Resurrection Of Awa
以前書いた記事、神名考察 大宜都比賣にて「別」「依」「根別」などの考察をさせていただきました。
今回は神名にもよく使われる「建」という字について、一般的には、武に秀でているものの例えであり、名前の前にこれを付け「建○○」のように記しますが、今回も前回同様の国名(神名)での考察をしていきたいと思います。
① 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくぢひぬわけ):肥国現在の佐賀県・長崎県・熊本県・宮崎県、鹿児島県の地方。旧国:肥前・日向・大隅・薩摩。
② 建日別(たけひわけ):熊曾国の一つで熊曾国(九州南部)の別名。恐らく熊本県阿蘇を中心とするエリア。旧肥後国。
※①②で、要は九州の福岡県、大分県を除く範囲。
③ 建依別(たけよりわけ):土佐国(高知県)の支配神。
上記国名を並べて見るに、当時天皇勢力に反抗した勢力であったと思われる地域で、後に古事記編纂時頃までに平定されたエリア、武力を称え秀でていることを意味する「建」をそれに充てた思われます。
そしてそれはいわば戦わずしてその武力はわからり得ませんし、むしろ戦ったからこそそれが理解できるという現れ・証拠というものでしょう。
記紀に記されている内容や中国の歴史書等から、皇統が戦ったと思われるのは、①②隼人の国のエリア、ヤマトタケルの熊襲征伐等がこれに該当しますが、③の高知県(土佐)は記紀や他の書物等には一切戦ったであろう記述が見当たりません。
また、四国を平定したとする記述もなく、古来より皇統の支配地であった元つ国であったのではないかと考えられておりますが、更にそれよりも昔に大きな戦いがあってすでに平定されていた可能性もあります。
記紀等ではそれを充てることはできませんが、有史以前であれば2世紀後半の争乱である「倭国大乱」がそれに該当する可能性があります。
中国書誌からも、
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼…」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。
『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭
「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王 彌呼無夫壻 挾鬼道 能惑衆」
後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、卑弥呼という一人の女子を共に王に立てた。(卑)弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。
『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國
「桓靈之間其國大亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子 名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王」
桓帝・霊帝の間はその国(倭国)が大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。ここに於いて国人は共に王に立てた。
『北史』卷94 列傳第82 倭國
「靈帝光和中 其國亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子 名卑彌呼 能以鬼道惑衆 國人共立為王 無夫」
霊帝の光和年間、その国(倭国)は乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。国人は共に王に立てた。(卑弥呼に)夫は無かった。
中国の五書とも、争乱の時期を2世紀後半としていることがわかります。
後に卑弥呼をたてて収束するまでの流れとして、倭国王として西暦107年に後漢に朝貢した日本史上、外国史書に名の残る最初の人物である帥升の王統が開始し、その70~80年後の180年~190年頃までの期間に何があったのでしょうか。
話は少し飛びますが、
天長二年(825年)、空海教王護国寺の管長になりて三年、阿波国太龍寺縁起金剛遍照撰を修め、「阿波国那賀郡舎心山太龍寺天神七代之内六世面足尊煌根尊降居坐磯輪上秀真国是阿波国也」と阿波国太龍寺に一文を寄せたものがあります。
面足尊(オモダルノミコト)
神世七代の第6代の神で、オモダルが男神、アヤカシコネが女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。 (Wiki参照)
空海(弘法大師)は、山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。その出発地は阿波国。
延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡り、唐から様々なことを学んだようです。
また、優秀な空海のこと、唐にある我国の記述歴史書等には全て目を通したはずでしょう。
第21番札所舎心山常住院太龍寺 大師堂
太龍寺ロープウェイからの景色。(ちなみに辰砂の採れた若杉山遺跡近辺)北は鳴門まで眺望できる。
そして阿波国鷲敷町にある太龍寺縁起なのですが、
舎心山太龍寺縁起 金剛遍照撰
それをもって諸仏鎮場多しといえども、或は劫初より以後、出ずる砌をもって徳を揮う、或は仁王即位より以後、当某御宇、宿に困り用を積み威力を数う、かたじけなくも勅にしたがい、紫宸の宣に応じ某、霊地に開くあり、或は高賤平等もって益、信、新に初め成り、興隆正により運び歩みあり。
中略
在々処々是くの如し、その阿波国那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代の内、六世、面足尊、惶根尊降り磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。まず淡路州を生む、これを淡道穂狭別という。
つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛止比売と言い、これ与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言いこれ阿波国なり、四に(建)依別と言い、これ土佐州なり元根は伊与二名国ところ人情の賢別二名を称すと言う。四国名中、この大宜都比売、天神のため相応に玉墟内国のため恵会す。天地開闢以後、天棚霧中、金色雲登る。一茎二神、金色雲に乗り、大雨降り濁潮となる。和泥、世界を建立す。
中略
空海、両手かたじけなく大神宮を作る。両賓童子を作す。五身あり、衣体作り奉り空海の両足、鷲敷一殿大己貴尊を作す。この
不動明王一度、輩に見せ奉る。生々世々無病息災うたがいなし。また金剛の登山日より本堂閣、新に空海の峰承聞伝所を造らしめ奉る。往昔、神武天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心山、行幸あり、舎心の峰の明星、御影向石に通じ夜上に向き明星に礼し給う。公卿数輩、軍兵、蹲踞す。低頭出現し明星を念じ奉る。神武五十四年歳次甲寅五月十六日寅時、明星出現在り、自光の中漏降す、五寸虚空蔵あり、舎心峰の石盤、安坐を示す。その円き光の連三十五脈、輝き天地に在り、その光数、滴り集合する所、閼伽水涌出す。和修吉龍王を守護し常住なり。
また、西南方に当る地を鎮め三十二町敷、三十二相の霊地有り。神代の初二神上、珍貴尊を産し、祝後上に三柱彦神を産す在り、当に三生の上産に蛇あり、蛭子、足無し分間無し、天豫(にんべんに豫)樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり、その時、天豫(にんべんに豫)樟船に乗りあって上、久しく御鎮座の辺と為す。また鎮殿造社三間形、南殿三柱神あり、かたじけなくも天照大神宮鹿嶋一御殿、春日太明神、ならびに天照大神宮第一稚子神あり。中殿西宮に愛敬戎三郎神を祝う。坎殿三柱神あり。白山に弁財天、三輪に大己貴尊あり、閼伽水を涌出し守護なし遷宮奉る。空海天長二年歳次乙巳六月一日本堂再興成就、元を治納す。
去る五月十六日より御本尊作を企て奉り誓う。神武行幸日、五寸虚空蔵涌降なり奉る等□服身なり、同六月一日寅時御本尊安坐鎮静す。真実恭敬勤行し満足せしめ畢わんぬ。これひとえにかたじけなくも天照大神宮御正勅に依る者なり。
中略
かたじけなくも天照太神宮、毎日午時、御影向を垂れ摩頂に至る。大弁財天女十五童子、戎愛敬神、たちまち守護を加う。草木萬情、種子を絶やさず萬民を与えしめ衣食、意の如し。この山これ和修吉龍王、婆竭羅龍、坐を示し守護せしむ。霊地は、龍神直に勅言を誓う。尽未来際、燈明を檠け毎夜、生死長夜を照らす。求聞持、成就力。
一切衆生悪道に堕すべからず誓約堅固。もって信言かたじけなくも天照大神宮の額字を奏請す。かたじけなくも天照大神宮勅宣を返し、龍神と偽り霊地を守護す、吾また守護を加うる所の者なり、太龍寺と号し奉る。かたじけなくも勅言を訖す。
帝釈天、その額形、献上の勅あり、時に四天大王中、毘沙門天その額形、帝釈天に献上す。その時、広目天撃硯筆あり、帝釈天舎心山居三字、空海に賜る。余り微妙、歓喜、覚めず了知、三字を奉書す大龍寺額これなり。今よりのち当山において本求聞持し奉らず滅亡知るべし。帝釈天帰幸ののち、厚恩を報じ奉らす。北方五十町を隔て毎夜、初丑の刻参詣奉る。
天長地久のため、一切衆生求める所、円満無病延命なり、仏法人の境、常安隠常住繁昌治定なり。
天長二(八二五)年歳次乙巳六月十三日 金剛遍照 啓白
ぐーたら気延日記 舎心山太龍寺縁起より抜粋
しかしこれほど、「国産み」から書かれた縁起はなかなかないと思われます。
ちなみに金剛遍照とは空海のことです。
阿波国は「磯輪上秀真國是也」(しわがみのほつまこくこれなり)とありますね。
ここからは私の現時点の推論なのですが、、、
面足尊を仮に帥升であるとするならば、太龍寺のある地は旧阿波でいう長國(ながのくに)の位置となり、阿波古事記研究会でいうところの素戔嗚や大国主、事代主の活躍する場、つまり出雲とされる地となります。(列記神の痕跡や式内社多数によるとする)
その後、天照大神(卑弥呼)、豊与(豊玉姫)へと時代は流れていき、歴史的な辻褄はどんどん合ってきます。
では最初に戻り、土佐(建依別)と戦ったであろう戦いは、長國が中心であったと想像され、位置的にはまさに隣接した国同士の戦いであったと推測されます。
すなわちこれは銅剣・銅矛文化VS銅鐸文化との戦いであったのではないのでしょうか?
結果は東(近畿)にすでに勢力を伸ばしていた海人族の長國が勝利したのであり、wiki記述のあるように、オモダル・アヤカシコネの名前の意味にあたる、「完成した(=不足したところのない)」、「あやにかしこし」と(完備を神格化した)のではないのでしょうか。
これを以て四国を平定し、更に勢力を固めて行き、のちに阿波から東へ銅鐸と共に勢力を伸ばし波及していったのでしょう。
しかしその戦いが土佐国のどのような士族との戦いであったのか、あるいは文化圏を共にする「建」のつく抵抗勢力であったとされる九州方面より援軍があり、いわゆる大乱となるほどの戦いに発展したのか、今後更なる検証が必要となるでしょう。
古代には邪馬台国の南には狗奴国が存在し、そこには不仲であったとされる男王卑弥弓呼、官の狗古智卑狗が居たとされます。
女王卑弥呼と名前もよく似ており、同じような地域特性を持つ氏姓であった可能性も十分に考えられるでしょう。
「建」と争いの歴史から紐解くのも古代我国の歴史解明に繋がるヒントがあるのかもしれません。
今回は神名にもよく使われる「建」という字について、一般的には、武に秀でているものの例えであり、名前の前にこれを付け「建○○」のように記しますが、今回も前回同様の国名(神名)での考察をしていきたいと思います。
① 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくぢひぬわけ):肥国現在の佐賀県・長崎県・熊本県・宮崎県、鹿児島県の地方。旧国:肥前・日向・大隅・薩摩。
② 建日別(たけひわけ):熊曾国の一つで熊曾国(九州南部)の別名。恐らく熊本県阿蘇を中心とするエリア。旧肥後国。
※①②で、要は九州の福岡県、大分県を除く範囲。
③ 建依別(たけよりわけ):土佐国(高知県)の支配神。
上記国名を並べて見るに、当時天皇勢力に反抗した勢力であったと思われる地域で、後に古事記編纂時頃までに平定されたエリア、武力を称え秀でていることを意味する「建」をそれに充てた思われます。
そしてそれはいわば戦わずしてその武力はわからり得ませんし、むしろ戦ったからこそそれが理解できるという現れ・証拠というものでしょう。
記紀に記されている内容や中国の歴史書等から、皇統が戦ったと思われるのは、①②隼人の国のエリア、ヤマトタケルの熊襲征伐等がこれに該当しますが、③の高知県(土佐)は記紀や他の書物等には一切戦ったであろう記述が見当たりません。
また、四国を平定したとする記述もなく、古来より皇統の支配地であった元つ国であったのではないかと考えられておりますが、更にそれよりも昔に大きな戦いがあってすでに平定されていた可能性もあります。
記紀等ではそれを充てることはできませんが、有史以前であれば2世紀後半の争乱である「倭国大乱」がそれに該当する可能性があります。
中国書誌からも、
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼…」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。
『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭
「漢靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王 彌呼無夫壻 挾鬼道 能惑衆」
後漢の霊帝の光和年間(178年 - 184年)倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、卑弥呼という一人の女子を共に王に立てた。(卑)弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。
『隋書』卷81 列傳第46 東夷傳 俀國
「桓靈之間其國大亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子 名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王」
桓帝・霊帝の間はその国(倭国)が大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。ここに於いて国人は共に王に立てた。
『北史』卷94 列傳第82 倭國
「靈帝光和中 其國亂 遞相攻伐 歴年無主 有女子 名卑彌呼 能以鬼道惑衆 國人共立為王 無夫」
霊帝の光和年間、その国(倭国)は乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。国人は共に王に立てた。(卑弥呼に)夫は無かった。
中国の五書とも、争乱の時期を2世紀後半としていることがわかります。
後に卑弥呼をたてて収束するまでの流れとして、倭国王として西暦107年に後漢に朝貢した日本史上、外国史書に名の残る最初の人物である帥升の王統が開始し、その70~80年後の180年~190年頃までの期間に何があったのでしょうか。
話は少し飛びますが、
天長二年(825年)、空海教王護国寺の管長になりて三年、阿波国太龍寺縁起金剛遍照撰を修め、「阿波国那賀郡舎心山太龍寺天神七代之内六世面足尊煌根尊降居坐磯輪上秀真国是阿波国也」と阿波国太龍寺に一文を寄せたものがあります。
面足尊(オモダルノミコト)
神世七代の第6代の神で、オモダルが男神、アヤカシコネが女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。 (Wiki参照)
空海(弘法大師)は、山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。その出発地は阿波国。
延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡り、唐から様々なことを学んだようです。
また、優秀な空海のこと、唐にある我国の記述歴史書等には全て目を通したはずでしょう。
第21番札所舎心山常住院太龍寺 大師堂
太龍寺ロープウェイからの景色。(ちなみに辰砂の採れた若杉山遺跡近辺)北は鳴門まで眺望できる。
そして阿波国鷲敷町にある太龍寺縁起なのですが、
舎心山太龍寺縁起 金剛遍照撰
それをもって諸仏鎮場多しといえども、或は劫初より以後、出ずる砌をもって徳を揮う、或は仁王即位より以後、当某御宇、宿に困り用を積み威力を数う、かたじけなくも勅にしたがい、紫宸の宣に応じ某、霊地に開くあり、或は高賤平等もって益、信、新に初め成り、興隆正により運び歩みあり。
中略
在々処々是くの如し、その阿波国那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代の内、六世、面足尊、惶根尊降り磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。まず淡路州を生む、これを淡道穂狭別という。
つぎに伊与産む二名州あり、一身四面あり、一に愛止比売と言い、これ与州なり、二に飯依比古と言い、これ讃岐国なり、三に大宜都比売と言いこれ阿波国なり、四に(建)依別と言い、これ土佐州なり元根は伊与二名国ところ人情の賢別二名を称すと言う。四国名中、この大宜都比売、天神のため相応に玉墟内国のため恵会す。天地開闢以後、天棚霧中、金色雲登る。一茎二神、金色雲に乗り、大雨降り濁潮となる。和泥、世界を建立す。
中略
空海、両手かたじけなく大神宮を作る。両賓童子を作す。五身あり、衣体作り奉り空海の両足、鷲敷一殿大己貴尊を作す。この
不動明王一度、輩に見せ奉る。生々世々無病息災うたがいなし。また金剛の登山日より本堂閣、新に空海の峰承聞伝所を造らしめ奉る。往昔、神武天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心山、行幸あり、舎心の峰の明星、御影向石に通じ夜上に向き明星に礼し給う。公卿数輩、軍兵、蹲踞す。低頭出現し明星を念じ奉る。神武五十四年歳次甲寅五月十六日寅時、明星出現在り、自光の中漏降す、五寸虚空蔵あり、舎心峰の石盤、安坐を示す。その円き光の連三十五脈、輝き天地に在り、その光数、滴り集合する所、閼伽水涌出す。和修吉龍王を守護し常住なり。
また、西南方に当る地を鎮め三十二町敷、三十二相の霊地有り。神代の初二神上、珍貴尊を産し、祝後上に三柱彦神を産す在り、当に三生の上産に蛇あり、蛭子、足無し分間無し、天豫(にんべんに豫)樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、和修吉龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり、その時、天豫(にんべんに豫)樟船に乗りあって上、久しく御鎮座の辺と為す。また鎮殿造社三間形、南殿三柱神あり、かたじけなくも天照大神宮鹿嶋一御殿、春日太明神、ならびに天照大神宮第一稚子神あり。中殿西宮に愛敬戎三郎神を祝う。坎殿三柱神あり。白山に弁財天、三輪に大己貴尊あり、閼伽水を涌出し守護なし遷宮奉る。空海天長二年歳次乙巳六月一日本堂再興成就、元を治納す。
去る五月十六日より御本尊作を企て奉り誓う。神武行幸日、五寸虚空蔵涌降なり奉る等□服身なり、同六月一日寅時御本尊安坐鎮静す。真実恭敬勤行し満足せしめ畢わんぬ。これひとえにかたじけなくも天照大神宮御正勅に依る者なり。
中略
かたじけなくも天照太神宮、毎日午時、御影向を垂れ摩頂に至る。大弁財天女十五童子、戎愛敬神、たちまち守護を加う。草木萬情、種子を絶やさず萬民を与えしめ衣食、意の如し。この山これ和修吉龍王、婆竭羅龍、坐を示し守護せしむ。霊地は、龍神直に勅言を誓う。尽未来際、燈明を檠け毎夜、生死長夜を照らす。求聞持、成就力。
一切衆生悪道に堕すべからず誓約堅固。もって信言かたじけなくも天照大神宮の額字を奏請す。かたじけなくも天照大神宮勅宣を返し、龍神と偽り霊地を守護す、吾また守護を加うる所の者なり、太龍寺と号し奉る。かたじけなくも勅言を訖す。
帝釈天、その額形、献上の勅あり、時に四天大王中、毘沙門天その額形、帝釈天に献上す。その時、広目天撃硯筆あり、帝釈天舎心山居三字、空海に賜る。余り微妙、歓喜、覚めず了知、三字を奉書す大龍寺額これなり。今よりのち当山において本求聞持し奉らず滅亡知るべし。帝釈天帰幸ののち、厚恩を報じ奉らす。北方五十町を隔て毎夜、初丑の刻参詣奉る。
天長地久のため、一切衆生求める所、円満無病延命なり、仏法人の境、常安隠常住繁昌治定なり。
天長二(八二五)年歳次乙巳六月十三日 金剛遍照 啓白
ぐーたら気延日記 舎心山太龍寺縁起より抜粋
しかしこれほど、「国産み」から書かれた縁起はなかなかないと思われます。
ちなみに金剛遍照とは空海のことです。
阿波国は「磯輪上秀真國是也」(しわがみのほつまこくこれなり)とありますね。
ここからは私の現時点の推論なのですが、、、
面足尊を仮に帥升であるとするならば、太龍寺のある地は旧阿波でいう長國(ながのくに)の位置となり、阿波古事記研究会でいうところの素戔嗚や大国主、事代主の活躍する場、つまり出雲とされる地となります。(列記神の痕跡や式内社多数によるとする)
その後、天照大神(卑弥呼)、豊与(豊玉姫)へと時代は流れていき、歴史的な辻褄はどんどん合ってきます。
では最初に戻り、土佐(建依別)と戦ったであろう戦いは、長國が中心であったと想像され、位置的にはまさに隣接した国同士の戦いであったと推測されます。
すなわちこれは銅剣・銅矛文化VS銅鐸文化との戦いであったのではないのでしょうか?
結果は東(近畿)にすでに勢力を伸ばしていた海人族の長國が勝利したのであり、wiki記述のあるように、オモダル・アヤカシコネの名前の意味にあたる、「完成した(=不足したところのない)」、「あやにかしこし」と(完備を神格化した)のではないのでしょうか。
これを以て四国を平定し、更に勢力を固めて行き、のちに阿波から東へ銅鐸と共に勢力を伸ばし波及していったのでしょう。
しかしその戦いが土佐国のどのような士族との戦いであったのか、あるいは文化圏を共にする「建」のつく抵抗勢力であったとされる九州方面より援軍があり、いわゆる大乱となるほどの戦いに発展したのか、今後更なる検証が必要となるでしょう。
古代には邪馬台国の南には狗奴国が存在し、そこには不仲であったとされる男王卑弥弓呼、官の狗古智卑狗が居たとされます。
女王卑弥呼と名前もよく似ており、同じような地域特性を持つ氏姓であった可能性も十分に考えられるでしょう。
「建」と争いの歴史から紐解くのも古代我国の歴史解明に繋がるヒントがあるのかもしれません。
投馬国の位置がおぼろげに浮かんでまいりました。
以前比定地候補として伊予(愛媛県松山周辺から伊予北条周辺)を充てていました。
「魏志倭人伝」を読む 最終部
おさらいを兼ねて現状にて再考察です。
魏志倭人伝の記述を見ながら過去の記事を纏めてみます。
まず、我国唯一である「倭」(ヤマト)の読みの付く延喜式式内社倭大國魂大国敷神社がある美馬市周辺を魏志のいう「邪馬壹國」の存在した場所であると比定地として、逆経路からの推察です。
南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。
南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。
出真珠、青玉。其山有丹
真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)がある。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。…參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。みな倭種である。…倭の国に参り訊いてみるに、海より絶在した洲島の上に在り、あるいは隔絶しまたあるいは連なり、周囲を旋回すると五千余里ほどである。
特に太字にしている部分に注目し、過去の記事から推測しました。
どうやらこの時代の魏志たちは「邪馬壹國」を訪れるにあたり、瀬戸内航路ではなく、四国の南部航路より四国島に上陸したのではないのでしょうか。
更に詳細に地域を絞って行きますと、その地(女王国)は、
真珠や青玉を産し、(自然真珠あり、阿波青石は畿内古墳からも多数出土)、山に丹がある(現時点で丹が採れたのは若杉山遺跡のみ)、參問倭地(倭の国に参って問うに)、絶在海中洲島之上、周旋可五千餘里(絶海の洲島で周れば五千里余りあった)。
この記述が揃う条件、そして指し示す場所の特徴が共に合致するのはやはり「四国」であり、その中でも徳島県の特徴が該当します。
そしてこの記述のみでも四国(徳島)であれば何一つ矛盾する点がなく完璧に合致するのですが、それを裏付けるのにどうしても投馬國の位置がカギとなってきます。
もう少し地理的に掘り下げていきます。
…此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
…これが女王の領域内の全部である。その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。
地理的には、女王国の南にライバル国である「狗奴国」が存在する。
徳島県南西部、那賀川流域にある那賀郡鷲敷町には弥生時代に丹を産出した唯一の遺跡である若杉山遺跡があります。
先日記載した「建」考察でも説明しましたが、更に南部にある高知県側は、銅剣銅矛文化と銅鐸文化とを分ける境目のラインでもあり、さらに言えば「丹」を求めて奪い合っていた最前線であった可能性もあります。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、
自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、
女王国より北方は女王の支配領域であり、また南方にはライバル国として記載ある狗奴国と接していたと思われます。(奴国が境界の場合も九州南部が女王国支配域の南になる)
徳島県南部に位置する阿南市(旧長國領域)には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡として、宮ノ本遺跡(イネの炭化種子出土)、正福寺遺跡、国高山古墳(竪穴式石室を持つ古墳時代前期の前方後円墳で鏡片、勾玉、鉄・石製品、土器類等多数出土)があります。
少なくとも阿南市辺りまでは縄文から弥生時代に稲作文化や集落があり、かなりの権力者が居たことが推察できます。
また、羽衣伝説 Vol.阿波 第2部にも記載してある、海人の地である徳島県最南海部郡海陽町(旧海部町)にある芝遺跡は円形周溝墓で、弥生中期中頃~中期後半のものであり、周辺遺跡からあまり見られない特異な存在とされています。
県下では三好郡東みよし町昼間遺跡(吉野川流域県西部)、名東町名東遺跡(吉野川流域県東部)からも円形周溝墓が発見されているようです。
また近年の調査によると、鍛冶を行っていたとされる炉跡からは小破片を含む鉄製品、サヌカイト片、朱付着石杵も確認されている。
県南では最古い鉄器を出土した遺構であり、張り出し部を有する竪穴住居の形から鮎喰川流域との交流による技術伝播があったと確認されています。
更に県外産土器の出土数は、阿波国で最多であり、出土土器からは、吉野川下流域・畿内系土器などの多くの搬入品を含んでいる。
詳しく書きますと、
吉野川下流域土器は、東阿波型土器で、明赤褐色系胎土に結晶片岩粗粒を含む鮎喰川下流域に製作拠点を持ちます。
畿内型土器は、甕を中心に出土、庄内形甕は少量で主体は布留形甕であり、器壁が非常に薄く焼成がよい。
更に讃岐の土器(下川津B類土器)・吉備型甕・土佐の土器(ヒビノキ式土器)が共伴しており、各地の土器が搬入される弥生時代終末期~古墳時代初め頃には四国南部から東四国、更に海を渡り岡山から東にある近畿畿内との海を渡っての交流があったことがわかります。
出土物の種類・産地の比率からも「港の国」の特性を示しているとしています。
そして芝遺跡から約200m程しか離れていない寺山古墳群1号墳出土の破鏡(内行花文鏡)や3号墳出土土器片を総合的に考察した結果、従来の古墳時代前期前半より弥生時代終末期~古墳時代初め頃に築造された墳丘墓との菅原康夫氏の説が登場しています。
現時点で、寺山の首長は、鮎喰川下流域(吉野川河口近くの県東部)の集団と密接に関わる海人の長ではなかったかと言われています。
このことから、徳島県最南の海部の地には、弥生時代にすでに東四国と近畿(岡山を含む)とを結ぶ一大港国として確立しており、最新の優れた技術を有する集団が居たことを意味し、同時に航路を確保していたことを意味しています。
そしてその海路を自由自在に行き交ったのが海を治めよとこの地(海陽町宍喰)に降り立った素戔嗚命(八坂神社 Vol.阿波)であり、また、羽衣伝説 Vol.阿波 第1部、羽衣伝説 Vol.阿波 第2部でもご説明した海人族である海部一族だったのではないでしょうか。
そしてこの地は海部川河口にある海陽町鞆浦字那佐(旧海部町鞆浦)、通称鞆(とも)は、阿波枳閇委奈佐比古命が居た港町であり、それを示す式内社和奈佐意富曽神社が鎮座、また播磨国風土記美囊の郡・志深の里の条や阿波國風土記奈佐浦に出てくる古地。そして古事記の中の国譲りの舞台にある伊那佐の小濱なのです。
また、港国という意味では、ドイツに残る稀有な文献「兵庫北関入船納帳」(千葉県佐倉国立歴史民俗博物館に複写在り)によると、
阿波(海部54・宍喰20・平島19) 土佐(甲浦26) 讃岐(宇多津47・塩飽35・嶋(小豆島か)29・引田21・三本松20・平山19) 伊予(弓削嶋26)とあり、中世においても阿波海部の海運は四国一であるとの記録が残っています。
更には2008年海陽町大里古墳調査によると、1世紀~14世紀に鋳造された81種の古銭、主に唐、宋、明の時代の中国銭、ほかに高麗・李氏朝鮮、安南(ベトナム)、琉球の古銭など70088枚が出土、海外との交易も盛んであった証拠があるのです。
ここまでの考察で導き出されることは、
不彌国を出発し、黒潮に乗り太平洋側から女王国を目指し、水行20日で到着した国こそが他国の品々が集まる港国、鞆国(ともこく)、魏志倭人伝記載ある投馬國(とまこく)だったのではないでしょうか。
なぜならば、邪馬壹國(吉野川流域)までの距離や必要日数、その後水行で10日後に吉野川河口辺りに着き、そこから当時の険しい吉野川沿いの山岳道を陸行すれば、約1ヶ月後に美馬市辺り(倭大國魂神社周辺)となります。
魏志が邪馬台国を語るにある周旋可五千餘里の意味。
そう、瀬戸内海側の往復や四国南海黒潮往復ルートのみではその先にある距離が測れず、參問倭地して絶在海中洲島之上を確認できたのは、周旋して帰りは瀬戸内ルートでぐるりと四国を一周したから判り得たことなのです。
更にいうと、逆ルートであれば黒潮の潮流に逆らうことになり、甚だ人力での航行は厳しいことでしょう。
天然潮流である「黒潮を利用したルートを知っていた」ということなのです。
これは当時海洋技術に最も長けた長國海人族の案内があったと思われます。(当然ですが魏の人のみの航行では倭国の地理は全くわかりませんからね。)
阿波沿岸部にあった「長國」は漢字の記す通り縦に非常に長い国です。
この場合、魏人の立ち寄った投馬國は、今までの女王の支配国から本家本元の女王国に入ったばかりの玄関口なのであり、長國でいうと最南の位置です。
投馬國自体は推計5万戸(およそ20万人?)と記述されており、かなりの大国ですが、阿波沿岸部である長國内の鞆地域を「国」とする(当時はまだ村々の集合体が国である)ならば長國の全体人口でいうと全く問題ないはずです。
投馬國から邪馬台国に向かうまでの行程として、「水行10日、陸行1ヶ月」の移動をしなければ女王の君臨する都である邪馬台国にたどり着けない。つまり、随分と長國内を移動しないと行けないからなのです。
現在残念ながら徳島県はどの地域も過疎の一途を辿っており、藩政時代にも上国であった昔の面影はどこにも御座いませんが、この地にある弥生時代の遺跡やグーグルマップなどで上空写真を確認してほしいのですが、海部川河口域の開けた場所は、上記の古墳跡からもその昔大きな町であった痕跡があります。
この「鞆」から出る多数の関船やだんじり・神輿等が練り歩く大里八幡祭は県下一の大祭でした。
現在ではだんじりの引手も減り、女だんじりなるものまであります。
私説に於いて、この場合における現時点の魏志倭人伝記述にある、投馬國(とまこく)は徳島県海部郡海陽町鞆浦(海部川流域の国)(長國の最南の港町であり海人の領域)に比定しておきます。
案外、寺山古墳等の埋葬者が魏志倭人伝にある官である彌彌や副官の彌彌那利のものであるかもしれませんね。
以前比定地候補として伊予(愛媛県松山周辺から伊予北条周辺)を充てていました。
「魏志倭人伝」を読む 最終部
おさらいを兼ねて現状にて再考察です。
魏志倭人伝の記述を見ながら過去の記事を纏めてみます。
まず、我国唯一である「倭」(ヤマト)の読みの付く延喜式式内社倭大國魂大国敷神社がある美馬市周辺を魏志のいう「邪馬壹國」の存在した場所であると比定地として、逆経路からの推察です。
南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。
南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。
出真珠、青玉。其山有丹
真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)がある。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。…參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。みな倭種である。…倭の国に参り訊いてみるに、海より絶在した洲島の上に在り、あるいは隔絶しまたあるいは連なり、周囲を旋回すると五千余里ほどである。
特に太字にしている部分に注目し、過去の記事から推測しました。
どうやらこの時代の魏志たちは「邪馬壹國」を訪れるにあたり、瀬戸内航路ではなく、四国の南部航路より四国島に上陸したのではないのでしょうか。
更に詳細に地域を絞って行きますと、その地(女王国)は、
真珠や青玉を産し、(自然真珠あり、阿波青石は畿内古墳からも多数出土)、山に丹がある(現時点で丹が採れたのは若杉山遺跡のみ)、參問倭地(倭の国に参って問うに)、絶在海中洲島之上、周旋可五千餘里(絶海の洲島で周れば五千里余りあった)。
この記述が揃う条件、そして指し示す場所の特徴が共に合致するのはやはり「四国」であり、その中でも徳島県の特徴が該当します。
そしてこの記述のみでも四国(徳島)であれば何一つ矛盾する点がなく完璧に合致するのですが、それを裏付けるのにどうしても投馬國の位置がカギとなってきます。
もう少し地理的に掘り下げていきます。
…此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
…これが女王の領域内の全部である。その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。
地理的には、女王国の南にライバル国である「狗奴国」が存在する。
徳島県南西部、那賀川流域にある那賀郡鷲敷町には弥生時代に丹を産出した唯一の遺跡である若杉山遺跡があります。
先日記載した「建」考察でも説明しましたが、更に南部にある高知県側は、銅剣銅矛文化と銅鐸文化とを分ける境目のラインでもあり、さらに言えば「丹」を求めて奪い合っていた最前線であった可能性もあります。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、
自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、
女王国より北方は女王の支配領域であり、また南方にはライバル国として記載ある狗奴国と接していたと思われます。(奴国が境界の場合も九州南部が女王国支配域の南になる)
徳島県南部に位置する阿南市(旧長國領域)には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡として、宮ノ本遺跡(イネの炭化種子出土)、正福寺遺跡、国高山古墳(竪穴式石室を持つ古墳時代前期の前方後円墳で鏡片、勾玉、鉄・石製品、土器類等多数出土)があります。
少なくとも阿南市辺りまでは縄文から弥生時代に稲作文化や集落があり、かなりの権力者が居たことが推察できます。
また、羽衣伝説 Vol.阿波 第2部にも記載してある、海人の地である徳島県最南海部郡海陽町(旧海部町)にある芝遺跡は円形周溝墓で、弥生中期中頃~中期後半のものであり、周辺遺跡からあまり見られない特異な存在とされています。
県下では三好郡東みよし町昼間遺跡(吉野川流域県西部)、名東町名東遺跡(吉野川流域県東部)からも円形周溝墓が発見されているようです。
また近年の調査によると、鍛冶を行っていたとされる炉跡からは小破片を含む鉄製品、サヌカイト片、朱付着石杵も確認されている。
県南では最古い鉄器を出土した遺構であり、張り出し部を有する竪穴住居の形から鮎喰川流域との交流による技術伝播があったと確認されています。
更に県外産土器の出土数は、阿波国で最多であり、出土土器からは、吉野川下流域・畿内系土器などの多くの搬入品を含んでいる。
詳しく書きますと、
吉野川下流域土器は、東阿波型土器で、明赤褐色系胎土に結晶片岩粗粒を含む鮎喰川下流域に製作拠点を持ちます。
畿内型土器は、甕を中心に出土、庄内形甕は少量で主体は布留形甕であり、器壁が非常に薄く焼成がよい。
更に讃岐の土器(下川津B類土器)・吉備型甕・土佐の土器(ヒビノキ式土器)が共伴しており、各地の土器が搬入される弥生時代終末期~古墳時代初め頃には四国南部から東四国、更に海を渡り岡山から東にある近畿畿内との海を渡っての交流があったことがわかります。
出土物の種類・産地の比率からも「港の国」の特性を示しているとしています。
そして芝遺跡から約200m程しか離れていない寺山古墳群1号墳出土の破鏡(内行花文鏡)や3号墳出土土器片を総合的に考察した結果、従来の古墳時代前期前半より弥生時代終末期~古墳時代初め頃に築造された墳丘墓との菅原康夫氏の説が登場しています。
現時点で、寺山の首長は、鮎喰川下流域(吉野川河口近くの県東部)の集団と密接に関わる海人の長ではなかったかと言われています。
このことから、徳島県最南の海部の地には、弥生時代にすでに東四国と近畿(岡山を含む)とを結ぶ一大港国として確立しており、最新の優れた技術を有する集団が居たことを意味し、同時に航路を確保していたことを意味しています。
そしてその海路を自由自在に行き交ったのが海を治めよとこの地(海陽町宍喰)に降り立った素戔嗚命(八坂神社 Vol.阿波)であり、また、羽衣伝説 Vol.阿波 第1部、羽衣伝説 Vol.阿波 第2部でもご説明した海人族である海部一族だったのではないでしょうか。
そしてこの地は海部川河口にある海陽町鞆浦字那佐(旧海部町鞆浦)、通称鞆(とも)は、阿波枳閇委奈佐比古命が居た港町であり、それを示す式内社和奈佐意富曽神社が鎮座、また播磨国風土記美囊の郡・志深の里の条や阿波國風土記奈佐浦に出てくる古地。そして古事記の中の国譲りの舞台にある伊那佐の小濱なのです。
また、港国という意味では、ドイツに残る稀有な文献「兵庫北関入船納帳」(千葉県佐倉国立歴史民俗博物館に複写在り)によると、
阿波(海部54・宍喰20・平島19) 土佐(甲浦26) 讃岐(宇多津47・塩飽35・嶋(小豆島か)29・引田21・三本松20・平山19) 伊予(弓削嶋26)とあり、中世においても阿波海部の海運は四国一であるとの記録が残っています。
更には2008年海陽町大里古墳調査によると、1世紀~14世紀に鋳造された81種の古銭、主に唐、宋、明の時代の中国銭、ほかに高麗・李氏朝鮮、安南(ベトナム)、琉球の古銭など70088枚が出土、海外との交易も盛んであった証拠があるのです。
ここまでの考察で導き出されることは、
不彌国を出発し、黒潮に乗り太平洋側から女王国を目指し、水行20日で到着した国こそが他国の品々が集まる港国、鞆国(ともこく)、魏志倭人伝記載ある投馬國(とまこく)だったのではないでしょうか。
なぜならば、邪馬壹國(吉野川流域)までの距離や必要日数、その後水行で10日後に吉野川河口辺りに着き、そこから当時の険しい吉野川沿いの山岳道を陸行すれば、約1ヶ月後に美馬市辺り(倭大國魂神社周辺)となります。
魏志が邪馬台国を語るにある周旋可五千餘里の意味。
そう、瀬戸内海側の往復や四国南海黒潮往復ルートのみではその先にある距離が測れず、參問倭地して絶在海中洲島之上を確認できたのは、周旋して帰りは瀬戸内ルートでぐるりと四国を一周したから判り得たことなのです。
更にいうと、逆ルートであれば黒潮の潮流に逆らうことになり、甚だ人力での航行は厳しいことでしょう。
天然潮流である「黒潮を利用したルートを知っていた」ということなのです。
これは当時海洋技術に最も長けた長國海人族の案内があったと思われます。(当然ですが魏の人のみの航行では倭国の地理は全くわかりませんからね。)
阿波沿岸部にあった「長國」は漢字の記す通り縦に非常に長い国です。
この場合、魏人の立ち寄った投馬國は、今までの女王の支配国から本家本元の女王国に入ったばかりの玄関口なのであり、長國でいうと最南の位置です。
投馬國自体は推計5万戸(およそ20万人?)と記述されており、かなりの大国ですが、阿波沿岸部である長國内の鞆地域を「国」とする(当時はまだ村々の集合体が国である)ならば長國の全体人口でいうと全く問題ないはずです。
投馬國から邪馬台国に向かうまでの行程として、「水行10日、陸行1ヶ月」の移動をしなければ女王の君臨する都である邪馬台国にたどり着けない。つまり、随分と長國内を移動しないと行けないからなのです。
現在残念ながら徳島県はどの地域も過疎の一途を辿っており、藩政時代にも上国であった昔の面影はどこにも御座いませんが、この地にある弥生時代の遺跡やグーグルマップなどで上空写真を確認してほしいのですが、海部川河口域の開けた場所は、上記の古墳跡からもその昔大きな町であった痕跡があります。
この「鞆」から出る多数の関船やだんじり・神輿等が練り歩く大里八幡祭は県下一の大祭でした。
現在ではだんじりの引手も減り、女だんじりなるものまであります。
私説に於いて、この場合における現時点の魏志倭人伝記述にある、投馬國(とまこく)は徳島県海部郡海陽町鞆浦(海部川流域の国)(長國の最南の港町であり海人の領域)に比定しておきます。
案外、寺山古墳等の埋葬者が魏志倭人伝にある官である彌彌や副官の彌彌那利のものであるかもしれませんね。
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