朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
画像:File:Imperial Rescript on Education.jpg – Wikimedia Commons
《教育勅語》には何が書かれているのか?
大阪の国有地払い下げ問題で注目を集めている「森友学園」が運営する幼稚園で、園児に「教育勅語」を暗唱させていることが明らかになり話題となっている。明治時代に制定され、戦後廃止された教育勅語。そこには、いったい何が書かれていたのか。また、戦前の日本にどのような影響を与えていたのか。文筆家で近現代史研究者の辻田真佐憲氏に伺った。2017年03月16日放送TBSラジオ荻上チキ・Session-22「《教育勅語》には何が書かれ、戦前の日本にどのような影響を与えたのか?」より抄録。(構成/大谷佳名)
■ 荻上チキ Session-22とは
TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら → https://www.tbsradio.jp/ss954/
教育勅語が作られた経緯
荻上 今日のゲストをご紹介します。文筆家で近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。よろしくお願いします。
辻田 よろしくお願いします。
荻上 辻田さんは、政治と文化芸術の関係性をテーマに研究されており、軍歌やプロパガンダ、「君が代」などについても本を書かれています。
今回、大阪府の森友学園が運営する「塚本幼稚園幼児教育学園」で、園児に教育勅語を暗唱させていることが分かり、これに関して稲田朋美防衛大臣が国会で「教育勅語の精神を取り戻すべきだ」などと答弁したことが大きなニュースとなりました。このことについて、どうご覧になっていますか。
辻田 塚本幼稚園は軍歌を歌わせる幼稚園ということでもともと知っていたのですが、今回これだけ立場ある政治家の方が国会で教育勅語を擁護したというのは驚きでしたね。
荻上 そもそも「教育勅語」とはどういうものなのでしょうか。教育勅語が生まれた背景・経緯について教えてください。
辻田 教育勅語が発布されたのは1890年です。当時の総理大臣である山県有朋の主導のもと、法制官僚の井上毅によって起草されました。この年は日清戦争が始まる4年前になります。つまり、当時の日本は不平等条約があり、いつ植民地にされてもおかしくないくらい弱小の国だったんです。ですから、「世界に冠たる神の国」とか「八紘一宇」とか、大それたことは書かれていません。
そもそも、なぜ教育勅語が作られたのかというと、一つは自由民権運動を抑えるためです。教育によって日本の精神を叩き込むことで、政府への反抗を未然に防ごうとしたのです。また、日本は当時、周辺国と大変険悪な関係にあったので、軍事の観点からも国民精神を注入することが有効と考えられました。
荻上 当時は大政奉還がされて間もない時代。天皇の権威のもとにもう一度国を作り直そうという意識も色濃くあったということでしょうか。
辻田 そうですね。「勅語」というくらいなので、これは天皇からのメッセージという位置付けなんです。
当時、西洋の思想を積極的に取り入れようとする啓蒙主義の立場と、それに対抗して、もともと日本にある東洋の道徳を大切にする儒教主義の立場があり、この二つを巡って対立がありました。そのなかで「第三の道」として作られたのが教育勅語だったのです。そのため、儒教的な道徳を説きながらも、「憲法を守りましょう」というような近代的な道徳も含まれています。
荻上 その教育勅語は、当時の国民にどのように受け止められたのでしょうか。
辻田 教育勅語が発布されたあとに、これを国民全体に広めるために学校でどう扱うべきかをまとめた文書を文部省が出したんです。それによると、祝祭日に子どもたちは学校に集まり、儀式に参加することが義務付けられていました。そこで校長先生が生徒の前で教育勅語を一語一句間違わないように読むんです。ここで、教育勅語は天皇の言葉なので、一つでも間違って読んでしまうと大変な不敬に当たります。そして子どもはその間、ずっとお辞儀をしなければいけない。式典の前方には、「御真影」と呼ばれた天皇皇后の写真が置かれることになっていました。
ちなみに、もう少し後の時代になると、天皇の写真を保管するための建物(奉安殿)が学校に建てられたりもしました。そういったことを通じて、天皇の神聖さ、偉大さを刷り込もうとしたんです。
荻上 当時の証言集などを読んでいると、学校で火事が起きた時に、先生が生徒の安全よりも真っ先に「御真影は無事か!」と言って駆けつけた、というエピソードもあります。それくらい尊いものとして大事に扱われていたんですね。
学校現場で子どもたちに覚えさせようという動きは、教育勅語が成立したころから始まっていたんですか。
辻田 そうですね。高等中学校などには、天皇が直接署名した教育勅語が配布されていたので、その紙に向かって敬礼をするということが行われていたようです。その後は国定教科書にも教育勅語の解説が載るようになり、加えて祝祭日の儀式では礼をさせられて、肉体で覚えていくような側面があったのだと思います。
教育勅語には何が書かれているのか?
荻上 教育勅語は成立した後、日清戦争後も、内容を見直そうという動きはあったのでしょうか。
辻田 はい。教育勅語の内容を見てみると、稲田防衛大臣が国会で言及していた「親孝行しなさい」や「兄弟姉妹は仲良くしなさい」など、たしかに現在でも違和感のない内容も含まれてはいます。これらの多くは個人の振る舞いに関する教えでした。日清戦争で勝利して大国の仲間入りをすると、どうしても、より複雑な、社会的な道徳(国際交流、産業振興、女子教育など)が必要になっていきます。
そうした意味で、教育勅語は、弱小国だった時代の日本では適切な道徳だったのかもしれませんが、数年後にはすでに疑わしくなっているくらいの内容だったんです。また、成立した当初は台湾や朝鮮など異民族の支配を想定していないという問題もありました。そういう部分を補って、新しいものを作ったほうがいいんじゃないか、という議論はずっとありました。
荻上 しかし、教育勅語は天皇の言葉として出されているので、他の人が案を出すこと自体が問題視されそうですね。
辻田 はい。実際、それは当時の国会でも議論になり、文部省内で改訂を検討しているとの風聞に対して「不敬だ」といって政府攻撃の材料にされたりしていました。
そのため、教育勅語そのものは変えず、別の勅語を出して補う形で日露戦争以降は対応していきました。たとえば日露戦争後に出された「戊申詔書」、第一世界大戦の後に出された「国民精神作興詔書」、あるいは、日中戦争の途中で出された「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などです。
荻上 なるほど。ここで、教育勅語にはなにが書かれているのか、原文を見てみたいと思います。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
画像:File:Imperial Rescript on Education.jpg – Wikimedia Commons
辻田 戦前では、「これが現代語訳だ」と唱えること自体が不敬とされていましたが、「謹解(謹んで解釈する)」といったかたちで解釈本が300種類くらい出ていたと言われています。もともと教育勅語は、ある程度どうとでも解釈できる文体になっていました。どこを区切って読むかによっても意味が変わってきます。
荻上 当時の政治状況も関係して、やや玉虫色な表現になっているんですね。現在においても天皇の言葉というのは、いかに解釈の余地を残しつつも断言しない伝え方をするかが問われますが、それが当時の教育勅語にはより色濃く反映されているわけですね。
数ある解釈の中で、これは通説と言えるものはありますか?
辻田 もっとも使いやすいのは、1940年に文部省図書局の内部で国定教科書を編纂する際の参考資料として作られたものです。これは事実上の現代語訳になっています。もちろん当時は日中戦争の真っ只中なので、天皇主義(国体明徴)が強く出ている点は注意しなければいけませんが、やはり戦前に文部省が作ったものだということで、最もオフィシャルな解釈として参考になるのではないかと思います。
荻上 この解釈のもとで教育をしていこうという文部省の発想が見て取れるものなんですね。では、そちらの全文通釈も見てみましょう。
朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇めになつたことは極めて広遠であり、徳をお立てになつたことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみ孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であつて、教育の基づくところもまた実にこゝにある。臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合ひ、朋友互に信義を以て交り、へりくだつて気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゞに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
こゝに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになつた御訓であつて、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守つて、皆この道を体得実践することを切に望む。
荻上 「臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし……」から始まる長い一文を見てみると、はじめの方は、家族を大事にしなさい、慈愛をもって人に接しなさいというような、個人に対する教えが書かれていますが、文の最後は「……万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ」となっていて、それぞれの教えはそこにつながっていく。国民個人の振る舞いを尊重するといった意味ではなくて、臣民としてのあるべき姿として天皇のために尽くせ、という図式に見えますね。
辻田 その通りで、一番強いメッセージは「天皇国家のために努力しろ」ということなんです。もともと自由民権運動を抑えるために作られたわけですから、独立、自治、民主主義などの考え方とは当然、逆の立場になるわけです。
神話・天皇制とは切り離せない
荻上 今も解釈をめぐってはさまざまな意見がありますよね。リスナーからも、こんなメールが来ています。
「教育勅語の内容に大きく問題があるとは思えません。天皇云々の部分以外の内容なら、今の教育現場で使って欲しいくらいです。」
ネット上でも「教育勅語の12の徳目」というものが話題となっていて、「意外といいこと言っているじゃないか」という声も少なくないようですが、これについてはいかがお感じですか。
辻田 まず重要なのは、これは天皇からのメッセージなので、天皇について書かれている部分を除いて議論することは不可能です。また、12の徳目という区切り方、数え方が正しいのかも考えなくてはいけません。これさえも一つの解釈に過ぎないんです。
さらに、教育勅語が作られる過程の草稿を見てみると、例えば「地元を大切にしよう」という主旨の文言が完成版では落ちていることがわかります。なぜなら、中央集権の邪魔になるからでしょう。そういった、明治国家のために作られた、その時代に拘束された文章なのだと理解しておかなければいけません。だからこそ、教育勅語は戦後間もなく廃止されたのです。明らかに教育勅語は戦後の日本国憲法や教育基本法と噛み合っていなかったからです。
荻上 つづいて、こんなメールも来ています。
「『天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』の部分の意味がよくわかりません。ここは戦前・戦中はどのような意味として教えられたのですか。」
辻田 先ほどの文部省の訳では、「かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚の御栄をたすけ奉れ」となっています。これは「天壌無窮の神勅」という日本書記に出てくる神話が元ネタになっているんです。天皇の祖先と言われている天照大神(アマテラスオオミカミ)が、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に対して、「天の国(高天原)から地上に降りて日本を永遠に支配すべし」というメッセージを送るというお話です。
このメッセージが天壌無窮の神勅と呼ばれます。瓊瓊杵尊のひ孫が神武天皇になるわけですから、天壌無窮の神勅は近代の天皇にもつながっていると解釈される。そしてこれが天皇統治の根拠になっているのです。
現在、出回っている教育勅語の現代語訳をみてみると、「国のために尽くせ」など、いかにも現代風に解釈したものも多く、塚本幼稚園のホームページにもそのような形で載っているのですが、全く間違った解釈です。教育勅語とは、天皇とは決して切り離せない文章なのだと強調しておきます。
荻上 塚本幼稚園のホームページに掲載されているのは、国民道徳協会による現代語訳というもので、明治神宮のホームページなどでも使われています。この訳が一人歩きしているように感じますが、なぜこれほど広まっているのでしょうか。
辻田 この現代語訳は、佐々木盛雄という元自民党議員が作ったものです。彼は、「教育勅語の精神を失ったから日本は道徳的にダメになった」という主張のもとに、70年代ごろに教育勅語を復活させるために訳を作りました。ただ、当時はまだ戦争の記憶がある人もたくさんいましたから、国民が受け入れやすいように特に天皇に関わる内容をうまくごまかして作ったんだと思います。
この現代語訳が、戦後の教育勅語復活論の時に必ず使われてきたのです。明治神宮に至っては、教育勅語を出した明治天皇を祀っているところなのに、なぜか天皇に触れる部分を削った訳を使っているのは不思議ですが、いつの間にかこれが定訳のようになってしまったんですね。
荻上 稲田防衛大臣も国会の答弁で、「親孝行、友達を大切にする、夫婦は仲良くする、そして高い倫理観で高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指す」ということが教育勅語の教えであり、それを大事にすべきだと言っていましたが、「世界中から尊敬される」とか「道義国家」といった内容は、もともと教育勅語には含まれていないんですよね。
辻田 全くないですね。そもそも冒頭で述べた通り、教育勅語が作られたころの日本は自分たちが食べていくことで精一杯だったので、そんな抽象的なことを言っているような余裕はなかったんです。
荻上 稲田大臣が依拠しているのも、戦後に作られた「国民道徳協会訳」だと思われます。都合の良い訳を継ぎ合わせつつ、それでも教育勅語にこだわって見せるというのは、「保守主義」というよりは「保守趣味」と表現するのが妥当に思われます。
辻田 まさにそうで、中身を精査するのではなく、記号に反応しているということだと思います。日の丸、君が代、修身、軍歌、全部そうです。そういったものを並べておけば、なんとなく「保守っぽい」というような安直な考え方なのかなと感じます。
また、今回、幼稚園で教育勅語を暗記させていたということでしたが、そんなことは戦中にも行われていませんでした。教育勅語を教えるのは基本的に小学校からだったんです。また、塚本幼稚園では天皇の写真を専用の場所に保管するでもなく、置いたままにしているそうですが、こういった当時でいう「不敬」が許されるのは、結局は戦後民主主義のおかげなんです。それなのに、戦後民主主義を批判するという矛盾した振る舞いをしている。結局は、戦前の二次創作のようなものなんだと思いました。
荻上 「良いことも言っている」というだけなら、「みんな仲良く」と普通に言えばいいので、教育勅語である必要はありません。現代語訳の流布の在り方、そして戦前、教育勅語は「天皇のために命を捧げろ」という文脈で唱えられていたことを理解したうえで、議論する必要がありますね。辻田さん、ありがとうございました。
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