2024年12月25日水曜日

丈六寺。丈領古墳群と火の用心。 - 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行

丈六寺。丈領古墳群と火の用心。 - 戦国時代を追いかけて日本の歴史つまみ食い紀行

丈六寺。丈領古墳群と火の用心。

こんにちは。


細川真之寄進の経蔵。

経蔵の奥へ進みます。


1567年。細川真之寄進の観音堂。


丈六寺の名の由来である「丈六(3.1m)の聖観音座像」を納めた観音堂です。


(クリックで拡大)

平家方の拠点であった「桜間城」は小松島に上陸した源義経に攻められ降伏しています。

四国は源平合戦の史跡も多く、「平家物語」を出典とする曲が多い能楽絡みでうはうはなのです。

しかし、「謡蹟巡り」はお上品過ぎ、神社参拝だけでは浮世離れ。
生身の人間のどろどろした熱気を感じるのが好きです。

・・・脱線しちゃった。


観音堂の裏に進み、実相院墓所横の石段を上がります。


正徳院墓所。

蜂須賀至鎮の娘。旗本の水野成貞正室。


観音堂を見下ろしてごめんなさい。


お城ではありません。


ここは、丈六寺裏山の秋葉神社。

面白いのが、この辺り、強固な岩盤。地面全てが岩です。


ほじくったら、だんご虫が出そうで嫌。


この裏山のてっぺんにいます。

ここは「丈領古墳群」の存在が確認されたところ。
調査済みで現況は残存なし。


丈六寺宝物館前に展示された石棺。


徳島の青石の石棺。


こちらはかなり小さな石棺。


南側の景色。

古墳時代からこの辺りには人が生活していたんだなー。ろまーん。

さて。秋葉神社へ戻り。



由来について、徳島新聞HPに昔話が載っており、面白かったので引用します。


丈六町丈六寺の裏山に秋葉神社がある。秋葉はんは「火伏せの神」として有名で、ここには秋葉三尺坊をまつってあるそうな。

三尺坊は越後の武士じゃったそうな。戦国の人間の醜い争いに嫌気がさし、侍をやめて坊さんになった。三尺坊は厳しい修行のおかげで、香をたいて立ちのぼる煙で火を消すことがでけるようになった。

ある日。丈六寺に金岡禅師ちゅうえらい坊さんがおられるちゅうんを聞いてやってきた。弟子にしてもろうて修行を続けた。

ところが、突然、金岡さんが寺から消えてしもうた。ほして、

「わしは秋葉三尺坊じゃ。この寺を火事から守るであろう」

ちゅうて、姿を消してしもうた。ほんで、村のもんが寺の裏山にお堂をこっさえて「秋葉大権現」ちゅうておまつりしているそうな。
(引用終わり)


秋葉さんは、火伏せの神様として全国に祀られていますね。

※「高僧金岡用兼禅師」は細川成之(しげゆき)が丈六寺に迎えた高僧。曹洞宗に改め、中興開基。


1855(安政2)年寄進の大型犬。

徳島外国問屋とは、どちら様なのかしら。大阪かしら。


ららーん♪


歌える方は同世代♪


ふぁさーっとしたしっぽ。


桜の季節はきっときれい。


消火より防火がかんじん。


体の模様もきれいです。


くるんころん。


きなこぱんならあるよ。


本殿へ。(というより、本殿から来た。)


こまー!


いいお顔してそうな狛犬さんです。


火の用心。

ここには境内案内図を見てから来たのですが、石の祠程度かと思っていたので嬉しい誤算。

丈六寺の南側道路からの参道石段があり、秋葉神社へ直接お参りも出来るようになってました。・・・というか、墓所からまわる方が珍しいのかもしれません。



神事の際はこのさびさびの所を通るのかしら。どきどき。

どきどきしながら、丈六寺巡りはまだ続く。


《秋葉神社昔話引用元》
「徳島新聞HP・『阿波の民話ー音読シリーズ【492】秋葉三尺坊 徳島市』http://www.topics.or.jp/special/122545497817/2008/05/121064764382.html


いつも応援いただきありがとうございます。大型犬の狛犬さん、とても細やかな姿で穏やかな子達でした。本殿のちびっこ狛犬さんは「火の用心!」と叫んでいるようで微笑ましくて。細川氏、蜂須賀氏、長宗我部氏、新開氏の生々しい攻防を知ってか知らずか、大型犬狛犬さんは今日も穏やかに笑顔です。ほっこり。
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こんにちは。花粉飛散で悲惨です。


丈六寺。一の門。


山門。


観音堂。

1567(永禄10)年。細川真之(さねゆき)が父の持隆(もちたか)の17回忌に寄進した、丈六寺山門と共に室町末期の姿を残す徳島県下最古の建築物。


本堂。

1629(寛永6)年。阿波徳島藩藩祖・蜂須賀家政が四女・辰姫(戸田忠光の正室。実相院)供養のために方丈を再建し寄進。


実相院墓所。


正徳院墓所。

実相院の兄弟である、阿波徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮の娘。

13歳で水野成貞(直参旗本3,000石)に嫁ぎます。

幡随院長兵衛と対立した水野十郎左衛門の母で、十郎左衛門切腹後、お家は改易、阿波へ帰って69歳で没します。



観音堂周囲は蜂須賀家重臣団の墓所。

各家ごとに墓所群を形成しています。高野山奥の院の大名墓所と同様に江戸時代の五輪塔が大半なのですが、興味深いのは石に刻まれた文字。


【五輪塔てなんだー?】

仏教では宇宙は、「空・風・火・水・地」の五つの要素から構成されているといいます。

五輪塔はこの五つの要素を表す高野山から始まったといわれる死者の供養塔で、平安後期以降に建立されるようになりました。


高野山奥の院の五輪塔。
「空・風・火・水・地」は、梵字で記されています。


丈六寺の五輪塔。梵字ではなく、漢字です。

ちょっとしたことですが、ふと気になりましたので。



これは何かしら。


【蜂須賀家重臣の墓所群】




阿波九城のひとつ、海部城代・益田豊後長行の墓所。(横から失礼)

海部郡内7,500石を領する江戸家老の益田長行。

益田豊後長行は、蜂須賀家政とは従兄弟(蜂須賀正勝《小六》の正室の縁者)。

家臣団の中では、首席家老稲田家、次席家老賀島家に次ぐ家格を持ち、軍事支配体制の中で強大な権限を持った有力な家老でした。


【海部騒動】

《騒動の経緯》

1633(寛永10)年。阿波徳島藩第2代藩主忠英の時代。

海部郡内7,500石を領する江戸家老の益田長行は、江戸詰が多く、幕閣の酒井忠世等の人脈を利用し、海部郡の藩主となって独立しようと画策。

だって蜂須賀家政の従兄弟だもん。

長行は、禁制を破って山林の木を伐採し江戸に運び資金調達を図り、領内の年貢を割増。結果、領民が100人以上隣国土佐藩へ逃亡。

長行は藩主忠英により領地を召し上げられ、その後13年間幽閉されます。


これを恨んだ長行は逆ギレ。

なんと、藩主忠英が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると幕府へ訴えます。

1646(正保3)年。長行の訴えは虚偽だと幕府の裁定が下ります。

長行の身柄は忠英に預けられ、阿波への移送中に病死したとも江戸屋敷にて斬刑されたとも。


《影響》

益田豊後事件が集結した後の蜂須賀家の政治体制は、大きく変化。

幕府による一国一城令の施行によって、阿波九城が廃棄され、軍事支配体制が崩壊。

益田豊後事件も大きく影響し、阿波徳島藩は官僚支配体制へと移行します。
多くの軍事に秀でた家老が淘汰され、権力の集中を回避するため、家老5~6名による仕置体制が確立しました。

藩主が直接政治を行う直仕置の体制から、仕置家老が直接政治を行う家老の仕置体制に移行します。


江戸の忠英から国許の家老達に出した1645(正保2)年のものと推定される書状が徳島県博物館に所蔵されています。
幕府側もこの件を重視。『徳川実紀』に裁決のようすを記録しています。



観音堂横の重臣達の墓所。


初代家老・稲田植元供養塔。

蜂須賀正勝と「義兄弟の契り」を結び、家政の阿波入国の際は筆頭家老。

脇城城番14000石。正勝との関係から、稲田氏は単なる家老ではなく客分であったといわれます。

稲田家2代示植(しげたね)は、淡路島の洲本城代となりました。

以降、稲田家墓所は淡路島の洲本となります。



林能勝(道感)(1534-1616)

家老。川島城城番。

先祖は木曽義仲と言われ、織田信長に仕えていましたが、本能寺の変後は蜂須賀正勝に仕え、四国征伐などに従軍。
大坂冬の陣には81歳の高齢で従軍して戦功があり黄金百両を賜りました。



山田家墓所群

山田家は徳島藩では稲田家、賀島家に次ぎ5千石を給される家老でした。


山田織部宗重墓所。

第11代藩主蜂須賀重喜の藩政改革に反対し閉門となりますが、後に重喜が失脚。山田家は藩政に復帰。(阿波騒動)



里見家9代・東根源右衛門墓所。

東根家は東根を本拠とする山形最上家の一門。

1622(元和8)年、最上家改易。
幕命によって東根源右衛門親宜は徳島藩預かりとなります。

当初は客分として優遇されますが、1626(寛永3)年、藩主蜂須賀家政の請いを受け1,000石をもって家臣の列に加わり、以後、中老格となって藩主に仕えました。

(本姓の里見氏に改めたのは明治初年)


東根源右衛門の妻、最上義光娘墓所。

なんと。最上義光の娘が徳島まで来ていたのですね。



山門外の鐘楼のそばにも、五輪塔。


名町奉行、物頭の柏木原人友諒墓所。


「江戸の大岡、阿波の柏木」


■藩の米を扱う人夫が、米俵を盗んで家に持って帰り、見つかった。
「家に戻ってまで、米俵で力試しをするな。米俵は、すぐに倉に戻せ。」

■禁猟区で魚を獲っていた男がいて、捕まった。
「禁猟区で網を洗うな。人が見ていると、魚を獲っているように見えるぞ。」

■家人に「本の土用干しをしておいてくれ」と頼んだ。昼頃、急に夕立が来て、本はみんな濡れてしまった。
「夕立のことを、言い置いていかなかったものな。」

■藩主が壊れた時計を柏木に渡し、「修理してくれ。」と言った。柏木はすぐに時計をオノで砕いてしまった。
「私は、町奉行です。時計の修理工ではありません。」

※童門冬二「名将に学ぶ人間学」より



高野山奥の院のように、立派な五輪塔が立ち並ぶ丈六寺墓所でした。


ちなみにどれくらい大きいかというと


こんな感じ。


いつも応援いただきありがとうございます。蜂須賀家の重臣達の墓所から、阿波徳島藩の家老達がどれ程の力を持っていたのかが何となく伝わる気がします。藩主蜂須賀家の墓所は、この丈六寺ではなく、興源寺になります。
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