2024年5月22日水曜日

項羽 - Wikipedia 続

https://ja.wikipedia.org/wiki/項羽
項梁は沛公と項羽に、別に成陽(山東・濮県)を攻めさせてこれを屠り、その西方秦軍を濮陽(河北・濮県)の東で破った。秦軍は兵をまとめて濮陽に入ったので、沛公と項羽は定陶を攻め、定陶が降らぬうちに西方に向かって攻略し、雝丘(雍丘ともいう河南・杞県の地)で大いに秦軍を破り、李由(秦の丞相李斯の子)を斬った。ついで兵を還して外黄(河南・杞県の東)を攻めたが、外黄がまだ降らぬうちに、項梁は東阿から兵を動かし、西のかた定陶に行ってふたたび秦軍を破った。項羽らもまた李由を斬ったと聞いて、項梁はいよいよ秦軍を軽んじ、驕るけはいがあった。宋義(もとの楚の令尹)は項梁を諫めて、「戦さに勝って将が驕り卒がなまければ失敗するものです。いま卒が少しなまけてきたのに、秦の兵は日ごとに増しています。わたしは君のために心配でなりません」と言ったが、項梁は聴き入れなかった。そして宋義を斉に使いにやらした。  宋義は途中、斉の使者の高陵君顕に遇ったので、「あなたは武信君(項梁)に会いに行かれるのですか」と問うと、「そうです」と言ったので、「わたしの見るところでは、武信君の軍は、きっと敗れましょう。あなたがゆっくり行かれれば、敗れたあとで命は助かりましょうが、はやく行かれたら災難にあうかも知れません」と言った。  秦ははたして全軍を出して章邯に増援し、楚軍を撃って大いにこれを定陶で破り、項梁は戦死した。沛公と項羽は外黄を去って陳留(河南・陳留)を攻めたが、陳留は堅く守って破れなかった。沛公と項羽は相談し、「いま武信君の軍が敗れ、士卒は恐れているだろう」と言って、呂臣の軍とともに兵を率いて東に向かった。呂臣は彭城の東に、項羽は彭城の西に、沛公は碭(江蘇・碭山)に駐屯した。  章邯は項梁の軍を破ると、楚の兵は心配するに当たらぬと、黄河を渡って趙を撃ち、大いに趙軍を破った。この時、趙では趙歇が王で、張耳が宰相であったが、みな逃げて鉅鹿城(河北・鉅鹿)に入った。章邯は王離と渉間(渉は姓、間は名)に鉅鹿を包囲させ、章邯自身はその南方に陣し、甬道を築いて粟を供給した。趙では陳余が将軍となり、卒数万人を率いて鉅鹿の北に陣した。これが普通に河北の軍といわれるものであった。  楚軍が定陶で敗れると、懐王は恐れて盱眙から彭城に行き、項羽と呂臣の軍をあわせて、自らこれを率い、呂臣を司徒、その父呂青を令尹とし、沛公を碭郡の長として武安侯に封じ、碭郡の兵を率いさせた。宋義が出会った斉の使者の高陵君顕は楚軍の中にあって楚の懐王に会い、「宋義は武信君の軍がかならず敗れると申しましたが、数日するとはたして敗れました。まだ戦いもしないのに敗れるとわかるのは、兵法を知ったものといわねばなりません」と言ったので、王は宋義を招いて談合したところ、大いに意にかない、よって上将軍の職を設けて彼を上将軍とし、項羽を魯公としてその次将、范増を末将として趙を救援させ、その他の別将もみな宋義に従属させた。この軍を号して卿子冠軍といった。安陽(山東・曹県)に行ったところ、宋義は軍を留めること四十六日、前進しなかった。  項羽が、「わしは秦軍が趙王を鉅鹿に包囲していると聞いているが、はやく兵を率いて黄河を渡り、楚軍が外から趙軍が内から応戦すれば、きっと秦軍を破れると思う」と言うと、宋義は、「そうではない。手で牛をうっても、上にとまった蝱は殺せるが、なかの蝨は殺せない。いま秦は趙を攻め、もし戦いに勝っても兵はつかれるだろうから、わが方はそのつかれに乗ずるのがよく、勝たなければ兵を率い、鼓を打って堂々と西に向かえばよい。きっと秦を破ることができよう。だからまず秦と趙を闘わすのが何よりの得策である。堅をつけ鋭をとって戦うことは、わしは公に及ばぬが、坐っていて策略をめぐらすことでは、公はわしに及ばぬ」と言い、軍中に命令を出して、「猛きこと虎のごとく、很ること羊のごとく、貪ること狼のごとく、強暴で命に従わない者は斬罪にする」と言った。  そして子の宋襄を遣って斉の宰相とし、自ら送って無塩(山東・東平)に行き、酒宴の大会を開いた。天寒く大雨が降って、士卒は凍え飢えた。項羽は、「力をあわせて秦を伐つために来たのに、長らく留まって出発しようとせず、今年は実りが悪くて民は貧しく、士卒は菜っぱに豆をまぜて食っていても、もう手持ちの食糧がない。それなのに宋義は酒宴の大会を開いたまま、兵を率いて河を渡り、趙の食糧を得、趙と力をあわせて秦を攻めようとはせず、ただ秦のつかれに乗じようという。かの秦の強勢をもって出来たばかりの趙を攻めたら、勢いのおもむくところ趙の敗れることは必定、趙が敗れれば秦が強くなるだけ、何のつかれに乗じられよう。そのうえ、楚国はさきほど秦に敗れたばかり、王は席に安坐もされず、国じゅうの兵を挙げて将軍(宋義)にまかせておられる。国家の安危はこの一挙、いま士卒をめぐまずに、子の私情に溺れるとは社稷の臣といえようか」と言い、翌朝、上将軍宋義のところに行き、その幕中で宋義の首を斬り、軍中に布令して、「宋義は斉と通じ、楚に謀反したので、楚王はひそかに籍(項羽)に命じ宋義を誅させたのである」と言った。この時、諸将はみな項羽におそれ服し、あえて逆らう者がなく、みな、「はじめに楚王を立てたのは将軍の家であり、いままた将軍は叛乱を平らげた」と言い、ともに羽を立てて仮上将軍とし、人をやって宋義の子を追撃させ、斉で追いついて殺した。そして桓楚を懐王のもとにやって報告させたので、懐王は項羽を上将軍とし、当陽君(黥布)や蒲将軍はみな項羽に所属することとなった。  このように項羽が卿子冠軍(宋義)を殺すと、その威力は楚国に震い、名声が諸侯に伝わった。そこで当陽君と蒲将軍を遣わし、卒二万人を率いて河を渡り、鉅鹿を救援させたが、あまり戦果がなかった。陳余はまた援兵を請うたので、項羽は全軍を率いて河を渡り、船をみな沈め、釜や甑(粟を炊くとき用いる器)を破り、屋舎を焼き、三日間の糧を携え、士卒の必死を期して、少なくも生還の心のないことを示した。このため鉅鹿に着くとたちまち王離を包囲し、秦軍(章邯の軍)とあって九戦し、その甬道を絶って大いにこれを破った。蘇角(秦将)を殺し王離を虜とし、渉間は楚に降らず自ら身を焼いて死んだ。この時、楚軍は諸侯中もっとも強力で、諸侯の軍で鉅鹿を救援し防壁を築くものが十余軍あったが、どの軍も出て戦う者がなかった。楚軍が秦軍を撃つと、諸将はみな防壁の上から見ていた。楚の戦士は一人で十人の敵に当たらぬ者がなく、楚の兵の雄叫びは天を動かすばかり、諸侯の軍は人々みな恐れておののかない者がなかった。楚軍が秦軍を破ると、項羽は諸侯の将軍を召見したが、諸侯の将軍は轅門を入ると、膝を地につけて、みな這うようにして進み、誰もあえて頭を挙げ、項羽を見ようとする者がなかった。ここで項羽は初めて諸侯の上将軍となり、諸侯はみな項羽に服属した。  章邯は棘原(河北・平郷の南)に陣し、項羽は漳南(漳水の南、漳水は平郷の南を流る)に陣し、たがいに対峙して戦わず、秦軍はしばしば退いた。二世は使いを出して章邯をせめたので、章邯は罪せられるのを恐れ、長史欣に二世の命を請わさせた。欣が咸陽に着き、司馬門(宮殿の外門)に三日間留まって待ったが、趙高は引見せず、欣に不信の心をもっていた。欣は恐れて軍に還ろうと、来た時の道を通らずに逃げた。趙高ははたして人に欣を追わせたが、捕えることができなかった。欣は軍に還ると報告して、「趙高が宮中で政権を握っており、その下にある者はどうすることもできません。いま戦って勝てば、高はきっとわが功をねたみ、勝たなければ死刑を免れません。将軍のご熟慮が願わしゅうぞんじます」と言った。  陳余もまた章邯に書簡をおくり、「白起は秦将となり、南に楚の鄢(湖北・襄陽)・郢(湖北・江陵)を征し、北に趙の馬服(趙奢の子趙括。父を馬服君といったので、その子も馬服としたもの)を穴埋めにし、攻城略地、数えるに堪えぬほどだったが、しかもついに死を賜うた。蒙恬は秦将となり、北に戎人を逐うて楡中の地を開くこと数千里であったが、ついに陽周(漢の陽周の地、いま陝西・定西)に斬られた。何となれば功多く、秦はことごとくに封地を与えることができなかったから、法をもって誅したのである。いま将軍は秦の将軍たること三年、亡失した士卒は十万を数えるのに、諸侯の並び興ることがいよいよ多い。かの趙高はへつろうて政権をほしいままにすること日久しく、いま事態が急迫すると二世の誅を恐れ、法をもって将軍を誅しておのれの責めをふさぎ、さらに他人をもって将軍に代わらせ、禍いを免れようとしている。将軍は外にあること長く、内に将軍を敵とする者も多い。したがって功労を立てても、また誅せられよう。かつ天の秦を滅ぼそうとしていることは、智者も愚者も、みな知っているところである。いま将軍は内に直諫することができず、外に亡国の将となり、孤立して無援に立たんとするのは、哀しい極みではないか。将軍は、どうして兵を還して関東の諸侯と連合し、誓って共に秦を攻め、地を分って王となり、南面して自ら孤と称せられないのか。身を鈇質(おのや人を斬る台で、要斬の罪に用いる刑具)に伏せ、妻子の殺されるのといずれがまさっていよう」と言った。  章邯は疑い迷うたが、ひそかに軍候の始成を項羽のもとにやり、寝返りを約しようとしたが、盟約がまだできなかった。項羽は蒲将軍に兵を率い、昼夜兼行で三戸(地名。漳水に沿うた津の名とも峡の名ともいう)を渡り、漳水の南に陣して秦と戦わせ、また秦軍を破った。ついで項羽は全軍を率いて秦軍を撃ち、汙水(もと漳水の支流であったが今はない)のほとりに陣して大いに破った。章邯は使いを出して項羽に会い、盟約しようとした。項羽は軍吏らを呼んで相談し、「軍糧が少ないから、盟約を聴き入れようと思う」と言うと、軍吏らはみな、「そのほうがよろしゅうございます」と言ったので、項羽は章邯と洹水(河南・安陽の北を流れる川)の南、殷虚(もとの殷の都のあったところ)の上で約束した。盟約が終わると章邯は項羽を見て涙を流し、趙高のことを話した。項羽は章邯を立て、雍王として楚軍の中に置き、長史欣を上将軍として秦の軍を率い、前行して新安(河南・新安)に行かせた。諸侯の吏卒が、かつて夫役に出たり、辺境を守るため秦中(陝西・北部)を通った時、秦中の吏卒が彼らを遇することきわめて惨酷であったので、いま秦軍が諸侯に降ると、諸侯の吏卒は勝ちに乗じて多く彼らを奴隷のように使い、些細なことにも侮辱した。秦の吏卒の多くはひそかに、「章将軍らは、われわれをいつわって諸侯に降った。今よく函谷関に入り、秦を破ればよいが、もしできなかったら、諸侯はわれわれを虜にして、東に引き上げよう。そうすれば秦はきっと、われわれの父母・妻子を皆殺しにするだろう」と語り合った。諸将はひそかに、その話を聞いて項羽に告げた。  項羽は黥布と蒲将軍を招いて相談し、「秦の吏卒は、なお多く心服していない。関中に行ってから、命令を聴かなかったら、事態は危険になろう。いまのうちに、みんな殺してしまい、ただ章邯と長史欣と都尉の翳を秦に入れるほうがよかろう」と言った。  そこで楚軍は夜襲して、秦卒二十余万人を新安城の南で穴埋めにし、行くゆく攻略して秦の地を平定し、函谷関に着いた。すると沛公の軍が関を守っていて、入ることができず、また沛公がすでに咸陽を破ったと聞いて、項羽は大いに怒り、当陽君らに撃たせて、ついに関に入り戲西(函谷関の西方)に行った。沛公は覇上(西安の東方、覇水のほとりにある白鹿原)に陣し、まだ項羽と会見することができなかった。  沛公の左司馬の曹無傷が、人をやって項羽に、「沛公は関中の王になる下心から(楚の懐王が諸侯と約し、まず関中に入ったものを関中の王にしようと言ったので、この言があるのである)、嬰(秦の三世皇帝嬰)を宰相とし、秦の珍宝をみな取りました」と言った。  項羽は大いに怒って、「明日士卒を饗応し、彼らのため沛公の軍を撃ち破ろう」と言った。  この時、項羽の軍四十万は新豊の鴻門(陝西・臨潼の東の坂名)に陣し、沛公の兵十万は覇上にあった。范増が項羽に説いて言うよう、「沛公は山東(崤山以東、関東)にいた時、財貨を貪り美人を好んだのに、いま函谷関に入ると財物は取らず、婦女を少しも近づけるところがない。これはただごとではありません。わたしが人をやって沛公の体からのぼる精気を望ませたところ、みな龍となり五色の色をしていました。これは天子になる精気です。早く撃って取り逃してはなりません」と。  楚の左尹(官名)項伯は項羽の叔父で、もと留侯張良と親しかった。張良は、この時沛公に従っていたので、項伯は夜中馬を馳せて沛公の軍営に行き、ひそかに張良に会って項羽が沛公を撃とうとしている顚末を語った。そして張良を誘うていっしょに逃げようと、「まきぞえに無駄死にしてはつまらない」と言った。  すると張良は、「わたしは韓王の命で沛公の西征を送って来たのに、いま危険だからと逃げ去るのは不義です。告げなくてはなりません」と言って中に入り、始終を沛公に告げた。  沛公は大いに驚いて、「どうしたらよいだろう」と問うた。張良が言った。「誰が大王のために、函谷関を守る計略を立てたのですか。」 「鯫生がわしに、『関をふせいで諸侯を入れないようにしたら、秦の土地はみなわしのものになる』と言ったので、それに従ったのである。」 「大王の士卒で、十分に項王の軍に当たれると思われますか。」  沛公は黙然としたが、やがて、「とうていかなわない。いったい、どうしたらよいだろう。」 「項伯のところへいって、沛公はけっして項王にそむくことはないと申しましょう。」 「きみは項伯とどんな縁故があるのか。」 「秦の時代、わたくしといっしょに勉強していた時、項伯が人を殺して斬罪になるところを、わたくしが助けてやったのです。だから今危急の場合、幸いにもわたくしのところに来て告げてくれたのです。」 「きみと項伯とどちらが年長なのか。」 「項伯のほうがわたくしより年長です。」 「わしのために項伯を呼び入れてくれないか。わしは兄の礼をもって会いたいと思う。」  張良は外に出て、強いて項伯を引き入れたので、項伯は入って沛公に会った。沛公は卮(角でつくったさかずき)を捧げて項伯の長寿を祝し、婚姻の約束をしたうえ、「わたしは関に入って以来、少しも財物を身に近づけたことがなく、吏民を帳簿に載せ、府庫を封鎖して、将軍(項羽)の来られるのを待っていたのである。将をやって関を守らせたのは、盗賊の出入と非常に備えるためで、日夜将軍の来られるのを望みながら、どうしてそむいたりしよう。どうかきみには、わたしがけっして恩徳にそむく者ではないことを、つぶさに将軍にお伝え願いたい」と言った。  項伯が承諾して沛公に、「明朝早く自ら来て将軍に詫びられるのがよい」と言うと、沛公は、「承知した」と言った。  そこで項伯は、また夜中を去って項羽の軍営に行き、仔細に沛公のことばを項羽に報告し、「沛公がまず関中を破らなければ、公は入ることができなかったでしょう。いま人が大功をたてたのに、それを撃つのは不義です。むしろ好遇したほうが得策でしょう」と言うと、項羽はこれを承諾した。  沛公は翌朝、百余騎を従えて項羽のところに来、鴻門で会見し、「わたしは将軍と力をあわせて秦を攻め、将軍は河北に戦い、わたしは河南に戦いましたが、自分のほうが先に関に入って秦を破り、また将軍とここで会うなどとは、少しも想像しておりませんでした。いま小人が中傷して、将軍とわたしとを仲たがいさせようとしたのですが──」と詫びると、項羽は、「それは君の左司馬の曹無傷が言ったのである。それがなければ、わしは何で君を疑ったりしよう」と言い、沛公を留めて、いっしょに酒を飲んだ。  項羽と項伯は東面して上座につき、亜父は南面して次座についた。亜父とは范増のことである。沛公は北面して三座に坐り、張良は西面して下座に侍った。范増はしばしば項羽に目くばせをし、佩びている玉玦(玉環の一部が欠けて環をなしていない一種の玉器)を挙げて、決心をうながすこと三度であったが、項羽は黙然として応じなかった。そこで苑増は座を起って外に出て項荘(項羽の従弟)をよび、「君王は憐れっぽい性質だから、おまえが入って長寿を祝し、祝酒がおわったら、一さしお見せしようと剣舞を舞い、はずみに沛公を撃って、その場で殺せ。そうでなけりゃ、おまえの一族をみな虜にしよう」と言った。  荘が入って長寿を祝し、祝酒がおわると、「わが君と沛公とが酒宴せられるのに、陣中のこととて何の座興もないので、一さし剣舞をご覧に入れましょう」と言った。  項羽が、「それがよい」と言ったので、項荘が剣を抜いて起って舞うと、項伯もまた剣を抜いて舞い、常に身をもって沛公をおおいかばい、荘は撃つ機会がなかった。その時、張良は起って軍門に行くと、樊噲に出会い、樊噲が、「今日の首尾はどうです」と聞くので、「非常に危急だ。いま項荘が剣を抜いて舞うているが、沛公を殺そうというのだ」と言った。  噲は、「そりゃ大変、わたしが入って沛公と生死をともにしましょう」と言って剣を帯び盾をひっさげて軍門に入った。戟をたがえた衛士が、止めて入れさせないようにするので、樊噲は盾をそばだてて衛士を地につきたおし、中に入って帷を引き開け、西向きに突っ立って目をいからし項王をにらんだ。頭の髪の毛は直立し、まなじりは裂けているようであった。  項羽は剣の束に手をかけ、坐り直して、「あの客は何者だ」と言った。張良が、「沛公の参乗(車に陪乗するもの)の樊噲という者です」と言うと、項羽は、「壮士である。彼に一献与えよ」と言った。そこで一斗入り(わが約一升)の卮になみなみと酒を注いで出すと、噲は押し戴いて、立って飲みほした。項羽が、「豚の肩肉を与えよ」と言ったので、一塊の肩肉を与えると、噲は盾を地上に裏返しに置き、その上に肩肉を載せ、剣を抜いて切ってたべた。  項羽が、「壮士よ、まだ飲むか」と言うと、噲が、「わたくしは死をも恐れません。一卮の酒などなんの辞退いたしましょう。かの秦王は虎狼の心をもち、いくら人を殺しても殺し足らぬごとく、いくら人を罰しても、罰し足らぬを恐るるごとく、かくして天下はみな秦にそむきました。懐王は諸将と約し、『まっさきに秦を破って咸陽に入る者を王にしよう』と言われました。いま沛公は最初に秦を破って咸陽に入り、すこしの犯すところもなく宮室を封閉し、軍を覇上に還して大王の来られるのを待っていたのです。将を遣って関を守らせたのは、盗賊の出入と非常に備えたまでのこと、労苦して功績の高いことこのようなのに、まだ封侯の恩賞もないばかりか、かえって小人ばらの言を聴き、有功の人を殺そうとは、これ亡秦の継続であって、ひそかに大王のために惜しむところです」と言った。  項羽は返答ができず、ただ「まあ坐れ」と言った。噲が良(張良)について坐り、坐るとしばらくして沛公が起って厠に行った。そして噲を招いて軍門の外に出た。沛公が外に出てしまうと、項羽は都尉の陳平に沛公を呼びにやらした。  沛公が、「いま出て来るとき、挨拶をしなかったが、どうしよう」と言うと、噲が、「『大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず』とか申します。いま相手は刀や俎で、われらを魚肉にして食べようというのです。何の挨拶などいりましょう」と言い、ついに去った。その時、張良をあとに残して詫びるようにした。  良が沛公に、「大王は今日来られる時、何を土産に持って来られましたか」と問うと沛公は、「わしは白璧一対を項羽に献じ、玉斗(玉製の酒器)一対を亜父に与えようと持って来たのだが、怒りにあって献じることができなかった。きみはわしに代って献じてくれ」と言ったので、良は、「謹んで承知しました」と答えた。  この時、項羽の軍は鴻門の下にあり、沛公の軍は覇上にいて、相去ること四十里であった。沛公は乗って来た車と従騎を鴻門に留めて、おのれひとりだけ馬に乗り、樊噲と夏侯嬰と靳彊と紀信の四人は剣と盾を持って徒歩で従い、酈山の麓から芷陽への間道を通って帰った。出発の時、沛公は張良に、「この道からわが軍営に行くと二十里ほどしかない。わしが軍営に着いたころを見はからって、きみは内(項羽の軍営)へ入るように」と言った。  沛公がすでに出発して、しばらくすると軍営に着いた。張良は時刻を見はからって内に入り、「沛公は酒の酔いにたえず、ご挨拶もできないので、謹んでわたくしに代って白璧一対を捧げ、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一対を再拝して大将軍の足下に捧げよとのことでございます」と言うと、項羽が、「沛公はどこにおられるか」と聞いた。良が「大王には沛公をおとがめになる思召しのようなので、逃げて独り帰り、もはや軍営に着いたころです」と言うと、項羽は璧を受けて座上に置いたが、亜父は玉斗を受けると地上に置き、剣を抜いて撞き壊し、「ああ、豎子(荘を軽蔑して言い、暗に項羽をも指すのである)はともにはかるに足らない。項羽の天下を奪う者はかならず沛公だ。一族はそのうち彼の虜になろう」と言った。  沛公は軍営に着くと、すぐさま曹無傷を殺した。数日すると、項羽は兵を率いて西行し、咸陽を屠り、秦の降王嬰を殺し、秦の宮室を焼いた。火は三カ月にわたって消えず、財宝婦女を収めて東に帰った。  ある者は項羽に、「関中は山河をへだてて、四方がみなふさがり、土地は肥えていて、ここに都を置けば天下の覇者となることができましょう」と言ったが、項羽は秦の宮室がみな焼けて残破しているのを見、また心中故郷を思うて東に帰ろうとし、「富貴となって故郷に帰らないのは、繡をきて夜行くようなもの、誰にも知ってもらえない」と言った。  また、ある者が、「人は『楚人(項羽は楚人なので暗に項羽を指す)は沐猴(さる)が衣冠をつけただけ』というがはたしてそうであった」と言ったので、項羽はその男を煮殺した。項羽が人をやって懐王のために忠誠を尽すむねを伝えると、懐王は「はじめの約束のようにせよ」と言ったので、懐王を尊んで義帝とした。  しかし項羽も自ら王になろうとし、それにはまず諸将相を王侯にしようと、「天下に初めて兵乱がおこった時、かりに諸侯を立てて秦を伐ったが、甲冑をつけ武器をとり、戦争をはじめて身を野外にさらすこと三年、秦を滅ぼして天下を平定したのは、みな将相諸君とわしの力である。義帝は何の功労もないが、これはもともと地を分けて王とすべき人である」と言った。  諸将はみな、「それがよい」と言ったので、天下を分け、諸将を立てて侯や王にした。項王(項羽)と范増は、はじめ沛公が天下を奪うのではないかと疑ったが、すでに和解ができ、また自分らが約束(懐王が諸将のうち最初に関中に入った者を関中の王にするとの約束)にそむくのがはばかられ、諸侯がそれによってそむくのを恐れ、ひそかにはかって、「巴・蜀は道が険しく、秦の遷人(兵乱を避けてうつった者)はみな蜀にいる」とか、「巴・蜀もやはり関中である」などと言い、沛公を立てて漢中の王とし、南鄭(陝西・漢中)に都させた。そして関中を三分して秦の降将を王とし、漢王が関東に出て来ないように閉じ込めた。すなわち章邯を立てて雍王とし、咸陽以西の王として廃丘(陝西・興平)に都させ、また長史の欣はもとの櫟陽の獄吏であったが、かつて項梁を助けたことがあり、都尉の董翳はもと章邯に勧めて楚に降らせたので、司馬欣を立てて塞王とし、咸陽以東、黄河に至る地方の王として、櫟陽に都させ、董翳を立てて翟王とし、上郡の王として高奴(陝西・膚施)に都させた。  さらに魏王豹をうつして西魏王とし、河東の王として、平陽(山西・臨汾)に都させた。また瑕丘公申陽は張耳の気に入りの臣で、さきに河南郡を降し、楚軍を黄河のほとりに迎えたので、立てて河南王とし、雒陽に都させた。韓王成はもとの都によって陽翟(河南・禹県)に都させ、趙将司馬卬は河内(河南省の黄河北部地方)を平定して、しばしば功労があったので、立てて殷王とし、河内の王として朝歌(殷の紂王の都。河南・淇県)に都させた。趙王歇をうつして代王とし、趙の丞相の張耳はもともと賢人であり、また従軍して函谷関に入ったので、耳を立てて常山王とし、趙の地の王として襄国(河北・邢台)に都させた。当陽君黥布は楚の将軍で、いつも戦功は全軍第一であったので、九江王とし、六(安徽・六安)に都させた。鄱君呉芮は百越(もろもろの南方異族)を率い、諸侯をたすけてやはり入関したので、衡山王とし邾(湖北・黄岡)に都させた。義帝の柱国共敖は、兵を率いて南郡を撃ち、功労が多かったので、立てて臨江王とし、江陵(湖北・江陵)に都させた。燕王韓広をうつして東王とし、燕将臧荼は楚に従って趙を援け、ついで従って入関したので立てて燕王とし、薊(今の北京付近)に都させた。斉王田市をうつして膠東王とし、斉の将田都が楚とともに趙を援け、従って入関したので、立てて斉王とし、臨淄(山東・臨淄)に都させた。もと秦が滅ぼした斉王建の孫田安は、項羽が黄河を渡って趙を援けようとしたとき、済水の北の数城を降し、その兵を率いて項羽に降ったので、立てて済北王とし、博陽(山東・秦安)に都させた。田栄はしばしば項梁にそむき、また楚に従って秦を撃とうとしなかったので封ぜられなかった。成安君陳余は、将軍の印を棄てて去り、入関しなかったが、もともと賢明をもって聞こえ、趙国に功績があった。それで隠れて南皮(河北・南皮)にいると聞いたので、南皮周辺の三県に封じて侯とした。番君の将梅鋗は功労が多かったので十万戸侯に封じた。  項王は自立して西楚(東楚・南楚に対していう。大体にもとの楚から梁にかけた地、今の安徽・江蘇を中心とした地方)の覇王となり、九郡の王として彭城を都とした。漢の元年四月、諸侯はそれぞれ封邑を受けたので、戯下(戯西の近く戯水のほとりの意)の軍陣を引き払い、おのおの領国に就いた。項王は領国に行き、人を義帝のもとにやり、「昔の帝王は地方千里で、かならず川の上流地方にいたものである」と言い、義帝を長沙の郴県にうつし、せきたてて行かそうとすると、群臣に命にそむこうとするけはいがあった。そこでひそかに衡山王と臨江王に命じ、義帝を楊子江中で撃ち殺した(高祖本紀にも同じようになっているが、黥布列伝第三十一では、黥布が項羽の命を受けて部将をやり郴で殺したことになっている)。韓王成は軍功がなかったので、項王は領国に行かさず、いっしょに彭城に行き、王を廃して侯とし、ついでまた殺した。臧荼は国に行くとき、韓広に封地の東へ行くよう促したが、広がきかなかったので、荼は広を無終(河北・薊県)で殺し、あわせてその地の王となった。田栄は項王が斉王市を膠東にうつし、斉将田都を立てて斉王としたと聞き、大いに怒って斉王(市)を膠東へ遣らさず、斉軍を率いて叛し、田都を迎え撃った。田都は楚へ逃げたので、斉王市は項王を畏れ、自ら逃げて膠東に行き領国についた。田栄は怒って斉王市を追撃し、即墨で殺した。そこで栄は自立して斉王となり、西のかた済北王田安を撃って殺し、あわせて三斉(斉・済北・膠東)の王となった。栄は彭越に将軍の印を与え、梁の地で西楚にそむかせた。  陳余はひそかに張同と夏説に命じ、斉王田栄に、「項王は天下を宰配してまことに不公平です。いまもとの王はみな醜地(瘦せた僻地)へ追いやり、部下の群臣や諸将を善地の王としました。故主(陳余の故主)の趙王も逐われて、北のかた代にうつされましたが、わたくしは不届きだと思います。聞くところによれば、大王には兵を起こして項王の不義を許されなかったとのこと。願わくはわたくしに兵をお貸しいただきたい。さすれば常山王を撃って土地を趙王に返し、趙の国をもって斉の防衛にいたしたいとぞんじます」と説かせた。  斉王がこれを許し、兵を遣って趙に行かせた。陳余はことごとく三県の兵を徴し、斉と力をあわせて常山王を撃ち、大いにこれを破った。張耳は逃げて漢に行った。陳余はもとの趙王歇を代から迎えて趙にかえし、趙王は陳余を立てて代王とした。  この時、漢王は漢中から東に還って三秦を平定した。項王は漢王がすでに関中の地をことごとくあわせて、さらに東方に出ようとし、また斉・趙もそむいたと聞くと大いに怒り、もとの呉の令鄭昌を韓王として漢をふせぎ、蕭公角(蕭県の令、角)らに彭越を撃たせた。彭越は蕭公角らを破った。漢王は張良に命じて韓の地を従えさせ、項王に書をおくって言うよう、「漢王はさきに職を失ったので、関中を得ようとしたのです。もし約束どおりにされるなら、そこに止まってあえて東方には出ません」と。  また斉と趙の反書(謀叛の書)を項王におくって、「斉は趙とともに楚を滅ぼそうとしている」と言った。このため楚は西行して漢を撃つ考えをやめ、北方斉を撃とうと兵を九江王布に徴した。布は病いと称してゆかず、部将にただ数千人の兵を率いてゆかせただけであった。項王はこのため布を恨んだ。  漢の二年の冬、項王はついに北のかた城陽に行った。田栄もまた兵を率いて会戦したが勝たず、逃げて平原に行くと、平原の民が田栄を殺した。項王はついに北、斉の城郭や人家を焼き払い、田栄の降卒を穴埋めにし、その老弱婦女を捕虜とした。かくて斉を従え北海に行き、残滅するところが多かった。斉人は各地に集まってそむいたので、田栄の弟田横は斉の亡卒を収め、数万人を得て城陽に叛した。このため項王は留まって連戦したが、降すことができないうちに、その春、漢王は五諸侯(戦国の七国の故地のうち、秦の地は漢がもち、楚の地は項王がもっているので、その他の韓・魏・斉・燕・趙五国の意)の兵およそ五十六万を強制して、東して楚を伐った。項王はこれを聞くと、すぐさま諸将に斉を撃たせ、自らは精兵三万人を率いて南のほう魯から胡陵(山東・魚台の東南)に出た。四月、漢軍はすでにみな彭城に入り、城内の財宝や美人を収め、日ごとに酒宴を開いて騒いだ。項王は西のほうに廻って、蕭(江蘇・蕭県)から夜明けに漢軍を撃ち、東して彭城に行き日中大いに漢軍を破った。漢軍がみな逃げ出すと、追撃して穀水・泗水(ともに彭城近くの川)に入り、漢卒十余万人を殺した。残余の漢卒はみな南方の山中に逃げた。楚軍はなおも追撃して、霊壁(彭城〔徐州〕の南、符離の西北)の東、睢水のほとりに行った。漢軍は川岸まで退き、楚軍はこれを追い落して多くの漢卒を殺した。十余万がみな睢水の中に入ったので、睢水はこのため流れが止まった。漢王を三重に囲んだが、この時、大風が西北から起こり、木を折り家を倒し、沙石を吹きあげて昼なおくらく、楚軍に向い風であったので、楚軍は大いに乱れて壊散した。そのすきに漢王は数十騎とともに逃げ出すことができた。沛を通り妻子を伴って西行しようとすると、楚軍もまた人をやって、追うて沛に行き漢王の家族を捕えさせたので、家族はみな逃げ、漢王と会うことができなかった。漢王は道で孝恵(漢王の子、のちの孝恵帝)と魯元(漢王の女、のちの魯元公主)に会い、自分の車に載せた。楚の騎兵が追って来たので、漢王は危急になると孝恵・魯元を車の下に推し堕した。滕公はそのたびに拾いあげて車に載せ、このようにすること三度であった。  滕公は、「いくら危急で早く駆けることができないからとて、どうして棄てるわけにいこう」と言った。こうしてついに逃れることができた。太公(高祖の父)や呂后(妻の呂氏)を探したが会わなかった。審食其は太公と呂后に従い、微行して漢王を探すうち、逆に楚軍に出会った。楚軍は彼らを捕え、帰って項王に報告したところ、項王は常に彼らを軍中に置いた。  この時、呂后の兄の周呂侯(後に周呂侯になったが、この時はまだ封ぜられていなかった)が、漢のために兵を率いて下邑にいた。漢王はひそかにいって彼に従い、少しく士卒を収めて滎陽に行った。もろもろの敗軍がみなここに集まり、蕭何も関中に老弱者のまだ兵籍に入らない者をかり集めてみな滎陽に連れて来たので、漢軍はまた大いに振るった。楚王は彭城で勝つと勝ちに乗じて、逃げ廻る漢軍をたえず逐うていたが、漢軍と滎陽の南の京・索(滎陽の東および南の地方)の間に戦うと、このたびは漢軍が楚軍を破った。このため楚軍は滎陽を過ぎて西行することができなかった。一方、項王が彭城を回復すると、漢王を追うて滎陽に行ってしまったので、田横はふたたび斉の地を手中にし、田栄の子広を立てて斉王とした。  漢王が彭城で敗れると、諸侯はみなまた楚について漢にそむいた。漢は滎陽に陣し、甬道を築いて、これを黄河に連続し、敖倉(滎陽の西北、黄河に近く敖山の山上に城があり、秦はその中に倉を置いて敖倉といい穀物を貯えた)の粟を運んだ。漢の三年、項王はしばしば漢の甬道を侵し、漢軍は食糧が乏しくなった。漢では食糧の絶たれるのを恐れ、和睦を請うて滎陽以東を楚に割き、以西を漢の領土としようといった。項王はこれを許そうとしたが、歴陽侯范増は、「漢は与しやすいのです。いま滎陽以西の地をすてて取らなければ、あとでかならず悔いますぞ」と言った。  そこで項王は范増と急に滎陽を囲んだ。漢王は困窮のあげく陳平の策を用い、反間(間諜)を放って項王に范増を疑わせるようにした。項王の使者が来たので、大牢(牛羊豚の料理、第一等の馳走の意味)の用意をし、これを進めようとしながら、使者を見るとわざとびっくりしたふうをして、「わたしは亜父殿(范増)の使者だと思っていましたのに、項王の使者でしたか」と言い、料理を持ち去って別の下等な食事を項王の使者に食べさした。  使者が帰って項王に報告すると、項王は范増が漢と通じているものと疑い、すこしく范増の権限を取りあげた。范増は大いに怒って、「天下の事はもうあらかた定まった。この後は君主自身で画策せられるのがよい、わたしは骸骨を乞い一兵卒にしていただきましょう」と言った。  項王がこれを許すと、范増は項王のもとを去り、彭城に行く途中、背中に癰が出て死んだ。  漢の将紀信が、漢王に説いて言うよう、「事態は急です。わたくしが王に代わり楚をあざむいて漢王と称しますから、王にはひそかに囲みを脱け出られますように」と。  そこで漢王は夜、女子を滎陽の東門から出し、甲冑の兵二千人が従った。楚軍は四面から攻撃した。紀信は黄屋車(天子の車、黄絹で蔽いをしてある)に乗り、左側に大纛(大旗、犛牛の尾の飾りをつけてある)をつけて門を出ると、「城中の食糧が尽き、漢王が降るのである」と言わせた。楚軍はみな「万歳」を叫んだ。その間に漢王は数十騎の者と城の西門から出て成皋に逃げた。項王は紀信を見ると、「漢王はどこにおるか」と問うた。紀信が、「漢王はもはや城を出ました」と言うと、項王は紀信を焼き殺した。漢王は御史大夫の周苛や樅公・魏豹に滎陽を守らせた。周苛と樅公は、「反国の王(魏豹のこと。魏豹ははじめ項王に従って西魏王となったが、漢王が関中を平定して東すると漢王に帰順し、漢軍が彭城に敗れて滎陽に退くと、母を看病すると言って国に帰り漢にそむいた。その後、また漢に捕えられ滎陽を守るように命ぜられたのである。魏豹彭越列伝第三十参照)といっしょに城を守ることはできない」と言い、共謀して魏豹を殺した。  楚軍は滎陽城を降し、周苛を生捕りにした。項王が、「わしの将軍になれ。そうすれば公を上将軍とし、三万戸に封じよう」と言うと、周苛は、「おまえははやく漢に降らなきゃ、漢はそのうちおまえを虜にしよう。おまえは漢の敵じゃないのだ」とののしった。項王は怒って周苛を煮殺し、あわせて樅公を殺した。漢王は滎陽を出ると、南のほう宛・葉(河南の南陽と葉県)に逃げ、ここで九江王の布(黥布)を手に入れ、行くゆく兵を収めてふたたび引き返し、成皋を保った。  漢の四年、項王は兵を進めて成皋を囲んだ。漢王は逃げ出し、滕公とただ二人で成皋の北門を出、黄河を渡って修武(河南・獲嘉)に行き、張耳と韓信の軍に従った。諸将もようように成皋を脱出し、漢王に従うことができた。楚軍はついに成皋をおとしいれ、西のほうに進もうとした。漢王は兵を出して、これを鞏にふせぎ、その西行を止めた。この時、彭越は黄河を渡って楚軍を東阿に撃ち、楚の将軍薛公を殺した。項王は、そこで自ら東して彭越を撃とうとした。漢王は淮陰侯(韓信)の兵を得て、河南に渡ろうとしたが、鄭忠が諫めたので思い止まり、河内に防壁をつくり、劉賈に兵を率いて彭越をたすけさせ、楚軍の糧食を焼いた。  項王は海春侯大司馬曹咎らに、「謹んで成皋を守っておれ。漢が戦いを挑んで来ても、自重してけっして戦うな。漢軍を東のほうに来させないようにすれば、それでよいのだから。わしは十五日間でかならず彭越を殺し、梁の地を平定して、また将軍といっしょになろう」と言いわたし、東行して陳留(河南・陳留)・外黄(河南・杞県)を撃った。  外黄は抵抗して数日降らなかったので、降ると項王は怒って年十五以上の男子を、すべて城東に連れて来て穴埋めにしようとした。外黄の令の舎人の子供で年十三の者が項王のところに来て、「彭越は強軍をもって外黄をおびやかしたので、外黄の民は恐れ、一時彭越に降って大王の来られるのを待っていたのです。大王が来られて、また民をみな穴埋めにされるなら、百姓はどうして大王を頼りにする者がありましょう。外黄から東のほう梁の十余城の民もみな恐れて降る者がないでしょう」と言った。項王はなるほどと思い、穴埋めにしようとした一同の者を赦した。このため東のほう睢陽(河南・商丘)にいたるまでの各城は、これを聞いてみな争って項王に降った。  一方成皋のほうでは、漢ははたしてしばしば楚軍に戦いを挑んできた。楚軍は応戦しなかったが、漢は人をやって楚軍を侮辱すること五、六日、大司馬(曹咎)はついに怒って兵を城外に出し、汜水を渡った。士卒が半ば渡ると、漢はこれを撃って大いに楚軍を破り、ことごとく楚の財貨をとった。大司馬咎・塞王欣らはみな汜水のほとりで自らくびきって死んだ。大司馬咎はもと(安徽・宿県)の獄官であり、長史欣もまたもと櫟陽の獄吏であった。二人はかつて項梁を助けたことがあったので、項王に信任されたのである。  漢王はそこで兵を率いて黄河を渡り、また成皋を取って広武山(成皋の北)に陣し、敖倉の穀を軍糧とした。この時、項王は睢陽におり、海春侯(大司馬曹咎)の軍が敗れたと聞くと、すぐ兵を率いて還った。漢軍はちょうど鍾離を滎陽の東に囲んでいたが、項王が来ると漢軍は畏れて、みな険阻な広武山に逃げた。項王は漢軍と広武山に臨んで陣し、たがいに対峙した。この時、彭越はまた梁の地に叛し、楚軍の糧食を絶った。項王はこれをうれえ、高俎(高い机のような台、神に肉をすすめるときに用いる)をつくり、太公(さきに捕えた漢王の父)をその上に置き、漢王に告げて、「いますぐ降伏しなければ、太公を煮よう」と言った。  漢王は、「わしはおまえといっしょに北面して懐王の臣となり、兄弟の約束を結んだ。わしのおやじはすなわちおまえのおやじである。どうでもおまえのおやじを煮ようとなら、わしにその羹一椀を分けてほしい」と答えたので項王は怒り、太公を殺そうとすると項伯が、「天下の事は、まだどうなるかわからない。それに天下を取ろうという者は、家族のことなど考えるものではない。殺したって無益で、ただ禍いをますだけのことである」と言ったので止めた。  楚・漢両軍は長らく対峙したままで決戦せず、丁壮は軍陣にあって苦しみ、老弱は軍糧の運漕につかれた。項王は人を遣って漢王に、「天下の者が匈々として長らくおののいているのは、ただわれら両人がいるせいである。願わくは漢王と二人単身で戦い、どちらか雌雄を決して、いたずらに天下の民の父子を苦しめたくはない」と言った。  漢王は笑って、「わしはいっそ知恵を闘わそうと思う。腕力を闘わすのはごめんだ」とことわった。  項王は壮士に出て挑戦するように命じた。漢のほうに騎射に巧みな楼煩人(趙の西北辺の胡の国。国人は性質強悍で騎射を習い巧みな者が多い)があり、楚軍が挑戦して三度わたり合うと、楼煩は壮士が出てくるごとに射殺した。項王は大いに怒り、自ら甲冑を被り戟をとって挑戦した。楼煩が射ようとしたので、項王は目をいからして叱ると、楼煩は目は見ることができず、手は射ることができず、ついに逃げ還って城壁の中に入り、二度と出てこなかった。漢王が人をやってひそかに探らせると、それが項王であったので大いに驚いた。ここで項王は漢王と、広武山の谷間をへだて向かい合って話を交わした。漢王が項王を責めると、項王は怒って一戦しようと言ったが、漢王は聴かなかった。項王が強弓を伏せて射ると、漢王にあたり、漢王は傷ついて成皋に逃げ込んだ。  これよりさき、項王は淮陰侯がすでに河北を従え、斉・趙を破り、まさに楚を撃とうとしていると聞き、龍且をやってこれを撃たせた。淮陰侯は騎将灌嬰とともに、撃って大いに楚軍を破り龍且を殺した。そこで韓信は自立して斉王となった。項王は龍且の軍が敗れたと聞くと恐れ、盱眙(江蘇・盱眙)の人武渉を淮陰侯のところへ遣って和睦を説かせたが、淮陰侯は聴かなかった。この時、彭越がまた叛し、梁の地を降して楚軍の糧道を絶った。  この時、漢軍の勢いは盛んで軍糧が多かったのに、項王の兵はつかれて糧食が尽きた。漢王は陸賈をやって、項王に太公を還してほしいと言ったが、項王が聴かなかったので、さらに侯公をやって項王と談判し、「漢と約束して天下を二分し、鴻溝(河南・中牟)以西を漢の領土、鴻溝以東を楚の領地とする」ことを申し入れた。項王はこれをゆるし、漢王の父母妻子を帰したので、漢軍はみな「万歳」をとなえた。漢王は侯公を封じて平国君とした。(平国君は身をかくしてまた人に会おうとしなかった(この句は後から混入されたものか)。)人が「彼は天下の弁士で、行くところそこの国を傾ける」と言ったので、「傾国」と反対の「平国」君と号したのである。  項王は漢王と約束すると、兵を率い囲みを解いて東に帰った。漢王は西に帰ろうとしたが、張良と陳平が、「漢は天下の大半を保有し、諸侯もみな漢に味方していますのに、楚は兵がつかれ糧食が尽き果てています。これは天が楚を滅ぼそうとするのです。この飢えに乗じて天下を取るのが上策と思います。いま放置して撃たないのは、いわゆる虎を養って自ら禍根をのこすものでしょう」と言ったので、漢王はその説に従った。  漢の五年、漢王は項王を追撃して、陽夏(河南・太康)の南に行き軍を止めた。淮陰侯韓信・建成侯彭越と期日を約束して、いっしょに楚軍を撃つこととし固陵(河南・淮陽)に行ったが、信(韓信)・越(彭越)の軍が来なかった。楚軍は漢軍を撃って大いに破ったので、漢王はまた城壁の中に入り、塹濠を深くして守った。そして張子房(張良、子房は張良の字)に、「諸侯は約束を守らなかった。どうしたらよいだろう」と言った。  子房はこたえて、「楚軍がまさに敗れようとしていますのに、信・越にはまだ分与の封地がきまっていません。来ないのも無理からぬことです。君王には彼らと天下を分けることができたら、彼らは今すぐにもやって来ましょう。それができないなら、勝敗の決はどうなるかわかりません。君王には陳(陳州、今の河南・淮陽)から以東、海にいたるまでの地をすべて韓信に与え、睢陽から以北、穀城(山東・東阿)に至るまでの地を彭越に与え、それぞれ漢のために戦わせたら、楚軍は容易に破れます」と言った。  漢王は「よし、わかった」と言い、使者を出して韓信と彭越に、「協力して楚を撃て。楚が敗れたら、陳から以東、海にいたる間を斉王(韓信)に与え、睢陽から以北、穀城に至る地方を彭相国に与えよう」と告げた。  使者が着くと、韓信も彭越もともに、「今からすぐ兵を進めよう」と言った。韓信は斉からゆき、彭越は梁からゆき、劉賈の軍も寿春(安徽・寿県)から黥布を迎え、ともに撃って城父(安徽・亳の東南)を屠り、また大司馬周殷は楚にそむいて、舒(安徽・舒城)の衆を率いて六を屠り、九江(郡君、寿春を中心にした一帯の地方)の兵を挙げて劉賈と彭越に随い、みな垓下(安徽・霊壁)に会した。  項王の軍は垓下に防壁をつくったが、兵は少なく食はほとんど尽きはてていた。漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも囲んだ。夜、漢軍が四面から楚歌をうたうのを聞くと、項王は大いに驚き、「漢はもはや楚の地をみな取ったのか。なんと楚人の多いことか」と言った。そこで項王は夜中起きあがって、帳中で酒を飲んだ。美人があり、名を虞といい、いつも幸愛せられて項王に従っていた。また駿馬があり、名を騅といい、いつも項王の愛乗するところであった。項王は悲歌忼慨して自ら、 力は山を抜き 気は世を蓋うも 時に利あらず 騅逝かず 騅の逝かざるは 如何すべき 虞や虞や なんじを如何せん という詩をつくり(「時に利あらず」と「騅逝かず」の間に「威勢廃る。威勢廃れて」の句があったという説もある)、うたうこと数回、美人(虞姫)がこれに唱和した(楚漢春秋には美人が唱和した歌を、「漢兵すでに地を略し、四方楚歌の声、大王意気尽き、賤妾何んぞ生に聊んぜん」として挙げてある)。項王の頰には数行の涙が下った。左右の者もみな泣き、誰も顔をあげる者がなかった。  項王は馬に騎し、部下の壮士で騎従する者八百人、ただちに夜、囲みを破って南に出て駆け去った。夜あけに漢軍がこれを覚り、騎将の灌嬰に五千騎をもって追撃させた。項王が淮水を渡った時、なおよく項王につき随った者は百余人だけであった。項王が陰陵(安徽・定遠)まで来たとき道に迷ったので、一人の田父に問うと、田夫はあざむいて、「左のほうに行かれよ」と言った。左のほうに行くと大沢の中にはまった。このため漢の追撃軍が追いついた。  項王はまた兵を率いて東し、東城(安徽・定遠の東南)に行った。この時、従う者は二十八騎であったが、漢の追撃兵は数千人からあった。項王はとうてい脱出できないと見ると、従騎に、「わしは兵を起こして以来、今に八年である。みずから七十余戦し、当たるところの者は破り、撃つところの者は従え、いまだかつて敗れたことがなく、ついに天下を取った。しかも今ついにここに困窮するとは、天がわしを滅ぼすのであって戦いの罪ではない。今日はもとより死を決している。願わくは諸君のために決戦し、かならず三たび勝って、諸君のために囲みを破り、敵将を斬り敵旗を倒し、諸君に天がわしを滅ぼすのであって、戦いの罪ではないことを知らそう」と言い、従騎を分けて四隊とし、円陣になって四方にむかった。漢軍はこれを数重に囲んでいた。  項王は従騎に、「わしは公のために、かの一将を取ろう」と言い、四面の従騎に馳せ下って山東で会い、分かれて三カ所になることを約束した。そこで項王が大呼して馳せ下ると、漢軍はみな風になびく草のようにひれ伏し、ついに漢の一将を斬った。この時、楊喜(後に赤泉公となる)が騎将となって項王を追うた。項王は目をいからして叱すると、赤泉侯は人馬もろとも驚いて、辟易する(道をあとしざりする)こと数里。項王は従騎と会って三カ所に分かれ、漢軍は項王のありかがわからなかった。軍を分けて三つとし、また包囲すると、項王は駆け出して、また漢の一都尉を斬り、数十百人を殺した。項王がふたたび従騎を集めたところ、二騎をうしなっているだけであった。項王が従騎に、「どうだ」と言うと、従騎はみな身を伏して、「大王のおっしゃるとおりです」と言った。  ここで項王は東して烏江(安徽・烏江)から揚子江を渡ろうとした。烏江の亭長が船を用意して待ち、項王に、「江東は小さな土地ですが、なお方千里、衆数十万、王たるに十分な土地です。願わくは大王には急いでお渡りくだされい。いま船をもっているのはわたくしだけで、漢軍が来ても渡ることができないのです」と言った。  項王は笑って、「天がわしを滅ぼそうとするのに、わしはなんで独り渡ることができよう。そのうえわしははじめ江東の子弟八千人と江を渡って西したのに、今一人の還る者もないのだ。たとい江東の父兄が憐れんでわしを王にしようとも、わしはなんの面目があって彼らに会われよう。またたとい彼らが何も言わなくとも、わしはひとり自分の心に恥じないでおれようか」と言い、亭長に、「わしはきみが長者であることを知っている。わしはこの馬に騎ること五年であるが、向かうところ敵がなく、かつて一日に千里を走った。殺すに忍びないのできみに差しあげよう」と、従騎にみな馬を下りて歩行させ、短兵(短い武器)を持たせて敵と接戦した。籍(項王)ひとりで殺した漢軍だけでも数百人あり、項王自身もまた十余創をこうむった。漢の騎司馬の呂馬童を顧みて、「おまえはわしの昔なじみじゃないか」と言うと、馬童は向き直って見て、項王だったので、王翳に指して、「これが項王だ」と言った。項王は、「聞けば漢はわしの頭に千金と万戸の邑を懸けているそうだが、わしはおまえのために恵んでやろう」と言い自分でくびはねて死んだ。  王翳がその頭を取ると、他の騎は項王の屍を手に入れようと、たがいに踏みあって争い、数十人の死傷者さえ出た。最後に郎中騎楊喜・騎司馬呂馬童・郎中呂勝と楊武がおのおの一部を得、五人で合わして見たところ、みな項王の死体に相違なかった。それで万戸の邑を分けて五つとし、呂馬童を封じて中水侯、王翳を封じて杜衍侯、楊喜を封じて赤泉侯、楊武を封じて呉防侯、呂勝を封じて涅陽侯とした。  項王が死んでしまうと、楚の地はみな漢に降ったが、ただ魯だけが降らなかった。漢は天下の兵を率いて魯を伐とうとしたが、魯人は礼儀を守り、その主項王のために節義を守って死のうとしたので、項王の頭を持って魯人に示すと、魯の父兄ははじめて降った。  初め楚の懐王が、初めて項籍を封じて魯公としたのと、その死に及んでも魯がもっともあとに降ったので、漢王は魯公の礼をもって項王を穀城に葬った。漢王は項王のために喪を発し、葬式には涙を流して立ち去った。そして項氏の一族は誰も殺さず、項伯を封じて射陽侯とし、その他桃侯・平皋侯・玄武侯などいずれも項氏であったが、漢の姓劉氏を賜うた。  太史公言う。わたしは周生(漢代の儒者)から、「舜の目は重瞠子(二つ瞳)」であり、「項羽も重瞠子」であったと聞いた。羽はあるいは舜の苗裔ででもあろうか。それにしても、興ることのなんとすみやかだったことだろう。秦が政を失い、陳渉がはじめて兵を挙げると、豪傑蜂起して相ともに天下を争う者は、数えられぬほどであった。羽は尺寸の土地ももたず、勢いに乗じて壟畝(田野、民間の意味)の中から起こり、三年でついに五諸侯を率いて秦を滅ぼし、天下を分って王侯を封じ、政権をとって号して覇王といった。位を全うしなかったが、このようなことは近古以来いまだかつてないことである。しかし羽が関中形勝の地を捨てて楚(故郷の楚)をおもい、義帝を放逐して自立すると、王侯がおのれにそむいたのを恨んだが、これはあやまっている。自ら功伐(戦勝の功)をほこり、私智を振るっていにしえを師とせず、その為すところをもって覇王の業と信じ、力征をもって天下を経営しようとすること五年、ついにその国を滅ぼし、身を東城に歿しながら、なおおのれの非を覚らず自らを責めず、「天がわれを滅ぼすのであって、兵を用いるの罪ではない」としたのは何とあやまりではなかろうか。

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