2024年12月24日火曜日

造船技術を駆使して建国に貢献した船木氏 – 日本とユダヤ הונהק(hunak、フナッ) というヘブライ語には、船を乗り出す、水面におろす、進水させる、という意味

造船技術を駆使して建国に貢献した船木氏 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

「船木」の由来はヘブライ語か?

一見、日本語のようにも思える船木という名称は、ヘブライ語でも理解することができます。הונהק(hunak、フナッ) というヘブライ語には、船を乗り出す、水面におろす、進水させる、という意味があります。よって、海洋豪族として名を馳せた一族は、船を乗り出すことを使命としていたことから、一族を海へ向かって「乗り出す」という意味において「フナッ」と呼ぶようになり、その語尾が多少訛って、「フナッキ」「船木」という名称に落ち着いたのではないでしょうか。

船木氏は高度な航海技術を携えていたと推測されることを鑑みるならば、一族は古代イスラエル、西アジアからの渡来者であった可能性が見えてきます。中でも、日本列島を探索し、そこに拠点を設けて新国家の発展の礎を築くという天命を授かった部族であったと考えられます。だからこそ、船木氏は建国のための縁の下の力持ちとして、単に船を造るだけでなく、そのために必要な木材を確保するための山々までも保有して管理しながら、皇族に仕えたのでしょう。

それ故、日本列島の随所に存在する船木の地は、そのほとんどが海岸や湖岸、もしくは大河川沿いに分布し、その近隣には辰砂を含む鉱山が存在します。また、近隣の山々においては優良な木材も調達できる山林の存在が重要視され、造船技術の進展に寄与することができたのです。こうして船木氏は古代、海上交通を取り仕切る豪族として建国を支え、皇族と共に歴史の布石を担ったのです。

淡路島舟木の石上神社

船木氏は伊勢を旅立った直後、近江や摂津に向かう途中、淡路島の舟木にも重要な拠点を設けたとことは、特筆に値します。主に海沿いに拠点を設けてきた船木氏ではありますが、元伊勢の御巡幸が終了した直後、摂津や近江、播磨へと向かう途中、何故か淡路島北部の高台にも集落を築き、そこで祭祀活動を執り行っていたのです。

その集落は舟木と呼ばれ、中心地には巨石が置かれて祀られました。その巨石は自然に存在したものではなく、人間の手によって移動されたと推測される痕跡が残されています。しかもその巨石の場所は、元伊勢御巡幸の出発地点となる霊峰三輪山と同緯度だったのです。舟木の集落は山奥に偶然、見いだされとは考えられません。船木氏による綿密な地勢観測により、三輪山と同緯度の場所が淡路島の内陸に特定されたことに違いはありません。よって、船木氏にはそれなりの大切な思いが、その場所に込められていたと想定されます。

淡路島の山奥にて巨石が祀られ、そこに舟木の石上神社が建立されて神が祀られた理由は、どうやら三輪山と剣山の存在と位置づけに関連しているようです。

船木氏が見据えた剣山と三輪山の関係

淡路島の舟木にある石上神社では、巨石が御神体として祀られているだけでなく、その場所が三輪山や長谷寺、斎宮と同緯度に並んでいます。これら聖地が北緯34度32分線に一直線に繋がっていることから一躍有名になり、その緯度線は「太陽の道」とも呼ばれるようになりました。

また、剣山と舟木の巨石を結ぶと、その中間には伊弉諾神宮が、そして北方の延長線上には摩耶山と六甲山が並びます。さらに巨石から真北の方向にある播磨の川上に注目すると、川辺から広がる丘陵の周辺には船木氏の拠点が随所に造営され、多くの住吉神社が建立されていたのです。レイライン上で繋がる数々の霊峰、聖地の存在から見ても、淡路島の舟木は極めて重要な位置付けであったことがわかります。

石上神社を通る東西のレイライン上に存在する三輪山は、元伊勢御巡幸の原点となる聖地であり、記紀によると神が住まわれた霊峰です。古代、三輪山の山頂付近には大切な神宝が秘蔵され、元伊勢御巡幸により、それらの神宝は遷移することになったと推測されます。それ故、三輪山と同緯度のレイライン上において船木氏が石上神社を建立し、そこで巨石を祀ったということは、神宝の処遇に絡む何かしら重大な要素がその場所に関わっていたのではないでしょうか。

レイラインの考察から石上神社の場所は、三輪山と同緯度にあるだけでなく、そこは淡路島で伊弉諾尊が没した場所とされる伊弉諾神宮と四国の剣山を結ぶレイラインが交差する地点であることがわかります。つまり、石上神社の場所は、古代聖地と言われる三輪山、伊弉諾神宮、そして剣山を結び付ける場所に存在していたのです。しかも剣山と伊弉諾神宮を結ぶレイラインの先には、六甲山の摩耶山が聳えています。そのような地の力を結び付ける場所だからこそ、船木氏は計算ずくめで石上神社の場所を特定し、そこに巨石を移動して祀ったと考えられます。

つまるところ、元伊勢御巡幸を先導した船木氏は、三輪山から始まった御巡幸による神宝の行方を占う場所として、剣山と三輪山に結び付く淡路島の舟木を重要視していたようです。その想定をより明確にするため、今一度、日本列島の随所に残されている船木氏の軌跡を辿り、船木氏の出自や歴史的背景、そして拠点となる場所の地勢観などを振り返ってみましょう。船木氏に纏わる一連の動きから、歴史の流れが見えてきます。

https://www.historyjp.com/article/408/

造船技術を駆使して建国に貢献した船木氏

日本各地に残る船木の地名から見えてくる海洋豪族の存在

元伊勢御巡幸に貢献した船木氏

崇神天皇から垂仁天皇の時代にかけて執り行われた元伊勢御巡幸の最終段において、海上交通の手段が用いられたことは、「倭姫命世記」に渡航の記録が残されています。その当時、港の要所を仕切り、船を用いて倭姫命御一行の船旅を引率したのが、海洋豪族として知られる船木氏です。歴史の重要な接点において天皇家と密に関わりを持っていた船木氏は、国家の安泰を願うために行われた元伊勢御巡幸における神宝の遷座についても、重要な責務を負っていたと考えられます。

元伊勢の御巡幸を成功に導いた陰の立役者として船木氏は、倭姫命御一行を伊久良河宮から伊勢の地まで安全に導き、神宝を護衛するために尽力しました。国家の発展に貢献した船木氏の動向に注視することにより、卓越した海洋技術を携えていた船木氏の果たした軍事的な役割が見えてきます。そして一族の拠点が列島内で広がり続けた動線と、その歴史的背景を見据えることにより、船木氏と神宝との関わりについても古代の謎が紐解かれてきます。

船木氏の優れた造船や海洋技術に支えられて完結した御巡幸の船旅は、倭姫命御一行が伊勢の五十鈴河上に到達し、そこで天照大神を祀った後も続きます。倭姫命世記によると、倭姫命は伊勢から紀伊半島を南下して伊雑宮がある志摩周辺にまで出向き、そこで神々に捧げる御饌(ミケ)を収穫しています。その後、御一行は伊勢へ戻りましたが、船木一族の中には紀伊半島の最南端を越えて北上し、紀伊半島の西岸から淡路島、近江、摂津、播磨周辺だけでなく、四国の東岸まで向かった人々が存在しました。これらは各地に残されている船木という地名だけでなく、その地域に纏わる古代神社の建立に関わる由緒などによって確認することができます。船木氏の足取りを理解することは、元伊勢御巡幸の直後に台頭する邪馬台国だけでなく、船木氏が御巡幸の際に護衛したと考えられる神宝の行方にも深く関与してくると推測されることから重要です。

海洋豪族船木氏と皇族との関係

元伊勢の御巡幸が終焉した直後、景行天皇の御代では、今日の奈良に纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)と呼ばれた皇居が建造されました。その後、景行天皇の子である日本武尊(ヤマトタケル)が歴史の主役として登場します。そして東方の征伐に向かおうとされた際、垂仁天皇の第四皇女となる倭姫命が、伊勢にて日本武尊に草薙剣を献上したことが記紀に記されています。

次の成務天皇の時代では、日本武尊の父である景行天皇が晩年に行幸された船木氏の一大拠点である近江、今日の大津周辺に、皇居が遷都されたのです。大陸との抗争が迫っていたこともあり、船木氏の擁する巨富と海軍力のノウハウを駆使して、国家戦略を練ることが重要な時代だったからこそ、船木氏のお膝元とも言える近江に都を遷す必要があったのではないでしょうか。

その後、日本武尊の子である仲哀天皇が即位します。その皇后とは、史書に「オキナガタラシヒメ」とも記載されている神功皇后です。船木氏は国家戦略に沿い、海外との交戦に不可欠であった軍船を神功皇后に献上したことでも知られています。つまり、元伊勢の時代から2世紀近く経った神功皇后の時代においても、船木氏は国家を支える海洋豪族として、不動の軍事力を誇示していたと推測されます。その間、船木氏は一族の拠点を伊勢から北西方向の播磨へ向けて、主要な川沿いに広げていたことにも注視する必要があります。これら一連の歴史の流れから、船木一族が抱えていた重責を、垣間見ることができます。

辰砂を求めて伊勢国から移動した船木氏

元伊勢御巡幸の際、船木氏は倭姫命の御一行の海上交通を一手に担い、伊久良河宮から伊勢湾まで川を下り、海沿いを航海しながら御一行を護衛しただけでなく、倭姫命に複数の船を献上し、皇族の繁栄に大きく貢献しました。その後、天照大神が伊勢にて祀られ、元伊勢の御巡幸が終焉を遂げた頃には、船木一族は伊勢国の多気郡を本拠地としていました。多気郡の地域が特定された理由は、伊勢湾から宮川を介して川を上ることができるだけでなく、周囲には辰砂を含む鉱物資源があり、近隣には元伊勢御巡幸地のひとつでもある瀧原宮が存在したからに他なりません。

瀧原宮の場所は古代レイラインの視点から重要な位置付けを担っており、船木氏がそれを見逃すことはなかったのです。瀧原宮は元伊勢御巡幸の出発点となった三輪山と摩耶山、そして出雲を結ぶ線と、熊野本宮大社の旧社地大斎原と伊勢の斎宮が交差する地点に存在します。つまり、瀧原宮は三輪山、摩耶山と出雲、そして熊野本宮大社、斎宮という聖地の地の力を兼ね備えた場所だったのです。その他、瀧原宮は霊峰伊吹山とほぼ同経度にあり、それら2つの聖地を結ぶレイライン上には御在所岳や倭姫命が滞在したと言い伝えられている元伊勢の伝承地である布気皇館太神社が存在します。

ところが海洋豪族として名を馳せた船木氏は、御巡幸の責務を全うして伊勢国の拠点にしばらく滞在した後、主力部隊は紀伊半島の西海岸を北上し、紀の国の丹生川上や淡路、摂津へと移動を続けたのです。その船木氏の足取りを掴む手掛かりのひとつが「住吉大社神代記」に記されています。そこには、住吉大神の宮が所在した最も古い9社のひとつとして、紀伊国伊都郡、「天手力男意気続々流住吉大神」の名称が含まれ、神功皇后の伝承に関わる由緒ある丹生川上神社(和歌山)としても知られています。

住吉大神は伊邪那岐命が禊をした際に生まれた神であり、海を守る神として信仰されています。海の神、住吉大神が祀られていたのが摂津国(大阪)の住吉大社だけでなく、和歌山県の伊都郡にも存在し、その社の建立に船木氏が関わっていたことがわかります。古代社会において船木氏と関係があった地域周辺では、船魂の守護神である住吉大神を祀る神社が多数存在するのも、船木氏が海洋豪族として、住吉大神を崇拝していたからに他なりません。

伊勢の多気郡勢和村が丹沙の産地だったように、丹生川上にも造船に使われる塗料に不可欠な丹沙と呼ばれる硫化水銀からなる鉱物が存在しました。船木氏の足取りを辿ると、そこには必ずと言ってよいほど鉱物の存在があったのです。丹生川上の地域周辺には住吉三神とも言われる住吉大神にちなんだ上筒香、中筒香、下筒香という地名も見られ、近郊には神功皇后が丹生都比売を祀るために建立したと伝えられる丹生都比売神社もあります。これらの背景には住吉大神と造船技術に絡む船木氏の存在がありました。

水上交通の便が鍵となる船木氏の拠点

その後、元伊勢の御巡幸から1世紀少々を経た成務天皇の御代において、船木氏の拠点は琵琶湖の南岸、近江の周辺にも広がりをみせ、そこに皇居が遷されることになります。琵琶湖界隈は、古くから船木氏が要所として目を留めていた地域です。それ故、元伊勢を巡る際には、御巡幸地のひとつである坂田宮の地も琵琶湖の沿岸に特定され、その東方には元伊勢御巡幸の船旅が始まる伊久良河宮の場所も見出されたのです。水上交通の便に恵まれた琵琶湖周辺は、船木氏の拠点として発展するに必要な格好の条件が揃っていました。

元伊勢の御巡幸が完結して2世紀ほど経た仲哀天皇の時代、船木氏は主たる拠点を播磨国周辺へと移動させ、そこを一族の中心拠点としました。播磨国の川上は、砂鉄が豊富に採取できるだけでなく、朝鮮半島と都を行き来する上での交通の要所であり、さらにその真南には、元伊勢の御巡幸直後に船木氏が拠点となる巨石を見据えた淡路島舟木の石上神社も存在します。その神社と同緯度に元伊勢御巡幸の原点となる三輪山があることからしても、淡路の舟木と同経度に繋がる播磨国の川上は、船木氏にとっては重要視されたに違いありません。

播磨国の主要な川沿いにて船木氏の拠点が広がる様子については、複数の記述が「住吉大社神代記」にあります。明石郡の船木村、黒田村、辟田村においては、有力氏族である船木連(ふなきのむらじ)が封戸(ふこ)や田を献上したと記され、播磨国においては、その川の上流に向かって船木氏の最終拠点が広がったことが読み取れます。そして神功皇后の時代には、賀茂郡にて住吉酒見神社が建立され、船木氏の拠点は今日の小野市や加西市の周辺にまで拡大したのです。

「船木等本記」が証する造船技術の真相

「住吉大社神代記」は、「胆駒神奈備山の本記」や「船木等本記」など、特定の題名に関する記述を主体とした複数の章により構成されています。船木氏については、例えば「胆駒神奈備山の本記」に、「大八嶋国の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖、大田田神なり」という記録が残されています。そして船木氏の遠祖である大田田神は、木製と石製の船を2隻造り、後世に証として残すために、「胆駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝墓に木船」を納めたことが記載されています。

「船木等本記」にも、船木氏による造船関連の貢献について詳細が記されています。そこには神功皇后が新羅国へ討伐に向かった際に、大田田命と神田田命の所領から木材が伐り出され、船が3隻造られたと書かれています。当時、倭国は新羅国と戦争状態にあり、造船技術に長けた船木氏は、国政の中核となる存在として、船を造る責務を果たしていました。

そして船木氏の遠祖が領有した杣山(そまやま)は住吉大社へ寄進され、そこから造船に相応しい良質の木材が伐り出されたのです。住吉大社の神領地となった杣山は、椅鹿山と呼ばれることもありました。造船技術だけでなく、多くの資産を保有していた船木氏は、国政においても重要な役割を担うようになり、住吉大社においては神官などの役職も務めながら、全国各地で船司、津司を任じられるようになります。

天皇家と血縁関係にある船木氏の家系

船木氏が単に船舶の技術に特化した職業一族でないことは明らかです。優れた船を造るだけの技術と資産、しいては軍事力も携えていた船木氏が、元伊勢の御巡幸だけでなく、神功皇后の時代でも皇族と密接に関わり合いを持ち、政治に直接絡む数多くの働きを成し遂げた理由は、船木氏の家系にあったようです。

「船木等本記」には船木氏の家系について、詳細が記されています。注目すべきは、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の名前です。その系譜によると、彦太忍信命の父は崇神天皇の一代前、第9代開化天皇です。また、日本書紀に準じるならば、さらに一代前の孝元天皇が彦太忍信命の父であり、有力豪族の祖として多くの天皇に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)の祖父にあたります。よって、彦太忍信命の娘として系譜に記載されている忍海部乃刀自(おしぬみべのとじ)は竹内宿禰の近親となります。つまり、船木氏は、天皇家と血縁関係にある海洋豪族だったのです。

それ故、元伊勢の御巡幸という世紀のイベントが執り行われた際に、船木氏は天皇家のガード役として、皇族の御一行と一緒に携えられていた神宝をお守りする重責を授かったのではないでしょうか。そして神宝の安置をより確実なものにするために、それらの運搬に関わる保全対策についても、船木氏に一任されたのです。天皇家より深い信任を得て、神宝を守るという重責までも与えられ、古代史における重要イベントの随所に船木氏の存在が浮かび上がってくることは、決して偶然ではなかったのです。天皇家と親戚関係にあり海洋豪族でもある船木氏にとって、国家安泰のために尽力することは当然の責務として捉えられたことでしょう。

海洋豪族「船木」の由来

今日、日本列島各地に船木の地名は多く存在し、古代から船木部、または船木仰、船城仰と呼ばれている地域もあります。ごく一般的に船木の地名は、「西条誌」に「船を造る木材を産出することから、船木という地名がついた」と記載されているように、木材を伐採して造船を手掛ける職業部に由来すると考えられています。

例えば「前太平記」には、神功皇后が朝鮮半島に向かわれた際に造られた48隻の船に必要な大きな木材を提供したことから、船木という地名がつけられたことが記されています。そして「八幡愚童訓」には、それら48隻の船を造るために長門の船木山から船材が伐り出され、豊後宇佐、今日の九州大分に運ばれた後、船が造られたという詳細までも記載されています。「勢陽五鈴遺響」では船木を船置の略と解釈し、河船が多数行き来する場所として捉えていました。船木の由来として船を造るだけでなく、船が来るから「船来」と呼ばれているうちに、「フナキ」と訛るようになったという説もあります。それは、湖の広い入江に造られた港に船が到来することを意味していたのかもしれません。

1世紀初頭には既に、琵琶湖周辺に船木氏の拠点が存在し、そこを原点として元伊勢御巡幸の最終段における船旅の準備がなされたと想定されます。その働きが琵琶湖東方の御巡幸地である伊久良河宮の発展へと結び付いたと考えられます。倭姫命御一行による元伊勢御巡幸の船旅の歴史が伊久良河宮から始まった根底には、船木氏の尽力により伊久良河宮の近郊にて船が造られ、そこから倭姫命御一行が乗船したという史実がありました。

伊久良河宮の近郊には船木山も存在します。それは船木氏が船を造るための木材を重要視していたからに他なりません。よって船木という地名は、海洋豪族として知られる船木氏が、実際に木材を収集して船を造り、港の周辺に船木氏の集落を築いたことに由来しているとも考えられます。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)からの命により列島をくまなく散策して開発用地を見極めるためには、自らの造船技術を駆使して船を造り、島から島へと巡り回りながら航海することが不可欠でした。そのためにも、造船に適した木材や、必要不可欠な鉱山を確保することは船木氏にとって最重要課題であり、優良な木が茂る山々や、砂鉄、丹沙が採掘できる場所が探し求められたのです。その結果、船木氏は多くの杣山を所有し、造船に必要な木材を自ら調達するまで繁栄したのです。こうして国家の行く末を担う海人豪族の船木氏が向かう先では、資材が集められて船が造られ、地域一帯は船木と呼ばれるようになったと考えられます。

「船木」の由来はヘブライ語か?

一見、日本語のようにも思える船木という名称は、ヘブライ語でも理解することができます。הונהק(hunak、フナッ) というヘブライ語には、船を乗り出す、水面におろす、進水させる、という意味があります。よって、海洋豪族として名を馳せた一族は、船を乗り出すことを使命としていたことから、一族を海へ向かって「乗り出す」という意味において「フナッ」と呼ぶようになり、その語尾が多少訛って、「フナッキ」「船木」という名称に落ち着いたのではないでしょうか。

船木氏は高度な航海技術を携えていたと推測されることを鑑みるならば、一族は古代イスラエル、西アジアからの渡来者であった可能性が見えてきます。中でも、日本列島を探索し、そこに拠点を設けて新国家の発展の礎を築くという天命を授かった部族であったと考えられます。だからこそ、船木氏は建国のための縁の下の力持ちとして、単に船を造るだけでなく、そのために必要な木材を確保するための山々までも保有して管理しながら、皇族に仕えたのでしょう。

それ故、日本列島の随所に存在する船木の地は、そのほとんどが海岸や湖岸、もしくは大河川沿いに分布し、その近隣には辰砂を含む鉱山が存在します。また、近隣の山々においては優良な木材も調達できる山林の存在が重要視され、造船技術の進展に寄与することができたのです。こうして船木氏は古代、海上交通を取り仕切る豪族として建国を支え、皇族と共に歴史の布石を担ったのです。

淡路島舟木の石上神社

船木氏は伊勢を旅立った直後、近江や摂津に向かう途中、淡路島の舟木にも重要な拠点を設けたとことは、特筆に値します。主に海沿いに拠点を設けてきた船木氏ではありますが、元伊勢の御巡幸が終了した直後、摂津や近江、播磨へと向かう途中、何故か淡路島北部の高台にも集落を築き、そこで祭祀活動を執り行っていたのです。

その集落は舟木と呼ばれ、中心地には巨石が置かれて祀られました。その巨石は自然に存在したものではなく、人間の手によって移動されたと推測される痕跡が残されています。しかもその巨石の場所は、元伊勢御巡幸の出発地点となる霊峰三輪山と同緯度だったのです。舟木の集落は山奥に偶然、見いだされとは考えられません。船木氏による綿密な地勢観測により、三輪山と同緯度の場所が淡路島の内陸に特定されたことに違いはありません。よって、船木氏にはそれなりの大切な思いが、その場所に込められていたと想定されます。

淡路島の山奥にて巨石が祀られ、そこに舟木の石上神社が建立されて神が祀られた理由は、どうやら三輪山と剣山の存在と位置づけに関連しているようです。

船木氏が見据えた剣山と三輪山の関係

淡路島の舟木にある石上神社では、巨石が御神体として祀られているだけでなく、その場所が三輪山や長谷寺、斎宮と同緯度に並んでいます。これら聖地が北緯34度32分線に一直線に繋がっていることから一躍有名になり、その緯度線は「太陽の道」とも呼ばれるようになりました。

また、剣山と舟木の巨石を結ぶと、その中間には伊弉諾神宮が、そして北方の延長線上には摩耶山と六甲山が並びます。さらに巨石から真北の方向にある播磨の川上に注目すると、川辺から広がる丘陵の周辺には船木氏の拠点が随所に造営され、多くの住吉神社が建立されていたのです。レイライン上で繋がる数々の霊峰、聖地の存在から見ても、淡路島の舟木は極めて重要な位置付けであったことがわかります。

石上神社を通る東西のレイライン上に存在する三輪山は、元伊勢御巡幸の原点となる聖地であり、記紀によると神が住まわれた霊峰です。古代、三輪山の山頂付近には大切な神宝が秘蔵され、元伊勢御巡幸により、それらの神宝は遷移することになったと推測されます。それ故、三輪山と同緯度のレイライン上において船木氏が石上神社を建立し、そこで巨石を祀ったということは、神宝の処遇に絡む何かしら重大な要素がその場所に関わっていたのではないでしょうか。

レイラインの考察から石上神社の場所は、三輪山と同緯度にあるだけでなく、そこは淡路島で伊弉諾尊が没した場所とされる伊弉諾神宮と四国の剣山を結ぶレイラインが交差する地点であることがわかります。つまり、石上神社の場所は、古代聖地と言われる三輪山、伊弉諾神宮、そして剣山を結び付ける場所に存在していたのです。しかも剣山と伊弉諾神宮を結ぶレイラインの先には、六甲山の摩耶山が聳えています。そのような地の力を結び付ける場所だからこそ、船木氏は計算ずくめで石上神社の場所を特定し、そこに巨石を移動して祀ったと考えられます。

つまるところ、元伊勢御巡幸を先導した船木氏は、三輪山から始まった御巡幸による神宝の行方を占う場所として、剣山と三輪山に結び付く淡路島の舟木を重要視していたようです。その想定をより明確にするため、今一度、日本列島の随所に残されている船木氏の軌跡を辿り、船木氏の出自や歴史的背景、そして拠点となる場所の地勢観などを振り返ってみましょう。船木氏に纏わる一連の動きから、歴史の流れが見えてきます。

鹿児島の船木は最古の造船所

日本の各地に存在する船木と呼ばれる地域の中で、最も古い歴史を持つ場所は、おそらく鹿児島県日置郡吹上町の船木と考えられます。吹上町を流れる小野川の上流には船木山とよばれる高さ20mほどの小山があります。現在では海岸線より4.2kmほど内陸にありますが、古代では周辺が海や湖水で囲まれ、扇状地の様相を呈していたことでしょう。その小山の麓に建立されたのが船木神社であり、祭神は猿田彦神です。

伝説によると、この地で猿田彦神は船木氏に命じて船を造らせ、さらに瓊瓊杵尊の先導を務めるという重責を与え、安全な航海を祈りつつ船出させたそうです。古代、船木氏が鹿児島の船木山から木材を伐り出し、そこで船を造ったとするならば、その周辺は古代造船所の跡地だったことになります。また、猿田彦命が祀られる前から船木山では船が御神体として祀られていたという説もあり、村人は今日まで船木山を聖地として崇めています。

船木神社が建立された背景

鹿児島の船木神社は、吹上町伊作郷に建立された5社のひとつです。「伊作」という地名の由来はわかっていません。しかしながら、その発音はイスラエルの族長でありアブラハムの子として名高い「イサク」と全く同じであることから、イスラエルからの渡来人に由来していると考えられます。

その神社にて例年催される船こぎ祭りでは、宝殿に納められた船の模型を氏子らが両手で1隻ずつ掲げ、「エンヤオー」と言いながら3度回して隣の人に手渡すという神事が行われています。また、小野川下流の吹上浜では、今日でも進水式の儀式が残されています。5色の旗を立てて祈祷を捧げながら船を持ち上げ、山と海の神に航海の安全と大漁を願い、「ヤエシー」と掛け声をかけながら船を波打ち際に持っていくのです。

その船霊の名前は「ヤエ」と言われています。これはイスラエルの神の名、「ヤエ」そのものの発音であることから、古代より船が神の象徴として祀られていたことがわかります。伊作郷の船木に纏わる宗教文化は、イスラエルに絡んでいる可能性が極めて高いと言えます。

船木神社のレイラインを考察

日置郡吹上町の船木が鹿児島沿岸に特定された理由は、レイラインの存在からも説明することができます。古代、大陸より日本列島に到来したイスラエルの民の多くは、琉球諸島を経由して、船に乗って北上してきました。台湾を経由して琉球諸島に渡った後、九州へと北上し、鹿児島の西岸近くに船木神社の地を見出したのです。その場所がどのようにして特定されたのか、レイラインの考察から振り返ってみます。

まず、船木神社と四国の剣山を結ぶと、北東方向の延長線上には長野県の諏訪大社が存在します。諏訪大社周辺には縄文時代から集落が築かれていました。また、国生み神話においては大国主神の御子神である建御名方神(たけみなかたのかみ)と、武甕槌命(たけみかづちのみこと)との争いにおいて、建御名方神が逃亡した舞台にもなった聖地です。諏訪湖の周辺は、日本列島を分岐する巨大なプレートが折り重なることから、地勢的にも極めて重要な場所です。古代の民は、そのような列島の地の環境までも知り得ていたのでしょうか。

さらに船木神社と室戸岬を結ぶと、その一直線上に伊雑宮が建立されているのも、単なる偶然ではないようです。鹿児島に到着した後、周辺の島々を巡りながら探索した船木氏をはじめ古代の識者は、すぐに室戸岬と足摺岬を結ぶ線が、夏至の太陽が昇るおよそ30度の角度となることに目を留めたことでしょう。鹿児島県の吹上町船木神社から見て、夏至の日に太陽が昇る北緯29度38分の方向には室戸岬があり、その先には、伊雑宮が存在したのです。その夏至の日の出線上に拠点を定めれば、四国の岬を指標にして容易に行先を探すことができるのです。

こうして四国の岬を結ぶレイラインと、剣山と諏訪大社を結ぶ線が交差する地点を、鹿児島の拠点とすべく、船木神社を建立する場所として定めたのではないでしょうか。その結果、船木山の船木神社から夏至の日の出方向にまっすぐ進み、足摺岬と室戸岬を越えてさらに直進すると、古代の聖地、伊雑宮に必ず到達することができます。古代聖地の多くは、こうしてレイラインによって相互に結び付けられながら特定されたと推測されます。

これらの船木山を通り抜けるレイラインの検証から、猿田彦命に纏わる伝承はあながちおとぎ話ではなく、船木神社が古代海上交通の要所として位置付けられ、その港から船木氏が船出したことを証していたものである可能性を否定できません。また、鹿児島の南岸から船木氏が船出して列島の島々を東方に向けて航海したということは、船木氏が古代、船で大陸から台湾、琉球諸島を経由して北上し、まず、鹿児島の最南端に到達したことを示唆しているようです。優れた航海技術を既に携えていた船木氏だけに、古代、鹿児島から瓊瓊杵尊御一行を護衛することも厭わなかったと考えられます。

鹿児島県船木山のレイライン
鹿児島県船木山のレイライン

日本全土に広がる船木の地名と由緒

船木氏は主に沿岸に集落を形成する傾向がありましたが、時には鉱山の採取やレイラインの調査から、内陸にも拠点を設けることがありました。その際、できるだけ海や大河に繋がり、水上交通に恵まれた川上に拠点を持つことを常としたようです。船木氏が内陸に特定した拠点の殆どは、レイラインの考察から何故その場所が重要であり、特定されたかを知ることができます。

和名抄によると、船木郷は、下総国海上郡、遠江国蓁原郡、尾張国山田郡、美濃国本巣郡、近江国蒲生郡、安芸国安芸郡と沼田郡が列記され、相模国愛甲郡船田郷も船木田の略称と言われています。安芸国安芸郡は今日の呉市の周辺にあたり、これらの地域は古代から海上交通の要所として、造船も盛んに行われていました。和名抄で高田郡船木郷に当たる近郊の安芸国高田郡高宮町には船木、下船木の大字があり、その江ノ川上流では船が造られていました。

「呉」とは主に朝鮮半島の百済国を経由して渡来してきた大陸系の民族の名称でもあり、時には百済人と重なって解釈されることもあります。古代、呉人は多くの技術を携えて日本に渡来してきたことから、呉人の文字に伎人とあてて読むこともありました。伎楽(呉楽)、呉服、呉織、呉竹など、呉人は多くの優れた文化を大陸から日本にもたらしました。そして和船とも呼ばれる日本特有の造船においても、呉人は重要な技術を提供した一族であると考えられています。それ故、呉人が得意とする古代の職の中には、船子、船長、船作などが含まれています。呉人は百済人と共に古代から、海上交通に関する重要な役割を果たし、その結果、今日でも呉市では造船が続いているのでしょう。

その他、船木、舟木の名称が残されている地域は、丹後竹野県弥生町、近江国高島郡安曇川町、淡路国津名郡仁井村、備前国赤磐郡吉井町、伊余、因幡国岩見郡津之井村、長門国厚狭郡楠町、肥前国東松浦郡には船木山などがあり、さらに古書を見ると、武蔵国船木本庄、摂津の島上郡野身郷船木刀自女、讃岐国大内郡「船木小則女(美濃の船木家)など、今日の所在地は不明ではあるものの、古代では存在していた船木事例が文献に記されています。

これらのほとんどは海岸沿いか、河川の流域に存在します。しかし中には、内陸に位置する船木の地も存在します。播磨国加東郡小野市大字船名(旧船木)が、その一例です。神宮皇后の時代、船木連の遠祖、大田田命と神田田命がこの地に居住し、杣山の木を用いて船3隻を作り、皇后に献上した場所でもあります。当時、戦いに使用される官船は、川上でもかなり奥まった山中で造船されることがあったことが確認されています。大陸でも即晋書幸霊伝などに、山中にて官船が造られた記録が残されていることは注目に値します。その他、吉井川の上流にある備前国赤磐郡吉井町字舟木、江ノ川の上流にある安芸郡高田郡高宮町大字船木、伊勢国度会郡大宮町舟木、美濃国本巣郡船木などは、いずれも内陸に存在する船木ではあるが、どれも川沿い近くに存在し、造船に携わっていた歴史的背景を持っています。

このように、全国に広がる船木の地名は、その多くが海岸線沿いに存在するものの、中には内陸の川上、山中にも存在します。船木、もしくは舟木とも記される地名の共通点は、そこに船木氏が居住して古代、集落を造成し、時には鉱山を発掘したことです。そして、これらの船木の集落は、造船に使われる船材を産出する山や鉱山に関わる土地の意味を持つ場合と、それらの船材を採取して、実際に船を造る船木部の人々の集落を指している場合とに分かれるも、船を造りながら船木郷、船木村は船木の拠点として栄えていったのです。

海沿いに現在も残る舟木の地名
海沿いに現在も残る舟木の地名

0 件のコメント:

コメントを投稿

大日山35号墳〜全国に例のないユニーク埴輪 | ニュース和歌山 2021

大日山35号墳〜全国に例のないユニーク埴輪 | ニュース和歌山 https://www.nwn.jp/feature/211023kofun_haniwa/ 大日山35号墳〜全国に例のないユニーク埴輪  大日...