徐福とは?
このページでは、日本に多くの伝説を残す「徐福(じょふく)」についてまとめています。
概要
徐福(じょふく)とは、古代中国の秦朝の時代(紀元前3世紀頃)に始皇帝に仕えた方士です。
中国の歴史書である『史記』の「淮南衝山列伝」によると、徐福は秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と申し出て、後に始皇帝の命令により、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。
また、同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」では、徐福は始皇帝に不老不死の薬を献上すると持ちかけて援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ実際には出港しておらず、後に改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという内容となっており、「嘯いて始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれています。
ちなみに、秦の始皇帝は中国初の中華統一を成し遂げた王であり、万里の長城や兵馬俑(秦始皇帝陵)の建設で知られています。最近では「キングダム」というマンガで知られており、それに登場する嬴政(エイセイ)がその人です。
なお、東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことであり、蓬莱山については日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されています。
徐福は中国大陸から朝鮮を経由して日本に辿りついたとされているようです。そのため、中国や朝鮮および、青森から鹿児島に至るまでの日本全国のその伝説を残し、一部の地域では地名にその名が残るほど有名です。
徐福の子孫
中国の仏書『義楚六帖』によると、徐福は富士山を蓬莱山と捉えて そこに永住し、「秦氏(はたうじ)」を名乗ったとされています。「秦氏」とは、日本の渡来系氏族として有名な一族ですが、その起源となる説は複数あります。
『日本書紀』では第15代応神天皇の時代に百済より百二十県の人を率いて帰化した「弓月君(ゆづきのきみ)」が秦氏の祖であると記されています。
なお、弓月君は秦の始皇帝の後裔と称しているため、徐福とは異なる血統であるとされますが、徐福は「嬴姓徐氏」ともされ、始皇帝と同じ「嬴」の姓を持つことから同族ではないかという説もあります。
ちなみに『史記』における徐福は、日本に渡って国に戻らず、そのまま王となったとありますが、中国の隋代の歴史書である『隋書』には「秦王国」と呼ばれる国が倭国(日本)に存在し、「そこに住む人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明である」ということが記されているそうです。
秦氏についてはこちらの記事を参照:【秦氏とは?】
徐福伝説
徐福の伝説は、青森県から鹿児島県に至るまで日本各地に残されています。
「新宮市立歴史民俗資料館」の資料によれば、日本の徐福伝説として以下のように説明されています。
日本の徐福伝承
徐福が日本に渡来したと説かれるようになるのは、平安時代になってからである。『義楚六帖』では蓬莱山を富士山と考え、徐福はここで永住し秦氏を名乗ったという。
『今昔物語集』『日本刀歌』『神皇正統記』にも仙薬を日本に求めたことが記されている。今でも日本各地に徐福伝承がある。渡来人の来朝や神仙の三神山信仰と我が国の山岳・海上信仰などが重なり、様々な地域伝承文化が育まれている。 また、熊野の徐福伝説は、以下のように説明されています。
熊野の徐福伝承
熊野に徐福伝承が成立するのは、平安時代後半から鎌倉時代である。熊野権現の縁起書の中に「蓬莱嶋」や「徐福廟」など記されている。
中世には無学祖元の詩や、五山僧・中津絶海と明の太祖との徐福祠をめぐるやりとりの詩も有名である。
近世になると徐福の墓や宮なども初見される。地誌や紀行などにも多彩な伝承が記され、求めた仙薬の考証まで行われている。 熊野では この様に説明されていますが、徐福伝説は語られる国や地域によって様々であり、伝説が必ずしも一致するわけではないようです。
なお、徐福ゆかりの地として、下記の場所が有名であるとされています。
国内で徐福伝説のある場所
・山梨県富士吉田市
・三重県熊野市波田須町
・和歌山県新宮市
・京都府北部の丹後半島
・東京都八丈島
・佐賀県佐賀市
・宮崎県延岡市
・鹿児島県いちき串木野市
徐福と宮下文書
山梨県の富士吉田市の宮下家には、神代文字で記された古文書群が伝えられており、現在は『富士文献』または『宮下文書』と呼ばれる古史古伝として知られています。
なお、『富士文献』には「記紀神話」に見られる内容とは異なる歴史や説話などが記載されているとされ、学会に属さない古代史研究家から重要視されている文献となっています。
その『富士文献』は、後世に伝えるために徐福によって漢字に書き直されたという言い伝えがあるんだそうです。
こちらの記事も参照:【古史古伝とは?】
徐福と田道間守
『日本書紀』の第11代垂仁天皇の条には、徐福伝説に類似する「田道間守(たじまもり)の伝説」が記されています。
田道間守の伝説
田道間守は垂仁天皇の命により、不老不死の霊薬である「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めに常世国に派遣された。しかし、垂仁天皇は田道間守が帰る前に崩御する。
翌年、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。 シチュエーションが徐福と非常に似ています。また、『丹後国風土記』によれば、「蓬莱」と書いて「とこよのくに」と読むとされ、それに沿うならば目的地も一致します。しかし、時代や行動が大きく異なりますね。
なお、田道間守自体、新羅(朝鮮半島)からやってきた渡来人のアメノヒボコの子孫とされており、渡来人という点で徐福と一致します。
こちらの記事も参照:【田道間守(タジマモリ)の伝説】
その他の異説
・徐福がイスラエルの失われた10支族の一つであるヨセフ(ジョセフ)ではないかという説が存在する
・飛鳥昭雄氏は、徐福伝説と神武東征を結び付けて、徐福を神武天皇と同一とする説を唱えている(動画はこちら)
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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