第4回講演会 「神道/仏教と古代ユダヤ教」
第4回講演会 2015.11.28ナザレ修道院 久保有政 講演レジメ
日本神道、仏教の中には、古代ユダヤ教および古代東方キリスト教の大きな影響があった 日本人の先祖は、聖書の神を信じていた! ◎これを言い始めたのは外国人とりわけユダヤ人。そして聖書と日本文化に詳しい日本人 ・エンゲルベルト・ケンぺル(1651-1716,ドイツ人医師。鎖国中の日本で長崎・出島に滞在。『日本誌』著者 日本人はもともと中東から来た民と書いた) ・ノーマン・マクレオド(ニコラス・マクレオド,1868-1889,スコットランドの実業家明治政府の招碑で日本に滞在 古代日本にイスラエル人が来たとした) ・ラビ・ユダ・アイゼンスタイン(1854-1956,『ユダヤ百科事典』編集者 事典の中で日本人=古代イスラエル人説を紹介) ・S・M・ラザー(20世紀初頭『十支族の謎と解答』著者) ・ヨセフ・アイデルバ-グ(1916-1985、京都の護王神社神官見習いとなって日本を研究したユダヤ人 日本語にはヘブル語に意味も発音もよく似たものが非常に多いとした) ・小谷部全一郎(1868-1941、東京皇典講究所、国学院大学講師 日本と古代イスラエル人の風習の類似を詳しく解説) ・川守田英二(1891-1960,牧師 日本の民謡の嚇子詞の多くはヘブル語だとする研究) ・佐伯好郎(1871-1965,早稲田大学名誉博士。聖公会で受洗。「景教」や古代ユダヤ人に関する研究 それらの日本への影響も指摘) ・ラビ・エリヤフ・アビハイル(1932-2015,「イスラエルの失われた十支族」調査機関アミシャープ創立者十支族は日本に来ているとした) ・ラビ・マーヴィン・トケイヤー(1936~ 東京のシナゴーグで10年間ラビだった。『日本とユダヤ封印の古代史』(徳間書店)の中で、日本人と古代イスラエル人のつながりを指摘) ・アビグドール・シヤハン(イスラエルの大学の歴史学教授『失われた十部族の足跡』(神戸平和研究所)で本の1/3は日本に関して書いている。日本人とイスラエル人は親戚としている) (他にも大勢) ◎日本で現在この研究をしている団体等 ・聖書と日本フォーラム(畠田秀生会長) ・日本民族総福音化運動協議会(手束正昭総裁) ・神戸平和研究所(柚浩二理事長) その他 ◎イスラエルの失われた十支族と日本神道 ・BC722年、北王国イスラエル(10支族)はアッシリア捕囚に。 その後イスラエルに帰ることができず離散今もその末裔はとりわけシルクロード沿い(アフガニスタン、パキスタン、中央アジア、インド北部、ミャンマー、中国南西部等)に住んでいる。彼らはトーラー(モーセ五書)をすでに失い、割礼や安息日の風習を失っている場合もあるが、古代イスラエル人の多くの風習を今も受け継いでいる。 ・10支族の本隊は日本にまで到達した可能性が高い。その証拠が、日本神道の風習(神社構造、みそぎの風習、清め・汚れの観念、祭、お神輿、神官の服、他)神道の神(現在は多神教といわれるが、古事記・日本書紀以前は一神教だった。また神道では、神は目に見えない霊であるとし、基本的に偶像をつくらない) 天皇(祭祀王である天皇は古代イスラエルの祭祀王に似る) 日本語(へブル語と意味も発音も同様というものがじつに多い) 日本の風習文化(清潔好き、清き明き心を大切にする、黄泉の観念、他) 各地にみる"古代イスラエル,[諏訪大社に伝わるイサクの祭御頭祭:ミサクチ祭)、沖縄のエデンの園伝説や過越にそっくりの祭、伊勢神宮の遷宮は幕屋の遷宮に似る、古代出雲大社の高層社殿とヨルダン川東岸の高層社殿の類似、他】 ・古代日本で神道を司っていた天皇家、中臣氏、物部氏、忌部氏等は10支族の末裔と思われる(天皇家の系図は、エフライム(10支族の王家)の系図とそっくり。皇室の菊の御紋は、中東の王家の紋)。 ・DNAの上でも、日本人の40%近くが持つY染色体D系統(中国や韓国にはほとんどない)は、ユダヤ人のY染色体E系統と近縁・同祖である。 ◎古代東方キリスト教と仏教、神道 ・AD52年、使徒トマスがインドのミラポール(現チェンナイ)上陸。 7つの教会建てる。 →この使徒トマスのキリスト教の影響を受け、大乗仏教が成立(AD1世紀後半~2世紀)。阿弥陀仏信仰、法華経、真言宗等にはキリスト教の影響が明らか。 ・AD431年、ネストリウス(コンスタンチノープル大主教)がローマカトリックと別れ、東方への大宣教を開始。彼らはその後中国で「景教徒」と呼ばれた。→中国に伝わった仏教に、さらに景教の教えや風習が入る(位牌、戒名、数珠、お盆、他)。 また、空海は中国・長安に行き、景教の影響を受けた。中国浄土教の開祖・善導も長安で景教にふれて称名念仏を考案。日本でそれを受け継いだのが法然や親鸞。 池田栄教授によれば、聖徳太子(6~7世紀)の側近にも景教徒(マル・トマ)がいた。 聖徳太子の慈善・福祉・医療・学芸事業(四箇院)は、景教徒がシルクロードでしていることを模範として行ったものだった。 ・上記「景教」(ネストリウス派キリスト教)とは別のルートで、「秦氏」による東方キリスト教の流れも。 秦氏は、2世紀頃には中央アジアに近い現・新彊ウイグル自治区西部の「弓月国」「雅馬図(やまと)」にいた。 彼らはイスラエル10支族の末裔とも思われるが、その頃拡大していた東方キリスト教に改宗。 彼らはそののち中国や朝鮮半島を経て、3~4世紀頃、日本に大挙渡来してきた。日本の神社の大半に秦氏がかかわっている。以後、日本神道には単に古代ユダヤ教だけでなく、東方キリスト教の要素も入った。その他、先進文化を日本にもたらしたのも秦氏。 聖書の神は、日本人の先祖が信じていた神だった。 私たちはその神に立ち返るべき。
0 件のコメント:
コメントを投稿