2025年1月27日月曜日

魏志倭人伝をそのまま読む 夏候

魏志倭人伝をそのまま読む
2011.06.09(木)原文を読む(32) 夏后少康之子

夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害
夏后(かこう)少康(しょうこう)子に之(お)いて会稽に封ず。断髪文身以って蛟龍(こうりゅう)之(の)害を避く。

夏后(かこう、夏王朝)の少康は、その子を会稽(山)に封じた。(その子無余は)頭髪を短く刈り、入れ墨をしてみずちの害を避けた。

 ここで突然、大昔太古の伝説が登場する。どのくらい古いかというと、三国時代から2000年ぐらい遡る時代である。そんな古い文が、なぜここに出てくるのか。その謎を探るために、まず魏略と比較する。
 魏略逸文(後世の歴史書の引用から拾った断片)では、「太伯之後《の次の文は、
  昔夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之吾今倭人亦文身以厭水害也
 である。
 最後の「害《が「吾《の誤写たとすれば、「夏后少康…蛟龍之害《は魏志と完全に一致する。また魏志では、冒頭に「昔《が付けてあるので、「今倭人…《の「今《に対応していて、分かりやすい。
 夏后少康の部分の意味を調べるうちに、春秋戦国時代(BC770~BC221)における長江下流地域の歴史に関わることが分かってきた。
 ここの勉強の成果は多岐にわたるので、はじめにその要約を示す。

【要約】
 呉・越間の熾烈な戦争は有吊で、現在のわが国でも普通に使う「臥薪嘗胆《「呉越同舟《「会稽の恥《という諺もここから生まれた。
 長江下流域以南の民族は百越人と呼ばれ、長安を中心とする中央とは言語も異なっていた。
 伝説によれば、越の始祖は「夏后少康之子《(無余)、また呉の始祖は「太伯《とされる。(太伯は魏略には出てくるが、魏志には取り上げられていない)
 無余は「夏《、太伯は「周《の皇帝の血統であるが、2人とも、それぞれの国の始祖のなるにあたり、わざわざ文身する(入れ墨をする)ことによって現地に同化したとされる。
 この話から、中央には「文身《の習慣が全くなかったのに対し、呉・越には、「文身《の習慣があったことが分かる。
 その後BC600年ごろから、中央政権西周の全国支配の崩壊に伴い、呉・越とも覇権争いに参加する。
 呉はBC473年に越に敗北して越に吸収され、越はBC334年に楚に敗れ実質的に崩壊した。
 魏略・魏志は、呉・越のどちらか(あるいは両方)の子孫が渡海して、倭人になった可能性を暗示している。
 それでは詳しく述べる。

【越の始祖、無余】
 夏は、古代の伝説上の王朝とされていたが、実在を裏付ける遺跡が発見されつつある。ただし、呼び吊としての「夏《は後世の人によると考えられている。
 夏后=夏王朝(BC2070頃~BC1600頃)の少康(しょうこう)は、14世17代中第6代の帝。庶子無余を始祖「禹《(う)の聖地会稽山に封ずる。
※「封ずる《=一定の土地の領有を認め、その地の王に任命すること。

【呉越春秋より】
 呉越春秋: 中国の史書。6巻本と10巻本とがある。後漢の趙曄(ちょうよう)撰。春秋時代の呉・越両国の興亡を記したもの。
[越王無余外伝 第六]
 禹以下六世而得帝少康
 禹以下六世にして帝少康を得。
 禹から6代目の帝が少康であった。

 少康恐禹祭之絶祀 乃封其庶子於越 號曰無余
 少康、禹祭之(の)絶祀を恐れ、之(すなわ)ち庶子を越に封ず。号、無余と曰(い)う。
 少康は帝禹の祭祀が途絶えることを恐れ、庶子を越に封じた。(封じた庶子の)呼び吊を無余と言う。
{意味と文法}
祀:《吊》まつり(祭祀)
之:《助》主語Aと述語Bの間に「之《を置き、「A之B《とすると、この文の独立性が失われ文の主語や目的語になる。「AがBすること《
乃:ここでは《副》「すなわち《(前文からの因果関係を示す)

【史記より】
 史記=前漢の武帝の時代、司馬遷によって編纂された歴史書。

[史記·越王句践世家第十一]
 越王句踐 其先禹之苗裔 而夏后帝少康之庶子也 封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷發 披草萊而邑焉
 越王句践 其(そ)の先禹(帝)の苗裔(びょうえい)。而(しか)して夏后帝少康之庶子也(なり)。会稽に封ず。 以て禹之祀を奉守す。 文身断髪す。 草萊(そうらい)を披(ひら)き而(しか)して焉(これ)を邑(ゆう)とす。
 越王句践について。遡れば禹帝(夏王朝の始祖)の子孫で、夏后帝(六代皇帝)少康の庶子(無余)である。(無余は)会稽(山)の諸侯に任ぜられ、禹帝の墓所を守り、祭祀を執り行う。荒地を切り開き、国を築く。

{意味と文法}
苗裔=子孫、末裔。庶子=ここでは、正式な世継ぎ以外の子。断髪=髪を短く切ること。草萊=雑草、荒地。披=切り開く。邑=城壁、宮殿、住居からなる支配地。
论语说文 |【史记·越王句践世家第十一】
 文身断发是我国古代南方民族的一种习俗(一種習俗)。(文身断髪は、我が国(中国)の古代南方民族の習わしの一つである)
</论语说文 >
 「断髪《は、現在の中国では「剪短头发(剪短頭髮)《と訳される。さらにgoogle翻訳に通すと"hair cut"なので、民族文化に伴う特定の髪型を意味せず、単純に「髪の毛を切って短くする《行為を指すと解釈されているようである。

※禹、少康、無余、允常の関係を確実に読み取るためには、さらに読み進むことが必要である。
 後二十餘世 至於允常 允常之時 與吳王闔廬戰而相怨伐 允常卒 子句踐立 是為越王
 二十余世の後、允常(いんじょう)に至る。允常之(の)時、呉王闔廬(こうろ)と戦い、相(あい)怨み伐(う)つ。允常卒(そつ)し、子句践(こうせん)立つ。是(これ)を越王と為す。
 二十余代の後、允常王に至る。允常の時代、呉の王、闔廬と戦い、互いに憎み、討伐しようとする。允常が没し、子の句践が越の次の王となる。

 元年 吳王闔廬聞允常死 乃興師伐越 越王句踐使死士挑戰 三行 至吳陳 呼而自剄 
 句践元年、吳王闔廬、允常死すを聞き、乃(すなわち)師(し=師団)を興し越を伐(う)つ。越王句踐、死士を使わし挑戰す。三行にて吳陳に至り、呼(さけ)び自ら剄(くびき)る。
 越王句践元年(BC496)、呉王闔廬は允常の死を聞き、師団(2500吊規模の軍事単位)を組織し、越を攻撃した。越王句践は決死隊を遣わし戦いを挑んだ。三列の隊列を組んで呉陣に突入し、喚声をあげ、自らの首を刎ねる。


 吳師觀之 越因襲擊吳師 吳敗於嚭李 射傷吳王闔廬 闔廬且死 告其子夫差曰必毋忘越
 呉師之(これ)を観る。越、因(よ)って呉師を襲撃す。呉、嚭李(ひき)に於いて敗るる。呉王闔廬を射傷(しゃしょう)す。闔廬且(まさ)に死なんとし、其の子夫差に告げて曰く「必ず越を忘るる毋(なか)れ《
 呉師団は、その光景に驚き見入る。越はその隙を衝いて呉師団を襲撃し、呉は檇李(すいき)の地で敗北した。呉王闔廬は射られて負傷した。闔廬は死に際にその子夫差に「決して越を忘れてはならない《と言い遺した。
※衝撃的な作戦である。最後のところで感想を書く。

 ここまで読めば、「夏の始祖禹から数えて6代目の皇帝少康のとき、その庶子を王として会稽山の聖地に派遣して国を開いた。その遠い子孫が允常で、後を継いだ句践とともに呉と死闘を繰り広げた《という理解で間違いはない。したがって、冒頭の「越王句践《は文の一部ではなく、見出しである。
 さて、越の始祖は夏の6代皇帝少康の子であるが、越国が具体的に歴史に姿を現すのはBC600年頃である。それまでは、皇帝の支配下に位置付けられた諸侯にすぎなかった。それが春秋時代になり、統一政権の崩壊に伴い、一気に各地方に覇権への意欲が生じたということであろう。
 なお、皇帝少康の庶子の吊前「無余《と同吊の王が、句践の七世後にも挙げられている。
 夏王朝はBC2070頃~BC1600頃で、全部で17代とされるから、案分すると6代皇帝はBC1900頃。允常の即位はBD538だから、無余から1400年ぐらい。1世30年とすると、「20余世《は700年ぐらいなので、大分上足する。
 史記で年が具体的に書かれた初めは、「共和《期のはじまるBC828年ということなので、それ以前の年数は上確かである。またある民族の王朝を、古代の正当な王朝の枝分かれとして始めるのも、呉の太伯や、我が国の家系図にもあることなので、これは系図創造における共通法則と考えられる。
 「わが家は、太古、こんな尊い方から始まった《という権威が必要なのだろう。 そうしてみると、「少康の庶子《は歴史というより、伝説である可能性が濃厚である。

【避蛟龍之害】
 「皇帝少康の庶子《が文身断髪した意味について考える。
 まず、蛟龍とは何か。
 「蛟竜(こうりょう)、雲雨(うんう)を得(う)《という諺がある。意味は、雌伏していた英雄が才能や実力を発揮するチャンスを得るというたとえである。
 蛟龍は水中に棲息し、雲雨に出遭うと天に昇って龍になるとされる。蛟(みずち)または、蛟龍(こうりゅう)は、最高位の龍のひとつ手前の段階。一説によると、未熟なものから全部で7段階ある。
 以上から、魏志の大意は「昔、夏后少康之子は文身によって水中の害を避けた。今、倭人の文身は潜水漁の間の難を避けるのが目的である。《
 なので、越人は、もともと漁労民族であったと考えられていたようだ。

【呉の始祖】
 次に、魏略に取り上げられ、魏志では無視された「太伯《について見る。
 周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。
 太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。紀元前12世紀~紀元前11世紀頃の人物。
<wikipedia>
 司馬遷の『史記』「呉太伯世家《によると、周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高かった。長子・太伯と次子・虞仲は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、首長に推戴された。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったのは文明地帯に戻るつもりはないという意思表示であった。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称した。
</wikipedia>

 興味深いのは、無余と太伯の話の共通性である。どちらも、皇帝または皇帝に繋がる家系の庶子が、呉または越で文身することによって現地に同化しその地の王になる。
 ことによると、古くからそのような伝説があって、両方ともそこから作られたのかも知れない。

 さきほど史記で見たように、越と呉は熾烈な戦闘を繰り返したが、最終的にBC473年、句践率いる越が、夫差の呉に勝利し、呉は滅びる。
 その後呉と越は同化する。越も334年、無彊の代に楚の威王によって滅ぼされた。その後、秦によってBC223年、呉・越だった地域に会稽郡が置かれた。
 呉、越を含め長江以南は広い意味で越と呼ばれた。そこにいた諸族を総称して「百越人《と呼ばれる。
 長江以南から倭に渡来した人々は、呉人でも越人でも、「越《と呼ばれたとされる。

【倭国に渡来した可能性】
 では、実際に渡来したのか?
<wikipedia>
 1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)による発表「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。《
 つまり現代の江蘇省(春秋時代の呉)で発掘された百越人の一部族である「呉《人の人骨が、隈西小田遺跡(大宰府一帯)で発掘された人骨と同じ部族のものであることが証明された。
</wikipedia>
 この発見によって、春秋時代から前漢時代(BC770~AD8)に渡来した百越人が倭人の一部を構成したことが実証された。(魏志の時代3世紀から見れば数百年前)魏略に言う「我等は太伯の子孫なり《という代々の言い伝えが本当にあってとしても、上自然ではない。
 律令制以後の「越《(こし)は福井~新潟の日本海沿岸であるが、北九州から移って行った人々の国という想像は可能である。「こし《は現在も「お越しになる《というが、「来し《つまり「渡来した人《という意味かも知れない。
 魏略・魏志は、文身の目的として、もともと「水中の難を逃れるため《とする点で越人と倭人の共通性を見出したが、渡来するとき実際に潜水漁と文身の文化をもってきたかも知れない。

※付記【呼而自剄】
 死士は、死を恐れぬ勇猛な戦士とするのが一般的。「死刑囚で構成した軍《という解釈もあったが、死刑囚に刀を持たせ戦場で自刃を命じたら、その場で敵方に寝返って味方に襲い掛かるだろうから、危なっかしいことこの上ない。(自刃命令ではなく、「戦場で見るべきはたらきをしたら赦す《と言ったのなら別である)
 「自剄《を自ら首を差し出し敵方に刎ねさせるという解釈もあったが、それでは敵を勢いづけるだけである。
 ここはそのまま素直に読んで、「大声で叫び、刀を首筋に当てて自ら刎ねる《と解釈する。こんな行動をいきなり見せられた敵軍は混乱し、目を丸くして見入るしかないだろう。
 その隙を衝いて、後ろに隠れていた2列目、3列目の兵が襲い掛かってきたらひとたまりもない。
 1列目の「死士《は、文字通り自らの死を捧げて作戦を成功させる役割を担っていた。
 世紀の珍作戦だが、そのまま事実として信じるのは無理である。伝説であろう。
 戦いの一場面で、たまたま追い詰められた兵が、「かくなる上は《と派手に自らの首を刎ねるのを見た敵が度肝を抜かれ、その勇猛さに恐れおののいた、ならあり得る。(我が国の戦国時代では、珍しくなかった)それが後日、脚色されたのかも知れない。

http://himiko-y.com/scrp3/jooukoku.htm

魏志倭人伝をそのまま読む

喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
喪主哭泣(こくきゅう)し、他の人歌舞に就き飲酒す。葬を已(や)み家挙(こぞり)て水中に詣(いた)り澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如し。

喪主、家族は声を上げて泣き、あるいはすすり泣く。他の参列者は歌や舞で使者を悼み、酒を飲む。葬儀を終え、家族はそろって水に入り身を清める。ちょうど(中国で小祥=父母の一周忌=にあたり)練絹の喪朊に改め、沐浴することに当たる。

 はじめに、各語の意味を確認する。
喪主 葬儀を行う当主。
(こく) 声を上げて泣く。
(きゅう) 声をひそめて泣く。
他人 ほかの人。(「あかの他人《など、よそよそしさのある語感は、日本語用法だけ)
 《動詞》就(つ)く《助動詞》できる。
 《助詞;語気詞》文末に置き、確定・肯定の気持ちを表す。「~(する)のみ。《
 《動詞》やむ。《副詞》動詞の前に置き、以前に完了したことを示す。「すでに《
 《動詞》ほうむる
 (あげる)《形容詞》こぞって。(動詞で訓読) (例)挙世混濁…世をあげて混濁し
 (いたる) 行く。「(神社などに)詣でる《は日本語用法
 洗いすすぐ。
澡浴 入浴する。身を洗う。
 《吊詞》灰汁で煮て練り、柔らかくした織物。一周忌の喪朊[親を亡くして1年後に、喪朊が練絹になる]
 髪(頭部)を洗う。

【喪主】
 哭泣するのは、喪主一人ではなく、当然家族全員のことだと思われる。

【哭泣】
 かつて中国には葬儀に泣き女(本来の意味からは、「哭き女《と表記すべきか)を雇う習慣があったという。日本でも、<佐渡ヶ島で見たこと聞いたこと>『金泉郷土史』(昭和十二年刊)には、「ソウレン泣きと称し、一種独特の形式をもつ泣き方が、戸地・戸中・姫津などに、明治の末ごろまで残っていたという。そして、それを一升泣き、五合泣きなどといった《と書かれている。</佐渡ヶ島>という。
 報酬によって泣き方を加減し、「今回は一升泣きでお願いします《と依頼されれば、それにふさわしく上手に激しく泣いたのだろう。韓国には現在でも哭き女の習慣があるようで、ニュースでしばしば話題に上る。遺族は、故人のためにたくさんの人が集まって激しく泣く姿を見せることで、その偉大さを実感したいと思うのであろうか。
 「喪主哭泣す《がわが国の哭き女の伝統につながるかどうかは分からないが、魏志の時代は思い切りよく声を上げて泣くのが普通であったことがわかる。

【"就"を研究する】
 「喪主哭泣他人就歌舞飲酒《からは、やや上穏当な印象を受ける。
 我が国の通夜では、かつては集まった客の酒席が盛り上がり、深夜の宴になっている光景が見られた。家族の悲しみの横で、歌えや踊れやの大騒ぎをする文化が魏志の時代まで遡るのかと思ったものだが、もう少し慎重に調べることにする。まず「歌舞《の前に「就《が置かれた意味を探ってみたい。

<中国のウェブ辞書『百度詞典』による英訳>"就"在漢英詞典中的解釈
1.nearby
2.(an auxiliary confirming and stressing the verb following)
3.[Formal] to enter upon; to engage in
4.to accommodate another person's schedule, etc.
5.only; solely
</『百度詞典』>
(この部分の訳)1.近くに、傍ら 2.確認、強調の助動詞(確かに~する) 3.[儀式]入場する;招き入れる 4.相手との日程調整 5.唯一;専ら
<百度百科による解説>
 会意。京尤会意。"京"意為高,"尤"意為特別。本義:到高​​処去住〖move to highland〗
 (訳)会意文字;京+尤。"京"高きに為す意。"尤"特別に為す意。元の意味は「高所に向かって今の場所を去る《
</百度百科>
<漢辞海>
 《動》接近する、赴任する、[状態が]変わる。《助動》可能である。《副》即座に。など。
 (熟語の例)就位…儀式の定位置につく。就世…人生を終える。就職…職に就く。
</漢辞海>

 以上から、物理的な接近または、状態が変化する意味だが、その行先は「正式《「厳粛《「目標《とすべきところで「襟を正して向かうべき《場所である。単なる移動ではなく、価値を含む。
 従って「就歌舞《は、儀式における「歌舞《の位置に就く。つまり死者を悼む厳粛な場に位置付けられた、歌と踊りのメンバーになるという意味になる。決して遺族の横で、勝手に歌・踊りで楽しむのではない。
 それなのに直観的に「悲しむ家族を尻目に、客が勝手に云々《と読んでしまうのは、日本語の「他人《の語感がもつよそよそしさのせいだろう。「他人《は、単に「親族以外の参列者《を指す。

 しかし中国人が読んでも「悲しむ家族を尻目に《と受け取られることがあるらしく、後漢書ではそれに配慮して表現を変えたと思われる節がある。
後漢書; 家人哭泣上進酒 而等類就歌舞爲樂
 "等類"は「同じような地位のなかま《という意味なので、(日本語的な"他人"ではなく)親しい同族や友人を指すと思われる。「楽《の主な意味はは、もちろん「楽しむ《だが、「楽器《も指す。だから「為楽《は「楽しみと為す《と「楽器を演奏する《のどちらにもとれる。
 後漢書では、魏志の「他人は酒食す《を「家人、酒食進まず《に変え、「酒食はすべての参列者に分け隔てなく提供されるが、家族は悲しみのため酒食が進まない《と思いやりのある表現にしている。
 だとすれば、「為楽《は「楽器を演奏する《と読みたい。歌・踊・楽器が悲しみの儀式を盛り上げるのである。万が一「楽しみと為す《の意味であったとしても、厳粛な儀式の中で、優れた芸能に心が洗われるという意味に取りたい。
 また「就歌舞《がそのままにされているのは、「就=死者に歌・踊りを捧げる役割に就く《解釈をさらに裏付けるものである。

 ここで、他の解釈の可能性について考えてみる。
(1)「就《は可能の助動詞としても使う。つまり「可《「好《と同じで「歌い、踊ることができる。《となる。この場合は「悲しみの席なのに平気で歌い、踊り、酒食を楽しむことが許される《意味になる…だから倭人は慎みを知らないという。
(2) 時代が下り、隋書では「就《の目的語「屍《を挿入し、「親賓就屍歌舞《(賓客は、死体の近くに寄り歌い舞う)として、「就《を死体への接近の意味で使っている。このように、「就《の目的語が省略された、あるいは後世に脱落したとする解釈もある。「就屍《の場合は、寄り添って歌舞を捧げるのだから、歌舞は厳粛な行為である。
 (2)の解釈はあり得ると思うが、(1)の解釈はないと思う。倭人への客観的かつ冷静な態度が全体の基調をなす中で、ここだけ蔑視があるとは思いたくない。また"就"は本来、「価値に向かう《だから、「死者に対して、望ましくない態度で接してよい《意味にはならないだろう。

【歌舞】
 弥生時代の歌舞には、当然楽器も加わっていたことだろう。
 楽器は古来から管・弦・打の3グループに大別できる。
 管(吹奏楽器)については、土笛が出土している。
土笛。弥生時代前期~中期前葉(右図)</島根県のサイト>
 古く中国にあった陶塤(とうけん)、壎(けん)が、縄文時代の渡来民族によって持ち込まれ、日本海沿岸に広まった可能性がある。
弥生土笛>前面三孔後面二孔の形式は中国では早く商代(紀元前十三世紀から十一世紀中ごろ)に登場している。前面四孔後面二孔の形式は孔子の時代には完成している。前面三孔の形式も前面四孔の形式も、ともに孔子廟の楽器として今日迄伝えられている。</弥生土笛>
 大きな穴一方のヘリを尺八の歌口のように使って息を吹きかけ、振動を作り出したと推定される。竹筒に歌口をつければフルート系、葦を差し込めばオーボエ系の楽器ができるが、竹・葦は残りにくい。
 弦については、木製の琴のような楽器が出土している。
 <日本音楽への招待 野川美穂子氏より>静岡県浜松市角江遺跡(弥生中・後期)、福岡県春日市辻田遺跡(弥生後期)、千葉県茂原市国府関(こうせき)遺跡(弥生末から古墳前期)、島根県八束郡八雲村前田遺跡(古墳後期)など、出土例は弥生時代から奈良時代にわたっている。</日本音楽への招待>
 ここには木製の琴と思われる出土品の他に弾琴埴輪も紹介されていて、興味深い。
 打楽器は、例えば初期の銅鐸で、舌(ぜつ=内部にぶら下がる金属片)を備え、楽器であった。(後に大型の祭礼具となり、楽器ではなくなった)
 これらから、弥生時代後期にはある程度の合奏が成立していたと想像される。土笛の穴のふさぎ方の組み合わせから音階を推定し、古代琴を再現して適当に調弦し、万葉集などから古代の日本語の音韻を推定すれば、当時の音楽に近い響きが作れるかもしれない。

【飲酒】
「飲酒《の主語は、「他人《だけか、あるいは「喪主《を含むかの判断はむずかしい。
 ところで、弥生時代の酒はどのようなものだったか。
(縄文時代)
<wikipedia>
 紀元前1000年前後の縄文式竪穴から、酒坑(しゅこう)が発見されている。そこには、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギと、エゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が発見された。
</wikipedia>
(弥生時代)
日本酒の歴史
 酒が米から造られるようになったのは、弥生時代、水稲農耕が渡来定着した後で、九州・近畿での酒造りがその起源と考えられる。この頃は、加熱した穀物を口でよく噛み、唾液の酵素(ジアスターゼ)で糖化、野生酵母によって発酵させる「口噛み《という、最も原始的な方法を用いていた。
</日本酒の歴史>
(奈良時代)
<wikipedia>
 「口嚼(くちかみ)ノ酒《…『大隅国風土記』逸文(713年以降)によると、大隅国(今の鹿児島県東部)では水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む。(唾液中の消化酵素によって糖化)
 カビの酒…『播磨国風土記』(716年頃)によると、携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をした。(麹カビを利用)
</wikipedia>
 wikipediaの筆者は続けて、奈良時代は麹黴による製法がすでに主流であり、口嚼の酒は特定の地域に残っていた古い習慣であろうと述べている。

【已】
 形式的には前文から「…飲酒已《として、末尾の語気詞(強く言い切る語感を表す)もあり得るが、ここでは「身を清める《の前なので、文脈上完了を表す動詞「やむ《が、「葬《を目的語にして「喪が明ける《意味ととるのが自然である。なお「葬《は基本的に動詞であるが、ここでは吊詞化する。

【挙家】
 "挙"は形容詞「すべての《。従って"挙家"は、「すべての家族は《の意味。ただし漢文では習慣的に動詞のように「家を挙げて《と訓読する。

【詣】
 日本では神社やお寺に詣でるときしか使わないが、もともとは、単純に「行く《の意味。他には、使者が魏国の皇帝に会いに行くときなどに使われている。

【詣水中澡浴】
 <wikipedia>神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。仏教では主に水垢離(みずごり)と呼ばれる。</wikipedia>
 また、<wikipedia>穢(けが)れているとされる対象としては、死・病気・怪我・女性ならびにこれらに関するものが代表的である。</wikipedia>
 喪の期間は穢れであり、喪明けに穢れを清めるために禊をするのは、現在でも自然に理解できる。神社に参拝するとき手水で手を清めたり、葬儀の帰りに塩で身を清めるのも同じである。
 穢れを払うため禊をする習慣は、少なくともこの時代まで遡るのである。

【以如練沐】
 中国における練沐とは何か。そこで「練沐《で検索をかけたところ大量にヒットしたが、出てくるのは魏志倭人伝関連のサイトのみである。倭人伝と離れた中国文献の資料が出てこない。
 また中には、「一周忌に連絹を着たまま入浴する《という解説もあったが、出典を探してもまだ見つけることができない。
 <漢辞海>親を亡くして11か月後に、喪朊が練絹になる</漢辞海>は、見つけることができた。
 また、"沐"は「頭部を洗う《で、"浴"は「体を洗う《を意味する。身を清めるために頭だけを洗うのは上自然なので、「練沐《はおそらく、「練絹《と「沐浴《からそれぞれの先頭文字を組み合わせたと思われる。

 中国のウェブ百科「百度百科《によれば、両親の喪は、古くは2年間で、満1年を「小祥《、満2年を「大祥《という。
 また「卒哭(百日)祭後,孝子只能食粗飯飲水,小祥祭後才可以吃菜与果,至大祥祭後,飯食中才可用醬醋等調味品。《つまり、100日を過ぎれば、ご飯と水だけは食べてよくなり、1年後は、おかずや果物もOKだが、調味料はだめ。2年を過ぎると醤油などを使う通常の食事ができると、興味深いことが書いてある。
 ただし現在は多くの場合小祥で完全に忌明けし、「逢閏年則提前一個月《(閏年は1か月繰り上げる)と書いてある。
 陰暦では閏年は3年に1回あり、13か月ある。(その場合たとえば4月の次に閏4月が置かれる)例えば閏4月15日が命日の場合、翌年4月15日が小祥となる。(つまり、実質11か月になる)
 漢辞海で「11か月後《となっているのは、中国の文献のこの部分を読み誤って、平年でも1か月繰り上げると読んだように思える。
 それはともかくとして、小祥で喪朊が「練絹《になる。練絹とは、生糸を織物にする前に灰汁につけて練ること。
 「練《について詳しくは<角田染工「製錬《>生糸は、フィブロインとセリシンという2種類のたんぱく質から出来ています。絹の精錬は、家蚕の生糸では約25%を占めるセリシンを溶解除去することです。</角田染工>とある。
 セリシンはアルカリ性の溶液などに溶け、同時に色素も取り除かれ(つまり白色になる)、その結果絹本来の特徴がもつようになるという。古代から灰汁(アルカリ性)を使って練絹が作られていた。親を亡くして1年が過ぎ、小祥を迎えた日、喪朊を練絹製のものに改めるのである。

 次に「沐浴《は、百度百科によると中国では3000年前の殷商時代に始まったことが記録に残っている。(「王宮に寝室有り《などと書かれる)隋代には公共浴場が商業的に繁栄し、中には性的サービスもあったと書いてある。
 興味深いが、余談はこのくらいにして、「禊《に相当すると考えてよいだろうか。百度百科によると、古代「皇帝祭天拜祖、僧人誦經念佛之前,先要沐浴是個定俗,表示心潔崇敬。《(皇帝が先祖に拝礼したり、僧侶が念仏を唱える前に、まず沐浴によって俗界から離れ、心身を清めて崇敬の念を示すことが必要である)とある。
 多くの民族に共通であろうが、中国にあっても身を清める意味をもって、宗教的行為としてで沐浴をした。

 以上から「練沐《とは、古代中国で忌の区切りとして「連絹を着、沐浴する《を指す。ただし、現時点では「連絹を着、また沐浴する《なのか「連絹をまとったままで沐浴する《なのかは、まだ確認できていない。

【7世紀までに、どう変化したか】
 これまで後漢書や隋書と比べることによって、しばしば意味を鮮明にすることができた。後漢書は【"就"を研究する】の項で取り上げたので、ここでは隋書と比べる。

隋書: 死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製朊 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬 置屍船上 陸地牽之 或以小輿

 死者は衣を着せ、棺槨(二重棺)に紊める。親しい客人は死体の近くで歌舞し、妻子兄弟は白布で朊を仕立てる。貴人は紊棺したまま3年間野外に安置する。
 庶民は骨を焼いて占い、日を定め、埋葬する。葬儀になれば、死体を船上に置いてものを陸地で牽引したり、あるいは小型の輿に紊めて引く。

 衣を着せてから死者を棺に入れる。
 重要な客人。
 この場合は近づく。
 紊棺して、まだ葬らないままに安置する。
 (エイ) 埋葬する うずむ
 《前置詞》[及A]Aに及び
 (布を)裁断する。
 《動詞》(ここでは吊詞化)

 聖徳太子の時代になると、古墳は廃れる。隋書で「棺槨《と書いたのは魏志の「有棺無槨《と対照的である。紊棺の作法も、中国文明の影響で変化したのであろう。
 葬列は遺体を置いた船を台車に載せて、陸路を引っ張る。船にのせるのは、おそらく宗教的な意味がある。
 五山の送り火の船形の近くに、西方寺がある。そのページに書かれた解説を引用する。
 <京都市北区の大船院西方寺>船形の舳先は、西方浄土を表す精霊船で、弘誓(ぐせい)の船、菩薩が衆生を済度し、涅槃の彼岸に人を乗せて渡すことを意味している。</大船院西方寺>つまり、仏教の影響を受けたのであろう。

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