嘉永年間、この二体の仏像の宝前で永代供養を行った時の石塔が寺内に残っていました。二体の仏像が峯薬師にあったのは確実なのです。しかし、なぜか明治期に入って仏像や石塔の所在が不明になります。
法隆寺の元社と二体の観音像(救世山 峯薬師)
(救世山 峯薬師: 現在の法谷寺)
徳島市庄町にある「救世山峯薬師」、現在は「救世山大乗院法谷寺」。この寺は聖徳太子の父、用明天皇、崇峻天皇、そして聖徳太子の弔い寺であります。
(救世山 峯薬師 縁起)
寺の縁起によると、古 小治田宮(おはりだのみや)天皇(推古天皇)のとき、聖徳太子が対岸にある気延庄で「当域南北に枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境ね域也。前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん」と、秦河勝(はたのかわかつ)に命じ、「以乃山馬峰に医王善逝(せんせい)薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山す…」と言ったとあります。(空海もここで修行してますよ。)
(救世観音像)
(百済観音像)
現在、国宝として法隆寺に祀られている「救世観音」と「百済仏」は所在不明となっていた「救世山峯薬師(現 法谷寺)」に祀られていた寺宝であり、岡倉天心やロザノフにより法隆寺で布に巻かれた状態で発見された伝承が残ります。
ちなみにですね… 日本三体の峯薬師は
の三寺でありますが…
「峯薬師」は以の山(眉山)の峯麓にあります。そして「救世観音像」は「救世山峯薬師(法谷寺)」の山号から採られた観音像であります。
もう少し詳しくお伝えしましょう。
この峯薬師に伝わる寺宝は二体、峯薬師伝来 「百済仏」と「救世観音」。
嘉永年間、この二体の仏像の宝前で永代供養を行った時の石塔が寺内に残っていました。二体の仏像が峯薬師にあったのは確実なのです。しかし、なぜか明治期に入って仏像や石塔の所在が不明になります。
(峯薬師 奥の院 常厳寺)
不明の原因とおぼしきは明治期に峯薬師を管理した僧「阿闍梨堅雄」。
堅雄は峯薬師の住職となる以前に大倭にいた僧。大倭の寺の復興を終生の念願にしていた節が大いにあったようです。
阿波の伝承で浄厳庵タタリ谷の常厳寺(峯薬師の奥の院)は聖徳太子の廟と伝えられていましたが、堅雄はその場所を掘り返し、神紋が刻まれた石棺の天井石に三宝荒神と刻んだ碑にしたり、在職中に寺宝が紛失させています。
(こいつが限りなくクロで、表向きは紛失とし、実際は寺宝を売り飛ばした。)
(聖徳太子)
という訳で現在法隆寺にある
国宝、「百済観音」と「救世観音」はもともとは「峯薬師」の寺宝。
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