「會稽東冶之東」 後漢書の「会稽」の位置
三國志
魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十
計其道里,當在會稽東治之東
後漢書
卷八十五·東夷列伝第七十五
其地大較在會稽東冶之東,與硃崖、儋耳相近,故其法俗多同
魏書は「東治」と言い 後漢書は「東冶」と言う
はて?
梁書
卷五十四 列傳第四十八 諸夷
去帶方萬二千餘里,大抵在會稽之東
隋書
卷八十一 列傳第四十六 東夷
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東
梁書も隋書も 単に「會稽之東」と言っている 「東治」も「東冶」も出てこない
会稽の東とだけ書いてある
漢書
卷二十八上 地理志 第八
會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六
吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。
冶縣,秦置。公元前221年,秦朝在統一六國以後,派軍隊嚮福建進軍。
第二年,在閩越人活動的區域設置暸/瞭閩中郡並/併冶縣(又稱東冶,在今福州市)。
冶縣為閩中郡治所。
西漢時,無諸以佐漢滅楚功被封為閩越王,統治閩中,定都于冶(又稱東冶,在今福州市)。
漢昭帝始元二年(前85年),漢滅閩越,冶縣歸漢屬會稽郡。
この 閩中郡治所である「冶県」は「東冶県」とも称され 今の福県省福州市である
漢昭帝始元二年(前85年) 漢は閩越を滅ぼし「冶縣」は會稽郡に繰り入れられた
この時点では 会稽郡の中に 「冶県」別称「東冶県」はあった
後漢書 《志》第二十二
郡國四 青州 荊州 揚州
會稽郡秦置。本治吳,立郡吳,迺移山陰。雒暘陽東三千八百里。十四城,戶十二萬三韆九十,口四十八萬一千一百九十六。
〖山陰〗會稽山在南,上有禹冢。有浙江。〖鄮〗〖烏傷〗〖諸暨〗〖馀暨〗〖太末〗
〖上虞〗〖剡〗〖馀姚〗〖句章〗〖鄞〗〖章安〗故治,閩越地,光武更名。〖永寧〗永和三年以章安縣東甌鄉為縣。〖東部〗侯國。
後漢になり 「冶県」つまり「東冶県」は「章安県」になる つまり県名が変わり「冶県」の別称「東冶県」は無くなった
會稽郡(會,拼音:kuài,讀做快),中國古代郡名,位于長江下遊江南一帶。秦朝置,郡治在吳縣(今江蘇蘇州城區),轄春秋時長江以南的吳國、越國故地。西漢初曾先後為楚王韓信、荊王劉賈、吳王劉濞的領地。七國之亂後復置,又名吳郡。
西漢末年,會稽郡轄境大致相當于今江蘇南部、上海西部、浙江大部以及福建地區,是當時轄境最為廣闊的一郡,隸屬于監察區揚州刺史部。
東漢中期,分會稽郡浙江以北諸縣置吳郡。會稽郡治所移至山陰縣(在今浙江紹興城區),領十五縣。
三國吳時分會稽郡置臨海郡(今浙江東南部)、建安郡(今福建)、東陽郡(今浙江衢州、金華一帶)。
西晉至南朝末年,會稽郡僅轄今紹興、寧波一帶。
隋文帝滅陳,廢會稽郡,置吳州。隋煬帝改吳州為越州,後又改為會稽郡。
唐初置越州,唐玄宗改越州為會稽郡,唐肅宗時復為越州,會稽郡遂不復存在,之後作為越州、紹興的別稱。
魏・呉・蜀 三国鼎立時代 呉は会稽郡を分けて 臨海郡 建安郡 東陽郡を置いた
この頃には会稽郡治は 今の浙江省紹興市にあった
陳寿は蜀漢と西普に仕えた官吏であったし 范 曄は東晋南北朝時代の南朝宋の政治家だ
ようするに 後漢書が書かれた時代に「東冶県」など無く 会稽郡治は今の紹興市であった
故越王勾践の都城で 「會稽山之陰故名山陰。東漢遷郡治于此」とあるように「会稽郡山陰県」で郡治である紹興市
陳寿の時代の「会稽」は紹興市で 倭はその東
古えの会稽郡城は「呉県」だから 今の江蘇省蘇州市
いずれにせよ 会稽に「東冶県」など無い
おおよそ緯度が北緯30度から北緯31度30分の範囲が「会稽」だ
史記の卷七 項羽本纪 第七 項羽本記
項籍者,下相人也,字羽。初起時,年二十四。其季父項梁,梁父即楚將項燕,為秦將王翦所戮者也。項氏世世為楚將,封於項,故姓項氏。
項籍少時,學書不成,去,學劍,又不成。項梁怒之。籍曰:「書足以記名姓而已。劍一人敵,不足學,學萬人敵!」於是項梁乃教籍兵法,籍大喜,略知其意,又不肯竟學。項梁嘗有櫟陽逮,乃請蘄獄掾曹咎書抵櫟陽獄掾司馬欣,以故事得已。項梁殺人,與籍避仇於吳中。吳中賢士大夫皆出項梁下。每吳中有大繇役及喪,項梁常為主辦,陰以兵法部勒賓客及子弟,以是知其能。秦始皇帝游會稽,渡浙江,梁與籍俱觀。籍曰:「彼可取而代也。」梁掩其口,曰:「毋妄言,族矣!」梁以此奇籍。籍長八尺餘,力能扛鼎,才氣過人,雖吳中子弟皆已憚籍矣。
中国網の記事を見つけた
項羽の故里、下相城の遺跡を江蘇省で発見 china.org.com |
中国の史書『史記・項羽本紀』には、「項羽は、下相の出身である」と記載されているが、項羽のふるさととされる下相城の具体的な位置については、証拠がないため、ずっと謎でした。 江蘇省南京博物院考古研究所や江蘇省宿遷市文物管理事務室などからなる合同考古チームは、このほど、江蘇省の宿遷市でその下相城の遺跡を発見した。 発掘の過程で、数多くの陶器の破片や瓦などが出土しており、それらはいずれも秦や漢の時代のものと認定されている。 今回の活動の責任者でもある南京博物院の専門家林留根氏は、「文献と照合し、このお城の遺跡は下相城であると裏付けられている。今回の発掘では、下相城の具体的な位置が明かにされただけではなく、その面積や、城壁の構造などについても明確な認識ができた」と明らかにした。 「CRI」より 2006年4月11日 |
では 江蘇省 宿遷市とは? 秦の始皇帝が浙江を渡った會稽とは何処だろうか?
「浙江,简称"浙",省会杭州。境内最大的河流钱塘江,因江流曲折,称之江、折江,又称浙江,省以江名。」
と 書いてある
秦の始皇帝が渡った河は銭塘江であり
項羽が始皇帝を見て
自分が始皇帝に取って代わる と 大言壮語をはいた項羽の出身地である下相城は宿遷市にあった
今まで 当然と思っていた福建省福州からは 随分北寄りだ
いろいろ 日本の歴史で 縁の深い 山東半島のすぐ南だ
分ってみれば なるほど その通りだ
北海道の地震 自分の生まれ故郷
親父の転勤で 17歳で東京に来て以来 北海道には戻っていない
現在埼玉住民 もし戻れば北海道に住みたくなる だから 旅行でも帰ったことはない
相当 ひどそうだ でも時間はかかるが また 普通の日常に戻るだろう
北海道 わが家の歴史かぁ
子供の頃 死んだ親父から聞いた話を思い出す
曽祖父は江戸末期 三重県関宿の住民であった
その子達
次男である祖父 兵ノ助は三重県松阪市に端を発した地租改正反対一揆に参画し 明治政府からお咎めを受けた
そして 曽祖父から 200円だったと思うが路銀をもらい富山で薬を仕入れ 札幌に渡った
もう一人の長男は 当時無人の原野だった富良野盆地に集団開拓民として渡った
鉄道もほとんどない時代 北海道は未開の土地で 生命の保証すら無い でもそこへ行くしかなかった と言う
札幌 富良野 函館に 親戚は沢山いるらしいが あれから140年近く経つ
世代も4代目に入り 自分には面識すらない親戚がほとんど
父の家系や 母の家系を辿れば 多分数千人の親戚がいる勘定になる
悲しんだり 悩んだりは事が終わって日常が戻ってからでいい
開拓民の子孫であることを忘れず 頑張ってくれ
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