中国・安徽省(鳥江鎮) 項羽・覇王祠 (~南京・南京城)
今週末は、中秋節で3連休。🌃🥮
秦の始皇帝の時代に、劉邦が故郷で小役人してた江蘇省徐州(沛県・今の豊県)と迷いましたが、劉邦と義兄弟の契りも交わした、英雄・項羽最期の地、覇王祠へ行きました。🚗💨🎶
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紀元前200年頃。(日本の縄文時代)
秦の始皇帝没後、わずか10数年。
楚国で同郷の項羽と劉邦が秦を滅ぼします。
楚の小役人から漢の初代皇帝となる劉邦。
楚の将軍家系の猛将で、西楚王となる覇王・項羽。
秦を滅ぼした二人の英雄が覇権を争った楚漢戦争は、当初、項羽の圧倒的優位でしたが、次第に形勢は逆転。
垓下の戦いで、劉邦軍に追い詰められた項羽は、最期の時を迎えます。
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●場所
●楚漢戦争の最後 (垓下の戦い)
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垓下の戦いで、項羽の愛馬「騅」は動きを止め、
城も同郷の劉邦軍50万に包囲され、夜に四方から聞こえるのは故郷・楚国の歌。
項羽は、かつて共に戦った同郷の同士が、全て敵になった事を悟ります。
(後の『四面楚歌』の語源)
城内には、憔悴仕切った僅かの兵と、妻・虞美人。
「騅行かざるを如何にすべき、虞や虞や汝をいかにせん」と項羽が詠んだ、あの場面。
愛妻・虞美人は足手まといにならないよう静かに自害します。
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●項羽最期の時
●鳥江
垓下の城で、自らの最後を悟った覇王・項羽。
残った僅か800騎で、劉邦軍50万人の囲いを突破。
数100km離れた、ここ長江のほとり(鳥江)に辿り着きます。
●項羽軍の旗を立てた場所など
最後に残った僅かの兵(28騎)と項羽が、休息をとった場所。
劉邦が欲しいのは自らの首のみ。ここを最期の場所と決めた項羽は、皆に家に帰るよう説得します。
●長江支流の船着き場
項羽を慕う地元の民(鳥江の亭長)が、ここに逃走用の小舟を準備。
一旦、江東に逃れて再起を図る事を促しますが、項羽はこれを断り、亭長に愛馬・騅を与えて、最後まで残った仲間を託します。
●項羽最期の場所
仲間を見送った項羽は、単身、劉邦軍に切り込み、最期はここで自ら首を切り自害。
劉邦が項羽の首に懸賞金をかけていたため、自害した項羽の遺体に兵が群がりました。
●覇王祠
項羽が自害した場所のそばに建てられた、覇王祠。
兵が去った後、項羽を不憫に思った地元の民が、項羽の遺体(一部)と着ていた衣服を一緒に、ここに埋葬しました。
●祠の裏手にある、項羽の墓🙏
地下のトンネルに入り奥へ行くと、その先(墓石の下)に棺があります。
●帰宅
用事が済んだので、再び長江を渡って南京へ。中秋節だったので、月餅🥮食べながら帰りました。
●おまけ (南京城)
安徽省(覇王祠)へ行く前に、南京駅の近くを散歩。
【玄武門と玄武湖】
【城郭】
明の都で、世界の歴史上、最大の城郭を有する南京城。
通常、歴史の敗者は後の世へ良い伝わり方をしませんが、項羽は別。
喧嘩も戦も弱く仲間を増やして漢を建国するも、後にその部下も次々と殺した冷酷な劉邦より、
短慮でバカ正直ながら郷里を愛し義理堅く、最期まで勇ましく戦った項羽は、今も民衆から慕われ続けています。
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