2024年5月24日金曜日

ブログ2015年08月22日:ナニャドヤラ ~ 北東北人はユダヤ人 ? - 株式会社エム・システム

ブログ2015年08月22日:ナニャドヤラ ~ 北東北人はユダヤ人 ? - 株式会社エム・システム

ナニャドヤラ ~ 北東北人はユダヤ人 ?

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2015/08/22


以前、過去ブログ「盛岡市近郊「お盆の風景」 ~ 他とは一味違うお盆」において、岩手県の県北地域で行われている「ナニャドヤラ(ナニャトヤラ)」と言う盆踊りがあることを紹介しました。
そして、この盆踊りの歌詞をカナ文字にするとヘブライ語になると言う説がある事も紹介しました。
 

この「ヘブライ語」説は、岩手県一戸町出身の神学者「川守田 英二」氏が唱えた説なのですが、「ナニャドヤラ」の歌詞に関しては、実は、次のような様々な説があります。

【 ナニャドヤラの歌詞の意味 】

・「恋の歌」説 民俗学者「柳田國男」が唱えた説。盆踊り時の恋の歌であると言う説。
・「道歌」説 青森県八戸市の心霊研究科「中里義美」が唱えた説で、言語学者「金田一京介」も支持した説。「道歌」が南部地方の方言により変化したと言う説。
・「ヘブライ語」説 前述の通り。ヘブライ語の進軍歌と言う説。
・「梵語」説 提唱者不明。南北朝時代、長慶天皇が、足利氏に追われ、三戸郡名久井岳の近くに隠れ住んだ際に、味方に無事を知らせる内容を里人に唄わせたという説。

また、この「ナニャドヤラ」を踊っている地域には、「キリストの墓」と呼ばれている物まで存在しています。

その他にも、青森、そして岩手に跨る「旧 南部藩」の地域には、ユダヤ人に関わる不思議な言い伝えがありますので、それらも合わせて、次の内容を紹介したいと思います。


ナニャドヤラが伝わる地域と諸説の内容
ナニャドヤラの歌詞とヘブライ語
南部地方とユダヤとの関係
旧南部藩領に影響を与えたかもしれない事象
その他、日ユ同祖論の紹介


ちなみに、本ブログの最初の画像は「六芒星」、英語でヘキサグラム(Hexagram)と言い、イスラエルの国旗にも取り入れられていますが、「ダビデの星」とも呼ばれ、ユダヤ人の象徴として、良く用いられる記号です。

しかし、何故か、旧 南部藩の領地には、この「六芒星」と関わる点が見受けられますので、それらについても紹介したいと思います。


それでは今回も宜しくお願いします。


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■ナニャドヤラが伝わる地域と諸説の内容

この「ナニャドヤラ」、現在は、次の地域において、盆踊りとして伝わっているそうです。
●青森県
・三戸郡新郷村(さんのへぐん-しんごうむら)
・三戸郡田子町(たっこまち)
・八戸市
・上北郡東北町(かみきたぐん-とうほくまち)
●岩手県
・九戸郡洋野町(くのへぐん-ひろのちょう)
・九戸郡野田村(のだむら)
・二戸郡一戸町(にのへぐん-いちのへちょう)
・久慈市
一部、Wikipedia等では、秋田県鹿角市付近にも伝わっていると言う情報もありますが、どうやら秋田県では「ナニャドヤラ」は踊られていないようです。
このため、地図で見ると、右図の赤線で囲まれている地域にだけ、伝わっているような感じがします。
これは、旧南部藩領の内、南部氏発祥の地である八戸藩、および七戸藩の地域に重なっています。

元々南部氏は、甲斐国(山梨県)の甲斐源氏の流れをくんだ「南部 光行」が、「源 頼朝」の求めに応じて、奥州藤原氏討伐に参加し、その功績により現在の八戸市南部町に居城を築いたのが始まりとされています。

その後、三戸町、そして盛岡市と移転し、南部氏盛岡藩となりましたが、同時に八戸藩と七戸藩も合わせて、「南部藩」と呼ばれています。


さて、ここで、あらためて「ナニャドヤラ」の歌詞を紹介させて頂きます。但し、この歌詞も、地域により若干異なるようです。

【 ナニャドヤラの歌詞(洋野町で開催されるナニャドヤラ大会の歌) 】

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ

ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ

ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド


そして、歌詞の意味に関する、それぞれの説も再度紹介させて頂きます。


●「恋の歌」説

民俗学者「柳田國男」が唱えた説。
大正10年頃に、前述の九戸郡洋野町種市を訪れて盆踊りを見た時に、地元の女の子から「なにヤとやーれ なにヤとなされのう」という歌詞を教えてもらったが、これを「何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい」と訳し、盆踊り時の恋の歌である唱えた。
この事を「清光館哀史」と言う短編本に書いており、この内容は、一時期、教科書にも記載されていたそうです。

●「道歌」説

青森県八戸市の心霊研究科「中里義美」が唱えた説。
道歌とは、道徳的な短歌の事で、有名な道歌に「なせばなる、なさねばならぬ何事も」と言う歌も有る。
この有名な道歌を、南部地方の方言で歌ったものが「ナニャドヤラ」で、意味は「なんでもやりましょう。そうすればなんでもできるものだ。わかりました。なんでも大いにやろう」と言うものだと言う説。
昭和24年(1949年)、宮中に学士院会員が招かれた時に、キリスト教史を研究されていた三笠宮崇仁親王(みかさのみや-たかひとしんのう)が、言語学者「金田一 京介」に「ナニャドヤラ」についてお尋ねになられた際に、この道歌説を紹介したとされています。

●「梵語」説

・提唱者不明。

・南北朝時代(1336年~1392年)、南朝第三代天皇「長慶天皇」が、足利氏に追われ、三戸郡名久井岳の近くの長谷
   寺に隠れ住んだ際に、味方に無事を知らせる内容を里人に唄わせたという説。

・下記のように伝えられているが、その内「長谷嶺居野宰叡」の箇所が、「長谷よりほかに住む都がない」という意
   味になるという説。

奈任耶阿堵野羅世 (なにゃあどやらよ)
奈任耶阿堵長谷嶺居野宰叡 (なにゃあどなされいのさえ)
奈任耶阿堵野羅世 (なにゃあどやらよ)


●「ヘブライ語」説

岩手県一戸町出身の神学者で、サンフランシスコ在住の「川守田 英二」氏が、上記「金田一 京介」の記事を読んで、翌年の昭和25年(1950年)に反論した内容。
昭和31年(1956年)に、自身の著書「日本へブル詩歌の研究」の中で、ヘブライ語の進軍歌と言う説を唱えた。
詳しくは、次の章で紹介します。

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■ナニャドヤラの歌詞とヘブライ語

それでは、この章の最初に、「ナニャドヤラ」とは、どのような物なのか、Youtubeに投稿されている動画をご覧下さい。
この動画は、青森県三戸郡新郷村で毎年6月1日に開催される「キリスト祭」の模様となります。
キリスト祭 ? 何それ ? と思われる方も居ると思いますので、「キリスト祭」に関しては、後で説明します。

そこで、まずは「ナニャドヤラ」の歌詞とヘブライ語の関係ですが、前述の神学者「川守田 英二」氏によると、「ナニャドヤラ」の歌詞は、次のようになるとの事です。

ナギャド ナサレ ヘテ 行く手に 我ら追い払わんとす ヘテ人を
ナギャド ヤド ヤーリヤ その領土に向かって 進撃し給え ヤーよ
 
ナギャド ナサレ ヒイヤ 行く手に 我ら追い払わんとす ヒビ人を
ナギャド ヤーレヤー ヤーよ 進撃し給え
 
ナギャド ナサレ アダ 彼方へ アダ族は退却したり
ナギャド ヤーラヤ 前方へ ヤーよ 進み給わんことを
ナギャド ハヤラド ヤーレ ヨルダン川に向かって ヤーよ 進み給わんことを
※ハヤラド:ヨルダン川の古名

あれ?! 何か、前の歌詞と違うような気がするんだけど・・・と思う方も居ると思いますが、前にも記載しましたが、「ナニャドヤラ」は、その地域によって、微妙に歌詞が異なります。

「川守田 英二」氏が、どこの地域の「ナニャドヤラ」を翻訳(?)したのかは不明ですが、少なくても岩手県九戸郡洋野町ではないようです。

また、Web検索をすると「Wikipedia」に記載されている翻訳文が多く掲載されていますが、本ブログでは、異なる翻訳文を掲載しています。

「Wikipedia」では、次のように訳文が掲載されています。

【 御前に聖名をほめ讃えん 御前に毛人を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん 】


次に「キリスト祭」の件ですが・・・これは、ゴルゴダの丘で磔刑に処されたはずのキリストが、実は密かに日本に渡り、新郷村で106歳の天寿を全うしたと言う、とんでもない「キリスト渡来説」が基礎になっています。
事の起こりは、昭和9年(1934年)、新郷村(旧村名:戸来村)出身の画家「鳥谷 幡山(とりたに-ばんざん)」が、地元「新郷村戸来雨池」に、ピラミッドを発見した事から始まります。
そして、ピラミッド発見の翌年となる昭和10年(1935年)に、新宗教団体の教祖「竹内 巨麿(たけうち-きよまろ)」を連れて、ピラミッドの再確認のため、再び新郷村を訪れたそうです。
すると、今度は「竹内 巨麿」が、数メートルの高さになっている「盛り土」を見て、「ここがキリストの墓である」と認定し、村長に、この塚を「十来塚」と名付けるように指示したそうです。
その後、新郷村では、昭和39年(1964年)から、毎年6月の第一日曜日に、この地で一生を終えたとされるキリストの御霊をお慰めするため、キリスト祭を開催しているそうです。
ちなみに、平成16年(2004年)に開催された「第41回キリスト祭」には、イスラエル駐日大使が、わざわざ祭りに参加して、エルサレム・ストーン(※)を寄贈したとのことです。

さらに、おまけの話ですが、「竹内 巨麿」が「キリストの墓」を発見した時に、隣の盛り土は、キリストの弟である「イスキリの墓」である、とも言っていたそうです。なんともはや・・・・

それと、参考までに、「鳥谷 幡山」が発見した、上述のピラミッドらしき物は、現在では「大石神(おおいしがみ)ピラミッド」と呼ばれています。
これは、ピラミッドらしき物を発見した場所が、「大石神山」と呼ばれる山であったと言う事と、日本にピラミッドがあると言う説を提唱する「酒井 勝軍(さかい-かつとき)」と言う人物の説に従い、地元の人間が、勝手に「大石神ピラミッド」と名付けた物なのだそうです。

また、「竹内 巨麿」が、単なる「盛り土」をキリストの墓と認定した証拠は、自身の家に、古くから伝わる古文書に、キリストが日本に来た事が書かれていたからなのだそうです。

この「竹内家」に伝わる古文書は、「竹内文書」と呼ばれ、「古事記」以前の、日本古来の歴史上の出来事が記録されているとされている「古文書」と言われていますが、現在では「偽物」と言われています。
さらに、日本にピラミッドがあると提唱した「酒井 勝軍」は、この「竹内文書」の信奉者だったらしいです。
これらの事から、「キリストの墓」や「大石神ピラミッド」の件を客観的に判断すると、どちらも「眉」に「ツバ」を付けたくなる事柄のような気がします。
しかし、敢えて、次の章では、この「新郷村」を含む北東北とユダヤとの関係などを紹介したいと思います。
本章の最後になりますが、「ナニャドヤラ」がヘブライ語であると唱えた「川守田 英二」氏は、キリストの墓と「ナニャドヤラ」がヘブライ語であると言う事は、何の関係も無いと言っていたそうです。

※エルサレム・ストーン:エルサレム市街の建築物外壁に使われる白い石灰岩の事。


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■南部地方とユダヤとの関係

本章では、新郷村を始めとする旧南部藩の領地における習慣や風習と、ユダヤとの関係を紹介したいと思います。
「ナニャドヤラ」が伝わる旧南部藩領や新郷村の位置関係は、左の画像のようになります。(※新郷村は二重下線)
最初に、新郷村の風習とユダヤとの関連性を紹介します。

●新郷村の風習とユダヤとの関連

新郷村(旧村名:戸来村)では、前述の「キリストの墓」とは全く関係なく、何時からかは不明ですが、次のような言い伝えや風習等があるそうです。


(1)「戸来村」の地名

まずは、「新郷村」の旧村名「戸来(へらい)村」ですが、その存在自体が、とっ~ても怪しい「古代史書研究会」と言う団体が、この「戸来」と言う村名は、「ヘブライ語」であると言ったそうです。(1987年出版、新人物往来社「世界 謎のユダヤ人」に記載)

(2)戸来小学校の校章

新郷村にある「戸来小学校」、この小学校の「校章」が、(今回の調査では真偽の程は確認できませんでしたが)、先に紹介した「ダビデの星」であると、まことしやかに伝えられています。

(3)額に「十字架」

戸来村には、生まれて間もない子供の額に十字を書いていたとか、足がしびれた時は、指にツバを付けて額に十字を3回書くとしびれが治るという言い伝えがあるそうです。
左図は、ホラー映画のセットではなく、戸来村にある「キリストの里伝承館」の展示物です。

(4)「ダビデの星」を家紋に持つ一族

戸来村には、「キリストの墓」を代々守ってきた「沢口家」という一族が存在し、この一族の家紋は、昔は「ダビデの星」だったと言う話があるそうです。
また、この「沢口一族」は、実はキリストの子孫で、過去には「長身&碧眼」の当主も存在したとする説も紹介されていますが・・・
家紋の話はさて置き、「長身&碧眼」の当主の話は、誰かのでっち上げのようです。

●南部地方の風習とユダヤとの類似点

次に、旧藩部藩領とユダヤとの関係について紹介します。

旧南部藩の領地には、「南部せんべい」と言う郷土料理(菓子?)があるのは、皆さんもご存知かと思います。
「南部せんべい」は、青森県、および岩手県が、主な生産地となっており、現在では、「南部せんべい」と言う名称で、岩手県南部煎餅協同組合が、商標登録しています。
そして、この「南部せんべい」には、実は、次のような由来があると伝えられています。

(1)「長慶天皇創始」説
(2)「南部氏創始」説
(3)「ユダヤ人創始」説

それでは、簡単に、それぞれの説を紹介したいと思います。


(1)「長慶天皇創始」説

「長慶天皇」に関しては、「ナニャドヤラ」の梵語説に記載した通りです。
そして、天皇が長谷寺に隠れ住んでいた時に、家臣の「赤松 助左衛門」が、自分の兜を鍋の代わりにして、近くの農家からそば粉と胡麻を手に入れて焼き上げた物が、「南部せんべい」の始まりである、と言う説です。
その後、長慶天皇は、この「南部せんべい」が気に入ったので、たびたび赤松に作らせて召し上がり、さらには、煎餅に赤松家の家紋「三階松」を入れる事を許されたとの事です。
また、赤松家の家紋とは別に、南朝に尽くしてくれた忠臣「楠木 正成」を偲び、楠木家の家紋「菊水」の印も入れるようにした、と言う説です。
この説は、昭和20年代に、「南部せんべい」の起源を整理した時に、この説を中心に、話を組み立てたので、現在でも「三階松」と「菊水」の家紋が、煎餅に押されているとのことです。

(2)「南部氏創始」説

応永十八年(1411年)、根城南部家十代「南部 光経(みつつね)」が、安東氏と戦った「秋田戦争」において、戦場で兵士達が、そば粉に胡麻を混ぜて兜で焼いて食べた所、大いに将兵の士気が上がり、戦いに勝利することが出来た。

このため、その後の戦においても、この「南部せんべい」を携行するようになったと言う説です。


(3)「ユダヤ人創始」説

「ユダヤの星(六芒星)」の焼き印 話の出処は不明で、一説には「キリスト渡来説」と一緒に話が広まったと言う噂もありますが、ともかく、この地に来たユダヤ人が、故郷のパンに似せて作ったものが「南部せんべい」である、と言う説です。
確かに、今では、ほとんど見ませんが、私が子供の頃には、煎餅の裏側に、「ユダヤの星(六芒星)」の焼き印が押された「南部せんべい」があった記憶があります。

左の画像では表側に焼印がありますが・・・

また、上記の説に、さらに「尾ひれ」が付いて、キリストが作った物だとか、モーゼが作ったとか言う説もありますが、どれも「眉唾」ものだと思います。


このように、新郷村を含む、旧南部藩領には、キリストや長慶天皇の伝説は別としても、何か不思議な言い伝えが残されているのは確かな様です。

日本の歴史においては、3世紀後半~4世紀前半までの約150年間、何があったのか全く解らない時代があるそうです。

この期間は、「空白の4世紀」と呼ばれているらしいのですが、この時期は、「卑弥呼」の死後となり、ちょうど「大和朝廷」の設立期にあたると思うのですが、この空白の時代が、何か北東北に影響を与えているのかもしれません。

次の章では、旧南部藩領に、何か影響を与えたかもしれない事象に関して、少し紹介したいと思います。


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■旧南部藩領に影響を与えたかもしれない事象

これまでは、「ナニャドヤラ」を始めとして、旧南部藩領において見られるユダヤの影響について、様々な言い伝え等を紹介してきました。

それでは、何故、この地域に、ユダヤの影響が見られるのでしょうか? 私は、歴史学者ではないので、詳しいことは解りませんが、これから紹介する事象が、この地域に何らかの影響を与えているのではないかと思っています。


●「安倍氏」の影響

旧南部藩領を含む、北東北地域(奥六郡)は、8世紀には「阿弖流為(アテルイ)」率いる蝦夷の支配下でしたが、9世紀には「坂上田村麻呂」に破れて大和朝廷の支配下となりました。
そして、10世紀~11世紀に掛けては、「奥州安倍氏」が、朝廷より「六箇郡の司」と言う地位を与えられて支配していました。
その後は、「前九年の役」により「源 頼義/出羽清原氏」、「後三年の役」では「奥州藤原氏」に支配され、さらにその後は、前述の通り、「源 頼朝」配下の「南部 光行」が支配する事となります。

ところで、この「安倍氏」は、第八代「孝元天皇(こうげんてんのう)」の第一王子である「大彦命(おおひこのみこと)」が、始祖とされています。

歴史上で「安倍氏」の存在が明らかとなったのは「安倍 大麻呂(おおまろ)」と言われており、第二十八代「宣化天皇(せんかてんのう)」の重臣として活躍しました。

そして「安倍 大麻呂」の子供達から2系統に大きく分裂し、一方は大化の改新で左大臣となった「安倍 麻呂」系と、もう一方は7世紀に将軍となって蝦夷(えみし)や粛慎(しゅくしん/みしはせ)と戦った「阿倍 比羅夫(ひらふ)」系となります。

「安倍 麻呂」系には、陰陽師で有名な「安倍 晴明」が居ますし、「阿倍 比羅夫」系には、歌人「阿部 仲麻呂」や、奥州安倍氏の祖となる「安倍 忠良(ただよし)」がいます。

さて、ここで奥州安倍氏ですが、「前九年の役」で「源 頼義」と戦った「安倍 貞任(さだとう)」や、その弟の「安倍 宗任(むねとう)」等は、色白で身長180cm以上と、当時としては、並外れた体格の持ち主として知られています。 「安倍 貞任・宗任」兄弟
そして、一説では、奥州安倍氏には、「粛慎」の血が入っているのではないかと言われています。

この事は、「安部貞任/宗任」兄弟の先祖である「阿倍 比羅夫」が、「粛慎」と戦った事実がありますので、あながち嘘とも言えない可能性があります。

そして、「粛慎」は、現在の中国北東部/ロシア地方に住んでいたとされていますので、そこに、ユダヤ系の血筋の人達が入り込んでいた可能性もあります。

このため、「粛慎」から、何らかのユダヤ系の言い伝えや儀式が、北東北に持ち込まれた可能性が、あるかもしれません。


●「秦氏」の影響

「秦氏(はたうじ)」とは、応神天皇の時代に大陸から帰化した人々で、始祖は「弓月君(ゆづきのきみ)」、あるいは「融通王(ゆうずうおう)」と言う名であったと「日本書記」に記載されている一族となります。

さらに「日本書記」によると、応神十四年(283年)に、120の県(あがた:地方の意味)の民を率いて日本に帰化したとあります。

この「120の県の民」ですが、人数は不明ですし、どの民族なのかも解りませんが、120もの県ですから、相当数の人を率いてきたと思われます。

「秦氏」自体は、名前の通り、「秦(しん)国」出身で、自らは「始皇帝」の末裔と称していたようですので、元々は朝鮮半島系ではなく、大陸系の民族だと思われます。

京都を始め、全国に「太秦(うずまさ)」と言う地名が付く場所がありますが、その場所が、「秦氏」の居留地だったと考えられています。

また、神奈川県に「秦野(はだの)市」と言う自治体がありますが、ここも「秦氏」関連の場所と伝えられています。

しかし、現在のところ、文献等では「秦氏」が移り住んだ記録は残されていないようですし、「秦野」と言う地名も、元は「波多野氏」が由来と伝えられています。

ところで、この「秦氏」が日本に渡った際に、同行してきた「120の県」に、ユダヤ人が含まれていたのではないか、と言う説があります。

また、前述の「波多野氏」ですが、遠い祖先は「平 将門」を討った「藤原 秀郷」と伝えられており、その子孫が、恩賞として賜った「秦野」に移り住んで勢力を拡大したと伝わっています。

そして「藤原 秀郷」の子孫である「佐伯 経範(つねのり)」が、「波多野氏」の始祖と言われていますが、この「佐伯 経範」は、「源 頼義」の家人として「前九年の役」で活躍したことが記録に残されています。

「秦氏」と「波多野氏」が、「秦野」でつながり、さらに「前九年の役」で「安倍氏」とつながれば、少々無理はあるかもしれませんが、東北とユダヤ人の関係が見えてくるかもしれません。


●「徐福」の影響

「徐福(じょふく)」とは、「司馬 遷」の「史記」に登場する人物で、「秦始皇帝」の命を受け、3,000人の技術者を引き連れて、東方に「不老不死」の霊薬を探しに行ったと伝えられています。
また「史記」によれば、「徐福」は、「東方の三神山に向けて船出をしたが、結局、東方の王となり戻らなかった」とも記載されています。

このため、「徐福」は、朝鮮半島経由で日本に渡ったと言われており、日本では、青森県から鹿児島県に至るまで、広い地域に「徐福伝説」が残されています。

「徐福伝説」が伝わる青森県では、徐福達の船団が、対馬海峡を渡る時に嵐に遭遇してしまい、その結果、津軽半島の「小泊(こどまり)村」に流れ着いたとされています。

そして、この「小泊村」にある「権現崎」こそが、「徐福」が求める「東方の三神山」の一つである「蓬莱山」だと信じ、この地に住み着いたとされています。

他方、「徐福」、その人が、ユダヤ人であるとする説がありますし、「徐福」が引き連れてきた3,000人の技術者の中に、ユダヤ人が居たとする説もあります。

この説が、正しいと認められれば、ユダヤ人と東北の関係が、明らかになると思われますが・・・

しかし、もしも「徐福」、あるいは配下の技術者が日本に渡って来ており、かつ日本に定住したのであれば、紀元前3世紀頃には、既に日本に漢字が伝わったことになりますので、当時の遺物に、漢字が使われていた形跡が残されているはずです。

紀元前3世紀と言えば、日本では、まだ弥生時代です。

残念ながら、この時代の遺物に漢字が使われた形跡は残っておりませんし、日本で漢字が使われ始めたのは、5世紀~6世紀と言われていますので、「徐福伝説」は、あくまでも伝説に過ぎないと思われますので、「徐福」が東北地域に影響を与えた可能性は、極めて低いと思われます。


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■その他、日ユ同祖論

日本書記 ここまで、旧南部藩領となる北東北とユダヤ人の関係を、大いなる推測を含めて紹介してきましたが、日本には、古くから「日ユ同祖論」と言われる話が、そこかしこで燻っています。
「日ユ同祖論」とは、「日本人の祖先がユダヤ人である」と言う説です。

何故、こんな、突拍子もない話が、延々と語られるのかと言えば、それば日本の生立ちを示す明確な証拠が存在しないからです。

『 日本の生立ちを示す証拠なら「日本書記」や「古事記」があるじゃないか! 』、と思われる方も大勢居るかと思います。

しかし・・・和銅五年(712年)に記載された「古事記」や、養老四年(720年)に記載された「日本書記」は、後世の人達、取り分け、大和朝廷となった時に、大和朝廷の人達が、自分達が日本を支配する事の「正当性」を示すための、意図的に歴史を捏造、あるいは歪曲して作成した書物だと言われています。

まあ、たいていの歴史書は、後世の人達が書いたものですが・・・
今では、「日本書記」や「古事記」は、単なる物語、フィクションである、と言うのが、歴史家の通説となっています。
ちなみに、「古事記」、および「日本書記」は、次の年代の歴史を記載していると言われています。
・古事記   : 神代における天地創造から推古天皇(在位593年~628年)の時代に至るまでの出来事を記載
・日本書紀: 神代から持統天皇(在位690年~697年)に至るまでの出来事を記載

それでは「日本書記」や「古事記」がフィクションとされているのは何故かと言いますと、他の歴史書とは異なる記述が多く、また発見された遺物との間に、整合性が見られない点が多過ぎるからと言われています。

また、日本には、「仁徳天皇陵」等、数多くの古墳がありますが、どれ一つとして、宮内庁が調査を許可しないため、歴史の解明が進んでいないことも、「日本書記」や「古事記」の信憑性が疑われる原因となっています。

加えて、「伊勢神宮」や「出雲神社」等、日本の生立ちに多大な影響を与えたと思われる神社も、各種調査を阻んでいる点も問題です。

近頃では、平成25年(2013年)に、「伊勢神宮」において「神宮式年遷宮」が執り行われたので、色々なTV番組で「伊勢神宮」の事が紹介されましたが、その実態は闇の中です。

「神宮式年遷宮」を含め、「伊勢神宮」では、日々数多くの行事が執り行われますが、その多くは非公開となっています。特に、「伊勢神宮」に保管されている(と言われている)「三種の神器」は、天皇でさえ見ることは出来無い物と言われています

また、「伊勢神宮」は、皇室の氏神である「天照大御神」を祀っているにも関わらず、「持統天皇」が、第1回目の「式年遷宮」を行った692年から、「明治天皇」が、明治二年(1869年)に参拝するまで、約1,177年間、天皇が誰も参拝していないのも謎を深めるばかりです。

ちなみに、「三種の神器」とは、次の宝物です。

・八咫鏡 やたのかがみ - 高天原の八百万の神々が、天の安河に集まり川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた。伊勢神宮のご神体。皇居にはレプリカを保存。
・八尺瓊勾玉 やさかにのまがたま - 長い緒に通した勾玉。丹波国の人の犬が狢(むじな)を殺し、その腹中から八尺瓊勾玉を得て奉献したとも伝えられる。皇居吹上御殿にて保管されている。
・草薙剣 くさなぎのつるぎ - スサノオノミコトが八岐の大蛇を切り刻んだ際に尾から出てきた刀。壇ノ浦の戦いで安徳天皇共々水没。以前、伊勢神宮から後白河法皇に献上された物を現在は皇居で保管。

このように、宮内庁や神社庁が、歴史の解明に非協力的なため、また明治政府以降で、天皇を神格化する動きがあったため、現在でも日本の生立ちは「闇の中」となってしまっています。

他方、「日本書紀」/「古事記」の他に、日本の歴史書は存在しないのかと言うと、本当は、他にも存在していたそうです。

「日本書紀」には、「天皇記」や「国記」と言う日本最古の歴史書が存在した事が記録されていますが、645年に「蘇我蝦夷」が自害する際に自宅に火を掛けたのですが、この火が書庫にまで延焼し、「天皇記」を含む多くの歴書が焼失してしまったと伝えられています。(「国記」は難を逃れたのですが、その後紛失したと言われています。)

このような背景等があり、かつこれから紹介しますが、日本とユダヤの風習に、数々の類似点があることから、いつまでも「日ユ同祖論」が語られ続けているのだと思います。

それでは、簡単に、その類似点を紹介します。


●墓の形

皆さん、左の画像は、ご存知ですよね。歴史で必ず習う「仁徳天皇陵」です。
ちなみに、現在では「仁徳天皇陵」とは呼ばず、「大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)」と呼ばれているようですが・・・
このお墓を「前方後円墳」と呼んでいることは、これも学校で学んで覚えていると思いますが、左の画像、おかしくありませんか ?
「後円墳」ですよね ?
つまり、後ろが「円」になっているから「後円墳」と言われている訳ですから、上の画像は、本当は逆さまの画像なのです。
そして、上の画像を逆さにしたのでが、右の画像となります。
何で、わざわざ上下を逆さにした画像を教科書、その他に使うのか、なんらかの意図(悪意)を感じてしまいますが・・・その点は、今回は割愛します。
こうして、従来紹介されている画像を、本来に形にしてみると、何か、別の物の形に見えませんか ? ワッペン ? 壺 ?
そして、次の画像ですが、古墳の内部だけを切り取った画像ですが・・・どうみても壺ですよね。
ちなみに、ユダヤ人にとっての三種の神器は、次の3個なのだそうです。
・アロンの杖 :モーゼとアロンが使用すると奇跡を起こせる杖。
・十戎の石版 :モーゼが神より与えられた十戎が刻まれた石版。
・マナの壺    :モーゼが神より授かった壺。神から与えられた食料が入っている。

「日ユ同祖論」を唱える人達にとっては、この画像は、「マナの壺」を表しているのだそうです。


●神輿

神輿 祭には欠かせない「神輿」。この画像は、日本全国、何処に行っても見られる祭の光景です。
神輿の起源は諸説ありますが、文献に最初に現れるのは「八幡宇佐宮御託宣集」で、養老四年(720年)に九州で起こった「隼人の乱」において、八幡神の神霊が乗る「神輿」を作らせたのが最初とされています。

そして、その後の天平感宝元年(749年)、聖武天皇が、奈良の東大寺に盧遮那仏を建立している最中に、宇佐八幡神が、屋根に金色の鳳凰が輝く乗り物「鳳輦(ほうれん)」に乗って、奈良に渡御したと言われており、この時の形が、今の神輿の原型になっているそうです。

他方、右の画像をご覧下さい。 失われたアーク 聖櫃
これは、「契約の箱」と呼ばれ、当初は、前述の三種の神器が納められていた箱の模型です。

これは、神からの指示に従い、モーゼが、出エジプトの1年後に作らせた物と伝えされています。

モーゼの時代には、先の通り、三種の神器が納められていたが、その後、ソロモン王の時代(紀元前10世紀頃)には、石版のみが納められていたとされています。

上の画像は、映画「レイダース/失われたアーク 聖櫃」に登場した「アーク」ですが、実物は、現在は行方不明です。
しかし、エチオピアの「エチオピア正教会」には、現在でも「アーク」が存在しているとされています。
そこで、「神輿」と「契約の箱」です。何が言いたいのかは、既にお解りだと思いますが、形、利用目的、それに運搬方法が、両者とも酷似しています。

これも、「日ユ同祖論」の一つの証拠とされています。


●山伏とユダヤ教徒

山伏 皆さん、この方達は、何者かは、良くご存知だと思いますが、「山伏」です。
「山伏」は、「修験道」と言う、「仏教」と「山岳信仰」が習合した日本独自の宗教を行う人達で、山にこもって悟りを得ることを目的にしています。
そして、山伏達は、頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持ち、袈裟と篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏い、山中での互いの連絡や合図のために、ほら貝を加工した楽器を使用します。

まあ、これが一般的な「山伏」の出で立ちとなります。

それでは、次に右の画像をご覧下さい。この画像は、ユダヤ教徒の人の画像です。
頭に載せているのは、ユダヤ教の聖典である「旧約聖書」が納められた小箱「ヒラクティリー」という物です。
また、この人が吹いているのは、羊の角で作った「ショーファー」と呼ばれる楽器ですが、ユダヤ人の祭の時などに使用されるそうです。
これも言うまでもなく、山伏にそっくりですよね。

●諏訪神社の「御頭祭(おんとうさい)」

御柱祭 皆さん、諏訪大社の祭事と聞いて、何を思い浮かべますか ? はやり、普通は「御柱祭」ですよね。
「御柱祭」は、「寅年」と「申年」の6年毎に行われている最大の祭事となり、正式には「式年造営御柱大祭」と言いますが、次は2016年の開催予定となっています。
左の画像は、「下社の木落し」の画像ですが、木落し坂は、最大斜度35度、距離100mで、過去何度も死人を出している最も危険な行事です。
しかし、「御柱祭」とは別に、毎年4/15に行われる「御頭祭(おんとうさい)」と言う祭事もあります。 御頭祭
この祭事、名前に「御頭」と付き、何か不気味な雰囲気を醸し出していますが、想像通り、右の画像のように「鹿の頭」を奉納する、何とも奇妙な祭りとなっています。

ちなみに、現在では「鹿の頭」は剥製ですが、その昔は、当然の事ながら、実物を75頭分も奉納していたそうです。

神長官守矢史料館 そして、さらに江戸時代となる天明四年(1784年)に、当時の旅行家である「菅江 真澄(すがえ-ますみ)」が書いた紀行文「諏訪の海」に、当時の「御頭祭」の様子が書かれていたそうです。
そして、その内容が、「神長官守矢史料館(じんちょうかん-もりやしりょうかん)」と言う地元の資料館の「しおり」に記載されているそうです。

そして、その内容はと言うと・・・

前述の通り、75頭もの鹿の頭の貢物については「前官の十間廊に、鹿の頭が75もマナ板の上に並んでいた。その中に耳が裂けた鹿があるが、それは神の矛で切られたものだと言う。」と言う解説があります。

さらに、次のような説明書きがあります。

【 諏訪の海 】の内容

やがて篠の束の縄をほどき、篠をばらばらにしてその上に敷き、花をそえる。その時、長さは五尺余り、幅は五寸ほどで、先のとがった柱を押し立てる。これを、御杖(おつえ)とも、御贄柱(おにえばしら)とも言うが、どうであろうか。(中略)
御神おこうといって、八歳ぐらいの子どもが、紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせて、かの竹の筵の上に押し上げて置いた。(中略)
そこへ上下を着た男が、藤刀というものを、小さな綿の袋から取り出し、抜き放って長殿に渡す。長殿がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。その藤刀を柱の上に置く。(中略)

例の神の子供達を、桑の木の皮をより合わせた縄で縛り上げる。その縄でしばるとき、人々はただ「まず。まず」と声をかける。(中略)

例の御贄柱を肩にかついだ神官が、「御宝だ、御宝だ」と言いながら、長い鈴のようなものを五個、綿の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走りだし、神の前庭を大きく七回回って姿を消す。そして、長殿の前庭で、先に桑の木の皮でしばられていた子どもたちが解き放され、祭は終わった。


イサクを捧げようとするアブラハム また、しおりには「御神(おこう)という紅の着物を着た子供を御贄柱とともに押し上げ、その後、立木に縄で縛りつけるのは何故か。かつては、御神(おこう)は殺されたと伝えられている。」と言う記述があるそうです。
つまり、「御神と言う少年を、御贄柱に縛り付けて一緒に押し上げて、昔は、本当に生贄として殺害していたが、今は解き放っている。」と言うのである。

このため、「御神を御贄柱に捧げて殺す」と言う部分が、旧約聖書の創世記、第22章「イサクを捧げようとするアブラハム」に類似していると騒がれてしまいました。


さらに、この逸話を盛り上げたのは、「モリヤ」と言う単語です。

前述の「守矢史料館」とは、「守矢家」の文書を保管・公開している博物館なのですが、この「守矢家」と言うのは、江戸時代まで諏訪大社上社の神長官を務めていた家系です。

さらに、諏訪大社は、漢字は違いますが「守屋山」の麓にあり、また、上記の創世記の逸話は、「モリヤ山」で行われたと伝えられています。

「モリヤ山」に「守屋山」、さらに「守矢氏」・・・どう思いますか ?


●祇園祭

祇園祭 祇園祭は、平安時代の貞観年間(9世紀)に始まったとされる、京都の「八坂神社(祇園社)」の祭礼です。
しかし、祇園祭には、八坂神社が主催する祭と、山鉾町が主催する祭の2種類の祭があり、一般的に、山鉾町が主催する祭事が「祇園祭」と認識されているそうです。
左の画像は、祇園祭のハイライトである「山鉾巡行」ですが、これは山鉾町が主催する祭事となります。

ところで、この山鉾を覆う掛け物ですが・・・これって日本の風景ではないのはご存知ですか ?

実際、山鉾を覆う掛け物は、ペルシャ絨毯やタペストリーであることが判明しており、鯉山町の飾りはベルギーで作成されたことも解っており、重要文化財になっています。 イサクに水を供するリベカ
さらに、その描かれた内容ですが・・・なんと、旧約聖書の場面が描かれた物が多数存在しています。

右の画像は、「函谷(かんこう)鉾」に使われているゴブラン織りのタペストリーですが、題名は「イサクに水を供するリベカ」となっており、旧約聖書の創世記第24章の場面を表しています。

ちなみに、このタペストリーは、16世紀のベルギー製であることが解っており、享保三年(1718年)、「沼津 宇右衛門」と言う商人が寄贈した物だそうです。

このため、タペストリーに旧約聖書の場面がある事とユダヤ人との関係は、正直、無関係だと思います。


しかし、以前、祇園祭山鉾連合会の理事長「深見 茂」氏と言う方が、2007年9月21日に放映されたTV番組「新説!?みのもんたの日本ミステリー!?失われた真実に迫る?」の取材で「祇園祭りはユダヤの文明と同じ形態と経過と結果を持ったお祭りです。」と回答していましたが・・・

それによると、祇園祭と、ユダヤ人の「シオン祭」と言う祭事には、次のような類似点がある、との事でした。

祇園祭 シオン祭
行事/スケジュール 7月1日~7月31日(1ヶ月) 7月から約1ヶ月
7/1~7/2 神事始め 新年祭
7/10 神輿洗い 贖罪の日
7/16 御手洗井戸開き 水汲み場の歓喜
7/15~7/21 山鉾巡行 巡行の祭り
7/17 神幸祭 神聖な日(ノアの方舟が山頂に到着)
7/22以降 還行祭(7/24) 歓喜祭(7/22)
船鉾 しかし、祇園祭は、無病息災を祈る祭りであるのに対し、シオン祭は、ノア一家が大洪水を無事乗り越えたことを祝う祭りですので、その起源は、前述の理事長の談話とは異なるのではないかと思われます。
一方、この山鉾ですが、ある研究者の話では、「山鉾は、ノアの方舟を表している。」と言う説もあるみたいです。

まあ、確かに、山鉾の中には「船鉾」もありますが・・・どうなのでしょうか ?


●その他

その他にも、「日ユ同祖論」では、次のような類似点を上げている人もいます。

・「旧約聖書のヤコブ」と「記紀のニニギノミコト」との類似性
・「ダビデ/ソロモン王」と「崇神天皇/垂仁天皇」との類似性
・「モーゼのトーラー」と「大化の改新の詔」との類似性
・「ユダヤ祭祀」と「皇室神祀」との類似性
・「ヘブライ語」と「日本語」との類似性
・「菊の紋章」と「エルサレム神殿の紋章」の類似性
・伊勢神宮と六芒星の関係

今回は、文章量が多くなり過ぎたので割愛しますが、詳しく調べると、かなり面白い内容もありますので、時間がある方は調べて見ると面白いかもしれません。


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「ナニャドヤラ」が「日ユ同祖論」にまで発展してしまいましたが、皆さんは、どう思われますか ?

元々、「日ユ同祖論」は、明治時代に日本を訪れたスコットランド人の商人「ニコラス マクラウド」が、日本とユダヤの類似性に気が付き、その内容を体系化した「日本古代史の縮図(The Epitome of The Ancient History of Japan)」と言う本が始まりとなります。

「ニコラス マクラウド」の説では、ユダヤ人(失われた10支族)は、青森県や沖縄県奄美諸島を経由して日本に入り、その後、京都まで辿り着いたとしています。

日本とイスラエル、色々と類似性はあるのかもしれませんが、重要なのは、「似ている事」と「こじつけ」の違いを明確に分離することだと思います。

明らかに「こじつけ」なのは、「伊勢神宮にある六芒星」とか、「菊の紋章とエルサレム神殿の紋章が同じである」と説だと思います。
マーク類は、国内のみならず、全世界で似てくるものです。そのために「商標」と言う決まりが存在します。
六芒星(ヘキサグラム)が、必ずユダヤと関係するのであれば、西部劇の保安官は、全員ユダヤ人になってしまいます。(笑)
また、現在、皇室を表す「菊花紋章(きくか-もんしょう)」ですが、「菊」自体、奈良時代に中国から輸入されてきた植物ですので、昔から皇室が「菊花紋章」を使っていた訳ではありません。 エルサレム神殿
「菊花紋章」は、鎌倉時代の「後鳥羽上皇」が、「菊」が好みで、自分の紋章として「菊」使っていたのが継承されただけと言われています。

さらに、現在では、日本人とユダヤ人のDNAは、明確に異なっていることが証明されていますし、日本周辺にもユダヤ人系のDNAを持つ民族は、ほとんどありません。

加えて、宗教的にも、ユダヤ教は「一神教」であるのに対して、日本は、「八百万の神」と言われるように「多神教」です。宗教がらみの類似性は、ゼロと考えて良いと思います。

色々と興味深い「日ユ同祖論」ですが、これからの研究成果に期待したいところです。


それでは次回も宜しくお願いします。

以上


【画像・情報提供先】
・Wikipedia(http://ja.wikipedia.org/)
・青森県写真集(http://cool.holy.jp/aomori/index.html)
・玄龍の琵琶の調絃(http://genryu.at.webry.info/)
・立命館大学アート・リサーチセンター(http://www.arc.ritsumei.ac.jp/dbroot/top.htm)
・奥州市埋蔵文化財調査センター(http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/)
・レムナント出版(http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/096suwa.htm)
・諏訪大社と諏訪神社(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/index.htm)
・生きた水(http://ikitamizu.com/)


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