2024年5月8日水曜日

剣山と石鎚山のレイライン – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

剣山と石鎚山のレイライン – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

剣山と石鎚山のレイライン

西日本最高峰の石鎚山とヒラバイ山を通り抜けるレイライン上には高千穂神社が存在します。また、富士山のレイライン上には鹿島神宮や出雲大社、宇佐神宮等を見出すことができます。古代社会では標高の高い山がレイラインの指標として用いられることが多く、特に西日本においては、四国の石鎚山と剣山が、レイラインを構成する指標として重要視されたと考えられます。特に剣山は西日本で石鎚山に次いで2番目に高い標高を誇るだけでなく、列島の中心的な役割を果たした淡路島から直接眺めることができることからしても極めて重要です。これらの聖山がどのようにレイラインと絡んでいたか、早速検証してみましょう。

剣山のレイラインが示す金刀比羅宮の聖地

出雲大社の地は古代より、富士山と同緯度上に並ぶ日本海側の拠点として祭祀活動が活発に執り行われ、重要な位置付けを占めていました。その出雲の地と、そこから南西方向に聳え立つ四国剣山とを結ぶレイラインが存在し、その直線上には出雲大社に並ぶ重要な神社として著名な金刀比羅宮が建立されています。それだけでしたら単に偶然の一致ということで片付けることもできたでしょう。ところが金刀比羅宮が存在する場所は、出雲大社と剣山のレイライン上にあるだけでなく、淡路の神籬石と大分の宇佐神宮を結ぶレイラインが、そのレイラインと交差する地点の真上に造営されているのです。つまり、2つの重要なレイラインが四国香川県で重なる場所が、金刀比羅宮の聖地なのです。これはもはや単なる偶然ではなく、神籬石や、出雲、宇佐、剣山の指標を用いたレイラインが交差する場所を、古代の識者が当時の地勢観を元に検証し、計算尽くめでその場所をピンポイントで特定した証ではないでしょうか。

その結果、金刀比羅宮の場所は香川県に在りながらも、出雲大社と宇佐神宮という古代の著名な神の社だけでなく、富士山と剣山という聖山の地の力までも統合した場所であり、その聖地の上に建立された神社だったのです。そこでは古くから祭祀活動が行われ、いつしか海の安全を祈願する金刀比羅宮として、庶民から愛される宮となり、今日まで至っています。

重要港と結ぶ石鎚山と剣山のレイライン

出雲大社と剣山を結ぶレイライン上には金刀比羅宮だけでなく、その延長線上には四国徳島の沿岸に、古代の重要な港として由緒ある海部が存在します。太平洋に面する海部は、南方から舟で旅をして四国沿岸を航海する際に、必ずしや寄港する貴重な港町として、古くから栄えました。出雲と剣山に紐付けられた重要港で、しかも太平洋に面し、淡路島と紀伊半島からほぼ同距離にあっただけに、四国の拠点として重要な位置付けを保ちながら発展したのです。

また、剣山方面に四国東南側から登る際、川沿いの長い山道が始まる剣山への玄関口が海部周辺にあったことも見逃せません。剣山周辺にあった集落へのアクセスは重要であったと考えられることから、海部周辺の地理的な位置付けは古代より注目されていたに違いありません。海部の集落が存在したと考えられる今日の海部郡海陽町周辺では、その近郊にある芝遺跡から多くの土器が出土し、その数や内容から察しても、優れた文化的背景を持つ多くの民が海部に居住していた史実を知ることができます。

また、出雲大社と海部を結ぶレイラインを剣山の頂上周辺にて交差するもう1つのレイラインが存在することにも注目です。それが宇佐神宮と石鎚山を結ぶレイラインです。この線からは古代の重要港が更に2つ定められました。およそ東西を横切るこのレイライン上には、徳島の阿南、そして紀伊半島では三重の尾鷲が存在します。どちらも今日、地域の重要港として知られていますが、その歴史は古代まで遡っていたのです。

南方より舟で訪れる民は、高知県の南岸を経由して、海部から阿南へと北上し、そこから淡路や近畿方面、もしくは瀬戸内海を西方へと航海を続けました。また、本州を東方に向かう際は紀伊半島を海岸沿いに巡り周り、和歌山のみなべ町、鹿島神社等に寄港し、それから伊勢と熊野の中間に位置する地の利に恵まれた尾鷲の港に立ち寄ったのではないでしょうか。その後、沿岸を北上して伊雑ノ浦に佇む伊雑宮にも寄港して、神を参拝したことでしょう。古代社会において港の存在は、集落が造成される地域を特定するだけでなく、その近郊にて祭祀活動が行われることも意味していたのです。

こうして富士山と石鎚山、そして剣山という3つの名山を基点とし、それらと結び付けられるレイラインから見出された日本列島内の古代の港は、海を渡る旅人にとっては不可欠な重要港として、古くから発展を遂げたのです。そして、これらの指標や、それらに紐付けられた拠点は、列島の山々や岬、聖地の指標に連結する力の象徴となるべく、その周辺には著名な神社が建立されることも少なくありませんでした。かくして、日本列島の随所には短期間で多くの神社が建立されることになります。

対馬と宗像を結ぶ宇佐神宮のレイライン

富士山と宇佐神宮がレイライン上で結ばれて聖地化した結果、宇佐の北西方向に浮かぶ対馬が注視されるようになりました。宇佐神宮から夏至の太陽が沈む方向、およそ28度58分の方向には、対馬の西海岸沿い、保利山の麓に当たる個所に海神神社の存在が浮かび上がります。和多都美神社の北、およそ9.7kmの位置に建立された海神神社は仁井の和多都美神社の論社として同様にワタヅミと読まれ、東の島々の西の玄関として貴重な存在です。また、後世においては淡路島の伊弉諾神宮と同緯度上に存在する神社として、伊勢神宮共に「陽の道しるべ」と呼ばれる東西の一大レイラインを描く指標として知られるようになります。

宇佐神宮のレイラインが引かれた結果、対馬の海神神社が対馬の中央、西海岸沿いに見出されただけでなく、和多都美神社と宇佐神宮を結ぶ線上の北九州沿岸には、鐘崎港が発展することとなりました。すなわち、鐘崎港は2つの聖地を結ぶレイライン上にある港として、必然的に発展する宿命を持っていたとも言えます。そして鐘崎港の内陸には、宗像と呼ばれる集落が発展し、その後、日本の宗教史にも大きな貢献をすることとなります。

また、海神神社の南方には、伊雑宮と同じ北緯34度22分の緯度線上に、和多都美神社が建立されました。和多都美神社は、海神神社のお膝元に建立された神社として、その元宮と考えられています。その背景には宇佐神宮が淡路島の神籬石や富士山ともレイライン上で繋がりを持ち、それらの指標を通る複数のレイラインが伊雑宮、しいては海神神社とも紐付けられていることが挙げられます。こうして宇佐神宮との日の出、日の入りの線に連なる鐘崎港、及び海神神社は、和多都美神社や、更に東方遠くには神籬石や富士山、伊雑宮など多くの聖地と紐付き、必然的に古代、海人一族の貴重な本拠地として発展を遂げることになります。

石鎚山と剣山のレイライン -神を礼拝する聖地と港を選別-
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