2024年5月20日月曜日

“徳島の歴史を塗り替える考古学発見” 「加茂宮ノ前遺跡」は、縄文後期から国内最大の水銀朱生産の拠点地 | 一般社団法人 忌部文化研究所

"徳島の歴史を塗り替える考古学発見" 「加茂宮ノ前遺跡」は、縄文後期から国内最大の水銀朱生産の拠点地 | 一般社団法人 忌部文化研究所

"徳島の歴史を塗り替える考古学発見" 「加茂宮ノ前遺跡」は、縄文後期から国内最大の水銀朱生産の拠点地

邪馬台国と水銀朱と阿波

 弥生中期から終末期に至る水銀朱の生産を支えたのが、阿南市水井町の「若杉山遺跡」であった。3世紀の『倭人伝』には、邪馬台国には「其の山に丹(たん)あり」として、丹を産出する山があると書かれるが、「若杉山遺跡」がその最有力地となる。水銀朱を用いた卑弥呼による鬼道の演出に、阿波の水銀朱は欠かせない存在であったに違いない。「若杉山遺跡」は、1世紀初頭から3世紀後半にかけての遺跡で、採掘が最も活発であったのは2世紀後半から3世紀前半。まさしく卑弥呼の時代、邪馬台国の時代と重なっている。2018年(平成30年)2月には水銀朱を採掘する日本最古の坑道跡の横穴が発見されたとの新聞発表(阿南市・県教育委員会)があった。吉野川下流域を中心に展開されたその水銀朱祭祀は、『魏志倭人伝』の報告どおりに展開されていた。そして「若杉山遺跡」で採掘された水銀朱は、畿内各地へと搬出された。その積出港となった遺跡は、板野郡板野町大寺の「黒谷川郡頭遺跡」で、それは弥生後期後半からの大規模な朱の精製集落でもあった。
 2017年(平成29年)2月には、「若杉山遺跡」の近く、阿南市加茂町の「加茂宮の前遺跡」(弥生中期~古墳前期、1~3世紀)で、水銀朱の原料となる辰砂や精製の石器が発見され、それは水銀朱の精製工房跡であった。若杉山で生産された辰砂は鮎喰川下流域から板野郡の郡頭遺跡に運ばれ、そこから畿内へと搬出されていったと考えられている。


縄文期における国内最大の水銀朱精製遺跡「加茂宮ノ前遺跡」

 2019年(平成31年)2月19日に徳島県教育委員会、及び徳島県埋蔵文化財センターの発表によると、阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀に使用された赤色顔料である水銀朱を生産した縄文時代後期(約4000年前)の石臼や石杵が300点以上。また、水銀朱原料としての辰砂原石が大量に出土した。水銀朱の関連遺物の出土量としては国内最多、生産拠点としては国内最大かつ最古級であることが確認された。石臼の大きいものは直径30㎝、石杵は約10㎝、生産した水銀朱を貯める土器や耳飾りはじめ関連遺物は1000点以上。これまで縄文期、国内最大の水銀朱生産の拠点とされた三重県の天白遺跡、森添遺跡などは数十点の出土物に留まる。「加茂宮ノ前遺跡」は、その数十倍の規模となる。また、縄文後期の竪穴住居跡、石を円形状に並べた祭りや儀式用とみられる遺構300点以上が見つかっている。さらに畿内で縄文期から信仰された阿波の結晶片岩製の石棒が数多く出土していることも興味深い。
 阿波地域は、縄文後期より弥生時代、そして邪馬台国時代にかけて継続的に水銀朱の精製・生産・祭祀を行った日本における水銀朱祭祀の先進地であった。

天皇の即位「大嘗祭」と阿波忌部と安房館山
<忌部文化研究会「安房館山支部」設立&出版記念講演会>

○開催趣旨: 2019年、新たな元号とともに新天皇が即位され、11月には天皇即位の大嘗祭が古式に則って斎行されます。その中で徳島の阿波忌部氏は歴代天皇の大嘗祭で麁服(あらたえ)を調進する役目がありました。今回の大嘗祭でも古慣習に則り、麁服が調進される予定です。その阿波忌部が黒潮で到達し東国(関東)を拓く礎となったのが房総半島南端の古代安房国(館山市)の地でした。館山市や南房総市には阿波忌部ゆかりの「安房神社」「布良崎神社」「洲崎神社」「洲宮神社」「下立松原神社」「莫越山神社」などが残されています。今回のイベントを機に忌部研究や 忌部文化経済交流の拠点の一つとして安房館山支部を置くことになりました。新時代を迎えるこの時期に、忌部研究の第一人者である林博章氏を阿波忌部ゆかりの館山にお招ねきし、阿波忌部をテーマに聴講する機会をもちたいと思います。多数のご来場をお待ちしております。

○日 時: 平成31年2月23日(土曜日) 13:30~16:30 受付:13:00

○テーマ: 天皇の即位「大嘗祭」と阿波忌部と安房館山

○定 員: 150名

○講 演:

講 師: 須恵 泰正 氏

「阿波・麻植・忌部」:三木家のある旧麻植郡木屋平と忌部神社のある吉野川市山川町の紹介

講 師: 林 博章 氏 (忌部文化研究会 会長)

第1部「天皇即位の大嘗祭と阿波忌部」
大嘗祭の歴史的経緯と意義を語り、阿波忌部と大嘗祭の関係をスライドで説明

第2部「阿波忌部が拓いた安房館山」
新史料に基づき館山市における阿波忌部との関わりを説明、関東全体への動きを新史料で説明し、今後の展開を提案

○会 場: 芳喜楼(ほうきろう)中華レストラン会館(館山市) セミナールーム

○懇親会: 17:00より芳喜楼にて

○主 催: 忌部文化研究会 安房館山支部(支部長 丸 淳一)

○団 体: 館山市・館山市教育委員会・南房総市・南房総市教育委員会

 阿波忌部が黒潮で上陸した千葉県館山市で歴史的な講演会が開催された。当日は、館山市だけでなく、千葉県や関東各地より大嘗祭における阿波忌部の麁服調進を間近に控え、興味を示す方々が約150名、大勢集い立見となる盛況となった。講演会後の懇親会も約50名が参加、今後の忌部交流に思いを寄せた。

 弥生中期から終末期に至る水銀朱の生産を支えたのが、阿南市水井町の「若杉山遺跡」であった。3世紀の『倭人伝』には、邪馬台国には「其の山に丹(たん)あり」として、丹を産出する山があると書かれるが、「若杉山遺跡」がその最有力地となる。水銀朱を用いた卑弥呼による鬼道の演出に、阿波の水銀朱は欠かせない存在であったに違いない。「若杉山遺跡」は、1世紀初頭から3世紀後半にかけての遺跡で、採掘が最も活発であったのは2世紀後半から3世紀前半。まさしく卑弥呼の時代、邪馬台国の時代と重なっている。
 3月2日の徳島新聞の新聞発表で、この坑道は弥生時代後期(1~3世紀)のもので国内最古と判明。坑道は太龍寺山の標高約250m地点にあり、奥行きは約13m。高さは約70~120cm。坑道から南東70mの平地では露天掘りの跡も確認されたという。阿南市はこの一帯を国指定史跡に指定するよう文化庁に申請したという。
 令和の新時代に移行するにあわせ、厚いベールに包まれていた古代阿波の歴史が表舞台に登場しようとしている。この結果、邪馬台国所在地論争は、阿波地域を抜きにしてはもはや語ることができないことになりつつある。

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