『古代史入門』
藤井榮著210頁より
ポイント解説
・この「峯薬師」[=徳島県現法谷寺]の寺宝・秘仏は、 古えより伝えられていた 「救世観音像(ぐぜかんのんぞう)」と「峯薬師尊像(みねやくしそんぞう)」で、嘉永年間、 この二体の仏像の宝前で永代供養を行った時の石塔があるところをみると、その時にはこの寺にあったことは確実なのであるが、明治中期にいつの間にか忽然と消えてしまった。
・ところが、 明治17年夏、 奈良法隆寺でこの寺の天平の資材帳にも見当たらず、寺の記録にも載っていない仏像が、かの岡倉天心立ち会いの下、フェノロサらによってぐるぐる巻の布を解かれて発見され、「1200年にわたるヴェールをはがされて人目にさらされた (法隆寺建立以来誰も見た者はいない。)千古の秘仏!」と当時騒がれたが、 何と! それが峯薬師で行方不明となっていたあの 「救世観音像」 であった。
真に不可解な出来事で驚かされる。
(以上、 岩利大閑著 『道は阿波より始まる』 (その一) 150頁より概略引用)
・「救世観音像」の“救世”は、本寺院の山号「救世山」との強い結びつきを物語っている。
-この事実は一体何を意味するのか -
【阿波古代史を妄想する!】聖徳太子が阿波にいたなんて、誰も信じないだろうなあ・・・。
古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に枕し,東に向いて開く正に浄瑠璃境の域なり、前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん。」と秦河勝に命じ、以乃山馬峰に医王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山す。・・・・
ん? 聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし・・・
聖徳太子が気延山にいた???そんなバカな!これは捜査しなくては!
聖徳太子が開いた「救世山峯薬師」
徳島市を象徴する眉山の北山麓、徳島県徳島市南庄町に「峯のやくし」と呼ばれるお寺があります。
「峯のやくし」と刻まれた石柱から奥へと進むと、右手に八幡神社が見えてきます。
八幡神社の祭神は、誉田別命(応神天皇)です。創建については不詳ですが、徳島県神社誌によると、宇佐から勧請したという言い伝えがあるそうです。
さらに奥へ進むと「救世山峯薬師別当法谷寺」というお寺が見えてきます。
救世山峯薬師縁起
古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に枕し,東に向いて開く正に浄瑠璃境の域なり、前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん。」と秦河勝に命じ、以乃山馬峰に医王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山す。・・・・
聖徳太子は上宮太子とも呼ばれていました。上宮は、聖徳太子の居所を表しています。鮎喰川を挟んで対岸の気延庄に、聖徳太子の上宮があって、そこで秦河勝に詔を出したことになります。
ちゃぼたつ
聖徳太子の側近、秦河勝が開山したとは、ちょっと話ができすぎなような気がするが・・・。聖徳太子の上宮があった場所が気延山とは、なんと大胆な伝承。気延山といえば、卑弥呼伝説や天照大神伝説のある神秘の場所である。そこに、聖徳太子までいたとなると・・・。
【妄想の阿波古代史】いざ天照大神が眠る神の山へ!気延山(徳島市)
徳島県国府町矢野にある気延山には約200基余りの古墳が存在しています。さらに、弥生時代の集落跡から銅鐸が出土した矢野遺跡や天照大神を祀る八倉比売神社など、阿波の古代史の謎を解く多くの鍵が隠されています。いざ、天照大神、卑弥呼の眠る気延山へ!
聖徳太子の墓所と伝わる「タタリ谷常厳寺」
さらに、法谷寺から山沿いに約300m程のところにタタリ谷常厳寺という法谷寺の奥の院があります。ちょっと近寄り難い雰囲気のするところで、聖徳太子の墓所だという伝説もあります。
この奥を登って行くと常厳寺跡があるらしいのですが・・・タタリ谷・・・奥まで行く勇気はありませんでした。
タタリ谷、しかも廃寺、それでもって聖徳太子の墓所とは・・・一体何があったのでしょう。
通説では、聖徳太子の墓所は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳だと言われています。聖徳太子といえば飛鳥だと思っていたんですが、飛鳥じゃないんですね。こちらは、叡福寺という大きなお寺の奥にあり、荘厳なつくりで、石室も調査されています。近つ飛鳥博物館で復元模型が見られます。
聖徳太子伝暦が伝わる「本願寺」
法谷寺から北へ約1㎞、県道1号線がJR徳島本線と交わる高架橋の下に本願寺というお寺があります。本願寺と言っても浄土真宗ではなく、宗派は真言宗です。このお寺の宝物に、「紙本墨書聖徳太子伝暦二巻」があり、国の重要文化財になっています。本願寺のお寺の門の横にそのことを示す石柱が立っています。
Wikipediaで調べてみると、「聖徳太子伝暦」の写本は、全国に5つしかなく、その一つがここにあります。本願寺の写本は、乾元元年(1302年)に法隆寺西室で書写されたものらしいです。
聖徳太子作の七仏薬師如来を本尊とする「井戸寺」
四国八十八か所第十七番札所としても有名な井戸寺は、聖徳太子が作ったとされる七仏薬師如来を本尊としています。
井戸寺は、聖徳太子が開山した救世山峯薬師の鮎喰川を挟んでの対岸の国府町にあります。救世山峯薬師縁起で聖徳太子の上宮とされる場所です。
井戸寺の山号は、瑠璃山真福寺です。瑠璃は、サファイヤのことで、薬師如来の浄土は、瑠璃で彩られているとされます。
境内にある「井戸寺縁起」を読むと、天武天皇の勅願で白鳳2年(673年)の開基となっています。聖徳太子のことは一言も触れられていません。本尊の製作者なのに・・・?
弘仁6年(815年)に空海がやってきて、十一面観世音菩薩を刻んで安置し、住民が水不足で困っていたのを知り、一夜にして井戸を掘ったと縁起に書かれています。
なるほど、それで「井戸寺」というのか・・・。でもこの辺り、鮎喰川と飯尾川に囲まれていているのに水に困って井戸を掘ったとは・・・。何か怪しいなあ・・・。
椎宮八幡神社にある中嶋神社
タタリ谷常厳寺から約200m程行くと椎宮八幡神社という立派な鳥居の神社があります。
階段を登って社殿まで行くとすぐ横に中嶋神社という神社があります。祭神は、田道間守命(たじまもりのみこと)です。
中嶋神社
田道間守命は、第11代垂仁天皇の勅命で「常世の国」に渡り、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を探して帰ってきましたが、天皇が前年に崩御されていたことを知り、陵墓に香菓を献じ、その場で殉死したと言われています。非時香菓は、橘の実だと言われています。
その柑橘系の実が「すだち」だと面白い。それにしても、なぜここに田道間守命が祀られているんだ?
実は、田道間守命と聖徳太子には意外なつながりがあります。奈良県明日香村に橘寺という有名なお寺があります。
奈良県明日香村の橘寺
橘寺の本尊は、聖徳太子です。聖徳太子は、この寺の近くで生まれたといわれています。橘寺がなぜそう呼ばれるようななったかというと、田道間守命が持ち帰った橘の実を植えたことにその名の由来があります。
聖徳太子は橘寺の近くで生まれたのか。田道間守命が橘の実を植えたので橘寺とは・・・。聖徳太子と田道間守命のこの関係、これは、ちょっと薄い・・・無理やりつなげました。
橘を神紋とする王子和多津美神社
無理やりついでにもう一つ橘つながりを・・・。
井戸寺から南に約1kmほどの国府町和田宮ノ元に、王子和多津美神社があります。王子和多津美神社は、927年編纂の延喜式神名帳に「阿波国名方郡和多都美豊玉比売神社」と記された神社だとされています。
この神社の神紋が橘なのです。
聖徳太子の飛鳥時代に造られた「矢野古墳・穴不動古墳」
徳島市名東町に地蔵院というお寺があります。地蔵院は、弘仁年間(810年-824年)に、空海が女人の出産を願い地蔵菩薩を安置したことを創建として伝えています。江戸時代には徳島藩歴代藩主の夫人の安産祈願所でした。今でも安産祈願のお参りをする人がたくさんいます。
地蔵院
地蔵院自体も約1200年前の創建となかなか古いのですが、その境内に「穴不動古墳」と呼ばれている古墳があります。
穴不動古墳
ちゃぼたつ
地蔵院の境内にあるということで、大切に守られてきたことが、きれいに残っている墳丘を見てもわかる。
古墳は眉山の北西の谷部に位置する。尾根の斜面を削って造られた直径約20mの円墳で、南西の谷の奥に向かって横穴式石室が開いている。横穴式石室は、全長9.3m、玄室長4.3m、幅2.2m、高さ2.0m、羨道長4.3m、幅2.0m、高さ1.8mを測り、平天井式で、玄室と羨道の幅はほぼ等しい。石室は結晶片岩(青石)で築かれ、奥壁には1枚石を用いている。玄室の両側壁は巨石を1~2段積んだ後、最上部にはやや小さめの石を積んでいる。羨道の両側壁には巨石を2~3段に積んでいる。石室の構築方法は、まず奥壁を据え、奥壁側から玄室・羨道の壁麺を築いた後、羨道の天井石を架け、最後に玄室の天井石を架けている。7世紀中頃の飛鳥時代(古墳時代終末期)の特徴的な石室構造を持ち、矢野古墳(国府町)の次に造られた阿波の国の豪族の墓で、この時代に造られた本県で唯一の古墳である。
ちゃぼたつ
穴不動古墳が7世紀中頃の築造で、地蔵院が9世紀初めの創建ということになる。古墳のある場所に寺院が作られたんだな。空海もこの古墳を見ていたのだ。巨石を用いた石室構造は、飛鳥時代の古墳の特徴である。古墳規模がどんどん縮小されていくこの時代に、直径約20mという墳丘は、古墳を造営した豪族が、それ相当な地位と権力をもっていたことを裏付けている。
まとめ
聖徳太子の詔で秦河勝が開山したと伝えられる救世山峯薬師・・・。この時代の政治の中心は、現在の奈良県明日香村付近にありました。645年乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)などの遺構からして、それは間違いないと思われます。
救世山峯薬師が、聖徳太子の詔で開山されたのは事実かもしれませんが、さすがに聖徳太子の上宮が気延庄にあったというのは、信じ難いものです。
聖徳太子は、道後温泉にも行っているくらいですから、阿波にもときどき訪れていたかもしれません。そのときの滞在場所が井戸寺周辺にあったのかもしれません。
聖徳太子ゆかりの寺院は全国にたくさんあります。聖徳太子の伝説もたくさんあります。
まあ、伝説の一つとして、ゆかりの場所を訪れて楽しむのも古代史の面白いところです。
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