@古代神代文字 阿比留文字説
古代神代文字に「阿比留文字・日文肥人書(こまひとのふみ)」がある。
対馬 卜部-阿比留家に伝来したので「阿比留文字」と呼ばれる。
平田篤胤が阿比留文字を「日文四十七音」として
『神字日文傳』に紹介している。書体は横組みと縦組みがある。
「阿比留文字」はハングル文字を元に創作されたとの説がある。
@ハングル文字の成立
朝鮮語は15世紀半ばまで、朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、
口訣・吏読など万葉仮名のように漢字を借りた表記法により
断片的・暗示的に示されてきた。
ハングル文字は、朝鮮語(韓国語)を表記するための表音文字である。
1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」の名で公布した。
北朝鮮ではチョソングルチャと呼ばれる。
韓国、北朝鮮以外でも満洲や沿海州、シベリア、樺太(サハリン)、
カザフスタン、トルクメニスタンなど旧ソ連の一部で、
朝鮮民族の居住地域を中心に使用されている。
@平田神道とイエズス会
平田篤胤著の『古史伝こしでん』37巻は神代じんだいのみである。
本居もとおり宣長のりながの『古事記伝』を模しているが、
文献実証主義からは完全に逸脱している。
平田神道は天主教書の影響を受けている。
天主教書の原典は、16世紀にイエズス会の布教活動として
アジア各地に宣教師が派遣され、キリル文字で書かれた聖書である。
平田篤胤の国学と天主教教義との接点について、
伊東多三郎氏の研究成果として在華イエズス会士、アレニの著作『三山論学紀』
平田篤胤の『本教外篇』とを比較対照して(『南蛮学統の研究 増補版』)、
そこに「改作」を指摘されている。
平田篤胤は『本教外篇』において、
「『天主』を国常立尊などに当て、復古神道における創造主宰神観を形成した」(『日本キリスト教大事典』)。
@長尾神社の阿比留文字
長尾神社(倉敷市玉島長尾 2287・小字宮原)は、
応永年間(1394~1428)に宇佐八幡宮から再勧請された。
天正年間(1573~1593)には毛利備中守隆元の祈願所であった。
その後松山城主池田備中守、同出雲守の新田開墾の祈願所となった。
頭番祭(75膳の神饌を調製し神前に供えた後、直会として参列者が戴く。
膳は握り飯、頭付きの魚、竹箸)。
長尾神社の阿比留文字 「カムナカラ」
「阿比留文字」の横組みで右から「カムナカラ」と表記されている。
田邉 寬氏(長尾神社 氏子総代)が「神代文字を検証する倉敷市玉島長尾神社」
田邉 寬氏は「阿比留文字である」断定した。
神代文字
「長尾神社の幣殿の南側、石作りの門の笠石に刻まれた不思議な文字について」
従来から神代ジンダイ文字とか、或は朝鮮の古代文字であろうと言われて来た。
境内の年号のある石灯籠や、鳥居と比較して見ると、
江戸中期から後期のものではないかと疑問を持たざるを得ない。
疑問の第一は「カムナガラ」と云う語である。
日本書紀の大化三年(647)四月壬午の条に載っているのが初出で、
惟神、随神、神随、乍神、神奈我良等とも書く。
「カムナガラ」の「ナガラ」は神全体そのものを指している。
神は天照大神に帰一する。
本居宣長は、「カムナガラは、ある絶対的なもの、つまり神そのものの、
時間的、空間的、実現関係を現わしたもの」と述べている。
神道にとり神聖な言葉で、日本独特の大和言葉である。
本殿近くの大切な場所に後世迄伝える様、石に彫り込むには
眞に相応しい語である。
然しそれ丈に何故朝鮮の文字で記るされたかと言う点が引かゝる。
まして鎖国時代である。
異国を忌み嫌っていた時代である。
通信使を通じての交流があったとは言え、當時、格下と思われていた国の、
「表面を和平で飾りながら、内面は両国相互の激しい蔑視感、とりわけ日本人
の優越感は貧しい国際觀の本質を率直にあらわすものであった。」と。
しかも古代語をである。
世襲が多く幼少より神道を叩き込まれた神職達が果して許るすだろうか。
一寸考え難い様に思う。
次に場所に対する疑問である。
寺院なら兎も角、国粋色の特に濃厚な八幡宮である。
当時朝鮮の通信使一行が鞆の浦、次に牛窓に上陸したのは事実である。
その中間の一神社に、万一関係者があったとしても、又其の人が古典文字を
心得ていたとしても、「カムナガラ」と云う何とも朝鮮に
似つかわしくないと思える語を奉納するだろうか。
又朝鮮との交易で産をなした人の寄進と考えても同様であり、
宮司も亦許るさない様な氣がする。
それでは神代文字説は如何。
「我国個有の神代から伝えられたと云う文字で、
実は亀卜の灼兆や朝鮮の諺文に擬した偽作。
日文、天名地鎭アナイモ、阿比留文字などの種類がある。
江戸時代その存否について平田篤胤の「神字日文伝ノツタエ」=(存在説)
と伴信友の「仮字本末モトスエ」=否定説等の論争があった。
今日では全く否定されている。
二十年程前長崎新聞だったと思うが相当大きな記事を見せて貰った。
平田篤胤は門人553人その外、没後の門人と称する者が1330人もいた
と言うから、その影響力は大きかった。
そこで平田篤胤について調べると思いがけない事が判った。
1776~1843年の人で、安永五年秋田藩大番組頭大和田祚胤ムラタネ
禄高百石の第四子で、20 才の時江戸え出奔。
寛政十二年(1800、二十五才)備中松山藩士平田篤隠アツヤスカ(禄高五十石)
の養子となり、文政六年(1823)藩を辞する迄23年間、
働き盛りを松山藩士として活躍していたと云う点である。
餘り大きくもない備中松山藩の事、高名な国学者で神道の権威者篤胤と、
世襲の長尾八幡宮司(太田氏)とは当然接觸があった事と思われ、
想像を逞しうすると師弟か、又はそれに近い関係ではなかったろうか。
神代文字を肯定し、神代の昔から個有の文字があったとする説は、古典にも
通じ、神国を信ずる心の深い神職達には極めて受け入れ易かったと思われる。
神主や篤信者達が
「日本には漢字渡来以前から比の様に立派な個有の文字があったのだ」
と誇り高く、所謂神代文字で彫らせたものではないかと云う氣がする。
境内の同時代の石造物に比べても大きく仲々立派である。
神代文字についても論争のあった「神字日文伝フミノツタエ」や
「仮字カナノ本末モトスエ」、更に否定論を決定的なものにしたと云う
山田孝雄の「所謂神代文字の論」等を読んでみる価値がる。
それでは韓国の学者が觧読出来た理由は如何。
私は、神代文字を創り出した学者達が、亀卜灼キノボクシャク兆
(古代中国で亀の甲を焼いて、できた裂け目で吉凶を判じたうらない。)や
朝鮮の諺文オンモンに擬して創り出したものならば、そのルーツが近いので、
古典に造詣の深い金文吉先生なら解読されても不思議はないと思う。
20年程前、古文書コモンジ ョの専門 原田満左右先生が長尾神社へ参詣の節、
此の文字に関心をもたれ、留学生を通じ韓国の先生方に
調べて貰ったが、サッパ判らなかった。
神代文字は根拠が薄弱だったのか、他に何か理由があったのか、
漸次衰え、終戦後は神道に対する考え方の激変もあり、
殆ど忘れられてしまったのではなかろうか。
少しでも比の文字や長尾神社、更に長尾の歴史に関心を持ち、
敬神崇祖の念を高めて頂けたらとの思いから、不馴れで拙い一文を、
敢て呈した訳である。
若い人達にその氣運が生じ、散逸した陶の太田宮司家文書や、
長尾の古文書類を探し求め、又岡山大学に保管されていると聞く
「坡南小野家」の厖大な文書等がある。
https://w.atwiki.jp/fpbnx163moro/pages/24.html
古代文字
@神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)とは、漢字伝来以前に
古代日本で使用されたと紹介された多様な文字、文字様のものの総称である。
江戸時代からその真贋について議論の対象となっており、
現代の研究水準において存在の確証が得られているものはない。[出1]
1、
神代文字と称されるものには、神話や古史古伝に深く結びつき
神代に使用された文字であると主張されているものと、
後代になって神代文字の一種とみなされるようになったものとがある。[出2]
主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり[1]、神事などに使われており、
一部の神社では符、札、お守りなどに使用するほか、
神社に奉納される事もあった。
また、機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏洩を
防ぐために暗号として使用されたという。
江戸時代の藩札の中には、
偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもある。[出3]
[1]、大内神社 古代文字「阿比留文字」
「拝殿の向拝、唐破風(からはふ)は、
古代文字を彫刻した兎の毛通しをつけている。」とある。
「唐破風」は、反転曲線をもった山形の破風。曲線の接点(腰)にいばらがある。
同様の反転曲線で屋根全体が出来ているものを唐様からようという。
「兎のけ通し」とは、唐破風の中央につく懸魚。普通の懸魚より平たい。
古代文字はアルファベットであるが、
現在使用されている英語のアルファベットでは無い。
大内神社近くの熊山遺跡より発掘された遺物を層別し、
「道教・仏教・儒教・ヒンズー経とアジア大陸の主要宗教を網羅している。」
地名学より吉備国の語源、黄蕨の蕨は突厥国からの渡来者を意味してる。
アジア大陸の主要宗教が渡来していた証拠である。
原始キリスト教(景教)遺物が発見されていない事実がある。
西暦600~640年頃、唐の首都長安にペルシア寺が建立され、
712年頃に大秦教寺と名称変更されている。
天平8年(736)に、景教徒が日本を訪問し聖武天皇と会見したことが
『続日本紀』に記録されている。景教とは古代ユダヤ教である。
伊勢の語源 ロシア共和国 イセーティ川(Iset)よりの渡来人・伊勢津彦命
ウラル山脈東部の標高 250mに位置するイセーティ湖に源を発する。
イセチ川(英語: Iset、ロシア語: Исеть)は、
ロシアのスヴェルドロフスク州、クルガン州、チュメニ州を流れる川。
トボル川の左支流で、最終的にエルティシ川・オビ川を経て北極海へ流れる。
全長 638km、流域面積は58,000平方km。11月から4月にかけては凍結する。
ウラルを超えてきた旅人がここから船に乗りオビ川水系を東へ旅していた。
キリル文字とはロシア語で使われる文字である。
旧ソ連に属した多くの国や、その周辺にある国々でも自国の言葉を
表す文字として使用されている。
9世紀にスラブ族に派遣されたブルガリアの宣教師キリルが、
キリスト教を広めるためにギリシア文字を元にして考案した文字である。
ギリシア正教とともに東ヨーロッパに広まった。
キリル文字は長年にわたり、広くスラブ諸言語の書写に使用されている。
キリル文字の初見は、ブルガリア帝国のシメオン皇帝が
即位した893年とされている。
@キリル文字の特長
ロシア語で使用される文字数は33文字(キリル文字は43文字)で、
形はアルファベットに似ている。
キリル文字はオンシャル(大文字)字体から考案されている。
ローマ字より母音も子音も文字の種類が豊富で、
日本語の音を2文字の組み合わせで表すことができる。
「きゃ」はローマ字では「kya」で、キリル文字なら「кя」となる。
文字の並べ方はローマ字と同一に
左から右へ横書きする。上から下へ行をならべる。
文の最初の文字や、人名地名などの最初の文字は大文字を使う。
言葉と言葉の間は空けて分けて書く。点は「,」、丸は「.」を使用する。
大文字
АБВГДЕЁЖЗИЙКЛМНОПРСТУФХЦЧШЩЪЫЬЭЮЯ
小文字
абвгдеёжзийклмнопрстуфхцчшщъыьэюя
@16世紀のイエズス会の布教活動が知られている。
アジア各地にキリスト教宣教師が派遣された。
ラテン文字、キリル文字は布教のための
聖書や賛美歌を書き表す手段として使用された。
@キリル文字説
大内神社の古代文字とキリル文字とを比較した。類似している。
古代文字は大内神社本殿が元禄16年(1703)に再建された時に、
関係者の記憶により製作されたものである。
ГがL、Tが上下逆に彫刻されている。
@古代神代文字 阿比留文字説
古代神代文字に「阿比留文字・日文肥人書(こまひとのふみ)」がある。
対馬 卜部-阿比留家に伝来したので「阿比留文字」と呼ばれる。
平田篤胤が阿比留文字を「日文四十七音」として
『神字日文傳』に紹介している。書体は横組みと縦組みがある。
「阿比留文字」はハングル文字を元に創作されたとの説がある。
@ハングル文字の成立
朝鮮語は15世紀半ばまで、朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、
口訣・吏読など万葉仮名のように漢字を借りた表記法により
断片的・暗示的に示されてきた。
ハングル文字は、朝鮮語(韓国語)を表記するための表音文字である。
1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」の名で公布した。
北朝鮮ではチョソングルチャと呼ばれる。
韓国、北朝鮮以外でも満洲や沿海州、シベリア、樺太(サハリン)、
カザフスタン、トルクメニスタンなど旧ソ連の一部で、
朝鮮民族の居住地域を中心に使用されている。
@平田神道とイエズス会
平田篤胤著の『古史伝こしでん』37巻は神代じんだいのみである。
本居もとおり宣長のりながの『古事記伝』を模しているが、
文献実証主義からは完全に逸脱している。
平田神道は天主教書の影響を受けている。
天主教書の原典は、16世紀にイエズス会の布教活動として
アジア各地に宣教師が派遣され、キリル文字で書かれた聖書である。
平田篤胤の国学と天主教教義との接点について、
伊東多三郎氏の研究成果として在華イエズス会士、アレニの著作『三山論学紀』
平田篤胤の『本教外篇』とを比較対照して(『南蛮学統の研究 増補版』)、
そこに「改作」を指摘されている。
平田篤胤は『本教外篇』において、
「『天主』を国常立尊などに当て、復古神道における創造主宰神観を形成した」(『日本キリスト教大事典』)。
@長尾神社の阿比留文字
長尾神社(倉敷市玉島長尾 2287・小字宮原)は、
応永年間(1394~1428)に宇佐八幡宮から再勧請された。
天正年間(1573~1593)には毛利備中守隆元の祈願所であった。
その後松山城主池田備中守、同出雲守の新田開墾の祈願所となった。
頭番祭(75膳の神饌を調製し神前に供えた後、直会として参列者が戴く。
膳は握り飯、頭付きの魚、竹箸)。
長尾神社の阿比留文字 「カムナカラ」
「阿比留文字」の横組みで右から「カムナカラ」と表記されている。
田邉 寬氏(長尾神社 氏子総代)が「神代文字を検証する倉敷市玉島長尾神社」
田邉 寬氏は「阿比留文字である」断定した。
神代文字
「長尾神社の幣殿の南側、石作りの門の笠石に刻まれた不思議な文字について」
従来から神代ジンダイ文字とか、或は朝鮮の古代文字であろうと言われて来た。
境内の年号のある石灯籠や、鳥居と比較して見ると、
江戸中期から後期のものではないかと疑問を持たざるを得ない。
疑問の第一は「カムナガラ」と云う語である。
日本書紀の大化三年(647)四月壬午の条に載っているのが初出で、
惟神、随神、神随、乍神、神奈我良等とも書く。
「カムナガラ」の「ナガラ」は神全体そのものを指している。
神は天照大神に帰一する。
本居宣長は、「カムナガラは、ある絶対的なもの、つまり神そのものの、
時間的、空間的、実現関係を現わしたもの」と述べている。
神道にとり神聖な言葉で、日本独特の大和言葉である。
本殿近くの大切な場所に後世迄伝える様、石に彫り込むには
眞に相応しい語である。
然しそれ丈に何故朝鮮の文字で記るされたかと言う点が引かゝる。
まして鎖国時代である。
異国を忌み嫌っていた時代である。
通信使を通じての交流があったとは言え、當時、格下と思われていた国の、
「表面を和平で飾りながら、内面は両国相互の激しい蔑視感、とりわけ日本人
の優越感は貧しい国際觀の本質を率直にあらわすものであった。」と。
しかも古代語をである。
世襲が多く幼少より神道を叩き込まれた神職達が果して許るすだろうか。
一寸考え難い様に思う。
次に場所に対する疑問である。
寺院なら兎も角、国粋色の特に濃厚な八幡宮である。
当時朝鮮の通信使一行が鞆の浦、次に牛窓に上陸したのは事実である。
その中間の一神社に、万一関係者があったとしても、又其の人が古典文字を
心得ていたとしても、「カムナガラ」と云う何とも朝鮮に
似つかわしくないと思える語を奉納するだろうか。
又朝鮮との交易で産をなした人の寄進と考えても同様であり、
宮司も亦許るさない様な氣がする。
それでは神代文字説は如何。
「我国個有の神代から伝えられたと云う文字で、
実は亀卜の灼兆や朝鮮の諺文に擬した偽作。
日文、天名地鎭アナイモ、阿比留文字などの種類がある。
江戸時代その存否について平田篤胤の「神字日文伝ノツタエ」=(存在説)
と伴信友の「仮字本末モトスエ」=否定説等の論争があった。
今日では全く否定されている。
二十年程前長崎新聞だったと思うが相当大きな記事を見せて貰った。
平田篤胤は門人553人その外、没後の門人と称する者が1330人もいた
と言うから、その影響力は大きかった。
そこで平田篤胤について調べると思いがけない事が判った。
1776~1843年の人で、安永五年秋田藩大番組頭大和田祚胤ムラタネ
禄高百石の第四子で、20 才の時江戸え出奔。
寛政十二年(1800、二十五才)備中松山藩士平田篤隠アツヤスカ(禄高五十石)
の養子となり、文政六年(1823)藩を辞する迄23年間、
働き盛りを松山藩士として活躍していたと云う点である。
餘り大きくもない備中松山藩の事、高名な国学者で神道の権威者篤胤と、
世襲の長尾八幡宮司(太田氏)とは当然接觸があった事と思われ、
想像を逞しうすると師弟か、又はそれに近い関係ではなかったろうか。
神代文字を肯定し、神代の昔から個有の文字があったとする説は、古典にも
通じ、神国を信ずる心の深い神職達には極めて受け入れ易かったと思われる。
神主や篤信者達が
「日本には漢字渡来以前から比の様に立派な個有の文字があったのだ」
と誇り高く、所謂神代文字で彫らせたものではないかと云う氣がする。
境内の同時代の石造物に比べても大きく仲々立派である。
神代文字についても論争のあった「神字日文伝フミノツタエ」や
「仮字カナノ本末モトスエ」、更に否定論を決定的なものにしたと云う
山田孝雄の「所謂神代文字の論」等を読んでみる価値がる。
それでは韓国の学者が觧読出来た理由は如何。
私は、神代文字を創り出した学者達が、亀卜灼キノボクシャク兆
(古代中国で亀の甲を焼いて、できた裂け目で吉凶を判じたうらない。)や
朝鮮の諺文オンモンに擬して創り出したものならば、そのルーツが近いので、
古典に造詣の深い金文吉先生なら解読されても不思議はないと思う。
20年程前、古文書コモンジ ョの専門 原田満左右先生が長尾神社へ参詣の節、
此の文字に関心をもたれ、留学生を通じ韓国の先生方に
調べて貰ったが、サッパ判らなかった。
神代文字は根拠が薄弱だったのか、他に何か理由があったのか、
漸次衰え、終戦後は神道に対する考え方の激変もあり、
殆ど忘れられてしまったのではなかろうか。
少しでも比の文字や長尾神社、更に長尾の歴史に関心を持ち、
敬神崇祖の念を高めて頂けたらとの思いから、不馴れで拙い一文を、
敢て呈した訳である。
若い人達にその氣運が生じ、散逸した陶の太田宮司家文書や、
長尾の古文書類を探し求め、又岡山大学に保管されていると聞く
「坡南小野家」の厖大な文書等がある。
出雲神道の流れくむ"神代文字"見つかる〔長崎新聞〕
@廃仏毀釈きしゃくの盛んな明治維新期に、大陸から伝わった漢字を排し、
我国古来の神道を崇拝する"神代文字"を吹聴する一時期があった。
この珍しい神代文字が、長崎市鍛治屋町の天満宮から見つかった。
神代文字が残されていたのは、明治二年に当時の今籠町(鍛治屋町)に建った
天満宮に取り付けた二枚の古びた板。約1㍍と20㌢ほどのもので、
"屋船豊宇気姫命"などの神の名を墨で記してあり、この漢字の上に四角や円、
矢印記号などを組み合わせた、一見、朝鮮文字に似た文字があった。
長崎市立博物館の越中哲也館長によると、「明治初期に神道が復活し、
国学者らが中心になって、
"日本には、漢字が中国から伝わる前に神の時代から文字があった"と提唱。
出雲神道の流れをくむ国粋主義者らが、朝鮮文字などをまねて作ったのが
この神代文字で、明治二十年代には廃れた」という。
@畝川本子さん(福田睦雄先代宮司の姪)に長尾神社の石彫文字について
「金文吉先生は朝鮮の古典文学に造詣が深いので觧読されても不思議はない。」
と云う点で、で、実は「神代文字でカムナガラと読む」と説明し、
少し許りの資料を差上げたと云われる。
よく聞いて見ると、本子さんの母歳枝さんは先々代金市宮司の娘で、
先代宮司睦雄先生の姉であり又父の英男さんも神道に大変関心をもち、
共に金市宮司から、「これは神代文字と云う深い謂イワレれのある文字で、
カムナガラと読むのだ」と繰返し聞かされていると。又近年学会でも
話題に上るのか先生方が何人か尋ねて来られいつも此の話をさせて頂いている。
金文吉先生は 2~3 年前突然見えられ、韓国でも最近此の文字に対する
関心が高まっており、研究の為やって来たとのお話しなので、知っている
限り説明させて頂いたとの事。本子さんの話で、成程そうだったのかと
思ったが、同時に、学者は伝承を鵜呑みにする程生易しいものではない
と氣付き、福田隆宮司よりお借りした金文吉先生のビデオ
『歴史探求日本の神社のハングル』御研究の跡を辿って見ることにした。
残念ながら韓国語の解説が多くて判り難かったが、
数回繰返しているうち、多少は理解出来た。
第一番に訪オトズれられたのは長船町の大内神社である。
日本文化の粋とも云うべき備前長船刀鍛造の地である。
立派なお社で拝殿の廂ヒサシの下に問題の文字があった。
木彫りの様に思えた。宮司は留守だったのか、氏子総代の様な老人が
「サッパリ判らない。何でもよその國からきたのだろうと云われている。」
と丈。由緒ある土地柄故、期待していたが得られなかった。
次で長尾神社である。福田隆宮司の案内で、玉串奉奠の後、石門前で宮司より
「カムナガラと読み神様が昔から歩んで来られた道と云う意味だ。」との
説明を受けられた。
宮司も餘り深遠な事を言ってもと思い、
簡明にされた様な氣がした。觧説はなかった。
次は北九州の英彦山神宮。神代から続くといわれ、大変由緒ある古社である。
多分高千穂宮司だと思うが、徐ろに拡げられた
古文書の表にはハッキリ神代文字と墨書されており、内側に
例の記号の様な字が列んでいた。
宮司の説明には「判らない事許りだ。当社は古来修験道の本山で、
山伏達は皆口伝クデンで覚え、文書にしるさない為に
残っているのが不思議と話して居られた。
参道の岸壁にも飛天像の傍に少し残っていた。
長尾神社、英彦山神宮と神代文字が続いて出た為か、又は以前から
関心を持たれていたのか、圖書館を訪ねて平田篤胤の「神字日文伝」を
借覧された。日文と諺文ハングル(オンモン)と比較研究され、
弥々自信を持たれた様子で、雨森アメノモリ芳洲旧宅へ向われる。
「近江国伊香郡雨森の出身、十七、八才で江戸に出、木下順庵の門に入り、
後その推擧により対馬藩に仕え、文教を掌る。常に韓人と応接し、通訳なしに
会話出来、韓国語の研究にも成果をあげている。
通信使に対する処置については、新井白石と全く意見対立...云々」とあり。
又館長の話しにも「芳洲は少しでも多くの人に通訳なしに話の出来る人材を
育てる為、懸命に努力された。」と云う。
遺品等を見ても此所のは間違いなく諺文だと感じた。
次で四国に渡り、吉野川の辺ホトリと思う、岩雲神社に参詣、石文等を
研究される。宮司から「花田さんは、青雲の志を抱き、岩雲を出て平田篤胤に
師事、業成りて帰国するも、後年再び篤胤について学び、大成された。」
との説明をうけた。
神代文学と云う言葉は聞かれなかったが、大きな接点があったのだと確信した。
以上ビデオを見て感じた事は、金文吉先生は各所で謎の文字の遺物を
親しく見られ、解読も出来たので、自信をもって「朝鮮の諺文
ハ ン グ ル
と思う」と福田宮司え告げられたのだと思う。
金文吉先生の立場とすれば当然の見解であり、「篤胤が最も確実だと主張した日
ヒ
文
フ ミ
にして
も、李氏朝鮮世 宗
(一四四六)
の制定した諺文
ハ ン グ ル
の影響下にある事明白で、今日では全く否定されている
との記載を裏付けてもいる。然しこれは当時所謂神代文字が、かなり多くの人に信ぜられ
相当広範圍で行なわれていたと云う事実の否定にはならない。私は此のビデオで英彦山神
宮でハッキリ神代文字と墨書があるのを確認出来たし、
長尾神社の疑う餘地の少ない宮司
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