司馬遼太郎 | 特設サイト「井筒俊彦入門」 | 慶應義塾大学出版会
1923(大正12)年-1997(平成8)年大阪府大阪市生まれ。大阪外語大学蒙古語科を卒業。第二次世界大戦(太平洋戦争)には予備士官として満州に従軍。復員後は産経新聞の記者となる。1959(昭和34)年『梟の城』により直木賞を受賞。1966(昭和41)年『竜馬がゆく』などにより菊地寛賞を受賞。1976(昭和51)年『空海の風景』で芸術院恩賜賞。1982(昭和57)年朝日賞を受賞。同じ年、井筒俊彦も同賞を受賞。授賞式で2人ははじめてあった。1988(昭和62)年『韃靼疾風録』で大仏次郎賞。1992(平成4)年文化功労者。同年、井筒俊彦との対談「二十世紀の闇と光」。1994(平成6)年文化勲章受章。日本芸術院会員。小説家としてだけでなく、紀行文『街道をゆく』、『この国のかたち』に代表されるエッセイ、講演では文明、思想、宗教、芸術、歴史、文化を包括的に活写、論究した。
台湾・高雄のホテルの玄関に、いるはずのない人が立っている。「井筒先生がおなくなりになりました」と中央公論社の山形真功はいった。隣にいた陳舜臣の表情がゆがみ、顔色がかわったと司馬遼太郎は書いている。
編集者がわざわざ足を運んだのは、司馬遼太郎に追悼文を依頼するためだった。雑誌『中央公論』の企画で井筒俊彦との対談「二十世紀の闇と光」が行われたのは1992年の晩秋、井筒俊彦が亡くなったのが翌年の1月13日だった。司馬遼太郎は、井筒俊彦が公の場で会った最後の人物になった。井筒俊彦夫人の井筒豊子が書いた小説の題名「アラベスク」をそのまま用いて司馬遼太郎は「誄詞(るいし)」を書いた。
井筒俊彦には9つの対談が残っているが、司馬遼太郎とのそれは最も刺激的なもののひとつである。2人は、対談を予期していたかのように、相互の作品を読んでいた。
司馬遼太郎が相手だから井筒俊彦も口を開いたのだろう。自分を語ることに慎重だった井筒俊彦が、青春の日に見たヴィジョンを思い出すように、イスラームとの機縁とその周辺にいた人々を語った。大川周明との関係に井筒俊彦が言及したものこの対談が初めてだった。
対談は、しばらくすると空海論に至る。司馬遼太郎に長編『空海の風景』があり、井筒俊彦には「言語哲学としての真言」、「意味分節理論と空海」といった論考がある。意識論と存在論が重層的に絡みつつ、井筒俊彦の「コトバ」の哲学が大きく展開を見せ始めるのは、『意識と本質』での空海論からだった。
井筒 私は、空海の真言密教とプラトニズムとのあいだには思想的構造上のメトニミィ関係が成立するだけじゃなくて、実際に歴史的にギリシア思想の影響もあるんじゃないかと考えているんです。
司馬 長安に入った空海は、当然なことですけども、ネストリアンのキリスト教の教会は見たらしいですし、ゾロアスター教の火のお祭りも見たはずです。ですから当然、プラトン的なものが来ていないということはいえませんですね。
井筒 いえません。絶対にいえないと思います。
永年修行していた中国僧を横に、突然日本から来た空海が恵果から真言密教の奥義を伝授されるまで、1年の歳月は必要なかった。そんな彼は、景教、新プラトン主義、拝火教の核たる思想を摂取するのにそんなに時間は必要ない、という互いの認識は双方にとって当然のことだったのだろう。対談での発言は省略されている。
2人に再び、言葉を交える機会があり、空海を巡る対話が行われたなら、私たちは、井筒俊彦における「東洋」の、小説家司馬遼太郎の原体験をさらにつまびらかに目撃したかもしれない。司馬遼太郎初期の小説「兜卒天の巡礼」で彼が書いたのは、景教が日本に伝来していたという話である。空海は登場しないが、語られる歴史に潜んでいる。中国・西安にある景教伝来の事実を刻んだ石碑「大秦景教流行中国碑」を模したものが、何かの機縁を証するように、今も空海が建てた金剛峰寺にある。
私にとってすばらしい体験だったのは、対談がおわっても井筒さんから受けたリズムが体のなかで鳴ることをやめなかったことである。年を越してもなお消えなかった。さらには正月早々、台北から高雄のマイクロバスのなかでふと鳴りはじめ、その果てに、訃を聞いた。
「アラベスク」にある1節である。司馬遼太郎が、井筒俊彦に何を感じていたかを伺わせるだけでなく、井筒俊彦が何故、司馬遼太郎を前に自らの原点を語り始めたのかを感じることができるだろう。司馬遼太郎という小説家は、人間に、歴史に、場所に事実の痕跡を見、洞察するだけでなく、それが放つ波動、声ならぬ声を読み解くことができる人物だった。
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