。古の典籍は全て烈火に遭い、天学の詳なるは再び見られず、哀れなり!西漢元寿の世に至り、天主降誕と救世の業が成就すると、使徒聖トマスが中土に教を伝え、その事跡は西洋史に記されている。この中州の近き地に、明末に十字教規が伝播したのは、天主が救世の功を十字架に成し遂げたゆえに、その名を教義としたのであり、これこそトマスが残した教えである。唐の貞観九年、天主降誕から六百三十五禩を経た頃、大秦国よりユダヤ国の修道士アロボンが経典と仏像を携え遠路来朝した。宰相が郊外で出迎え、宮殿内で経典を翻訳し、景教と命名した。初めは詔により都に大秦寺を建立し、後に諸州に広く詔を下し、各々に景教寺を置かせた。開元以降の四代にわたり寵愛はますます厚く、郭汾陽王でさえも法堂を広く建立した。仁に依り利を施し、哀矜を修め挙げる。教は唐に伝わり、約二百年に及ぶ。今、長安に『景教流行中国碑』があり、これを考証できる。




★予畏上帝,不敢不正。



その言葉の出典は、中国の古代思想・歴史の基本文献である『尚書(しょうしょ)』(別名:『


書経』)の「商書・湯誓(とうせい)」です。


また、前漢の歴史書である『史記』の「殷本紀」にも同様の一節が引用されています。 [1, 2, 3]


💡 背景と意味

  • 発言者: 殷(商)王朝の建国者である湯王(とうおう)
  • 状況: 夏王朝の暴君・桀(けつ)を討伐する際、拒む自軍の兵士たちを鼓舞し、出陣の正当性を訴えた演説(誓い)の一節です。
  • 現代語訳:
    「(夏の桀王には多くの罪がある。)
    私は天上を統べる最高神(上帝)を敬い畏れている。それゆえ、その命に背いて彼の罪を正さない(討伐に行かない)わけにはいかないのだ。」

https://3guozhi.net/j2/sk3.html


https://3guozhi.net/j2/sk3.html


『尚書』商書・湯誓 第10



湯王が夏の桀王を征伐する理由


王曰:「格爾眾庶,悉聽朕言,非台小子,敢行稱亂!有夏多罪,天命殛之。今爾有眾,汝曰:『我后不恤我眾,舍我穡事而割正夏?』予惟聞汝眾言,夏氏有罪,予畏上帝,不敢不正。

商の湯王が告げた。

平凡はいう。『史記』本紀は、湯誓のまえに、「湯征」などがあったという。『墨子』非楽上には、「湯の官刑」がある。『孟子』梁恵王、滕文公にも陰陽がある。『墨子』尚賢中にもある。

平凡はいう。湯王は、名を履、あざな(もしくは諡)を湯、または成湯という。みずから武王と号した。甲骨には、王号として「大乙」という。成・湯とは、出身地である、成・唐が転じたものだという。殷王朝については、平凡108頁。

台小子(わたし)は、反乱するのでない。

平凡はいう。天子が、上帝や祖先にたいして自称するとき、「台小子」という。台とは「予」だから、「予小子」とおなじ。

有夏に罪がおおいので、天命が尽きた。いま天が、私に有夏を倒させるのだ。

ぼくは思う。「罪」がここには具体的に書かれていない。つぎに出てくる。

いま、きみたちは「湯王は人民のことを考えず、農務をさしおかせ、なぜ有夏を征伐させるのか」と疑問に思っているようだ。

平凡はいう。原文「割」は「害(なんぞ)」の仮字。

衆言(みなの言うこと)を聞けば、有夏に罪があることは明白である。わたしは上帝を畏れるからこそ、[有夏の]罪を正さずにはいられない。

ぼくは思う。湯王が天の代理を演じる。これは、夏の啓王とおなじ。



★曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」 商書・湯誥 (とうこう)

《大いなる天の上帝は、心の正しさという性質を人々にお与えになった。》角川文庫 書経


★曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」 商書・湯誥 (とうこう)


《上天 孚に下民を佑けて、…惟れ簡ぶこと 上帝の心に在り。

……

上天は、地上の人々を助けて、…その善であるか、罪に当たるかの判断は、上帝の心にあるのです。》


★曰:「惟上帝不常,作善降之百祥,作不善降之百 殃。」商書より「伊訓」


www.mugyu.biz-web.jp/nikki.27.11.23.htm


惟上帝不常、作善降之百祥、作不善降之百殃。

これ、上帝は常ならず、善を作さばこれに百祥を降し、不善を作さばこれに百殃を降す。

 そうです、天上の主宰者・天帝さまには永続(して一つの家系に栄光を与える)ということはございません。善きことをすればその人にはもろもろの幸いを下し、善からざることをすればその人にはもろもろのわざわいを降すばかりでございます。


★曰:「顧諟天之明命。」 泰誓上

《あの天帝の明らかな命令を目ではっきりと見て、天地の神に仕えられたのです。》太甲


曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上帝。」


《天 下民を佑け、之が君と作し、之が師と作す。惟れ其れ克く上帝を相けて、》 泰誓上


《天は、地上にいる人々を助けようと、私をその君主とし、指導者とされました。さてそこで、私は天帝とともに、(天下四方を統べて安らがせようと思うのです。)》泰誓上


★曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」君奭(くんせき)


《我亦た敢て上帝の命を寧(やす)んぜず。 永く遠く天威を念い、我が民に越(おい)て尤違罔(ゆうい)からしめざらんや。》


《私がこの位に止まっていることをよしとして下さいませ。私とて、敢えて天帝が降される天命に安んじているわけではございません。永く天の威光を念じ、我が王朝の人々が過つことがないようになさらないのですか。…》


…


B

詩経


★文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右


「詩経」大雅・文王篇 第6章


https://ameblo.jp/miyatake-yagikensetsu/entry-12822816112.html


文王在上、於昭于天。

周雖舊邦、其命維新。有周不顯、帝命不時。

文王陟降、在帝左右。


https://baike.baidu.com/ja/item/大雅・文王/1096580


文王の神霊は天上にあり、あの天に輝きを放っている。[周は古い国ではあるが、国運に新しい気運が現れた。周の前途は実に輝かしく、天の意志は阻むことができない。]文王の神霊は昇り降りし、いかなる時も天帝の傍らにいる。



★維此文王翼翼,昭事上帝。

天鑒在下,有命既集。

上帝臨女,無貳爾心。


詩経・大雅・大明


fukushima-net.com/sites/meigen/2737


気が小さく、びくびくしている様子を表す四字熟語です、が本来は、つつしみ深く、小さなことまでよく気を配ることを表す言葉でした。『詩経』大雅に出ています。


  周の文王を讃えて、


  維此文王 小心翼々

  これこの文王、【小心翼翼】たり。

     文王は慎み深く細かいことにも気を配り、


  昭事上帝 聿懷多福

  昭(つと)めて上帝に事(つか)へ、ここに多福を懐(もた)らす。

     天の神につかえ人民の幸福を願った。

     その結果、周に多福をもたらした。


又、『詩経』の他のところで、西周の宣王(センオウ:B.C.827~B.C.782)の宰相を務めた

仲山甫(チュウザンホ)が細心の注意をはらって職務遂行に当たったことをほめて


  仲山甫之德 柔嘉維則

  仲山甫の德は、柔嘉(ジュウカ)にして則(のり)維(あ)り

     仲山甫の徳は、善にして道に適っている。


  令儀令色、小心翼翼

  儀を令(よ)くし色を令(よ)くして、【小心翼翼】たり。

     威儀を正し容色麗しく、慎み深く厳正である。


【小心翼翼】とした態度、の場合は、『気が小さくびくびくしている様子』が現代の解釈です。


www.1-em.net/sampo/sikyo/sikyouC.htm


○維此文王、小心翼翼。昭事上帝、聿懷多福<叶筆力反>。厥德不回、以受方國<叶越逼反>。○賦也。小心翼翼、恭愼之貌。卽前編之所謂敬也。文王之德、於此爲盛。昭、明。懷、來。回、邪也。方國、四方來附之國也。

【読み】

○維れ此の文王、心を小[せ]めて翼翼たり。昭らかに上帝に事えて、聿[そ]れ多福<叶筆力反>を懷[きた]せり。厥の德回[よこしま]ならずして、以て方國<叶越逼反>を受く。○賦なり。小心翼翼とは、恭[うやま]い愼む貌。卽ち前編の所謂敬なり。文王の德、此に於て盛んなりとす。昭は、明らか。懷は、來る。回は、邪なり。方國は、四方來り附ける國なり。


○天監在下、有命旣集<叶昨合反>。文王初載、天作之合。在洽之陽、在渭之涘<音士。叶羽已反>。文王嘉止、大邦有子<叶奬禮反>。○賦也。監、視。集、就。載、年。合、配也。洽、水名。本在今同州郃陽夏陽縣、今流已絕。故去水而加邑。渭水、亦逕此入河也。嘉、婚禮也。大邦、莘國也。子、大姒也。○將言武王伐商之事。故此又推其本而言。天之監照實在於下、其命旣集於周矣。故於文王之初年、而默定其配。所以洽陽渭涘、當文王將婚之期、而大邦有子也。蓋曰、非人之所能爲矣。

【読み】

○天の監みること下に在り、命有り旣に集[な]<叶昨合反>れり。文王の初めの載[とし]、天之が合[たぐい]を作せり。洽[こう]の陽[きた]に在り、渭の涘[ほとり]<音士。叶羽已反>に在り。文王嘉するときにして、大邦子<叶奬禮反>有り。○賦なり。監は、視る。集は、就す。載は、年。合は、配なり。洽は、水の名。本今の同州郃[こう]陽夏陽縣に在り、今流れ已に絕ゆ。故に水を去りて邑を加う。渭水も、亦逕[ただ]ちに此れ河に入るなり。嘉は、婚禮なり。大邦は、莘[しん]國なり。子は、大姒なり。○將に武王商を伐つ事を言わんとす。故に此に又其の本を推して言う。天の監照實に下に在り、其の命旣に周に集れり。故に文王の初めの年に於て、默して其の配を定む。所以に洽の陽渭の涘、文王將に婚せんとするの期に當たりて、大邦に子有り。蓋し曰く、人の能く爲す所に非ず、と。


②原文:天監在下 有命既集

 訓読:天は監(かんが)みて下に在り 命有りて既に集(な)る

 翻訳:天は下界をみそなわし 今ぞ天命は下された――『詩経』大雅・大明

https://gaus.livedoor.biz/archives/8570853.html


…


○有命自天、命此文王、于周于京<叶居良反>。纘女維莘、長<上聲>子維行<叶戶郎反>。篤生武王、保右<音祐>命爾、爕伐大商。賦也。纘、繼也。莘、國名。長子、長女、大姒也。行、嫁。篤、厚也。言旣生文王而又生武王也。右、助。爕、和也。○言天旣命文王於周之京矣、而克纘大任之女事者、維此莘國以其長女、來嫁于我也。天又篤厚之、使生武王、保之助之命之、而使之順天命以伐商也。

【読み】

○命有り天よりして、此の文王に命じ、周に京<叶居良反>にせり。女を纘[つ]げるは維れ莘[しん]、長<上聲>子維れ行[とつ]<叶戶郎反>げり。篤くして武王を生み、保んじ右[たす]<音祐>けて爾に命じ、大商を爕[やわ]らげ伐たしめり。賦なり。纘[さん]は、繼ぐなり。莘は、國の名。長子は、長女、大姒なり。行は、嫁ぐ。篤は、厚きなり。言うこころは、旣に文王を生んで又武王を生むなり。右は、助く。爕は、和らぐなり。○言うこころは、天旣に文王を周の京に命じて、克く大任の女事を纘げる者は、維れ此れ莘國其の長女を以て、來りて我に嫁ぐなり。天又之を篤く厚くして、武王を生ましめて、之を保んじ之を助け之に命じて、之をして天命に順いて以て商を伐たしむ。


○殷商之旅、其會如林。矢于牧野、維予侯興<叶音歆>。上帝臨女<音汝>、無貳爾心。賦也。如林、言衆也。書曰、受率其旅若林。矢、陳也。牧野、在朝歌南七十里。侯、維。貳、疑也。爾、武王也。○此章言武王伐紂之時、紂衆會集如林、以拒武王、而皆陳于牧野、則維我之師、爲有興起之勢耳。然衆心猶恐、武王以衆寡之不敵、而有所疑也。故勉之曰、上帝臨女、毋貳爾心。蓋知天命之必然、而贊其決也。然武王非必有所疑也。設言以見衆心之同。非武王之得已耳。

【読み】

○殷商の旅、其の會[つど]えること林の如し。牧野に矢[つら]ねて、維れ予[そ]れ侯[こ]れ興<叶音歆>れり。上帝女<音汝>に臨めり、爾の心に貳[うたが]い無かれ。賦なり。林の如しとは、衆きを言うなり。書に曰く、受其の旅を率いること林の若し、と。矢は、陳ぬるなり。牧野は、朝歌の南七十里に在り。侯は、維れ。貳は、疑うなり。爾は、武王なり。○此の章言うこころは、武王紂を伐つ時、紂が衆の會集すること林の如く、以て武王を拒んで、皆牧野に陳ぬるは、則ち維れ我が師、興起の勢い有りとするのみ。然れども衆の心猶恐れらくは、武王衆寡の敵せざるを以て、疑う所有らんことを。故に之を勉めて曰く、上帝女に臨めり、爾の心に貳い毋かれ、と。蓋し天命の必ず然ることを知って、其の決を贊くなり。然れども武王必ずしも疑う所有るに非ず。言を設けて以て衆の心の同じきを見す。武王の已むことを得るに非ざるのみ。





★皇矣上帝,臨下有赫


大雅 -文王之什 -皇矣 


https://ctext.org/text.pl?node=16302&if=gb&show=parallel


詩經 -> 大雅 -> 文王之什 -> 皇矣 -> 1.1 - 相似段落


www.1-em.net/sampo/sikyo/sikyouC.htm


 

皇矣上帝、臨下有赫<叶黑各反>、監觀四方、求民之莫。維此二國、其政不獲<叶胡郭反>、維彼四國、爰究爰度<入聲>。上帝耆之、憎其式廓、乃眷西顧、此維與宅<叶達各反>。○賦也。皇、大。臨、視也。赫、威明也。監、亦視也。莫、定也。二國、夏・商也。不獲、謂失其道也。四國、四方之國也。究、尋。度、謀也。耆憎式廓、未詳其義。或曰、耆、致也。憎、當作增。式廓、猶言規模也。此、謂岐周之地也。○此詩叙大王・大伯・王季之德、以及文王伐密伐崇之事也。此其首章先言、天之臨下甚明。但求民之安定而已。彼夏・商之政旣不得矣。故求於四方之國。苟上帝之所欲致者、則增大其疆境之規模、於是乃眷然顧視西土、以此岐周之地、與大王爲居宅也。

【読み】

皇[おお]いなるかな上帝、下を臨[み]ること赫[あき]<叶黑各反>らかなること有り、四方を監觀して、民の莫[さだ]まらんことを求む。維れ此の二國、其の政獲<叶胡郭反>ず、維れ彼の四國、爰に究[たず]ね爰に度[はか]<入聲>れり。上帝之を耆[いた]さんとして、其の式廓[しょくかく]を憎[ま]し、乃ち眷[かえり]み西に顧みて、此れ維れ與え宅[お]<叶達各反>らしむ。○賦なり。皇は、大い。臨は、視るなり。赫は、威明なり。監も、亦視るなり。莫は、定まるなり。二國は、夏・商なり。獲ずは、其の道を失うを謂うなり。四國は、四方の國なり。究は、尋ねる。度は、謀るなり。耆憎式廓は、未だ其の義詳らかならず。或ひと曰く、耆は、致す。憎は、當に增に作るべし。式廓は、猶規模と言うがごとし、と。此は、岐周の地を謂うなり。○此の詩は大王・大伯・王季の德を叙べて、以て文王の密を伐ち崇を伐つ事に及ぶなり。此れ其の首めの章に先ず言う、天の下を臨ること甚だ明らかなり。但民の安んじ定まらんことを求むるのみ。彼の夏・商の政旣に得ず。故に四方の國に求む。苟に上帝の致さんと欲する所の者、則ち其の疆境の規模を增大にし、是に於て乃ち眷[けん]然として西土を顧視して、此の岐周の地を以て、大王に與えて居宅を爲さしむ。


★★

六巻末尾

www.1-em.net/sampo/sikyo/sikyouC.htm


「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」


○敬天之怒、無敢戲豫。敬天之渝<音兪>、無敢馳驅。


昊天曰明<叶謨郎反>、及爾出王<音往。叶如字>。昊天曰旦<叶得絹反>、及爾游衍<叶怡戰反>。○賦也。渝、變也。王、往通。言出而有所往也。旦、亦明也。衍、寬縱之意。○言天之聦明、無所不及。不可以不敬也。板板也、難也、蹶也、虐也、懠也、其怒而變也甚矣。而不之敬也、亦知其有曰監在茲者乎。張子曰、天體物而不遺、猶仁體事而無不在也。禮儀三百威儀三千、無一事而非仁也。昊天曰明。及爾出王。昊天曰旦。及爾游衍。無一物之不體也。

【読み】

○天の怒りを敬んで、敢えて戲れ豫[やす]んずること無かれ。天の渝[か]<音兪>われるを敬んで、敢えて馳せ驅すること無かれ。


昊天曰[ここ]に明<叶謨郎反>らかなり、爾と出で王[ゆ]<音往。叶字の如し>けり。昊天曰に旦[あき]<叶得絹反>らかなり、爾と游び衍[たの]<叶怡戰反>しまん。○賦なり。渝は、變わるなり。王は、往と通ず。言うこころは、出でて往く所有るなり。旦も、亦明らかなり。衍は、寬縱の意。○言うこころは、天の聦明、及ばざる所無し。以て敬せずんばある可からず。板板や、難や、蹶や、虐や、懠や、其の怒りて變ずること甚だし。而して之を敬せざれば、亦其の曰に監ること茲に在ること有る者を知るか。張子が曰く、天の物に體して遺さざるは、猶仁事に體して在らざる無きがごとし。禮儀三百威儀三千、一事として仁に非ざる無し。昊天曰に明らかなり。爾と出で王けり。昊天曰に旦らかなり。爾と游び衍しまん。一物として體せざる無し、と。


板八章章八句

【読み】

板[はん]八章章八句



★ 蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶

https://ncode.syosetu.com/n0421gm/275/

蕩蕩上帝とうとうじょうてい 下民之辟かみんしひ

 疾威上帝しついじょうてい 其命多辟きめいたひ

天生烝民てんせいじょうみん 其命匪諶きめいひじん

 靡不有初びふゆうしょ 鮮克有終せんこくゆうしゅう


 広大な徳を有される天帝は

 天下の民に君臨される。

  そのはずの天帝が下す命には、

  民を苦しめるものがこうも多い。

 天は民をお産みになりはしたが、

 天命は常に民を守りはしない。

  人は、始めこそ慎ましくおるものの、

  それを最期まで貫き通せる者は

  実に少なきこと。


詩経 / 大雅・蕩之什・蕩

https://ask-shidou.com/shikyo/32421


…

C

魯論


★獲罪於天,無 所禱也


論語章句

【八佾第三】 王孫賈問曰、与其媚於奥、寧媚於竈。何謂也。子曰、不然。獲罪於天、無所禱也。


https://arukanatikait.com/禱る所無なきなり|「論語」八佾第三13-2399.html#google_vignette


天に対して罪を犯せば、祈っても無駄ですよ。|「論語」八佾第三13


衛の大夫、王孫賈が孔先生に尋ねました。奧の神にこびるよりは寧ろかまどの神にこびよというのは、どういう意味でしょうか? 孔先生がおっしゃった、それは正しくありません。天に対して罪を犯せば、祈っても無駄ですよ。|「論語」八佾第三13


…


★曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」

(孔先生が南子に会われたが、子路はこれを喜ばなかった。孔先生は子路に誓うように言われた、)もし私によくないところがあれば、天の神様は見限るだろう。天の神様は私を見捨てるだろう。|「論語」雍也第六26


★曰:「丘之禱久矣。」


https://arukanatikait.com/丘の祈ること久し|「論語」述而第七34-4703.html#google_vignette


丘(きゅう) … 孔子自身。姓は孔、名は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。仲は次男のこと。「論語」の登場人物|論語、素読会

「誄」(るい) … 功績などを述べ累(かさ)ねて、祈る文。
「神祇」(しんぎ) … 天のかみを神といい、地のかみを祇という。


孔先生が病気で病状が悪かったとき、子路は全快を祈りたいと孔先生に願い出た。孔先生がおっしゃった、治癒を願い祈るという先例があるのかと。子路は答えていった、ありますと。誄(るい)というそのひとの功績を述べて祈る文には、汝を天地の神々に祈るとありますと。孔先生がおっしゃったほ|「論語」述而第七34



https://kanbun.info/keibu/rongo0734.html#google_vignette


  • 先師のご病気が重かった。子路が病気平癒のお祈りをしたいとお願いした。すると先師がいわれた。――
    「そういうことをしてもいいものかね」
    子路がこたえた。――
    「よろしいと思います。誄るいに、汝の幸いを天地の神々に祈る、という言葉がございますから」
    すると、先師がいわれた。――
    「そういう祈りなら、私はもう久しい間祈っているのだ」(下村湖人『現代訳論語』)



曰:「畏天命。」


季氏第十六 8 孔子曰君子有三畏章


https://kanbun.info/keibu/rongo1608.html


  • 孔先生 ――「人物は三つのものにかしこまる。運命にかしこまり、目上にかしこまり、すぐれた人のことばにかしこまる。俗物は運命を知らないので、かしこまることもない。目上につけ入り、すぐれた人のことばをバカにする。」(魚お返がえり善雄『論語新訳』)


  • 先師がいわれた。――
    「君子には三つの畏おそれがある。天命を畏れ、長上を畏れ、聖人の言葉を畏れるのである。小人は天命を感知しないのでそれを畏れない。そして長上に狎なれ、聖人の言葉をあなどる」(下村湖人『現代訳論語』)


https://note.com/narupara/n/n27c8110e0854


天命を畏る
―畏天命―

[原文](論語 季氏第十六)
畏天命。

[書き下し文]
天命を畏(おそ)る。

[原文の語訳]
天命を畏れ敬う。


D

中庸


★郊社之禮,所以事上帝也


中庸第十九章:武王周公其達孝

https://blog.udn.com/hgprint/9183556


https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/48992/files/2320


郊外で典禮を行うのは天帝を祭ること


『禮記』中庸に、孔子の話として次の記述がある。

 郊社之禮、所以事上帝也。宗廟之禮、所以祀乎其先也。明乎郊社之禮、禘嘗之義、治國其如示諸掌乎! 

 郊外で典禮を行うのは天帝を祭ることであり、宗廟で祭祀を行うのは先祖を祭ることである。各種の大なる祭祀と小なる祭祀の意義を知れば、国家を治めることは、掌中のものを見るが如きか。郊社とは古人が天地日月を祭る典禮であり、上天への尊崇を表し、平安と福祉を祈願する。宗廟での祭祀は先祖への尊敬と偲びを表し、後人を守ってくださるよう願うものである。

69頁


https://lab.ndl.go.jp/dl-text/book?pid=1025199&page=280

20章

天神を祭る郊祭、 地祇を祭る社祭は、 上帝と后土につかへるための儀式である

宗廟の禮は、 その先祖を祀るためである。


★ 上天之載,無聲無臭,至矣


詩経(大雅文王篇)33


詩曰「衣錦尙絅」,惡其文之著也。故君子之道,闇然而日章;小人之道,的然而日亡。君子之道:淡而不厭,簡而文,溫而理,知遠之近,知風之自,知微之顯,可與入德矣。詩云:「潛雖伏矣,亦孔之昭!」故君子內省不疚,無惡於志。君子之所不可及者,其唯人之所不見乎。詩云:「相在爾室,尙不愧於屋漏。」故君子不動而敬,不言而信。詩曰:「奏假無言,時靡有爭。」是故君子不賞而民勸,不怒而民威於鈇鉞。詩曰:「不顯惟德!百辟其刑之。」是故君子篤恭而天下平。詩云:「予懷明德,不大聲以色。」子曰:「聲色之於以化民,末也。」詩曰:「德輶如毛」,毛猶有倫。「上天之載,無聲無臭」,至矣!

〈詩しに曰く、錦にしきを衣きて絅けいを尙くはふと。其文ぶんの著あらはるゝを惡にくむなり。故ゆゑに君子くんしの道みちは、闇然あんぜんとして日ひに章あきらかに、小人せうじんの道みちは、的然てきぜんとして日ひに亡ほろぶ。君子くんしの道みちは、淡たんにして厭いとはれず、簡かんにして文ぶん、溫をんにして理り。遠とほきの近ちかきを知しり、風ふうの自よるを知しり、微びの顯あらはるゝを知しる。與ともに德とくに入いる可べし。詩しに云ふ、潛ひそまりて伏ふすと雖いへども、亦また孔はなはだ之れ昭あきらかと。故ゆゑに君子くんしは內うちに省かへりみて疚やましからず、志こゝろざしに惡にくむ無なし、君子くんしの及およぶ可べからざる所ところは、其それ唯たゞ人の見あらはれざる所ところか。詩しに云ふ、爾なんぢの室しつに在あるを相みるに、尙こひねがはくは屋漏をくろうに愧はぢざれと。故ゆゑに君子くんしは動うごかずして敬けいし、言いはずして信しんず。詩に曰く、奏假そうかして言いふなく、時ときに爭あらそふこと有る靡なしと。是この故ゆゑに君子くんしは賞しやうせずして民たみ勸すゝみ、怒いからずして民たみ鈇鉞ふゑつより威おそる。詩しに曰く、顯あきらかならざらんや惟これ德とく、百辟へき其それ之れに刑のつとると。是この故ゆゑに君子くんしは篤恭とくきようにして天下てんか平たひらかなり。詩しに曰いふ、予よ明德めいとくを懷おもふ、聲こゑと色いろとを大だいにせじと。子曰く、聲色せいしよくの以もつて民たみを化くわするに於おけるは、末すゑなり。詩しに曰いはく、德とくの輶かろきこと毛けの如ごとしと。毛けは猶なほ倫りん有あり。上天じやうてんの載ことは聲こゑもなく、臭にほひもなしと。至いたれり。〉



https://ameblo.jp/miyatake-yagikensetsu/entry-12825637864.html


詩に云わく、徳の輶きこと毛の如しと。毛は猶お倫あり。

上天の載は聲も無く臭も無し。至れり。

   仮名中庸 第三十三章 85頁7行目

   伊與田先生の解釈

詩経(大雅烝民篇)に、「徳の軽いことは毛のようなものである」とある。

更に、詩経(大雅文王篇)には


、「上天のことは声もなく臭いもない」と言うが、

実に聖王の徳をもって民を化するに、声もなく臭いもなくて、

民は自ら感化することを形容している。至れり尽くせりというべきである。

 

「詩に云わく、徳の輶きこと毛の如しと。毛は猶お倫あり」・・・この部分は、「詩経」大雅の烝民篇に出てきます。烝民篇は八章六十四句の長篇です。その六章にでてきます。

「詩経」大雅の烝民篇。この句は古いことわざとして詩中で引かれたものです。詩は、毛のように軽い徳でも、だれにも持ち上げられない、とつづきます。



最後に、「上天の載は聲も無く臭も無し。至れり」・・・上天のしわざには、声もなければ臭いもない。とらえどころがなくて、比べるものもない、これこそが最高の徳だ。「天命としての誠の徳こそそれである。」と。ここでは、「詩曰」ということばはありませんが、「詩経」大雅の文王篇の二句にでてきます。この文王篇は七章八区の詩です。

大雅の文王篇 第七章(文王篇全文は後ろの方にかいています)

命之不易、無遏爾躬、 命の易からざる、爾が躬に遏(た)つこと無かれ、

宣昭義問、有虞殷自天。義(よ)き問(ほまれ)を宣(し)き昭らかにして、

有(また)殷を虞(はか)ること天に自(したが)え。

上天之載、無聲無臭、 上天の載(こと)は、聲(おと)も無く臭(か)も無し、

(出典箇所)

儀刑文王、萬邦作孚。 文王に儀(かたど)り刑(のっと)らば、

萬邦作(おこ)り孚とせん。

・天命は保ちやすからぬものであるから、常に戒慎恐懼して、長くこれを保つ様に勉めねばならぬ。

・爾の一代の時に於いて、天命を止め失うて、周王朝の断絶する如きことが有ってはならぬ。成王は武王の子であって、周王朝の二代目(文王よりは三代目)の天子である。而もかくの如く天命の断絶することを畏れるのは、天命を慎み畏れることの極みである。いわゆる安きに居て危うきを忘れず、治に居て乱を忘れないものであって、斯くの如くであるから、長く天命を保つことができるのである。

・然し上天の事は、聞こうとしても声もなく、嗅ごうとしても臭いもなく、図り知り難いものであるから、ただ心に深く思い、慎み畏れて、天道に循って行くことを勉めねばならぬ。

・故に、文王の行いは、即ち天に協う所であるから、之を手本として倣い行えば、天下万邦も皆興って信として従うであろう。

文王篇の第一章では、文王の徳が上帝の意にかなって天命を受け、天下に王となるその基盤を築いたことが述べられています。そして、この徳を長く子孫が継いていくことを誡めています。終章である第七章では、この文王の行いを倣っていくべきことをもって結ばれています。つまり、始まりの第一章と、終りの第七章が照応しているのです。



…


★「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」


『孟子』10―梁恵王下―孟子と斉の宣王の対話(4)烈火の如く怒る


https://note.com/shinakoten/n/n2f7136639bd9


天のことわりを楽しむ者は、天下を保ち、天に畏敬の念をいだく者は、国家を保つことができます。


sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius02-03.html


樂天者保天下、畏天者保其國




★曰:「順天者存,逆天者亡。」

https://kotobank.jp/word/天に順う者は存し天に逆らう者は亡ぶ-577380

《「孟子」離婁上から》天の理法に従う者は存続して栄え、天の理法に反する者は滅びる。


★曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」


卷之八

離婁章句下  中間部


https://ja.wikisource.org/wiki/孟子/離婁下


孟子曰:「西子蒙不潔,則人皆掩鼻而過之。雖有惡人,齋戒沐浴,則可以祀上帝。」

〈孟子曰く、西子せいし不潔ふけつを蒙かうむらば、則ち人ひと皆みな鼻はなを掩おほうて之れを過すぎん。惡人あくにん有ありと雖いへども、齋戒さいかい沐浴もくよくせば、則ち以て上帝じやうていを祀まつるべし。〉


尽心(上)


https://43mono.com/series/moushi_comp/moushi145/


1‐1 心を尽くして天命を待つ

【現代語訳】
孟子は言った。「自分の心を尽くして日々向上する者は、その心の本質が善であることを知るようになる。人間の本性が善であることを知ると、天を知ることができる。その心(いわゆる惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端の心)を大切に保存し、その本性を損なわないように育てていくことが天に仕える道となるのである。人間には命が短い、長いの違いがあるものだが、それに心をわずらわせることなく、ただ、ひたすら修養に努めて、天命を待つのが、天命を全うすることといえるのだ」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、其(そ)の心(こころ)を尽(つ)くす(※)者(もの)は、其(そ)の性(せい)を知(し)るなり。其(そ)の性(せい)を知(し)れば、則(すなわ)ち天(てん)を知(し)る。其(そ)の心(こころ)を存(そん)し、其(そ)の性(せい)を養(やしな)うは、天(てん)に事(つか)うる所以(ゆえん)なり。殀寿(ようじゅ)(※)弐(うたが)わず(※)、身(み)を修(おさ)めて以(もっ)て之(これ)を俟(ま)つは、命(めい)を立(た)つる所以(ゆえん)なり。

(※)心を尽くす……吉田松陰は「自分の心いっぱい、その限界までを行い尽すことである」とする(『講孟箚記』)。なお、ここに「心」とは、いわゆる「惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端」を指すとされている。穂積重遠氏の名著『新訳孟子』では、「吉田松陰の本章の解説は懇切にして悲壮(ひそう)、一読三歎の外ない」とされて、『講孟箚記』から、異例の六ページの引用がなされている。
(※)殀寿……命の短い、長い。
(※)弐わず……気にするものではなく。疑うことなく。

【原文】
孟子曰、盡其心者、知其性也、知其性、則知天也、存其心、養其性、所以事天也、殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也。




https://43mono.com/series/moushi_comp/moushi96/

233?

25‐1 生まれつきの美人才人より、生まれてからの磨きが大切である


【現代語訳】
孟子は言った。「絶世の美人と言われた西施(せいし)でも、不潔なものをかぶっていたら、人は皆鼻をつまんでそばを通りすぎるだろう。(逆に)どんなに醜い人であっても、斎戒沐浴して心身を清めたならば、上帝(天の神さま)もその人の祀(まつ)りを受け入れてくださるだろう」。


fukushima-net.com/sites/meigen/831


  雖有惡人、

  惡(みにく)き人有(た)りと雖(いえど)も

     どんな不器量な人でも、


  斎戒沐浴、

  斎戒沐浴すれば

     斎戒沐浴して心身を清めたならば、


  則可以祀上帝。

  則ち以て上帝を祀(まつ)るべし。

     天帝でさえもその人のお祀(まつ)りを快くお享(う)けくださるだろう。


人は先天的な素質に甘えず、後天的な修養こそ大切である。


★曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 


                         

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971175928&owner_id=17180778

百七十七節

孟子は言った。

「誰もが心の中に持っている理義を極めつくせば、人の本性が本来善であることが分かる。本性が善であることを知れば、それを与えてくれた天をも知ることになる。己の心を常に省みて察し、善なる本性を養うことが天に仕える道である。短命か長命かなどと気に掛ける事無く、ひたすら身を修めることに務めて天寿を待つ、それが立命乃ち天命を守る道なのである。」


孟子曰、盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也。殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也。



卷之十三

盡心章句上 冒頭


https://ja.wikisource.org/wiki/孟子/盡心上


孟子曰:「盡其心者,知其性也。知其性,則知天矣。存其心,養其性,所以事天也。夭壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」

〈孟子まうし曰く、其心そのこゝろを盡つくす者ものは其性そのせいを知しる。其性そのせいを知しれば則すなはち天てんを知しる。其心そのこゝろを存そんして其性そのせいを養やしなふは、天てんに事つかふる所以ゆゑんなり。夭壽えうじゆ貳じせず、身みを修をさめて以て之これを俟まつは、命めいを立たつる所以ゆゑんなり。〉



1665 Jesuit Persecution Beijing



1665 Jesuit Persecution Beijing - Asia Harvest

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Asia Harvest

  1. https://www.asiaharvest.org>beijing

[VII] Li Zubai was executed along with four Chinese Christian coworkers, namely Song Hecheng, Song Fa, Zhu Guangxian, and Liu Youtai. In another incident, the ...


1665 Jesuit Persecution Beijing

https://www.asiaharvest.org/china-resources/beijing/jesuit-persecution


1665 Jesuit Persecution Beijing


アダム・シャル(1592〜1666)は、献身的な宣教師であり、卓越した科学者です。

ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベル(通称アダム・シャル)は、イエズス会の司祭であり、多くの点でマッテオ・リッチが残した職務を引き受けました。1619年にわずか28歳で中国に到着したシャルは、かつて中国の首都であった西安で労働に従事した。彼の地理、地図作成、数学、天文学における技能は、すぐに中国の指導者たちの注目を集めました。1630年に彼は北京へ移住し、そこで余生を過ごしました。シュアルは卓越した人物でしたが、彼は自らの知識を、神が福音を通じて多くの人々に届くために用いるだけの道具に過ぎないと考えていました。彼は、中国人が外国人の星に関する知識が自国よりも優れていると認めた後に設立された天文学研究所の長に招かれました。

イエズス会の苦難は、1664年に宣教師司祭であるデ・マガリャエスとブグリオが「神の法の起源と伝播」という題名の記事を書いたことから始まりました。それは次の挑発的な文言を含んでいました。「キリスト教はすべての宗教の中で最も古く、最も完全なものです。」それは人々の心に刻まれているものです。それは最初の人類に宣言されました。I] 記事は、最初の中国皇帝がアダムの子孫であり、ユダヤ人の土地から中国に来たことを説明しています。ある歴史家は、議論の仕事をできるだけ無頓着に完了させるかのように、彼らは『中国の学問と知恵はキリスト教教義の淡い反映に過ぎない』と断言したと指摘している。II] その記事は、読むすべての中国人を敵にさせる以外、何も成し遂げませんでした。ある官僚、ヤン・グァンシアンは、最も強硬な方法で応じ、二人の外国人を叱責し、イエス・キリストは単なる革命家であり、彼の反乱のために正しく処刑されたという見解を示しました。アダム・シャルはこれらの展開に悲しんだ。なぜなら、彼はしばしば宣教師に中国の歴史や文化を貶めないよう警告していたからである。

1664年4月20日、シャルは脳卒中を起こし、ほとんど動くことも話すこともほとんどできませんでした。その年の9月15日、楊広西は儀式委員会に対し、シャルとその仲間たちを裏切り、忌まわしい宗教を説き、偽りの天文学的手法を教える罪で起訴する請願書を提出した。III] シャルは、フェルディナンド・ヴェルビエスト、二人の敵対者であるデ・マガルハエスとブグリオ、そして天文学研究所に関わる多数の中国人キリスト教徒とともに逮捕されました。その男性たちは北京の裁判所に連行されました。シャルの容態は哀れなものとなっていた。彼が横たわるために、鎖で縛られたマットが床に置かれていました。長時間にわたる裁判の後、囚人たちは1665年1月16日に司法大臣に引き渡し、判決が下されました。その決定は敬虔な男性たちを驚かせました。それは次のように書かれていました:

最高裁判所が刑を減軽しない限り、裏切者の長であるアダム・シャルは絞殺により処刑され、ヴァービエスト神父、ブグリオ神父、デ・マガリャエス神父、そしてリ・ツペ(李祖白)および天文学研究所の他のキリスト教関係者は、獬で百回鞭を射され、その後追放される。IV]


2月4日、3人の裁判官がシャルに科された死刑判決を承認したが、彼らはその方法を「絞殺」から「中国法で知られる最も野蛮な死」へと変更し、被害者は文字通りしかしゆっくりと鋭い剣で切り刻み、各傷口は赤く熱い鉄で焼灼され、血による死が過度に速くなわれるのを防ぐためである。V]


次の2か月間、シャルは北京で一連の顕著な出来事が彼の命を救った際に直面した恐ろしい死について熟考した。4月13日に、空にコメットが現れました。それから、4月16日午前11時、皇帝がシャルの死刑執行令状に署名するはかの正確な時刻に、大きな地震が都市を襲いました。皇帝は恐怖に駆られ、宮殿から走り出した。余震は今後二日間続き、地震によって大気中に放出された大量の塵により太陽は覆われていました。その結果、

恐れた当局はすぐにいくつかの措置を講じ、4月19日に恩赦が与えられ、フェルディナンド・ヴェルビエスト、ブグリオ、デ・マガルハエス、そして中国のキリスト教徒の役人の一人が含まれました。四日後、アダム・シャルに対する死刑は減刑されましたが、彼は鎖につながれたままで、自然が再び手を差し伸べたようです。4月29日、皇居で火災が激しく燃え上がり、約40室が焼失し、建物に火の玉が降りてくるのを目撃したと主張する人々がいました。北京全体は今や恐怖に見せられた。キリスト教徒の神はご自身がしもべたちの大義を擁護し、叫びであり、声は落ち着かせることができませんでした。VI]


アダム・シャルは釈放され、故郷に戻ることが許可されましたが、天文学研究所の中国人キリスト教徒5名が斬首され、北京に居住していた30名の宣教師は南中国へ追放されました。ヴァービエストと他の4名の宣教師だけが、首都の外に滞在することが許可されました。

殉教者の一人は李祖白であり、同世代を代表する中国の天文学者です。1622年に洗礼を受け、彼はアダム・シャルと共に天文学研究所で働きました。


Tianxue Chuan’gai that told of God’s creation and how a branch of the human race had migrated to China after the Flood.[VII]


VII  Nicolas Standaert (ed.), Handbook of Christianity in China Volume One: 635-1800 (Leiden, Netherlands: Koninklijke Brill, 2001), 429-430.




Tianxue Chuan’gai


429ページ

.. 


https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=ivb7EAAAQBAJ&q=Tianxue+Chuan’gai#v=snippet&q=Tianxue%20Chuan’gai&f=false


Tianxue chuan'gai 天學傳概 (A Summary of the Spread of Heavenly Teaching ) by Li Zubai 李祖白 ( died 1665), bronze statues or religious objects . Xu was interested in morality books as appears from his preface to Francesco Brancati's ...



https://www.google.co.jp/books/edition/Kouduo_richao_Li_Jiubiao_s_Diary_of_Oral/U-TzDwAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=Tianxue+Chuan’gai&pg=PT172&printsec=frontcover


Tianxue chuan'gai (II)  天學傳概("A General Account of the Transmission of the Heavenly Studies") , an apologetic tract extolling Christianity and Western science, by Li Zubai 李祖白, Beijing, 1664; repr. in WXXB II, pp. 1043-1068 pp. 145-168. Bernard, nr. 295; Chan, pp. 140-142.





1663年、李は『天學傳概』という本を出版し、神の創造と、洪水後に人類の一支流が中国へ移住した様子を語った。VII] 李祖白は、宋和成、宋法、朱広西、劉要泰という4人の中国人キリスト教徒の同僚と共に処刑された。


別の事件では、51歳のドミニカ人宣教師ドミンゴ・コロナドが1665年5月9日に北京の刑務所で死亡しました。

康熙皇帝は、1661年から1722年までの61年間中国を統治しました。

最終的に、1665年8月15日、アダム・シャルは74歳で亡くなり、47年間を中国で主の奉仕に奉仕しました。ある人々は、シャルルが5人の中国人の友人が殺害された後に受けた失恋が、彼の死の主な原因であり、彼の傷ついた身体が単なる要因の一つであると述べています。フェルディナンド・ヴェルビエストは、敬愛する師であるアダム・シャルに敬意を表して、以下の訃報を書きました。

主のぶどう園で四十年の働きをした後、この忠実なしもべは――このように神の恵みが許した――人間の生活に満足をもたらすすべてを奪い、激しい苦しみの犠牲者となった。この偉大な使徒は、我らが救い主の受難について涙なしに語ることができませんでしたが、敵の手段によって、十字架にかけられた主の似姿に形作られるに値すると判断されました。VIII]

技術的にはアダム・シャルは迫害によって直接死んだわけではありませんが、彼の生涯はキリストのための生きた殉教者でした。イエズス会士に対する広範な迫害は、神の超自然的介入により放棄され、殉教者数は北京の天文学研究所でシャルと共に働いていた5人の中国人男性に限定されました。

政府の最高迫害者である楊広西安は、この事件における彼の役割のために昇進しました。5年後の1670年、康熙帝はシャルルと李朱白を無罪にし(二人ともすでに死亡していた)、逮捕された宣教師たちを釈放した。ヤン・グァンシアンは政府を誤導したとして職務を解任され、故郷へ戻る途中で死亡した。


© 本記事は、ポール・ハタウェイの壮大な656ページにわたる『中国の殉教者の書』からの抜粋であり、西暦845年以降の中国における1,000人以上のキリスト教徒の殉教者を取り上げ、500枚以上の写真が添付されています。こちらでこの書籍やその他多数の中国の書籍や電子書籍をご注文いただけます。


I レイチェル・アットウォーター、アダム・シャル:『中国宮廷のイエズス会士 1592‐1666』 (ミルウォーキー: ブルース出版会社, 1963), 144.

II アットウォーター、アダム・シャル、144-145

III アットウォーター、アダム・シャル、146。

IV アットウォーター、アダム・シャル、149。

V Attwater, Adam Schall, 151.

VI アットウォーター、アダム・シャル、152.

VII ニコラス・スタンダート(編)、『中国におけるキリスト教ハンドブック』第1巻:635‐1800(オランダ・ライデン:Koninklijke Brill、2001)、429‐430。

VIII アットウォーター、アダム・シャル、155-156.


Yang Guangxian and Kangxi Calendar Lawsuit (1664-1665)

東アジア文化交渉学会

PDF

  1. https://www.sciea.org>02-02_Articles_LEE

Under their instructions, Li Zubai (李. 祖白, 1610-1665), a catholic convert and astronomical official published. Tianxue Chuangai 天學傳概(A Summary of the ...


Section of Christianity and Religious Studies

Department of Philosophy and Religious Studies, Peking University

  1. https://en.phil.pku.edu.cn>studies

XIAO Qinghe, “The Great Dao is for the universal world since the original time”: New Research on Confucian Christian LI Zubai (?-1665) in early Qing”, in ...



https://shs.hal.science/halshs-01222267/document


Revisiting the Calendar Case (1664-1669):

Science, Religion, and Politics in Early Qing Beijing*

Catherine JAMI

CNRS (CECMC, UMR 8173, EHESS, Paris)



康熙の暦獄


https://www.sciea.org/wp-content/uploads/2020/11/02-02_Articles_LEE.pdf


The Opposition of Confucians to Catholicism in the Early Qing Dynasty 31 Constellation). These essays signified his initial criticism of the western calendar and Catholicism. Although he made 5,000 copies of the first two essays for publicity,9 the imperial government did not pay much attention to it, most likely because Schall had close relations with Emperor Shunzhi and high officials. However, missionaries in the capital city began to feel threatened. Among them were Schall, the Italian Jesuit mathematician and theologian Ludovic Bugli (Li Leisi 利類思, 1606-1682) and the Portuguese Jesuit Gabriel de Magalhāes (An Wensi 安文思, 1609-1677), who founded the original St. Joseph’s Church in Peking. Under their instructions, Li Zubai (李祖白, 1610-1665), a catholic convert and astronomical official published Tianxue Chuangai 天學傳概 (A Summary of the Spread of the Heavenly Teaching) in 1663. The book was designed to refute Yang’s Pi Xie Lun (On Countering Heterodoxy), but it was this book that provided Yang with a good excuse to further criticize Catholicism.  Emperor Shunzhi died in 1661 and was s


p.9


清王朝初期における儒学者たちのカトリックへの反対 31 星座)。これらの論説は、彼が西洋暦とカトリックに対して初めて批判を表明したことを示していた。彼は最初の2つの論説を宣伝のために5,000部印刷したが⁹、清政府はこれにあまり注目しなかった。おそらく、シャルが順治帝や高官たちと親密な関係にあったためだろう。しかし、首都の宣教師たちは脅威を感じ始めていた。その中には、シャル、イタリア人イエズス会の数学者兼神学者ルドヴィコ・ブグリ(利類思、1606-1682)、そして北京の最初の聖ヨセフ教会を設立したポルトガル人イエズス会のガブリエル・デ・マガリャエス(安文思、1609-1677)らがいた。彼らの指導の下、カトリックに改宗した天文官の李祖白(1610-1665)は、1663年に『天学伝概』を刊行した。この書物は、楊の『駁異端論』に反論することを目的としていたが、かえって楊にカトリックをさらに批判する格好の口実を与えてしまった。順治帝は1661年に崩御し、その



Yang Guangxian and Kangxi Calendar Lawsuit (1664-1665)

東アジア文化交渉学会

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  1. https://www.sciea.org>02-02_Articles_LEE

The book was designed to refute Yang's Pi Xie Lun (On. Countering Heterodoxy), but it was this book that provided Yang with a good excuse to further ...


Pì xiè jí 闢邪集: Collected Refutations of Heterodoxy by Ouyi ...

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Academia.edu

  1. https://www.academia.edu>Pì_xiè_jí...

The work delves into the responses of Ouyi Zhixu, a Buddhist scholar, to the Jesuit missions in late Ming China, highlighting his systematic engagement with ...



Yang Guangxian and Kangxi Calendar Lawsuit (1664-1665)

東アジア文化交渉学会

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  1. https://www.sciea.org>02-02_Articles_LEE

During the 3rd and 4th year of the reign of Emperor Kangxi (1664-1665), the world was greatly shaken by a lawsuit that took place in Beijing. The.

未指定:Persecution


Calendar Lawsuit 

、カレンダー訴訟

暦獄


康煕の暦獄(こうきのれきごく、康煕暦獄)とは、清王朝の康煕三年(1667年)、楊光先(1597年-1669年)の訴えをきっかけとして、西洋暦法の編纂に関わったイエズス会の宣教師や漢人が断罪された事件。楊光先事件などとも呼ばれる[1][2]。

Yang Guangxian (Chinese: 楊光先, 1597–1669) was a Confucian writer and astronomer who was the head of the Bureau of Astronomy (欽天監) from 1665 to 1669.

未指定:獄

Yang Guangxian (Chinese: 楊光先, 1597–1669) was a Confucian writer and astronomer who was the head of the Bureau of Astronomy (欽天監) from 1665 to 1669.


容 ...

wwwres.meijigakuin.ac.jp

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  1. https://wwwres.meijigakuin.ac.jp>uploads>2018/04

2018/5/21 -儒教知識人の中でも楊光先の『闢邪論』『不得已』がよく知られている。 ・典礼問題 以下の記述は矢沢利彦「中国キリスト教史」(近藤に基づく. <端緒 ...


仏教とキリスト教Ⅰ 芹川博通 - 北樹出版の大学教科書

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北樹出版

  1. https://www.hokuju.jp>books>view

『闢邪管見録』二巻の編纂 2-2.鎮振他『翻刻闢邪集』二巻の校訂と覆刻 2-3.『耶蘇興廃年表』の編纂 2-4.楊光先『闢邪論 附録』の訓と覆刻 2-5.ハビアン『破提宇子 ...


明末清初耶穌會思想文獻匯編: 第五卷- 中國哲學書電子化計劃

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Chinese Text Project

  1. https://ctext.org>wiki

第五十八冊:鐘始聲編《闢邪集》. 3, 第五十九冊:楊光先《不得已》. 4, 第六十冊 ... 《破邪集》又名《聖朝破邪集》或《皇明聖朝破邪集》,崇禎十二年初刻於浙江。該 ...


楊光先- 自由的百科全書

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维基百科

  1. https://zh.wikipedia.org>楊光先

楊光先 編輯 ... 楊光先(1597年—1669年),字長公,南直隸歙縣(今屬安徽省歙縣)人,明末清初天文學者。但因為排外,屢與西方天文傳教士發生衝突,造成教案「康熙曆獄」。


楊光先:《不得已》 - 離教文庫

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離教者之家

  1. https://lib.exchristian.hk>yang

此光先之所始終為必非先生之筆也。 光先之《闢邪論》、《距西集》殺青五六年矣,印行已五千餘部,朝野多謬許之。而先生獨若未之見,若未之聞,豈於非聖之書反悅目乎 ...


不得已/上卷- 維基文庫,自由的圖書館 - 维基文库- Wikisource

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维基文库

  1. https://zh.wikisource.org>上卷

2017/4/8 -此光先之所始終為必非先生之筆也。 光先之《闢邪論》、《距西集》殺青五六年矣,印行已五千餘部,朝野多謬許之。而先生獨若未之見,若未之聞,豈於非 ...


輸入書 明末清初天主教史文獻新編 上、中 - 東方書店

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東方書店

  1. https://www.toho-shoten.co.jp>toho-web>search>detail

... 集》(徐昌治)、《闢邪集》(鍾始声等)、《不得己》(楊光先)、《天主教及西学名詞簡釈》(周駬方). 中国・本の情報館~東方書店 · 東方書店トップページへ · 会社案内 ...


https://sed40d72ed684f37d.jimcontent.com/download/version/1643775679/module/8278867156/name/20-10-150%E3%80%80009_榊原惇志様_170号別冊.pdf


清代における楊光先事件の意義

―典礼問題の前段階として―

榊 原 惇 志


参考文献

矢沢利彦「康熙帝と典礼問題(1)」(「東洋学報」30-1,東洋文庫、1943.pP.1-23)

佐伯好郎「清朝基督教の研究』春秋社,1949

金子省治「万暦四十四年の南京事件について」(『上智史学」21.上智大学史学研究会、1957.pp.18-29)

矢沢利彦「東西文化交涉史』中村出版社,1957

徐宗澤『明清間耶蘇会士靓著提要』中華書局,1958

呉相湘主編『天主教東博文獻』(中國史學書24)台湾学生書局。1965

模一雄編「西欧文明と東アジア」平凡社,1971

矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社,1972

橋本敬造「『崇禎暦書』の成立と「科学革命」」(『関西大学社会学部紀要」12、関西大学、1981,pp.67-84)

葛谷登「明末の南京教難における天主教士人の護教の論理」(『一橋論叢』92-1,一橋大学、1984,pp. 55-70)

アドリアン・グレロン著、矢沢利彦訳『東西暦法の対立:清朝初期中国史』平河出版社,1986

方家『中國天主教史人物」中華書局、1988

浅見雅一「教会史料を通してみた張献忠の四川支配」(『史学』59,三田史学会,1990,pp.219-261)

岡本さえ「修国器と清初の江南」(『東洋文化研究所紀要」106.東京大学東洋文化研究所、1998.pp. 95-162)

岡本さえ「近世中国の比較思想」東京大学出版会、2000

柴田篤「中・西の対話を支えるもの:明末天主教思想をめぐって」(『九州中国学会報』40.九州中国学会、

2002, pp. 53-69)

橋本敬造「光啓にみる改暦事業と教の論理」(『関西大学社会学部紀要』34、関西大学、2003, pP.93-

108)

マテオ・リッチ著。柴田篤訳注『天主実義」平凡社,2001

桐藤薫「Deus の漢語訳:「天主」から「上帝」へ」(『関西学院大学キリスト教と文化研究』8,関西学院大学、

2006, pp. 53-74)

橋本敬造「天學と西學典礼:典禮問題の初期的展開」(『アジア文化交流研究』1,関西大学アジア文化交流研

究センター、2006, pp.55-71)

橋本敬造「西法批判のなかの天学:康熙初年の暦獄を中心にして」(「関西大学東西学術研究所要』40.関

西大学,2007,pp.21-38)

桐藤薫『天主教の原像:明末清初期中国主教史研究」かんよう出版、2014

川原秀城編『西学東漸と東アジア」岩波書店,2015

新居洋子『イエズス会士と普遍の帝国:在華宜教師による文明の翻訳」名古屋大学出版会,2017


https://books.google.co.jp

明末清初中西文化冲突


明末清初中西文化冲突

作成者: 林仁川、 徐晓望 · 1999


林仁川, 徐晓望 — 1999 · スニペット表示

... 李祖白在《天学传概》中赞扬道: “逮至有唐贞观九年,上溯天主降生六百三十五祀,大秦国修士阿罗本,远将经像重译来朝,尔乃宰相 ... 佐伯好郎《景教碑文研究》等。 2 宋敏求:《长安志》卷十,第 8 页。 3 李祖白:《天学传概》第 4 页,载《天主教东传文献 ...


books.google.co.jp

https://books.google.co.jp

淸朝基督敎の研究



佐伯好郎 — 1949 · スニペット表示

佐伯好郎. 能盡述。不知我中國人亦有從其敎者、不誠禽獸之不如哉。」(『風士廣聞』)の如き、「艾正心西夷人、蒸其母、並蒸其 ... 李祖白が『天學傳概』一卷を著し諫官許漸が之に題したのを捉へて、その書とその所爲とを咎め、明季の徐光啓・李之藻 ...


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https://books.google.co.jp

支那基督敎の硏究: 淸朝の基督敎の研究



佐伯好郎 — 1943 · スニペット表示 · 他の版

佐伯好郎. 能盡述。不知我中國人亦有從其致者、不誠禽獸之不如哉。」(『風士廣聞』)の如き、「艾正心西夷人、蒸其母、並蒸其 ... 李祖白が『天學傳概』一念を著し諫官許漸が之に題したのを捉へて、その書とその所爲とを咎め、明季の徐光啓・李之藻 ...


岸本美緒(きしもと みお)は日本の著名な歴史学者であり、論文や著作の中で清代初期の事件やキリスト教・暦法をめぐる政治闘争(康熙帝期の政変や楊光先による告発など)に言及する際、李祖白(りそはく/Lǐ Zúbái)の名前が取り上げられることがあります。 [1, 2]


岸本美緒のプロフィール

  • 専門分野:中国史(明清社会経済史)
  • 経歴:お茶の水女子大学名誉教授、東京大学教授などを歴任。
  • 研究:明清時代の社会経済、物価、秩序に関する多くの業績を残している。 [1, 2, 3]


李祖白とは

  • 人物:明末清初の中国の天文学者・キリスト教徒(天主教徒)。
  • 背景:アダム・シャール(湯若望)らイエズス会士を補佐し、欽天監(暦法や天象を司る官庁)の官僚を務めた。
  • 康熙帝初期の事件:1664年、伝統派の儒学者・楊光先が西洋暦法やキリスト教を排撃するため、湯若望や李祖白らを謀反や邪教の罪で告発した(康熙暦獄)。これにより李祖白は処刑された。 [1, 2]

岸本美緒の論考や講義、あるいは引用される史料(南懐仁らの上奏文など)において、この清初における政権中枢と西洋科学・キリスト教受容の相克を象徴する人物として、李祖白の名が登場します

  1. https://www.jalha.org>bunken>bk2007_e

(書評)岸本美緒「明代の社会集団と「賤」の観念」, 法制史研究 56. 滝野 ... 西法批判のなかの天学――康熙初年の暦獄を中心にして, 東西学術研究所紀要(関西 ...

康熙の暦獄 (1659~1665)

  暦獄 https://web.archive.org/web/20140827064431/http://hss.nthu.edu.tw/~ylh/uploadfiles/paper117_0.pdf 姊妹 计划 : 数据 项 https://zh.wikisource.or...