秦氏、土師氏、応神天皇、忌宮神社、宇佐八幡宮
即ち、応神天皇と神功皇后が東征された時に出発地の穴門国の豊浦宮(現在の忌宮神社)付近に滞在していた秦氏が住吉大神などと一緒に伴って移動し、一部の者が河内国に住み着いて土師氏と名乗り、東征にご一緒しなかった秦氏が長門国、周防国、豊前国で勢力を成し、応神天皇を主祭神とした宇佐八幡宮を建立し、また一部が土師氏を名乗った。後に土師氏は、大和国を中心に菅原氏、大江氏、秋篠氏にグループ化されたと考えて差し支え無い。
参考
秦氏とは?
『隋書』倭人伝で、608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫より東に中国人が住むという「秦王国」があることを知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前(豊国の北部、北九州から大分北部、京都郡や宇佐市が中心か?)と防長二州の地のことである。秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していた。畑作とは「秦作」であり、秦氏が畑作の最新技術を広めたという。また、鍛冶や鋳造技術に優れ、養蚕や機(ハタ)織りに長け。八幡信仰、稲荷信仰を広めた。さらに多数で渡来し、豊前、長門国、周防国に留まらず、河内国、大和国、山背国南部(例えば、太秦:うずまさ)など全国に拡がった。
神名「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名であり、多数の幡を立てて祭る神であるが、現在の宇佐八幡宮の祭神は、応神天皇、神功皇后、宗像三女神である。全国の八幡宮も主祭人は応神天皇である。
下関の幡生、北九州の戸畑、八幡など神功皇后の三韓征伐伝説に由来した有名な地名であるが、同時に秦氏のハタとの関連が伺える。
長府、忌宮神社「蚕種渡来之地」記念碑
いまから約1800年のむかし中国より秦の始皇11世の子孫功満(こま)王が来朝帰化し、ここ豊浦宮にご滞在の仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが、わが国養蚕の始まりと伝えられる。
忌宮神社の中に境内社として八坂神社があるが、八幡神社と共に渡来系氏族の秦氏の神社といわれている。現在、菅原道真公はこの八坂神社に祀られています。菅原氏は土師氏の一族であるが、さらに秦氏の末裔であるからであろう。
忌宮神社拝殿
奈良の東大寺と大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始されたが、宇佐八幡宮から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣を出した。銅は長門国の長登銅山産を使用した。また、平安時代末期、東大寺が消失した際、その再建にあたっては周防国が御造料地と定められた。重源上人は文治元年(1185)に大仏を改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手した。
神功皇后、応神天皇時代の秦氏のみならず、多くの民族が日本に渡来したようで、古くは紀元前3000年より古くからあったようで、シュメール人のペテログラフが下関で発見された。
最古の天満宮である防府天満宮は土師氏の氏神であり、天神山麓に食い込む境内を持ち、土師氏は実は秦氏であることを物語っている。道明寺天満宮は元は土師寺であるが、応神天皇陵を拝むためか平地に鎮座している。
宇佐神宮が宇佐に創建された理由についての検討
出雲は国譲りの後の為政者の天穂日命の子孫が出雲氏と土師氏と名乗っており、秦氏の一部は出雲経由で畿内に進出した。
秦の始皇帝は秦氏のルーツで埴輪を殉葬していた。
応神天皇になって河内平野(大阪)に進出して、大阪湾岸あたりを条里制地割の農地を開発して行った(参考)。
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