2024年4月28日日曜日

世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎 その36 | Be Attractive !

世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎 その36 | Be Attractive !

世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎 その36

世界の終末を告げるオノゴロ島「隠岐」の謎 その36

 

 紀元前3世紀、秦の始皇帝の命を受けた「徐福」は古代ヘブライの神宝を「隠岐」に持ち込んだ。それは箱が本物でレプリカの蓋の契約の聖櫃アークと草薙の剣とされる「アロンの杖」であった。そして徐福は古代日本に「創造神ヤハウェ」を奉ずる唯一神教の「ユダヤ教」を「古神道」として根付かせていった。これが全国に磐座を御神体する「物部神道」の社である。

◆「徐福」の本当の渡来ルート

 「徐福」がヤハウェの唯一神教である古代のユダヤ教を日本に根付かせ始めた拠点は丹後の籠神社(眞名井神社)であるが、実は徐福が最初に渡来したのは丹後地方ではなかった。徐福は紀元前219年、山東半島から出発。最初に渡来したのは「沖縄」だった。つまり、「沖縄」という島の意味は、「隠岐の注連縄」=「隠岐縄」だったのである。隠岐の玄関口ともいうべき島が沖縄なのである。

 「徐福」が最初に渡来した地を「沖縄」と指摘されたのは飛鳥昭雄氏である。さらに沖縄の中に実はヘブライが隠されているというのが、沖縄に伝わる秘密の伝承を受け継ぐ宝玉麗氏と島茂人氏との対談本『日本史超どんでん返し』である。琉球の言葉はそのままでは意味が分からないことが多いが、それはヘブライ語だからである。つまり沖縄=琉球を通じないと日本は見えてこないのである。

 「隠岐の注連縄」を意味する沖縄の島々の中でも、最も重要なのが本島の南に位置する「神の島」と呼ばれる「久高島」(くだかじま)である。

久高島

 「神の島」と呼ばれる神聖な島である「久高島」は「ニライカナイ」に1番近い島と言われている。「ニライカナイ」とは沖縄や奄美群島で遠い海のかなたにあると信じられていた楽土であり、記紀の神話に登場する「常世」(とこよ)の国に相当する場所のことである。久高島は神聖な島であるがゆえ、立ち入り禁止区域も多い。

 なぜ「久高島」が神聖な島なのかといえば、琉球の神話にみえる神「アマミキヨ」が降り立ったからである。「アマミキヨ」は海にただよう島々に草や木を植えて琉球の国土を創成したといわれる。「アマミキヨ」は 女神で、男神「シネリキヨ」との間に3人の子をもうけ、それぞれが領主、祝女(のろ)、民のはじまりになったとされる。

 久高島には「イザイホー」と呼ばれる独自の儀式があった。「イザイホー」は久高島で12年に一度行われてきた祭りで、久高島で生まれ育った30歳以上の既婚女性が「神女」=「ノロ」となるための就任儀礼である。現在は途絶えてしまっているが、基本的にその要件を満たす全ての女性がこの儀礼を通過するとされていた。


1954年の「イザイホー」

 琉球王国時代において、最高の聖域と位置づけられた久高島には、古くから「男は海人、女は神人」の諺が伝わってきた。久高島では男たちは成人して漁師になり、女たちは神女になるということである。これは琉球王国の信仰基盤となる「おなり神信仰」を象徴するものであり、すべての既婚女性は30歳を越えるとこの儀式を経て、神女になるのである。

 「イザイホー」は12年ごとの午年・旧暦の11月15日から4日間行われ、その儀式は「ニルヤカナヤ」(ニライカナイと同様の他の世界の久高島での呼称)からの来訪神を迎え、新しい神女をその神々に認証してもらい、島から去る来訪神を送るというもの。

 「イザイホー」は史料に記録される限り600年以上の歴史を持ち、来訪神信仰の儀礼として
日本の祭祀の原型を留めているとされるが、想像するに600年どころではないはずで、まさに日本の祭祀の雛形がここから始まったと言ってもいい。なにせ男は「海人」=「アマ」となり、女性は「神人」(かみんちゅ)=「巫女」になるというものだからだ。
 久高島の巫女集団は、「久高家」と「外間家」(ほかま)の2つからなり、それぞれ最高職の「ノロ」がいる。「ノロ」は「祝女」とも書くが、神社でいえば「祝部」(はふりべ)である。この補佐役は「掟神」(ウッテガミ)と呼ばれ、さらにその下に61歳から70歳の「タムト」、54歳から60歳までの「ウンサク」、42歳から53歳までの「ヤジク」と3階級の巫女グループに分かれており、。新しく参加する31歳以上の巫女が「ナンチュ」と呼ばれる。祭礼前のひと月前から「ナンチュ」は島の七箇所の「御嶽」(ウタキ)に参拝し、それぞれの神の名をもらうという。ここで神々から巫女になるべき霊力(セジ/シジ)を授けるとされる。
 

 琉球民族の祖霊神と言われている「アマミキヨ」は、琉球の神話では「日の大神」(天の最高神)は琉球を「神の住むべき霊所」であると認め、創世神「アマミキヨ」に命じて島づくりと国づくりを命じたとされる。 天上より琉球の地に降りたアマミキヨは、「日の大神」の命を受け、沖縄本島を創ったという。 現在では、「アマミキヨ」によって創られたとされる聖地のうち7つが、「琉球開闢七御嶽」として語り継がれ、琉球の信仰において最も神聖な御嶽として位置づけられているが、この話はまるで天孫降臨神話である。

 海の彼方にある神々の住む理想郷「ニライカナイ」から久高島に降り立った琉球の創世神アマミキヨが、続いて沖縄本島に上陸したときに最初に足に降ろした場所とされているのが「ヤハラヅカサ」である。アマミキヨはここから浜川御嶽を経て、ミントングスク、玉城グスク、知念グスクへと歩みを進めていったと伝承されている。

ヤハラヅカサ

 「ヤハラヅカサ」は久高島が望める百名ビーチの北端の海の中にあり、琉球石灰岩で作られた石碑は満潮時には水没し、干潮時にその姿全体を見ることが出来る。簡単にいえば「岩」であるが、自然の石が信仰の対象となっているという時点で「古神道」だということが分かる。

 そして世界遺産である「斎場御嶽」(せーふぁうたき)も琉球の創世神「アマミキヨ」が創ったといわれる。御嶽(うたき)とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、「斎場御嶽」は琉球開闢伝説に登場する琉球王国最高の聖地である。

斎場御嶽

 「斎場御嶽」は現在でも多くの人々が祈りに訪れる大切な場所である。ある意味スピリチュアル系の方々の聖地ともなっている。伝説によれば、ここに始祖「アマミキヨ」が上陸、初めて国を作ったとされるが、「アマミキヨ」の話には天孫降臨神話が反映されている。いや、天孫降臨神話の元となっている話が「アマミキヨ」の降臨伝説なのである。つまり、「アマミキヨ」の正体は「徐福」である!そして「神の島」と呼ばれる「久高島」を聖地とし、対岸にある「斎場御嶽」に「アーク」を安置してヤハウェを祀ったのだ。

 徐福の上陸地には、「アマ」=「天」が関係する。それは第1回の渡来の最終地点は丹後の「籠神社」で、神官は「海部=天部」で「アマベ」を名乗っているからだが、沖縄を発った徐福は次に「奄美大島」(アマミ)に向かっていた。ここには大和という地名がある。もちろん「ヤマト」とは「ヤ・ウマトゥ」で「ヤハウェの民」=「神の民」の意味である。島名に「アマ」がついているからも分かるように、ここには「アマミキヨ=徐福」が到来したのである。

 

 奄美大島には沖縄と同様に「ノロ」、「ユタ」と呼ばれる巫女が存在する。「ノロ」は主にニライカナイの神々やその地域の守護神と交信するのに対し、「ユタ」はいわゆる霊、神霊や死霊と交信する霊媒師である。「ノロ=祝女」は、琉球神道における女性の祭司であり神官でもあり「巫」(かんなぎ)でもあるのだ。
 地域の祭祀を取りしきり、御嶽の祭祀を司る。ヌール・ヌルとも発音され、琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に整備されて王国各地に配置されたという。つまり、久高島が中心となり、各地に巫女を派遣していたということである。
 

◆「徐福」と「沖ノ島」 

 沖縄、そして奄美においてヤハウェの祭壇を作った徐福の一団は、次に福岡県の沖に浮かぶ「沖ノ島」(おきのしま)へと向かった。「沖ノ島は」、福岡県最北端の地であり、九州本土から約60キロメートル離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの島である。世界遺産にも登録され、「神宿る島」と呼ばれている。この辺も「久高島」と同じ構造で、要はこの島自体が古代の磐座なのである。

 「沖ノ島」は島全体が宗像大社の「沖津宮」の御神体(御神体島)で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日の現地大祭以外は上陸を基本的に認められず、その数も200人程度に制限されてきた。世界遺産登録に際して、島への接近・上陸対策の強化をユネスコから要請されたため、2018年からは研究者らを除く一般人の上陸は全面禁止となっている。

 沖ノ島の森にたたずむのが「沖津宮」で、古代祭祀の場であった巨岩群の間に社殿が築かれている。古代からの「磐座・磐境」(いわくら・いわさか)である。

古代からの祭祀場である「沖津宮」  

 沖ノ島は世界遺産に登録されているが、ここは日本で一番新しい世界遺産となった場所で、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」というのが正式な登録名である。そもそも「沖ノ島」とは宗像大社の境内地であり、玄界灘に浮かぶ島である。入島が原則禁じられるとともに、"島にあるものは一木一草一石たりとも持ち帰ってはならない"とか"島で見聞きしたことを漏らしてはならない"などの禁忌がある。これらは奈良の三輪山なども同様で、神が降り立つ磐座だからである。それが、沖ノ島が約1,000年もの長い間、謎のベールに包まれていた理由のひとつでもある。

宗像大社の「辺津宮・中津宮・沖津宮」

 世界遺産に登録されているのは合計8つの構成資産から成っている。宗像大社「沖津宮」(おきつみや)がある「沖ノ島」、島に付随する3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)をはじめ、本土から約11㎞に浮かぶ「大島」の「中津宮」と「沖津宮遙拝所」、本土の「宗像大社=辺津宮」、そして信仰を支えた宗像族の墓とされる新原・奴山古墳群から成っている。

 「中津宮」のある大島は福岡の7㎞沖合に浮かぶ福岡で最大の島で、約700人の島民が暮らしている。大島の北端近くに位置するのが宗像大社「沖津宮遙拝所」である。遙拝所は沖ノ島を御神体として拝む拝殿の役割があり、容易に立ち入ることが出来ない島を、青い海をまたいで拝んできた場所である。この構造は上古の高層社殿だった出雲大社が、隠岐を遙拝する拝殿だったという隠岐との関係そのままである。というか逆で、ここの「中津宮」と「沖津宮」との構造が出雲と隠岐の関係にも適応されたという方が正しい。

沖津宮遙拝所

 さらに、宗像大社の「辺津宮・中津宮・沖津宮」という構造は、「籠神社」にとっての「辺津宮=眞名井神社」「中津宮=冠島・沓島」「沖津宮=隠岐」というのと同じなのである。

 ちなみに宗像大社の辺津宮には、「下高宮」と「上高宮」と呼ばれる2ヶ所の聖地があり、そこは磐境の祭場である。下高宮の磐境とは、現在「高宮祭場」と呼ばれる場所を指し、宗像大社本殿に向かって右の道を抜けたところにある。高宮祭場は辺津宮の起源とされる社殿を持たない古代祭祀の場・下高宮祭祀遺跡の一部で、宗像大神「降臨の地」と伝えられる場所である。

 また、中津宮の大島には「御嶽山」(みたけやま)があり、その山頂には「御嶽神社」がある。さらにその背後に「磐座」があり、山頂からは沖の島も遥かに見ることができるという。これは琉球の創世神「アマミキヨ」が創ったといわれる「御嶽」(うたき)と同じなのである。こちらは「みたけ」で沖縄では「うたき」だが、これは同じなのである。「宗像大社」の「奥宮」である沖ノ島に数々の古代の祭祀跡があるのも、ここでも徐福は「アーク」を安置してヤハウェを祀ったということなのだ。

<つづく>

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