2024年5月24日金曜日

宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ

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神武天皇御船出の港、美々津。 東遷にまつわる伝承を訪ねる。

天孫ニニギノミコトの降臨に始まる日向神話は、初代神武天皇が日向を船出し、大和平定への途についたという、「神武東遷」の物語をもって幕となる。美々津は、古くから神武天皇のお船出の港とされているのだが、古事記と日本書紀には港がどこであったかの記述はないことから、これは神話というよりも伝承としての話なのだろう。それにしても、美々津にはその伝承を語る事物が豊かだ。そこには、古代から連なる港町美々津の、繁栄の記憶が込められているのかもしれない。

七ツバエ

宮崎県内の東遷ルート

神武東遷の伝承を宮崎県内から広く見ていくと、その始まりは高原町狭野の皇子原ということになる。幼名を狭野丸といった神武天皇は、この地に生まれ、成人して現在の宮崎神宮(宮崎市)近くに居を移された。やがて兄の五瀬命と相談の後、東遷の途につくが、このルートは現在の宮崎市から陸路を北上し、都農町を経て美々津へ向かうというもの。都農町にある矢研の滝は、途上、立ち寄られた天皇が矢を研がれたところと伝えられ、また日向一の宮である都農神社は、この地で国土平安、航海安全を祈願したことが創建の由来となっている。

興味深いのは、後に神武天皇が治めることになる大和国の一の宮、三輪神社と都農神社の関連で、三輪神社に祭られる大物主神と都農神社の祭神である大国主神(おおものぬしのかみ)は、同一神と考えられている。また、都農神社の氏子には三輪の姓を持つ人が多い。古代日向と畿内の交わりを示すものだろうか。

おきよ祭り

旧暦8月1日の未明、町内を「起きよ、起きよ」の声が駆けぬける。神武天皇御船出の朝を再現したという「おきよ祭り」は、東遷伝説の記憶を伝えている

おきよ祭りに再現される船出

さて、美々津に着いた神武天皇一行は、ここで船の建造にかかる。その監督ぶりはあまりにも忙しく、ほころびた衣を立ったまま縫わせたことから、美々津の町内を指す「立縫(たちぬい)」の地名が残った。また、しばし腰掛けて身を休めたという岩は「御腰掛岩」として、現在も立磐神社の境内に残されている。

船も整った後、出航の日を決めて風待ちをしていたところ、天候が良くなったことから急遽日程を変更、八月一日の夜明けに御船出ということになる。安心して寝入っている人々を起こしてまわる「起きよ、起きよ」の声が美々津に響いた。これが旧暦八月一日に行われる「おきよ祭り」の由来となっている。

昭和15年4月には、神武天皇東遷2600年記念として「おきよ丸」が進水。124名の乗組員とともに大阪に向けて航海を行っている。全長21m、二人漕ぎの櫓24挺と帆を備えたこの船は、西都原古墳群から出土した舟型はにわをモデルに作られた。

大阪の堂島川筋を行く「おきよ丸」

1940年4月29日、大阪の堂島川筋を行く「おきよ丸」。美々津を出港して12日目の朝。

おきよ丸の船長だった祖父、矢野源吉のこと。

おきよ丸の航海は国を挙げての大事業で、船長を拝命した祖父も相当苦労をしたようです。ただ、わが家にとって、本当に大変だったのは航海の後のことで。一行は美々津から大阪まで航海して、陸路、神武天皇ゆかりの奈良県橿原に着いたのですが、その橿原から祖母宛てに「おきよ丸を買い取ったから、あるだけの金を送れ」と連絡があったそうです。言われるままに、お金をかき集めて送ったのですが、帰ってきたらおきよ丸の大きな幟を見せて「これが全部だ」と。なんのことはない、お金は漕ぎ手だけで80人もいた船乗りたちの飲み食いに消えていました。

それでも祖母は、「そうでしたか」と言ったきりでした。当時の美々津の男というのは、大体がハイカラで芸事が好きで、無駄なお金を使うものだったそうです。それを支えながら家業を切り盛りするのが、当時の美々津女の心意気だったのでしょう。また、船長としてそのくらいしないと収まらないほど、おきよ丸の航海は重い意味のあることだったのだろうと思います。

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