秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした
日本書記の第14代「
日本に渡って来た弓月の君が元々居住した弓月国の場所を探してみた。現在の新彊ウイグル自治区の中にグーグルマップで検索した。この国から東方に移動し、朝鮮半島の任那から日本に渡来した。弓月国についての記述は、中国史書、資治通鑑にのっているとか。
弓月国の位置探索弓月国の中心
ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。
伊寧市、グルジャ市は、中央アジアの中央部のイリ地方の中心にある市。現在中華人民共和国が統治しており、新彊ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に所属する県級市である。中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。また、イリ地方の中心でもあるため、話し言葉でイリと呼称されることも多い。
参考
弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記された。
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