蘇我氏は須佐之男の末裔と認識すべき事実
神皇記に残る「蘇我政吏の娘、世襲足媛」という情報は私にとってショックな情報でした、それは邪馬台国の女王卑弥呼の比定者である「世襲足媛」が蘇我氏の血縁者だとする情報はことのほか重要な意味を帯びるからです。
世襲足媛が卑弥呼とする証明は長くなるので、下記リンクを参照して貰う事として、本題に進みます。
神皇記を中心に調べると、コモリ(五十猛)が「祖家」を称し始めたのが最初のようです、コレを象形文字から意味をとると、「神殿の中でイノシシの肉を神に捧げる家」という意味にとれ、祭祀を司る家としての「名乗り」のように思えます。
その末裔から「卑弥呼」が出ているとすれば、これほど意味の通り安い系譜は無いでしょう、しかしwikipediaに載る系図の情報は10代200年分ほどが抜けているようです、又、神皇記の情報からでも8代160年ほどの欠落があるようですので、系図としては不完全なものになります。
しかしそれを補って余りあるのが、系図の上位にある「屋主忍男武雄心命」とは竹内文書にて伝えられる「高祖皇大神宮」の神主、「武雄心親王」と同一人物と考えられる事です、その祭祀はユダヤ教寄りではなく、「多神教の社会(ギリシャ、ローマ、ゲルマン、北欧、ケルト、スラブ)では、神々を讃えるために豚を生け贄に捧げた。」の記述も見えるため日本の中では異質な祭祀を続けていた可能性があるようです。(私は宗教的祭祀には詳しく無いので、詳しい方の意見も聞いてみたいです。)
武雄心親王がイスキリスに宗教を説き、イスキリスはそれを海外説きましたが、ユダヤ教徒によって処刑されそうになりましたが、双子の弟が身代わりになった為、生き残る事が出来、日本へと帰って来た話が「イスキリスの遺言」になります、遺言にはイスキリスは4世紀初頭に亡くなった様子が書かれています、だから武雄心親王から学んだのは3世紀後半と考えられ、屋主忍男武雄心命は285年頃の人物と逆算出来る事から、イスキリスの遺言との一致を見せています。
蘇我氏の信仰はヨーロッパ寄りの内容であった可能性は、「祖家」という名乗りから推測できましたが、世襲足媛の祭祀がそのまま一緒だったかどうかは別の事になるとは思います、また世襲足媛の父親とする蘇我政吏命は尾張氏系図の情報からすると「天忍男命」の事になります、須佐之男(手名槌)→五十猛(コモリ・天香具山)→天香語山(高倉下)→天村雲命→天忍男命(蘇我政吏命)→世襲足媛となり、「祖家」の系譜である事も確認できます。
蘇我氏を武内宿禰の子孫だと認識したのでは超古代史の謎は解けないでしょう、逆に須佐之男の末裔だからこそ左大臣の要職にあった家だと考える方が寧ろしっくりくると思います。
大伴氏との関係も蘇我から別れたような感じがあるので、注目する必要があると思います、もう一点、ニギハヤヒの息子になる「ウマシマチ」の諱として「中臣蘇我春建命」という名前にも注目して欲しいと思います。
イスキリスの遺言:https://ono-no-tatsumi.amebaownd.com/posts/55537351
世襲足媛:https://ono-no-tatsumi.amebaownd.com/posts/52326496?categoryIds=9287761
龍海
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