2024年5月24日金曜日

筑摩書房 スペインを追われたユダヤ人 ─マラーノの足跡を訪ねて /

スペインを追われたユダヤ人 ――マラーノの足跡を訪ねて (ちくま学芸文庫) Kindle版 

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1492年、コロンブスが新大陸に第一歩をしるした年、カトリック・スペインは、800年間存続していたイスラム勢力を一掃するとともに、ユダヤ人の追放をも決定した。追放か改宗か。地中海を東へさまよう者、ポルトガルへ逃れる者。しかし、多数のユダヤ人は、みずから改宗の道を選ぶ。彼らは、「マラーノ」(豚)と蔑まれながら、異端審問の恐怖におびえ、迫害に耐えていった。そもそも固有の領土をもたないユダヤ人が、自己をも否認するという『二重の否定性』を身にまとうこと―この「マラーノ性」は、精神の奥深く刻印される。マラーノの足跡をたどり、マラーノ精神の体現者、スピノザ、マン、カネッティを語る、壮大な精神史の試み。

第1章 ユダヤ人の不安
第2章 ドイツのマラーノ
第3章 カバラ主義者の故郷ヘローナ
第4章 グラナダ一四九二年
第5章 火刑都市セビリヤ
第6章 コルドバの猶太人街
第7章 トレドの死の影のなかで
第8章 ポルトガル・マラーノの行方
第9章 棘族の末裔スピノザ
第10章 あるマラーノ研究者の運命
第11章 トーマス・マンの「マラーノ的」魅力
第12章 エリアス・カネッティ―ふたつの追放の言語をもつ作家


第九章 棘族の末裔スピノザ 「問題は、近代的な意味を生み出したマラーノ意識の強化である。」 (カール・ゲプハルト 『ウリエル・ダ・コスタ著作集』序文) 強化された後発者  オランダのアムステルダム・ユダヤ人社会の起源にまつわる話が、今日に伝えられている。それによれば、マヨル・ロドリゲス夫人というマラーノの女性が、一五九三年、家族とともに宗教裁判所の弾圧を逃れて、ポルトガルを船出し、途中英国の船員にとらえられてロンドンにやって来た。エリザベス女王の宮廷に仕える一貴族が、同夫人の、類稀な美貌の娘マリア・ヌネスに一目の恋におちいって、彼女に求婚した。噂を聞いたエリザベス女王は、この娘を一度見たいと望み、会ってたちまち彼女の美しさに心を捕らえられた。女王は御車のなかに彼女を招き入れ、一緒にロンドン市内を馬車で巡り、彼女の乗ってきた船と乗員全員を釈放するよう命じた。しかし、母娘は正式のユダヤ教徒にもどりたいというかねてからの希望断ち難く、折角の求婚も、親ユダヤ的な女王の申し出も一切謝絶し、英国での華やかさを後にしてアムステルダムに向かった。このユダヤ人亡命者が、ユダヤ教徒として公然と生活することのできる憧れの海港にたどり着いたのは、一五九七年のことであった(1)。  このエピソードによっても知られるように、ポルトガルのマラーノが誕生してからちょうど一〇〇年後に、最初のマラーノ難民が、家族単位でアムステルダムへやって来たのである。その際、大量移住は、スペインやポルトガルの官憲が目を光らせていたので、不可能であった。だが、それ以上に、大西洋の荒波を越え、まだ見ぬ遠国土へ向かう危険な船旅であることを考えれば、船艙をいっぱいにすることは絶対に避けなくてはならなかった。したがって最初は、こうした難民の移住も散発的で、数も少なかった。だが、世紀を越えると、このルートを使ってのマラーノ難民の亡命は、しだいにその数を増やしていった。  そして、一七世紀初頭、この港町の一角には、ユダヤ人共同体と、その平和と統一の象徴であるシナゴーグ「ヤコブの家」が正式につくられ、その後こうした共同体がオランダ統一州にある他の主要都市にも急速にひろがっていった。アムステルダムのセファルディは、人口も六〇〇〇人ないし八〇〇〇人にふくれあがり、ドイツ系アシュケナージにくらべ、富や社会的地位において、問題にならないほどの優位をこの地で占めていた。だが、マラーノたちがやっと落ち着くことができた当時のユダヤ人街は、外界に対して油断なく閉ざされていたものの、内部は他所からの流浪民が絶えず流れ込んで来て、とかく混乱を引き起こしがちな、騒然とした世界であった。  一六三九年、よりによってこのようなユダヤ人社会の真ん中へ、妻とともに移り住んだ非ユダヤ系の画家がいた。レンブラント・ファン・レインである。彼の新しいアトリエは、すでに廃物と化した中世全体がそこにあるいわば骨董品屋のなかに位置し、古代ガリラヤの街さながらの不可思議な雰囲気に取り囲まれることとなった。レンブラントの銅版画『シナゴーグ』(一六四八年)を見ただけでも、この画家がいかに足繁くシナゴーグに通い、同じ町内のユダヤ人と親しく交わっていたかが、うかがわれる。つまり、ここから、周りを取り巻く人物たちの姿、身振り、衣裳などを、旧約の世界に通じる異形のオブジェとして掘り起こすレンブラントの作業が、精力的に始まったのである。  このような作業から生み出された作品のひとつに、『ユダヤ人の花嫁』(一六六七年)として知られる絵がある。それは、古典的誠実さに影響された画家たちがついぞ到達し得なかった、一種の精神的光芒を放つ、旧約時代の豊かな夫婦愛を描いた傑作である。さらにレンブラントは、エフライム・ブエノのような高名な医者や、メナセ・ベン・イスラエルのような作家、あるいはその他周囲の貧しいユダヤ人や富めるユダヤ人を描いて、アムステルダムの「ポルトガル人」とその生活ぶりをリアルに今日に伝えたのである。  アムステル河とツヴァンネンブルフ運河が交差する、現在のワーテルロー広場の周囲に、アムステルダムのユダヤ人街があった。この広場の南側に、セファルディ系シナゴーグの建物が立っている。これは、一六七一年から七五年にかけて、エリアス・ボウマンの設計によって建てられたもので、現在なお完全な形で残っている(2)。  その内部に足を踏みいれれば、まず堂々たるイオニア式の支柱が目につく。これらの支柱が木製の見事な半円筒ヴォールトの身廊を、側廊から分けているのである。この側廊にはまた、小さな支柱のうえに婦人用別席が設けられている。さらにシナゴーグの内部でとりわけ人目を引くのは、赤っぽい黒びかりのブラジル産の木でつくられた中央の壇「ビーマー」と、トーラーの巻物を収納する聖櫃「アロン・ハコデシュ」である。このシナゴーグが、今日存在するバロック時代のシナゴーグ建築のなかで最大級のものであることは言うまでもない。だが、この絢爛豪華なシナゴーグは、その背後にひじょうに裕福なセファルディ系ユダヤ人の存在と、その連帯の強さを、したがってまた、個人の恣意的な言動を許さぬ正統派的厳格さをも同時にうかがわせるものであった。  自由な貿易都市アムステルダムは、一七世紀において、ユダヤ教学の一大中心地だったばかりでなく、主としてセファルディ系ユダヤ人による文学生活の独自の中心を形成していた。そうしたユダヤ系作家・思想家のなかで最も波乱に富んだ生涯を送ったのは、一五八五年オポルトのマラーノの家に生まれたウリエル・ダ・コスタである。  彼は家族とともに危険をおかしてポルトガルを脱出し、困難な船旅のすえアムステルダムに上陸した。信仰の自由を保証するこの町に着いてすぐ彼は、自分の祖先とは関係のないアシュケナージ系シナゴーグでユダヤ教に入信したが、やがてその旧套墨守ぶりと保守的傾向の強いユダヤ人集団に幻滅をいだくようになった。そこでダ・コスタは、『反伝統論』を執筆し、ユダヤ教の儀礼や律法に関する疑問点を数々列挙して現実のユダヤ教を批判したが、そうした挑戦的な態度のゆえに、一六一八年、第一回目の破門を宣告された。しかし、これによって態度が改まらなかったどころか、ついには魂の不死性を非難攻撃するなど、彼の主張はいっそうラジカルになっていった。  ここからその論敵として登場してくるのが、サムエル・ダ・シルヴァであった。彼はダ・コスタと同じオポルトに生まれ、アムステルダムで医者になり、晩年はハンブルクに行くという典型的なマラーノの道を歩んだ人物である。それが、マラーノの世俗性を徹底的に弁護する、かつての友人ウリエル・ダ・コスタの敵に回って、いまや彼を公然と「エピクロスの弟子」という言葉で非難するようになった。ちなみに、この「エピクロスの弟子」というのは、古代ギリシアの原子論者とは関係なく、儀礼や戒律を嘲笑するだけにとどまらず、神を悪しざまに罵り、安息日に大騒ぎをするといった、柄のよくない人間を指していたらしい(3)。  ユダヤ人共同体からは異端者として排撃され、かつての友人からは名指しで「無知蒙昧の輩」と罵倒されても、そのひとつひとつにつねに反撃して活発な言論活動をつづけたウリエル・ダ・コスタにも、シナゴーグから第二回目の破門を言いわたされた時、不意に失墜の時が訪れる。その後のダ・コスタは、新たに論争を挑む気力ももはやなく、四面楚歌の声を聞きながら、孤独で貧しい生活との戦いを七年間もつづける。そして、破門を解いてもらうために、彼はついにシナゴーグ共同体に屈服し、大きな辱めを伴う奇妙な儀礼を受ける決心をした。その儀礼とは、シナゴーグの隅で裸になって横たわり、手を柱に縛りつけられてから、脇腹を皮の鞭で三九回ぶたれ、あまつさえシナゴーグ会衆のひとりひとりに脚を踏まれるという残酷なお仕置きであった。一六四〇年四月のことである(4)。  こうして破門を解かれて家に帰ることを許されたこの五〇代半ばの男は、いまや生きる希望をすべて失い、暗く貧しい一室で、ピストル自殺を遂げたのである。同じ町内で起こったダ・コスタ事件の光景は、この時七歳だった少年スピノザのひときわ黒い目にも映っていたはずである。  それから一〇年経った一六五〇年三月のことである。レンブラントとも親しい、当代の名医にして自由思想家のヨハンネス・ファン・ローンの友人ジャン・ルイは、ある日の夕方、高名な律法学者メナセ・ベン・イスラエルをヨーデンブレー通りの家に訪ねた。行ってみれば、彼は数人の客にメシアの再来について熱弁をふるっているところだった。長い間待ち受けていたメシアの再来に備えようとの信念を実現するために、メナセ・ベン・イスラエルは、ユダヤ教徒の英国追放(一二九〇年)以来居住を認められていなかった英国へ、ユダヤ人を移住させようという計画に夢中になっていた。「正義の人クロムウェル」が、ユダヤ人とキリスト教徒との共存の可能性をはっきり示唆しているからというのである。  ちょうどその時だった。ひときわ目の黒い、一六歳か一七歳の少年が声を張り上げ、かなり冷淡な調子でこう言ったのである。「クロムウェルは、我々が民族としてもっていると思われる一種の商業上の能力を、それとなく感嘆しているかもしれないということを、先生はお考えになったことがありますか。」  すると師は、突然教え子をひどく叱りはじめた。「バルーフ、お前は第二のダ・コスタになって、お前自身の民族に背こうとするのか。お前は私に面と向かって、この高潔な英国人がただ黄金に対する卑しい欲望に動かされているに過ぎない、と言いたいのか。お前の顔なんか見たくない。」  しかし、バルーフというこの若者は、表情ひとつ変えずに、静かにこう答えるのだった。「いいえ先生、ぼくは気の毒なウリエルの後を追うつもりは少しもありません。ぼくは自殺を、この世界の整然とした秩序に対する犯罪と考えます。ぼくも先生と同じようにクロムウェル将軍を賞讃します。……数千のユダヤ人の商店がアムステルダムからロンドンへ移っても、目下のところ困ることはないでしょう。ぼくもクロムウェル閣下の帽子を飾る羽根にでもなりたいと思います。(5)」  その時、ジャン・ルイは少年の言葉をさえぎって、「あんな善良な清教徒が、羽根飾りをつけるような卑しいことをするとは思わない」と言った。すると少年は、ちらっとジャン・ルイに目を向けて、こう続けるのだった。「ぼくの言った彼の帽子というのは、ひとつの比喩なのです。この家ではいつも、先生がぼくたちの言うことを認めてくださらない時には、比喩を使って話をします。」  当代の名士たちを翻弄して平然としている、このひときわ目の黒い怪童こそ、バルーフ・デ・スピノザであった。  一六〇四年ポルトガルに生まれたメナセ・ベン・イスラエルは、子供の頃両親とともに、異端審問の拷問を逃れてアムステルダムにやって来たマラーノだった。若くしてラビになった彼は、メシア到来とイスラエルの苦難からの解放を待ち望む、熱心なルリア派カバラ主義者であった。メナセは、キリストの再臨と千年王国を期待する英国清教徒と、メシア到来を熱望するアムステルダムのカバラ的社会を繫ぐ人物として、宗教史の一段階に特異な位置を占めている。  メシア到来を最終目標とした、このようなメナセ・ベン・イスラエルのマラーノ意識の根底には、追放生活とはシナゴーグ共同体の平和と統一によって営まれるべきものであり、さらに非ユダヤ系社会との経済的・政治的協調による前進的な過程である、という独自の考え方があった。若き後発者スピノザは、その自在な比喩によって、先行者たる師を批判し、ユダヤ的な伝統と政治的な野心の仮面を剝ぎ、これを脱理想化してしまうのである。その意味でスピノザは、ユダヤ教への反逆者ウリエル・ダ・コスタに近いと言える。世界の意味を神のなかにではなく、世界そのもののなかに見出そうとする志向において、したがってまた同胞からさえ嫌疑と迫害を受けざるを得ないその異端思想において、ダ・コスタとスピノザの強いマラーノ意識は、すでに近代的な知性の領域に向かって脱皮しようとしていた。  だが、追放生活の帰結を自殺にもとめたウリエル・ダ・コスタを否定したスピノザは、それではどのようにして彼自身のマラーノ意識を強化して、純粋な知の領域へ抜け出すことができたであろうか。 レンズ  一六五一年のある日のこと、七年間滞在していたかつてのニューヨーク、ニューアムステルダムからようやく帰って来た医師ファン・ローンは、友人ジャン・ルイとともにメナセ・ベン・イスラエルを訪ねた。この時、メナセは、ユダヤ教徒社会の責任者としての立場から、ユダヤ人共同体のなかから高まってきた多くの苦難についてふたりに語った。その苦難とは、主としてセファルディとアシュケナージの宗教上の紛争、それを背景にしてのダ・コスタ事件、そうした事態への市当局の警告などであった。彼の努力でそれまで事なきを得ていたユダヤ人社会は、しばらく和解の時代がつづいていたが、今また新しい困難が持ち上がろうとしている、というのであった。しかも、それはまったくスピノザのせいだというのである。  彼はこうつづける。「ところがこの若いバルーフは、ひじょうに好ましい青年で、おまけに咲きたてのデージーのように輝いています。私は平和を守るためにできるだけのことをしました。今までのところはうまく行きました。しかし、私の同僚がスピノザの喉に飛びつくのを、もはや私にはとめられない日がやってくるでしょう。(6)」  それから四年後の一六五五年に、メナセ・ベン・イスラエルは、ユダヤ教徒の英国居住の可能性を探るようクロムウェルの招待を受け、ロンドンに向かって出発した。その一年後にアムステルダムのユダヤ人街に起こったことは、レンブラント描くところの律法師メナセ・ベン・イスラエルの、あの朦朧とした穏やかな目が事態を正確に見ぬいていたことを、後から立証してゆくことになったのである。  オランダ一七世紀哲学史のなかでただひとり世界的名声を博したバルーフ・デ・スピノザは、一六三二年一一月二四日、アムステルダムのユダヤ人街に、ポルトガル・マラーノの出である父ミカエルの長男として生まれた。バルーフは一六三七年に設立された生命樹学院に入り、ついで一六四四年、彼の師でもあったサウル・レヴィ・モルテイラの設立になる律法学院に入学した。こうして彼は、徹底したヘブライ語教育を受けると同時に、聖書のみならず、タルムードやユダヤ教神秘主義「カバラ」などの知識を深め、学校を出てからは家業を手伝うかたわら、独力で旧約聖書の注釈家やユダヤ中世の哲学者について学んでいった。その頃、つまりファン・ローンがアメリカから帰って来た一六五〇年頃、「咲きたてのデージー」は、ユダヤ人共同体にとっては「鋭い棘」にほかならない薔薇に変身していたのである。  メナセ・ベン・イスラエルが青年スピノザのうちに正確に見ぬいていたのは、彼の、新しい知性に「魅惑」される傾向と、既成の枠組みにはおさまらない彼を「追放」しようとする共同体の「正統」意識との、ふたつの力だった。この《bannen》というドイツ語の動詞は、「呪縛する」「魅惑する」「破門する」「追放する」といったある強い力の出現を表している。「呪縛」「魅了」という求心的作用と、「破門」「追放」という排斥的作用が、スピノザという個人のうちに、と同時に彼をめぐって起こった時、宗教的なふたつ裂きを背負ったマラーノの意識は歴史のなかではじめて近代的な意味をおびてくるのである。  スピノザは二〇歳にもならぬ頃から、魂や自然、人間の自由や神の律法などについて省察していた一一世紀スペインのユダヤ系神秘思想家イブン・ガビロールなどの影響を受けながら、同時代の哲学者ルネ・デカルトに「魅惑」されていた。つまり、精神世界と物質世界を鋭く分離したデカルト哲学が、懐疑にはじまり無神論に終わるとしてオランダの大学での教授が禁止されていった時代に、スピノザはデカルトの新しい光輝ある哲学に「魅惑」されていたのである。  他方その頃、この「魅惑された」者を「追放しようとする」側の社会的な、あるいは精神的な状況はどのようであったろうか。一六世紀から一七世紀にかけてのアムステルダムは、世界貿易の交点として、西ヨーロッパ最大の豊かで活発な都市に発展していた。その自由な政治形態、世界規模の海運業やダイヤモンド貿易の隆盛、商業・金融業の繁栄がもたらした金の呪縛のなかで、亡命マラーノたちはすでにある決定的なものを見失っていた。それはすなわち、精神の解放をめぐる内的闘争である。アムステルダムのマラーノはもっぱら商売と経済上の出世だけを志向していたので、内的・精神的な闘争はマラーノの傍らをなんの痕跡も残さずに通り過ぎて行ったのである。  拝金主義に走っているユダヤ人共同体にも、権威主義に堕したシナゴーグにも、もはやまったく魅力を感じなくなっていたスピノザが、新しいデカルトの哲学やコレギアント派の自由に心を惹かれていったのは、けだし当然の成り行きであった。しかし、この若きタルムード学者が自由に振舞い、自由に発言すればするほど、メナセ・ベン・イスラエルが恐れていたように、共同体のユダヤ人がスピノザの喉元に飛びついてゆくのは、もう時間の問題だった。  そんな状態のなかで、ユダヤ人社会全体をひとりで敵に回そうとするかのように、じつはスピノザ自身が破門を招き寄せたふしがある。何度か警告を繰り返した後、スピノザを破門で脅かしはじめた律法師サウル・レヴィ・モルテイラに、彼はいかにも感謝の意を表するといった口調で、「私にヘブライ語をお教えくださった先生のお骨折りに報いるため、先生に破門の方法をお教えしましょう」と言ったという(7)。  スピノザのこうした言葉に激怒した律法学者たちは、それ以外にはもう方法がないかのように、彼を「小破門」からしだいに「大破門」へと追いこんでゆく。そして、ついに一六五六年七月二七日、アムステルダムのセファルディ系ユダヤ人は、二三歳の青年スピノザを、自分たちの共同体から永久追放するために、彼らのシナゴーグへ集まって来た。そのシナゴーグは、隠れユダヤ教徒迫害の嵐が吹き荒れていたイベリア半島から、この寛容な商業都市に亡命して来た最初の難民たちの、平和と統一の象徴として一七世紀初頭に完成されたあの「ヤコブの家」である。そこで、主の怒りがあたかも天からくだされたかのような声を張り上げ、律法師イサク・デ・フォンセカ・アボアヴは、破門の呪詛の言葉を読み上げた。  「……律法に記されたあらゆる呪いをもって、我々はバルーフ・デ・スピノザを破門し、追放し、処罰せん。彼は昼も夜も呪われてあれ。寝ている時もまた起きている時も呪われてあれ。外に出る時も家に入る時も呪われてあれ。主は断じて彼を赦したまわざらんことを。(8)」  この日スピノザは、シナゴーグに行かなかったので、中世以来の形式にしたがった大破門の判決を直接聞いたわけではなかった。だが、この破門によってスピノザは、彼がそれまで所属していた社会構造から、宗教的・文化的な枠組みはもちろん、経済的・日常的な人間関係のあらゆる枠組みから、永久に分離させられたのである。  このようにユダヤ教から離脱して、「バルーフ」というヘブライ語の名前をラテン語の「ベネディークトゥス」という名前に変更したスピノザには、もはやユダヤ人の知人も親族も肉親もなく、父親の遺産の相続権さえなかった。彼に残されたものといえば、わずかにベッドとカーテンだけだった。  つまり、ここまで自分を追いつめたスピノザのマラーノ意識の根底には、追放を徹底的に離脱・籠居・収縮としてとらえようとする思考が働いていたのであった。このような「無」の状態において、ウリエル・ダ・コスタに残された唯一の道は、ピストル自殺だった。しかし、自殺を「この世界の整然とした秩序に対する犯罪」として否定するスピノザには、どのような道がひらけてくるのであろうか。  破門からおよそ一カ月が過ぎた、一六五六年八月も最後の週のある夕方のことだった。見渡す限りの青空に白熱の太陽がいつまでも輝く頃であった。ハウトフラフト通りの自宅の玄関に腰をおろし、人の心を誘う夕方の長くつづく薄明りのなかで、医師ファン・ローンは息子ととりとめのない話をしていた。その時、彼は突然スピノザの訪問を受けたのである。明らかに戸惑いを隠せぬスピノザは、屋根裏部屋で何かのはずみに負った右肩の傷を診て欲しい、というのであった。そんな苦しい噓の言い訳をした後で、彼は暴漢に短刀で刺されたことを素直に白状した。ファン・ローンが診察室に連れて行って、短刀には毒が塗られていたかもしれないと怯えているスピノザの外套をぬがせ、シャツをひろげてみると、右肩の皮膚がちょっと擦り切れているだけで、血は出ていなかった。それでも大事をとって、医者は傷口を焼き金で焼いてから包帯をしてやった。そして、スピノザに上着を着せてやると、彼は右肩の部分が裂けている外套を拾い上げた。  「私はこの外套を、我が民族の記念としてとっておくつもりです。」こう言ったかと思うと、「ぶりかえしがはじまり、彼は顔色も青ざめ、かすかに震えだした」と、ファン・ローンは記している(9)。つい数十年前まで異端審問所の追っ手の影に怯えていたはずのマラーノが、この平和な異邦の避難所で、しかも違った意見をもっているというだけで、マラーノ同胞を計画的に襲ったのだ。  ひとまず身の安全をはかるために、スピノザは船で故郷の町を去って行った。この時、医師ファン・ローンとその他数人の護衛兵が、帽子を振り、心から万歳を叫んで、彼を見送った。それが、あの限りなく慎み深い青年の、新たな自由への出発であった。  その後の二〇年にわたる亡命の旅から、ひとりの人間の比類なく清廉な人生と不朽の思考が輝きだしてくるだろう。そしてこの時すでに、明哲なスピノザの眼は、破門と追放こそが哲学者として聖別されるための方法序説になることを、読み取っていたにちがいない。だから彼は、当面働くことと、愉快に暮らすことと、哲学を研究することを望んでいます、と医師ファン・ローンに語ったのである。こうしたスピノザの破門と追放の回想を、自由思想家ファン・ローンはつぎのような簡潔な言葉でしめくくっている。  「奇妙な信条ではあるが、しかし、決して悪くなかった。(10)」  市の南方一〇キロのところにあるアウデルケルクは、死んだマラーノが、ヨーデンブレー通りからアムステルダムの堤を下って運ばれてゆく、最も古い墓地のある町である。スピノザの実母も姉も、継母も異母弟も、そして彼の父親もアウデルケルクに運ばれ、そこのポルトガル系ユダヤ人墓地に葬られていた。マラーノ共同体から追放されながら、しかしマラーノの末裔として生きるしかないスピノザは、このアウデルケルクへの道をたどりながら、昔のユダヤ人教師の掟と忠告をまだ十分に心得ていたのである。  『スピノザの生涯』の著者コレルスは、手仕事ということについて、タルムードのミシュナーの一書ピルケ・アヴォトからつぎのような言葉を引いている。  「律法の研究はそれにある技術が伴う時は美しい。ふたつに精励することは罪を忘れさせる……(11)」  スピノザはこのタルムードの教えに従うというよりも、これを自分の新しい生活のなかへ取りこもうと、かねてから考えていたように思われるのだ。とすれば、スピノザの技術習得は、コレルスの主張するような自活のためというよりは、むしろ哲学研究への、いっそうの精励のためであったにちがいない。律法ではないにしても、哲学という新しい知見の研究のためにこそ、スピノザは眼鏡、顕微鏡、そして望遠鏡用の光学レンズの研磨の手仕事を習いはじめたのである。  したがって、この手仕事には、ただ生活の糧を得るために、微小な粉末に悩まされながら、ダイヤモンド工具で少しずつ粗削りする研磨職人の暗いイメージはない。それどころか、哲学者デカルトや、当時のオランダ随一の自然科学者クリスチャン・ホイヘンス、あるいはアムステルダムの学者市長フッデと同様、彼はこの面でも生来の器用さと物理学・数学の並々ならぬ知識によって、「すぐれた光学者(12)」と称されるまでになったのである。  こうして、より確実な悪を「唯一の真正な善との合一」のために捨て去ろうとした者の哲学的思考に、啓蒙という新しい知の結晶ともいうべきレンズが、存在を主張しはじめるのである。それは、肉眼では見えなかった微小な異界を拡大明示するとともに、宇宙の夜に瞬く神秘な異界の姿を視界のなかにはっきり映し出す道具として、すでに中世の暗黒を突き破って、近代の啓蒙に最長のレールを敷くものではなかったろうか。  こうして、スペインにマラーノが発生してから二六五年を経てはじめて、しかもマラーノ自身によるマラーノ破門を契機に、マラーノの最も透明な知性の輝きが、いまだ暗く混沌としたヨーロッパの地平をも照らすことになったのである。そして、この知性の輝きを近代啓蒙の意識というなら、この意識を生み出したマラーノ意識は、メナセ・ベン・イスラエルのすぐれた後発者スピノザにおいて、比類のない強度を獲得したのである。 薔薇の印章  スピノザが商人から哲学者へ歩み出した一六五〇年代前半は、暗い宗教戦争がようやく終結を迎え、薔薇十字の啓蒙運動が新しい発展を模索していた時代であった。破門後のスピノザには、そうした薔薇十字運動を推進しようとする人々との新しい交友関係がはじまる。自由を求めるその「知」の動きと、スピノザがいかなるかかわりをもっていたのだろうか。  薔薇十字運動というのは、ワールブルク派の女流歴史家フランセス・イエイツによれば(13)、一七世紀初頭のドイツに起こった「世界全体の全面的な改革の夢」にほかならなかった。この夢は、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世と、英国のジェームズ一世の娘エリザベス・スチュアートの、ハイデルベルク宮殿で行なわれた華燭の典(一六一三年二月)に端を発する。フリードリヒ五世に代表される反カトリックのプファルツ王国と、強力な反カトリック国である英国を結びつけるこの婚姻には、教皇庁ローマと神聖ローマ帝国ウィーンのカトリック支配から脱し、政治的独立と宗教的自由とを享受する新しい友愛の世界建設の夢が託されていた。  一六一九年から一六二〇年の冬にかけて、国王フリードリヒと王妃エリザベスは、プラハの故ルドルフ二世の宮殿に君臨した。だが、それもつかの間、カトリック連合軍の猛烈な攻撃に遭ったフリードリヒの軍勢は、頼りにしていたジェームズ一世の支援もないまま、プラハ近郊の白山の戦いで決定的な敗北を喫したのであった。こうして、プファルツと ボヘミア両国の支配権を同時に失ったフリードリヒとエリザベスは、「ボヘミアの冬の国王・冬の王妃」と綽名され、尾羽打ち枯らして、オランダのハーグへ亡命して行く。  こうして新旧の争いが端緒を開いた三〇年戦争のはじまりとともに、薔薇十字運動の夢は、とつぜんの終焉を見るにいたり、こうしてローマ=ウィーン体制の確立に道を譲らざるを得なかったのである。  薔薇十字宣言が出はじめ、それが巻き起こした騒動の時代は、魔女狩りと戦争の激動へと突入し、やがて啓蒙主義に向かって脱皮してゆく恐怖時代にあたっていた。学問の進歩をもとめる人々の頭上には、それを敵視する恐るべき魔女ヒステリーの暗雲が垂れこめていた。こうした状況のなかで、しかし薔薇十字運動は完全に息の根を止められたわけではなかった。オックスフォードの科学者を中心に、危険な魔術との烙印を押されかねない数学から慎重に身を引き離しながら、『学問の進歩』(一六二〇年)のフランシス・ベーコンを師とする薔薇十字思想再興の運動が進められていた。こうして、一六六〇年ロンドンに、チャールズ二世を後ろ楯にして、「英国学士院」が創設されたのである。  話は少し遡るが、一六四四年、オランダの大学町ライデンから西方へ海に通じる街道すじの小さな村エンデヘーストにやって来て、ここに居をさだめたフランスの哲学者がいた。ルネ・デカルトである。彼は、一六一九年、折しも世の人々を興奮の坩堝におとしいれた薔薇十字団のニュースに接して、好奇心に駆られ、オランダからドイツへ、さらにボヘミアへ旅をしたほどの自由思想家であった。しかし、このきわめて薔薇十字色の濃い旅から帰ったパリで、危うく薔薇十字団員の疑いをかけられそうになったデカルトは、平穏無事な、人目を避けた生活を送るため、再びオランダへ逃れ、それから十数年後にエンデヘーストにやって来たのであった。そして、この地からデカルトは、ハーグで亡命生活を送っていた彼の熱烈な愛読者プファルツ侯女エリザベスに、新著『哲学原理』を献上する。  それから五年後の一六四九年に三〇年戦争がようやく終結し、ボヘミアの「冬の国王」フリードリヒ五世の長男カール・ルートヴィヒが、プファルツ王国に復権を果たす。プファルツへ移住してはどうかという侯女エリザベスの提案を断ったデカルトは、哲学の講義のためスウェーデンに向かい、一六五〇年二月その地で客死した。こうしたデカルトの生の歩みをたどってみれば、この哲学者が、薔薇十字運動とその中心舞台であるプファルツといかに密接に結ばれていたかが分かる(14)。  ところで、ユダヤ人共同体から離脱した後のスピノザが目指したのは、国家と宗教にとって最も危険な人物であるデカルトと、その叙述のまぶしいほどの明晰さであった。だからこそスピノザは、アウデルケルクを去った後、デカルトが薔薇十字運動揺籃の地プファルツを指呼の間にのぞみながら『哲学原理』を書いたあのエンデヘーストに近いレインスブルフに、居を構えたにちがいないのだ。あたかもそれを自ら証明するかのように、自分のフルネームで出版したスピノザ唯一の著作『デカルトの哲学原理』は、このレインスブルフで出来上がるのである。  一六六一年、当時まだ無名の哲学者スピノザを隠棲の地に訪ねた旅人がいた。名をハインリヒ・オルデンブルクというこのブレーメン出身の男は、ドイツおよびオランダを旅してライデンへ赴いた際、近くに住むスピノザの寓居に立ち寄ったのである。この四〇男が、じつは、不可視の薔薇十字運動のひそかな発展形態とされる「英国学士院」の初代書記官だった(15)。  それにしても、なぜオルデンブルクはスピノザを知っていたのか。この点についてはさだかではないが、あるいは一六五五年以後、ユダヤ人の英国居住権獲得のためクロムウェルとの折衝にあたっていた、スピノザの師メナセ・ベン・イスラエルの紹介によるものだったかもしれない(16)。いずれにしても、カルヴァン派の異端コレギアント派の集結するこのレインスブルフでの、新しい学問をめぐる議論において、スピノザのマラーノ意識は、近代的意識に生まれ変わってゆく決定的な機縁を見出すのである。  この時、スピノザは明らかに英国学士院とその書記官に魅せられ、いつもの控え目な態度も忘れて、自分の汎神論的な神やその属性、精神と身体との関係、そしてとくに薔薇十字思想に深いかかわりをもつデカルトとベーコンの哲学について、忌憚のない考えを述べた。オルデンブルクのほうも、人好きのする率直なスピノザに好感をいだき、二、三の往復書簡の後で早くも、あの「目に見えない学院」で自然科学を学んだという化学者ボイルとスピノザとの、硝石再生の実験に関する論争を仲介している。なぜオルデンブルクがこうした問題に話題を限定したかといえば、魔女裁判がまだ完全に過去の遺物ではなかった時代に、宗教問題よりも、ただ科学上の無難な問題を扱うほうが、異端審問の目をかわすための賢明な予防策だったという事情があったのだろう。いずれにしても、今や「最もすぐれた友よ」とつぎのように語りかけてくるオルデンブルクの手紙に、スピノザは、新たな薔薇十字啓蒙運動の虹を見たにちがいないのだ。  「あまりにも長い間世の人々は、無知と蒙昧に犠牲をささげてきました。我々は真の科学の帆を張り、そして自然の秘密のなかへ今までよりもいっそう深く入ってゆきましょう。(17)」  さらにレインスブルフ時代のスピノザの新しい友人のなかでとくに興味深いのは、アムステルダムの医師ヨハネス・バウメーステルである。彼はスピノザの熱心な崇拝者であり、『デカルトの哲学原理』の刊行に献辞を寄せた自由思想家であった。ある時、二、三度隔日熱に苦しんだスピノザは、この友人に「紅薔薇の砂糖漬け」を強請ったことがある(18)。この「紅薔薇の砂糖漬け」は、当時肺のカタル症状によく効くとされていたのである。コレルスが『スピノザの生涯』のなかで、スピノザは「二〇年間も肺を病んでいた」と述べているように、破門から間もない一六五七年頃にはすでに肺結核の症状が現れていたらしい。したがって、父親に代表される金と名誉と性的快楽の外的世界を去って、ひとり内省と孤独、質素と性的節制の世界に向かった時、スピノザは、肺結核で若死にした実母ハンナ・デボーラの世界に入って行ったとも言える。  このようなスピノザにとって、「血のような深紅」を意味する紅薔薇は、肺結核という死の十字架に対立する生命力の根源的な象徴であった。だが、「紅薔薇の砂糖漬け」の奇妙な処方について書いた、彼の友人で医師のアドリアン・クールバッハの著書『花園』(一六八八年)は、徹底してスピノザ主義を代弁する外来語辞典といった性格のものだったから、この「紅薔薇」にしてからがすでに異端の匂いを強く放っていたのである。  異端思想家としてユダヤ人共同体から破門された身であってみれば、新しい学問の旗手たちとの論争や文通の開始を、スピノザはかならずしも手放しで喜んではおられなかった。マラーノがピレネーの向こうで激しい迫害を受けていた時代に、こちら側の国でも苛酷な思想弾圧があったことを、彼は知っていたからである。大衆あるいは教権には理解できない理想を体現している人々は、進歩的な理想主義者の真偽をふるいわける理性の力をもたない権力者の迫害に直面しなくてはならなかった。サヴォナローラはフィレンツェの広場で火刑に処せられ、ガリレオは宗教裁判所の前に跪いて地動説を破棄させられた。汎神論者ジョルダーノ・ブルーノは、異端審問所によりローマの花の広場で火刑に処せられ、フランシス・ベーコンはヴェルラム男爵という世を忍ぶ仮の姿に身を隠して、迫害を逃れなくてはならなかった。またルネ・デカルトは不可視の薔薇十字団員であるとの噂に身の危険を感じないわけにはゆかなかったし、その哲学は大学で講義することを禁じられた。  こうした自由思想家への弾圧の波は、ついにスピノザの知友範囲にもおよぶようになった。つまり、英国学士院書記官オルデンブルクが、外国との秘密通信の嫌疑をかけられて逮捕され、ロンドン塔に幽閉されたのだった(19)。スピノザをレインスブルフに訪ね、書簡の往復をはじめてから六年後の、一六六七年のことである。多くの者には、学問の進歩、とりわけ「哲学する」ということ自体が、天使のような希望に満ちあふれたものではなく、むしろ悪魔のような危険にあふれたものに見えていた。ハーグ時代のスピノザの弟子であった「自由思想家にして薔薇十字団員(20)」のルカスも言うように、異端の哲学者スピノザについて、あるいは彼の肩をもって書こうと思う時には、「犯罪でも行なうかのように、注意深く身を隠し、慎重な態度をとらなくてはならぬ(21)」時代であった。このような時代状況において、棘族の裔スピノザは、学問の進歩を奉ずる友人たちにどのような声を発していたのだろうか。  《Caute !》(「用心せよ!」)これが、哲学者スピノザの発した声である。したがって、新しい学問の推進者のひとりが目の前に現れて以来、スピノザは彼のイニシャルであるB・D・Sと《Caute》を結ぶ不可視の十字のうえに、鋭い棘のある薔薇のエンブレムを、自分の手紙を結ぶ印章として用いるのである(22)。  ちなみに、スピノザ一族の遙かな先祖は、その名からして分かるように、多分カンタブリ ア山脈の麓にある北スペインの町、エスピノザ・デ・レス・モンテロス(Espinosa de res Monteros)の出身である。Espinosa とは棘の地・棘の町の謂であって、「棘の(espina)」にあたる d' Espinosa は、だからまず棘町の住人ということだろう(23)。そして、右の「用心せよ!」という警告は、スペインからポルトガルへ、さらにはアムステルダムへと移住して来たマラーノたちの、異端審問や、どこで目を光らせているかもしれない密告者に対する、警戒の声のように聞こえる。だが、それ以上のものがここに含まれていないか。  薔薇と《Caute》これは、薔薇十字啓蒙運動と学問の進歩に向かってつねに襲いかかろうとする、魔女狩り熱に対するスピノザの警戒をしめすものではなかったか、というのが私をとらえてはなさない蠱惑的な歴史幻想である。  精神と自然との合一という心理探究の努力に自分の生を合わせようとしたスピノザの解放の哲学は、必然的に恐怖と服従という中世的な関係からの自由をふくんでいた。したがってスピノザが、ヘルメス的・カバラ的な神秘主義の伝統のうえに学問の進歩と自由をもとめる薔薇十字運動に、ある種の興味をそそられていたであろうことは、十分に考えられる。さらに、この啓蒙運動の重要な側面、あらゆる宗派を越えた学問と霊知の友愛団という理念が、ユダヤのノマドたるスピノザの心をとらえていたにちがいない。そうしたなかで一六六五年、スピノザが『神学・政治論』と取り組んだ時、自由思想に基づく彼の言説が、とりわけカルヴァン派や保守的な神学者たちを敵に回すことになるのは、火を見るよりも明らかであった。  そんな折も折、スピノザが「用心せよ!」の警告を送っていた友人のひとり、医師アドリアン・クールバッハが、あの肺結核の霊薬「紅薔薇の砂糖漬け」について解説した異端の書『花園』を、大胆にもオランダ語で出版し、正統派の憤激を買ってアムステルダムを去った。ことはしかし、それだけではすまなかった。この自由思想家が、これまたスピノザ色の強い書物『闇を照らす光』を刊行して告訴され、有罪の判決を受けて一六六九年に獄死した時(24)、スピノザは《Caute !》の警告をいよいよわが身へ真剣に向けざるを得なくなった。こうして彼は、『神学・政治論』を匿名で、しかも発行所をハンブルクに変えて出版したのであった。その際、住所をフォールブルフから、保護者ヤン・デ・ウィットのいるハーグに移すほど、用心深い措置をとってはいた。  一七世紀前半のハーグでは、ひとりの画家が薔薇十字団員として拷問・投獄され、英国のチャールズ一世の介入により釈放されたが、一七世紀後半のハーグの宗教的・政治的状況はもっと危険な雰囲気をはらんでいた。そうしたハーグへ、一六七〇年のスピノザは引きつけられるように転居して行った。それに呼応するようにして、『神学・政治論』第一版が刊行される。そして、これに対する反撃の狼煙が、まずドイツのいく人かの神学者によってあげられ、間もなく本国オランダにおいても問題となって、たちまち轟々たる論難の嵐が巻き起こってきた。だが、それにもかかわらず、ヤン・デ・ウィットが国家権力を掌握している間、思想弾圧の波が「有害な書物」の著者にまでおよぶことはなかった。事態は緊迫していたが、カルヴァン派と議会派の均衡状態は、ずっとそのまま持続してゆきそうに思われた。  その均衡を破ったのは、一二万の兵を擁したフランス軍のオランダ侵攻であった。それによって、オラニエ派およびカルヴァン派の僧侶たちに使嗾された民衆の間から、それまで軍備にあまり力を入れてこなかったウィットに対する批判が一挙に高まってきた。その時、スピノザが見たものは、誰もまだ民衆のなかに見たことのない恐るべき憎悪の爆発だった。一六七二年八月二〇日、ヤン・デ・ウィットは、オラニエ公殺害陰謀の廉でハーグの牢獄につながれていた兄コルネリスを訪ね、聖書を読んで聞かせていた。その時、突然民衆が侵入して来て、ふたりを路上にひきずり出し、野獣でも殺すように虐殺したのだった。人間というものが何をなしうるかを他の誰よりも知っていたスピノザは、この醜悪で残酷な光景を眺めて戦慄しないわけにはゆかなかった。  ゲーテが、彼自身の思索全体を満たすほどの「限りなく無私の精神(25)」を見出した書物『エチカ』は、じつはスピノザ自身への絶え間ない迫害や中傷と、こうした新しい群衆の狂気というデモーニッシュなものを背景に書き進められたものだった。かつて外科医ファン・ローンに言ったように、手仕事をすること、愉快に暮らすこと、そして哲学することをひたすら望んでいたスピノザは、間もなく事件の衝撃から立ち直って、レンズ磨きと主著に向かったのである。  一六七五年の半ばにスピノザは、完成した『エチカ』を出版するため、久しぶりに故郷の町アムステルダムへ帰ったが、『神学・政治論』の異端著者に対する悪意に満ちた噂のため、ここでも出版計画を断念しなくてはならなかった。アムステルダム滞在ちゅうの八月二日、新築成ったポルトガル系シナゴーグの落成式が盛大に執り行なわれていた(26)。おそらくスピノザは、マラーノの末裔としての深い感慨をもって、遠くからその祝賀の模様を眺めていたことだろう。この時、畢生の作品を完成していた「祝福された者」スピノザと、バロック最大のシナゴーグの完成を寿ぐマラーノたちとの距離は、明らかに、このユダヤ人集団が破門追放した真理研究者と、彼らが「歌い踊りながら」シナゴーグへ出かけては熱狂と陶酔のうちに尊崇した、一六六六年の「救世主」サバタイ・ツヴィとの距離だった。  当時燎原の火のようにヨーロッパの離散ユダヤ人の間にひろがったメシア出現の情報を最初にスピノザにもたらしたのは、英国学士院の書記官オルデンブルクだった。一六六五年一二月八日付のスピノザ宛書簡でこの噂を取り上げた彼は、つぎのように書いている。  「アムステルダムのユダヤ人たちがこのことについてどんなことを聞いているのか、また彼らがこの重大ニュースをどんなふうに受け取っているのか、私は知りたくてたまりません。これがもし本当なら、世界の大きな激変をもたらすのは間違いないでしょうから。」  清教主義の中心にして、しかも科学の仮面の下に薔薇十字啓蒙運動を推し進めていたと覚しい英国学士院の書記官であるオルデンブルクは、メシア到来を熱狂的に望むサバタイ運動に無関心ではおられなかった。というのも、サバタイ・ツヴィの父親が「スミルナで英国清教徒の商人の代理人(27)」だったとすれば、キリストの再臨および千年王国を待望する清教主義と、メシア再来を待望するサバタイ主義との接触も、ユダヤ教徒の英国居住を許したチャールズ二世の治下であり得ないことではなかったからである。英国学士院の科学者たちの研究の動機もまた、フランセス・イエイツによれば、千年王国の招来にあった(28)。それゆえ、オルデンブルクのメシア主義に対する関心も、人並み以上のものだったのである。  これに対するスピノザの返事は紛失してしまったが、世のなかをゆり動かしている現下の問題に対して、彼は懐疑的にか、あるいは反語的に答えるしかなかったであろう。彼は、迫害と追放に翻弄されていただけ救済の予言に飛びつきやすかったアムステルダムのセファルディ系ユダヤ人のように、千年王国論者でもなかったし、また終末論者でもなかった。  スピノザのかつての同級生のなかには、グリュッケル・フォン・ハーメルンの義父のように、全財産を売り払って、繰り返しスミルナからの手紙を読み、今日こそ救われると期待しながら、遙かな聖地に赴こうとしている者もいた(第三章参照)。世の大多数のユダヤ人が恍惚としてメシアを仰ぎ見ている時、スピノザの視線は人間の足下に向けられていたのである。すなわち、人間はなぜ善に向かうよりも悪に隷属しやすいかという、より根本的な問題が彼の関心事だった。歴史、文化、環境という無数の条件によって形成されている「人間」を救済論によって均質化してしまう誤謬を、スピノザほど鋭く洞察していた思想家はいなかった。『エチカ』第四部序言にこう記されている。  「感情を統御し抑制する上での人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて、運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながら、より悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命に左右されるからである。(29)」  右の言葉を我々の関連から敷衍すれば、霊的な自由あるいは聖性を獲得するために悪に陥る必要があると説くサバタイ主義の「より悪しきもの」への隷属を正当化することは、スピノザにとってはまさに感情能力の無能力をさらけだす行為であっただろう。というのも、このようにして人は実際、神の栄光のためと称して破門や追放、拷問や火刑を行なうのだし、また社会正義のためと称しては、意見の異なる者の迫害や暗殺をくわだてているからである。この地点から言えば、サバタイ主義の運動が、救済どころかかえって不安や恐怖の漆黒の夜を押し広げているのに対して、スピノザの言葉も生も、その透き通った結晶のなかに漆黒の夜を閉じこめているのである。  ルカスが「スピノザはいかなる党派にも加わらなかった(30)」と言っているのは、多分その通りである。したがって、彼が薔薇十字協会に入団したということは、あり得ないことと考えていいだろう。だが、破門されたマラーノの末裔である哲学者スピノザが、同じように異端者として迫害されながらも、薔薇十字の啓蒙運動に挺身していた人々とつながりをもっていたということは、十分考えられる。それを立証するものが薔薇の印章であり、今ひとつが、中期薔薇十字運動の新たな発展形態たる英国学士院の書記官オルデンブルクとの出会い、および化学者ボイルとの論争であったが、さらにもうひとつ、そうしたつながりの存在に思いがけない照明をあてる出来事が、ハーグのスピノザに起こっている。  一六七三年二月、プファルツのハイデルベルクから、スピノザのもとに一通の手紙(同年二月一六日付)が届いた。ハイデルベルク大学神学部教授ルートヴィヒ・ファブリチウスからのその書簡は、スピノザを同大学哲学科の正教授として招聘したいというものであった。しかもそれは、「きわめて賢明なプファルツ選帝侯の指示」であった。  いったいこの招聘状は、何を意味するのだろうか。一六四九年、侯女エリザベスがデカルトに、プファルツへ居をさだめてはと申し出た提案(31)が薔薇十字運動と関連していたように、スピノザの、異例ともいえるプファルツへの招聘も、この啓蒙運動と切り離しては考えられない。というのも、招聘者は、薔薇十字都市ハイデルベルクのプファルツ選帝侯であり、しかもかつて薔薇十字運動の牙城だったハイデルベルク大学だからである。スピノザは迷いに迷ったすえに、つぎのような返事を書く。 


 「もし小生に、大学の教職につく希望が生じるようなことがあるとしましたら、プファルツ選帝侯殿下から閣下を通じて小生にお話のありました大学の教職しか、望み得なかったことでありましょう。とくに、きわめて慈悲深い殿下がご承認くださった、哲学する自由のために、小生はそのように感ずる次第です。そのご聡明さゆえに讃嘆おくあたわざる殿下の治世の下に生活することを、以前からずっと望んでおりましたことにつきましては、いまは申し上げません。しかし、小生には、公的な教職につくという気持ちはいささかもありませんので、この件につきまして長い間熟考したと申しましても、この名誉ある機会を拝受する決心がつきかねる次第です。(32)」(傍点筆者) 


 スピノザはなぜプファルツ選帝侯の「治世の下に生活すること」が、以前からの希望であったのか。その理由を伏せているところが、逆に我々の注意を引くのである。だがしかし、右の書簡を歴史の文脈において読むならば、スピノザのこの沈黙には、彼の哲学の出発点となったデカルトとプファルツの関係、さらには「哲学する自由」に基礎づけられた薔薇十字の啓蒙思想に対する彼の共感がふくまれてはいないだろうか。『エチカ』の定理七一で、スピノザは次のように書いている。  「自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。自由の人々のみが相互に最も有益であり、かつ最も固い友情の絆をもって相互に結合する。そして同様な愛の欲求をもって相互に親切をなそうと努める。(33)」  ハイデルベルク大学を、右のような「自由の人々」の中心にしていこうとするプファルツ侯国の友愛の意図を、スピノザはきわめて稀有な構想と思った。だが、彼は六週間熟慮したすえに、招聘を断る右の手紙を書いたのである。それというのも、スピノザにとっては、やはりこの招聘に応じないということが、破門と追放を背負った彼のマラーノ意識をさらに強化してゆく闘いに勝利することを意味していたからである。この勝利なくしては、あの高貴な『エチカ』は書かれなかったであろう。棘族の裔スピノザは、薔薇十字啓蒙運動への共感を沈黙のなかへ封じこめて、彼の好きな錬金術のエンブレムであるウロボロスの蛇(34)のように、自分の尾を咬み、その輪のなかでひとり『エチカ』を育もうとするのだ。  そのような『エチカ』から起こって、恐怖と服従の暗い荒野を吹きぬけてゆく一陣の風があるとすれば、その風の音から、「自由の人々」は、《Caute !》(「用心せよ!」)という銀の鈴のような声を聞いたにちがいない。




第九章 (1) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一一一頁。なおハイマンは、この話についてつぎのような指摘をしている。「三文小説の題材にでもなりそうな、実際そうした題材にもされたこのエピソードは、あまりにもうまくできているので、歴史家もこれを美しい伝説として片づけてしまっていたのだが、オランダの歴史家ジグムント・セリグマンがその論文のなかではじめて当時の駐ロンドン・オランダ公使の書簡を公開して、このいささかロマンチックなエピソードのすべてが真実に基づくものであることを立証した。」 (2) ハンス=ペーター・シュヴァルツ編前掲書、一一三頁。

 (3) 清水禮子『破門の哲学』、みすず書房、一九七八年、二一頁。 

(4) シュタニスラウス・フォン・ドゥニン=ボルコフスキー『若きスピノザ』Stanislaus von Dunin-Borkowski S. J., Der junge De Spinoza. ヴェストファーレン州ミュンスター一九一〇年、一〇四頁以下参照。 

(5) ヨハンネス・ファン・ローン「『レンブラントの生涯と時代』より」、ルカス/コレルス『スピノザの生涯と精神』(渡辺義雄訳、理想社、一九六二年)所収、二〇一頁以下。 

(6) ヨハンネス・ファン・ローン前掲書、二〇七頁。

 (7) J・フロイデンタール『スピノザの生涯』工藤喜作訳、晳書房、一九八二年、九三頁。 (8) テーン・デ・フリース『スピノザ』Theun de Vries, Spinoza. ラインベーク・バイ・ハンブルク一九七〇年、四〇頁以下。 (9) ヨハンネス・ファン・ローン前掲書、二一五頁以下。 (10) ヨハンネス・ファン・ローン前掲書、二二六頁。 (11) ヨハンネス・コレルス『スピノザの生涯』、ルカス/コレルス前掲書、一一二頁。 (12) J・フロイデンタール前掲書、一〇八頁。


 (13) フランセス・イエイツ『薔薇十字の覚醒』山下知夫訳、工作舎、一九八六年、二〇頁以下、四七頁以下、二六六頁以下参照。 (14) フランセス・イエイツ前掲書、一六七頁以下参照。


(15) フランセス・イエイツ前掲書、二四六頁以下。 (16) テーン・デ・フリース前掲書、七二頁。 (17) I・ブルーブシュタイン編『スピノザの往復書簡とその他の記録』I. Bluwstein (Hrsg.), Spinozas Briefwechsel und andere Dokumente. ライプツィヒ一九一六年、二〇頁。 (18) テーン・デ・フリース前掲書、九二頁。 (19) テーン・デ・フリース前掲書、一〇六頁。 (20) ボルコフスキー前掲書、五〇頁。 (21) ルカス『ベネディークトゥス・デ・スピノザ氏の生涯と精神』、ルカス/コレルス前掲書、二七頁。 (22) テーン・デ・フリース前掲書、一五一頁、ボルコフスキー前掲書、二九七頁以下参照。 (23) カール・ゲプハルト『スピノザ概説』豊川昇訳、創元社、一九四八年、二七頁。 (24) テーン・デ・フリース前掲書、一一九頁。 (25) ゲーテ『詩と真実』第三部、菊盛英夫訳、人文書院、一九六〇年、一六二頁。 (26) テーン・デ・フリース前掲書、一四八頁。 (27) ゲルショム・ショーレム『サバタイ・ツヴィ』、一〇七頁。 (28) フランセス・イエイツ『魔術的ルネサンス』内藤健二訳、晶文社、一九八四年、二六九頁。 (29) スピノザ『エチカ』下巻、畠中尚志訳、岩波文庫、一九五一年、七頁。 (30) ルカス/コレルス前掲書、四九頁。 (31) フランセス・イエイツ前掲書、一七一頁。 (32) スピノザのファブリチウス宛一六七三年三月三〇日付の書簡(ブルーブシュタイン編前掲書、二五一頁以下)。 (33) スピノザ『エチカ』下巻、八二頁。 (34) テーン・デ・フリース前掲書、一四八頁、およびルカス/コレルス前掲書、一一四頁参照。 


後書きにかえて──外の思考 「二つの世界のはざまで生き……欺瞞と絶望しか出てこないこの不毛な二つ裂き。(1)」 (マルト・ロベール『エディプスからモーゼへ』)  スペインは、長い歳月にわたって、私を惹きつけてやまない美しい国であった。この燦爛たる光の国のなかに、隠れユダヤ教徒「マラーノ」の死の匂いとその追放の悲劇が色濃くただよっていることを知った後も、スペインの吸引力が私のなかで衰えることはなかった。だから、マラーノについての研究をしようと思い立った時、イスラム・ユダヤ教・キリスト教が混在して揺れ動いた中世末期の姿を今日でもはっきり見せてくれるスペインそのものが、私にとっては最大の資料となったのである。  マラーノの運命。というより、そもそもマラーノであるということは、表向きのキリスト教徒と内なる隠れユダヤ教徒に引き裂かれた人間の、不安な生活と意識の状況を表している。しかもその不安な状況は、三〇〇年以上も活動を止めなかった異端審問所だけでなく、隠れユダヤ教徒の一挙一動に目を光らせる周囲の密告者たちの存在によっても、いっそう強められていったのである。マラーノであるということは、とりわけこのような生命の危機と共生することを意味していた。しかし、執拗で気違いじみた何世紀にもわたる迫害と、さらには彼らのさだめない流浪の旅のなかから、マラーノたちは知的活力を失うことなく、つねに新たに甦ってきたのである。あたかもそのような不幸によって、彼らの生き残る意志、生存への強靱な力が鍛えられていったかのように、我々の目には映る。  このようなマラーノ像は、日本において従来どのように紹介され、研究されてきただろうか。マラーノの歴史的・概念的な位置づけに関する紹介は、おそらく、豊川昇によって翻訳され、昭和一三年に改造社から出版された、カール・ゲプハルトの『スピノザ概論(2)』をもって嚆矢とする。この書物の第一章に、マラーノ論が置かれているのである。  さらに日本人の手になるマラーノ研究として、私が最初に読んだものは、増田義郎著『コロンブス』(岩波新書、一九七九年)であった。同書は、マラーノについての全体的な歴史研究ではないにしても、コロンブスという謎の人物を取り巻いている大勢のユダヤ系改宗者「マラーノ」の群像を浮き彫りにすることに見事成功している。そして同書は、一六世紀スペインの文学的・知的な文明の頂点を改宗者たちの苦悶に負っていると指摘した現代スペインのふたりの歴史家、アメリコ・カストロとアントニオ・D・オルティスの所説、さらには一六世紀スペインのエラスムス主義者のうちに改宗者たちのすぐれた仕事を跡づけた、現代フランスのマルセル・バタイヨンの研究(一九三七年)にも言及している。マラーノに関するこうした叙述のなかで、オルティスのつぎのような言葉が、私にはとくに印象的だった。「今から二五年前に、わが国の(一六世紀の)文学、思想、神秘思想などがユダヤ人の子孫の創造であるなどと言っても、誇張としかうつらなかったろう。それほどこの問題はわかっていなかったのである。(3)」  ところで、私のマラーノ研究に最初のきっかけをあたえてくれたのは、序文にも述べたように、一九四二年アウシュヴィッツでナチの犠牲となったドイツのジャーナリスト、フリッツ・ハイマンの『死か洗礼か』(刊行は一九八八年)であった。この本と、ハイマンの処女作『ヘルデルンの騎士』(一九三七年、復刻版一九八五年)は、ドイツの歴史学者ハインリヒ・グレーツの広瀚な著作『ユダヤ人史』(一八五三―七〇年)および、英国の高名なユダヤ史研究家シーセル・ロスの『マラーノの歴史』(一九三七年)を越えて、マラーノの歴史像に現代的な照明を当てようとした画期的な試みであった。このようなハイマンの研究が再評価されるようになったのは、一九八〇年代後半になってからである。  以上見たように、マラーノ研究は、スペイン本国においてはむろんのこと、その他の国々においてもようやく緒についたばかりというのが現状のようである。ましてや、スペインを追われたセファルディやマラーノが移住先の国々でどのような社会的・歴史的な、あるいは文学的・思想的な射程を伸ばしていったかという問題の考察にいたっては、なおさらである。  いま、マラーノおよびセファルディの足跡をたどろうとする私の問題意識に、芸術と心理学の境界的な仕事で知られる、ウィーン生まれの美術批評家エーレンツヴァイクの、つぎのような言葉が甦ってくる。「辺境の民としてのユダヤ人の運命のなかには、自ら進んで自己を放逐しようとする幻想のなんらかの象徴があるように思われる。(4)」  確かに、古代から現代まで絶えず繰り返されてきた、ユダヤ人の流浪運動の根底に、現在の私のテーマである「外の思考(5)」とでも言うべきものが、存在するように思われる。この思考は、荒野に放逐されて死滅する犠牲者ないし避難民の役を自ら引き受けるユダヤ人の、一見自己破壊的に見える衝動と関連しているが、それはしかし、視点を変えてみれば、どのような破局的状況のなかでも「生き残ること」への人間の希望と確信でもあるだろう。  したがって、本書では、いわゆる「ユダヤ人問題」を論ずることが、私の目的とはならなかった。「ユダヤ人問題」というのは、ボルヘスも言うとおり(6)、その人種や身分に関して世にいろいろ取り沙汰されているユダヤ人が問題であると仮定することにほかならない。問題が虚偽であることの不都合な点は、それによって虚偽の解答が引き出されることである。ナチの時代ドイツに広く流布していた非合理的な世論母胎の公的表現となったヒトラーやローゼンベルクの著書によって、ユダヤ人問題が人類史上最も不幸な解答をあたえられたことは、あらためて言うまでもない。  またユダヤ人のなかでも、選民意識を携えて領土化に向かうシオニストの問題を取り上げることも、私は目的としていなかった。私の問題意識は、もっぱら離散ユダヤ人に向けられていた。この数年間、私はカフカの作品やショーレムのカバラ論を読みながら、その背後にある追放と離散の問題を、もっと根源的に理解したいという気持ちが、高まってきていた。  そこで私は、一九九〇年七月、フランクフルト学派研究家として知られる友人の徳永 恂と、ドイツから一路スペインに向かったのであった。一四九二年の大退去勅令によって追放されたユダヤ人の足跡を実際にたどってみるのが、当面の目的であった。  旅をしながら、スペインからの追放が流浪ユダヤ人の根源となり、この根源がまた彼らの移住先の国で、新しい意識と知の解放になっていったのではないか、という思いが次第に強まってきた。そして、このような根源をつねに意識の中心にすえて、現代ドイツ文学の圏域まで追放の道をつき進んで行った知性を、私は探しはじめていた。  しかし、スペイン、ポルトガルのシナゴーグを訪ね歩いて帰って来た時、トーマス・マンの作品の根底に、表向きの北方的・市民的なものと内なるスペイン的・異国的なものとに引き裂かれた人間という「マラーノ」的な主題が揺曳していることにようやく目が開かれただけで、スペインの過去の意識を表明しているドイツ語作家の存在は、まだ私の視野のなかに入ってきてはいなかった。それでも、人間らしい生活の岸辺にようやくたどり着いたユダヤ人難民の言語島から小舟を漕いでドイツ文学圏に向かった作家がいるにちがいない、と私は予感しつづけていた。もしそうした作家がいるとしたら、世界の内側から外なる根源へ駆り立てられている、彼の幻想や意識は、実在性を獲得し、人の生活を価値づける芸術上のリアリティともなっているだろう。  一九九一年の一月中旬、私は旅行から帰って久しぶりに徳永恂と会った。ちょうど大阪大学で集中講義をしていた、私のかつての同僚エーバハルト・シャイフェレ氏も彼と一緒に来たので、たちまち、大阪では珍しい雪の夜の酒宴となった。リスボン埠頭の露店で買ったお揃いの、赤革のカバンを足元から置き引きされてしまった、アムステルダムでの我々の失敗談をしながら、私は、文学にも造詣の深いこの哲学者から何か重要なことを聞きだせるような気がしていた。  そこで私は、追放されたユダヤ教徒の末裔にスペインの過去の意識をもちつづけている作家はいないだろうか、と単刀直入にシャイフェレ氏に訊いてみた。氏は即座にこう答えた。「モンテーニュ。ボルドー市長でもあった随想家のミシェル・ド・モンテーニュの母親は、アントワネット・ロペスという名の、亡命マラーノでした。」  私はこの時、モンテーニュから二〇世紀の今日まで、フランスの先鋭的な批評成立の背景に、ことによるとマラーノの意識が活躍の場を見出しているかもしれない、と思った。  その後私は、二〇世紀のドイツ文学ではどうですか、とシャイフェレ氏に尋ねた。「ドイツ文学では」と、氏は少し考えてからこう言ったのである、「エリアス・カネッティ! 彼がそうだ。カネッティはアシュケナージではなく、完全なセファルディのはずです。」  この瞬間、私のなかで、一四九二年のユダヤ人追放とその彷徨いが、二〇世紀のドイツ文学と繫がったのである。こうして、アムステルダムで、マラーノ関係文献ばかりか写真や旅のノートまで盗まれた私の、それらを復元する再度の旅に、「カネッティ」の主題が加わってきた。  それまで私は、カネッティの思想形成の根源をまったく意識することなく、最初の長篇小説『眩暈』を読んでいたに過ぎなかった。早速私は、新しい問題意識で、彼の自伝三部作を読みはじめた。すると、ベルリンの黄金時代を体現していた芸術家たちを批判する条に、カネッティの「外の思考」と言うべきものが、鮮明に表現されているのに気がついた。とりわけブレヒトは、金と名誉を愛し、「世界の外」にいるような羽目に決して陥らぬために、いつも壁にかけた世界地図を注視しているといった芸術家だった。このようなブレヒトに、カネッティは、まだ作品をひとつも書いていなかったが、「作家は互いに著しい対照をなす世界のなかの時代と世界のそとの時代を必要とする(7)」という自己の思想を、つきつけたのである。  それは、一切の権威主義を拒否し、「世界のそと」に向かって内的亡命をはかる作家の、国境を越えた普遍的意識であるにちがいない。このような外の思考が、たとえばマラケシュの広場に置かれた、枯草色の襤褸のなかから、「エーエーエーエー」と唸りつづける「見えざる者」の存在にも、「生き残る」力をあたえ得るのだ。

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