3.現代の抹殺博士
■ 元祖抹殺博士 重野安繹(しげのやすつぐ)幕末-明治時代の歴史学者。帝国大学教授となり、国史科を設置した。著書に「国史綜覧稿」などがある。古事記の研究など注目すべき業績もあるが、何人もの歴史上の人物について、架空の人物であるとしてその実在を否定したため、抹殺博士と呼ばれた。
■ 現代の抹殺博士
津田左右吉以降、現代も抹殺博士がたくさんいる。たとえば、つぎの文章。
磐余彦(いわれひこ:神武天皇)の大倭(やまと)平定説話の前段階を構成する東征説話に、北九州の邪馬台国が東遷した事実が含まれていると主張する説もある。しかしこれは津田左右吉が早く指摘したように、皇室の祖先を説明するために、天孫が日向に降臨したという説話が設定されたために、これを実在する大和朝廷に結びつける必要から作為されたものであって、全く史実性を認めることはできない。しかしそれは単なる作為というよりは、むしろイスラエル民族のエジプト脱出の伝承に類似する一種の信仰ともいうべきものであろう。(中村一郎氏執筆)
米田雄介編『歴代天皇年号辞典』吉川弘文館2003年12月刊
こんな乱暴な論理で古い伝承をどんどん抹殺していってしまうと、そのうち「記紀の伝承は作り話だから読まなくて良い」ことになってしまう。このような傾向のせいか、最近の文献学者は、基本的なことで間違いを犯すことが多く不勉強が目立つ。聖徳太子の非実在論などは文献をよく読んでいない典型的な例に見える。
■ 抹殺に異議あり
かっては津田左右吉にかなり近い発言をされていた上田正昭氏は、最近の著書では次のように述べ、神話伝承は全くの作り事ではなく、なんらかの歴史的事実を背景にして成立したとの見解を示す。
なぜニニギノミコトは筑熱の日向に天孫降臨する必要があったのか。日本の天皇の祖先と言われる神日本磐余彦(『古事記』では神倭伊波礼昆古命)が大和で誕生して、大和から勢力をずっと拡大していくという建国神話の方が自然でしょう。それなのになぜ天孫は筑紫に降臨し、磐余彦すなわち神武天皇は九州から東征するのか。
九州から出発して大和に入るということは、大和の在来の勢力ではなくて、外から入ってきたということですね。つまりこうした神武天皇の東征伝承は、ヤマト朝廷にとって、必ずしも有利な伝承ではない。にもかかわらず『記』・『紀』などに明記しているということは、そのすべでが架空の話ではなくて、そこにはやはり何らかの意味があると考えるべきでしょう。
ここからはまったくの仮説です。私は三世紀の邪馬台国の所在については古くから畿内説です。しかし、邪馬台国は三世紀にできたのではなく、前期邪馬台国の段階があると考えています。「倭国の乱」というのがありますが、この乱は二世紀の後半です。これを多くの学者は倭国の「大乱」と言っていますが、大乱と書いてあるのは、『後漢書』と『隋書』だけなのですね。『三国志』は「乱」ですし、ほかの中国の書も多くは「倭国乱る」と書いてあるだけで、「大乱」とは書いていないのです。『後漢書』というのは五世紀の前半に書かれた本で、『魏志』よりあとの本です。したがっで「倭国の乱」と言った方がいいでしょう。
その二世紀の争乱の中で、卑弥呼が擁立されるわけですが、それ以前の前期邪馬台国については、これも仮説ですが、私の考えは九州説なんです。
弥生時代の中期の段階の考古学の発掘成果を見ますと、やはり九州の方が、遺物の質、遺跡の内容も豊かで規模も大きいのです。それが三世紀になると断然、大和のほうが優れてくる。これは明らかに西から東へと文化が動いたことを示している。つまり文化が東漸しているのです。
もしも三世紀の邪馬台国が九州であるのなら、九州の邪馬台国はその後どうなったのかということを議論しないと、九州説は都合が悪いと思うのです。消えたとか滅ぼされたとか、何か理由をつけなければならないと思います。
ですから私は、ひょっとしたらこの神武天皇の東征伝承というのは、前期邪馬台国東遷説と関係があるのではないかと -これはまったくの仮説なのですが- そういうことも考えているのです。ニギハヤヒが先住の王であるという伝承も、やはり物部氏の本拠地が河内にあったから、その祖先の降臨した場所を、大和盆地の真ん中とか三輸山といったところではなく、河内の哮峰(たけるのみね)にしたのではないか。
何らかの歴史的事実を背景にこういう神話伝承ができているのではないか、というのが私の見方です。
上田正昭・鎌田純一共著『日本の神々-『先代旧事本紀』の復権-』大和書房2004年2月刊
神武天皇という人、カムヤマトイワレヒコという人が実在したかは別にして、神武記の記事はでたらめであるということを、先入観抜きに考えて果たしてそういえるのかというのは非常に問題ですよね。
日向から出て大和へきたというのも、津田さんなんかだとヒノカミの子孫だから日に向かうという名前をもったその土地を出発点にしたなどというけれども、本当にそんな説明でいいのかということが、あれほど具体的に書かれている「大和の平定」あれなどもまったく根も葉もないのかと。
直木孝次郎さんなどは、あれは継体天皇が越前から大和へ入ってきたときの史実を逆に反映しているのだという説明をしていますけれども、そんな説明で本当にいいのか。
ともかく否定するがための論理であり証明ですからね。そういうものをもう一度考えてみる必要があるんじゃないか。
広瀬和雄・小路田泰直編『弥生時代千年の問い』ゆまに書房2003年刊
長山名誉教授がここで取り上げた直木孝次郎氏のような考え方を「反映説」という。
『古事記』などの史書は後世の創作であるという前提にたって、古い天皇の伝承などをのちの時代のできごとの反映として説明し、古い天皇の実在を否定する。ただし、これによって史書が創作されたこと自体が証明されるわけではない。
「歴史は繰り返す」というように、歴史のなかで似たようなことはよくあることである。反映説の論理では、多くの古い事柄が新しい出来事の反映ということで説明が可能になる。
たとえば、「ナポレオンがロシアに攻め込んで立ち往生したのは、後の時代にヒトラーがロシアに攻め込んで立ち往生したことの反映である。」ということも云えてしまう。
この程度の説明で古い事柄を架空のこととして切り捨ててしまう論証の方法はとても妥当なものとは思えない。
■ 考古学と文献学の関係
日本では、古墳などの年代が考古学者によってどんどん古くされる一方で、抹殺博士たちによって古い伝承が切り捨てられ国家権力の成立時期が新しくなるというおかしな現象が起きている。
中国では日本とは事情が違って、古い時代の権力の存在がどんどん明らかにされ、最近では夏王朝の実在はほぼ確実だといわれている。
文献学者が史記などの古い文献を研究して、ここだと思うところを考古学者が発掘する。文献と考古学が協力し、文献の内容を考古学が実証する仕組みがうまく機能しているようである。
我々もそうありたいものである。
前回の講演会で説明されたように、安本先生は従来定説とされていた辛酉革命説には問題があるとされる。従来の定説に代わる安本先生の新しい考え方を紹介する。
■ 一世60年説
『日本書紀』によって、神武天皇から仲哀天皇までのデータを整理すると次のようになる。
代 | 天皇 | 在位年数 (部分計) | 寿命 | 即位時の年齢 | 立太子時の年齢 | |
1 | 神武天皇 | 76 | (181) | 127 | 52 | 15 |
2 | 綏靖天皇 | 33 | 84 | 52 | 14 | |
3 | 安寧天皇 | 38 | 57 | 30 | 21 | |
4 | 懿徳天皇 | 34 | (77) | 44 | 16 | |
5 | 孝昭天皇 | 83 | (185) | (114) | 32 | 18 |
6 | 孝安天皇 | 102 | (137) | 36 | 20 | |
7 | 孝霊天皇 | 76 | (360) | (128) | 53 | 26 |
8 | 孝元天皇 | 57 | (116) | 60 | 19 | |
9 | 開化天皇 | 60 | 115 | 56 | 16 | |
10 | 崇神天皇 | 68 | 120 | 53 | 19 | |
11 | 垂仁天皇 | 99 | 140 | 42 | 24 | |
12 | 景行天皇 | 60 | (120) | 106 | 47 | 21 |
13 | 成務天皇 | 60 | 107 | 48 | 24 | |
14 | 仲哀天皇 | 9 | 52 | 44 | 31 | |
平均値 | 61.1 | 105.7 | 45.6 | 20.3 | ||
平均値/2 | 30.6 | 52.9 | 22.8 | 10.2 |
このデータの在位年数欄では次のようなことがわかる。
- 在位年数がぴったり60年の天皇が14代の中に3人いる(開化、景行、成務)。
- 在位年数の平均は約60年である。
- 何代かの天皇を加算すると60年の倍数に近くなる(部分計)。
■ 平均的天皇像
上表の平均値を2で割ると、それぞれの項目の年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になる。これらの天皇の年数は 2倍にされている可能性がある。
『日本書紀』の編纂者は、平均的な天皇像を、
- 約10歳で立太子
- 約23歳で天皇に即位
- 約30年間天皇に在位
- 約53歳で亡くなる。
一世を30年とする考え方は昔からあったようである。那珂通世は25年~31年までの間が、父子の年齢差であって一世の平均年数であるとし、著書『上世年紀考』のなかで、孔安国が『論語』に「30年を世という」と注をつけていることや、許慎が『説文』のなかで「30年を一世とする。」としていることを紹介している。
『学研漢和大辞典』でも「世」の意味は、親が子に引き継ぐまでの30年間としている。
■ 在位年数と寿命
上の表のデータのうち、即位時の年齢と立太子時の年齢については、のちの時代に比べるとばらつきが少く安定している。 これは上記のような平均的天皇像を『日本書紀』の編者が定義したのち、特に大きく変更する理由がなかったため、若干の調整を加え ただけのばらつきが少ない数字が温存されたためではないだろうか。
即位時の年齢と立太子時の年齢にばらつきがないとすると、在位年数は、ほぼ寿命によってのみ決まる。 『日本書紀』のデータを調べると、在位年数は寿命と強い相関を示し、即位時の年齢あるいは立太子時の年齢とは相関がない(下表)。これは、上記のようなプロセスで在位年数が決められたことの傍証であろう。
上表の在位年数などのデータ間の相関係数
在位年数 | 寿命 | 即位時の年齢 | 立太子時の年齢 | |
在位年数 | - | 0.925** | -0.030 | -0.125 |
寿命 | 0.925** | - | 0.353 | -0.177 |
即位時の年齢 | -0.030 | 0.353 | - | -0.158 |
立太子時の年齢 | -0.125 | -0.177 | -0.158 | - |
0.652以上であれば、1%水準で有意(**)。
■ 『日本書紀』と『古事記』の寿命データの比較
『古事記』には天皇の寿命が記載されているので、『日本書紀』編纂時には、寿命についての情報が編纂者の手元にあったと思われる 。『日本書紀』の編纂者は寿命についての古伝承を参照しながら『日本書紀』の寿命や在位年数を決めていったと推定される。
『古事記』の14代までの天皇を寿命の長い順に並べて、『日本書紀』記載の寿命を併記すると、次のような規則性が認められる。 (右表参照)
- 『古事記』で寿命の長い天皇の4人までは、『日本書紀』では寿命が短くなっている。
- 『古事記』で寿命順で5番目以下の天皇は『日本書紀』では寿命が長くなっている。
■ 『古事記』の寿命データと関連データの比較
『古事記』の寿命データと『日本書紀』などの各種データの関係を調べるため、関連データを整理すると下表のようになる。
代 | 天皇 | 古事記記載の寿命 | 日本書紀記載の寿命 | 日本書紀による在位年数 | 古事記の記事量(文字数) | 日本書紀の記事量(行数) |
1 | 神武天皇 | 137 | 127 | 76 | 3074 | 192 |
2 | 綏靖天皇 | 45 | 84 | 33 | 58 | 20 |
3 | 安寧天皇 | 49 | 57 | 38 | 200 | 11 |
4 | 懿徳天皇 | 45 | 77 | 34 | 133 | 10 |
5 | 孝昭天皇 | 93 | 114 | 83 | 161 | 10 |
6 | 孝安天皇 | 123 | 137 | 102 | 95 | 11 |
7 | 孝霊天皇 | 106 | 128 | 76 | 360 | 11 |
8 | 孝元天皇 | 57 | 116 | 57 | 490 | 13 |
9 | 開化天皇 | 63 | 115 | 60 | 934 | 13 |
10 | 崇神天皇 | 168 | 120 | 68 | 1448 | 127 |
11 | 垂仁天皇 | 153 | 140 | 99 | 2482 | 159 |
12 | 景行天皇 | 137 | 106 | 60 | 3749 | 239 |
13 | 成務天皇 | 95 | 107 | 60 | 115 | 17 |
14 | 仲哀天皇 | 52 | 52 | 9 | 1630 | 60 |
この表に掲げたデータ間の相関関係を調べると下表のようになる。
- 『古事記』の寿命データはここに取り上げた全てのデータと相関を持つ。
- 『日本書紀』の寿命データは、『古事記』の寿命、日本書紀』の在位年数と相関を持つが、それ以外のデータとは相関を持たない。
相関係数 | 古事記記載の 寿命 | 日本書紀記載の寿命 | 日本書紀による 在位年数 | 古事記の記事量(文字数) | 日本書紀の記事量(行数) |
古事記記載の寿命 | - | 0.725** | 0.732** | 0.591* | 0.707** |
日本書紀記載の寿命 | 0.725** | - | 0.925** | 0.214 | 0.275 |
日本書紀による 在位年数 | 0.732** | 0.925** | - | 0.145 | 0.228 |
古事記の記事量 (文字数) | 0.591* | 0.214 | 0.145 | - | 0.964** |
日本書紀の記事量 (行数) | 0.707** | 0.275 | 0.228 | 0.964** | - |
■ 神武天皇即位年代決定の推定プロセス
以上の検討から、神武天皇の即位年代は次のようなプロセスで決められたものと考えられる。
- 『日本書紀』の編纂者は中国の史書を見て、日本の歴史書にも年代を入れて体裁を整えようとした。しかし、古い伝承には天皇の寿命の情報はあったが、絶対年代の情報が存在しなかった。
- 『日本書紀』の編纂者は、年代の手がかりを求めて、中国、朝鮮の文献と日本の伝承を調査した。その結果、魏志倭人伝に記され た卑弥呼を、海外にまで名前が伝わった日本の女王であるとして、神功皇后のことであると考えた。
- 倭人伝には卑弥呼は3世紀前半に活躍したように記述されている。『日本書紀』の編纂者はこの時代を神功皇后の活躍時期と考え て『日本書紀』の年代決定の最初の手がかりとし、神功皇后紀元を201年とした。
- そして、これを起点として年代の記されていない古い天皇の在位年数を60年を一区切りとして割り当て、さかのぼって年代を当 てはめていった。
- 神武天皇は神功皇后から14代前の天皇である。1代を60年として14代さかのぼると紀元前640になる。60年ごとの辛酉 の年に革命が起きるという説にもとづき、BC640年にもっとも近い辛酉の年である紀元前660年を即位の年とした。その結果、 神武天皇の在位年数には20年が加えられた。
- 天皇の寿命の情報は『古事記』などの伝承として伝わっていたので、『日本書紀』の編纂者はこれを参考にしながら、1代60年として割り当てた在位年数を増減して調整を行い、天皇の寿命を定めた。
記紀に100歳を超える天皇が記されていることに対して、当時の人たちは疑問を持たなかったのであろうか。
那珂通世は著書『上世年紀考』の中で、「韓史も、上代にさかのぼるにしたがい、年暦延長されているところは、ほとんどわが国の古史書と異ならない。」と述べ、右表のような長寿の例を挙げる。
『日本書紀』の編纂者や当時の貴族は朝鮮の史書を読んでいて、朝鮮には100歳を超える長寿の王がいたことを知っていたと思われる。そのため、古代の天皇の長寿命について違和感を持たなかったのであろう。
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