第7章魏志倭人伝から検証する卑弥呼女王の国探索~私のルーツ探しの旅の終わりは中国へ
志倭人伝による幻の()の証明
二〇〇六年・項羽の居城跡の大発見!
日本ではこのニュースは無視されたままですが・・・
江戸時代から魏志倭人伝の研究が始まりましたが、(邪馬台国)が正しく解き明かされることはありませんでした。それは会稽東治の解釈がまちまちだったためで、ついに現在まで邪馬壹国は九州説、出雲説、畿内説で四国は無視の状態で歴史が作られました。
私は縁あって阿波の歴史研究家島勝伸一先生の講義を受けました。
「魏志倭人伝による地理、行程の解明に成功しました。二〇〇六年江蘇省宿遷市宿遷区で、三国時代に書かれている項羽の居城跡が発見されました」と一一枚の地図に出会いました。
魏志倭人伝に「卑弥呼女王国は項羽の城の真東」と書かれている
この項羽の居城がどこにあるのかがわからず、江戸時代より邪馬台国論争になっていたのです。
若い科学者たちは早速、分かっていた魏志倭人伝の記述「帯方郡治の東南大海一万二千里と狗邪韓国より七千里という記述」と「帯方郡治の東南大海一万二千里と狗邪韓国より七千里という記述」をGoogle Earthで設定しました。
そして「項羽の居城・江蘇省宿遷市宿遷区で三国時代に書かれた「会稽東治の真東」を、Google Earthで調べたところ、卑弥呼の居城・悲願寺がある神領・とぴったり重なりました。
こうして徳島の町おこしの皆さんの地図が完成されたとのことでしたが、私はやはり項羽の城跡に立ちそこが本当かどうか科学的な地理の専門家香川重義先生も同行します。
島勝先生の熱がこもった説明はひとつ、ひとつ私の腑に落ちました。
しかし、日本ではこの「項羽の壮大な居城跡が宿遷市の大開発工事の際に発見され、世界的な大発見」を発表しましたが感知しないか、無視した論理で二〇〇六年以降も、一七年間「邪馬壹国」は日本では確定されていませんでした。
私の旅の終わりに項羽の居城訪問 宿遷市
現在、中国では、「項羽の故郷」に「項羽は居城」を建てていたのが判明し、宿遷市ではここに「項羽の城を再建」しました。
今は「項羽王城故里」となっています。
念のため、早速中国人の友人に二〇〇六年の中国での「項羽の城跡」発見の状況を調べていただきましたところ、下記のような中国での発表を送っていただき間違いないことを知り安心しましたがこの貴重な発見が日本国内では全く学問に反映されていません。
中国の友人から頂いた発見時・発表された報告書二通
責任者・南京博物院の専門家林留根氏の発表記事
項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見 china.org.com 中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」と記載されているが、項羽のふるさととされる下相城の具体的な位置については、証拠がないため、ずっと謎でした。 江蘇省南京博物院考古研究所や江蘇省宿遷市文物管理事務室などからなる合同考古チームは、このほど、江蘇省の宿遷市でその下相城の遺跡を発見した。 発掘の過程で、数多くの陶器の破片や瓦などが出土しており、それらはいずれも秦や漢の時代のものと認定されている。 今回の活動の責任者でもある南京博物院の専門家林留根氏は、「文献と照合し、このお城の遺跡は下相城であると裏付けられている。今回の発掘では、下相城の具体的な位置が明かにされただけではなく、その面積や、城壁の構造などについても明確な認識ができた」と明らかにした。
「CRI」より 二〇〇六年(平成十八年) 四月十一日
項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見
china.org.com
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」と記載されているが、項羽のふるさととされる下相城の具体的な位置については、証拠がないため、ずっと謎でした。 江蘇省南京博物院考古研究所や江蘇省宿遷市文物管理事務室などからなる合同考古チームは、このほど、江蘇省の宿遷市でその下相城の遺跡を発見した。
発掘の過程で、数多くの陶器の破片や瓦などが出土しており、それらはいずれも秦や漢の時代のものと認定されている。 今回の活動の責任者でもある南京博物院の専門家林留根氏は、「文献と照合し、このお城の遺跡は下相城であると裏付けられている。
今回の発掘では、下相城の具体的な位置が明かにされただけではなく、その面積や、城壁の構造などについても明確な認識ができた」と明らかにした。
「CRI」より 二〇〇六年(平成十八年)四月十一日
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