秦の始皇帝は縄文人の末裔
始皇帝 嬴政秦王家は 嬴姓 趙氏
戦国時代 趙の王家も 嬴姓趙氏であり、元は同族である。
秦の始皇帝の時代、日本へ渡来した伝説のある徐福は、嬴姓徐氏であり、こちらも二千年ほど遡れば同族ということになる。
徐福の出自とされる嬴姓徐氏は、徐夷、徐方とも呼ばれ、BC2000~512まで存在した徐国は東夷諸国の一つであり、周王朝の初期BC1000頃の徐は東夷族をまとめ強大な勢力を誇っていた。
五帝の一人である帝舜と
夏王朝の創始者、帝禹に仕えた
益【えき】(伯益、大費とも)が、
帝禹から嬴姓を与えられた。
伯益の子、大廉の子孫が殷に仕えた嬴来(悪来)で、剛力で知られる人物だが評判は悪く悪来とあだ名され紂王と共に討たれている。
悪来の子孫が秦の祖、
悪来の弟、季勝の子孫が趙の祖とされる。
伯益の子には若木【じゃくぼく】もおり、徐夷の祖先である。
嬴姓の人々はのちの魯国付近に住んでいたとされ、日本列島と山東半島を往き来していた縄文人をルーツとする"東夷族"である可能性が高い。
中国最初の皇帝となった嬴政が、自らのルーツである海を渡って来る東夷族の故郷である瀛州(日本列島?)に強い関心を持っていたとしても何ら不思議なことではない。
秦が中国を統一した時代にも、山東半島付近で海洋交易を行う東夷族=倭人は存在していた。
東夷族をルーツとする嬴姓一族には、祖先である縄文人(倭人)の伝説が伝えられていたのであろう。
日本列島への使者となった徐福と始皇帝が同じ嬴姓一族で、縄文人である東夷族の血を引いていることは、日本ではあまり言及されないが、始皇帝が自らのルーツを日本列島に求め、同族(2000年も前に分家しているが)の徐福を使者として送ったという事実関係を知れば、徐福伝説の見方が大きく変わってくるだろう。
また、当時の中国大陸に居住していた東夷族は、先祖代々何らかの口伝を数千年に渡り受け継いでいたと思われる。
始皇帝は、そうした"縄文人が大陸へ進出して中国文明を興した"という事実を墓場である始皇帝稜に持っていってしまったが、日本や中国には現代もなお、縄文時代からの経緯を伝える口伝を持った名家が複数存在している。
元は東方に居住していた嬴姓趙氏のうち、悪来の子孫である大駱の一族は西方に移り遊牧民的な暮らしを営むようになっていった。
秦王室を西戎と考える研究者もいるが、祖先はあくまで東方にいた縄文系の東夷族であり、西に移って遊牧民の文化を取り入れたという伝承を持っているのだ。
大駱の子の非子は軍馬の育成で大きな成果を上げ、周の孝王から犬戎の地である秦邑を与えられ、BC900年頃、秦を建国した。
嬴姓は東夷族、縄文人の血を引く。
東方の徐
北方の趙
西方の秦
夏、殷(商)、周の時代を生き抜き千五百年以上に亘ってそれぞれ繁栄した名門一族。
始皇帝には多数の子がいたとされるが、長男扶蘇と二世皇帝胡亥の間に16人の公子がいたようだ。
胡亥は兄にあたる六人の公子を粛清したとされる。
秦朝最後の王となった子嬰は胡亥の兄の一人とも扶蘇の子とも、また或いは始皇帝の弟、もしくはその子とされるなど出自ははっきりしていないが、秦朝滅亡時点で存命であった始皇帝嬴政の子は何人かいたと見られる。
秦王族の逃亡を同じ嬴姓一族である徐福が手引きしたとても不思議な話ではないだろう。
三國時代、韓半島南部の三韓のうち辰韓(秦韓)には秦人が多く亡命していたという。
また隋書には、日本列島(中国地方西部に比定される)に秦王国が存在したとされる。
始皇帝の血を引く嬴姓王族は故郷である日本列島に帰還し、秦氏として現代にも血脈を伝えているようだ。
日本には秦王室の子孫だけではなく、
後漢靈帝の子孫である東漢氏、
"大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓"
魏王室曹操の子孫である大岡氏など中国歴代の王族が亡命している。
三國時代、更に五胡十六国時代の大乱を避け、名門氏族が日本列島へ多数亡命してきた。
これによって倭国は、移民事業で莫大な利益を得ることになり、大規模な公共事業が行われるようになった。
その大規模公共事業の象徴が巨大な前方後円噴である。
中国の名門氏族は、莫大な渡航費用を支払い、倭船が移民を請け負ったのだ。
中国には日本列島に渡る航海技術は無いが、倭人には日本と中国を往き来して交易を行う渡航技術があったのである。
戦国時代から秦末の動乱期に徐福ら徐夷のみならず、中国沿海部に渡ってから既に数千年が経過していたにもかかわらず、縄文の末裔たちの帰還事業が行われた。
孔子の"海に浮かんで君子の国へ行きたい"云々が影響していたと思われる。
中国からの帰還事業、移民事業は殷滅亡のBC1100頃からAD7世紀白村江の戦いまで倭国主導で行われた。
そして鮮卑族の王朝である唐もまた縄文の末裔が興した帝国であり、倭国に強い関心を寄せたのである。
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