実は諏訪大社と守屋山にはユダヤ人伝説やユダヤ教の儀式と類似点があるのでご紹介します。列挙すると…
・「モリヤ」はユダヤ人の国イスラエルの首都エルサレムにある山の名前と同音。
・「御神」の「神官が小刀で刺そうとした瞬間に止めて子供は解放される」というくだり
が、旧約聖書の「イサクの生贄」にそっくり。それは…
「神がアブラハムに『あなたの一人息子のイサクをモリヤ山で生贄にしなさい』(創世記22:2)と命じて、アブラハムが泣く泣く我が子に手をかけるときに神がそれを止めた」
という物語で、信仰を試すもの。
アブラハムは代わりに藪に角をひっかけた山羊を生贄にした。この儀式はユダヤでは「イサクの燔祭」といって最重要な儀式となっている。
・御頭祭は別名「ミサクチの祭」と呼ばれているが「ミサクチ」はヘブライ語で「ミイツハク」に似ており「イサク由来の」という意味である。
しかしなぜ「75頭」なのでしょうか。新約聖書の「使徒行伝 第7章 14 節」に「ヨセフは使いをやって、父ヤコブと75人にのぼる親族一同とを招いた。」とあります。ヨセフは、あの生贄として捧げられたイサクの孫です。供物の数は、神のご加護により助けられたイサクから枝分かれして増えた親族数なのかもしれません。
ちなみに徳島県の『多祁御奈刀弥(タケミナトミ)神社』などでは、75のお膳をお供えする儀式が残っています。
追記:
諏訪大社の「御柱祭」では、御柱(おんばしら)と呼ばれる御神木を山から切り出して諏訪大社境内の四隅に建てる。旧約聖書「列王記」上6章には、ソロモン神殿を造る際、杉やモミの大木を隣国レバノンの森で切り出し、エルサレムまで運んだという記述がある。御柱祭でも、山から切り出す御柱には、かつて杉やモミの大木が使われたということで、木材の種類が一致している。
(列王記上
6: 9 ソロモンは神殿を建て、これを完成させるにあたって、神殿の屋根を杉材でできた雨水溝の列でおおった。
…
7 :1 また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。 2 彼は「レバノンの森の宮殿」を建てた。)
諏訪大社・上社で毎年4月15日(旧暦3月の酉の日)に行われる御頭祭(おんとうさい)では、過去75頭の鹿が生贄として供えられていた。そして、十支族の末裔といわれるイスラエルのサマリア人は、かつて「過越(すぎこし)の祭り」で75頭の子羊を生贄として捧げていたという。しかも、この祭はユダヤ暦のニーサーン(第1月)15~21日に行われており、西暦にすると3~4月にあたるため時期的に近い。
十間廊と幕屋: 諏訪大社・上社前宮の境内にある「十間廊(じっけんろう)」と呼ばれる建物の概観は、聖書に記述された移動式神殿である「幕屋」とよく似ている。ともに屋根はあるが壁がなく、柱を等間隔に並べた骨格だけの建物だ。十間廊の奥行きは約18m(十間)。幕屋の聖所は、長さが30キュビト(13m)、幅が10キュビト(約4m半)と、大きさも近い。かつて十戒が刻まれた石板を収めた「契約の箱」(聖櫃、アーク)は幕屋に置かれたが、御頭祭で神輿を十間廊の中に置くことにも類似している。(出エジプト記26参照。)
ところで「日ユ同祖論」をご存知ですか?
https://ameblo.jp/relaken/entry-12421894603.html
イスラエルには、失われた十支族を探し求めて世界各地を調査しているアミシャーブという機関があり、諏訪地方にも下記の根拠により強い関心を寄せて調査を行っています🔍
モリヤの山: 諏訪大社の上社は、守屋山(もりやさん)の麓に鎮座する。旧約聖書によると、ソロモン王はエルサレムのモリヤ(Moriah)山で、主のために神殿の建築を始めたという。諏訪大社もイスラエル神殿も"モリヤ山"の麓に存在する聖地という点が共通している。
御柱祭とソロモン神殿: 諏訪大社の「御柱祭」では、御柱(おんばしら)と呼ばれる御神木を山から切り出して諏訪大社境内の四隅に建てる。旧約聖書「列王記」上6章には、ソロモン神殿を造る際、杉やモミの大木を隣国レバノンの森で切り出し、エルサレムまで運んだという記述がある。御柱祭でも、山から切り出す御柱には、かつて杉やモミの大木が使われたということで、木材の種類が一致している。
(列王記上
6: 9 ソロモンは神殿を建て、これを完成させるにあたって、神殿の屋根を杉材でできた雨水溝の列でおおった。
…
7 :1 また、ソロモンは十三年をかけて自分の宮殿を建て、その宮殿のすべてを完成させた。 2 彼は「レバノンの森の宮殿」を建てた。)
御頭祭(おんとうさい): 諏訪大社・上社で毎年4月15日(旧暦3月の酉の日)に行われる御頭祭では、過去75頭の鹿が生贄として供えられていた。そして、十支族の末裔といわれるイスラエルのサマリア人は、かつて「過越(すぎこし)の祭り」で75頭の子羊を生贄として捧げていたという。しかも、この祭はユダヤ暦のニーサーン(第1月)15~21日に行われており、西暦にすると3~4月にあたるため時期的に近い。
十間廊と幕屋: 諏訪大社・上社前宮の境内にある「十間廊(じっけんろう)」と呼ばれる建物の概観は、聖書に記述された移動式神殿である「幕屋」とよく似ている。ともに屋根はあるが壁がなく、柱を等間隔に並べた骨格だけの建物だ。十間廊の奥行きは約18m(十間)。幕屋の聖所は、長さが30キュビト(13m)、幅が10キュビト(約4m半)と、大きさも近い。かつて十戒が刻まれた石板を収めた「契約の箱」(聖櫃、アーク)は幕屋に置かれたが、御頭祭で神輿を十間廊の中に置くことにも類似している。(出エジプト記26参照。)
(出エジプト記
26:7 また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。 8 幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とする。)
https://youtu.be/pbp5VHLhZn8?si=ZSWQ_CQ-n9ANnZXc
実は諏訪大社と守屋山にはユダヤ人伝説やユダヤ教の儀式と類似点があるのでご紹介します。列挙すると…
・「モリヤ」はユダヤ人の国イスラエルの首都エルサレムにある山の名前と同音。
・「御神」の「神官が小刀で刺そうとした瞬間に止めて子供は解放される」というくだり
が、旧約聖書の「イサクの生贄」にそっくり。それは…
「神がアブラハムに『あなたの一人息子のイサクをモリヤ山で生贄にしなさい』(創世記22:2)と命じて、アブラハムが泣く泣く我が子に手をかけるときに神がそれを止めた」
という物語で、信仰を試すもの。
アブラハムは代わりに藪に角をひっかけた山羊を生贄にした。この儀式はユダヤでは「イサクの燔祭」といって最重要な儀式となっている。
・御頭祭は別名「ミサクチの祭」と呼ばれているが「ミサクチ」はヘブライ語で「ミイツハク」に似ており「イサク由来の」という意味である。
しかしなぜ「75頭」なのでしょうか。新約聖書の「使徒行伝 第7章 14 節」に「ヨセフは使いをやって、父ヤコブと75人にのぼる親族一同とを招いた。」とあります。ヨセフは、あの生贄として捧げられたイサクの孫です。供物の数は、神のご加護により助けられたイサクから枝分かれして増えた親族数なのかもしれません。
ちなみに徳島県の『多祁御奈刀弥(タケミナトミ)神社』などでは、75のお膳をお供えする儀式が残っています。
14 そこで、ヨセフは人を遣わして、自分の父ヤコブと七十五人の親族全員を呼び寄せました。
出エジプト
26:
7 また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。 8 幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とする。
https://mag.japaaan.com/archives/218827/2
創世記
22 1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。 2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」 3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。 4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。 5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。 6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。 7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」 8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を096備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。 9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。 10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 11 そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」 12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。 14 アブラハムは、その場所の名を097アドナイ・イルエと呼んだ。今日も、098「主の山には備えがある」と言われている。 15 主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、 16 こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、 17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。 18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」
なんとシカの頭を75頭、ウサギを串刺し…諏訪大社で行われる謎の奇祭「御頭祭」はユダヤ教と関係?
みずめ
ご神体「守屋山」と「御神」に共通するユダヤ伝説
現代の説明では豊作祈願の神事とされていますが、他の日本の一般的な豊作祈願とは一線を画すといえるでしょう。鹿による農作物被害を減らすために、近隣住民が鹿を神にお供えしたことから始まったという説もありますが、しかし75頭も必要でしょうか?
実は諏訪大社と守屋山にはユダヤ人伝説やユダヤ教の儀式と類似点があるのでご紹介します。列挙すると…
・「モリヤ」はユダヤ人の国イスラエルの首都エルサレムにある山の名前と同音。
・「御神」の「神官が小刀で刺そうとした瞬間に止めて子供は解放される」というくだり
が、旧約聖書の「イサクの生贄」にそっくり。それは…
「神がアブラハムに『あなたの一人息子のイサクをモリヤ山で生贄にしなさい』と命じて、アブラハムが泣く泣く我が子に手をかけるときに神がそれを止めた」
という物語で、信仰を試すもの。
アブラハムは代わりに藪に角をひっかけた山羊を生贄にした。この儀式はユダヤでは「イサクの燔祭」といって最重要な儀式となっている。
・御頭祭は別名「ミサクチの祭」と呼ばれているが「ミサクチ」はヘブライ語で「ミイツハク」に似ており「イサク由来の」という意味である。
ではなぜこのような類似点が発見され、諏訪がユダヤとの関係があるのではと疑問が抱かれたのか、順を追って説明します。
3ページ目 出雲から逃げてきた諏訪氏vs土着民の守矢氏?
出雲から逃げてきた諏訪氏vs土着民の守矢氏?
諏訪大社の創建は『古事記』によると
"建御雷尊(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫った際に、大国主命の次男の建御名方命が建御雷尊に戦いを挑んで阻止しようとした。しかし建御名方命は負けてしまい、諏訪の地まで逃れた"
ということで、この建御名方命の依り代とされたのが諏訪氏であり、代々「大祝(おおほうり)」と呼ばれる神職を世襲で務めて諏訪も明神の「現人神(あらびとがみ)」として崇敬されていました。
一方、守矢氏はいつごろから諏訪にいたのか始祖がはっきりしません。しかし古くからこの土地に住んでいたことは間違いなく、その証拠に地元の神話には洩矢神(もりやのかみ)が登場します。
出雲から諏訪に来た諏訪氏と争いをして負けて、国を譲る代わりに諏訪大社の祭祀を務めるようになったという伝説があります。この守矢氏は代々諏訪大社の神長官を務めており、現在も諏訪大社の近くに「神長官守矢史料館」があり、御頭祭の復元などを見ることができます。このことから、諏訪が現人神として祀られ、負けた守矢がその祭祀を行うという制服された図式にも見て取れますね。
守屋山がご神体のように記述している最古の文献は天文22年(1553年)の『上宮鎮坐秘伝記』で、
"古記に云はく、神の岩隠か、諏方国鎮座の処、宮社を造らずして、唯拝殿を之を建て、山を以て神体と為して之を拝す"
とあります。これだといかにも守屋山=ご神体というのは後付けのように捉えられてしまいますが、元々土着だった守矢氏の信仰や伝説が、諏訪大社のご神体だということになってしまって、混同されてしまったのでしょうか。
また、建御名方命そのものが守屋山に降り立ちて洩矢神となったと同一視する説もあり、どちらにしても興味深いものです。
また、諏訪大社の七不思議のひとつに「耳裂けの鹿」がありますが、供物に必ず耳の裂けた鹿がいるというもので、これはイサクの代わりに供物にした鹿のイメージではないかという説もあります。諏訪には山羊がいなかったので、代わりに鹿が捧げられたと考えられます。
しかしなぜ「75頭」なのでしょうか。新約聖書の「使徒行伝 第7章 14 節」に「ヨセフは使いをやって、父ヤコブと75人にのぼる親族一同とを招いた。」とあります。ヨセフは、あの生贄として捧げられたイサクの孫です。供物の数は、神のご加護により助けられたイサクから枝分かれして増えた親族数なのかもしれません。
そもそもユダヤ人は紀元前にローマに敗れてから、あらゆる地に離散した民族。迫害された一派が流れに流れて日本にやってきて留まり、自分たちの信仰の依り代として山を「モリヤ」と名づけ、祭りを行っていたとしても不思議ではありません。
守矢氏の家紋(Wikipediaより)
ちなみに守矢氏の家紋は十文字。まるで十字架のようです。また守屋山には「十文字岩」「鬼ケ城」などの名前の付いた奇岩がありますが、筆者が昔調べたところ「鬼」と呼ばれる場所は渡来人ゆかりの場所が多いのですよね。十字架はキリスト教の象徴なので、ユダヤ人ではない渡来人なのかもしれません。
これらが全くの偶然なのか、否か。謎は尽きることはありません。
参考:坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」
https://mag.japaaan.com/archives/218827/3
なんとシカの頭を75頭、ウサギを串刺し…諏訪大社で行われる謎の奇祭「御頭祭」はユダヤ教と関係?
みずめ
出雲から逃げてきた諏訪氏vs土着民の守矢氏?
諏訪大社の創建は『古事記』によると
"建御雷尊(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫った際に、大国主命の次男の建御名方命が建御雷尊に戦いを挑んで阻止しようとした。しかし建御名方命は負けてしまい、諏訪の地まで逃れた"
ということで、この建御名方命の依り代とされたのが諏訪氏であり、代々「大祝(おおほうり)」と呼ばれる神職を世襲で務めて諏訪も明神の「現人神(あらびとがみ)」として崇敬されていました。
一方、守矢氏はいつごろから諏訪にいたのか始祖がはっきりしません。しかし古くからこの土地に住んでいたことは間違いなく、その証拠に地元の神話には洩矢神(もりやのかみ)が登場します。
出雲から諏訪に来た諏訪氏と争いをして負けて、国を譲る代わりに諏訪大社の祭祀を務めるようになったという伝説があります。この守矢氏は代々諏訪大社の神長官を務めており、現在も諏訪大社の近くに「神長官守矢史料館」があり、御頭祭の復元などを見ることができます。このことから、諏訪が現人神として祀られ、負けた守矢がその祭祀を行うという制服された図式にも見て取れますね。
守屋山がご神体のように記述している最古の文献は天文22年(1553年)の『上宮鎮坐秘伝記』で、
"古記に云はく、神の岩隠か、諏方国鎮座の処、宮社を造らずして、唯拝殿を之を建て、山を以て神体と為して之を拝す"
とあります。これだといかにも守屋山=ご神体というのは後付けのように捉えられてしまいますが、元々土着だった守矢氏の信仰や伝説が、諏訪大社のご神体だということになってしまって、混同されてしまったのでしょうか。
また、建御名方命そのものが守屋山に降り立ちて洩矢神となったと同一視する説もあり、どちらにしても興味深いものです。
また、諏訪大社の七不思議のひとつに「耳裂けの鹿」がありますが、供物に必ず耳の裂けた鹿がいるというもので、これはイサクの代わりに供物にした鹿のイメージではないかという説もあります。諏訪には山羊がいなかったので、代わりに鹿が捧げられたと考えられます。
しかしなぜ「75頭」なのでしょうか。新約聖書の「使徒行伝 第7章 14 節」に「ヨセフは使いをやって、父ヤコブと75人にのぼる親族一同とを招いた。」とあります。ヨセフは、あの生贄として捧げられたイサクの孫です。供物の数は、神のご加護により助けられたイサクから枝分かれして増えた親族数なのかもしれません。
そもそもユダヤ人は紀元前にローマに敗れてから、あらゆる地に離散した民族。迫害された一派が流れに流れて日本にやってきて留まり、自分たちの信仰の依り代として山を「モリヤ」と名づけ、祭りを行っていたとしても不思議ではありません。
守矢氏の家紋(Wikipediaより)
ちなみに守矢氏の家紋は十文字。まるで十字架のようです。また守屋山には「十文字岩」「鬼ケ城」などの名前の付いた奇岩がありますが、筆者が昔調べたところ「鬼」と呼ばれる場所は渡来人ゆかりの場所が多いのですよね。十字架はキリスト教の象徴なので、ユダヤ人ではない渡来人なのかもしれません。
これらが全くの偶然なのか、否か。謎は尽きることはありません。
参考:坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」
0 件のコメント:
コメントを投稿