2024年2月28日水曜日

梅原猛 黄泉の王



万葉集:
  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも  (3-267)

意味:猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
(梅原猛説では)弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。



7:




弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-c539.html



弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ)

『続日本紀』は、弓削皇子の死を文武3(699)年7月21日とする。
そして、同じ年、弓削皇子の親しい友人だったと考えられる春日王が直前の6月27日に、母の大江皇女が12月3日に亡くなっている(08年8月26日の項)。
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、弓削皇子が「思ふ」紀皇女も、だいたいこの頃死んだらしい、としている(p142)。
そして、「この三つ、あるいは四つの死の同時性は、はたして必然であろうか、偶然であろうか」と疑問を投げかける。



梅原氏は、弓削皇子に関連する次の万葉歌から、弓削皇子は殺された可能性がきわめて大である、とする。


  長皇子、皇弟に与ふる御歌一首
丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛きわが背いで通ひ来ね  (2-130)
  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)
  弓削皇子に献る歌一首(人麿)

御食向ふ南淵山の巌には落りしはだれか消え残りたる  (9-1709)


11:





紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ): 夢幻と湧源
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梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。
詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。
そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。
その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。


  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも  (3-267)

猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。
弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。






地下の朝賀…梅原猛説: 夢幻と湧源
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地下の朝賀…梅原猛説

「高松塚の壁画とその年代」(『高松塚論批判』創元社(7411)所収)において、有坂道隆氏により「スリラー小説以上の迷論」と評された梅原猛氏の推論を見てみよう。
黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、梅原氏は、次のように論を展開している(p48)。

この華麗なる壁画にかこまれた、狭く暗い世界。そこで今しも、朝賀の儀式が行われようとしている。東西。男と女の八人ずつの官人や官女が、この世界の王者をかこみ、四方には四神の旗がたてられ、それがはたはたと風になびき、天には日月が輝き、日月は多くの星とともに、この地下の世界の天子の徳を讃えている。
たしかに見かけは、その通りである。しかしこの世界は、地下深く閉じ込められた世界であり、この死霊は、けっしてよみがえってこない死霊なのである。頭蓋骨のない死霊が、どうして蘇ることができよう。
この死霊は、三種の神器らしいものをもっている。地上においては、草壁皇子から持統天皇をへて文武天皇に伝わり、また二人の女帝の手をへて聖武天皇に伝わった剣や鏡や玉にはなはだよく似た三種の神器をこの死者はもっている。しかし、やはり、古墳製作者は死霊の力にある程度の恐怖をもっているのである。死霊が、あれほど、強く再生を否定されても、もしかして復活するかもしれない。とすれば、剣が危いのである。もし死霊がスサノオノミコトのように剣をもって乱暴したらどうなるのか。私は、先に、草薙剣は、『古事記』の神話製作者の意識においては、正倉院にあり高松塚にあったように、金銀をちりばめた唐伝来の剣であったかもしれないといった。ここに葬られているのは、スサノオの如き、強力な皇族、その強力な皇族の霊が復活して、猛威をふるったらどうなるのか。私はスサノオノミコトが、アマテラスに草薙剣を献上した話を思いだす。死霊が生身の刀身のついた刀をもっていてはまずいのである。

そして、死の世界にはなんらかの欠如のしるしが必要なのだ、として、何面に朱雀がなかったことも、最初からなかったのではないか、とする。
北面の玄武の頭が欠落し、東面の太陽、西面の月も欠落しているのであり、南面にのみ欠落が存在しない方が、むしろおかしいと考えるべきではないのか。
天井の星宿の図にも、中心にあたる北斗七星が欠落している。
北斗七星は、天皇の位を象徴するものであるが、この地下の世界には、天皇そのものが欠落している、ということになる。

都(藤原京)の南の檜隈という新開地の一角に、自然の山を利用した小さな古墳がつくられる。広さは王以上であるが、高さは四位なみで、石槨は、五位から八位までの規定よりもさらに小さい。
死霊をおしこめておくためには、なるべく狭い方がいい。
内部に漆喰を塗る。
その漆喰は、壁画制作用であるばかりか、死体の密封用の役割をしている。

この墓には、木棺を入れた墓道のようなものがあったようであるが、一旦棺を入れたら、道は厳重に閉じられたらしい。
墓道状の溝の南端に、縦・横ともに60センチ、高さ36センチほどの切石があった。
この切石は、イザナギノミコトがイザナミノミコトの追跡を防ぐために、黄泉比良坂においた千引の石の如き役割をなしているのではないか。
版築で固めたのも、死者を厳重に閉じ込めるためではなかったか。

梅原氏は、さらに次のように書く。

私は、大宝元年よりそんなに遠い前でも後でもないある一日、この高松塚で行われた不気味な儀式に思いをはせるのである。暗い狭い古墳の中で、今しも朝賀の儀式が行われようとしている。四周には四神、日月の旗がたなびき、今ここで、この黄泉の国で即位した王者は、まさに朝賀の儀式を行おうとしている。日、月、四神、星宿、それに杖や刀をもつ官人たち、なにひとつ朝賀の儀式に必要なもので欠けているものはない。しかし、大切な、肝心かなめのものが欠けている。この王者の頭が、ここにはない。そればかりか、この王者のふり上げようとする刀には刀身はなく、また日月も、半ばいじょう欠け、玄武もまた顔を欠いているではないか。それはまことに不思議な朝賀の儀式である

律令制の権力者は、なぜこのような無気味な儀式を行わせたのか?
それは、彼が反逆者であったからである、というのが梅原氏の論理である。
オクニヌシノミコトは、国家への反逆者であった。そして、死を命じられ、遠い出雲に手厚く葬られる。
反逆者であるにもかかわらず手厚く葬られるのではなく、反逆者であるが故に手厚く祀られる。

高松塚も同様である。
オクニヌシノミコトを祀った出雲大社が、天皇家の祖先神を祀った伊勢神宮よりはるかに壮大であるように、高松塚も、天皇陵よりもはるかに華麗な古墳なのである。
王者のしるしとして、三種の神器を与え、死霊を永遠に地下に閉じ込めた。
隠された十字架―法隆寺論 』新潮文庫(8602)において、法隆寺の聖霊会を、怨霊を鎮魂してそれが蘇らないためのものだとしたのと同様の梅原氏の論理である。


反逆の皇子…梅原猛説(ⅱ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-5c53.html



反逆の皇子…梅原猛説(ⅱ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、次のように言う(p101)。


古墳の被葬者を問題にすることは、この被葬者の孤高さを、古墳の孤高さとの対比において理解することでなければならぬ。この古墳のもっている特殊性を、その背後にある歴史の流れとの関連において理解することにならなければならぬ。

つまり、古墳の被葬者を必要かつ十分に理解するためには、不適格者を消すだけでは十分条件が欠けている、ということである。
歴史家が、被葬者に対する推論を避けるのは、必要かつ十分な推論を行うことが困難であるからであるとし、その困難にトライしてみよう、というのが梅原氏のスタンスである。
歴史家ならぬ哲学者が、認識の冒険を避けるわけにはいかない、ということであろう。

梅原氏は、被葬者を推理するための条件を3つ挙げる。
1.身分
壁画に四神が描かれていることからして、被葬者は天皇もしくは近い存在であると思われる。
つまり、天皇、皇太子、親王というきわめて身分の高い人間に絞られ、それに準ずる高位の人間の可能性は、なくはないだろうが、うすい。
日月・星宿も、帝位との関係を示すものと考えられ、人物像が朝賀の儀式を描いたものとすれば、被葬者が皇族である可能性はさらに高くなる。
副葬品の、鏡・刀・玉も、三種の神器との関係を考えれば、天皇にかなり縁の深い存在であると考えられる。

2.被葬者の死亡年代(≒古墳の築造年代)
梅原氏は、考古学者・歴史学者の意見を総合して、以下のように推論する。
古墳は、発生期、中期、後期、終末期に分けられるが、高松塚は、終末期後期古墳の中でも、後半に属するものとされる。
大化改新後、『日本書紀』の記すところによれば、宮は、難波→飛鳥→近江→飛鳥と遷っている。
飛鳥に宮が定着したのは、天武天皇のときであり、高松塚の築造も天武以後となる。
出土品の海獣葡萄鏡の制作年代は7世紀後半とされる。被葬者の手に入り、生前の使用を考えると、7世紀後半から8世紀初頭の時期と考えることができる。
さらに、梅原氏は、以下の視点を付け加える。
①律令制との関係を考えると、大宝律令のできた大宝元(701)年以後か、以前としたらあまり遡らない時期となる。
②遺骨は火葬骨ではないから、皇室で火葬を採用する以前ということになる。天皇で最初に火葬されたのは、大宝3(703)年以前と考えるのが自然である。
③「聖なるライン」を認めるか否かは別として、藤原京と密接に関係していることは否定できない。奈良遷都後に、古都の南に古墳を作ることは考えにくい。

上記のように推論の条件を整理し、梅原氏は、被葬者を以下のように論理を展開する。
天皇あるいは皇族との関係を示すものと考えられ、梅原氏は、高松塚に葬られているのは、古事記神話におけるオオクニヌシノミコトを同じように、国家の反逆者であろう、と考える。
オオクニヌシノミコトは、反逆者であるにもかかわらず手厚く葬られたのではなく、反逆者であるが故に手厚く祀られた。
壮大な御殿で慰められ、末永く出雲の地にとどまり、地上の国とは別の国で安らかな生を送ることを命じられた。

高松塚の世界も、驚くほど華麗である。
それは天皇陵よりもはるかに華麗である。つまり、律令制の権力者は、被葬者に次のように命じたのではないか。
ここ(高松塚)はすばらしい美の世界であり、この世界においてあなたは王者だ。そのしるしとして三種の神器をあげましょう。
そして、万一のことを考えて、頭蓋骨をとり、刀身をぬき、日月と玄武の顔に傷をつけた。
と考えれば、被葬者は「反逆の皇子」ということになる。


弓削皇子…梅原猛説(ⅲ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-8611.html



弓削皇子…梅原猛説(ⅲ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、高松塚の被葬者を、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子に限定した(p103~)。
この間に死んだ親王は、以下の通りである(08年9月10日の項)。
文武3(699)年
 弓削皇子
慶雲2(705)年
 刑部(忍壁)皇子

三位以上の臣を加えると、以下の通りである。
文武5(701)年
 大伴御行
大宝元(701)年
 多治比嶋
大宝3(703)年
 阿倍御主人
慶雲2(705)年
 紀麻呂

上記6人の中で、持統天皇が火葬にされた後(大宝3年以降)の刑部(忍壁)皇子、阿倍御主人、紀麻呂は火葬の可能性が高いと考えられる。
したがって、持統火葬以前という条件を加えると、親王では弓削皇子だけが残り、三位以上まで広げても、大伴御行と多治比嶋だけである。
この3人の中に反逆者がいるかといえば、『続日本紀』の範囲では反逆者はいない。

時間軸の幅を広げて、高市皇子(796年没)、川島皇子(691年没)、刑部(忍壁)皇子(705年没)を加えても、「反逆の皇子」は見あたらない。
高市皇子は、大津皇子を排除した後、持統帝にとって気がかりな存在であったとしても、高市皇子は卑母の子であり、皇位を望むことはなかったと思われる。
川島皇子も、『懐風藻』によれば友だちの大津皇子を売ったとされており、それは身の保全を図ることを優先したものとすれば、反逆者とは考えがたい。
刑部(忍壁)皇子も、卑母の出身であるにもかかわらず、持統朝以後順調な出世を遂げ、知太政官事になっている。
反逆を図るはずがない。

とすれば、時代的にみて、可能性のもっとも高いのは弓削皇子ということになる。
弓削皇子について、『続日本紀』は以下のように書く。


(文武三年七月廿一日)
浄広弐弓削皇子薨ず。浄広肆大石王、直広参路真人大人等を遣わして喪事を監護せしむ。皇子は天武天皇の第六の皇子なり。

『続日本紀』は、弓削皇子について、反逆の事実を記していない。
しかし、梅原氏は、『万葉集』に収載された弓削皇子関連の歌から、孤高で悲劇的な生涯を看取するという。
そして、その孤高で悲劇的な生涯は、高松塚古墳の孤高さと相通じるとする。
梅原氏が感じ取った弓削皇子の孤高で悲劇的な生涯とはどのようなことか?



弓削皇子と額田王の相聞歌…梅原猛説(ⅳ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-0ae9.html



弓削皇子と額田王の相聞歌…梅原猛説(ⅳ)

弓削皇子天武天皇の第六の皇子とあるが、六番目に生まれた皇子ということではない。
梅原猛氏は、天武天皇の皇子皇女を次のようにクラス分けしている。
Aクラス
持統帝の生んだ子女。
草壁皇子1人。

Bクラス
持統帝の姉妹の生んだ子女。
大来皇女、大津皇子、長皇子、弓削皇子、舎人皇子。
皇子4人、皇女1人。には

Cクラス
豪族の生んだ子女。
新田部皇子、穂積皇子、但馬皇女、紀皇女、田形皇女。
皇子2人、皇女3人。

Dクラス
それ以下の氏族の生んだ子女。
十市皇女、高市皇子、忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女。
皇子3人、皇女3人。

以上が『日本書紀』の天武即位時の記載における順序である。
上記では、弓削皇子は第四の皇子に位置づけられるはずであるが、『続日本紀』では数え方が異なり、上記のBクラスとCクラスが同じクラスとされ、年齢順となる。
つまり、②大津、③舎人、④長、⑤穂積、⑥弓削、⑦新田部となって、弓削は、第六の皇子ということになる。
Dクラスは、別扱いで、⑧高市、⑨忍壁、⑩磯城の順である。
この『日本書紀』と『続日本紀』における皇子の扱いの差異を、梅原氏は、皇族と貴族の身分差の縮小を意味するものと解釈している。

弓削皇子が、正史においては目だたない扱いであるのに比し、『万葉集』では存在感を示している(08年8月28日の項)。
弓削皇子と額田王の間の歌の応答について、李寧熙『天武と持統』文藝春秋(9010)に示された解釈については、既に触れた(08年8月22日の項23日の項)が、李氏の解釈では、持統の頻回の吉野行幸を批判する意味ということになる。

額田王は、弓削皇子の父の天武天皇の妃だったが天智天皇の妃となったとされている。
天武天皇との間の子供である十市皇女は、天智天皇の子供の大友皇子の正妃となっている。
入り組んだ婚姻関係であるが、壬申の乱においては、父と戦う立場に立たされたことになる。
父に情報を流して、天武優位に貢献したともされるが、実際のところは不明と言わざるを得ない。
壬申の乱の後、父の天武の許に帰ったが、近江朝の実質的な皇后であって、同時に天武天皇の皇女でもあるというのは、かなり複雑な立場だったことが想像される。
天武7(678)年に急死しているが、まだ30歳前後だったと推測され、その死因についても謎めいたものがある。

十市皇女と大友皇子との間の子供が葛野王であり、持統10年の軽皇子立太子の御前会議での、弓削皇子と葛野王とのやりとりになる(08年8月18日の項)。
つまり、葛野王からすれば、額田王は祖母ということになる。
弓削皇子は額田王に、次の歌を贈っている。

弓削皇子の歌


吉野の宮に幸(イデマ)しし時、弓削皇子、額田王に贈与(オク)る歌一首
古尓恋流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴渡遊久 (2-111)
<訓>
古に恋ふる鳥かもゆづるはの 御井の上より鳴き渡り行く
<大意>
古を慕う鳥だろうか ゆずり葉の 御井の上から 鳴いて飛んでゆく

「古に恋ふる鳥」は、ほととぎすのことと解されている。「弓絃葉:ゆずり葉」は、新葉が出ると古葉が位置を譲る常緑樹である。
弓削皇子は、この歌に何を託したのか?
李氏の解釈の是非は分からないが、梅原氏の次のような解釈は自然である。
つまり、吉野において、弓削皇子は、天武の生きていた昔のことを考えており、心に憂愁を抱えていて、その憂愁をぶつける相手として、かつて父の妃であった額田王を選んだ。
額田王は、華やかな過去を持つが、それは既にはるか遠くの出来事であり、若き弓削皇子が、己の心を打ち明ける相手として相応しいだろう、と。

額田王の応えた歌は以下の通りである。


額田王、和へ奉る歌一首 大和の都より奉り入る
古尓恋良武鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾念流其騰 (2-112)
<訓>
古に恋ふらむ鳥はほととぎす けだしや鳴きし我が恋ふるごと
<大意>
古を慕うという鳥はほととぎすです おそらく鳴いたでしょう わたしが慕っているように

梅原氏は、二つのほととぎすが鳴き合っていると説明している。
つまり、弓削皇子が吉野で聞いたほととぎす、あるいは彼の心の中のほととぎすの鳴き声が、額田王の心に鳴り響いているほととぎすと共鳴しているということである。
そして、ほととぎすは不吉な鳥であり、ゆずり葉も無常を示す植物であるとする。
ほととぎすの鳴き声を自己の心に聞く者は詩人であるが、詩人であることは幸福なことより、不幸なことであるにちがいない、というのが梅原氏の解釈である。



弓削皇子と紀皇女…梅原猛説(ⅴ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-825d.html



弓削皇子と紀皇女…梅原猛説(ⅴ)

弓削皇子は、『万葉集』に、次の歌を遺している。


  弓削皇子、紀皇女を思(シノ)ふ御歌四首
吉野川逝く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも  (2-119)
吾妹児に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを  (2-120)
夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅鹿の浦に玉藻刈りてな  (2-121)
大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の児ゆえに  (2-122)

紀皇女は、天武天皇の皇女の1人で、先の梅原氏のランク分けではCクラスに位置している。
つまり、弓削皇子にとっては、異母兄妹の1人ということになる。
弓削皇子のこの歌は、弓削皇子と額田王の相聞歌の後、穂積皇子と但馬皇女の相聞歌、舎人皇子と舎人娘子の相聞歌を挟んで置かれている。


  但馬皇女、高市皇子の宮に在(イマ)す時に、穂積皇子を思ふ御作歌一首
秋の田の穂向の寄れること寄りに君に寄りなな事痛(コチタ)かりとも  (2-114)
  穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌一首
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(シ)かむ道の阿廻(クマミ)に標結へわが背  (2-115)
  但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、竊かに穂積皇子に接(ア)ひて、事すでに形(アラ)はれて作りましし御歌一首
人言を繁み言痛(コチタ)み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る  (2-116)

穂積皇子は、天武天皇の第五の皇子ということになる。
「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時」というのは、どういう状況か?
高市皇子は、序列的には第八の皇子であるが、天武の皇子の中では最も年長である。また、壬申の乱の時に大いに活躍したと記されている。
持統天皇は、卑母の生まれであるが故に、皇位継承資格を欠く高市皇子を、皇位についた持統4(690)年の7月に太政大臣に任命する。

高市皇子は太政大臣になったことにより、天武の皇子の中でも最も権力を有することになった。
高市皇子は皇位についていたのではないか、とする砂川恵信氏の説(08年2月7日の項)や、関裕二氏の説(08年2月8日の項)もある。
長屋王邸後から出土した木簡に、長屋親王と書かれていたものがあったことは、高市即位説の有力な傍証ともいえる。

即位していたか否かは別としても、天武の皇子の中で、最も強い権力を持ったのが高市皇子であった。
その「宮に在す」というのは、一緒に住んでいるということである。
穂積皇子は、その但馬皇女と男女の関係になってしまったわけである。
穂積皇子が、「近江の志賀の山寺に遣わされた」のは、一種の追放であったと考えられが、但馬皇女はそれを追って行ったということだろう。

舎人皇子と舎人娘子の相聞歌は割愛するが、同じ名前である者同士の相聞を、梅原猛氏は、禁じられた関係の間の恋なのであろうか、としている。
つまり、この辺りに配置されている歌は、単なる相聞というよりも、禁断の恋というニュアンスのもののようである。
弓削皇子が、「紀皇女を思ふ」というのも、紀皇女の立場によっては、リスクの高いものになる。
確かに、上掲の弓削皇子の歌には不安な心理が映し出されているように感じられる。



持統10年の衆議粉紜…梅原猛説(ⅵ): 夢幻と湧
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持統10年の衆議粉紜…梅原猛説(ⅵ)

弓削皇子は、高市皇子が死んだ後、持統天皇が、次の皇太子を決めるために召集した御前会議での発言で知られる(08年8月18日の項)。
持統の意中は、草壁皇子の遺児、つまり自分の孫の軽皇子であった。
しかし、参会者は「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった、といのが『懐風藻』の記事である。

その時の皇嗣候補者はどのようであったか?
天武の皇子のクラス分け(08年9月24日の項)の中で、Aクラスの草壁皇子は既に亡くなっている。
草壁皇子の子の軽皇子はまだ14歳だったから、梅原氏は、A’とする。
Bクラスの大津は既に処刑されたが、舎人、長、弓削とCクラスの新田部、穂積は健在である。
Dクラスは高市皇子が亡くなり、忍壁、磯城が残っている。

皇嗣候補者として考えた場合、Dクラスは卑母の生まれということで、候補から外されていたと考えられる。
Cクラスの穂積皇子は、但馬皇女とのスキャンダルで失脚したと考えられ、新田部皇子はまだ若い。
とすると、Bクラスの舎人、長、弓削とA’の軽が有力候補ということになる。
梅原氏は、舎人は、舎人娘子との相聞歌などから、スキャンダルでハンディキャップがあり、軽の対抗馬としては、長、弓削に絞られていたのではないか、と推測する。
軽か長かで、議論が紛糾したのではないか。

大友皇子の遺児の葛野王が、「神代より以来、子孫相承て、天位を襲げり。若し兄弟相及ぼさば則ち乱此より興らむ」と軽皇子を強く推す発言をした。
葛野王は、あらかじめ持統から時機を見て発言するように言われていた可能性もある。

『懐風藻』では、「弓削皇子座に在り、言ふこと有らまく欲りす。王子叱び、乃ち止みぬ」とある。
長、弓削は天智天皇の皇女の大江皇女を母とする同母兄弟である。
弓削皇子が、「言ふこと有らまく欲りす」とあるのは、兄の長皇子を推そうとしたのではないかと思われる。
しかし、葛野王の一喝により、発言を取り止めてしまう。

結果的に、持統の意の通りに軽皇子が皇嗣として選ばれ、後に文武天皇として即位することになる。
持統はおそらく藤原不比等と連繋して、自分の子孫にのみ皇位を継承するように計ったものと思われる。
記紀神話は、アマテラスの孫が降臨するというストーリーであり、持統の孫の軽が即位するのに合わせたのではないか。

梅原氏は、天皇という称号も、軽皇子の即位を容易にするためのものではなかったか、とする。
つまり、大王(オオキミ)の概念には、堂々たる成人の男性ということが前提とされていたのではないか。
大王に替わる天皇の称号は、大王に付帯していた堂々たる壮年男子のイメージを払拭しようとするものではなかったか。
にもかかわらず、やはり衆議粉紜したのは、軽皇子がまだ14歳だったということが影響してたのであろう。

持統は、天武崩御の直後、愛息・草壁皇子が即位するのに障害になりそうな大津皇子を、電光石火ともいうべき早業で排除した。
持統の意に逆らった弓削皇子が、非運の道を辿るのは避けがたいことではなかったか。
弓削皇子が吉野で詠んだ次の歌には、無常感が漂っていることについては既に触れた通りである(08年8月26日の項)。


  弓削皇子、吉野に遊しし時の御歌一首
瀧の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに  (3-242)




弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ): 夢幻と湧源
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弓削皇子の刑死…梅原猛説(ⅶ)

『続日本紀』は、弓削皇子の死を文武3(699)年7月21日とする。
そして、同じ年、弓削皇子の親しい友人だったと考えられる春日王が直前の6月27日に、母の大江皇女が12月3日に亡くなっている(08年8月26日の項)。
梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)において、弓削皇子が「思ふ」紀皇女も、だいたいこの頃死んだらしい、としている(p142)。
そして、「この三つ、あるいは四つの死の同時性は、はたして必然であろうか、偶然であろうか」と疑問を投げかける。

弓削皇子への挽歌は、置始東人が詠んでいる。


  弓削皇子薨りましし時置始東人の作る歌一首並に短歌
やすみしし わご王 高光る 日の皇子 ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神と座せば 其をしも あやにかしこみ 昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも  (2-204)
  反歌一首
王は神にし座せば天雲の五百重が下に隠り給ひぬ  (2-205)
  また短歌一首
ささなみの志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける  (2-206)

梅原氏は、この歌の位置と内容に注目すべきだとする。
位置に注目するとはどういうことか?
『万葉集』は、全20巻からなり、巻1~巻16(第1部)と巻17~巻20(第2部)に大別される(櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版(四版:0407))(08年6月6日の項)。
第1部はおおむね時代順に配置されているが、中核をなすのは巻1と巻2であるというのが大方の見方であろう。

置始東人の挽歌は、巻2に載っているが、挽歌は有間皇子からはじまっている。
有間は孝徳天皇の子供である。斉明天皇の土木工事に対すして人々が反発し、「狂心の溝渠だ。作るはしから自然に壊れる」と誹謗したりする空気の中で、658(斉明4)年謀反を計画する。
しかし、事前に発覚して、中大兄の命令で処刑されてしまった(08年3月12日の項)。
有間皇子の謀反にも後の大津皇子と同じように、謀略の匂いが漂う。
言い換えれば、権力に殺されたということである。

そういう人間に対する挽歌をトップバッターに置くということは、(原)『万葉集』の編者の編集意図に、権力に対する告発があったのではないか。
そして、巻2の挽歌群は、前半と後半に大別され、前半は皇族の死に関連するもの、後半は人麿と人麿をめぐる人々に関連するものである。
弓削皇子への挽歌は、前半の終わり、後半の初めに位置しており、前半の皇族の死と後半の人麿の死を結びつける位置に置かれている。

梅原氏は、梅原猛氏は、『水底の歌―柿本人麿論』新潮文庫(8302)において、人麿刑死説を展開したが、弓削皇子も、有間皇子・大津皇子・人麿などと同じように、政治的反逆者として刑死したのではないか、と疑う。
弓削皇子の死に直接触れた資料はない。
梅原氏は、弓削皇子に関連する次の万葉歌から、弓削皇子は殺された可能性がきわめて大である、とする。


  長皇子、皇弟に与ふる御歌一首
丹生の河瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛きわが背いで通ひ来ね  (2-130)
  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも  (3-267)
  弓削皇子に献る歌一首(人麿)

御食向ふ南淵山の巌には落りしはだれか消え残りたる  (9-1709)

文武朝における皇后冊立権の転換…梅原猛説(ⅷ): 夢幻と湧源
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文武朝における皇后冊立権の転換…梅原猛説(ⅷ)

文武天皇をめぐる謎の一つに妻の問題がある。皇后の不在と妃・夫人の謎である。
皇后の不在については、澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社(9410)では次のように疑問が呈されている(08年8月19日の項)。

文武即位は、文武元(697)年8月1日であり、崩御は慶雲4(707)年6月15日であるから、在位期間はほぼ10年である。
この間に、皇后を立てなかったのはなぜか?
天皇家にとって、血統はもっとも重要なテーマであるにもかかわらず、そして文武即位は持統の宿願であったにもかかわらず、皇后を立てなかったのは大きな謎である。

また、妃・夫人については、以下のような記述がある。


八月二十日 藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)を、文武天皇の夫人とし、紀朝臣竈門の娘・石川朝臣刀子娘を妃とし
た。

天皇の妻には、(皇)后、妃、夫人、嬪があり、この順に格付けられている。
文武の場合、皇后不在なので、妃が最上位ということになる。
ところが、この2人の妃については、和銅6(713)年に次のようにある。


十一月五日 石川(石川朝臣刀字娘)・紀(紀朝臣竈門娘)の二嬪の呼称を下して、嬪と称することが出来ないことにした。

石川・紀の二嬪とあるのは、最初の妃が間違いであったのか、妃であったものが嬪に格下げされたものか、よく分からないが、いずれにしろ、石川・紀の2人の女性は、嬪と称することも禁じられたということになる。
それは、夫人である宮子の地位を確かなものにするためのものだったと考えるのが自然だろう。
首尾良く宮子は、大宝元(701)年に首皇子を生み、藤原不比等の期待に応えた。

宮子は、皇太子の母であるにもかかわらず、終生夫人のままだった。
皇后は、皇族でなければならないとされていたから、宮子は皇后になれなかったと考えられる。
宮子が首皇子を出産した同じ年、藤原不比等のもう1人の妻の橘三千代が女子を出産した。光明子であり、後に聖武天皇(首皇子)と結婚して、藤原氏の力業で立后する。
藤原氏は、ようやく自家の皇后を得たことになる。

梅原猛氏は、、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、文武天皇の前後の天皇の皇后とその父と、天皇との血縁関係を整理した表を作成している(p214)。
この表を見ると、文武朝が劇的な転換期であったことが窺える。
つまり、文武以前は、皇后の位は、皇族であることが絶対の条件だった。
文武天皇は、皇后不在だったわけであるが、次の(女帝を除く)聖武天皇以降は、皇后を出す権利が皇族から奪われてしまったということになる。

基本的には、藤原氏が皇后を冊立する権利を手にしたことになり、天皇制は、藤原氏を中心に展開することになったわけである。
見方を変えれば、象徴天皇制というものは、この時既にはじまっていたということであろう。

ところで、この劇的な転換がスムーズに行われたと考えるのは不自然であろう。
例えば、聖武天皇が即位してすぐ、宮子を大夫人と称する旨の勅が出されたが、長屋王の反対によって勅が取り消されるという事件が起きた(08年6月13日の項)。


つまり、宮子を皇太后なみに扱い、光明子を皇太子妃にしようとする藤原氏の策謀が、皇族を代表する立場の長屋王に反対されたということで、転換をめぐるトラブルの一端と見ることができる。




紀皇女は文武帝の后か?…梅原猛説(ⅸ): 夢幻と湧源
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紀皇女は文武帝の后か?…梅原猛説(ⅸ)

文武天皇の婚姻関係は以下のようであった。
①皇后は不在
②藤原不比等の娘・宮子が夫人
③石川・紀の両娘が、最初は妃として位置づけられながら、後に嬪と称することも禁じられた

③については、石川・紀の両娘は、最初から嬪で妃とされたのは誤った記述という考え方もできるが、妃から嬪へ格下げされ、さらに嬪と称することもできなくなった、とも考えられる。
梅原猛氏は、後者であろうと推測し、私もそういう感じがする。

宮子は、後に聖武天皇となる首皇子を産みながら、夫人のままだったのは、それまで、皇后の地位が皇族出身者に限られていたからである。
いくら不比等の娘とはいえ、当時の状況では、皇后の座に位置することはできなかったのだろう。
また、先の表に見るように、文武朝は、皇后冊立権の転換期であった。
つまり、文武天皇(軽皇子)までは、皇后候補は、皇族から選ばれるはずであったが、次の聖武天皇の場合には、反対はあったものの、最終的に不比等の娘の光明子が立后した。

文武天皇は、草壁直系の、持統天皇の待望久しい天皇であった。
その文武にまったく皇后を迎えようという動きはなかったのであろうか?
もし、皇族の中から皇后となる可能性のある女性が、文武天皇に嫁いだら、天皇家の外戚となることを戦略としていた藤原不比等にとって、大きな障害になったに違いない。

しかし、后となるべき可能性のある人は誰もいなかったということであろうか?
それまでのように、近親の皇族の中から后候補者を選ぶとすれば、当時の状況からすれば、天智、天武の系統の皇女の中から選ばれていたと思われる。

文武帝(軽皇子)が草壁の本当の子供であったかどうかは疑問の残るところではあるが(08年2月6日の項)、草壁皇子の子供には、後に元正天皇となる氷高皇女と長屋王妃となる吉備内親王がいる。
この2人皇女の娘、すなわち軽皇子の姪は、年齢的に若すぎて、軽皇子の妃となる可能性はないだろう。

草壁皇子の妃の阿閉皇女(後の元明天皇)は、天智天皇の皇女で持統の異母妹であり、草壁にとっては叔母にあたる。
軽皇子の場合、叔母の可能性はどうであろうか?
草壁にとっての阿閉皇女の立場は、軽皇子にとっては、天武の皇女ということになる。
天武の皇子・皇女のランク分けについては先に見た通りである(08年9月24日の項)。

Aクラス、つまり持統帝の生んだ皇女はいない。
Bクラス、つまり持統帝の姉妹の生んだ皇女には、大津皇子の姉の大来皇女がいるが、年齢的にも対象外である。
Cクラス、つまり豪族の生んだ皇女には、但馬皇女、紀皇女、田形皇女がいる。
Dクラス、つまり豪族以下の氏族の生んだ皇女には、泊瀬部皇女、託基皇女がいる。

但馬皇女は、「高市の宮に在り」穂積皇子との恋愛関係が想定される皇女であるから、除外されよう。
田形皇女は、『続日本紀』に、神亀元(724)年に没とあり、廃后された様子はない。
泊瀬部皇女は、『万葉集』の柿本人麿の歌の註に、「河島皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女の献る歌そといへり」いう記述があり、河島皇子の室という説が有力である。
託基皇女は、やはり『万葉集』の春日王の歌の註に、「志貴皇子の子、母は多紀皇女といふぞ」とあり、志貴皇子の妻と考えられる。

つまり、消去法でいくと、天武の皇女の中で、軽皇子の妃となり得る可能性のあるのは、紀皇女だけということになる。


果たして、紀皇女は、軽皇子(文武帝)の妃あるいは妃の候補者として考えられるであろうか?




紀皇女の死をめぐって…梅原猛説(ⅹ): 夢幻と湧源
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紀皇女の死をめぐって…梅原猛説(ⅹ)

紀皇女は、『日本書紀』において、天武天皇の皇子、皇女を列記した箇所以外には、正史に登場しない。
梅原氏は、それは意識的に語られないのであり、そのことに意味があるとする。
梅原氏自身、「紀皇女が文武帝の后、あるいは后の候補者である」というのは、いささかうますぎる説であるからさらに吟味が必要だとして、次のように推論する(p220~)。

①文武帝は、天皇家の古い習慣に従って、皇室出自の后を迎えかどうか?
YESの可能性がきわめて高い

②それは、天智、天武の娘であるかどうか?
YESの可能性がきわめて高い

③天智、天武の娘の経歴を詳しく調べてみると、紀皇女以外の可能性があるか?
NOと言わざるを得ない

紀皇女は、正史に死亡の記載がないが、正史に死亡の記載のない皇女は、変死の可能性を疑ってよい、とする。
紀皇女はどのような女性だったのか?
正史には記載がないが、『万葉集』に、次の歌が載っている。


  紀皇女の御歌一首
軽の池の汭廻(ウラミ)行き廻(ミ)る鴨すらに玉藻のうへに獨り宿(ネ)なくに  (3-390)

 

おのれゆゑ罵(ノ)らえてをれば驄(アヲ)馬の面高夫駄に乗りて来べしや  (12-3098)
  右の一首は、平群文屋朝臣益人傳へ云はく、昔聞きしくは、紀皇女竊(ヒソカ)に高安王に嫁ぎて、責めえらし時に、この歌を作り給ひき。但、高安王は、左降して伊予国の守に任(マ)けらえきといへり。

梅原氏は、この紀皇女が『万葉集』に遺した歌は、「どう見ても、姦通者の歌である」という。
そして、その姦通の相手(の1人)が弓削皇子だった。
弓削皇子の「紀皇女を思ふ歌四首」には不安な心理が色濃い(08年9月25日の項)。
もし、紀皇女が文武帝の妃であったならば、弓削皇子が不安な心理あるいは恐れを抱くのは当然である。

紀皇女はどうなったか?
『万葉集』に、次の歌がある。


  同じき石田王の卒りし時、山前王の哀傷みて作れる歌一首
つのさはふ 磐余の道を 朝離らず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月には 菖蒲ぐさ 花たちばなを 玉に貫(ヌ)き(一云、貫き交へ) かづらにせむと 九月(ナガツキ)の 時雨の時は もみぢ葉を 折りかざさむと 延(ハ)ふくずの いや遠永(トホ)く(一云、くずの根のいや遠長に) 萬世に 絶えじと思ひて(一云、大船の思ひたのみて) 通ひけむ 君をば 明日ゆ(一云、君を明日ゆは) 外にかも見む  (3-423)
  右の一首は、或は云はく、柿本朝臣人麻呂の作なりといへり。
  或本の反歌二首
隠口(コモリク)の泊瀬(ハツセ)をとめが手にまける玉は乱れてありといはずやも  (3-424)
河風の寒き長谷(ハツセ)を歎きつつ君が歩くに似る人もあへや  (3-425)
  右の二首は、或は云はく、紀皇女薨りましし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりといへり。

「或本の反歌二首」は、山前王が石田王の死を哀傷みて作れる歌の反歌の別バージョンであるが、それが紀皇女の薨りましし時の歌なのだ、という註が付いているわけである。
この歌は、女性の死を歌ったものであり、「玉は乱れて」とあるのは不吉なイメージである、と梅原氏はいう。

『万葉集』が同一巻の同一種類の歌を、時間順に配列することが多い。この歌は、持統8(694)年に死んだ河内王の挽歌(3-417~419)の後、和銅4(711)年にに河辺宮人が姫島の松原に美人の屍を見て作った歌(3-434~437)の間に位置しており、さらに、この歌の後に柿本人麿の挽歌があって、人麿が都にいたのが大宝元(701)年頃までと考えられることから、紀皇女の死は、文武朝の初期(697~700)までと考えられ、文武3(699)年の弓削皇子の死の時期と重なってくる。



紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ): 夢幻と湧源
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紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?…梅原猛説(ⅹⅰ)

梅原猛氏は、『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)で、『万葉集』は、大宝元(701)年前後の風潮を、累々たる屍のイメージで表現しようとした、とする(p227~)。
その累々たる屍のイメージは、律令と共にあった、と梅原氏は言う。
律令の思想とは、人間は所詮悪であるから、法を厳しくすることが国家を治める道であるとする法家の思想である。

梅原氏は、律令によって葬られた死の中心部に、弓削皇子と紀皇女がいた、とする。
弓削皇子と紀皇女を一挙に葬ることは、藤原不比等にとって有利なプランである。
紀皇女が文武帝の后であり、弓削皇子と通じていたとしたら?
不比等は、持統上皇に提案したのではないか?

弓削皇子は、軽皇子の立太子に反対したのみならず、帝の后を寝取ったとんでもない男だ。
紀皇女も、関係のあるのは弓削皇子だけではない、ともいう。
このところ、後宮は乱れている。
柿本人麿は、多くの采女を泣かせているとも聞く。
人麿を追放すべきである。彼と関係した采女たちにも死を命じるべきだ。
弓削皇子、紀皇女も、張本人だから、死を免れません。

持統上皇は、不比等の提案に反対できなかっただろう。
持統は、弓削皇子を許していなかっただろう。
不比等は、むしろ紀皇女を排除することが主眼だったのではないか?
文武帝の后の紀皇女を排除すれば、夫人である娘の宮子の位置が上昇する。
石川、紀の2人の妃は、不比等の恋人になっていた橘三千代が何とかしてくれるだろう。

不比等と三千代の間に、光明子が生まれたのは大宝元(701)年のことだから、不比等と三千代が結びついたのは、ちょうど弓削皇子の死の頃(文武3(699)年)と推測される。
梅原氏は、この弓削皇子、紀皇女排除の陰謀を通じて、不比等と三千代は強く一体化したのではないか、とする。
人は、善を共有するよりも、悪を共有する方が、結びつきは強まる。

もちろん、弓削皇子の死は、不比等にとっても好ましいことだった。
不比等の権力は、草壁の系統との関係において増大する。
草壁の系統とは、持統-元明-文武という女性と子供からなる系統である。
他の男性の皇子に皇位が移ったら、不比等の地位は、たちまち危うくなるだろう。
皇位を狙う可能性のある皇子を排除することは、不比等の願うことでもあった。
そして、弓削皇子が処刑されたことが、非公然にでも知られることになれば、持統-不比等ラインに反抗する者の末路を示すデモンストレーション効果もあるだろう。
見せしめのためにも、弓削皇子の死は好都合であった。

梅原氏は、弓削皇子は、天武の皇子として、大津皇子と並ぶ優れた人物だったのではないか、とする。
詩才においても、風貌においても、大津皇子に匹敵する人物だった。
そして、大津皇子と同じように、大胆ではあるが、用心深さに欠けるという欠点を持っていた。
その欠点のために、不比等のワナにかかってしまったのではないか。


  志貴皇子の御歌一首
むささびは木末(コヌレ)求むとあしひきの山の猟夫(サツヲ)にあひにけるかも  (3-267)

猟師を逃れて木の末に逃げようとしたむささびであったが、そこで猟師につかまってしまった。
弓削皇子のこととは書いてないが、梅原氏は、この「むささび」は、弓削皇子のことをいっているのではないか、としている(p147)。
弓削皇子がむささびならば、猟師は不比等ということになるのだろう。



高松塚の被葬者は弓削皇子か?…梅原猛説(ⅹⅱ): 夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-c693.html



高松塚の被葬者は弓削皇子か?…梅原猛説(ⅹⅱ)

梅原猛氏の『黄泉の王―私見・高松塚』新潮社(7306)の論旨を要約しよう。
①高松塚の被葬者は、文武元(697)年から、和銅3(710)までに死んだ反逆の皇子である。
a.高松塚を特徴づける最大の要素である壁画は、朝賀の様子を描いたものであり、被葬者は、天皇もしくは天皇に準ずる地位の皇族である。
b.『続日本紀』の大宝元年の記述との適合性等からして、塚の築造時期は、大宝元年の前後のさほど離れていない時点である。
c.しかし、副葬品における欠損や壁画の損傷などをみると、地下の朝賀は、地上の朝賀と明らかに異なっている。
それは、地下の朝賀の主人公が体制への反逆者であることを示している。
d.反逆者の霊を鎮めるために、高松塚は華麗に荘厳された。それは、出雲におけるオクニヌシノミコトと同様である。

②正史には、反逆の皇子を明示的に示した記述はない。しかし、『万葉集』等を参照すると、該当する人物として、弓削皇子が浮かび上がってくる。
a.弓削皇子は、軽皇子立太子を論議する御前会議において、持統天皇の意に逆らう発言をしようとした。
b.弓削皇子と額田王の応答には、弓削皇子の過去を追憶する憂愁の心が込められている。
c.「紀皇女を思ふ御歌四首」からして、弓削皇子は、紀皇女に恋していたと思われる。
d.紀皇女は、文武帝の妃(后)であった可能性が高い。
e.弓削皇子の「紀皇女を思ふ御歌四首」には、濃密な恐れの雰囲気があり、それは、紀皇女の身分の高さを窺わせる。
f.紀皇女は、『万葉集』に遺された歌から推測すると、奔放な女性で、姦通者であることを窺わせる。
g.『万葉集』からすれば、紀皇女と弓削皇子は、禁断の恋愛関係にあったと考えられる。
h.大宝元年は、大宝律令の施行された年であり、法による統治への潮流が強まった時である。
i.法秩序を乱した紀皇女と弓削皇子は体制から排除される運命にあった。
j.律令という法秩序の体現者であった藤原不比等にとって、弓削皇子と紀皇女を排除することは大いにメリットのあることであった。
k.『万葉集』の志貴皇子の歌などからしても、不比等体制に狙い撃ちされた皇子の像が浮かび上がってくる。

上記のような論理展開の下に、梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子に比定した。
梅原氏は、上掲書の末尾において、権力者の立場にたって、弓削皇子の葬儀の様子を描いている。
①弓削皇子の葬儀は、刑罰として行われた。
a.弓削皇子は、后と通じる罪を犯した。それは、律の規定の八虐の第一謀反罪にあたる。
謀反罪とは、君主をないがしろにする罪であり、后と通じることは君主をないがしろにしたことに他ならない。
b.謀反罪は、死刑に相当する。
死刑には斬首と絞首の二種類がある。斬首の方が、首と胴が別々になって再生の可能性が全く失われることから、絞首よりも重い。
謀反罪は、斬首に相当するが、皇族及び三位以上、あるいは大勲功のあるものなどは、死刑の代わりに自殺を賜ることになっていた。
弓削皇子の場合も自殺が許されたのであろうが、葬る場合には、斬首者として、屍から首が除かれたのではないか。
c.弓削皇子の葬儀に関しては、権力に反抗した者の行く末についての、見せしめの効果が重要であった。首なき皇子の屍は、律令体制の威力を示す意味が大きかった。

②弓削皇子の葬儀には、鎮魂として行われた。
a.当時の日本には、怨霊への恐怖が強かった。
無実の罪で殺された高貴な人の怨霊は、生者に復讐する。
b.法隆寺は聖徳太子の鎮魂の寺であったが、『薬師寺縁起』には、大津皇子の死霊を鎮魂するために、馬来田池を埋めて、薬師寺の金堂を建てたと伝える。
c.弓削皇子は、大津皇子と同じように殺された。弓削皇子の怨霊がタタルことを避けることが必要である。
特に、文武帝は体が弱かったと思われる節があり、弓削皇子の霊を丁重に鎮魂することが必要だった。
d.華麗な高松塚の壁画と副葬品は、被葬者(弓削皇子)の死霊に、あたかも帝位にあると思わせるように設定されたものと解釈できる。

梅原氏は次のように書く(p234)。


弓削皇子よ、あなたはあこがれの帝位についたのだ。見よ、帝位のしるしの四神の旗はひるがえり、日月、星宿、すべてにあなたの帝位をことほいでいるではないか。そしてあなたをかこむ朝賀の群臣たち、それ、あの衣蓋のもとなるひげの濃い人はあなたの兄さん長皇子、そして、あそこに杖をもったほほのふっくらした美人はあなたの恋人、紀皇女ではありませんか。そしてあそこにはあなたの詩人柿本人麿が、あなたの従者置始東人がいるではありませんか。

梅原氏は、高松塚の被葬者を、弓削皇子とする仮説を立てた。
消去法で、可能性の少ない皇子を除いていくと、弓削皇子だけが残った。しかし、積極的に弓削皇子であることを示すエビデンスがなかった。
弓削皇子を高松塚の被葬者と考えたら、高松塚と当時の歴史的状況がどのように理解されるか?
梅原氏は、仮説的代入法というが、それにより今まで明らかでなかったことが理解できると同時に、考古学の成果とも矛盾せず、歴史家の考証とも一致した。
高松塚被葬者を、弓削皇子とする仮説の生産性は高い。

梅原氏のトーンは高いが、それでもなお、梅原氏自身、高松塚の被葬者を弓削皇子と断定することはできない、とする(p245)。
梅原氏は、結論よりも論証の過程が大切なのだ、とする。
高松塚の被葬者問題は、思考技術が試される好例の一つであろう。


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