2024年5月20日月曜日

藤原隆家 - Wikipedia

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藤原隆家

藤原 隆家(ふじわら の たかいえ、天元2年〈979年〉 - 寛徳元年〈1044年〉)は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白内大臣藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。官位正二位中納言

経歴

一条朝初頭の永祚元年(989年)11歳で元服して従五位下叙爵し、翌永祚2年(990年)正月に侍従任官する。同年7月に右兵衛権佐に任ぜられると、正暦2年(991年)従五位上、正暦3年(992年正五位下左近衛少将、正暦4年(993年従四位上・右近衛中将、正暦5年(994年)正月に正四位下と父・藤原道隆の執政下で武官を務めながら急速に昇進し、同年8月には中将を帯びたまま従三位に叙せられ(三位中将)公卿に列した。長徳元年(995年)4月に権中納言に任ぜられるが、まもなく父・道隆が没する。

同月中に道隆の弟である藤原道兼関白となるがこれもまもなく没し、5月に入って執政の座は内覧右大臣となった藤原道長に移る。この状況の中で、7月末に隆家の従者と道長の従者が七条大路で乱闘したほか[1]、8月初旬には隆家の従者が道長の随身・秦久忠を殺害している[2]。しかし、翌長徳2年(996年)正月に同母兄の内大臣藤原伊周の女性関係に関連して、隆家は従者の武士を連れて花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖をで射抜くという事件を起こす[3][4]。このことを藤原道長に利用され、4月になると花山法皇奉射・東三条院呪詛大元帥法実施の罪状三ヶ条を以って、隆家は出雲権守に、伊周は大宰権帥左遷された(長徳の変[5]。なお、隆家は出雲国までは行かずに病気を理由に但馬国に留まっている。

長徳4年(998年)5月に東三条院(藤原詮子)の御悩による大赦を受けて帰京し、10月に兵部卿として官界に復帰。長保4年(1002年)以前の権中納言に復し、寛弘4年(1007年従二位、寛弘6年(1009年)中納言に叙任された。この間の長保2年(1000年)に姉の定子が、寛弘7年(1010年)には兄の伊周が没している。こうして、中関白家の声望は隆家の双肩にかかる中で[6]、隆家は外甥の敦康親王の立太子に期待をかける[7]。世間からも、敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したなら天下はよく治まるだろう、との声もあったという[7]。しかし、寛弘8年(1011年三条天皇践祚に際して、有力な後見人がいないことが理由で敦康親王の立坊は実現せず、道長の外孫である敦成親王(のち後一条天皇)が春宮に立てられた。

長和元年(1012年)末頃より先の尖った物による外傷を原因とした眼病を患い、出仕や交際もできず邸宅に籠居するようになる[8]。ここで、大宰府には眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞きつけて、隆家は進んで大宰権帥への任官を望む[7]。この任官希望に対しては、未だ声望高い中関白家と九州在地勢力との結合を抑止したい[6]道長に強く妨害されるが[注釈 1]、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、決定までに9ヶ月を要した末、長和3年(1014年)11月になってようやく大宰権帥に任ぜられた。長和4年(1015年)には赴任の功労により正二位に叙せられている。大宰府では善政を施し、九州の在地勢力はすっかり心服したという[7]。在任中の寛仁3年(1019年刀伊の入寇が発生。刀伊(女真族と考えられている)が対馬壱岐に続いて、同年4月に博多を襲うが、隆家は総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮してこれに応戦・撃退している。同年6月には高麗が虜人送使・鄭子良を派遣し、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送還する。隆家は鄭子良に対して朝廷の返牒を遣わし禄物を与えるなど後処理を行った[10]

同年12月に大宰権帥を辞して帰京(後任は藤原行成)。帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣大納言への登用を求める声もあったが、帰京後の隆家は内裏出仕を控えていたため昇進の沙汰はなかったという[7]。一方で、翌寛仁4年には都に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。治安3年(1023年)次男の経輔右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退する。その後、大蔵卿などを務めるが、後朱雀朝長暦元年(1037年藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)までこれを務めた。

長久5年(1044年)1月1日薨去享年66。最終官位は前中納言正二位。

人物

天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事[7]や、姉の中宮定子の女房清少納言との応酬[注釈 2]など、『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられている。姉が生んだ敦康親王の立太子を実現できなかった一条天皇を「人非人」と非難したり[7]、権力者の叔父道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子皇后宮大夫を引き受けたり[11]するなど、気骨のある人物として知られた。その「こころたましひ」(気概)は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている[7]。「もし敦康親王が即位して隆家が政治を輔佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の大嘗会では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという[7]

また、父・道隆や兄・伊周に対しては批判的な態度を取り続けていた藤原実資からは可愛がられ、彼の日記である『小右記』には隆家が実資に悩み事を打ち明ける記事[12]や、実資が大役に任じられた隆家の息子を気遣う記事が見られる[13]。特に前者の長和2年の記事には、実資が隆家に対して眼病の治療と道長からの圧迫を避けるために「遠任之案」を勧め、それを受けた隆家が「深有鎮西之興」を抱いたことが記されている[14]

後拾遺和歌集』(2首)、『新古今和歌集』(1首)に和歌作品が採られている勅撰歌人である。文人の家系に恥じず、漢詩も『本朝麗藻』に七言律詩1首が残っている。

隆家の子孫

隆家の娘は長女が三条天皇の皇子式部卿敦儀親王[注釈 3]、もう一人が参議藤原兼経室となっている。

隆家の長男良頼正三位権中納言に進み、その娘は参議源基平室となり後三条天皇の寵愛をうけた源基子実仁親王輔仁親王の生母)を生んだ。良頼の4代後の子孫に、平清盛の継母として源頼朝の助命を嘆願したという池禅尼がいる。

隆家の次男経輔1006年 - 1081年)は、正二位権大納言となって水無瀬大納言と称せられた。経輔の5世孫にあたる従三位忠隆の息女は近衞家の祖である基実の室となって基通を生み、その兄弟信頼後白河上皇の寵臣で平治の乱の首謀者として有名。同じく経輔の5世孫にあたる修理大夫信隆の息女七条院殖子後鳥羽院生母であり、その弟坊門信清内大臣の位にまで昇った。源義経の母の常盤御前の再婚相手で奥州藤原氏とも関係があった一条長成も経輔の5世孫である。

隆家流は女系を伝って皇室摂家にその血を残し[注釈 4]、子孫は水無瀬流として後世、水無瀬羽林家)・七条(羽林家)・町尻(羽林家)・桜井(羽林家)・山井(羽林家)の五堂上家を出して明治維新に至る。

なお、南北朝時代懐良親王を擁した肥後国の豪族菊池氏は隆家の後裔を称し、祖先たる藤原政則 (基定) を隆家の子としている[16]

官歴

注釈のないものは『公卿補任』による。

系譜

関連作品

脚注

注釈

  1. 「天気無動、但左府猶有遏絶者」[9]
  2. 枕草子』、隆家は「三位中将」または「中納言」の官名でしばしば登場する。
  3. 隆家は敦儀親王を婿取ろうとして道長の「気色不快」を招き、その結果翌年に延引したという[15]
  4. 隆家次女(参議兼経室)の4世孫にあたる従三位季行の息女が九条兼実室となり良経を生んでいるため、九条家にもその血は入った。

出典

  1. 小右記』長徳元年7月27日条
  2. 『小右記』長徳元年8月3日条
  3. 日本紀略』長徳2年正月16日条
  4. 栄花物語』巻第4「みはてぬゆめ」
  5. 『小右記』長徳2年4月24日条
  6. ^ a b 勝倉[2003: 15]
  7. ^ a b c d e f g h i 『大鏡』第四巻,内大臣道隆
  8. 御堂関白記』長和2年正月10日条
  9. 『小右記』長和3年5月7日条
  10. 森克己「日麗交渉と刀伊賊の来寇」『続 日宋貿易の研究』国書刊行会〈森克己著作選集〉、1975年。
  11. 小右記』長和元年4月27日条
  12. 『小右記』寛弘2年正月5日条,長和2年8月13日条,同年9月8日条
  13. 『小右記』寛仁元年9月16日条,寛仁4年10月30日条
  14. 関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、2007年、pp. 23-26, 77-79。ISBN 978-4-7842-1344-3
  15. 『小右記』寛仁4年(1020年)10月23日条・治安元年(1021年)2月1日条
  16. 菊池氏#起源参照。
  17. ^ a b c 『近衛府補任』
  18. 『帥次第』[疑問点ノート]

参考文献

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マイモニデスの引用(困惑した人のためのガイドの著者)

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