2024年4月9日火曜日

仲哀天皇 - Wikipedia

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仲哀天皇

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、日本の第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。『日本書紀』での名は足仲彦天皇日本武尊の子で神功皇后の夫。通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[1][2][3][4][5]

略歴

大足彦天皇(景行天皇皇子である日本武尊の第二子。母は活目天皇(垂仁天皇)の皇女両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。稚足彦天皇(成務天皇)の甥。成務天皇48年に立太子。先帝が崩御した2年後に即位。即位2年、気長足姫尊を皇后とした(神功皇后)。これより前に妃としていた従妹の大中姫命との間に麛坂皇子忍熊皇子を得ている。再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫の橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。即位9年には親征先の筑紫で崩御。熊襲の矢に当たったともされる。その10カ月後、皇后が誉田別命(応神天皇)を生んだ。

  • 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
  • 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと) - 『日本書紀』
  • 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) - 『古事記

漢風諡号である「仲哀天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。なお、門脇禎二によれば、諡法においては「仲」の字は配すべからざる語であり、漢風諡号としては異例であるとされる[6]

事績

容姿端正、身長一丈(3メートル)[7]。『日本書紀』によれば、叔父の稚足彦天皇(成務天皇)に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。

皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇41年に30歳で死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺した。

即位2年1月11日、気長足姫尊(成務天皇40年誕生)を立后(神功皇后)。

同年2月、角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。同月、淡路に屯倉を設ける。3月、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。6月、穴門の豊浦津へ至る。

即位8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた[注 1]。それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した。これを無視して構わず熊襲を攻めたものの空しく敗走。

即位9年2月、急死して神の怒りに触れたと見なされた[6]。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲のに当たり、橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で崩御したとされる。遺体は武内宿禰により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って穴門豊浦宮(現下関市長府)でされた。下関市長府の日頼寺に宮内庁が管轄する「御殯斂地」がある。

系譜

系図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10 崇神天皇

 

彦坐王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豊城入彦命

 

11 垂仁天皇

 

丹波道主命

 

山代之大筒木真若王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上毛野氏
下毛野氏

 

12 景行天皇

 

倭姫命

 

迦邇米雷王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本武尊

 

13 成務天皇

 

息長宿禰王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14 仲哀天皇

 

 

 

 

 

神功皇后
(仲哀天皇后)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15 応神天皇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16 仁徳天皇

 

菟道稚郎子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

稚野毛二派皇子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

17 履中天皇

 

18 反正天皇

 

19 允恭天皇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意富富杼王

 

忍坂大中姫
(允恭天皇后)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市辺押磐皇子

 

木梨軽皇子

 

20 安康天皇

 

21 雄略天皇

 

 

 

 

 

乎非王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飯豊青皇女

 

24 仁賢天皇

 

23 顕宗天皇

 

22 清寧天皇

 

春日大娘皇女
(仁賢天皇后)

 

彦主人王

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手白香皇女
(継体天皇后)

 

25 武烈天皇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

26 継体天皇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


后妃・皇子女

  • 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后息長宿禰王の女)
    • 誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇
  • 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
  • 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
    • 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[8]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 成務天皇48年
    • 3月、皇太子に立てられる
  • 仲哀天皇元年
    • 1月、即位
    • 11月、父の日本武尊を忍び白鳥を献上させる
  • 仲哀天皇2年
    • 1月、気長足姫尊を立后
    • 2月、角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。淡路に屯倉を設ける
    • 3月、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始
    • 6月、穴門の豊浦津へ
  • 仲哀天皇8年
    • 1月、筑紫の橿日宮へ
    • 9月、皇后が神がかり渡海遠征するよう託宣。無視して熊襲と闘い敗北
  • 仲哀天皇9年
    • 2月、崩御。宝算は52歳(『古事記』も同じ)
  • 神功皇后摂政2年
    • 11月、恵我長野西陵に葬られた

日本書紀』では行宮のみが記される。即位2年2月に先帝の志賀高穴穂宮を出て角鹿の笥飯宮(けひのみや)に滞在。3月に紀伊国で徳勒津宮(ところつのみや)に滞在。6月から熊襲を討つため穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫橿日宮に滞在。『古事記』では以下の2つが宮とされるが、いずれも『日本書紀』では行宮である。

陵・霊廟

(みささぎ)の名は恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある遺跡名「岡ミサンザイ古墳」に治定されている。墳丘長242メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円

古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。『延喜式諸陵寮には「兆域東西二町、南北二町、陵戸一烟、守戸四烟」と見える。岡ミサンザイ古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

伝承

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[8]

岡浦の航海

熊襲征伐の際、熊鰐という者が周芳の佐波(山口県防府市佐波)で天皇を出迎えた。船首には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊が掛かっていた。豊浦津から筑紫に入る天皇に熊鰐は六連島、藍島、逆見海といった魚や塩がとれる海域を献上して水先案内を行った。しかし山鹿岬から岡浦の水戸(みなと)に入ったところで船が進まなくなってしまった。熊鰐に聞くと、この浦のほとりにいる大倉主、菟夫羅媛(つぶらひめ)という男女の神の意志だという。そこで菟田出身の伊賀彦という舵取りに祭らせると船は無事進んだ。後から来た皇后もまた船が進まず熊鰐が導いた。これらの功から熊鰐は岡県主となった。

また天皇が筑紫に入る際に五十迹手(いとて)という者が穴門の引嶋で出迎えた。周芳の熊鰐のときと同じく船主には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝には十握剣が掛かっていた。八尺瓊は智謀、白銅鏡は見識、十握剣は武力を象徴していると説明された天皇は五十迹手を「伊蘇志(いそし)」「よくやった」と褒めたたえた。そこで五十迹手の治める国を伊蘇国といい、訛って伊都国という。その後、天皇は無事に灘県に到着して橿日宮を造営した。

賢木()に神器を掲げて貴人を出迎える事例は景行紀にも書かれている。熊鰐と同じく周芳の佐波で天皇を出迎えた神夏磯媛(かむなつそひめ)の船首には磯津山(しつのやま)の賢木が立てられており上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊が掛かっていた。神代にも天岩戸に籠る天照大神を呼び出すため太玉命天児屋命が天香久山から眞坂樹(まさかき)を掘り出して上枝に八坂瓊、中枝に八咫鏡、下枝に和幣を掛けたという話がある。

大祓

古事記』によると息長帯日売命(神功皇后)が神がかったとき、天皇は琴を弾き建内宿禰は神の言葉を受けた。皇后は西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託を告げた。しかし天皇はこれを疑い琴を弾くのをやめてしまった。神はとても怒り天皇へ死を宣告した。建内宿禰は恐れおののき琴を弾き続けるように奏上した。天皇は渋々従ったものの、そのうちに琴の音が聞こえなくなった。灯りをつけると天皇は崩御していた。

急遽、穴門豊浦宮でが行われた。『日本書紀』では密かに行われたものであるが『古事記』によると大祓(おおはらえ)という大々的なものだった。「生剥、逆剥、阿離[注 2]、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚の罪を様々に求めて祓った」とある。このうち生剥から屎戸までは神代に素戔嗚尊が天上で犯した罪、すなわち「天津罪」(天つ罪)と同じである。上通下通婚は近親相姦、馬婚から犬婚は獣姦で、「国津罪」(国つ罪)の一部である(「天つ罪・国つ罪」を参照)。神の意志に逆らった天皇の葬儀にこのようなものが集められ祓われた。

考証

実在性

『日本書紀』の仲哀天皇に関する記述を歴史的事実と認める戦前の研究では、仲哀天皇の時代は4世紀に該当するとされていた[9]。若井敏明著「邪馬台国の滅亡」吉川弘文館発行では、仲哀天皇9年は西暦367年と推定している。

しかし戦後の通説では実在性の低い天皇の一人に挙げられる[1][2][10][4][5]。実在性の低い天皇の一人に挙げられている最大の根拠は伝説的な父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持つためである。

非実在説の概要は以下のとおりである。

  • 仲哀天皇は日本武尊と神功皇后の説話を皇室系譜上に位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い[1]
  • 仲哀紀には、日本武尊の白鳥伝説に関連した説話と神功皇后の新羅征討につながる説話しかなく、このふたりの伝承を天皇紀に組み込む装置としての仲哀天皇の位置づけがよくあらわされている[2]
  • 日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって一大英雄伝説に仕立て上げたもの、神功皇后の話は朝鮮の三国時代から持統天皇による文武天皇擁立までの日朝関係の経緯を基に神話として記紀に挿入されたものであり、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創作され記紀に挿入されたのが仲哀天皇である[10]
  • 仲哀天皇の生誕年についても、実在性には疑いが持たれている。『日本書紀』に成務天皇の即位48年に31歳の仲哀天皇を皇太子に任命した記事があるが、これだと日本武尊の死が成務天皇即位より20年前にあたるため、日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の死後36年後に産まれたことになり、明らかに矛盾している。
  • 「タラシ」「ヒコ」という和風諡号を持つことも仲哀天皇非実在の根拠である。「タラシナカツヒコ(足仲彦)」という和風諡号のうち「タラシ」「ヒコ」(「タラシヒコ」・「タラシヒメ」)の部分は、同時期の景行天皇、成務天皇、神功皇后とも共通するものである[11][12]。しかし、この「タラシヒコ」・「タラシヒメ」は遥か後世の7世紀頃から用いられるようになった天皇の呼称であるとする説がある[11][12]。また、「タラシナカツヒコ」から仮に後世の創作による「タラシヒコ」を除くと、「ナカツ」という普通名詞のみとなり[11]、そのため井上光貞のように、この和風諡号が仲哀天皇が架空の人物である証左であると見る論者もいる[11][12]
  • 岡田英弘は、仲哀天皇が后の神功皇后とともに、志賀高穴穂宮から紀伊徳勒津宮、角鹿笥飯宮穴門豊浦宮筑紫橿日宮と、海港を点々として海上を彷徨ってばかりで陸上に定住し行政を行ってない事から非実在としている[13]
  • 仲哀天皇が即位したとされる志賀高穴穂宮は考古学的な遺跡は全く発見されておらず、仲哀天皇自体の実在も疑われる[14]

上記の説には以下の疑問点及び反論がある。

  • 朝廷の記紀編纂とは無関係で成立したと見られる諸豪族の系図には、倭建命、神功皇后と共に仲哀天皇治世での活動をした人物の記事が見えている[15]
  • 古代より「若帯部」などの存在が確認されており、「タラシ」が古い歴史を持っていたことを考慮すると、これら諸天皇の称号が必ずしも後世の造作とはいえず、7世紀に成立したとする根拠は何ら存在しないともされる。また後世の天皇の諱号と類似するだけで非実在を唱えるのは、大変な論理の飛躍であり非実在の根拠にはならないとの意見もある[16]

系譜

吉井巌や井上光貞のように、仲哀天皇が実在しないという前提のもと、応神天皇を仲哀天皇の子ではなく、崇神天皇系の皇統の女性を娶った入婿であるという系図を復元する論者もいる[17]佐伯有清景行天皇 - 五百城入彦皇子 - 品陀真若王 - 仲姫命が本来の皇統であり、応神天皇は仲姫命の入婿だとしている[18]

生年・立太子年

『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年(362年と推定される)の六月十一日に崩りましき」とある。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると父の日本武尊の崩御後38年目に生まれたこととなり矛盾する。また仲哀天皇元年条には父が崩御したとき弱冠(二十歳)に達していなかったという記述がある。日本武尊の崩御が景行天皇41年のため、仲哀天皇の生年は景行天皇23年から景行天皇41年の間になる。

信仰

神仏習合において仲哀・神功応神の三尊で本地を阿弥陀如来とするとされるが、『鶴岡八幡宮記』に「仲哀天皇ハ本地ハ藥師ナル故ニ奉之」として単独では薬師如来の化身とされた[19]

脚注

注釈

  1. 通説ではこの神は住吉大神ではないかとされるが、地元にある神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮では天照大神が祀られている。
  2. 「あはなち」。「天つ罪」では「畔放」と書かれるが、この殯の大祓を記した『古事記』では本文通りに「阿離」と書かれている。畦を壊して田の水を抜き、稲作を妨害する罪である事には変わりがない。

出典

  1. ^ a b c 『国史大辞典9』吉川弘文堂 1988年 467ページ(笹山晴生
  2. ^ a b c 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ(春名宏昭
  3. 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
  4. ^ a b 『日本史広辞典』山川図書出版社(1997)
  5. ^ a b 『新視点日本の歴史2古代編』新人物往来社(1993)白石太一郎pp154-161
  6. ^ a b
  7. 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
  8. ^ a b 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
  9. 武光 1997, p. 13.
  10. ^ a b 『日本の歴史1』中公文庫 (1986)pp.325-348
  11. ^ a b c d 大津 2010, p. 129-133.
  12. ^ a b c 武光 1997, p. 104.
  13. 最新古代史論 学研 P62
  14. 『近江・大津になぜ都は営まれたのか?』大津市歴史博物館 P53およびP59
  15. 宝賀寿男「第四章 神武天皇が活動した時代」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年、200頁。
  16. 宝賀寿男「第一章 戦後の神武天皇」『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  17. 大津 2010, pp. 133–135.
  18. 井上他 2003.
  19. 「御橋悳言著作集 3 『曽我物語注解』」、続群書類従完成会、1986年、168-169頁

参考文献

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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