読書記33『兜率天の巡礼』
昭和24年の夏、産経新聞京都支局の宗教担当記者であった司馬遼太郎は、銭湯で一人の紳士に出会い、その紳士は司馬の事を知らずに「キリスト教を初めて日本にもたらしたのは、フランシスコ・ザビエルではない。彼より更に千年前、既に古代キリスト教が日本に入ってきた。仏教の伝来よりも古かった。第二番目に渡来したザビエルが、何を以って、これほどの祝福を受けなければならないのか。その遺跡は京都の太秦にある。」と、話しかけてきた。当時、ザビエルの日本上陸400周年を記念して、各地で様々な催しが行われていた。司馬も関連の取材をしていた。その紳士はかつて、有名な国立大学教授であったと語り、日本古代キリスト教の遺跡について指示してくれたので、兵庫の比奈ノ浦や太秦を調査し、「すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡を残していること自体が奇跡だ」と記事にして締めくくった。その記事は多くの反響を呼び、海外にも転載された。
ネストリウス派と呼ばれたキリスト教は、西暦431年エフェソス公会議において"異端"とされ、ヨーロッパを追われた。その後ネストリウス派はササン朝ペルシャに渡り、シルクロードを経て中国に伝わった。7世紀前半、中国は唐の時代であり、2代目の太宗の頃に伝わった。則天武后が活躍する約50年前の事である。寺は波斯(ペルシャ)寺(後に大秦寺となる)と呼ばれ、中国では景教として流行した。その頃の日本は聖徳太子や推古天皇の治世を経て、中大兄皇子や中臣鎌足が大化の改新に取り組んでいる時代であった。
作品のあらすじを紹介する。
太平洋戦争中、南朝の北畠顕家について新説を立てたという理由で京都の大学を追われた閼(門構えに於)伽道竜(あかどうりゅう)は、終戦の日に妻の波那(はな)を失う。彼女は死の直前、にわかに発狂し、道竜に向けた眼差しが異邦人への恐怖と嫌悪のものであった。その意外な様子が、道竜の妻の血統とルーツを探る異常なまでの執念へ駆り立てた。
その過程で、兵庫県赤穂郡比奈の大避神社の禰宜をしている波那の実家の本家の当主から、彼女の遠い祖先がペルシャ系ユダヤ人の移民団の子孫である事を知らされて衝撃を受ける。彼らは古代キリスト教のネストリウス派の信徒で、日本へ渡来した際に、秦氏の一族と称してダビデ(漢字で大闢(門構え辟)(だいびゃく))の礼拝堂(後の大避神社)を建てたが、それは仏教渡来以前の事だという。
これを知った道竜は、文献を読みあさって想念を凝らすうち、幻想の空高く飛び立ち、5世紀の東ローマ帝国の都コンスタンチノープルに到り、ネストリウスとなって群集に自説を主張したり、7世紀の唐の都長安に到り、流亡の景教徒の長老となった。
その後、道竜の幻想は、古代日本に到り、津、河内から、たけのうち峠を越えて大和に到着する。政権を支えていた聖徳太子と秦河勝とのやり取りの幻想を見ていた。聖徳太子の支援をする代わり、自分と一族の安全を図った。
幻想から現実に戻った道竜は、洛西の廃寺(奈良時代に秦氏が建立した)の上品蓮台院の弥勒堂の壁に描かれている兜率天曼荼羅図を見つける。蝋燭の灯りでそれを眺めていた彼はそこがコンスタンチノープルにも、長安にも見えた。そして、そこに亡くなった波那を見出す。意識は既に現実を抜け、壁の中に入っていた。持っていた蝋燭は落ち、弥勒堂は炎上、焼け跡から一人の焼死体が見つかる。性別さえも分別できない焼死体は1週間を経て道竜と判明した。
この説によれば、聖徳太子の時代にすでにキリスト教が日本に伝来していた事になる。秦氏がネストリウス派であったかは断言できないが、彼らが日本に渡来する頃、中国ではネストリウスが伝わっていた。西方の地であったり、情報網が整備されていれば早い段階で知っている。或いは、秦氏の保護下で日本に渡来した事も考えられる。いずれにせよ、聖徳太子はキリスト教の存在を知っていた事になる。
事実かどうか、誰にも分からないからこそ、魅力を感じるものである。それを作品に読者を惹き付けるのが作者の技量の高さである。
画像は太秦へ行った時のもの。時代劇の撮影現場見学が目的だったのだが・・・。
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