理想はどこへ 第1回参院選の傑物たち/中 羽仁五郎(歴史学者) 獄中体験、反戦に身ささぐ
――日本の政治そのものが誤りを犯さないように
<真理がわれらを自由にする>。東京・永田町の国立国会図書館に足を運ぶと、本館カウンターの上に刻まれた銘文が目に飛び込んでくる。人々が正しい情報を知ることが民主主義には不可欠――そんな意味だという。今、ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、偽情報を拡散することで安全保障体制が脅かされている。この一文を見上げたのは、暗雲垂れこめる時代に光るよりどころのような言葉だと感じたからかもしれない。
国会図書館ができたのは第二次大戦の敗戦から3年後、1948年6月のことだ。赤坂離宮(現在の迎賓館)を仮庁舎に開館し、68年に現庁舎である本館が完成した。くだんの銘文は初代館長を務めた金森徳次郎の筆跡だが、発案したのは歴史学者の羽仁五郎(1901~83年)。第1回参院選に立候補して議員となり、参院の図書館運営委員長を務めた人物だという。
映画監督の羽仁進さん(93)の父として、記憶している人もいるだろう。しかし、私はこれまで羽仁五郎のことを知らなかった。見渡せば、強権的な振る舞いを見せる国が再び台頭し、自由や民主主義が揺らぐ中で迎えた今回の参院選である。であればこそ、彼があの言葉に込めた思いを知りたくなった。
「五郎さんのことかい。うれしいねえ」。電話口から弾んだ声が聞こえてきた。御年89歳のフリージャーナリスト、矢崎泰久さんだ。最近まで入院していたそうだが、話を聞きたいと伝えると、快諾してくれた。矢崎さんは、羽仁に何度もインタビューしたことがある。
羽仁は先の大戦で、反戦の立場から軍国主義への抵抗を続けた。2度にわたって治安維持法違反容疑で逮捕され、終戦の45年8月15日を留置先だった警察署で迎えている。<治安維持法によって国内の人権を蹂躙(じゅうりん)したことが、このあいだの戦争の第一の原因だ。国内で人権を無視しているから、国外の人の人権を無視することになるのだ>。後に自著「自伝的戦後史」の中で、羽仁は当時の日本の統治体制を厳しく批判している。
「五郎さんが一番大事にしようとしていたのは、自由と権利です。そして、その土台となるのが反戦、平和だと。日本にとってじゃない。人類にとっていかに大事かを、あれほど主張した人は他にいないんじゃないですかね」。矢崎さんは開口一番、こう切り出した。
こんなエピソードがある。敗戦直前の7月末、日本に降伏を勧告したポツダム宣言について、特高警察が獄中にいる羽仁に意見を求めたという。「即刻、受諾しなさい。上部にその通り報告してくれ」。羽仁はそう伝えたが、日本の受諾は結局遅れ、その間に米国が広島と長崎に原爆を投下する――。
矢崎さんはこの話を直接、羽仁から聞いた。「日本国家そのものが壊滅的なダメージを受けるから、早く停戦協定を結ぶべきだと。その時に五郎さんが無条件降伏とまで言ったかどうかはよく分かりませんけど、とにかく受諾するようにと。でも、当時の指導者たちは国体護持にこだわっていて、五郎さんの言ったことを全然相手にしなかったわけです」
獄中にいた経験が政治家になる決意に向かわせたのは、間違いない。参院選に立候補した理由について羽仁は後年、矢崎さんのインタビューにこう述べている。<とにかくああいう体験(治安維持法で逮捕されたこと)によって分かったことは、国家が誤りを犯すと、あとで取り返しようがないということなんだ。誤りを繰り返してはならない。そこで参議院へ立候補することにした。日本の政治そのものが誤りを犯さないように>
羽仁には教育者としての顔もあった。妻説子の両親が自由学園(東京)の創設者だった関係で、戦前から戦中にかけての一時期、ここで教壇に立っていた。自由学園は女学校として発足し、小学校や男子部(中・高等科)などが順次整えられていったが、羽仁は女学校や男子部で教えていた。
「『五郎先生』と呼ばれ、生徒たちからも慕われていたようです」。学園の資料室で主任研究員を務める村上民(たみ)さん(54)が教えてくれた。担当したのは歴史や国語。ただし、普通の授業ではなかったようだ。どこで入手したのか、外務省の極秘文書を使い、お上が言うのとは全く異なる「事実」を子供たちに伝えていた。
<……中国軍が始めたと教えられていた、満州事変や盧溝橋事件が全て関東軍や日本軍が始めた戦争だ、という真相に私たちがみな驚きかつ興奮したのは言うまでもない>。当時、自由学園の生徒だった神学者の古屋安雄(2018年に91歳で死去)は、自らの著書の中でこう明かしている。
こうした指導は当然ながら異端だった。授業内容は口外しないよう強く求められたという。それでも、プロパガンダかまびすしい戦時下で、「真理」を重んじていた羽仁の姿がいたくしのばれる。
羽仁は獄中で敗戦を迎えた後も、実はすぐには解放されず、拘束は治安維持法が廃止される直前まで続いた。その間に体調を悪化させた。「死にかけていたようです」と、矢崎さんは語る。それでも復活し、参院議員になった羽仁は、国会図書館の創設に尽力した。そして、その理念を示す冒頭の銘文にこだわった。48年2月4日の参院本会議でこう述べている。
「真理はわれらを自由にする。これがこの国立国会図書館法案の全体を貫いておる根本精神であります。今日の我が国民の悲惨の現状は、従来の政治が真理に基づかず、虚偽に基づいていたからであります」
息子の進さんは父の死後に発表したコラムで、<羽仁五郎を、父にもった幸運を、感謝したい気持ちで一杯である>と思いをつづった。その理由として<気高さ、というものが実際に存在することを教えてくれたのは父であった。(中略)人間にとって、本当の気高さを感じさせる人にめぐりあうというのは、特に現代のような時代では、暁天の星を数えるほどのチャンスもないであろう>と書いている。羽仁の内面をうかがわせる表現だ。
さて、翻って今回の選挙戦である。ウクライナ情勢からも明らかなように、現代においても平和というものが簡単に覆されることを私たちは見せつけられている。自由や民主主義は、労苦や信念なくして実現できないのだ。それはかつて、羽仁が身をもって示したことでもある。
妻の説子は羽仁の死後、近親者に手紙を送っている。そこにはこんな記述がある。<解剖によって、戦争反対の論陣を張ったとき受けた拷問によってできた腫瘍のあとが、証拠となって残っていることが明らかになりました。彼は、最後まで戦争反対の理想を信じ、身を捧(ささ)げたことに悔いはないと思います>
平和のため、政治家は何をすべきなのか。今回の参院選でも問われる点である。【金志尚】
0 件のコメント:
コメントを投稿