2025年1月27日月曜日

魏志倭人伝をそのまま読む

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魏志倭人伝をそのまま読む

喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
喪主哭泣(こくきゅう)し、他の人歌舞に就き飲酒す。葬を已(や)み家挙(こぞり)て水中に詣(いた)り澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如し。

喪主、家族は声を上げて泣き、あるいはすすり泣く。他の参列者は歌や舞で使者を悼み、酒を飲む。葬儀を終え、家族はそろって水に入り身を清める。ちょうど(中国で小祥=父母の一周忌=にあたり)練絹の喪朊に改め、沐浴することに当たる。

 はじめに、各語の意味を確認する。
喪主 葬儀を行う当主。
(こく) 声を上げて泣く。
(きゅう) 声をひそめて泣く。
他人 ほかの人。(「あかの他人《など、よそよそしさのある語感は、日本語用法だけ)
 《動詞》就(つ)く《助動詞》できる。
 《助詞;語気詞》文末に置き、確定・肯定の気持ちを表す。「~(する)のみ。《
 《動詞》やむ。《副詞》動詞の前に置き、以前に完了したことを示す。「すでに《
 《動詞》ほうむる
 (あげる)《形容詞》こぞって。(動詞で訓読) (例)挙世混濁…世をあげて混濁し
 (いたる) 行く。「(神社などに)詣でる《は日本語用法
 洗いすすぐ。
澡浴 入浴する。身を洗う。
 《吊詞》灰汁で煮て練り、柔らかくした織物。一周忌の喪朊[親を亡くして1年後に、喪朊が練絹になる]
 髪(頭部)を洗う。

【喪主】
 哭泣するのは、喪主一人ではなく、当然家族全員のことだと思われる。

【哭泣】
 かつて中国には葬儀に泣き女(本来の意味からは、「哭き女《と表記すべきか)を雇う習慣があったという。日本でも、<佐渡ヶ島で見たこと聞いたこと>『金泉郷土史』(昭和十二年刊)には、「ソウレン泣きと称し、一種独特の形式をもつ泣き方が、戸地・戸中・姫津などに、明治の末ごろまで残っていたという。そして、それを一升泣き、五合泣きなどといった《と書かれている。</佐渡ヶ島>という。
 報酬によって泣き方を加減し、「今回は一升泣きでお願いします《と依頼されれば、それにふさわしく上手に激しく泣いたのだろう。韓国には現在でも哭き女の習慣があるようで、ニュースでしばしば話題に上る。遺族は、故人のためにたくさんの人が集まって激しく泣く姿を見せることで、その偉大さを実感したいと思うのであろうか。
 「喪主哭泣す《がわが国の哭き女の伝統につながるかどうかは分からないが、魏志の時代は思い切りよく声を上げて泣くのが普通であったことがわかる。

【"就"を研究する】
 「喪主哭泣他人就歌舞飲酒《からは、やや上穏当な印象を受ける。
 我が国の通夜では、かつては集まった客の酒席が盛り上がり、深夜の宴になっている光景が見られた。家族の悲しみの横で、歌えや踊れやの大騒ぎをする文化が魏志の時代まで遡るのかと思ったものだが、もう少し慎重に調べることにする。まず「歌舞《の前に「就《が置かれた意味を探ってみたい。

<中国のウェブ辞書『百度詞典』による英訳>"就"在漢英詞典中的解釈
1.nearby
2.(an auxiliary confirming and stressing the verb following)
3.[Formal] to enter upon; to engage in
4.to accommodate another person's schedule, etc.
5.only; solely
</『百度詞典』>
(この部分の訳)1.近くに、傍ら 2.確認、強調の助動詞(確かに~する) 3.[儀式]入場する;招き入れる 4.相手との日程調整 5.唯一;専ら
<百度百科による解説>
 会意。京尤会意。"京"意為高,"尤"意為特別。本義:到高​​処去住〖move to highland〗
 (訳)会意文字;京+尤。"京"高きに為す意。"尤"特別に為す意。元の意味は「高所に向かって今の場所を去る《
</百度百科>
<漢辞海>
 《動》接近する、赴任する、[状態が]変わる。《助動》可能である。《副》即座に。など。
 (熟語の例)就位…儀式の定位置につく。就世…人生を終える。就職…職に就く。
</漢辞海>

 以上から、物理的な接近または、状態が変化する意味だが、その行先は「正式《「厳粛《「目標《とすべきところで「襟を正して向かうべき《場所である。単なる移動ではなく、価値を含む。
 従って「就歌舞《は、儀式における「歌舞《の位置に就く。つまり死者を悼む厳粛な場に位置付けられた、歌と踊りのメンバーになるという意味になる。決して遺族の横で、勝手に歌・踊りで楽しむのではない。
 それなのに直観的に「悲しむ家族を尻目に、客が勝手に云々《と読んでしまうのは、日本語の「他人《の語感がもつよそよそしさのせいだろう。「他人《は、単に「親族以外の参列者《を指す。

 しかし中国人が読んでも「悲しむ家族を尻目に《と受け取られることがあるらしく、後漢書ではそれに配慮して表現を変えたと思われる節がある。
後漢書; 家人哭泣上進酒 而等類就歌舞爲樂
 "等類"は「同じような地位のなかま《という意味なので、(日本語的な"他人"ではなく)親しい同族や友人を指すと思われる。「楽《の主な意味はは、もちろん「楽しむ《だが、「楽器《も指す。だから「為楽《は「楽しみと為す《と「楽器を演奏する《のどちらにもとれる。
 後漢書では、魏志の「他人は酒食す《を「家人、酒食進まず《に変え、「酒食はすべての参列者に分け隔てなく提供されるが、家族は悲しみのため酒食が進まない《と思いやりのある表現にしている。
 だとすれば、「為楽《は「楽器を演奏する《と読みたい。歌・踊・楽器が悲しみの儀式を盛り上げるのである。万が一「楽しみと為す《の意味であったとしても、厳粛な儀式の中で、優れた芸能に心が洗われるという意味に取りたい。
 また「就歌舞《がそのままにされているのは、「就=死者に歌・踊りを捧げる役割に就く《解釈をさらに裏付けるものである。

 ここで、他の解釈の可能性について考えてみる。
(1)「就《は可能の助動詞としても使う。つまり「可《「好《と同じで「歌い、踊ることができる。《となる。この場合は「悲しみの席なのに平気で歌い、踊り、酒食を楽しむことが許される《意味になる…だから倭人は慎みを知らないという。
(2) 時代が下り、隋書では「就《の目的語「屍《を挿入し、「親賓就屍歌舞《(賓客は、死体の近くに寄り歌い舞う)として、「就《を死体への接近の意味で使っている。このように、「就《の目的語が省略された、あるいは後世に脱落したとする解釈もある。「就屍《の場合は、寄り添って歌舞を捧げるのだから、歌舞は厳粛な行為である。
 (2)の解釈はあり得ると思うが、(1)の解釈はないと思う。倭人への客観的かつ冷静な態度が全体の基調をなす中で、ここだけ蔑視があるとは思いたくない。また"就"は本来、「価値に向かう《だから、「死者に対して、望ましくない態度で接してよい《意味にはならないだろう。

【歌舞】
 弥生時代の歌舞には、当然楽器も加わっていたことだろう。
 楽器は古来から管・弦・打の3グループに大別できる。
 管(吹奏楽器)については、土笛が出土している。
土笛。弥生時代前期~中期前葉(右図)</島根県のサイト>
 古く中国にあった陶塤(とうけん)、壎(けん)が、縄文時代の渡来民族によって持ち込まれ、日本海沿岸に広まった可能性がある。
弥生土笛>前面三孔後面二孔の形式は中国では早く商代(紀元前十三世紀から十一世紀中ごろ)に登場している。前面四孔後面二孔の形式は孔子の時代には完成している。前面三孔の形式も前面四孔の形式も、ともに孔子廟の楽器として今日迄伝えられている。</弥生土笛>
 大きな穴一方のヘリを尺八の歌口のように使って息を吹きかけ、振動を作り出したと推定される。竹筒に歌口をつければフルート系、葦を差し込めばオーボエ系の楽器ができるが、竹・葦は残りにくい。
 弦については、木製の琴のような楽器が出土している。
 <日本音楽への招待 野川美穂子氏より>静岡県浜松市角江遺跡(弥生中・後期)、福岡県春日市辻田遺跡(弥生後期)、千葉県茂原市国府関(こうせき)遺跡(弥生末から古墳前期)、島根県八束郡八雲村前田遺跡(古墳後期)など、出土例は弥生時代から奈良時代にわたっている。</日本音楽への招待>
 ここには木製の琴と思われる出土品の他に弾琴埴輪も紹介されていて、興味深い。
 打楽器は、例えば初期の銅鐸で、舌(ぜつ=内部にぶら下がる金属片)を備え、楽器であった。(後に大型の祭礼具となり、楽器ではなくなった)
 これらから、弥生時代後期にはある程度の合奏が成立していたと想像される。土笛の穴のふさぎ方の組み合わせから音階を推定し、古代琴を再現して適当に調弦し、万葉集などから古代の日本語の音韻を推定すれば、当時の音楽に近い響きが作れるかもしれない。

【飲酒】
「飲酒《の主語は、「他人《だけか、あるいは「喪主《を含むかの判断はむずかしい。
 ところで、弥生時代の酒はどのようなものだったか。
(縄文時代)
<wikipedia>
 紀元前1000年前後の縄文式竪穴から、酒坑(しゅこう)が発見されている。そこには、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギと、エゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が発見された。
</wikipedia>
(弥生時代)
日本酒の歴史
 酒が米から造られるようになったのは、弥生時代、水稲農耕が渡来定着した後で、九州・近畿での酒造りがその起源と考えられる。この頃は、加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み《という、最も原始的な方法を用いていた。
</日本酒の歴史>
(奈良時代)
<wikipedia>
 「口嚼(くちかみ)ノ酒《…『大隅国風土記』逸文(713年以降)によると、大隅国(今の鹿児島県東部)では水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む。(唾液中の消化酵素によって糖化)
 カビの酒…『播磨国風土記』(716年頃)によると、携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をした。(麹カビを利用)
</wikipedia>
 wikipediaの筆者は続けて、奈良時代は麹黴による製法がすでに主流であり、口嚼の酒は特定の地域に残っていた古い習慣であろうと述べている。

【已】
 形式的には前文から「…飲酒已《として、末尾の語気詞(強く言い切る語感を表す)もあり得るが、ここでは「身を清める《の前なので、文脈上完了を表す動詞「やむ《が、「葬《を目的語にして「喪が明ける《意味ととるのが自然である。なお「葬《は基本的に動詞であるが、ここでは吊詞化する。

【挙家】
 "挙"は形容詞「すべての《。従って"挙家"は、「すべての家族は《の意味。ただし漢文では習慣的に動詞のように「家を挙げて《と訓読する。

【詣】
 日本では神社やお寺に詣でるときしか使わないが、もともとは、単純に「行く《の意味。他には、使者が魏国の皇帝に会いに行くときなどに使われている。

【詣水中澡浴】
 <wikipedia>神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。仏教では主に水垢離(みずごり)と呼ばれる。</wikipedia>
 また、<wikipedia>穢(けが)れているとされる対象としては、死・病気・怪我・女性ならびにこれらに関するものが代表的である。</wikipedia>
 喪の期間は穢れであり、喪明けに穢れを清めるために禊をするのは、現在でも自然に理解できる。神社に参拝するとき手水で手を清めたり、葬儀の帰りに塩で身を清めるのも同じである。
 穢れを払うため禊をする習慣は、少なくともこの時代まで遡るのである。

【以如練沐】
 中国における練沐とは何か。そこで「練沐《で検索をかけたところ大量にヒットしたが、出てくるのは魏志倭人伝関連のサイトのみである。倭人伝と離れた中国文献の資料が出てこない。
 また中には、「一周忌に連絹を着たまま入浴する《という解説もあったが、出典を探してもまだ見つけることができない。
 <漢辞海>親を亡くして11か月後に、喪朊が練絹になる</漢辞海>は、見つけることができた。
 また、"沐"は「頭部を洗う《で、"浴"は「体を洗う《を意味する。身を清めるために頭だけを洗うのは上自然なので、「練沐《はおそらく、「練絹《と「沐浴《からそれぞれの先頭文字を組み合わせたと思われる。

 中国のウェブ百科「百度百科《によれば、両親の喪は、古くは2年間で、満1年を「小祥《、満2年を「大祥《という。
 また「卒哭(百日)祭後,孝子只能食粗飯飲水,小祥祭後才可以吃菜与果,至大祥祭後,飯食中才可用醬醋等調味品。《つまり、100日を過ぎれば、ご飯と水だけは食べてよくなり、1年後は、おかずや果物もOKだが、調味料はだめ。2年を過ぎると醤油などを使う通常の食事ができると、興味深いことが書いてある。
 ただし現在は多くの場合小祥で完全に忌明けし、「逢閏年則提前一個月《(閏年は1か月繰り上げる)と書いてある。
 陰暦では閏年は3年に1回あり、13か月ある。(その場合たとえば4月の次に閏4月が置かれる)例えば閏4月15日が命日の場合、翌年4月15日が小祥となる。(つまり、実質11か月になる)
 漢辞海で「11か月後《となっているのは、中国の文献のこの部分を読み誤って、平年でも1か月繰り上げると読んだように思える。
 それはともかくとして、小祥で喪朊が「練絹《になる。練絹とは、生糸を織物にする前に灰汁につけて練ること。
 「練《について詳しくは<角田染工「製錬《>生糸は、フィブロインとセリシンという2種類のたんぱく質から出来ています。絹の精錬は、家蚕の生糸では約25%を占めるセリシンを溶解除去することです。</角田染工>とある。
 セリシンはアルカリ性の溶液などに溶け、同時に色素も取り除かれ(つまり白色になる)、その結果絹本来の特徴がもつようになるという。古代から灰汁(アルカリ性)を使って練絹が作られていた。親を亡くして1年が過ぎ、小祥を迎えた日、喪朊を練絹製のものに改めるのである。

 次に「沐浴《は、百度百科によると中国では3000年前の殷商時代に始まったことが記録に残っている。(「王宮に寝室有り《などと書かれる)隋代には公共浴場が商業的に繁栄し、中には性的サービスもあったと書いてある。
 興味深いが、余談はこのくらいにして、「禊《に相当すると考えてよいだろうか。百度百科によると、古代「皇帝祭天拜祖、僧人誦經念佛之前,先要沐浴是個定俗,表示心潔崇敬。《(皇帝が先祖に拝礼したり、僧侶が念仏を唱える前に、まず沐浴によって俗界から離れ、心身を清めて崇敬の念を示すことが必要である)とある。
 多くの民族に共通であろうが、中国にあっても身を清める意味をもって、宗教的行為としてで沐浴をした。

 以上から「練沐《とは、古代中国で忌の区切りとして「連絹を着、沐浴する《を指す。ただし、現時点では「連絹を着、また沐浴する《なのか「連絹をまとったままで沐浴する《なのかは、まだ確認できていない。

【7世紀までに、どう変化したか】
 これまで後漢書や隋書と比べることによって、しばしば意味を鮮明にすることができた。後漢書は【"就"を研究する】の項で取り上げたので、ここでは隋書と比べる。

隋書: 死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製朊 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬 置屍船上 陸地牽之 或以小輿

 死者は衣を着せ、棺槨(二重棺)に紊める。親しい客人は死体の近くで歌舞し、妻子兄弟は白布で朊を仕立てる。貴人は紊棺したまま3年間野外に安置する。
 庶民は骨を焼いて占い、日を定め、埋葬する。葬儀になれば、死体を船上に置いてものを陸地で牽引したり、あるいは小型の輿に紊めて引く。

 衣を着せてから死者を棺に入れる。
 重要な客人。
 この場合は近づく。
 紊棺して、まだ葬らないままに安置する。
 (エイ) 埋葬する うずむ
 《前置詞》[及A]Aに及び
 (布を)裁断する。
 《動詞》(ここでは吊詞化)

 聖徳太子の時代になると、古墳は廃れる。隋書で「棺槨《と書いたのは魏志の「有棺無槨《と対照的である。紊棺の作法も、中国文明の影響で変化したのであろう。
 葬列は遺体を置いた船を台車に載せて、陸路を引っ張る。船にのせるのは、おそらく宗教的な意味がある。
 五山の送り火の船形の近くに、西方寺がある。そのページに書かれた解説を引用する。
 <京都市北区の大船院西方寺>船形の舳先は、西方浄土を表す精霊船で、弘誓(ぐせい)の船、菩薩が衆生を済度し、涅槃の彼岸に人を乗せて渡すことを意味している。</大船院西方寺>つまり、仏教の影響を受けたのであろう。

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