いま、発掘の真っ最中でした──徳島の南で見た「教科書に載る前の古代」
お元気様です🫡 きーちゃんです。
7月25日と26日の2日間、徳島の南――みなみ阿波を歩いてきました。
先に、いちばん言いたいことを書きます。
島根も畿内だけじゃない。次の一歩は、阿波かもしれません。
出雲を歩いた。奈良も、京都も歩いた。そういう方にこそ見てほしいものが、ここにはありました。
空海が「空海になった」山に、ロープウェイで登る
初日、太龍寺(たいりゅうじ)へ向かうロープウェイに乗りました。山を越えると、深い谷と、その向こうに山並みが広がる。あの下り、しばらく声が出なかったです。
この太龍寺のある山が、今回の旅でいちばん「史料の固い」場所でした。
どのくらい固いかというと、国が編纂した正史に載っています。
『続日本後紀』の承和2年(835年)、空海が亡くなったときの記事にこうあります。
攀躋阿波國大瀧之嶽 観念土左國室戸之崎
(阿波国の大瀧の嶽によじ登り、土佐国の室戸の崎で観念した)
空海本人が24歳で書いた『三教指帰(さんごうしいき)』にも、同じ場所が出てきます。ここで空海が修めたのが虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)――真言を百万遍唱えるという荒行です。
この「大瀧嶽」が、いまの太龍寺山と考えられている。エリートコースを捨てた無名の青年が、都から遠く離れたこの山で、限界まで自分を追い込んだ。
そして山号の「舎心(しゃしん)」は、その修行の場所から。寺の名前の「太龍」は、修行中の空海を岩の上で守ったという龍神から来ています。
大師堂・御廟の橋・拝殿・御廟という並びが高野山の奥の院と同じで、だから「西の高野」と呼ばれる。四国八十八ヶ所の中でも「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われる難所です。
そして、この寺の縁起に「国生み」が書いてあった
ここからが、きーちゃんが本当に驚いたところです。
太龍寺には『舎心山太龍寺縁起』という古い縁起が伝わっていて、江戸時代の一大叢書『群書類従』にも収められています。天長2年(825年)の日付が入っている文書です。
で、その中身を読むと――国生み神話が書いてあるんです。
つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛比売と言い、これ与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言い これ阿波国なり、四に建依別と言い、これ土佐州なり
『古事記』を読んだことのある方なら、見覚えがあると思います。伊予之二名島(=四国)は、ひとつの体に四つの顔を持っていたという、あの箇所です。
お寺の縁起に、記紀の国生みが。しかも「阿波は大宜都比売」と、はっきり。
正直に書くと、この縁起がいつ、誰の手で今の形になったのかまでは、きーちゃんにはまだ言えません。縁起というのは、そのお寺が自分を語るために書かれるものなので、そのまま史実として読むわけにはいかない。
でも――お寺が自分の由来を語るときに、記紀の国生みを持ち出したという事実そのものが、もう十分に面白いと思いませんか。
ちなみにこの縁起には、もっと踏み込んだ記述もあります。それは、当日に。
青いシートと、測量ポールと、まん丸の石
2日目、ある場所で足が止まりました。
多良古墳群の発掘現場です。青いシートがかけられて、測量ポールが立っていて、まさに掘っている真っ最中でした。
ここ、いま何が起きているかというと――
海陽町の高速道路の建設予定地で、海部郡内では初となる前方後円墳が1基、そして円墳が4基見つかったんです。
町の職員さんが立体地図を見ていて気づいたのが去年の9月。県などが去年12月から今年4月にかけて試掘調査をして、県は「前方後円墳の空白地域に発見された、国史跡の指定を検討すべき重要な遺跡」と判断しました。
数字も出ています。
・1号墳(前方後円墳)は全長50メートル。前方部は1段、後円部は2段築成
・2〜5号墳の円墳は直径12〜16メートル
・築造は古墳時代前期、4世紀の中頃から後期とみられる
・徳島県内で確認された前方後円墳としては16例目
・時期はヤマト王権の勢力拡大期にあたり、地方豪族など有力者の墓の可能性そして、きーちゃんが現地で足を止めた理由が、これです。
副葬品はまだ出ていない。でも、葺石(ふきいし)がゴロゴロしている。
葺石というのは、古墳の表面を覆っていた石のこと。それをよく見たら――まん丸なんです。
角のとれた、つるっとした石。山から剥がしてきた石なら、角ばっています。丸くなるのは、水に長いこと転がされた石。つまり川原の石です。
県の発表にもこう書かれていました。1号墳と2号墳の葺石は同じ種類の川原石が使われていて、施工方法も似ており、密接な関係がうかがえる、と。
出土品はゼロ。文字も何もない。それでも、石ころひとつが「誰かがここまで運んだ」と語っている。
調査に協力した徳島文理大の大久保徹也教授(考古学)は、こうコメントしています。
紀伊水道を中心とする太平洋側の交易ルートについて考えるための重要な材料になる
海の道。そう考えると、川原の丸い石が海辺の古墳を覆っている光景の意味も、少し変わってきます。
そして、ここからが少し切ない話です。
県は高速道路事業の事務所に1号墳と2号墳の保存を要請し、事務所は道路計画を一部見直すそうです。
でも、3〜5号墳は、調査をして記録を残したうえで取り壊す見通しなんです。
古代って、本の中で完成しているものだと思っていました。でもここでは、まだ地面の下にあって、いままさに出てきている途中で――そして一部は、記録だけを残して消えていく。
教科書に載る前の古代が、目の前にありました。
「ここまでは言える。ここからは言い過ぎ」
今回の2日間、案内してくださったのが、ぐーたらさんという方です。
阿波の古代史を、それはもう膨大に調べておられる方なんですが、2日間ずっと、こう言い続けていました。
「ここまでは言える。ここからは言い過ぎ」
これ、きーちゃんはすごいことだと思っていて。
阿波の古代史って、話が大きくなりやすいジャンルなんです。
だからこそ「言えること」と「言い過ぎ」の線を、その場で引いてくれる人と歩けるのは、ものすごく安心なんですよね。
盛らない。でも、面白いところはちゃんと面白い。このバランスで案内してくれる人、そういないと思います。
ちなみにぐーたらさんは、ネット上に顔をいっさい出していません。つまり――現地でしか会えない人です。
宍喰の八坂神社は「日本三祇園」のひとつだった
神社もいくつも回りました。
なかでも驚いたのが、宍喰(ししくい)の八坂神社です。
八坂神社といえば、蘇民将来(そみんしょうらい)。茅の輪くぐりの由来として語られる、あの話です。原典は『備後国風土記』の逸文(『釈日本紀』に引かれています)。
貧しい兄の蘇民将来が、旅の神を泊めてもてなした。数年後に神が戻ってきて言う――「茅の輪をもって、腰の上に着けしめよ」。その通りにした者だけが助かり、神はこう名乗ります。「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり」と。
で、ここからが本題です。
京都の祇園社、備後・鞆の祇園社、そして宍喰の八坂神社。この三つを「日本三祇園」と呼ぶんだそうです。
京都と、備後と、徳島の南の海辺の町。この並びだけで、ちょっと座り直しませんか。
さらに驚いたのが、こんな記録が残っていること。
江戸時代の文化14年(1817年)、幕府が全国に『諸国風俗問状』という調査票を配りました。各地の風習を書いて出せ、という国の調査です。阿波から返ってきた答書に、こう書かれています。
当所之儀は八月朔日に雛祭仕、三月には祭不申候
(この土地では八月一日に雛祭りをします。三月には祭りをしません)
三月に、雛祭りをしない土地。
理由は、須佐之男命への配慮ではないか――という説があるそうです。男の節句が終わってから、と。
伝承が話として残っているだけじゃなくて、200年前の国の調査に「うちは違います」と答えている。この手触りが、きーちゃんはたまらなかったです。
海を統べた王と、奈良時代の史料に出てくる海辺
この宍喰のあたりには、鷲住王(わしずみおう)という人物の話も伝わっています。
系譜をたどると、景行天皇――神櫛別命――と続いて、鷲住王。讃岐国造の祖とされる人で、海部(あまべ)を統括したと伝わります。
「海部」というのは、まさにこのあたりの郡の名前(海部郡)でもあります。
そしてもうひとつ。この一帯の地名は、奈良時代の史料に出てきます。
『播磨国風土記』――和銅6年(713年)ごろの成立です。その美嚢郡の条に、履中天皇が「阿波国の和那散(わなさ)」で食べたしじみ貝の話が載っている。天皇が「この貝は阿波国の和那散で我が食した貝である」と言った、と。
さらに『阿波国風土記』の逸文には、こんな地名の由来が。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部は波をば奈と云ふ
波の音が止まない浦だから、奈佐。海の民は、波のことを「ナ」と呼んだから。
……1300年前の本に、いま自分が立っている海辺の名前が載っている。しかもその由来が「波の音」。
こういうのに弱いんです、きーちゃんは。
ごはんが、ずるい
これは書かないと不公平なので書きます。
ごはんが、ずるいくらい美味しかったです。
会席のお膳と、鯛のあら煮。古代史の話をしにきたはずなのに、いちばん写真を撮っていたのが料理でした。
すだちのサイダーも美味しかった。夏にちょうど良い甘さと爽やかで汗だくの体に沁みました!
最後に立った山と、持ち帰った宿題
最終日、津峯山(つのみねさん)の上に立ちました。標高284メートル。日峰山・中津峰山とともに阿波三峰のひとつに数えられる山です。眼下に橘湾と、島がいくつも浮かんでいる。
ここに津峯神社があります。
で、この神社の祭神を聞いて、きーちゃんは固まりました。
賀志波比売(かしわひめ)。
……聞いたこと、ありますか?
きーちゃんは無かったです。それもそのはずで、この神さま、『古事記』にも『日本書紀』にも出てこないんです。
でも――『延喜式神名帳』には、載っている。
延喜式というのは、平安時代の延長5年(927年)にまとめられた、国の法典です。その中に全国の神社リストがあって、そこに「賀志波比売神社 阿波国 那賀郡」と、はっきり記されている。
つまりこの神さまは、国が公式に把握していた神さまなんです。記紀には名前がないのに。
由緒書によると、創立は神亀元年(724年)。聖武天皇の御代に、神託によって祀られたとあります。ご神徳は延命長寿。そして、こんな一文が書かれていました。
賀志波比売大神は延命長寿を司り、一日に一人の生命をお助け下さる
一日に、一人。
なんでしょうね、この静かな数え方。
誰が、いつ、どういう思いでこの神さまをここに置いたのか。なぜ記紀は、この神さまの名を書かなかったのか。
まだ答えは出ていません。というより、いま調べている最中です。
ただ――ひとつだけ、白状します。
この神さまの正体について、近くのある神社の由緒書に、はっとする一行が書かれていました。読んだとき、声が出ました。
それが何かは、10月に、現地で。
そこに立って、海を見ながら聞いてほしいからです。
みなみ阿波、知られてないのがもったいない
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
正史に載る空海の山。国生みを語るお寺の縁起。まだ掘っている途中の古墳と、運ばれてきた川原の丸い石。日本三祇園のひとつと、三月に雛祭りをしない土地。1300年前の本に出てくる海辺。そして、記紀にいない神さま。
2日間で見たものを並べてみると、ひとつひとつは、地味なんです。派手な金印が出たわけでもないし、教科書が書き換わったわけでもない。
でも、点として見ると地味な場所が、2日かけて線でつないでいくと、まったく違う顔になる。
日本の神話は、記紀に書かれたぶんだけじゃない。
書かれなかった神さまが、まだ山の上に立っている。それを見に行ける場所が、この国にはまだ残っている。
みなみ阿波、知られてないのがもったいないです。
最後にひとつだけ。
10月31日(土)と11月1日(日)の2日間、このみなみ阿波を、ぐーたらさんと一緒に歩くツアーをやります。
募集は9月から。詳しいことは、そのときにあらためてお知らせします。
「ここまでは言える。ここからは言い過ぎ」を教えてくれる人と歩く2日間。
賀志波比売の答え合わせも、そこで。
気になった方は、9月まで少しだけ待っていてください。
弥栄!