琉球に土着した外来宗教文化の面影
異色の宗教文化が離島で培われた背景を探る
宮古島に渡来したイスラエルの民
琉球王国では古くから、祭政一致の政策が培われ、島々の各地において宗教行事が盛んに執り行われてきました。その背景には、長い年月をかけてアジア大陸より海を越え、八重山諸島を経由して日本列島を訪れたイスラエルからの渡来者の存在があったと推測されます。西アジア由来のきめ細かな宗教文化の影響がない限り、大陸の文明からかけ離れた太平洋の離島において、季節のカレンダーに基づく宗教観や、複雑な宗教儀式を伴う地域宗教の普及と発展は考えられないからです。その主たる渡来者の流れを作ったのが、イスラエルからの渡来者でした。
アジア大陸から海を渡り、八重山諸島を東方へと向かった渡来者の群れ、まず列島の最東端にある宮古島を休息の地としたのではないでしょうか。そこから先は、次の島が見えないこともあり、とりあえず居住する拠点を設け、次のステージに備える必要があったからです。結果として宮古島に長居することとなり、そこで集落を築き、神を祀ったと推測されます。それ故、宮古島には至る所に祈りの場となる御嶽 (うたき) が定められ、その多くは今日でも確認することができます。
宮古島から日本列島へ向かう船旅は先が見えず、未知の世界でもあることから、信仰の旅路となります。よって昔の人々は神の御加護を祈り求め、ひたすら旅の備えをしたことでしょう。そのために祈りの文化が生まれ、島民は日々、御嶽で祈りを捧げ、航海の安全も含めて祈願したのです。また、新天地に向けて宮古島を旅立つ一行は、旅の危険を考慮して男性のみの集団になったと推測されます。そのため、宮古島には女性が残されることになり、結果として女性による統治リーダーが誕生し、御嶽では男子禁制となる場所も存在するようになり、女性が中心となって社会を取り仕切るようになったのです。こうして宮古島では、八重山諸島の中でも特異、かつ最も厳格な宗教文化が息吹くことになります。
琉球に土着したイスラエルの宗教文化
その後、西アジアから渡来した人々の中には、満を持して宮古島から遠く離れた琉球諸島に船で渡る人々もいました。その増加に伴い、南西諸島の中で最も大きく、かつも住みやすい沖縄が、いつしか一大拠点となっていくのです。気候が温暖であり、農産物など食物も豊かな沖縄は、渡来者にとってうってつけの場所となります。その際、八重山諸島で育まれた大陸の宗教文化も琉球諸島に引き継がれたことでしょう。こうして古代のイスラエルの宗教文化は時を経て、琉球諸島の中心に位置する沖縄に伝播されていくことになります。
外来の宗教文化は新天地において土着しながら、長い年月をかけて古来の宗教観は変化し、、宗教儀式の在り方も変わっていく場合があります。しかしながら神に仕えることを一心に願っていた古代の渡来者は、祖国イスラエルの伝統的な祭りごとや暦に纏わるさまざまな風習を新天地で執り行うことにより、琉球諸島においても一般大衆の宗教心が衰えることのないよう土着させたと考えられます。
琉球では、イスラエルの信仰に結び付く風習が古代からしっかりと根付いていたからこそ、イスラエル民族の誇りである民族宗教の余韻が、琉球諸島にも残されることになります。よって、土着する祀り行事の数々や、古くからの風習の背景に、イスラエルの宗教儀式の痕跡を今日でも見出すことができます。その結果、琉球諸島は日本でも最も信心深い宗教観を反映した地域のひとつに挙げられ、霊媒者、霊能者が多いことでも知られるようになりました。
久高島のイザイホー祭が終焉
中でも、沖縄島の南東、久高島で長年に渡り、12年に1度開催されてきたイザイホーは、その特異性とイスラエルの宗教文化との類似性において際立っています。イザイホーは久高島で生まれた30代の女性が巫女(みこ)となり、祭祀の儀式を通して神女(かみんちゅ)になる祀りです。5日間という長い時間をかけて、掛け声をかけながら円陣を描いて踊ったり、花挿(はなさし)遊びを行ったりしながら、頬に朱印を押されて神女になります。そして東方の彼方にある常世の国として信じられている「ニライカナイ」へ神々を送って、一連の祭事を終えます。
イザイホーは1978年を最後に、祭儀を執り行う女性がいなくなり、実施されていません。このイザイホー祭こそ、ユダヤの三大祭りの1つであり、旧約聖書のレビ記23章にも記されている仮庵祭の流れを汲む宗教儀式だったのです。琉球の最も貴重な古来の宗教文化がひとつ、また消え去っていくことに、歴史の無情と寂しさを感じないではいられません。
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