2025年1月21日火曜日

石神問答 概略

 



対訳石神問答



石神問答


石神問答(概要) 

シャグジ、サグジまたは、サゴジと称する神あり 武蔵相模伊豆駿河甲斐遠江三河尾張伊勢志摩飛驒信濃の諸国にわたりてその数百の小祠あり シャグジに由ありと見ゆる地名は一層分布広し  本書の目的は主としてこの神の由来を知るにあり シャグジは石神の呉音すなわちシャクジンなりということ現在の通説なるがごとし 石を神に祀れる社ははなはだ多し 延喜式の時代にも諸国に許多の石神社あり 近代においても石を神体とする諸社の外に社殿はなくて天然の霊石を拝祀する者あり  吾人が天然の奇石と目する者の中にも場所形状において多少の人工を加えたる者あるべし また多くの石像石塔あり 道祖神姥神子ノ神等も石神なり 単にイシガミと称する小祠も今日なお多し 石神には対立の者多しシャグジにはこのことなし  シャグジの名称は独立の事由に基くもののごとし 塩尻にはシャグジは三狐神の転訛ならんといえり  この説根拠なし 稲荷宇賀神田ノ神等とシャグジとは併存せり 南留別志にはシャグジは赤口神なるべしと云えり 赤口赤舌は暦の悪日の名にして神の名に非ず 簠簋によれば大歳の門神中最も兇猛なる二神の番日を赤口赤舌といいて嫌忌する習慣ありき  大赤小赤のシャクはむしろシャグジと同源より出ずというべきなり 



『概要』 

(註:末尾の数字は原本の頁数に相当している。これは電子書籍なので該当していない) 

シャグジ、ザグジ、またはサゴジと呼ばれる神がいる……一、六三、七一 武蔵、相模、伊豆、駿河、甲斐、遠江、三河、尾張、伊勢、志摩、飛騨、信濃の諸国に渡って、数百のその小さい祠がある……七、一四、四四、六一、二七三 シャグジに由来していると思われる地名は、更に広く分布している……二、六  この本の目的は、この神の由来を知ることである……五、二四一 シャグジは石神の呉音(註:奈良時代に遣隋使や留学僧が、漢音を学んで持ち帰る以前に、すでに日本に定着していた漢字音。日本古来の読み方)つまりシャクジンの事である、と言うのが現在の通説となっている様である……三、九、二一 石を神として祀っている神社は非常に多い……一七、二三 延喜式(註:平安時代中期に編纂された法令集)の時代にも、全国に多数の石神社がある……二七、一九九、二○五 近代でも石を御神体とする多くの社の他にも、社殿はなくとも天然の霊石を拝祀するものもある……一七、一五○  わたくしが天然の奇石と認めた物の中にも、場所や形状などで多少は人工的に手を加えている物もあるだろう……二○○ また、多くの石像や石塔がある……二八、一四三 道祖神、姥神、子の神なども石神である……三○、六二、六八 単にイシガミと呼ばれる小さな祠も、今日でもなお多い……二八、六二 石神は何かが対になっている物が多く、シャグジにはこの様な事はない……一三一  シャグジの名称は独立の理由に基づいている物の様である……一四 鹽尻(註:塩尻とは随筆の事。天野信景著。1697年頃から1733年まで執筆。現存一七〇巻余。神仏・法律・文芸・自然などについて,和漢の諸書を引証して自説を述べたもの)には、シャグジは三狐神の転訛であろうとある。  この説には根拠がない。 稲荷宇賀神などとシャグジとは併存している……二、二四○ 南留別志(註:江戸中期の随筆。五巻。荻生徂徠著。元文元 年=1736年に刊行。四百あまりの名称の語源を挙げ、転訛を正そうとしたもの。題名は、 各条末に「なるべし」という言葉を使っていることによる)にはシャグジは赤口神であろう、と言っている。 赤口赤舌は暦の良くない日の名前であり、神の名前では無い……二、二三九 簠簋(註:簠簋内伝の事、安倍晴明が編纂したと伝承される占いの専門書)によると、大歳(註:大歳神、陰陽道の神)の門神(註:昔の観音開きの戸の両側に貼る神像、魔除けの意味を持つ)の中で最も荒々しく恐ろしい二神の神の当番日を赤口、赤舌と呼び嫌がる様な習慣があった。  大赤小赤のシャクはむしろシャグジと同源であるというべきである……二四○ 



地方によりてはシャグジをオシヤモジサマともいう  これシャグジを杓子と唱うるがためなり 杓子を報賽とする社あり 杓子を護符とする信仰あり  中古の思想においては杓子は霊物なりき 



地方によっては、シャグジをオシャモジサマとも呼ぶ……九  これはシャグジを杓子と呼んでいるためである……二一、四六 杓子を報賽(註:神仏へのお礼参り。願いを叶えてもらったお礼に、神様の好物や関連のある物や決められた物を奉納する事)とする神社がある……三八、五一、一八一 杓子を護符とする信仰がある……四○  中古(註:平安時代)の思想では、杓子は霊物(註:不思議な力を持つ物)と考えられていた……五三


シャグジは道祖神なりという説あり 道祖神の祠は全国にわたりて現存す サエノカミは塞神または障神の義なり  道祖の祖はもと阻礙の阻なるべし 山中に道祖神祠またはこれに因む地名多し  これを行旅の守護神となすは信仰の一転なり  更に幸ノ神の字を用いるに及び信仰は再転せり 道祖神石を祀りまたは石を報賽とすることは今古を通じて異なることなし 道祖神早くよりサヒともいえり 家の敷居をサイという サイという神名地名も古し  サイはあるいは四方の義にて外国語にては非ざるか 


道祖神の本地仏は地蔵尊なりという  塞神祠と石地蔵は一体の両面なり 地獄変相中のサイノカワラは近き世の思想に出ず  サイノカワラ及びショウヅカは現世の地名にして塞神に出ず 



シャグジは道祖神である、という説がある……六三、一○七 道祖神の祠は全国に渡って現存している……五五 サエノカミは塞神または障神という意味である……二三六  道祖の祖はもとは阻害の阻だった……一○八 山の中には道祖神の祠、またはそれにちなむ地名が多い……五五、一○九  これを旅の守り神とするのは、信仰が変化したからである。さらに幸の神の字を使う様になった時に、信仰は再び一変した……一二一 道祖神を祀り、また石を報賽にする事は今も昔も変わる事がない……二三、一五○ 道祖神は早くからサイとも言われた……一四五 家の敷居の事をサイと言う……一四四 サ井と言う神名、地名も古い。サ井とはあるいは四方という意味で、外国語ではなかろうか……一四七 

道祖神の正体は地蔵尊であると言う……五七、六五  塞神祠と石地蔵は一体の両面である……二三、六六、二○○ 地獄変相(註:地獄絵の事)の中のサイノカワラは近世の思想から出たものである……一○六  サイノカワラ及びショウヅカは現実の地名にあり、塞神に由来している……一○四 


道祖神を縁結の神という  この信仰シャグジにも移れり この神の神体にはけしからぬ物あり また報賽の具としても同様の事実あり 道祖神の神体に歓喜天を斎けるあり 古くは男女二神を奉祀して岐神と称せしこと扶桑略記に見ゆ  クナドはサエと同じく防塞の義なり 門神も双神にしてかつ石神なり 儀軌の堅牢地神は歓喜天に似たり  歓喜天を塞神と習合したるは障礙神の義に基けるなるべし 歓喜天または聖天は障礙神または象頭神とも称せらる  象頭というは双神の容貌によれる名なり 象頭またはソウズという地名諸国の山地に多し  右は仏徒が地鎮の祭を営みし場所なるべし 僧都殿という魔所ありしこと今昔物語に見ゆ 


道祖神は猿田彦神なりという説あり  右は衢神の古伝に基けるならん 猿田彦神は人望ある神なりき この神を土祖神と称するは久しきことなり 猿田彦神に附会せる神は極めて多し 庚申を猿田彦神なりという  庚申は道家の説に出ず 我国にては庚申を行路神となせり 



道祖神を縁結びの神と言う……五六、一七三、二○七  この信仰がシャグジにも移った……二二 この神の御神体にはわいせつな形の物(註:子授け神社の男根を模したものなど)もある……五六、一三三、一四一 また報賽のお供えにも同様にわいせつな形の物が存在している……一三○ 道祖神の御神体に歓喜天(註:仏教の守護神である天部の一つ。象頭の男女が抱擁した姿)を祀っているのもある……一四八 古くは男女の二神を奉祀して岐神(註:道の分岐点などに祭られる神。邪霊の侵入を防ぎ 、旅人を守護すると信じられた)と呼んだということが、扶桑略記(註:平安時代の私撰歴史書。神武天皇から堀河天皇の寛治8 =1094年までの編年史)の中に見られる……一一○  クナドはサエと同じく防塞という意味である……二九、一○九 門神も双神(註:一対=ペアの神、と言う意味)でありなおかつ石神である……一九 儀軌(註:密教の儀式の規則のこと)の堅牢地神(註:仏教における天部の神の一柱で大地を司る。通常は女神 であるが密教では男神と『一対』とする)は歓喜天にも似ている……一五三  歓喜天を塞神と習合(註:神仏習合の事、歓喜天=仏教と塞神=神道を同一とみなして祀る事)したのは、障礙神(註:=障害神)だった事がその意味で基になっている……二四二 歓喜天または聖天は障礙神または象頭神とも呼ばれている……一四八  象頭と言われるのは、両神の姿形に、ちなんだ名前だからである……二三五 象頭またはソウズという地名が、全国の山地に多い……四、九九、一○二  これは仏教徒が地鎮祭を行なった場所だろう……二六○ 僧都殿(註:京都に昔存在していた家の名前)という魔所(註:心霊スポット)があったというのが、今昔物語(註:24巻、第四話)に見られる……一四八 


道祖神は猿田彦神である、と言う説がある。  これは衢神の古い言い伝えに基づいての事である……一○八 猿田彦神は人望のある神である……一一五 この神を土祖神(註:つちのおや、とも)と呼ぶのは昔からである……二一六 猿田彦神にこじつけられる神は非常に多い……一二四 庚申を猿田彦神であるという……五七  庚申は道家(註:中国の老子、荘子の説を奉じた学者の総称)の説からである……一一四 我が国では庚申を行路神(註:道すじの神)としている……一三○ 


ミサキという神あり 諸国の三崎に猿田彦神なりという者少なからず  右は古事記の御前仕へんの記事に出ずるか  猿田はサダと訓みサダとミサキとは同義なりしか  鼻といい伊豆というもこの縁語なるか 海岬をサダというところ伊予土佐大隅出雲にあり  されどミサキは単に辺境の義にして昔は海角にのみ限らざりしかと思わる  野のソキ、山のソキのソキはミサキのサキと同源の語なるべし  すなわちミサキは辺境を守る神の義なり 




ミサキという神がいる…… 二七四 全国の三崎には猿田彦神であるというものが多くある……一一九  これは古事記の『御前仕えん』の記事から出来たものか……一四六  猿田はサダと読むが、サダとミサキは同じ意味なのだろうか……一二○  鼻といい伊豆というこれらも類語だろうか……一七二、一七七 海岬をサダと読む地域が伊予、土佐、大隈、出雲にある……一一九  しかしミサキは単に辺境という意味で、昔は海に突き出た角だけに限られた言葉ではなかった、と思われる。野のソキ、山のソキ(註:退き、果てという意味)のソキはミサキのサキと同源の言葉だろう……一四四、二三八  つまり、ミサキとは辺境を守る神という意味である……一二四 


昔は四堺四隅の祭に道饗祭あり 道饗には久那度神を祀る邪神の侵入を防ぐなり  道饗祭漸く衰えて御霊会大いに盛んなり 京師には八所の御霊あり 御霊会は疫神攘斥の祈願を報賽するを目的とす 御霊は冤死者の厲魂を斎くといえり 御霊社は今も諸国に多し  アラヒトガミを御霊の義と解するに至りしこと久し 現人社という社あり 


昔は四堺(註:平安京のある山城国の四維(北西、南西、南東、北東の隅)にあたる大枝(註:兵庫県)・山崎(註:京都府)・逢坂(註:滋賀県)・和邇(註:滋賀県)の四つの地点の事。外部からの穢れが平安京へ侵入する進路と考えられていた)四隅の祭りに道饗祭(註:令制の祭。京の都城の四隅の路上で,ヤチマタヒコ,ヤチマタヒメ,クナドの三神を祀り魑魅や妖怪が京や宮中に来るのを防ぐ祭り)がある……七九 道饗には久那度神(註:久那土神、来るな!という意味らしい遮る言葉からも、疫病や災害などをもたらす悪神と悪霊を防ぐ神)を祀り邪神の侵入を防いだのである。道饗祭は段々と衰えて、御霊会(註:祇園祭の事)が盛大になった……一五七 京師(註:天皇の住む都、京都の事)には八所御霊(註:清和天皇の時代863年=貞観5年の5月20日に平安京=京都の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは早良親王、伊予親王=桓武天皇の皇子、藤原夫人=伊予親王の母、橘逸勢、文室宮田麻呂、らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして六所御霊と総称された。さらにのちには吉備真備、菅原道真が加わって八所御霊となり、京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった)がある……一一一 御霊会は疫神攘斥(註:払いのける)の祈願を報賽するのを目的としている。 御霊は無罪の罪で死んだ者の厲魂を齋く(註:祀る)事だと言える……一二三 御霊社は今も全国に数多くある……一一二  アラヒトガミを御霊の意味である、と考える様になってから長い時が経ったが、現人神社という社がある……六○ 



荒神の祠全国にわたりて多くあり  荒神とアラヒトガミとを混ぜしものあり 荒神山神の語は古くより正史に見ゆ  荒神を地主とする思想はむしろ本邦独得の発展なるべし 四方神としての荒神は稀にあり 八方神としての荒神ははなはだ多し これを八面荒神八大荒神等と称す 荒神を竈神とする信仰の起原は不明なり ただ竈神を祀ることは古来の風なり 漢土の竈神には庚申の三尸虫と同一なる信仰ありき  

日本の荒神には仏教道教の思想複雑に混同し来れるもののごとし 荒神にも双神の思想あり 



荒神の祠は全国に渡って多くある……六五、二四二、二七四 荒神とアラヒトガミとが混ざったものがある……一一三 荒神・山神の言葉は古くから正史(註:日本書紀)に見られる……六○  荒神を地主とする思想は、むしろ日本独特に発展したものである……一二、五九 四方神(註:東・西・南・北の四方向を守る神。中国の思想としては霊獣の青龍・白虎・朱雀・玄武が守っているとされる)としての荒神がまれにある……五八、一二五 八方神(註:八方とは東・西・南・北と北東・北西・南東・ 南西の八つの方角)としての荒神は非常に多い……五九 これを八面荒神、八大荒神などと呼ぶ……二七四 荒神を竃神とする信仰の起源は不明である……四一 ただ、竃神を祀る事は古来からの風習である。 中国の地の竃神には庚申の三尸蟲(註:道教では、人間の中には産まれた時から三種類の蟲が住み着いていると言う。上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿で頭の中に、中尸の虫は獣の姿で腹の中に、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をして足の中にいる。大きさはどれも二寸=六センチほどで、60日に一度の庚申の日に人間が眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げる。するとその罰として天帝は人間の命を縮めるので、庚申の夜は人は眠らずにすごすという信仰になった)と同一の信仰がある……二一四  

日本の荒神には仏教・道教の思想を複雑に混ぜ合わせて作られたもの、の様である……二一五 荒神にも双神の思想がある……一二二 


山神は由来極めて久し 狩人樵夫石切金堀の徒共にこれを祀る  新に地を拓き居を構うる者またこれを祀りて邑落の平安を祈願せしか  山祇の信仰は世と共に発展したり  山王及び日吉諸社は山神なるべし  日吉の大将軍社を岩長姫なりというはこの女神が大山祇の御娘なるがためなるべし 




山神の由来はきわめて古い……六○ 猟師、木こり、石切金掘りの人々が皆これを祀っている……五七、六六、二二七  新たに開拓し移住する者は、なおこの神を祀って村落の平安を祈願したのか……二四九  山祗(註:山の神のこと)の信仰は世の中とともに発展した……一○六、二三一  山王および日吉諸社は山神である……二一三  日吉の大將軍社を岩長姫であると言うのは、この女神が大山祗の娘だからである。


姥神もまた山中の神なり  姥神の名には三種の起原混同せるがごとし  山姥は伝説的の畏怖なり  巫女居住の痕跡諸国の山中にあり  姥神はすなわちオボ神には非ざるか 姥石という石多し  石塚と土壇と相互に代用するはあり得べきこと也  列塚も一種の神並なるべし  立石次第に多く塚を築くの風止む 塚の名は何か意味あるべくしてほとんど凡て不明なり 塚には人を埋めざるもの多かるべし 



姥神もまた山の中の神である……六一  姥神の名前には、三種類の起源を混同させた様である……一九六  山姥は伝説的に恐怖である……一一七  巫女が住んでいた痕跡は全国の山の中に存在している……六九、一九七、二○三  姥神とはすなわちオボ神ではないのだろうか?……九四、一九六 姥石という石は多い……六七、一九八  石塚と土壇とを相互に代用するのはあり得る事である……九五  列塚も一種の神竝(=神並)である……二○○  石を立てる事が次第に多くなり、塚を築く風習は廃れた 塚の名前は何か意味があるに違いないが、ほとんど全てが不明である……七七、二○六 塚には人を埋めていないものが多いと思われる……二○四


諸国に十三塚と称する列塚あり  多くは邑落の境上に築きたるがごとし  一の大塚と十二の小塚とより成れるがごとし この形式は出雲風土記神名樋山の石神に似たり 地鎮の趣旨に基くものなるべきは容易に推測し得るも何故に十三なるかは不明なり  大日を中心とする十三仏の拝祀は右と因縁あるに似たり  十二神の信仰は種々の態様をもって今日に伝わる 左義長の壇に十二の青竹を用いる 公家の左義長は正月十五日と十八日と再度あり 十八日の左義長には唱門師これに与る 唱門師は一種の巫祝なり金鼓を打ちて舞う 十五日の左義長は今もその式を民間に伝う  左義長の壇は厄神塚に似たり  厄神塚は御霊会の山及鉾の先型なり  塚は定著の祭壇にして山及鉾は移動する祭壇なり 送り物の習慣は今日も塚と因由あり 信濃越後出羽にては左義長と同日同式をもって道祖神の祭を営む 武蔵の道祖神祭も正月十五日なりこの日社頭に松飾を焼くの風存するものあり  サギチョウの語は舞踊の歌曲に出ずるか  鷺宮という社ありこれも因由あるか サギチョウをトウドという 唐土権現藤堂森等諸国に存せり  森には塚または壇の遺祉なるもの少なからず 



 全国には十三塚と称する列塚がある……四、四九、二六五  多くは村落の境上に築いている様である……一五七、二六五  一つの大きい塚と十二の小さい塚とから出来ている様である……一九九 この形式は、出雲風土記、神名樋山(註:出雲市多久町の大船山のこと)の石神に似ている 地鎮の目的によるものであるのは、容易に推測出来るが、なぜ十三なのかは不明である……四八、七五  大日を中心とする十三仏の拝祀は以上の因縁に似ている……二四  十二神の信仰は様々な状態を経て、今日に伝わっている……八八 左義長(註:小正月に行われる火祭りの行事)の壇には十二の青竹を使う……八六 公家の左義長は正月の十五日ともう一度あって、十八日の左義長は唱門師から始まった。 唱門師は一種の巫祝(註:神事を司る者の事)であり、金鼓(註:仏教で勤行の時に使う鉦鼓という楽器)を打って舞う……八九 十五日の左義長は今もその式を民間に伝えている……一八四  左義長の壇は疫神塚(註:疫神塚は、地域の災いを封じ込めるための塚で、竹や榊を使う)にも似ている……一九○  厄神塚は御霊会の山鉾(註:祭礼で引き出される屋台の飾り物の一つ)の先の形である……一九一  塚は定著の祭壇であり、山鉾は移動する祭壇である……一八五、二○一 送り物の習慣は今も塚と関係がある。 信濃、越後、出羽では左義長と同じ日に、同じ儀式を道祖神の祭りとして行なう……一四○ 武蔵(註:埼玉全部と東京都大半と神奈川県一部からなる国)の道祖神祭りも正月十五日であり、この日は社の前で松飾りを焼くという風習が存在している所がある……一八六  サギチョウという言葉は、舞踊の歌曲から出たものか……一八七 鷺宮という社もあるが、これも関係があるのか……一九一 サギチョウをトウドと言う……八七 唐土権現、藤堂森(註:とうとの神ととうの神とも)などと呼ばれるものが全国に存在している……一九二、二八○  森には塚または壇の遺跡というものが少なくない……二○二



今日のいわゆる神道には輸入の分子なお多く存留せり 仏教はこれを取りて彼に入れたれども道教の信仰は自ら来りてこの中に混流せり  ことに道教の渡来は仏教よりも古し  八百万神の名のごときは陰陽師の所説なるべし ただ道教の伝道には些の統一なし 公家また必ずしもこれを重視せず  世降りては暦法も天文道も共に再び迷信の食物と成れり 道教の信仰は破片となりて海内に散布す  しかもその威力は決して少小ならざりき  思うに結集以前の道教はその本国にありてもまたかくのごとく錯雑なりしものならん 日本にても道教第二期の隆盛は最も思想の統一を欠きたる足利時代にあり  この時代には仏教も既にこれを利用して自家の勢力を張るの具となすことあたわざりき しかれども道教の方は却りて仏教によりて立たざるを得ざりし也 要するに右二種の宗教は癒著して一畸形をなせし也  いわゆる両部神道なるもの実は三部の習合なり 



 今日のいわゆる神道には、輸入されたと思える要素がなお多く存在している……一六五、二五一 仏教は積極的に神道を取り入れたのだが、道教の信仰は自分から仏教の中に入って混在している……二一六、二二三  特に道教の渡来は仏教よりも古い……八三、一○三、一六一  八百万神の名前の様なものは、陰陽師が言い出した説だろう……一六六 ただ、道教の布教には少しも統一性が無い……一六二 公家は、なお必ずしもこれを重視してはいない……一九七、二四五  時代が移り変わると、暦法も天文道(註:陰陽師の行なった天文学)も共に迷信の喰いものになっている……二四三 道教の信仰は、破片となって国内に散布された。  しかもその威力は決して少なくも小さくもない……一六三  思うに、結集する前の老子の道敏は、その本国に存在していても、なおこの様にまとまり無くごたごたとしたものだったのだろう……二四七 日本でも道教の第二次ブームの時は、最も思想の統一を欠いていた足利時代であった……二四八  この時代には、仏教もすでにこれを利用して自分の勢力を伸ばす為の道具にする事はできなかった……二四七 けれども、道教の方では逆に仏教によって成り立たなくなったのである……一六三 要するに、この二種の宗教は癒着して一つの奇妙な形態を作り上げていたという事である……一一六  いわゆる両部神道(註:真言宗の立場からなされた、神道解釈に基づく神仏習合思想のこと)なるものは、実は三部の習合したものである……一六二 


釈日本紀には塁または塞をソコと訓めり 倭名鈔にてもまた同じ訓あり  ソコはサキ、ソキ、遠サカル、裂ク、避クなどと同じ語原より出ずと信ず 塞、柵共に漢音にてもサクなり アイヌ語にてもサクに界障の義あり 古き我国の地名にも佐久郡佐久山佐久島佐久間などいうものはなはだ多し  サクには我国にても辺境の義ありしに似たり  延喜式の諸国の佐久神社は塞神のことならん  而して佐久神はすなわち今日のシャグジなるべし シャグジを土地丈量に因縁ある神なりという口碑あり 延喜式臨時祭の巻に障神祭あり  障の字あるいは鄣と書す塞と同義なり  障神はすなわちまたサエノカミなり 諸国に何障子または障子何という地名多し  障子はすなわち障の神を祀りし場所なり  あるいはこれを精進、精進場などと書す転用なり 精進はアイヌ語に出ずという説あり 



 釋日本記(註:釈日本記。鎌倉時代末期の日本書紀の注釈書)には、壘(註:とりで)または塞(註:川の堰に同じ)をソコと読む……一四四 倭名鈔(註:和名類聚抄の事。平安時代中期に作られた辞書。漢和辞書と国語・百科事典)でも同じ読みがある。  ソコはサキ、ソキ、遠サカル、裂ク、避クなどと同じ語源から出た言葉であると信じる。 塞、柵、は共に漢音で読んでもサクである……二三七 アイヌ語でもサクには界障(註:境を隔てる)という意味がある……二九 古いわが国の地名にも、佐久郡、佐久山、佐久島、佐久間、など言うものが非常に多い。  サクはわが国でも辺境という意味があるのと似ている……四一、二三八  延喜式の全国の佐久神社は塞神のことである……二八  そして、佐久神はすなわち今日のシャグジである……二三八 シャグジを土地丈量(註:土地の面積を測量する事)に関係がある神である、という言い伝えがある……八、六三、一九三 延喜式の臨時祭の巻には、障神祭がある……二、三六  障の字、あるいは鄣とも書き塞と同じ意味である。  障神はすなわちサイノカミである。 全国に何とか障子、または障子何とかと言う地名は多い……三、一○○  障子とはつまり障の神を祭った場所である……二三六  あるいはこれを精進、精進場などと書くのは転用である。 精進とはアイヌ語から出たという説がある……二三 



蕃神信仰の伝播には古来鉦鼓歌舞の力を仮りし例多し 御霊、設楽神の類皆これなり  これ恐らくは古シャマン道の面目なるべし 公の記録にも渡来神の記事すでに多し  この他漸をもって民間に入りし者更に多からん 大年神の記事は旧事本紀に見ゆ その十六の御子神というは各種の信仰の集合なり  古事記中の同文は攙入なりと信ず 竈神、山神、田神、宅神は皆この中に包含せらる  聖神は暦法より出でたる神ならん  大年神は大歳なるべし



蕃神(註:外国の神)信仰の伝播には、昔から鉦鼓や歌舞の力を借りたという例が多い……一五六、二五七 御霊、設楽神(註:疫病の流行を免れるために、民間で信仰された神)の類いはみんなこれである……一六四  これは恐らくは古シャーマン道の名誉ある役割だった……一○三 公の記録にも渡来神の記事はすでに多くある……一五九  この他にも、次第に民間に入って行ったものは、更に多いだろう……一五五、二五○ 大年神(註:稲の実りを守護する神、スサノオの子)の記事は、舊事本記(註:先代旧事本紀の事。日本の史書で天地開闢から推古天皇の時代までの事が書かれている。成立は西暦900年より前)に見られる……二一二 その十六の御子神と言うのは、各種の信仰の集合である……二一七  古事記中の同文は、攙入(註:竄入とも書く、間違って紛れ込む事)したものであると信じている……二一二 竃神、山神、田神、宅神などはみんなこの中に含まれている……二○九  聖神は暦法から出来た神である……二二一  大年神とは大歳のことである……二○九、二二○ 



 後世大歳の信仰衰えてこれを八王子の一となす 八王子神は日吉にも祇園にもつとにこれを説けり  ただこれを牛頭天王の子とし天王を素盞嗚尊なりというがごとき説は存外近き世の発生なり  祇園牛頭天王縁起及び簠簋内伝は共に足利初期に成れるに似たり もっとも素盞嗚尊を行疫神なりということはその以前より存在せし説なり  簠簋の八王子神の名目はまた雑駁なる集合なり 暦の八将神はすなわちこれなり また八竜王に配し古史の五男神三女神に附会す  凡て八の数の思想に基きて作り上げたる説なり  八王子の中にも大将軍神は孤立して特色を有す  洛東の将軍塚はこの信仰に出ず 諸国に将軍塚あり信濃なるは山頂の列塚也 大将軍は閉塞を掌る神なり  勝軍地蔵はまた同一系統に属するか  地蔵は仏教にても地神なるがごとし 武家時代に及び文字に基きてこれを軍神として崇敬せり  守宮神守公神もまた文字に因みて信仰せられしか 二三の国にては国府の地にこの社存せり  将軍塚と守公神とは因由あるか また司宮神主宮神四宮神と称する神もこの神なるべし  地名にはソクジ、スクジというものあり同じ神の旧祭場なるべし  守宮神司宮神等はすべて当字にてもとはソコの神すなわち辺境の神という義なるべし  十禅師は注連神にしてまた防境の神なるか


後世になり大歳の信仰が衰えて、これが八王子(註:スサノオの子供八人)の一つとなった。 八王子神は日吉にも祗園にも、早くから摂末社が設置されている……二二四  ただこれを牛頭天王の子供とし、天王を素盞鳴尊であるという説があるが、これは意外にも最近言われる様になったのである……二一八  祗園の牛頭天王の縁起(註:信仰される様になった由来の出来事、を書いたものも言う)と簠簋内伝は共に足利時代初期に成立したのが一緒である もっとも、素盞鳴尊を行疫神であると言う説は、それ以前からある……二二三  簠簋の八王子神の名称は、なお雑然と統一の無い集合である。 暦の八將神(註:陰陽道の神。方位の吉凶を司る八人の神。八将軍ともいう)はつまりこれの事である。 また、八龍王に割り当てられ、古史の五男神三女神にこじつけている……二一九  すべて八の数の思想に基づいて作り上げた説である  八王子の中でも大將軍神は孤立していて特色を持っている  洛東(註:京都府の地名)の將軍塚はこの信仰から出来たものである……七九 全国に將軍塚があり、信濃(註:今のほぼ長野)のものは山頂にある列塚である……八○ 大將軍は、閉塞を司る神である……一四三  勝軍地蔵は、これと同一系統に属しているのか……七九  地蔵は仏教でも地の神である様だ……六五 武家時代になると、文字によってこれを軍神として崇敬した……八二  守宮神、守公神(註:諸道の技芸を守護する神、芸事の神)もなお文字にちなんで信仰されたものか 二、三の国では国府(註:日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設=国庁、が置かれた都市)の地にこの社が存在している……四七、七三  將軍塚と守公神とは関連があるのか……一四三 また、司宮神、主宮神、四宮神と呼ばれるのも、この神である……二七三  地名にはソクジ、スクジ、と呼ぶものがあり、同じ神の旧祭場だろう……一四二  守宮神、司宮神などはすべて当て字であるが、もとはソコの神すなわち辺境の神と言う意味である……二三七、二四三  十禪師(註:十禅師。知能に優れた僧を、十人選んで宮中の内道場に仕えさせたもの)は注連神であって、また防境の神なのか……三六、一八五


我民族の国を建るや前には生蕃の抵抗あり後には疫癘の来侵あり四境の不安絶えずすなわち特に地神の祭式に留意し境界鎮守の神を崇祀したる所以なり  三十番神の信仰これに基く  門客神の斎祀また盛んに起これり 日を忌み方位を択ぶの法は道家つとにこれを教えたり しかれどもこれと共に厭攘の祈願、防護の悃請を神に掛くるは最も自然の業なり  而して石をもって境を定むる本邦固有の思想は塞神の信仰に伴いて永く存続することを得たり  いわゆる神護石の保存もこの結果なり  石棒石剣のごときはことに霊物なり  仮に和合神の信仰に混ずることなくとも神として久しく幽界に君臨すべきものなりき  故にシャグジは石神の呉音に非ずとするもこれを石神と称して些も誤謬なし  赤口神の説牽強なりといえども義においてはすなわち通ぜり 『石神問答』(明治四十三年、聚精堂)


わが民族が国を建てる前には、生蕃(註:原住民)の抵抗があり、建国後にも疫病の来侵(註:外国からの侵略)があり、四境の不安が絶えなかったので、特に地神の祭式を忘れずに境界鎮守の神を崇祀した為である……二四九、二五八  三十番神(註:一ヶ月三十日の日替わりで担当している神々の事)の信仰はこれに基づく……二四九、二五八  門客神(註:客神であり、主神とは従属関係がないのに祀られている。例アラハバキ)の祭祀が盛んになった……一六六 日にちに禁忌を設定し、方位を擇ぶという法は道家が早くからこれを教えていた……一五八、二三九 けれども、これも共に厭攘(註:押さえつけ退ける)防護の悃請(註:心より願う事)を神に願うのは最も自然な行為である……一六三  そして、石を使って境を定める日本固有の思想は、塞神の信仰を伴う事で永く存続する事が出来た……二六○  いわゆる神護石(註:石垣で区画した列石遺跡のこと。主に九州地方から瀬戸内地方に見られる)の保存もこの結果である……一五○  石棒や石剣の様なものは、とりわけ霊物である……九四、九八 仮に和合神(註:男女対の神)の信仰と混じる事がなかったとしても、神として永く幽界に君臨すべきものである……一○、二○五 よって、シャグジは石神の呉音ではないとするが、これを石神と呼んだとしても、少しも誤りではない……一○八、二三八 赤口神の説は牽強(註:無理なこじつけ)ではあるが、意味的には通じている……二四○



書簡一 柳田國男から駿州 吉原在住の山中笑氏へ (註:駿州とは駿河の別称。駿河=今の静岡の一部地域)(註:山中笑=明治・大正時代の牧師であり、骨董・古銭の蒐集家で

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