ヤーウェの出撃
起(た)ちたまえ、ヤーウェよ!
詩篇3篇7節
わたしを救ってください、わが神よ!
然(しか)り、あなたはわたしのすべての敵を、ほお撃ちし、
悪しき者の歯をへし砕かれました。
この「起ちたまえ、ヤーウェよ!」という句は、民数記10章35節からの引用です。「契約の箱が進むときモーセは言った、『主(ヤーウェ)よ、起ちたまえ! あなたの敵が打ち散らされ、あなたを憎む者どもは、あなたの前から逃げ去りますように』」。契約の箱は、日本でいうなら神輿(みこし)です。古代人は一般に、いざ進軍出撃という時に、「神様、さあオミコシを上げてください」とお願いして戦場に臨んだ、そのことを指すのです。
それにしてもダビデは、「わが神、ヤーウェよ!」と何度も呼びかけています。神ご自身の名前で呼びかけるところは、特に神様と親しい間柄にあることを示しています。愛の関係は、すべて個々の名前で呼ばれるユニークな「我(われ)と汝(なんじ)」の関係なのです。ダビデは、神に愛されている感激で、すべてを勝ち戦(いくさ)に転じはじめます。
https://www.makuya.or.jp/lec-822-atamaw/聖書講話「頭をもたげたもうお方」詩篇3篇1~8節
詩篇には、神への賛美や感謝と共に、苦しみにあって神に救いを求める詩があります。第3篇は、「神は頭をもたげる者、上を向かせるお方」と、危機の中にも神によって希望を抱く、詩人ダビデの信仰が詠われています。困難な時代にあって、私たちも神によって上を向くことができるのです。(編集部)
詩篇 第3篇 ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌
1~8節 日本聖書協会 口語訳normal
主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く、
「彼には神の助けがない」と、
わたしについて言う者が多いのです。 〔セラ(注1)
しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、
わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
わたしが声をあげて主に呼ばわると、
主は聖なる山からわたしに答えられる。 〔セラ
わたしはふして眠り、また目をさます。
主がわたしをささえられるからだ。
わたしを囲んで立ち構える
ちよろずの民をもわたしは恐れない。
主よ、お立ちください。
わが神よ、わたしをお救いください。
あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、
悪しき者の歯を折られるのです。
救いは主のものです。
どうかあなたの祝福が
あなたの民の上にありますように。 〔セラ
(注1)セラ
この詩では、2、4、8各節の終わりに「セラ」という語が出ている。この箇所で、詩を歌うのが休止され楽団の奏楽が入るとも、伴奏の調子を上げ音色を変えるのだ、ともいわれる。いずれにせよ、区切りの指示と考えられている。
旧約聖書の詩篇は、第1、2篇が序文の役割を果たし、第1篇では主のおきてに歩む者の幸いを詠(うた)い、第2篇では、聖書が一貫してメシア(救世主、キリスト)を目標にしていることを述べています。そして、第3篇から以下第41篇までの詩篇第1巻全部がダビデの信仰詩集です。また、詩篇150篇中の実に半数近くが、ダビデの歌とされています。
この詩篇第3篇の表題には、「ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌」とあり、危機に際してのダビデの叫びをもって、ダビデ詩集を始めております。
ダビデには数多くの妻と子供がおりました。ダビデは前王サウルの娘ミカルを王妃にしていましたが、二人の間は不仲で子供がありませんでした。
ある時、ダビデは腹心の将軍ウリヤの妻バテセバに心を魅かれ、強引なやり方で彼女を側室に入れました。そのため家庭がたいそう乱れました。第3王子アブサロムは、兄弟間のいさかいから第1王子を殺したため、一時ダビデより勘当されます。しかし、アブサロムは生来非凡な素質を有しているだけに、その後許されてエルサレムの都に帰ってくると、めきめきと頭角を現し、巧みに人々の心を自分のものにしてゆきます。
そしてついに、アブサロムはヘブロンに下って反乱を起こしました。反乱の急報が届くと同時に、ダビデは取る物も取りあえず、エルサレムから荒野の道に駆け下って逃れました。彼の腹心の部下たちも急を聞き伝えて、次々と馳せ参じてきました。
ダビデ王は、神の信仰に生きていた時は強い人でした。しかし、罪を犯して信仰があやふやになったら、全く脆(もろ)くなって逃げ出してしまう。これはダビデに限らず、私たちもそうです。強そうにしていても、窮地に陥ると弱く醜い自分をさらけ出すことがあります。
この詩は、サムエル記下15章から19章までの物語を読み合わせることが大事です。15章14節には、「立て、われわれは逃げよう。……さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」とあって、ダビデは慌てふためいています。エルサレムの安全のためには、自分が都落ちすればそれで済む。そう思ってダビデは、自分が悪者になってエルサレムを逃れました。
一方、アブサロムの最高顧問アヒトペルは、「手兵1万2000を率いて直ちにダビデを追撃しましょう」と進言しました。ところが、ダビデの旧友ホシャイの忠告により、アブサロムは追撃を思いとどまります。ホシャイは、すぐその夜のうちにひそかにダビデに使いを送って、夜明け前に王の一行がヨルダン川を越えられるように計りました。
夜のうちに追っ手が攻めてくるかもしれない、という危機感。ダビデにとって、最大の危機が迫った時でした。こうした背景を知ると、この詩がよく読めます。
内憂外患
主(ヤーウェ)よ、わたしに敵する者の、なんと多いことでしょう。
詩篇3篇1~2節(私訳 以下同)normal
わたしに逆らって立つ者が多く、
「彼には魂の救いが神にもない」と、
わたしの魂に向かって言う者が多いのです。 〔セラ
「なんと多いことだ!(原語ではマー ラブー)」と、ダビデは自分に敵対し、反逆する者の多いことに呆れ返っています。今までイスラエル統一王国の建設者として君臨してきたダビデ大王ですが、気がついた時には「なんとマーッ」と言う以外にないほど、彼の状況は不利になっていました。しかし、愕然(がくぜん)としつつも発した第一声が、「主(ヤーウェ)よ!」という叫びでした。多くの人は自分で考えてから物事を決します。けれども、ダビデは何か問題があると、まず「ヤーウェよ!」と神の御名を呼んでおります。この短い詩の中に6回も、「ヤーウェ(注2)」と親しく神の名を叫んでやまない。これがダビデの信仰でありました。
一昨年(1967年)、帝国劇場でミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』が上演されましたが、主人公テヴィエは、いつも神様と対話して生きていました。日常の問題も、自分たちに起こる運命に対する愚痴も、天を見上げては「神様、どうなんでしょうか」と打ち明け、天に耳を澄ませては、「えっ? はい、わかりました」と言って神様に聴いております。
こういうタイプの祈りを回復しなければ、信仰はいつまでも無力なままです。人に語るより神に語るほうが、どれだけよい結果を得るかわかりません。神と対話しない信仰は、観念的な遊戯にすぎません。
ダビデは人がよくて、だれをも信じるたちでした。ところが気がついてみると、都の主だった者たち200名を加えて、自分と縁の深い町ヘブロンでクーデターが決行されていた! 公の敵ならまだしも、ダビデ個人に対する敵ですから、気力を殺(そ)がれます。
日本にとっても今、ソ連や中共などの外敵が問題ではありません。日本人自身の心に潜んでいる敵、これがいちばん恐ろしい。外側の敵に対しては戦うことができます。しかし内なる敵、獅子身中の虫ともいうべき自分の内側の病毒は退治することが難しい。ダビデはそれに悩みました。自分の後継者に、と思うほど愛しているわが子に反乱を起こされた。
外患は処しやすく、内憂は切り抜けるのが難しい。それは一人ダビデにかぎりません。最近、私はマタイ福音書を読みつつ、イエス・キリストがご自分の第一の弟子ともいえるイスカリオテのユダが裏切ろうとしていることを知って、苦悩されたお気持ちが迫ってなりません。そんな状況では、とても勇ましく外敵と戦うということができない。
男が外で雄々しく事業に邁進しようとしている時に、妻が足手まといになって、後ろ髪を引かれると、どうしても戦う力が出てきません。わけても、原始福音の伝道者として立とうと志す者には、妻の協力と同意が得られない場合は致命的です。また、社長が陣頭に立って勇んでも、部課長が二心(ふたごころ)を抱いて足を引っ張るのでは成功しません。「私的な敵」が克服されずには、伝道でも会社経営でもうまくゆきません。
(注2)ヤーウェ
聖書に記されている、世界を創造された神の名。古代ユダヤ教以来、神の御名をみだりに呼ぶことをはばかってきたため、本来の読み方は伝わっていない。4つのヘブライ文字で表され、「ヤーウェ」と読むと考えられている。日本語訳では「主」と訳されている場合が多い。
魂の石撃ち
口語訳では「『彼には神の助けがない』と、わたしについて言う者が多いのです」(2節)とありますが、原文の意味と少し訳が違っています。「わたしについて」と訳していますが、原文は「レ ナフシー わたしの魂に向かって」というのですから、自分の魂にグサリと堪(こた)えるような噂が飛ぶのを聞く、との意味でしょう。
そして彼らは口々に、「ああ、もうダビデのための魂の救いは神様のもとにもない」と囃(はや)したてている。もし、神様も見捨てたと言われれば、だれだって魂にグサリと堪えるでしょう。しかも、自分の愛している子アブサロムの問題ともなると、これは理屈では割り切れず、わが身が裂かれるようです。
ダビデは、自分の忠臣ウリヤの妻を奪って密通しました。そのスキャンダルを預言者ナタンから諫(いさ)められて、「ああ、俺は悪かった」といって悔い改めたものの、一度犯した罪というものは、なかなか消えません。そして、とうとうこのようにエルサレムから追われ、ヨルダン川の向こうの地に亡命し、マハナイムの森で一夜を過ごさなければならぬ状況に至って、ダビデは自分の犯した罪の報いをひしひしと身に感じたことでしょう。
しかし、そのような神に捨てられてもしかたがない状況でも、ダビデは「主(ヤーウェ)よ!」と言って神を見上げています。
神に向かって頭を上げよ
ヤーウェよ、あなたはわたしの味方なる盾、わたしの栄光、
詩篇3篇3節normal
わたしの頭をもたげてくださる方です。
内なる心の敵というものが解決されなければ、本当の信仰に至ることができない。だが、親しく神に呼びかけることができるようになると、しめたものです。
「わたしを囲む盾」と口語訳ではなっていますが、原文は「マゲン バアディ わたしのため、わたしの味方なる盾」とあります。いざ事が起こると、いつでも主なるヤーウェの神様が立ち現れて、私に味方し守ってくださる。それは、万人が私に敵しても、主が私の命を護(まも)る者となって、私の統治権を保護してくださる、という祈りの確信でした。彼は王様でしたけれども、自分の本当の命の領主はヤーウェの神様だ、と告白しています。
ダビデはつい昨日までは、首都エルサレムで多くの臣下を従え、豪勢な生活をしておりました。しかし、今や丸腰になって命からがら逃げているダビデには、昨日の栄華が夢のようです。だが、「神よ、あなたこそ私の栄光です」と叫んで、自分は何も失っていないという。どん底の状況に陥っても、心の錦を着ているダビデはさすがです。
失意のどん底、破産寸前の逆境でも、なお「わが栄光は貴神(あなた)です!」と言いえるならば、確かに神こそ私の保護者であります。どんなに影はヤクザにやつれても、神様が私の頭をもたげてくださるなら再起できる。この「主は頭をもたげたもう者」とは独特な信仰です。ダビデは命からがら荒野の谷底に逃げていったのですから、うなだれるのが当然です。しかし、神に自分の名を呼ばれると、胸を張って天を見上げて生きはじめられます。
これは、ただ肉体的に頭が持ち上げられるというのではありません。彼は、名もない卑しい羊飼いの少年であったころ、預言者サムエルから頭に油を注がれ、頭をもたげられて神の霊を受けました。そして、今も尊い神霊が注がれているなあ、神様、今でもそうですね、と信仰体験を追想するのです。恩寵の追想が歓喜をもたらし、一切を失ったダビデなのに、たちまち神の霊が熱く脈動しはじめて、別人のように力を帯びたのであります。
自分は神に油注がれた者、メシア(キリスト)的人間だという自覚がダビデの内心を奮わせる。私たちクリスチャンも、神の霊を頭上に注がれた者だという大自覚があるなら絶対に絶望しない。友よ、十字架に流されたキリストの血と生命を受けて、天を仰瞻(ぎょうせん)せよ!
祈りの極意
わが声をヤーウェに向けてわたしが呼ばわると、
詩篇3篇4節normal
その聖なる山からわたしに答えたもう。 〔セラ
エルサレムから東のエリコに至る道は、目もくらむような恐ろしい千尋の谷底を下ってゆきます。途中、死の陰の谷ともいえる不気味な絶壁も通ります。落ち延びたダビデは、そんな無人の荒野の中で、遠く山の彼方、エルサレムを仰いで祈ったのでした。
エルサレムのシオンの丘には、十戒(注3)を納めた契約の箱が幕屋の中に安置してありました。
ダビデ王が都を離れると聞いて、祭司アビヤタルたちが契約の箱を担いできましたが、ダビデは「神様にまでご迷惑をかけてはいけない」と申して、契約の箱をエルサレムに置きとどめました。どんなに逼迫(ひっぱく)しても、ダビデには己というものがありませんでした。
「わたしが声をあげて主に呼ばわると」と口語訳はなっていますが、直訳すると「わが声をヤーウェに向けてわたしは呼ばわる」とか、あるいは「わが声で……」となります。つまり、他人の当てにならぬ祈りを頼むのではなく、全力を振り絞って自分の声の限りに祈り叫ぶことです。俯いて蚊の鳴くような声でボソボソ愚痴ることではない。ハッキリと声を神に向けて祈りの方向を明確にすると、神は霊であるから答えてくださる。
しかも、「エクラー わたしは呼ばわる」「ヤアネー 彼は答える」と、いずれの動詞も未完了形(~している、~しつづける)になっています。つまり、私の声はあらん限り主に向かって呼びつづけています。そしてまた、神は私に応答しつづけていてくださる。
祈りだすと、天地感応し、神人一体となって、いつまでも果てることがない。祈りがこの境地に至ると、信仰は不動の自信を帯びてきます。
多くの優れた大宗教家たちは、この深い祈りの境地を知っていました。
わたしは臥(ふ)して眠り、また目を覚ます。
詩篇3篇5節normal
なぜならヤーウェがわたしを支えられるからだ。
ダビデが最も恐れていたのは、最初の夜の夜襲でした。だが、必死になって祈った時、「大丈夫だ」という確信がフツフツと内心にわいてきて、自分の祈りはエルサレムに届いたとわかった。「ヤーウェはわたしを支えられる」と、その心の転換をここで言うのです。ヤーウェの神は聖なる山から私に答えつづけておられる。「絶対に大丈夫だ」という祈りの応答をもつなら、あなたも人生の闘争場裡(とうそうじょうり)で勝利できます。それで彼は言います。
わたしを囲んで立ち構える
詩篇3篇6節normal
ちよろずの民をもわたしは恐れない。
彼は平安のうちに一夜を過ごすことができました。そして、危機のさなかにとっぷりと眠れただけではなく、ひとたび目覚めると、神様が自分をしっかりと支えたもうことを感じていた。彼は歴戦の勇将ですから、最大の急場を切り抜けた時、たちまち自信を回復しました。幾万の民が戦陣を繰り広げてきても、神と偕にあるゆえにビクとも恐れません。
(注3)十戒
ヤーウェの神が、エジプトから救い出したイスラエルの民と契約を結んだ時に与えた10の掟のこと。この掟(おきて)は、神ご自身によって2枚の石板に刻まれた。その板を納めたのが、「契約の箱」である。
ヤーウェの出撃
起(た)ちたまえ、ヤーウェよ!
詩篇3篇7節normal
わたしを救ってください、わが神よ!
然(しか)り、あなたはわたしのすべての敵を、ほお撃ちし、
悪しき者の歯をへし砕かれました。
この「起ちたまえ、ヤーウェよ!」という句は、民数記10章35節からの引用です。「契約の箱が進むときモーセは言った、『主(ヤーウェ)よ、起ちたまえ! あなたの敵が打ち散らされ、あなたを憎む者どもは、あなたの前から逃げ去りますように』」。契約の箱は、日本でいうなら神輿(みこし)です。古代人は一般に、いざ進軍出撃という時に、「神様、さあオミコシを上げてください」とお願いして戦場に臨んだ、そのことを指すのです。
それにしてもダビデは、「わが神、ヤーウェよ!」と何度も呼びかけています。神ご自身の名前で呼びかけるところは、特に神様と親しい間柄にあることを示しています。愛の関係は、すべて個々の名前で呼ばれるユニークな「我(われ)と汝(なんじ)」の関係なのです。ダビデは、神に愛されている感激で、すべてを勝ち戦(いくさ)に転じはじめます。
ダビデが少年時代に、ペリシテ軍の大将ゴリアテという大勇士と一騎討ちしました時、サウル王は訝(いぶか)しがって尋ねました。「おまえみたいな少年が、どうやってあの歴戦の勇士に立ち向かうことができるか。しかも彼は甲冑(かっちゅう)に身を固めて、鋭い槍を持っているのに」と一笑に付して、たしなめました。だが彼は、「いや、私は羊飼いをしながら、熊や獅子が襲ってきても、それを一撃にして倒し、屠(ほふ)りました」と自信満々に答えることができた。生ける神の力が彼と共にあったからです。カリスマ的な大力を帯びさえすれば、どんな敵も恐るるに足りない。神通力に助けられた過去の経験が彼を勇気づけます。
いろいろな困難に直面して大事なことは、あの難しい問題も不思議にしのげたなあ、という恩寵の追憶です。私は無力でも、神様が、野獣のように猛り狂う敵のほお骨を打ち砕いてしまわれます。その回想が、このどん底でも勝てるんだと、奮起させてくれるのです。
ダビデは、ただ神の手足にしかすぎませんでした。ほんとうに信仰に生きるときに、人は神様の手足となります。自分で考え悩むとわからなくなる。「私は貴神の手足です」というとき、神の力が今も私たちの上にもガーッと臨み、加護してきます。
ヤーウェには救いが!
詩篇3篇8節normal
あなたの民の上には、あなたの祝福が! 〔セラ
原文では、8節の最初は「ヤーウェには救いが!」となっています。口語訳のように「救いは主のものです」と解するよりも、ダビデの祈りは最後に爆発し、歓喜の感嘆文となって終わっていることに注目してほしいのです。わずか数百人の手勢しか率いずに都落ちしたダビデでしたが、もう勝利は確実であると信じて、前祝いに酔っている。実にその後、ダビデに敵した者は敗れ、アブサロムも撃たれました。
「あなたの民の上には、あなたの祝福が!」とありますが、今まで営々と辛苦して作り上げた王国です。今は反乱軍に与(くみ)している者も、もともとはダビデが愛し、慈しんできた民です。自分がエルサレムに帰ったら、彼らも帰順して自分の民となるであろう。だから彼は恩讐(おんしゅう)を越え、自他の利害を超越して、すべての民の祝福のみを祈る人と変えられています。今は敵している民のためにも祈っている。ここに勝利の信仰の秘密があります。復讐を神の御手にゆだねて、自分は愛と歓喜をもって、シャローム(平和)を叫ぶ。これが、武将ダビデの姿でした。まことに立派な信仰であります。
(1969年)
本記事は、月刊誌『生命の光』822号 "Light of Life" に掲載されています。
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