2024年12月28日土曜日

中国・安徽省(鳥江鎮) 項羽・覇王祠 (~南京・南京城) | 年中釣り道楽 (あこっち)

中国・安徽省(鳥江鎮) 項羽・覇王祠 (~南京・南京城) | 年中釣り道楽 (あこっち)

中国・安徽省(鳥江鎮) 項羽・覇王祠 (~南京・南京城)

今週末は、中秋節で3連休。🌃🥮

秦の始皇帝の時代に、劉邦が故郷で小役人してた江蘇省徐州(沛県・今の豊県)と迷いましたが、劉邦と義兄弟の契りも交わした、英雄・項羽最期の地、覇王祠へ行きました。🚗💨🎶

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

紀元前200年頃。(日本の縄文時代)

秦の始皇帝没後、わずか10数年。

楚国で同郷の項羽と劉邦が秦を滅ぼします。

楚の小役人から漢の初代皇帝となる劉邦。

楚の将軍家系の猛将で、西楚王となる覇王・項羽。

秦を滅ぼした二人の英雄が覇権を争った楚漢戦争は、当初、項羽の圧倒的優位でしたが、次第に形勢は逆転。

垓下の戦いで、劉邦軍に追い詰められた項羽は、最期の時を迎えます。プンプン

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

●場所

地下鉄で、長江を渡ります。

地下鉄の終点の駅(高家沖駅)から、タクシーで鳥江へ。

やっと、鳥江の覇王祠に到着。

●楚漢戦争の最後 (垓下の戦い)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

垓下の戦いで、項羽の愛馬「騅」は動きを止め、

城も同郷の劉邦軍50万に包囲され、夜に四方から聞こえるのは故郷・楚国の歌。

項羽は、かつて共に戦った同郷の同士が、全て敵になった事を悟ります。ショボーン

(後の『四面楚歌』の語源)

城内には、憔悴仕切った僅かの兵と、妻・虞美人。

「騅行かざるを如何にすべき、虞や虞や汝をいかにせん」と項羽が詠んだ、あの場面。

愛妻・虞美人は足手まといにならないよう静かに自害します。ぐすん

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

●項羽最期の時

●鳥江

下の城で、自らの最後を悟った覇王・項羽。

残った僅か800騎で、劉邦軍50万人の囲いを突破。

数100km離れた、ここ長江のほとり(鳥江)に辿り着きます。もぐもぐ

●項羽軍の旗を立てた場所など

最後に残った僅かの兵(28騎)と項羽が、休息をとった場所。

劉邦が欲しいのは自らの首のみ。ここを最期の場所と決めた項羽は、皆に家に帰るよう説得します。泣くうさぎ

●長江支流の船着き場

項羽を慕う地元の民(鳥江の亭長)が、ここに逃走用の小舟を準備。

一旦、江東に逃れて再起を図る事を促しますが、項羽はこれを断り、亭長に愛馬・騅を与えて、最後まで残った仲間を託します。プンプン

逃走用の船を着けた長江の支流の川。

今は蓮で埋めつくされています。

●項羽最期の場所

仲間を見送った項羽は、単身、劉邦軍に切り込み、最期はここで自ら首を切り自害。泣

劉邦が項羽の首に懸賞金をかけていたため、自害した項羽の遺体に兵が群がりました。

●覇王祠

項羽が自害した場所のそばに建てられた、覇王祠。

兵が去った後、項羽を不憫に思った地元の民が、項羽の遺体(一部)と着ていた衣服を一緒に、ここに埋葬しました。

●祠の裏手にある、項羽の墓🙏

地下のトンネルに入り奥へ行くと、その先(墓石の下)に棺があります。

●帰宅

用事が済んだので、再び長江を渡って南京へ。中秋節だったので、月餅🥮食べながら帰りました。

●おまけ (南京城)

安徽省(覇王祠)へ行く前に、南京駅の近くを散歩。

【玄武門と玄武湖】

【城郭】

明の都で、世界の歴史上、最大の城郭を有する南京城。

通常、歴史の敗者は後の世へ良い伝わり方をしませんが、項羽は別。ウインク

喧嘩も戦も弱く仲間を増やして漢を建国するも、後にその部下も次々と殺した冷酷な劉邦より、

短慮でバカ正直ながら郷里を愛し義理堅く、最期まで勇ましく戦った項羽は、今も民衆から慕われ続けています。おねがい

0 件のコメント:

コメントを投稿

「手島郁朗 秦氏」の検索結果 | NDLサーチ | 国立国会図書館

https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&display=panel&from=0&size=20&keyword=手島郁朗+秦氏&f-ht=ndl 一括お気に入り 隠された聖徳太子 : 近現代日本...