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女系が存続する例は中国にモソ族という部族がいます。そこでは財産は女性が独占して男は女性に気に入られると通婚して子供を産む。けれど男には財産の相続権がないので養育の義務はなく産まれた子は母の子として母の家族が養育するということです。 男たちは財産もなく日雇いのような仕事をして暮らして、女性たちが田畑を耕して生産するという生活をしていたようです。
【中国・瀘沽湖の母系社会、モソ族の伝統文化を知る】第1回 妻問い婚で生まれた子どもは、母親だけではなく父親も知っている - 論文・レポート
中国西南の雲南省、四川省、チベット自治区の境界に、瀘沽湖という美しい高原湖があります。その周囲に住む4万~5万人の人々は、自称「納(ナー)」、外部からは「摩梭(モソ)」と呼ばれる特殊な集団です。モソ族は、母系の大家族と妻問い婚を特徴とする母系社会の伝統を今日までほぼ完璧に守ってきたことで、世界から注目を集めています。筆者はモソ族の若い世代として、民族文化を伝承すると同時に、学問的な観点からモソ文化を深く研究しています。より多くの人々にモソ族を知っていただき、モソ族の素朴な生活を理解し、モソ文化の魅力を発見してほしいと願っています。また、老人を敬い、子どもを大切にし、男女平等で家族の仲がよく、社会の調和がとれているモソ族の生き方は、現代社会では理想のあり方です。モソ文化の研究には、現代の社会、家庭、結婚において参考にできることが沢山あると思います。 一、モソ族 記録によると永寧鎮のモソ族は、前漢の元鼎6年までさかのぼることができ、2000年以上の歴史を有しています。歴史家は、モソ族が中国古代の西北部にいた古羌人の末裔だと考えています。戦国時代、一部の羌人が秦の脅威を恐れて南下し、甘粛省南部と四川省西部に移ったため、子孫が分かれてしまったといいます。また、ある学者は考古学の見地から、モソ族は雲貴高原にいた古夷人に発するとしています。藏羌彝文化産業回廊で民族の文化交流が盛んだった時代、モソ族はチベット・ビルマ語族の共同体の一部であり、百越(越族)の一部であったと考えられています。 このように、資料によってモソ族を考証できる期間は1600年以上にもなります [1] 。各方面の推論を見ると、モソ族の源流についてはさまざまな考えがあるのがわかります [2] 。筆者は、永寧のモソ族は古羌人や古夷人と密接な関係にありますが、発展の過程で古羌人とも古夷人とも異なってきたと考えます。永寧鎮では、独特な母系氏族文化や妻問い婚の習俗、また独自の宗教などが形成されています。 (一)モソの母系大家族 モソの母系大家族は母系の血縁グループで構成され、非母系の血統は排除されています。三世代以上のメンバーから成り、彼らはひとり又は複数の始祖母から発しています。母系の血縁で結ばれ、女性は家庭内で高い地位をもち、家庭生活において一定の発言権をもっています [3] 。家庭における男女の多くは妻問い婚によって関係を維持するので、生涯自分の母親や兄弟姉妹と一緒に生活します [4] 。通常は十数人以上の母系大家族で、多い場合は数十人にもなります。伝統的に「分家」の習慣はなく、古老の話によれば、モソ族が「分家」をしないのは兄弟姉妹の情愛が深く、別れがたいからだそうです。 しかし現実的な見方をすると、「分家」は年長者への不敬と財産争いを意味し、それは非常に恥ずべきことで、世間の笑いものになるからしない、ということのようです [5] 。そのため数十人の母系大家族でも争いはなく、楽しく穏やかな雰囲気に満ちています。子どもたちは楽しい幼年時代を過ごし、大勢の「母親」の愛情を受けることができますし、老人たちは皆と穏やかな晩年を過ごし、一家団らんを楽しむことができます。 また、モソ族の母系大家族では男女の分業がはっきりしており、その中で老人の世話をし、子どもを育てます。葬儀やビジネス、家の修理などの大きな仕事は男性が行い、家事や財産管理などは母親や能力のある女性が担当します。社会は合理的な分業によって安定的に発展し、また、合理的な分業によって家庭の経済および文明が促進されるとモソ族は考えています。 また、モソ族は倫理と道徳を非常に重んじる民族です [6] 。モソの母系大家族では老人や子どもを大切にし、礼儀を重んじ、兄弟姉妹は互いに思いやりをもっています。隣近所が仲よく付き合い、互いを尊重して助け合います。こうした礼儀正しさが日常生活のさまざまな場面に見られ、モソ族の自覚的行動基準となっています。このような礼儀正しい気風によって、モソ族は子どものころから優しく親切で、その場にふさわしい態度を取るように成長します。結婚と社会の調和が大きな問題となっている現代社会において、モソ族の生活様式は多くの人が憧れるものであり、多くの著名人がそれについて記しています。 (二)モソ族の妻問い婚 モソ族の婚姻形態は、国内外の歴史学者や民族学者、また旅行者が最も興味をもつ婚姻文化です。この独特で不思議な婚姻形態がもつ最も大きな特徴は、原始的な母系婚姻形態を保っていることです。モソ族はそれをモソ語で「se se」、「se」 のように呼びますが、「se se」は中国語では「走走(行く)」という意味で、中国語で「走婚(妻問い婚)」とも訳されます。妻問い婚をした男女は、二人で営む家庭を形成しません。彼らは仕事や生活においてあまり関わりがなく、それぞれが自分の母系大家族の一員です [7] 。妻問い婚をした男性は夕方になると女性の家に行き、女性は日が暮れると男性が来るのを待ちます。翌日の早朝、男性は早起きして自分の家に帰ります。まるでデートのようです。男性は夜出かけて朝帰り、女性は黙々と待っています。こうして日が過ぎて、子どもが生まれます。 次に、永寧鎮のモソ族で百組以上いる普通の妻問い婚をしている夫婦の中から一組の典型的なカップルを選んで、彼らの妻問い婚の様子をお話ししましょう。彼らは1960年代生まれで、モソ族の伝統が現代文化とぶつかり合う時期の、母系大家族の文化と妻問い婚の習俗が続けられるかどうかに関わる重要な世代です。そこでそのうちの一組の妻問い婚を例として、結婚の儀式について詳しく述べてみましょう。妻問い婚で生まれた子どもは、母親だけでなく、父親が誰なのかも知っているとのことです [8] 。 二、モソ族の妻問い婚の物語 外部の人は、妻問い婚の当事者によくこんな質問をします。「妻問い婚とは何ですか?」、「どうして妻問い婚をしたのですか?」、「妻問い婚では責任は取らなくてよいのですか?」。これらの質問は、モソ族の集落の外で働いたり、外部に出かけたりするモソ族を困惑させます。外部の人々にとって妻問い婚は不思議で珍しく、なかなか体験できないことですが、モソ族にとっては自分たちの伝統です。他の民族の家庭や婚姻形式と同じで、社会の産物です。 「あなたたちは自分の子どもの父親が誰だか知っているのですか?」などと聞く人までいますが、こんなことを聞かれるとモソ族は怒りと困惑を覚えます。私たち人類はみな同じで、異なる集団は異なる生活様式をもっています。調査研究をする中で我々が気づいたのは、モソ族の老人と若者は愛情に対して同じような考えをもっており、彼らが求めるものはシンプルで純朴で、妻問い婚は明らかに大切なものだということです。 (一)よき種を植え、愛の命をはぐくむ 次爾拉姆は50歳のモソの女性で、妻問い婚の夫である扎西平措との間に2人の娘がおり、妻問い婚の生活は30年あまりになります。2人は映画館で知り合いました。その一帯でたったひとつの映画館には、週ごとに新しい映画が上映されます。映画館は次爾拉姆たちにとって、同世代の人と知り合って伴侶を見つけるのに最適の場所でした。当時の映画チケット
https://www.blog.crn.or.jp/report/02/303.html
ここには美しい母系社会が紹介されていますが、何年か前に見た別の記事ではこのモソ族の地に漢族が道路建設のため入った時には多くの男たちが道路建設で独自に財を蓄えてこの村を脱走して別の街で嫁さんを娶って男系社会に馴染んでしまったということが書かれていました。今、こういう記事が書かれているということは中国政府の保護の手が入ったということかもしれません。
実は日本でも平安時代以前は女系ではなかったかという説もあるわけです。その場所がどこかという論争がある邪馬台国では男の王がたっても混乱したために女王卑弥呼が国を安定させ、その位は同じ女王の壱与に受け継がれたということが魏誌の倭人伝に載っていることは有名ですし、例えば源氏物語でも光源氏は方々のお姫様の屋敷に出向いては通婚していたわけです。けれども後には自分で屋敷を築いてそういうお姫さんたちを引き取って養ったということになっています。
皇家の男
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