The Ancient Jewish Diaspora in Japan, the Tribe of Hada: Their Religious and Cultural Influence
https://www.abebooks.com/servlet/BookDetailsPL?bi=903253137
日本語は、生命之光1971年7月号
以下はシャハン、
メノコヤネ、ヘブライ語では「私たちの民は祭司」の意味になる)の子孫
である中臣(ナカトミ)氏と、同格の祭司階級であることを記述して
いる。
九州西部の八代には秦(ハタ、またはハダ)氏の子孫が住んでおり、
妙見宮という彼らの古い神殿が残されている。祭りの日には信者たち
は「ハレルヤ! ハアリー・ヤー! トシェ・ヤーウェ! ヤーウェ!ヨ
イットナー」(ヘブライ語で「主を誉めよ、主を掲げよ、ヤーウェよ、救い
給え、ヤーウェよ、主は我らと共にある」という意味になる)と歌いな
がら、神輿を担いで行列を行うが、その歌の言葉は日本語では意味を
なさない。彼らは先祖から代々受け継がれた言葉をそのまま継承し
ているのである。この行列は、エジプト脱出と、割れた紅海を渡る物語…
Teshima Ikuro, The ancient Jewish Diaspora in Japan, p.38.
268
諏訪大社では古くから、なんとイサク伝承が祭として伝えられていた。
Paul Sakamoto2018-07-01 18:50:36
「じつは、サンフランシスコ教会の牧師だった川守田英二博士は、日本の全国いたる所に残っている神社の祭りの唄やハヤシ唄の中に、ヘブル語の痕跡が残っていることを広く考証して、数冊の著書を出しています。私は、卓抜な研究だと思います。
たとえば、桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は、日本人なら誰でも知っている童話ですが、さて『エンヤラヤ』とは何か? と子どもから聞かれると、親たちは困ってしまいます。
エンヤラヤ( エァニ・アーレル・ヤ)とは、『私はヤハウェを讃美します』というヘブル語(ユダヤ人の言葉)となります。
熊本の八代の妙見社の御祭を見物したことがありますが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ・・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』と、ヘブル語そのままに歌われていました・・・・」(キリスト聖書塾刊『生命の光』二五〇号、四頁)。
以下は杣浩二より
「九州西部の八代には秦氏の子孫が住んでおり、妙見宮という
彼らの古い神殿が残されている。 祭りの日には信者達は、
「ハレルヤ! ハアリー・ヤートシャ・ヤーウェー! ヤーウェー
ヨイットナー」(ヘブライ語で「主を誉めよ、主を掲げよ、ヤーウェーよ、
救い給え、ヤーウェーを、主は我らと共にある。」という意味になる)
と歌いながら、神輿を担いで行列を行うが、その歌は日本語では
意味をなさない。」と述べ、神輿(神の箱)を十部族が担いでいる様が
明確にイメージできる。
| ||||||||||||||||||||||||
杣浩二はシャハンから孫引き
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-efdeb1.html
「九州西部の八代には秦氏の子孫が住んでおり、妙見宮という
彼らの古い神殿が残されている。 祭りの日には信者達は、
「ハレルヤ! ハアリー・ヤートシャ・ヤーウェー! ヤーウェー
ヨイットナー」(ヘブライ語で「主を誉めよ、主を掲げよ、ヤーウェーよ、
救い給え、ヤーウェーを、主は我らと共にある。」という意味になる)
と歌いながら、神輿を担いで行列を行うが、その歌は日本語では
意味をなさない。」と述べ、神輿(神の箱)を十部族が担いでいる様が
明確にイメージできる。
書誌ID(NDLBibID)
000006347868
http://id.ndl.go.jp/bib/000006347868
手島 郁郎(てしま いくろう、1910年 - 1973年12月25日)は、無教会主義の流れを汲むキリスト教系宗教団体、キリストの幕屋の創始者。熊本県出身。手島アブラハム郁郎とも。
シャハン
The Ancient Jewish Diaspora in Japan, the Tribe of Hada: Their Religious and Cultural Influence Makuya Tokyo Bible Seminary, 1976 - 129 ページ |
書誌情報
書籍名 | The Ancient Jewish Diaspora in Japan, the Tribe of Hada: Their Religious and Cultural Influence |
著者 | |
版 | 3 |
出版社 | Makuya Tokyo Bible Seminary, 1976 |
ページ数 | 129 ページ |
諏訪大社では古くから、なんとイサク伝承が祭として伝えられていた。こちらのリンクほぼ私が普段
「じつは、サンフランシスコ教会の牧師だった川守田英二博士は、日本の全国いたる所に残っている神社の祭りの唄やハヤシ唄の中に、ヘブル語の痕跡が残っていることを広く考証して、数冊の著書を出しています。私は、卓抜な研究だと思います。
たとえば、桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は、日本人なら誰でも知っている童話ですが、さて『エンヤラヤ』とは何か? と子どもから聞かれると、親たちは困ってしまいます。
エンヤラヤ( エァニ・アーレル・ヤ)とは、『私はヤハウェを讃美します』というヘブル語(ユダヤ人の言葉)となります。
熊本の八代の妙見社の御祭を見物したことがありますが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ・・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』と、ヘブル語そのままに歌われていました・・・・」(キリスト聖書塾刊『生命の光』二五〇号、四頁)。
https://www.google.com/search?udm=36&q=手島郁郎%E3%80%80秦氏
https://books.google.com/books/about/Nihon_minzoku_hishi.html?hl=ja&id=QOclAAAAMAAJ
... 氏の話として、「秦の子孫と称するものが、後漢の戦乱のときずっと朝鮮から安全なところを求めて、(後略)」とあります。また ... 手島郁郎師の『生命の光』第二百五十号によったことをお断りしておきます。すなわち彼らは「自ら秦の亡人と言い、苦役 ...
... 手島郁郎師の主宰する『生命の光』第二百五十巻(昭和四十六年七月号)によると、その姓氏録には蕃別名が多くを占めて三十七%の数に達し、その中でも最も優勢で多数であるのは秦氏の系統で、日本書記によると、秦氏らがいかに日本文化に貢献したかは明らか ...
... 郁郎先生によると次のようです。日本における神社数は約十一万もありますが、その中で最も多いのが八幡さんで、四万六百三十 ... 手島先生は秦氏らの信じる神に、波陀の神(ヤハ)というのがあるので、ヤハーダであろうと思っていたといいます。 ところが昭和四十 ...
| ||||||||||||||||||||||||
手島郁郎は、こう述べています。
https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&display=panel&from=0&size=20&keyword=手島郁朗+秦氏&f-ht=ndl
諏訪大社では古くから、なんと
イサク伝承が祭として伝えられていた。
また、レムナント九二号「日本神道のルーツは古代イスラエル宗教」でも述べたように、日本の神社の構造が古代イスラエルの幕屋にたいへん似ているのは、一体なぜでしょうか。
神主の服をはじめ、おみこし、みそぎ、そのほか日本古来の風習の多くが、古代イスラエルの習慣にあまりにもよく似ているのは、一体なぜでしょうか。
さらに、日本の民謡にヤハウェ信仰の痕跡が随所に見られることは、興味深いことです。これについては、レムナント八九号「日本ヘブル詩歌の研究」でも紹介しましたが、同じくこれを研究した手島郁郎は、こう述べています。
「じつは、サンフランシスコ教会の牧師だった川守田英二博士は、日本の全国いたる所に残っている神社の祭りの唄やハヤシ唄の中に、ヘブル語の痕跡が残っていることを広く考証して、数冊の著書を出しています。私は、卓抜な研究だと思います。
たとえば、桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は、日本人なら誰でも知っている童話ですが、さて『エンヤラヤ』とは何か? と子どもから聞かれると、親たちは困ってしまいます。
エンヤラヤ( エァニ・アーレル・ヤ)とは、『私はヤハウェを讃美します』というヘブル語(ユダヤ人の言葉)となります。
熊本の八代の妙見社の御祭を見物したことがありますが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ・・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』と、ヘブル語そのままに歌われていました・・・・」(キリスト聖書塾刊『生命の光』二五〇号、四頁)。
また、神武天皇の物語の中にも、ヤハウェ信仰の痕跡が感じられます。ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグは、神武天皇の物語を読んだとき、昔イスラエル民族がカナンの地に向かった時のことを思い起こさざるを得なかった、と言っています。
日本書紀によると、神武天皇は「キノエトラ」(甲寅)の年に、「東征」に向かい、「葦原(あしはら)の国」の中心である大和に旅立ちました。一方、古代イスラエル民族はシナイ山で「律法を授かった年」に、北東へ旅立ち、「カナンの地」に向かいました。
アイデルバーグによると、この「律法を授かる」は、ヘブル語で「キニヤ・トラ」といいます。キニヤは得る(箴言四・七)、トラ(トーラー)は律法の意味です(出エ一二・四九)。
一方「カナン」は、「カネ・ナー」の合成語と考えると、それは「葦原」の意味だといいます。カネは葦(Ⅰ列王一四・一五)、ナーは原です。
つまり、神武天皇が「キノエトラ」の年に「東征」に向かい、「葦原の国」の中心地・大和に旅だったという物語は、かつてイスラエル民族が律法を授かった年に北東に向かい、カナンの地へ旅だったという物語を"下地"としている、と思われます。
モーセが律法を授かった(キニヤ・トラ)年に
カナン(葦原)に旅だったように、神武天皇は、
キノエトラの年に葦原の国の中心地へ旅だった。
日本書紀の記述には当時の大和朝廷の政治的意図がかなり混入していますが、こうしたことを考えるなら、日本書紀や古事記以前には民の間にヤハウェ信仰がまだ色濃くあったのではないか、と思われてくるのです。
https://ameblo.jp/alua777/entry-12387736365.html
諏訪大社では古くから、なんとイサク伝承が祭として伝えられていた。こちらのリンクほぼ私が普段
Paul Sakamoto2018-07-01 18:50:36
イサク伝承が祭として伝えられていた。
こちらのリンクほぼ私が普段考えていた考察と一致しましたのでご紹介します。日本も元々多神教ではなく一神教、ヘブライ語でヤ・ウマト(神の民) 大和です。
古代日本人はヤハウェを信じていた
神道の多神教以前に、ヤハウェ信仰があった。
日本の伝統的宗教である「神道(しんとう)」では、神は「八百万(やおよろず)の神」と言われ、数多くの神々がいるとされています。
しかし、古代日本人は、本当に初めからそのような多神教の神々を拝んでいたのでしょうか。
最初に一神教があり後に多神教になった
以前、多くの人類学の本の説明では、宗教は次のように発展してきた、と説明されていました。
すなわち、はじめに石や樹木などに宿る精霊(しょうりょう)を拝する「精霊信仰」(アニミズム)などの原始的形態があり、そこから「多神教」に発展し、さらに進んで多くの神々の中から一つの神だけを拝するゾロアスター教などの「拝一神教(はいいつしんきょう)」が生まれ、さらにそれが高度化して、高度な倫理体系と整備された教理を持つユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの「唯一神教」が生まれたのだ、と。
しかし、二〇世紀の考古学の発達は、事実は全く逆であったことを明らかにしました。
●すなわち、宗教は決してこのような進化論的な形で発展してきたのではなく、はじめにあったのは、ただおひとりの神を信じる"一神教"でした。そこから、堕落した形態として"多神教"が現われたのです。
たとえば、人類学上最も古い民族の一つとされるスメリヤ人は、その文化の終わり頃には五千の神々を持っていました。しかし、その文化の初期には、ただひとりの神「空の神」がいただけです。
この「空の神」は、聖書の教える「天の神」に通じるものでしょう。元来は同じ神に違いありません。
また、有名なエジプトの考古学者フリンダース・ペトリ卿は、エジプトの宗教ははじめは「一神教」だったと言っています。
オクスフォード大学のスティーブン・ラングドン博士は、バビロニアで碑文を発見し、その研究から、世界最古の宗教が何であったかについて、言及しています。それによるとその碑文は、人類最初の宗教は唯一神の信仰であって、そこから急速に多神教と偶像崇拝に傾いていったことを、示していたとのことです(ラングドン著『セム族の神話』)。
W・シュミット、W・コッペルスなどの有力な学者たちも、豊富な資料に基づき、一神教こそはあらゆる原始的宗教の基本となるもので、これが後に堕落変形して、他の様々な宗教形態が生じた事実を、明らかにしました。
このように、宗教は精霊信仰→多神教→拝一神教→唯一神教と進化発展してきたのではなく、むしろ、唯一神教→多神教→無神論と堕落してきたのです。
考古学者たちは、一神教が堕落して
多神教になった事実を明らかにしている。
とすれば、日本神道で言われている「八百万の神」の多神教も、じつは初めからそのような多神教だったのではなく、もとは一神教であり、それが堕落してできた形ではないか、という推測が出てきます。
初期の日本人は非常に霊性の高い人々だった
私たちは古代の日本人について調べてみるとき、彼らが霊性の非常に高い人々であったことを知ります。
今日、日本人の精神的荒廃が叫ばれて久しくなりますが、古代の日本人は、ある種の風格と高い霊性を持つ民族でした。
たとえば、初代天皇である神武天皇の生涯を日本書紀に読んでみても、神武天皇はつねに天の神を祀り、信仰していた人でした。そして、
「わがみおやの霊よ、天より降りみそなわし、我が身を照らし、助けたまえ」
と祈る敬虔、かつ謙虚な人物であったことがわかります。
神武天皇は、篤く天の神を敬う人だった。
神武天皇はまた、長随彦(ながすねひこ)に和議を拒まれたのみか、さんざんに攻めあぐまれたとき、言いました。
「私は日の神の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは、天道に逆らっている。一度は退却してたとえ弱そうに見せても、神をうやまい祀ろう。
背中に太陽を負い、日の神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば、刃に血をぬることなく、敵はきっと敗れるだろう」
と。天皇は戦況の悪化の中にも、神を第一にして退却したのです。
彼は先祖の神を拝し、声高く雄叫びして祈願しました。こうして難をのがれたのですが、そののち神の祝福と導きがあって、戦況は一転し始めました。
そしてついに、長随彦の大軍勢も降伏し、国は平定されたのです。
神を第一とした神武天皇のこの敬虔さは、イスラエル民族の指導者ヨシュアにも比すべきものです。ヨシュアも、天の神をあつく信仰しつつ、約束の地カナンを目指して民を率いた人物でした。
ヨシュアは、「先祖の神」すなわち「アブラハム、イサク、ヤコブの神」に祈りを捧げながら、その力を得て敵に打ち勝ちました。そしてついにカナンの地を平定しました。
確かに、ヨシュアの信じた神は唯一神ヤハウェであり、一方、神武天皇の信じた神は、日本書紀によれば多神教の神であるという違いはあります。
しかし、世界の多神教をいろいろ調べてみると、多神教を拝む人々というのは、これほどに高い霊性を持っていないのが普通なのです。一般に多神教は、みだらなものであったり、愚かしいものであったりするのが普通です。
ところが、神武天皇の信仰などを見てみると、その信仰は一神教の信仰に比すことができるほど、ひじょうに気高いものとなっています。あたかも、古代イスラエル人が唯一の神に対して抱いた信仰にも、似ていると言えるのです。
古代日本人は、「清く、明るく、さやけき(汚れなき)心」で、神に仕えようとしました。これは旧約聖書が教える神への信仰にも通じるものです。
原日本人は、非常に高い霊性――気高い宗教的情操を持っていました。その霊性は本来、多神教のものというよりは、一神教の信仰を偲ばせるものです。
最初の至高神
日本書紀によれば、神武天皇は、「日の神」の威光をかりて敵を討とうと言いました。「日の神」とは、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」です。
では天照大神は、神道の神々の中で一番偉い最初の神様なのかというと、そうではありません。天照大神の生まれる以前に、もっと偉い神様がいたことになっています。
天照大神の両親は、「伊邪那岐神(いざなぎのかみ)」と「伊邪那美神(いざなみのかみ)」でした。天照大神にはまた、「須佐之男命(すさのおのみこと)」という弟もいました。
さらに、伊邪那岐神と伊邪那美神が生まれる前に生まれた神々も、います。
古事記の中では、神々の中で一番最初に現われたのは「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」、「高御産巣日神(たかむすびのかみ)」、「神産巣日神(かみむすびのかみ)」の三神とされています。
これら最初の三神の中でも、「天之御中主神」は、天上界の中心にいて、天地を主宰する中心的な神です。この神は、親も系譜もない単独の神であり、姿を現わさず、目に見えない神とされました。最初の神であって、至高神なのです。
ここらへんの『記紀(きき)』(古事記と日本書紀)の記述は、なにやら聖書の教える三位一体の神に、どこか似ていると思わせるものがあります。
神武天皇や、古代の日本人は、天照大神だけでなく、これら最初の三神を祀り、信奉していたとされています。また、その三神のあとの宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)や、天之常立神(あめのとこたちのかみ)、そして「神世七代(かみよななよ)」の神々などを信奉していたとされています。
しかし、古代の日本人は、本当にこのように多くの神々を信奉していたのでしょうか。
日本神話の多神教はバビロニア等の多神教の影響を受けている
聖書の教える唯一の神は、お名前を「ヤハウェ」(ヤーウェ Yahweh, )といいます。
人間に、太郎や花子といった固有の名前があるのと同じように、ヤハウェは神ご自身の固有のお名前です。ヤハウェにはまた短縮形があり、その短縮形は「ヤハ」(ヤァ)といいます。
一方、「神」という普通名詞は、ヘブル語で「エル」といいます。これは単数形で、複数形はエロヒムです。
アブラハムの子孫、イスラエル民族などにおいては、神は唯一のお方として信じられ続けました。しかし他の民族においては、宗教的堕落とともに、多神教が発生していきました。
多神教は、次のような形で生まれていきました。たとえばバビロニア(メソポタミヤ)では、しだいに堕落した人々は、「エル」はおひとりではなく、妻や子どももいるのではないか、と考えるようになりました。
「エル」に妻がいると考えるようになった人々は、その妻を「アシュタロテ」と呼びました。また、元来は普通名詞だった「エル」も、彼らの間では固有名詞化して使われるようになりました。
また、エルとアシュタロテからは、「バアル」という息子と「アナト」という娘が生まれた、とされました。こうして、最初の神から子どもが生まれたと考える形で、多神教が発生していったのです。
じつは、この「バアル」という神は、日本のスサノオノミコトという神によく似ています。
バアルは、ラス・シャムラ土板という古代の碑文によると、嵐の神です。彼は牛の角のついたかぶとをかぶり、鎚矛(つちほこ)と電光を放って、武装しています。
また雷鳴と電光の中に現われ、秋と冬の雨をもたらします。バアルは人身牛頭の神であり、嵐の神なのです。
これは日本神話のスサノオノミコトの姿に、じつによく似ています。スサノウは別名「牛頭天王(ごずてんのう)」と言われ、嵐の神とされているのです。
京都の八坂神社では、スサノウは牛頭天王として祭られています。スサノウはまた、天上界で乱暴狼藉を働いたとされる荒ぶる神であり、暴風雨を司る神です。
一方、女神アシュタロテは、やがてギリシャでは、「アフロディテ」、ローマでは「ヴィーナス」の名で信奉されるようになりました。
日本の神話では、このアシュタロテとアナトが同化して、アマテラス(天照大神)になったのではないかと、神道家の鹿島昇氏は見ています(鹿島昇著『日本神道の謎』光文社カッパブックス)。
アシュタロテ。この女神は、
ギリシャではアフロディテ、
ローマではヴィーナス、
そしておそらく日本では
アマテラスオオミカミの名で、
信奉されるようになった。
このように、アマテラスやスサノオの神話は、バビロニアの神話が若干変形しながら伝わってきたもの、と見ることができそうです。
ほかにも、日本の神話の中には、ギリシャや、インド、インドネシア、中国の神話と同型同根(どうけいどうこん)のものが数多く見られます。詳細は省きますが、日本の神話は、それらの地方から伝わった様々な多神教神話の集合体であることが、明らかなのです。
つまり、『記紀』に述べられた八百万の神の多神教神話は、あとからのものであって、元来はもっと別のものだったでしょう。
実際、古事記と日本書紀とでは、神々の神話内容に、いくつかの相違や矛盾が見られます。それはそうした神話が、あとから付け加えられたものであることを示しています。
古代の日本人は、みなが多神教を信じていたのではありません。じつは古代日本人の中には、堕落した多神教ではなく、唯一の神ヤハウェを信じる人々もいたと思われるのです。
アジアには古来ヤハウェ信仰を持つ民族がいる
こう書くと、ある人々は、
「まさか。神ヤハウェを信じていた人々は、イスラエル人だけだったのではないのか。日本は、その地からはるかに遠い所にある。どうして日本にヤハウェ信仰があるだろうか」
というかも知れません。しかし、ヤハウェ信仰は古来、アジアにもあったのです。
たとえば、東南アジアに位置するミャンマー(旧ビルマ)に、カレン族という人々がいます。彼らは、先祖伝来のヤハウェ信仰を今も保持しています。
彼らは、神の御名ヤハウェを短縮形の「ヤァ」(Ya)で呼んでいます。短縮形ヤァは、聖書にも何度も出てきます。たとえば、詩篇一一八・五の
「私は主を呼び求めた」
の「主」は、原語のヘブル語では「ヤァ」(ヤハ、Yah, )なのです。古代イスラエル人も、神を「ヤァ」と呼んでいたのです。
カレン族は、ヤァは永遠、完全な唯一神であり、宇宙を創造し、人を創造された全知全能のお方であると言い伝えてきました。彼らにはまた、聖書の内容に酷似する人間堕落伝承や、大洪水伝承、バベルの塔や、民族の起源に関する伝承もあります。
カレン族には古来、ヤハウェ信仰がある。
カレン族はこれらの知識を、決してキリスト教の宣教師に教わったわけではありません。ただ大昔の先祖に教えられたことを、大切に言い伝えてきたにすぎないのです。
カレン族のヤハウェ信仰は、聖書の流れとは独立して言い伝えられてきたものです。(詳しくはレムナント七七号「カレン族に先祖代々伝わるヤハウェ信仰」参照)。
また、ニュージーランドなどに住むマオリ族にも、古来、ヤハウェ信仰があります。
マオリ族もまた、永遠、不死の至高の神、宇宙を創造し人を創造された全知全能のおかた、恵み深い見えない神を信じています。彼らにはまた、聖書の内容に酷似する人間堕落伝承があります。
彼らはその創造者なる神を、「ヨォ」(Io)または「ヤェ」と呼んでいます。これはヤハウェの短縮形「ヤァ」の若干なまったものと理解できそうです。
彼らはこの神について、宣教師から教わったわけではありません。単に大昔から、先祖の教えた神を忠実に言い伝えてきたにすぎないのです。
マオリ族にも古来、ヤハウェ信仰がある。
マオリ族は東南アジア方面から来た民族であることが知られています。彼らのヤハウェ信仰も、聖書の流れとは独立して存在してきたのです(Creation ex nihilo, Vol.18 No.4, CSF)。
中国の苗族(ミャオ族)にも、古来、同様のヤハウェ信仰があります。
苗族にもまた、天地を創造し、あらゆる生物と人類を創造された創造主なる神に関する言い伝えがあります。またその言い伝えは、大昔の大洪水と人類の絶滅、箱舟によって一家族が助かったこと、またバベルの塔、民族の起源などに関するものも含まれ、その内容は驚くほど聖書のものに酷似しています。
苗族の言い伝えもまた、キリスト教の宣教師によるものではありません。彼らは単に、大昔の先祖の言い伝えを忠実に保持してきたにすぎないのです(聖書と科学の会『インパクト』一五九号)。
苗族にも古来、ヤハウェ信仰がある。
(苗族の子どもたち)
このように現在も、カレン族、マオリ族、苗族などに、ヤハウェ信仰が見られます。さらに昔にさかのぼれば、もっと多くの民族がヤハウェ信仰を持っていたことでしょう。
カレン族にしても、マオリ族にしても、苗族にしても、みな日本人の祖先と非常に関係の深いと言われる民族です。彼らの顔形は日本人とほとんど変わりなく、言語や風習においても似たものがあり、近縁であることは明らかです。
カレン族、マオリ族、苗族などは、周囲の民族が急速に多神教に堕落していく中でも、それらに毒されることなく、古来のヤハウェ信仰を保持してきました。
彼らや、他の幾つかの民族が混血して、日本人となったと言われています。そうであれば、古代の日本人にヤハウェ信仰があったとしても、決して不思議なことではありません。
イサク伝承を日本に伝えた人々
さて、先月見たように長野県の諏訪大社に、旧約聖書のイサク伝承と全く同型のものが、祭りとして、少なくとも江戸時代くらいまでは存在していました(レムナント九六号「諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承」)。
その祭りでは、子どもが縛られ、竹のむしろの上に置かれ、小刀が出されますが、使者の到来と共に子どもは解放されます。またこの祭りでは、動物のいけにえがなされるのです。
そこには「守屋山(もりやさん)」(モリヤ山)と呼ばれる所があり、その地の神は「洩矢神(もりやのかみ)」(モリヤの神)と呼ばれています。また「ミ・イサク・チ」という名前も登場します。
このように、この祭りはまさに、モリヤの地でイサクを捧げようとしたアブラハムの手を止められた神に関する記憶、と考えるほかありません。イサク伝承は、ヤハウェ信仰の人々以外は持っていないのです。
ちなみに、ヘブル語の「モリヤ」()は、「ヤハウェの啓示」の意味です。諏訪大社に「モリヤの神」とイサク伝承を伝えた人々は、明らかにヤハウェ信仰の人々だったでしょう。
諏訪大社では古くから、なんと
イサク伝承が祭として伝えられていた。
また、レムナント九二号「日本神道のルーツは古代イスラエル宗教」でも述べたように、日本の神社の構造が古代イスラエルの幕屋にたいへん似ているのは、一体なぜでしょうか。
神主の服をはじめ、おみこし、みそぎ、そのほか日本古来の風習の多くが、古代イスラエルの習慣にあまりにもよく似ているのは、一体なぜでしょうか。
さらに、日本の民謡にヤハウェ信仰の痕跡が随所に見られることは、興味深いことです。これについては、レムナント八九号「日本ヘブル詩歌の研究」でも紹介しましたが、同じくこれを研究した手島郁郎は、こう述べています。
「じつは、サンフランシスコ教会の牧師だった川守田英二博士は、日本の全国いたる所に残っている神社の祭りの唄やハヤシ唄の中に、ヘブル語の痕跡が残っていることを広く考証して、数冊の著書を出しています。私は、卓抜な研究だと思います。
たとえば、桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は、日本人なら誰でも知っている童話ですが、さて『エンヤラヤ』とは何か? と子どもから聞かれると、親たちは困ってしまいます。
エンヤラヤ( エァニ・アーレル・ヤ)とは、『私はヤハウェを讃美します』というヘブル語(ユダヤ人の言葉)となります。
熊本の八代の妙見社の御祭を見物したことがありますが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ・・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』と、ヘブル語そのままに歌われていました・・・・」(キリスト聖書塾刊『生命の光』二五〇号、四頁)。
また、神武天皇の物語の中にも、ヤハウェ信仰の痕跡が感じられます。ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグは、神武天皇の物語を読んだとき、昔イスラエル民族がカナンの地に向かった時のことを思い起こさざるを得なかった、と言っています。
日本書紀によると、神武天皇は「キノエトラ」(甲寅)の年に、「東征」に向かい、「葦原(あしはら)の国」の中心である大和に旅立ちました。一方、古代イスラエル民族はシナイ山で「律法を授かった年」に、北東へ旅立ち、「カナンの地」に向かいました。
アイデルバーグによると、この「律法を授かる」は、ヘブル語で「キニヤ・トラ」といいます。キニヤは得る(箴言四・七)、トラ(トーラー)は律法の意味です(出エ一二・四九)。
一方「カナン」は、「カネ・ナー」の合成語と考えると、それは「葦原」の意味だといいます。カネは葦(Ⅰ列王一四・一五)、ナーは原です。
つまり、神武天皇が「キノエトラ」の年に「東征」に向かい、「葦原の国」の中心地・大和に旅だったという物語は、かつてイスラエル民族が律法を授かった年に北東に向かい、カナンの地へ旅だったという物語を"下地"としている、と思われます。
モーセが律法を授かった(キニヤ・トラ)年に
カナン(葦原)に旅だったように、神武天皇は、
キノエトラの年に葦原の国の中心地へ旅だった。
日本書紀の記述には当時の大和朝廷の政治的意図がかなり混入していますが、こうしたことを考えるなら、日本書紀や古事記以前には民の間にヤハウェ信仰がまだ色濃くあったのではないか、と思われてくるのです。
記紀にみるヤハウェ信仰
また『記紀』(古事記と日本書紀)には、ヘブル語起源と思われる言葉が多いのも、興味深いことです。
神武天皇は即位したのち、種族の長たちに「アガタヌシ」(県主)の称号を与えた、と書かれています。これは全く、ヘブル語と同じです。
これがヘブル語の「アグダ・ナシ」だとすれば、それは"集団の長"の意味です。アグダは集団、ナシは長の意味(出エ一六・二二)です(ただし現代ヘブル語ではナシ・アグダ)。
『記紀』では、神々や天皇はみな「ミコト」と呼ばれています。これはどういう意味かと言ったら、日本語では単に尊称と解する以外にないでしょう。
しかし、これがヘブル語の「マークート」から来たものとすれば、それは"王"の意味なのです(Ⅱ歴代七・一八)。
また天皇は、「ミカド」と呼ばれることもあります。これがヘブル語の「ミガドル」から来たものとすれば、それは"高貴なお方"の意味です。
また、日本は古来「ヤマト」と呼ばれてきました。これには「大和」「倭」「日本」などの漢字が当てはめられたりしますが、いずれも当て字です。漢字は中国から輸入されたもので、それ以前から「ヤマト」という音があったのです。
ヤマトがヘブル語の「ヤ・ウモト」なら、それは"ヤハウェの民"の意味です。ヤは神の御名ヤハウェの短縮形、ウモトは民の意味です(民数二五・一五)。
とすれば、日本民族は本来は、神ヤハウェの民であったことになります。
さらに、ユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグ氏は、神武天皇の正式称号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」はヘブル語だと言っています。
もしこれを日本語として解釈すれば、これといった意味はないが、ヘブル語として読めば、それは、
「サマリヤの王、神ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者」
の意味になるのです(詳しくはレムナント出版発行『古代日本にイスラエル人がやって来た』五二ページ)。またアイデルバーグ氏は、
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とお」
も、ヘブル語だと言っています。まさかと思う人もいるでしょうが、実際これはヘブル語としか思えないのです(詳しくは同書五三ページ)。
このように古代日本には、ヘブル語を話し、神ヤハウェを信じる一群の人々がいたはずです。『記紀』においてヘブル語源のものが残っているのは、そうした人々の名残でしょう。
しかし、やがて多神教や、異教的な伝承を持つ人々たちが勢力を持つようになると、日本の起源に関する伝承は、『記紀』に記されたような多神教的な物語に作り替えられていきました。そしてヤハウェ信仰も、少なくとも表向きには、消し去られていったのです。
ヤハウェ神に立ち帰れ
今日の日本神道の多神教形態と、現代の日本人の間に見られる無神論は、日本民族が堕落した結果にほかなりません。
本来、日本人は、宗教心あつく、霊性高く、至高の神を敬い、拝する民族でした。初期の日本人は、聖書の教えると同じ神ヤハウェを知っていたことでしょう。
私たちが、本来の民族的ルーツに立ち帰るにはどうしたらよいのでしょうか。それは、神ご自身が下さった啓示の書『聖書』に学び、聖書の教える神ヤハウェを信じることです。
そして父なる神ヤハウェが、私たちのためにお送り下さった御子イエス・キリストを、救い主として知ることです(イザ五三・六)。
そのときに、私たちは霊性を回復し、祖先の信じたと同じ唯一の至高の神に立ち帰ることができるのです。
Back to Yahweh our God!
ヤハウェに立ち帰れ。
久保有政著(レムナント1997年8月号より)
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/097kodai.htm
から引用!
「九州西部の八代には秦氏の子孫が住んでおり、妙見宮という
彼らの古い神殿が残されている。 祭りの日には信者達は、
「ハレルヤ! ハアリー・ヤートシャ・ヤーウェー! ヤーウェー
ヨイットナー」(ヘブライ語で「主を誉めよ、主を掲げよ、ヤーウェーよ、
救い給え、ヤーウェーを、主は我らと共にある。」という意味になる)
と歌いながら、神輿を担いで行列を行うが、その歌は日本語では
意味をなさない。」と述べ、神輿(神の箱)を十部族が担いでいる様が
明確にイメージできる。
==>> 様々な日本での言葉がヘブライ語で意味を持つという
ことに関しては、前回読んだ本と内容はほぼ同じです。
この本では、秦氏が日本列島に来たことを古代ユダヤの
部族の流入と解釈しているようです。
八代の妙見祭りについてはこちらのサイトにあります。
https://myouken.com/%e5%85%ab%e4%bb%a3%e5%a6%99%e8%a6%8b%e7%a5%ad/%e7%a5%9e%e5%b9%b8%e8%a1%8c%e5%88%97%e3%81%ae%e7%b4%b9%e4%bb%8b/
八代妙見祭の神輿の行列での掛け声を聞いてみたいと
思ったのですが、こちらのyoutubeでの録画では
掛け声を聞くことができませんでした。
01:40:00の辺りに神輿は出てくるのですが・・・
https://www.youtube.com/watch?v=jWWZDdA5PbM&t=5821s
ちなみに、こちらのサイトでは、この掛け声の件についての
質問があって、以下のような答が書かれています。
「ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭」
https://myouken.com/%E5%A6%99%E8%A6%8B%E7%A5%ADqa/
「現在のところ、妙見祭で神輿を担いでヘブル語で歌うと
いうことはありません。というより他の出し物も含めて、
楽器の演奏を伴うものはありますが、歌を歌うとい
うことは一切行われておりません。
ただし、歌ではありませんが、妙見祭の場合「ホイホイ」と
いう掛け声を出すということは広く行われています。」
・・・という現場からの説明がありますので、
ヘブライ語と聞こえるような掛け声はこの妙見祭では
無いということになります。
(Copyright © ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭
All Rights Reserved.と記載がありますので、公式のもの
と思われます。)
なので、いつの時代にどういう情報元からそのような
ものが出てきたのかが知りたいところです。http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-efdeb1.html
苫米地さんの「日本教」と「日ユ同祖論」 3― 杣浩二著 「古代ユダヤ人は日本に来ていたー実証的証明」を読む
苫米地さんの「日本教」と「日ユ同祖論」 3― 杣浩二著 「古代ユダヤ人は日本に来ていたー実証的証明」を読む
苫米地英人著「人はなぜ、宗教にハマるのか?」を読んでいたら
いきなり第五章に「現代に続く「日本教」はいつ生まれ、どこへむかうのか?」
というのがあって、そこになぜか日ユ同祖論がかなりのページを割いて
記述されていました。
それに釣られて、上の二冊の本をうっかり買ってしまったんですが、
結論から言えば、今一つ・・納得は無理、という感じでした。
ちなみに、私は日本史は苦手な科目で、疎いので、トンチンカンな感想に
なると思います。
本の紹介程度と受け止めていただければ幸いです。
では、3冊目の本である 以下の本を読みましょう。
杣浩二著 「古代ユダヤ人は日本に来ていたー実証的証明」
2015年7月10日 初版
==
p14
博士はハノム・スロチェズ教授の著書から引用して・・・
「紀元前6世紀から5世紀の古代世界において、ヘブライ語の影響は
東は日本から西は大西洋に至るまで、古代文明のほぼ全域に及んだ。」
とされ・・・
・・・ひらかな、カタカナはもちろん、ソーラン節における「ヤーレン、
ソーラン」が・・・「ヤーレン=歌って喜ぶ、ソーラン=梯子」というように、
地方の多くの民謡にヘブライ語そのものが用いられていると共に、
所謂アークとしての神輿(神の箱)を担ぐときの「エッサ、エッサ」が、
運ぶという意味である等、多くの日本語がヘブライ語そのものとして今日
まで用いられている。
p15
博士は「古事記」の深い研究を元に、「北ルートを採った十部族の軍勢の
最初の者達は、日本神話に登場する人物スサを隊長とする先遣隊と共に、
紀元前660年頃に日本に到着したと思われる。・・・・
紀元前585年頃、神武という指導者を先頭に、北ルートの大軍勢力が
・・・・彼は日本全土を占領し、日本の天皇家を設立した。・・・
・・・神道こそが日本の最も古い宗教あり、その掟のルーツをたどると、
モーセのトーラーに行きつく。」と述べ、血液学の権威、古畑種基博士や
日本人の起源を研究した手島郁郎氏の研究結果が博士の裏付けられる事を
述べている。
==>> ここで博士と呼ばれているのは、ベン=アミー・シロニー博士
であり、イスラエルの歴史学者、ヘブライ大学名誉教授と
されています。
この博士の動画がありましたので、ご覧ください。
ユダヤ人、アインシュタイン、原爆のことなどが語られて
います。
https://www.youtube.com/watch?v=OtO_dwsw92o&t=2s
この動画の中で、日露戦争の際に、日本に資金を提供した
ヤコブ・シフというユダヤ人銀行家のことも述べられています。
この銀行家については、こちらの帝京大学のサイトの論文で
ご覧ください:
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/mnimura19.pdf
「シフの対日支援動機に、帝政ロシアに打撃を与えユダヤ
人政策見直しへの道を開かせようとする戦略、深慮遠望が
あるのとともに、新興国との金融取引は収益をあげる絶好の
チャンスとのビジネス面での判断も働いたことを明らかにした。」
さて、本文に戻りますと、この博士の著書からの引用で
多くのことが述べられていますが、特に古事記とユダヤ教の
神話に基づく歴史の比較による古代ユダヤ人の日本列島への
移住を説いているようです。
ただし、この本には考古学的な根拠などは書かれていません。
血液学の権威によって裏付けられるとの記述がありますが、
古畑種基氏はその時代には権威のようですが、DNAによる
判定が出来る現代となっては、ほとんど意味がないように
思います。
こちらのサイトに、この本が参照したと思われることも
書いてありますので、参考としてください:
アビグドール・シャハン著
「古代日本に辿り着いたユダヤ人・失われた十部族の足跡
~イスラエルの地から日本まで」
https://nihonjintoseisho.com/blog001/2018/06/07/japan-and-israel-29/
手島郁郎氏については、こちらのサイトで確認できます。
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%89%8B%E5%B3%B6%E9%83%81%E9%83%8E_%E6%89%8B%E5%B3%B6%E9%83%81%E9%83%8E%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
「1927年 - 熊本バプテスト教会で洗礼を受ける。1932年
内村鑑三の無教会の夏期聖書講座に参加して、1933年より
熊本聖書研究会を主宰する。」とされるキリスト教関係者
のようです。
p15
伊勢神宮の元になっている元伊勢と言われる籠(コノ)神社の宮司海部
(アマベ)宮司は、紀元前200年倭姫命がアマテラスの八咫の鏡を
背負って、伊勢の地に宮を映したとする。 この伊勢神宮には、博士の
述べられている通りの、モーセの時代の幕屋に習った式年遷宮という
20年毎の建替えが行われる。
==>> (この本は編集・校正が入念には行われていないようで、
ときどきおやっと思う漢字の間違いや言い回しがでて
きますが、原文のとおりに書いています。
ただし、私のタイプミスも時々あるかと思います。)
「海部(アマベ)宮司は、紀元前200年倭姫命が
アマテラスの八咫の鏡を背負って、伊勢の地に宮を映した
とする」籠神社のサイトを見てみますと、神宝として
「海部氏伝世鏡」というものの写真がありました。
https://www.motoise.jp/about/houbutsu/
p17
秦氏の関係部族の日本への流入は・・・・
「紀元2世紀の仲哀天皇の時代、秦氏の指導者の一人、太秦公宿禰
(ウズマサノキミスクネ)が突然日本にやってきた。・・・人々は
天皇に温かく迎えられ、重要な地位を与えられて日本へとどまった」
p18
「さらに7世紀半ば・・・秦氏の一群が日本へ渡来した。・・・彼らは
「「ヤハタ」と呼ばれる唯一神の信仰を持っていた。「ヤハタ」の意味
はヘブライ語で「ヤー・エハッド」つまり「唯一の王」という意味に
聞こえる。 彼らは日本に来ると「伊勢」という日本で最も古い
神社を建てた。 ・・・その痕跡が現在でも「ハタノ」「ヤハタ」
「アヤハタ」「オハタ」「ハダ」「ハタ」などの名前になって残されて
いる。
秦河勝は聖徳太子の知恵袋とされ、・・・京都の広隆寺を建立し、
647年(大化3年)に没した・・・
「九州西部の八代には秦氏の子孫が住んでおり、妙見宮という
彼らの古い神殿が残されている。 祭りの日には信者達は、
「ハレルヤ! ハアリー・ヤートシャ・ヤーウェー! ヤーウェー
ヨイットナー」(ヘブライ語で「主を誉めよ、主を掲げよ、ヤーウェーよ、
救い給え、ヤーウェーを、主は我らと共にある。」という意味になる)
と歌いながら、神輿を担いで行列を行うが、その歌は日本語では
意味をなさない。」と述べ、神輿(神の箱)を十部族が担いでいる様が
明確にイメージできる。
==>> 様々な日本での言葉がヘブライ語で意味を持つという
ことに関しては、前回読んだ本と内容はほぼ同じです。
この本では、秦氏が日本列島に来たことを古代ユダヤの
部族の流入と解釈しているようです。
八代の妙見祭りについてはこちらのサイトにあります。
https://myouken.com/%e5%85%ab%e4%bb%a3%e5%a6%99%e8%a6%8b%e7%a5%ad/%e7%a5%9e%e5%b9%b8%e8%a1%8c%e5%88%97%e3%81%ae%e7%b4%b9%e4%bb%8b/
八代妙見祭の神輿の行列での掛け声を聞いてみたいと
思ったのですが、こちらのyoutubeでの録画では
掛け声を聞くことができませんでした。
01:40:00の辺りに神輿は出てくるのですが・・・
https://www.youtube.com/watch?v=jWWZDdA5PbM&t=5821s
ちなみに、こちらのサイトでは、この掛け声の件についての
質問があって、以下のような答が書かれています。
「ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭」
https://myouken.com/%E5%A6%99%E8%A6%8B%E7%A5%ADqa/
「現在のところ、妙見祭で神輿を担いでヘブル語で歌うと
いうことはありません。というより他の出し物も含めて、
楽器の演奏を伴うものはありますが、歌を歌うとい
うことは一切行われておりません。
ただし、歌ではありませんが、妙見祭の場合「ホイホイ」と
いう掛け声を出すということは広く行われています。」
・・・という現場からの説明がありますので、
ヘブライ語と聞こえるような掛け声はこの妙見祭では
無いということになります。
(Copyright © ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭
All Rights Reserved.と記載がありますので、公式のもの
と思われます。)
なので、いつの時代にどういう情報元からそのような
ものが出てきたのかが知りたいところです。
p31
諏訪大社の行事については特筆に値する。日本のマスコミでも
取り上げられた内容である。
「ミサクチ祭」という神事は・・・
ご神体である「守屋(もりや)山」で行われる。 先ず、8歳位の少年
が御贄柱(おにえばしら)と呼ばれる柱に縛られ、神官が小刀を取り出し
振り上げた時、別の神官が現れて止めて子供を解放するのである。
そして子供の代りに鹿の頭75頭分を捧げるのである。
・・・この事は、正しく、創世記22章の記述を演じているとしか
思えない。
アブラハムは、年老いて神から授かったイサクを信仰の証として・・・
・・・モリヤの山でイサクを捧げようと・・・刀を振り上げた・・・
==>> これは昔なんども観たハリウッド映画の創世記の
一場面ですね。
諏訪大社の公式サイトには「御頭祭」とあって、解説には
以下のような記述があります。
http://suwataisha.or.jp/gyouji.html
「特殊神饌として鹿の頭を始め鳥獣魚類等が供えられる
ため一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。
唯今は鹿肉とともに剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は
七十五頭献じられたこともあり、中に必ず耳の裂けた鹿が
あって高野の耳裂鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。」
さて、上に「ミサクチ」という言葉が出てくるのですが、
私が検索した限りでは、諏訪大社の公式サイトには
この言葉は発見できませんでした。
個人のブログにはこの言葉「ミサクチ神」「モリヤ神」
が出てきまして、資料館の栞に書いてあるそうですが・・
https://ameblo.jp/umedamakoto/entry-10605738365.html
「長野県茅野市発行の神長官守矢資料館のしおりに
ミサクチ神とモリヤ神とされていて、ミサク神は樹や
笹、や石に降りてくる霊魂や精霊で人にも憑く神である、
モリヤ神は諏訪に住んでいる守矢家のご先祖神であり
タケミナカタ神が諏訪に侵入したときに天竜川河口で
迎え撃ったがモリヤ神は敗北してしまい以後タケミナカタ
の神は諏訪大明神となり、ヤサカトメノミコト神と
ともに祭られているとしています、」
なお、日ユ同祖論がらみと思われるサイトは
これでもかというくらいウジャウジャと掛かってきます。
私は、この個人のブログを書いている方の最後の感想と
同じ意見です。
p38
空海が開山した高野山には西安にある「太秦景教流行碑」のレプリカが
・・・真言宗と景教の関係を確認の上寄贈され現存し、・・・その碑の
裏面には高野山真言宗が用いている「三角形」がデザインされているが、
これはエジプトのホルス神の目を表わすのではないかと推測できる。
・・・真言宗の今日の高僧が仏像の彫り込まれたメノラーを中国から
預かって持っているという事実は、極めて重要なことである。
ネストリウス派のキリスト教が今日においても真言宗において明確に
意識されている証拠と言える。
==>> 正直いって、ここで真言宗の空海が出て来た意味がよく
分かりません。
Wikipediaによれば、「ネストリウス派とは、古代キリスト
教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教
ネストリオスにより説かれた。431年のエフェソス公会議
において異端認定され、排斥された。これにより、
ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには
中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。」
とありますから、空海や最澄が遣唐使の一員として
長安に行った時には景教にも興味を持ったでしょう。
ちなみに、過去の私が読んだ本には以下のような記述が
ありました。
「福田亮成著「空海入門」」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/07/post-14446b.html
「p34
唐の都・長安は、世界中のあらゆる文化、思想が集まる
大都市だった。・・・
まずは密教を理解するために欠かせない梵語をわずか
三か月で習得。さらに儒教、道教をはじめ、景教
(キリスト教ネストリウス派)やゾロアスター教、
マニ教、イスラム教など、あらゆる宗教を学ぶ。
ついに空海は、密教の根本道場・青龍寺の門を
叩いたのである。」
==>> 従って、空海が世界のさまざまな宗教を学んだことは、
空海の日本での仏教戦略にプラスになったとは思いますが、
「ネストリウス派のキリスト教が今日においても真言宗に
おいて明確に意識されている証拠と言える。」とまで
言っていいのかは疑問があります。
p43
仏教の経典「般若心経」のヘブライ語訳
般若心経の全文の中で、前半は理解が容易な漢文化されているが、
後半部分の「此処からが考え方のエッセンスである」と示された
後の以下の文面がきわめて難解であるので・・・・
==>> ここでヘブライ語的にはこのような意味になると
解釈が書いてあります。
ただ、日本では般若心経に関しては十人十色の解釈
があって多くの文筆家が様々な本を出版しています。
私も何冊か読みましたが、
宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を
読んだ時の私の感想を下に書き出します。
なぜ、この本を選んだかと言えば、
宮坂宥洪氏が。 高野山大学仏教学科卒。名古屋大学大学院在学中、
インド・ブネー大学に留学し、哲学博士の学位取得。
サンスクリットに精通する気鋭の仏教学者として仏教学に新局面を開く。
・・というサンスクリットの精通した人で、密教の人だったからです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-2b73.html
要するに、「般若心経」は 諸仏の母としての般若菩薩を本尊とする経典で
あって、祈りの経典だということみたいですよ。
そして、ここからが 非常に面白いところなんですが、
「般若心経」は「般若経」のひとつではあるが、他とは違う特別なことが
二つあるのだそうです:
1.主人公は観自在菩薩である。
厖大な般若経の中で、観自在菩薩が出ていること自体が異例。
2.般若波羅蜜多がマントラであることを明示している。
元々マントラというのは、バラモン教の聖典の賛歌であった。
それに対抗するようなものとして、仏教のマントラである「般若心経」が
作られた、ということのようです。
もっとも、初めのうちは、マントラとは呼ばず、「明」、「明呪」とか
「陀羅尼」と呼ばれていたそうです。
したがって、般若経の中でも特異な地位を占めた、としています。
「色即是空」などの教えは、他の般若経の中でも説かれていて、
「般若心経」だけに特有なものじゃないそうです。
だから、「般若心経」は、般若波羅蜜多の修行をする人たちに
「このように観察しなさい」と観法の手順を示している「指南書」だと
しています。
==>> 以上が宮坂宥洪氏の解釈なんです。
つまり、ギャーテイ・ギャーテイ・・・・の部分は
バラモン教の呪文に習って作られた呪文を
サンスクリット語で書いたものだった。
それを音写して漢字で表記したってことになります。
もし、その音自体がヘブライ語として意味があると
いうことであれば、そもそもサンスクリット語で
書かれた時点で、インドあるいは中国で混ざり込んだ
ものだったということになりますね。
つまり、ユダヤ人と日本人を直接結び付けるものでは
ないという話になりそうです。
ああ、やっと苫米地さんの本のひとつの章を含めて
3冊の日ユ同祖論関係の本を読み終わりました。
一言で感想を言えば、状況証拠と言えるかどうかわからないような
ものと推論がほとんどだったと思います。
この論を確たるものにする為には、日本側の歴史家や考古学者による研究、
それにDNA解析などで科学的に実証するしかないのではないかと思います。
それが無い限りは、今までと同じような一時的なブームとして
何年かに一度の周期的なミステリー扱いの出版ブームが
続くのではないでしょうか。
3冊目の本には「実証的証明」と書いてあったので期待したのですが、
まだまだだなと思いました。
今後の科学的研究の成果を待ちたいと思います。
最後に、歴史学の実証の難しさについて玉川大学の先生が書いたサイトが
ありましたので、これで締めたいと思います。
https://www.tamagawa.jp/graduate/educate/column/detail_5918.html
「「歴史上の事実」とは?:実証的な歴史研究をめぐって」
「小説家であれば、そうした想像や類推をもとに何かを物語っても
許されるかもしれません。しかし、歴史研究でそれは許されません。
想像や類推は、あくまでも想像や類推でしかなく、ましてやそれを
「歴史上の事実」とすることはできません。これが歴史研究に求め
られる実証的な態度です。
では、歴史研究はこのように厳密だから、歴史研究が捉えた
「歴史上の事実」は正しいと言えるでしょうか。事態はそう簡単では
ありません。なぜなら、「歴史上の事実」を研究する研究者自身も
人的要因として影響するからです。」
== 完 ==
===============================
【書評】 『隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』 オリオン・クラウタウ - キリスト新聞社ホームページ
戦後になると、池田栄、山本七平、マーヴィン・トケイヤーといった人々が登場し、ユダヤ人とされた秦氏のイメージや太子像が、昭和戦前期とは違う形に変化。1948年には手島郁郎が「キリストの幕屋」を起こした。
「手島が最も探求していたのは、恐らく、西洋を介さないキリスト教の体験である。その信仰のルーツへ回帰する際に手島が着目したのは、『日本人』のアイデンティティのルーツであり、記紀神話など神道の古典がそこで重要な役割を果たすようになった。つまり、ユダヤ教への憧れと、日本精神への愛着という両要素をベースとしていた手島の思想は最終的に、多くの他の論者と同じく秦氏の正体性をめぐる思索へとつながっていった」(第三章 ユダヤ人論と怨霊説)
手島は佐伯の秦氏論に拠りながら、「秦河勝がユダヤ人の景教徒」であることの実証を試みた。また、「キリストの幕屋」では毎年、イスラエルへの大巡礼を行い、1967年の「六日戦争」(第三次中東戦争)の際には、イスラエル援助のため手島は弟子まで派遣する。
https://www.kirishin.com/book/68331/【書評】 『隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』 オリオン・クラウタウ
近現代の偽史・オカルト言説に焦点を当てた本が話題を集めている。著者は東北大学で教鞭をとる宗教学者。近代仏教やエソテリシズムに詳しいが、本書ではそうした幅広い知識を土台に「隠された(オカルト)聖徳太子」像を扱う。聖徳太子といえば、日本で最もポピュラーな仏教保護者であるが、その人気ゆえにさまざまな人々のインスピレーションを呼び覚まし、「トンデモ説」「トンデモ本」の源泉ともなってきた。
「いわゆるトンデモ本は、アカデミズム――あるいは「科学」――の権威を借り、その成果の意味を場合によって曲げつつも、自身の物語の根拠として好都合なところだけ用いる。これは、いわゆる『偽史』の特徴の一つであると言えるだろう。
しかし、これは偽史のみならず、アカデミズムの中で極めて水準の低い歴史研究に見られる特徴でもある」(まえがき)
聖徳太子という存在が人々の心を動かし、数多くの偉業が彼によるとされてきたことは事実である。近現代に形成された太子にまつわる偽史もまた、その時代の人々の何らかの表現だったといえよう。著者は、歴史的事実にそぐわない異説を単に「トンデモ説」と切り捨てるのではなく、その裏面に秘められた意図を考慮し、ある特殊なニーズに応えるために作られた太子像の「歴史」であったとしている。
オカルト聖徳太子像の形成に不可欠な要素は、古代日本にキリスト教が伝わり、太子の側近である秦氏がユダヤ人でキリスト教徒であったという話。日ユ同祖論と呼ばれる言説だが、まず、その発生から展開までを著者は丁寧に解説。イエスが馬小屋で生まれたことと「厩戸」皇子との近似性を最初に指摘したのは久米邦武だった。ただし久米は古代日本にキリスト教が渡来したとは言っていなかった。それを言い始めるのは佐伯好郎である。佐伯は1908年、古代の文献に現れる帰化人の秦氏は「百済人」でも「支那人」でもなく、「猶太(ユダヤ)民族」なのではないかと述べ、その証拠として広隆寺そばの大酒神社や「伊佐良井」(いさらい)と呼ばれる井戸、日本とユダヤ人の習慣等を挙げた。
「佐伯は当時の常識を覆す、かなり大きなことを述べたものの、史料的な根拠は上記のような非常に間接的なものであったため、当時の学界が佐伯説を真面目に受け入れることはなかった」(第一章 一神教に染まる聖徳太子)
この時点で佐伯は、秦氏が「景教徒」だとかネストリウス派のキリスト教徒だとかは述べておらず、ユダヤ人だと言っただけだった。しかし時間が経つにつれ、彼の説は拡張されて景教徒渡来説になり、似通った主張をするゴードン夫人の後押しを受けて、矛盾を突かれると微調整して、最終的に聖徳太子を巻き込んだ言説にまで発展していく。
「もちろん、キリスト教の知識を有する人間が日本列島に渡ってきたこと自体は可能性のあることで、佐伯が著作中で述べるように、『続日本紀』に名前が明記されるペルシア人の李密翳(生没年不詳)がその好例である。飛鳥時代から続いた大陸への朝貢使の人間が、キリスト教の知識を得て帰国した可能性も否定できまい。しかし、そのような可能性を根拠として、秦氏はユダヤ民族、空海の大日観にはキリスト教の唯一神からの影響がある、親鸞の妻帯も実はネストリウス派からの影響、といったような一連の結論を導くのは、また別の次元の話であろう」
「じつは、アカデミズムの主流から(やや)離れた聖徳太子の多くの異説は、彼の秦氏との関係が起原となる」
1911年刊行の佐伯の著作『景教碑文研究』以降、日本文化の起原をユダヤ教あるいはキリスト教の伝統に見出そうとする書籍が多く世に問われていく。木村鷹太郎、酒井勝軍、小田部全一郎、中田重治などである。ではどうしてこの時期に、これらの論者たちはなぜ古代日本への聖書的一神教の影響を主張したのだろうか。彼らにはどんな思惑と必要性があったのか。
「その基本的動機の一つとして、提唱者のキリスト者としての信仰があった。上記の人物はほぼ全員キリスト者であり、その主張は伝道の基盤形成を目的とした」(以上、第一章 一神教に染まる聖徳太子)
つまり、日本こそが〝真の〟キリスト教国であり、それを日本人自身が知ることでリバイバルが起こり、世界においても偉大な使命を果たすことができるというアイデアに、彼らは日本宣教の突破口を見出した。それゆえ、「古代日本への聖書的一神教の影響を主張しなければならなかった」のである。彼らの主張によれば、実は天皇家もユダヤ=キリスト教を奉じてきたのであり、キリスト教は外来宗教ではなく、日本古来の宗教とされる。ナショナリズムが高揚する社会のなかで、こうした主張はキリスト教を正当化するのに役立った。彼らの言説が一般の人々の関心を引きつけた所以もそこにあったと考えられる。
戦後になると、池田栄、山本七平、マーヴィン・トケイヤーといった人々が登場し、ユダヤ人とされた秦氏のイメージや太子像が、昭和戦前期とは違う形に変化。1948年には手島郁郎が「キリストの幕屋」を起こした。
「手島が最も探求していたのは、恐らく、西洋を介さないキリスト教の体験である。その信仰のルーツへ回帰する際に手島が着目したのは、『日本人』のアイデンティティのルーツであり、記紀神話など神道の古典がそこで重要な役割を果たすようになった。つまり、ユダヤ教への憧れと、日本精神への愛着という両要素をベースとしていた手島の思想は最終的に、多くの他の論者と同じく秦氏の正体性をめぐる思索へとつながっていった」(第三章 ユダヤ人論と怨霊説)
手島は佐伯の秦氏論に拠りながら、「秦河勝がユダヤ人の景教徒」であることの実証を試みた。また、「キリストの幕屋」では毎年、イスラエルへの大巡礼を行い、1967年の「六日戦争」(第三次中東戦争)の際には、イスラエル援助のため手島は弟子まで派遣する。
聖徳太子像に関しては、「法隆寺=太子鎮魂の寺院」と唱えた梅原猛の怨霊説も忘れることができない。1971年に発表された『隠された十字架』はベストセラーとなり、太子のイメージに計り知れない影響を与えた。オカルトブームに乗り、聖徳太子を題材とする超古代史本の発刊も相次いだ。さらに80年、梅原の本を読んだ山岸涼子が『日出処の天子』の連載を始め、ここに超能力者としての太子像が誕生する。超能力者の太子像は、91年、五島勉の『聖徳太子「未来記」の秘予言』によって予言者というバリエーションへとつながった。五島は元々キリスト教(正教)の家庭に生まれ、創価学会の活動を好意的に描く作品で世に出たが、73年にノストラダムス本で一躍有名になった。『聖徳太子「未来記」の秘予言』では、神が道を定めたキリスト教ではなく、人間が道を決めていく仏教に救いのカギがあるのではないかと締めくくられている。
最近では、「ユダヤ人埴輪」を提唱する田中英道(東北大学名誉教授)が聖徳太子に関する本を2023年に出版している。そこでは蘇我氏の出自をユダヤ系のキリスト教とし、秦氏は原始キリスト教であるとされている。
明治・大正期のキリスト者が、日本の古代史とユダヤ・キリスト教との間につながりを見出そうとした背景には、宣教を成功させたいとの願いがあった。それがどんなに純粋な思いからであったとしても、強い「願望」は、歴史的事実を等閑視してでも自分が望む方向に古代史を解釈したいという「欲」に発展することがあり、注意が必要だ。
本書は聖徳太子のオカルトイメージの変遷を追ったものだが、同時に、日本人のユダヤ・キリスト教に対する憧れとコンプレックス、キリスト者の抑えがたい「願望」を映し出す鏡ともなっている。日ユ同祖論は形を変えつつ、今も日本のキリスト教界の一角で主張されている。
https://nihonjintoseisho.com/blog001/2018/01/29/japanese-and-jews-92/
【日本とイスラエル】手島郁郎の研究
日本とイスラエルに関連した事柄について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。
手島郁郎
日本に、「原始福音」または「キリストの幕屋」の名で呼ばれるキリスト教のグループがある。イスラエルでは最も有名な日本人グループである。その創設者・手島郁郎は、私が日本に来て最初に話した日本人であった。手島郁郎も、イスラエル十部族やユダヤ人、また景教徒、秦氏について深く研究した人であった。
八幡神社
手島によれば、日本全国の神社の中で最も数が多いのが「八幡(やはた)神社」である。「八幡」を今では「はちまん」と読むこともあるけれども、昔は「ヤハタ」と言い、もっと古くは「ヤハダ」と言った。ヤハダの神は、日本に渡来した秦氏の信奉した神であった。
ユダヤの神
手島によれば、秦氏はおそらく佐伯教授の述べたようにユダヤ人景教徒であり、「ヤハダ」とはもともとはヘブル語のイェフダー、つまり、ユダヤ(またはユダ)の意味であろうという。つまり「ヤハダの神」は、ユダヤの神の意味になる。古事記にも、ヤハダの神は「蕃神(ばんしん)」、すなわち外国の神だとはっきり書いてある。
景教伝来の記録
手島はまたこう書いている。「『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、天平8年(736年)11月に、聖武(しょうむ)天皇が、『中臣朝臣名代に従四位を授け、景人(景教徒)・皇甫、ペルシャ人・李密医らに位を授けて差あり』と、遣唐使の随員の労をねぎらい、叙位された記事がある。これは公式の記録だが、それ以前にも、太秦寺(広隆寺)を中心に、ウズマサ(イエス・メシヤ)の伝道と布教が行なわれていたことが明白である」
景教の漢訳の経典
「景教の漢訳の経典を見ると、イエスを『世尊(せそん)』と訳したりしてある。世尊といえば釈迦のことだが、この世尊布施論を親鸞上人も読んだと西本願寺では言い伝えられていて、宝物として残っている」
ユダヤ人景教僧
「静岡県浜名湖の奥山、半僧坊(はんそうぼう)の本尊はユダヤ人景教僧アキバだとも言われる」
ダビデの星
「我が国では、戦前までの風習として、赤ちゃんが産まれると、産衣(男児には白、女児には赤)のチャンチャンコの背中に、絹糸で✡の紋が縫うてあるのを御祝い品に贈ったものだった。これ、まさしくダビデの星である。この星のマークは昔から『十二針で縫わないと縁起が悪い』と言われてきたのだが、十二とはイスラエル十二支族の数である」
この「ダビデの星」については、前章で述べた考証を参考にしていただきたい。しかし、「十二の針で縫う」というのは、たしかにユダヤ的である。
エンヤラヤ
「桃太郎が鬼ガ島を征伐に出かけたとき『エンヤラヤ、エンヤラヤ』と歌って家来を鼓舞したという物語は誰でも知っている童話だが、エンヤラヤとは『私は主を賛美する』というヘブル語(エァニ・アーレル・ヤー)となる。
妙見社の御祭
熊本の八代(やつしろ)の妙見社の御祭を見物したことがあるが、御輿をかついで『ハレルヤ、ハーリヤ、ハーリヤ、トーセ、・・・ヤウェ、ヤウェ、ヨイトンナー』とヘブル語そのままに歌っていた」と書いている。いずれも興味深い記述である(キリスト聖書塾刊『生命の光』250号)。
秦氏の墓
手島はまた、京都に幾つもある秦氏の墓について、それらが古代ユダヤ人の墓のつくり方によく似ていると書いている。(写真は京都にある「天塚古墳」。秦氏の墓と言われている。)古代ユダヤ人は、岩を積み上げたり、岩をくりぬいたりして横穴式の墓をつくったが、秦氏の墓もそういう形式なのである。
約2500年前のオイル・ランプ
また、奈良県の大神(おおみわ)神社の近くの山で、約2500年前のオイル・ランプが発見されているという。手島が、このオイル・ランプは古代イスラエルで使われていたものであると述べていることも興味深い。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統に深い関係があると考えられます。キリスト教の教典という考えはひとまず脇に置いて、聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 7章24~30節
ヨハネの使が行ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮らしている人々なら、宮殿にいる。
では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。(これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。)
神様を中心にして生きること
バプテスマのヨハネは聖書に預言された人であり、この地上ではそれ以上の人物はいないとイエスが言ったことが記されています。そしてイエスは、神様を中心にして生きるなら、最も小さい者でも、彼より大きいと言ったのではないでしょうか。この地上のどんな偉大な人物よりも、神様を中心にして生きることは大きなことだということではないでしょうか。
いかがでしたか
参考になりましたら「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2018年2月2日(金)タピ大決定!
今回は「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係(3)~キャンピングカーで行く古代ユダヤ人ゆかりの地を巡る旅」と題して、昨年の夏に訪問した石川県宝達町にある「モーゼの墓」、京都府丹後にある日本最古の神社の一つ「元伊勢籠(この)神社」のレポートを、道の駅情報などキャンピングカーの旅行の魅力を交えながらお伝えしたいと思います。お近くにお住いの方はぜひお出でください。参加費無料、予約も要りません。お待ちしております。詳しくはタピ大をご覧ください。
本をお求めください
Amazonから「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」を出版しています。(Amazonのサイトはこちらです。)日本人の高い国民性は聖書と関係があること、「日本人の信仰」の中にはイエスの教えが引き継がれていることについて書きました。ぜひ、読んでみてください。詳しくは書籍情報をご覧ください。
目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
投稿者: 吉村 忠敏
全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。
0 件のコメント:
コメントを投稿