2025年1月22日水曜日

邪馬台国から大和政権へ (大阪大学新世紀セミナー) | 福永 伸哉, 大阪大学創立70周年記念出版実行委員会 |本 | 通販 | Amazon

  • 2020年6月22日に日本でレビュー済み
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     20年前の2001年出版の本で、邪馬台国畿内説を考古学的見地から説明するような内容になっています。
     少し他と違うなと思ったのは、鏡の説明です。三角縁神獣鏡は中国では出土していないものの、魏鏡の技術の流れの中にあるという説明です。個人的には九州説なのですが、少し納得してしまいました。
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    レポート
  • 空満
    2013年11月20日に日本でレビュー済み
     弥生時代から古墳時代への移り変わりをその画期となる邪馬台国政権をキーポイントにしてアウトラインを示す。100頁にも足りないブックレットであるが、内容は非常に濃い。
     弥生時代の中期の社会は、中小河川流域を単位とする地域ごとにほぼ自足した生活が営まれていた。環濠をもつ拠点集落と周辺集落が地域を形成し日常品は自給しながら、自給できない貴重品は広範囲にわたるネットワークで調達された。
     しかし、後期に入って環濠集落は消滅し、瀬戸内以東の収穫祭で用いた銅鐸は埋納される。著者はこの変化の理由を鉄器の流入によるものと見る。朝鮮半島に素材を求める鉄器の獲得で力を発揮するのは首長間のネットワークである。首長の権力と権威は高まり、首長居館、大型墳墓、首長の権威をシンボライズする祭器である広型銅矛、大型銅鐸が生まれる。首長たちはまとまって広域にわたる勢力が列島に誕生した。北九州、瀬戸内、山陰、近畿・東海の4つの大きな勢力がそれぞれ異なったシンボルのもとに存在したことが推定できる。
     弥生時代の鉄器出土量は九州と山陰が圧倒的に多い。近畿・東海勢力は山陰を通して鉄を入手した可能性が高い。近畿・東海で製造された突線鈕式銅鐸が山陰で出土するのは、両者の友好関係を表わすものと見られるからだ。しかし、2世紀後半の「倭国乱」をへて畿内勢力は九州ルートで鉄を始めとする大陸資源を得られるようになった。
     3世紀初頭から流入したと見られる画文帯神獣鏡が出土するのは畿内を中心とする。それまでの漢式鏡が九州中心であったことから一変する。この分布圏は突線鈕式銅鐸のそれとかさなる。畿内勢力が銅鐸を放棄したこと、銅鏡を新たな権威のシンボルとしてその入手と配布権を握ったことがわかる。
     卑弥呼が共立され邪馬台国を都とする連合政権が誕生したのはこの時期である。邪馬台国政権は半島の公孫氏と交流し画文帯神獣鏡を導入したが、公孫氏が倒れたあと即座に魏に朝貢する。このとき与えられた銅鏡百枚は三角縁神獣鏡であった。三角縁神獣鏡については否定する見解もあるが、著者は、長方形鈕孔、外周突線、特異な銘文などの特徴から特鋳の魏鏡説を主張する。
     邪馬台国政権は倭国王として中国の冊封、神仙思想の影響のもとに銅鏡や古墳祭祀の宗教儀礼の確立、鉄の入手と配布の管理といった政治、宗教、経済にわたる力をえて、初期大和政権としての陣容を整えていくことになる。
     卑弥呼の功績の大きさから考えて、260年までには築造された箸墓古墳がその墓にふさわしく、これをもって古墳時代の始まりとするのが著者の見解である。
     著者の議論は考古学のデータに基づく。弥生時代のひとつのシンボルである銅鐸の放棄と古墳時代開始のシンボルである銅鏡は、断絶と飛躍の文脈で語られることが多かったように思うが、ここでは二つの時代を結ぶ手がかりとして意味づけられる。邪馬台国をめぐる議論に新たな視野を加えて一歩前進させたようで注目した。
     著者は、邪馬台国を弥生時代の終末期に位置づけ、箸墓古墳の築造をもって古墳時代の画期とする。しかし、纒向遺跡に3世紀初頭から続々登場する100m級の大型墳墓はその形態や構造との類似性において箸墓古墳もその流れの中で位置づけられるはずだ。この点で著者の考え方に疑問を抱いた。

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世襲足媛 - Wikipedia

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